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2016年05月31日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(160) |
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第8章 米西戦争を観戦(9)
6月22日、アメリカ陸軍大5軍団のダイクイリ海岸上陸で作戦は切って落とされた。ダイクイリはサンティアゴ湾から約16マイル(20キロ)離れている。
艦隊に援護されつつシャフタ―少将以下J万6千名の将兵が上陸し、山地における戦闘行軍が続いた。日本の観戦武官・柴五郎陸軍少佐は第5軍のうちの第1師団に同行した。
この作戦におけるアメリカ陸軍の行動は、いわゆる戦闘面においてほとんど素人の域を脱していなかった。ジャングルを切り開いて道路を造りながら進むという点で、偵察行動もろくにせず、敵情が分からいまま作戦が進められた。
猛暑で士気が日に日に落ちた。様々な作戦上の錯誤を重ねつつ、上陸第1周目の29日、アメリカ陸軍はサンティアゴ市街を望む地点に布陣した。 |
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2016年05月30日(月) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(159) |
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第8章 米西戦争を観戦(8)
この失敗から、当然のようにある作戦が決定された。敵艦隊は軍港の中にいる、軍港は要塞砲で守られている。その要塞砲を海上から砲撃して破壊することは不可能。
「ならば陸軍に働いてもらうしかない」
とサムソン少将の参謀チャドウイックは主張した。サムソンも了承し、陸軍が陸上から要塞を攻め落とすことになった。
後に、日露戦争の旅順攻撃で、乃木希典率いる日本帝国陸軍第3軍のやった役割を、小規模ながらサンティアゴ軍港でアメリカ陸軍第5師団を率いるシャフタ―少将が引き受けることになった。 |
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2016年05月29日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(158) |
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第8章 米西戦争を観戦(7)
サンティアゴ軍港封鎖作戦は、狭い湾口にボロ船を沈めて封鎖する計画だった。しかし、湾口を塞ぐように船を横にして砲撃するー作戦がうまくいかず、失敗に終わった。
サムソン艦隊は港外から目標未確認のまま遠距離砲撃を行った。「めくら撃ち」である。
オオカミの群れが遠くで吠えるようなもので、敵の胆を縮み上がらせて戦意を挫こうとする一方、自軍の兵士の士気を高めることには効果があった。
5月末から6月中旬まで、わずか10数日間でアメリカ艦隊が撃った砲弾数は400発以上だった。
◇ ◇ ◇
本日(29日)富津市金谷の元名主のお宅を訪れて、幕末に江戸湾防備で竹岡陣屋に駐留した會津藩士の名前を書きつけた古文書を探したが、残念ながら見つけることはできなかった。
會津藩主が嘉永3年(1850)に竹岡陣屋を巡察し、藩士を激励したー史実は残っているだけに現物がないのは非常に残念だ。悔しい! |
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2016年05月28日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(157) |
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第8章 米西戦争を観戦(6)
さて、カリブ海を主戦場とする米西戦争だが、セルベラ少将率いるスペイン艦隊は、アメリカ艦隊との海上決戦を避けてサンティアゴ湾内に居座り続けた。
対してアメリカ艦隊はキューバ島の沿岸を走り回ってようやく、その事実を掴んだ。発見した第2艦隊司令官シュライ代将は
「港内に敵あり」
と上級司令官のサムソン少将に打電し、港内にいるスペイン艦隊の情況を報告した。
スペイン艦隊のセルベラ少将は、自分の艦隊が質と量においてアメリカ艦隊にやや劣っていることを知っている上、本国からJ万4千哩という長い航海を続けてきたため、船底に牡蠣が付いて各艦の運動能力が落ち、機械なども修理が必要だったため、すぐの戦闘は避けたかったのだ。
サンティアゴ軍港の奥深くに潜み、軍港の要塞砲によって艦隊を守ろうとしたのだ。
「出てこないなら、閉じ込めよう」
というのが、アメリカの作戦だった。 |
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2016年05月27日(金) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(156) |
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第8章 米西戦争を観戦(5)
この米西戦争にドイツ、フランス、ロシアの他、日本からも2人の軍人が観戦した。
柴五郎陸軍砲兵少佐と秋山真之海軍少佐だ。秋山は日露戦争で東郷平八郎率いる日本帝国海軍聯合艦隊の作戦参謀として日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を掩滅させた「T字戦法」を編み出した秀才である。
