会津の歴史
河野十四生の歴史ワールド
■ 2012年11月

●プロフィール

▼連絡先メールアドレス▼
河野十四生
toshiok@beach.ocn.ne.jp

トップ
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月

・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2012年11月30日(金) 昭和天皇(17)
 第731部隊では、ペストの病原菌を伝播する有力媒介物としてネズミと、ネズミに寄生するノミを研究していた。ネズミとノミをどのようにして病原菌で汚染し、かつ人体に接触させ、集(たか)らせるか。
 敵地や前線に大量の生きたままのネズミやノミをどういう方法で散布するか。この難問を解決するために丸太がふんだんに利用された。
 細菌戦用の”兵器”は小動物や昆虫だけではない。炭素菌やチフス菌などを食物に混入し、井戸水や飲料水に混ぜれば、それは立派な”兵器”となる。細菌を入れたチョコレートや饅頭が真面目に開発され、試用された。
 健康な丸太はここでも必要だった。丸太に求められたのは健康であり、人間性の一片も認められなかったのである。
2012年11月29日(木) 昭和天皇(16)
 第731部隊は、細菌戦の準備研究いっさいと実戦戦闘を担当していた。細菌戦遂行のためには、当該細菌についての正確なデータを必要とする。健康な人間はどのような条件下でペストやコレラに罹り、どのような経過で死に至るか、また助かるのか。
 部隊は各種の細菌について、その感染発病の全経過をつぶさに知るため、大規模な臨床実験を行い、データを採集した。
 敵を必ず倒し、味方は必ず助かることが細菌戦の要諦である。そのためには、ペストやコレラ、チフスなどに対するワクチン、そしてワクチン療法、あるいは他の薬による化学療法などが、開発されていなければならない。
 大規模な細菌戦には予防のための大量のワクチンが必要である。部隊は細菌を大量生産すると同時に、予防用、治療用ワクチンの研究開発を行った。
 「細菌を注射され、発病した丸太(マルタ)には、731部隊の持つ最良の治療法が施され、丸太の病気進行を食い止めるための手段が尽された」との証言もある。回復した丸太は、できれば再使用したかったからである。驚くべき悪魔の所業だった。
2012年11月28日(水) 昭和天皇(15)
 栄養たっぷりの日常は、あまりにも短かった。丸太の新陳代謝は激しかった。大体、2日に3人の割合で実験材料に使用された。
 ハバロフスクの軍事裁判の記録によれば、昭和14年(1939)から20年(1945)にかけて、第731部隊によって”消費”された数は3000人以上とされたが、「もっと多かったはず」と証言した元隊員もいた。
 関東軍は第731部隊が秘めた特殊任務を重視し、その研究成果を容易ならしめるため、あらゆる便宜を図った。丸太をふんだんに供給することであった。
 実験の順番に回ってきた丸太に、ペスト、コレラ、チフス、梅毒スピロヘーターなどの生菌が注射され、あるいは飲み物や饅頭などに混入して与えられ、あるいは、人為的に移植された。凍傷実験や銃殺実験、ガス壊疽実験もあった。
2012年11月27日(火) 昭和天皇(14)
 戦後、ハバロフスクの軍事裁判での被告川島少将(第4部長、細菌製造班)の証言によれば、第731部隊には、常時200人から300人の丸太がいた。丸太は各班の実験研究目的に応じて個室に移されたり、3〜10人ごとに雑居房に移された。
 丸太には最良の食事が与えられ、栄養満点の3食に、時にはデザートまでついた。睡眠も充分に与えられ、ビタミン剤すら与えられた。それまでの関東軍の拷問で衰弱した体力を一日も早く回復し、健康な肉体を取り戻すことーそれが収容された丸太に課せられた日程であった。
 何の為に?それは悪魔の実験材料にするためであった。実験に供せられる時は確実な死か、あるいは地獄のような苦痛が待ち受けていた。その前日までは空白の毎日であった。丸太は表面、無聊であった。
2012年11月26日(月) 昭和天皇(13)
 その中に、恐怖のプロジェクトチームがあった。「特別班(マルタ)担当」であった。ウィルス研究、ペスト研究、コレラ研究など14の班に分かれていた。
 マルター丸太とは、関東軍憲兵隊、同特務機関及びその下部にあったハルピン保護院に捕えられたロシア人、中国人、モンゴル人、それに朝鮮人捕虜のことである。
 関東軍憲兵と特務機関は、中国各地で潜入してきたソ連赤軍情報将校、戦闘中に捕虜となった中国赤軍(八路軍)幹部及び兵士、日本帝国主義の侵略に反対して抗日運動に参加した中国人ジャーナリスト、学者、労働者と家族など多数の人々を逮捕した。
 関東軍は捉えた捕虜をマルタと呼び、その瞬間から人ではなくなった。ただの丸太、材木扱いとなった。一括して特別移送扱いとなった。
 丸太は石井部隊の中のあるコンクリート2階建ての建物に収容された。周囲を長い廊下で囲まれ、数多くの個室があった。この建物は「丸太小屋」と呼ばれた。正式には第731部隊特殊監獄と呼ばれた。
2012年11月25日(日) 巨人軍、日本一の銀座パレード
 3年ぶり22回目の日本一に輝いた読売巨人軍が25日朝、東京・銀座をパレードした。絶好の小春日和に恵まれた日本橋から銀座8丁目まで2.5キロを3台のオープンバスに分乗した原監督、阿部選手会長らは沿道を埋め尽した観衆に盛んに手を振って声援に応えていた。パレードは初めての長野、村田選手らは沿道の人出の多さに感激したようで、「来年の励みになる」と話していた。
 沿道の観衆の中には、北は岩手県から南は大阪、名古屋と全国からやってきた人も多く、ファン層の厚さ、広さを見せつけていた。
 見通しの効かない政治不信、経済不況と明るい材料のない世相だが、こんな世相を吹き飛ばし、活気溢れるパレードであった。巨人は永遠に不滅で〜す。
2012年11月24日(土) 昭和天皇(12)
 石井はヨーロッパ諸国歴訪中、ペストの恐怖について種々の話を聞き、さらに各国が研究対象から外しているペスト菌を、逆に「日本が独自に研究すべき絶好の細菌」と受取ったのだ。石井の細菌研究を後押ししたのは、先に述べたように永田鉄山だった。
 満州事変で中国侵略を本格化させた関東軍は、雪崩を打って侵略を始め、昭和7年(1932)満州国を成立させ、傀儡政権をでっち上げた。
 ハルピンはこの過程で関東軍の手に落ちた。翌8年、ハルピンに悪魔の細菌戦秘密研究所が設置された。初め、関東軍防疫給水部本部(通商石井部隊)は部隊の性格を秘匿するため「加茂部隊」と呼ばれた。「加茂」とは石井の出身地である千葉県山武郡千代田村(現芝山町千代田)加茂から名付けたものだ。
 周囲6キロ四方の立ち入り禁止区域となった軍事施設の中に加茂部隊は誕生した。部隊長ー石井四郎中将の下に総務部、第一〜第四部、教育部、資材部、診療部などが置かれ、人員は2000名であった。
2012年11月23日(金) 昭和天皇(11)
 石井が細菌戦遂行の有力武器としてペスト菌に着目したのには理由があった。それは石井がヨーロッパ列強諸国を視察旅行する過程で、ドイツも含めて各国が言い合わせたようにペスト菌を細菌戦用の武器から除外しているのを知ったからである。
 これにはヨーロッパ大陸を覆った過去の悲惨な歴史的経験があるのだ。ペスト菌がヨーロッパ大陸に蔓延し、猛威を振るったのは14世紀半ばのことだ。当時、1億人の人口を擁していたヨーロッパ大陸で四分の一に及ぶ人命がペストによって奪われたことがある。
 この時のペストは、南はスペイン、ギリシャ、イタリア、バルカン半島全域、イギリス、フランス、ドイツ、北はオランダ、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンを襲い、東はロシアの一部まで広がり、凡そ2500万人が命を落とした。
 以来、ヨーロッパ各国民は、この時の戦慄的なペストの猖獗ぶりを「神の怒り」と考えるようになり、子々孫々に至るまで語り継いだという。ペスト=天刑という思想が、細菌戦用の武器にペスト菌だけは除外する結果となったのだ。
2012年11月22日(木) 昭和天皇(10)
 石井は帰朝後、間もなく、陸軍第一病院勤務になり、3等軍医正に昇進、陸軍兵器本廠勤務兼陸軍軍医学校教官となった。
 石井は、この時点で細菌の毒性研究に手を染めたと見られる。単なる毒性研究ではなかった。石井は、東京・新宿区若松町の陸軍軍医学校裏に設置された陸軍防疫研究室の責任者となり、助手を使って小規模ながら、かなり組織的、系統的な細菌培養に乗り出した。
 驚くべきことに、教官時代に助手を使って人体実験を行っていたのだ。石井の助手となって細菌研究に従事した何人かが、いずれも細菌感染で死亡した事実があった、と元陸軍防疫研究所関係者は告白した。