五郎は秋山の兄好古と士官学校同期だった。好古は我が国陸軍に騎馬隊を創設した第一人者で、日露戦争では、奉天作戦などで活躍した。
二人の活躍は司馬遼太郎の「坂の上の雲」に詳しい。秋山兄弟は戦国時代、伊予(愛媛県)を本拠地に瀬戸内海で活躍した河野水軍の末裔だ。小生の先祖も河野氏である。家紋は隅切り折り敷に「三」の字で、瀬戸内海にある大三島に鎮座する大山祇神社を祀る家紋だ。
家紋とは、戦国時代、武将が肩にさして戦う目印だ。河野家の家紋は鎌倉時代から続いているが、明治以降、庶民が勝手に家紋を用いたようなものではない。由緒ある家紋なのだ。 |
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2016年05月26日(木) |
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待望の名簿! |
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幕末、會津藩士は江戸湾防備で上総国富津村と竹岡村(百首村)に7年間駐留した。富津陣屋の藩士については、地元の旧家・織本家の古文書で明らかにし、會津藩士顕彰会の会報で紹介した。
今回、富津市金谷の旧家に保存されている古文書に竹岡陣屋の藩士名があるという。會津藩士慰霊祭(6月5日)の事前準備として29日に富津市竹岡の松翁院に墓掃除に出かける機会に伺うことにした。
これまで未公開だったもので、お目にかかるのが楽しみだ。會津図書館にもないもので、入手したら送ってやりたい。富津陣屋の名簿も送っており、結構、會津には貢献しているつもりだ。 |
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2016年05月25日(水) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(155) |
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第8章 米西戦争を観戦(4)
スペイン政府の態度はアメリカ国民の”善意”を傷つけ、世をは沸騰した。
4月19日、アメリカ議会は重大な権限をマッキンレー大統領に与えた。
「大統領はスペイン政府に対し、キューバから陸海兵を撤退すべきことを要求せよ。この要求をスペイン政府に受け入れさせるについて、武力干渉が必要であれば、それを発動する機能を与える」
というものだった。要するに、なんの利害もない第三者が喧嘩を吹っ掛けたのである。
アメリカのこうした「独りよがり」的な(相手にとっては迷惑な)要求は、後年、日本に対しても行われて太平洋戦争を引き起こした。 |
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2016年05月24日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(154) |
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第8章 米西戦争を観戦(3)
ところがキューバは「独立時代」から取り残された。反乱も起きたが、その都度、スペインに武力で鱗圧された。
明治28年(1895)キューバで第2次独立戦争が起きた。だが、政府軍によって鎮圧され、革命分子には辛酸を極めた虐殺が行われた。
このためアメリカ国民から
「キューバを救え!」
という声が沸き起こり、当初は中立を守っていたアメリカ政府も
「世論に負けた」
形で明治31年(1898)スペイン政府に対して
「キューバの独立を認めよ」
と要求したのだ。勿論、スペイン政府は
「余名なお世話」
と要求を無視した。 |
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2016年05月23日(月) |
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嬉しいニュース! |
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日本酒の品質を競う全国新酒鑑評会で、福島県が都道府県別で最多の18銘柄が金賞に輝き、金賞銘柄で4年連続6度目の日本一に輝いた。
原発事故以来、暗いニュースが多い福島県にとって、非常に嬉しい、出身者として喜ばしいニュースだ。
18銘柄の多くは、酒処・我が會津の銘柄であろうと推測できる。全国854銘柄が出品、金賞227銘柄だった。国権酒造(南会津町)と豊国酒造(會津坂下町)が9年連続の金賞。国権は年末に取り寄せて「會津の酒」を堪能した。まことに御目出度い! |
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2016年05月22日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(153) |
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第8章 米西戦争を観戦(2)
五郎は2度目の支那勤務で支那語が堪能になった。それが、後に大きく役立つことになる。
明治J7年(1894)日清戦争が始まった時、五郎は大尉に昇進しており、大本営の陸軍参謀となって戦争遂行を指導した。
五郎が歴史の表舞台に登場するのは明治31年(1898)に勃発した米西戦争である。