 私事だが、浪人時代、若松町に下宿していた。近くに国立第一病院があったが、これが陸軍病院の跡である。食後に散歩した際、病院周辺をのんびり歩いたものだ。
      ◇   ◇   ◇
 今週の日曜日、千葉市民音楽祭が市民会館であり、わが女房どのが入っている「千草コーラス」が参加した。60〜70歳代のばあさんコーラスだが、歴史は30年を誇り、市内でも古い方だろう。
 今年は「花は咲く」を熱唱したそうだ。それも全員がバラ一輪を持って。「会場は静まり返っていたわ」というから、評判はよかったらしい。
 大震災と原発被害で落ち込んでいる東北地方への応援歌は、千葉市民の反響を呼んだことだろう。
2012年11月21日(水) 昭和天皇(9)
 石井四郎が細菌の兵器転用という悪魔的な発想を持つきっかけとなったのは昭和5年(1930)春のヨーロッパ視察旅行だった。視察といっても各国の日本大使館や領事館に連絡を取りながらの密偵、つまり軍事スパイであったようだ。
 石井をヨーロッパに派遣したのは当時、陸軍省の一課長であった永田鉄山大佐であった。彼は、陸軍軍務局長だった昭和10年8月、皇道派の相沢中佐に斬殺され、2.26事件の引き金になる。
 昭和6年秋、1年半に及ぶ視察旅行から帰国した石井は、陸軍省に永田課長を尋ね、ヨーロッパでは、細菌を兵器として転用する試みがナチス・ドイツで進んでいると告げ、「日本でも早急に基礎研究を始めなければ馬車に乗り遅れる」と力説した。
      ◇   ◇   ◇
 民主党の元首相鳩山由紀夫が来月の総選挙に出馬を取り止めると発言した。TPP推進に反対し、消費税増税に反対して公認を得られないため、としている。
 しかし、選挙区の北海道9区は、自民党から元オリンピック選手の堀井学前道議が出馬しており、自民党では政権交代の象徴区と位置付けて力をいれていた。沖縄の普天間飛行場の移転問題以来、発言が揺れる鳩山は当選は極めて困難、といわれており、地元の評判から出馬を断念したのだ。
 今日は気分が最高! 民主党は徐々に「溶解」してゆく。
2012年11月20日(火) 昭和天皇(8)
 石井は大学卒業後、幹部候補生として陸軍に入り、依託学生として京都帝国大学大学院に進んだ。何故、石井が職業軍人の道を進んだのか、この間の事情は不明である。
 石井は在学中、抜群の成績を収めたため、時の京都帝国大学総長が石井の将来性を嘱望して、愛娘と結婚させたほどであった。
 大正10年(1921)2等軍医(中尉に相当)となったのを皮切りに昇進を始め、昭和2年(1927)防疫学に関する学位論文を書いて医学博士となった石井は、昭和6年(1931)、39歳の若さで3等軍医正(少佐相当)になり、陸軍軍医学校教官となり、同時に陸軍兵器本廠の幹部となった。
 この二つの役職を兼務したところに、石井の軍暦の特異性がある。細菌を兵器として転用する悪魔的発想が石井の頭脳に芽生えたのではあるまいか。
2012年11月19日(月) 昭和天皇(7)
 戦争では、多くの兵士が命を落とす。当然だが、しかし、戦争では非武装の市民が大きな犠牲を受けるのである。国際法上では禁じられている毒ガスなどの残虐な兵器を使用する国も多く、これが戦争の悲惨な現実である。
 これまでの歴史で、戦争で非武装の市民に対する殺人や虐待を行わなかった国はなく、日本もまた例外ではない。
 第2時世界大戦におけるナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺、太平洋戦争における日本軍の細菌戦略による中国人の虐殺、ソ連による満州国の一般日本人に対する殺害や略奪、強姦、さらにシベリアへの強制連行など、挙げればきりがない。
 この中で、特に中国における不可解な日本軍の細菌部隊の虐殺事件を取り上げる。関東軍防疫給水部いわゆる満州第731部隊が、かの有名な細菌部隊の正式な名前だ。
 別名石井部隊と呼ばれた細菌研究部隊は、石井四郎陸軍中将によって設立された。石井は明治25年(1892)6月、千葉県山武郡千代田村(現芝山町千代田)の地主の四男に生まれた。幼少の頃から頭脳優秀で、千葉中学から旧制4校を経て京都帝国大学医学部に進んだ。
2012年11月18日(日) 昭和天皇(6)