アメリカ合衆国という国は、人民が作り上げた理想的社会であるーという自負心が強く、自分たちの尺度ですべてのものごとを推しはかる傾向にある。
そうした意識の強い国民にとって、自分の目と鼻の先にあるキューバ問題がクローズアップしてきた。当時、キューバは4世紀にわたってスペイン領であった。
中世、冒険的な海洋国家であったスペインは、アメリカ大陸にも多くの植民地を持っていたが、19世紀初め、それらは次々に独立していった。 |
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2016年05月21日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(152) |
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第8章 米西戦争を観戦(1)
柴五郎は明治12年(1875)、士官学校を卒業し、陸軍砲兵少尉に任官した。同J7年(1884)、中尉として清国福建省福州で特殊任務についたことが、支那人との深い結びつきが始まるきっかけとなった。
支那人と清国というものを知ったのは、この時が初めてだった。福州で五郎は、土地の邦人写真技師の助手になり、出張撮影の時は三脚付きの箱型写真機を担いで主人の後から付いて回り、イギリス、ドイツ、フランス各国の清国への侵略意図や軍閥との関係を探った。
特殊任務は3年続いた。五郎の知識は広がった。世界へ向けて大きく向き合うようになった。
こうした五郎の能力を見抜いた大本営は明治22年(1889)再び福州での特殊任務を命じた。民間人となって、あらゆる情報を探るスパイだった。 |
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2016年05月20日(金) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(151) |
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第7章 晴れて軍人に(18)
明治10年(1877)2月、遂に薩摩の西郷隆盛が挙兵し、西南戦争が勃発した。新鋭府軍兵士は薩摩軍の示現流剣術に恐れをなし、敗走を続けた。
警視庁大警視(現在の警視総監)川路利良は旧會津藩家老の佐川官兵衛に救援を頼んだ。官兵衛は「今更、新政府などに協力できるか!」と拒絶したが、川路からの再三の要請に応じて旧藩士300名を率いて参戦した。
官兵衛は西郷軍の将と一騎打ちの最中、敵弾に倒れた。この戦で會津藩士15名が戦死し、東京招魂社へ祭祀された。後の靖国神社である。
靖国神社は、戊辰戦争の西軍犠牲者を祀るため明治2年に設置され、會津藩士は祀られていないが、唯一、官兵衛たちが祀られている。 |
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2016年05月19日(木) |
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舛添の政治とカネ |
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舛添要一・東京都知事の政治資金の使途について週刊誌が続報で追及している。これまで報道されたのは、公用車による毎週末の別荘通い、家族旅行を政治資金で支払のほか、ネットのオークションで美術品購入、さらには新党改革の参議院議員時代、400万円以上の政党資金を個人事務所に送金など、実に紛らわしい政治資金の使い方をしているものだ。
都議会では百条委員会を設置して追及する動きも水面下であるようだが、いつまで持つだろう。8月のリオ五輪の閉会式で五輪旗を受け取るのを夢見ているだろうが〜。元妻の片山さつき議員に「せこい男」といわせた舛添知事、行く末は厳しい。 |
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2016年05月18日(水) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(150) |
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第7章 晴れて軍人に(17)
明治10年(1877)1月、陸軍幼年学校は陸軍士官学校の付属校となり、23日、市ヶ谷にある士官学校の中に新設された校舎に移った。
2月28日、鹿児島地方の不穏な動きは、いよいよ切迫してきたーとの風説がしきりに流れ、近衛歩兵第一聯隊は京都に派遣され、その他、陸海軍将校や内務官吏たちも続々と関西に急行した。
2月25日の五郎の日記には
「真偽未だ定かならざれども、芋(薩摩)征討仰せ出され足りと聞く。めでたし、めでたし」
と記している。
22日には学校長から告布告があった。
「鹿児島県人、武器ヲ携エ、熊本県へ乱入ノ犯跡顕然タル二付、征討仰セ出サレ、有栖川親王、総督ヲ仰セ付ケラルル旨、京都行在所ヨリ19日伝達アリ」
3月3日、士官学校第1期歩兵科生徒96名、士官見習として大坂、名古屋、東京の3鎮台に配属され、3月20日には在京の諸兵、生徒、士官生徒などすべてを繰り出し、五郎らも日比谷練兵場に集合して街頭を行進して越中島で演習した。 |
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2016年05月18日(水) |
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マイナンバー |
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今朝、稲毛区役所にマイナンバーを受け取りに行った。出る前に電話して持参する物を確認した。が、着いた途端、
「介護保険証が必要です」
バカ言うな!無様な対応に腹が立った。
「電話で確認したんだ。足が不自由なので出直しは不可能だ」
と抗議すると、職員が隣の社会福祉会館に行って代理で受け取ってきた。
ようやく受け付け開始。ところが、マイナンバーの電子証明は平成32年で切れ、カードは10年後に再発行ーだという。
こんな馬鹿げたカードはないだろう。どうして同時にしないのか?総務省の馬鹿さも指摘されよう。利用者無視だ。 |
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2016年05月17日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(149) |
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第7章 晴れて軍人に(16)
明治9年(1876)政府を真っ二つに分けて対立抗争の末、西郷隆盛や板垣退助らの征韓論が敗れ、西郷は参議を辞して薩摩に戻り、腹心の桐野利秋率いる近衛兵も一斉に薩摩へ帰ってしまい、政界軍界は騒然となった。学校の中では、
「第2の維新来る」
と私語する者さえいた。
同年10月20日、遂に熊本・細川藩の旧藩士で、保守漸進を主張する神風連の乱が勃発し、熊本鎮台に乱入した。
これに機に一にするかのように、秋月の乱、萩の乱が相次いで起きた。この年、薩摩出身の生徒は9月、暑中休暇が終わっても学校に戻らず、郷里にいる西郷や桐野らの身辺に集まっていた。
日比谷練兵場では戦闘演習を行って西南の地で騒ごうとも鎮台の備えは固いぞーと示威して物々しい経過ぶりだった。 |
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2016年05月16日(月) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(148) |
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第7章 晴れて軍人に(15)
五郎の周辺の話としては、四朗は病弱で、独学で勉学に励むことが多かったが、英語に堪能で後にアメリカに留学し、後年は名著『佳人之奇遇』16巻を著し、我が国における政治小説の濫觴として後世に残した。
さらに推されて代議士となり、参政管ともなった。才子多病なりーとも言うべきであろうか。
長兄太一郎は明治3年、デンマーク大使から訴えられてから明治9年(1876)12月末にようやく判決が出た。藩の窮状を救うため罪を背負ったことが情状酌量され禁固100日の判決。
当時は、未決を通算することがなかったので、改めて市ヶ谷監獄に収監された。そのため五郎は休日ごとに日用品や食べ物を差し入れた。通信は禁止なので、薄い雁の皮で作った紙に細かい字で近況を綴ったり、歯磨き粉の中に入れて通信した。
その頃、田名部にいた父佐多蔵と五三郎、兄嫁の3人は遂に斗南の開拓を断念して妻や子供たちが怨念を懐いて眠る會津に帰ることになった。 |
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2016年05月15日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(147) |
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第7章 晴れて軍人に(14)
6週間の休暇明け、五郎の成績は徐々に向上した。元来、遊戯が好きではなく、議論や勝負事なども嫌う性格なので、自ずから集まってくるのは、同じような趣味を持つ仲間だった。
国内外の英雄や偉人の肖像を探し、ナポレオン、ワシントンや榎本武揚などの差心を集めたが、薩長両藩の人物には、一切手を振れることはなかった。
明治8年(1875)頃になると、幼年学校のフランス式の教育は徐々に改められ、『日本外史』、『文章規範』などを講義し、学籍簿その他の記録もすべてフランス式をやめ、毛筆で日本語に取り組んだ。
服装も黒紺地に細い黄色の線が入ったズボン、上着は黒地のドルマン(婦人服の袖の型の一つ)式となり、さらに、紺地詰め襟に赤い袖章が付いたドイツ式軍服になった。 |
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2016年05月14日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(146) |
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第7章 晴れて軍人に(13)
当時、長男太一郎は保釈のまま神田橋外の空き家の一室に住んでいた。四朗が奥州南部の牧場から帰京して浪人だったので、五郎と3人で合宿した。
休暇中の食費として五郎に4円が支給されたので3人には大金だった。3人は日本国の将来を語り合い、西郷らの不穏な動きについて論じあった。
四朗は會津籠城の際にも発熱して伏せっていたため白虎隊員として城外で倒れることなく、今日に至っていた。当時、白虎隊に所属しながら存命する者は山川大蔵の弟健次郎(後の東京帝国大学総長)、後近習高橋秀夫(後の東京高等師範学校長)、赤羽四郎(外交官)、井深梶之助(明治学院大学焼死者)、飯森山で自刃後に蘇生した飯沼貞吉(仙台郵便局長)らがいた。 |
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2016年05月13日(金) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(145) |
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第7章 晴れて軍人に(12)
その後、フランスの歴史も成績が上がって他の生徒の模範となり、従来、五郎の定席だった最後尾から脱して試験の度に上昇した。
この間、世の中は大きな変化が次々と起こった。
▽明治6年(1873) 皇居炎上。
▽西郷隆盛らは征韓論に敗れて参議を辞して薩摩に帰り、不穏な動きが。
▽明治7年 江藤新平の佐賀の乱。
▽台湾蕃族征伐。
▽日清談判。
等の事件が続き、第2次の騒乱騒ぎ近しーを思わせた。山川大蔵は東京の屋敷を出て急遽、九州に向かった。
この年、明治天皇が幼年学校に行幸され、生徒の学業や教練をご覧になった。蘇我・兵学頭(へいがくのかみ)に奨励の勅語が賜り、プーセ教頭がフランス語で奉答の辞を読み上げて生徒だった伏見宮貞愛(さだなる)親王が通訳して上奏した。 |
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2016年05月12日(木) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(144) |
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第7章 晴れて軍人に(11)
そうしたある日、ヴァンサンス教師の作文の時間に
「フランスの某王、仁慈にして国民から敬愛された」
という題で、まず教師が物語を丁寧に説明し、2,3度繰り返して聞かせ
「数日後までにこれを作文せよ」
と宿題を出した。
当日、教師が生徒を名指して読ませることになった。首席の生徒から順に読ませたが、みんな2,3行で
「だめ!」
と着席させられた。かくて20数人すべて「だめ!」といわれ、最後に五郎の番になった。
五郎は恐る恐る読み始めた。不思議なことに教師は頷きながら聞き続け、時折、語句の違いを口調で訂正しながら最後まで読ませた。
読み終えた五郎に教師は
「TRES BIEN(トレビアン!)作文はこのように綴るもんだ」
と言い放った。
五郎は耳を疑った。実に意外な心地がした。教師は五郎の作文を赤インクで訂正して読み上げ、全員に聞かせた。これには生徒全員も不思議な面持ちだった。
「トレビアン!」
の一言は五郎を苦しめた劣等感を吹き飛ばした。この日から勉学が楽しくなって前途に燭光をみるような心地になった。 |
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2016年05月11日(水) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(143) |
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第7章 晴れて軍人に(10)
幼年学校でフランス語教師の助手を勤めていた有坂成章(後に陸軍中将、男爵)に頼みこんで下宿を探してもらった。五郎は学校から休暇中の食費として支給された3円50銭を、
「下宿の費用にあてて下さい」
と有坂に渡した。
この下宿は有坂邸の傍の麹町5丁目の商家の2階で、毎日、有坂助教からフランス語を習ったほか、他の教科についても指導を受けることができたので、休みが終われば、かなり楽になるだろう、と思っていた。
ところが五郎の勉学の歩調より学校の過程の進む速度は、さらに早かった。
「覚悟を決めてやらねば〜」
と五郎は奮い立った。
消灯時間後は便所に隠れて、小さなランプで書物を読んだ。明治7年(1874)4月、2年製になった。成績は相変わらずで末席は五郎の定席だった。 |
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2016年05月10日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(142) |
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第7章 晴れて軍人に(9)
その頃、野田邸に食客として熊本出身の書生竹内がいた。五郎より6,7歳上だった。五郎は鶴ヶ城開城以来、下僕の生活に馴れていたので、戻ると軍服を脱いで朝早くから、甲斐甲斐しく屋敷内外の掃除をした。
野田が起床すれば挨拶して寝所に入って床を上げ、押し入れに入れることなど以前と同じだった。
これをじっと見つめていた竹内は険しい面持ちで五郎を呼んでいった。
「お前の経歴など知らない。されど幼年学校の生徒であることは知っている。将来、護国の干城となるべき身ではないか。速やかにこの屋敷を去れ」
叱られてみれば
「まさにその通り」
と感じた五郎は、すぐさま軍服をつけて野田の屋敷を去った。 |
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2016年05月09日(月) |
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妻の英会話 |
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わが妻は毎週土曜日、近くの公民館の英会話教室に通っている。もう数年になろうか。
先週、「フリートーク」で20分間考えてから自由に話す授業があったそうだ。他の人は思うように話せなかったらしいが、妻は何と「トランプ氏がアメリカ大統領になったら」と題して話したという。
トランプが我が国や韓国などに対して米軍基地の全額負担を要求しているチンプンカンプンな話題について世界は混乱すると英語でスピーチした。
元記者の妻らしく新聞をよく読んでいるせいだろう。妻の英語のスピーチを聞いてみたいものだ。! |
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2016年05月08日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(141) |
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第7章 晴れて軍人に(8)
食事も洋食で、スープ、パン、肉類だった。ただ土曜日の昼食だけはライスカレーが一皿付いた。
同僚の多くは、このような生活は退屈だーと嘆いたり、食事がまずいと不平を述べていたが、五郎にとって、フランス語以外は、まことに以て天国にいるようだった。
学校の生活は全てフランス式。フランスの軍服で洋食を食べて様式訓練を受け、江戸城の御濠より平らかに草原が広がっていた日比谷練兵場でフランス式軍装で毎日、訓練を受けた。
夏休みになれば同僚たちは帰省したり、旅行に行ったり、下宿に戻ったりと様々な計画を楽しんでいた。
しかし、五郎は野田の駿河台の屋敷に戻って以前と変わらない従僕となって働いた。 |
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2016年05月07日(土) |
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パナマ文書 |
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タックスヘイブン(租税回避地)の利用実態を暴露した「パナマ文書」を最初に入手した南ドイツ新聞の記者が記者会見で
「自身や家族の身の安全を守るため、国際調査報道ジャーナリスト連合に文書を提供した」
との記事が5日,読売と朝日に載っていた。毎日は8日。
記者は1000万件以上の情報提供があったと発表したが、中には、
「武器や薬物の密売人などジャーナリストを消すことをいとわない人の名前があった」
と語っている。
パナマ文書は課税逃れ、資産隠しなどの実態を明らかにした。ロシアのプーチン大統領、支那の習近平国家主席、ケ小平元副主席、イギリスのキャメロン首相など多くの指導者について、親族や側近らの関与を明るみにした。
作家佐藤優氏は
「これを探ると殺し屋に狙われる」
とラジオで話していたが、本当だった。
独裁国家に留まらず、先進国でも利用者がいたわけで、闇の中で数千億の巨額なブラックマネーが”うろついて”いるのだ、一般市民の怒りは益々高まっている。 |
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2016年05月06日(金) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(140) |
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第7章 晴れて軍人に(7)
学校は陸軍兵学寮の管轄で、校長は川勝広道中佐、次長は中尾捨吉という文官だった。教官は全てフランス人で、プーセ教頭の下にモンセ、ヴァンサンス、ルイといった教官がおり、日本人は助手と通弁(通訳)だけだった。
国語、国史や習字などは一切なく、数学の九九までがフランス語を使い、地理、歴史などもフランス本国のそれだった。日本の地理や歴史などを教えられることはほとんどなく、フランスの山河や都市、河川、気候などを暗記させられた。
五郎は山口ら2,3人と最初級に編入され、ABC(アーベーツエ―)の発音を習ったが、何が何やらさっぱり分からなかった。
五郎は會津弁のため「イ」と「エ」「リ」と「ユ」の区別がつかず、同僚に嘲笑されることが多かった。これではフランス語などは土台無理で、成績は悪く、常に最後尾だった。 |
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2016年05月05日(木) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(139) |
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第7章 晴れて軍人に(6)
山川大蔵は、わがことのように喜んでくれ、五郎から借りた金でフランス式のズボンや紺色に黄色の縁取りをした金紐のマントなどを買い集めてくれ、
「前に向け」
「左向け!」
と洋服の着方を教えてくれた。
そして4月1日、入校。山川の母堂の歓びは殊の外で、五郎の両肩に手を置いて前から後ろから眺めては、嬉し涙を流していた。自刃して果てた五郎の祖母や母たちを偲んでくれたのであろう。
その後、野田邸を訪れて挨拶、青森以来の恩愛ここに実って野田は
「これでよか、これでよか」
を連発していた。
野田は熊本・肥後藩の出身だが、旧藩対立垣根を越えて、ただ新国家建設の礎石を育てることに心を傾け、しかも導くに諫言をいわず、常に温情をかける人だった。
五郎と同時に入学したのは10数名だった。石本新六(後に陸軍中将、陸軍大臣)、石井隼人(陸軍中将)は大学南校(後の東京帝国大学)からの転入組で、他に馬淵正文(後に陸軍少将)、山口勝(後に陸軍中将)などがいて、ほとんどが15,6歳の少年だった。 |
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2016年05月04日(水) |
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「もしや會津藩と関係が〜」とメール |
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6月5日、千葉県富津市竹岡の松翁院で行う第10回會津藩士慰霊祭を前に、竹岡出身で同県八千代市在住の石神さんからメールを頂いた。実家の先祖の娘が會津藩士に嫁いだらしい〜という内容で、調べた結果、同寺に眠る白河藩士に地元の浦部家から娘が嫁いだことがわかった。
これも縁だ。浦部家は竹岡村の豪農で、武士と縁組できるほど豊かな家だったようだ。
江戸時代、農家の娘が武士に嫁ぐ例は非常に珍しい。単身で赴任した「白川家中 門馬助右衛門政由」が嫁に迎えたようだ。墓標左側面に門馬氏の妻は「竹ヶ岡卜部氏娘 行年33歳」と刻まれている。古文書によれば竹岡村には浦部姓が1軒あり、古くから中層以上の農家だった。
歴史は実に面白い。 |
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2016年05月03日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(138) |
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第7章 晴れて軍人に(5)
当時の山川邸の困窮は甚だしく、五郎が頼まれる使いは浅草・鳥越の質屋に受け入れに行くことだった。1か月に2,3度に留まらず、食事も乏しくて母堂はじめ一同は等しく豆腐と煮豆がご馳走であった。
ある日、五郎は大蔵と母堂に呼ばれて
「真に気の毒なれど、われらの窮乏はいかんともなし難し。預かっている金を貸してほしい」
とのこと。金額は青森出発以来使用せずに蓄えた13円50銭の虎の子。
元家老が下僕同様の五郎に借金を申し込むことは、よくよくのことであったに違いない。五郎は快く承諾した。
3月も過ぎにならんとした末日、嬉しい便りが飛び込んできた。
「入学を許す」
との知らせがあり、洋服着用の上、出頭すべしーとのことだった。勘気雀躍して足の踏むところを知らず、とはこのことだった。
ともに受験した斎藤實は無念にも落第し、翌年、海軍兵学校に入学した。 |
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2016年05月02日(月) |
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憲法記念日 |
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明日3日は憲法記念日だ。現憲法はご存知の通り昭和21年11月3日に発布された。GHQがわずか1週間で作成した”押しつけ”憲法である。これまで1字1句変えられていない。
護憲派は「9条を守れ」と声高に主張する。9条は「戦争放棄」と「戦力の不保持」「交戦権の否認」を規定している。
一方、安倍首相は任期中の憲法改正を唱えている。国民は〜?今月1日の読売1面で北岡伸一・東大名誉教授は「9条2項で陸海空軍その他の戦力の保持を禁止ているが、世界に例がない。戦力なしに独立が維持できるのか」と疑問を投げかけている。
読売新聞は平成6年(1994)11月3日に憲法改正試案を発表した。9条1項の戦争放棄はパリ不戦条約(昭和3年)を基本とした多くの国の憲法に共通した表現として残しているが、2項の「戦力不保持」は廃止して、代わって「自衛のための組織」という表現で自衛隊の存在を明文化している。
核開発を強める北朝鮮、海洋進出を図る中国と、二つの脅威を隣国に持つ我が国の進む道は自ずから明らかだろう。 |
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2016年05月01日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(137) |
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第7章 晴れて軍人に(4)
家中、大騒ぎになり、一家を挙げて福島に転居することになった。昼夜兼行で荷造りして29日には慌ただしく出発して行った。
年内に屋敷は閉鎖と決まった。五郎のことなど問題外で、30日限りで退去するよう申し渡された。去るべしーよいわれても行く所があるわけではなし、
「一夜だけ待ってほしい」
と頼み込み、1月1日、例の竹梱を一つ抱えて出るしかなかった。
正月早々、路頭を彷徨い、汁粉屋で6銭を払って元旦の雑煮2杯を食べた。そして宛所なく歩くうち、結局は山川大方で世話になるしかないと決意し、残りの4銭でキンカンとチリ紙を買い、お土産の積もりで山川邸を訪ねた。
大蔵は不在で、母堂と姉の常盤に会って事情を話して
「陸軍幼年学校試験の及第が決まるまで暫時、世話になりたい」
と懇願すると大いに同情され、二人の専断で承諾してもらった。 |
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