 昭和20年(1945)8月9日、陛下の御臨席のもと御前会議が開かれた。7月26日に発表されたポツダム宣言(無条件降伏)を受諾するか、どうかについて話し合われた。しかし、賛否が同数となり結論が出なかったため10日午前2時、鈴木貫太郎首相が陛下の前に進み出て聖断を仰いだ。
 これは異例のことであった。陛下は「もうよかろう」と聖断し、ポツダム宣言の受諾による日本の降伏を決断した。
 8月15日正午、ラジオの玉音放送で、国民は日本の敗戦を知った。陛下44歳であった。
      ◇   ◇   ◇
 いよいよ冬到来となった。会津若松市からは注文した「会津身知らず柿」が届いた。毎年、娘たちの所と併せて3箱注文している。箱を開けたら、ベクレル検査結果が入っており、セシウム、ヨウ素を検査した結果、異常なしだった検査報告書が入っていた。安心して食べられる。
 他に、毎晩の晩酌に呑む日本酒は会津の栄川と決めており、取り寄せている。少しでも郷里へ貢献できたらーと考えている。
2012年11月17日(土) 総選挙
 来月16日投開票の総選挙になった。第3極がどうなるか、少数政党の乱立が既成政党にどのような影響を及ぼすか?民主党の3年間の国民不在の政権を、国民がどのように判断するか?など、興味深い選挙となった。
 中でも注目は北海道4区。元首相の鳩山由紀夫にオリンピック選手の堀井学自民党県議が挑む。「首相をやめたら引退」を公言した鳩山が図々しくも立候補。日米関係をぎくしゃくしたものにした張本人が、蛙の面に何とやら。自民は「政権奪還の象徴区」とテコ入れを図るが、必ず実現して欲しい。
 郷里福島4区も面白い。前会津若松市長の菅家一郎(自民)に維新の小熊慎司が挑戦する。民主の渡部恒三が引退し、後釜がいない。
 菅家、小熊両君とは顔馴染みだ。菅家君は市長時代、妻の行儀見習いで裏千家の教授だった亡母にお茶を習いにきていた仲。故伊東正義さんの秘書を経て市議ー県議ー市長になった。小生が亡母の世話するため郷里に戻り、歴史的町名を復活させる運動を展開した時、周辺市町村からの出稼ぎが多く、会津若松市の事情も知らない職員の言いなりになって陳情を踏みにじられた苦い経験がある。
 頭の回転も今一つで、資質からいって会津を代表する代議士ーにはしたくない。かといって、小熊君は市議ー県議ー参議院議員だったが、自民ーみんなー維新と所属政党をクルクル替わり、政治家の本質が見えて来ない。
 いずれにしても会津に残っているのは、一流はおらず、「これだ」と推薦できる人物は見当たらない。人材の墓場なのだ。
2012年11月16日(金) 昭和天皇(5)
 日本政府は、この戦争を大東亜戦争と呼んだ。戦争の目的は、自存自衛とアジアを欧米の支配から解放し、「大東亜共栄圏」を建設することであると、宣言した。日本に続いてドイツ、イタリアもアメリカに宣戦布告した。
 こうして日・独・伊3国に対抗して米・英・蘭・ソ連・中国が連合して戦う第2次世界大戦が本格化していった。
 緒戦の勝利に日本国民は酔いしれた。しかし、昭和17年(1942)6月、ミッドウェー海戦で日本の連合艦隊がアメリカ海軍に完璧に打ちのめされてから米軍の反攻が始まり、日本は敗戦への坂道を転げ落ちる。
 昭和20年(1945)3月には、米軍のB29による無差別本土爆撃が始まり、首都東京が大空襲を受けた。
 さらに4月7日、沖縄本島でアメリカ軍との激しい地上戦が始まった。鉄血勤皇隊の少年やひめゆり部隊の少女たちまで勇敢に戦って沖縄県の一般住民9万4000人が生命を失い、10万人近い兵士が戦死した。
2012年11月15日(木) 衆議院解散ー来月16日総選挙
 昨日の党首討論で民主党の野田がやっと「16日に解散する」と明言した。民主党政権になって3年、この国は「壊れてしまった」。
 沖縄の辺野子基地移転問題で、鳩山が「トラストミー」といってのけて以来、日米関係はこじれ、尖閣諸島領有問題で中国、台湾とまずくなり、連日、中国船がわが国の領海を侵犯している。
 外交に加え、消費税増税を可決して国民の生活を再来年から圧迫させという国内問題もまるでダメにしてしまった民主党。
 明日の衆議院本会議で解散が決まり、来月16日投票になるが、自民党を中心にした安定政権の誕生が待たれる。政治がしっかりしていないから、他所の国からなめられるのだ。2度と民主党政権は見たくない、永久に退場だ。
 消えてなくなれ民主党! 出よ、救国の政治家。
2012年11月14日(水) 昭和天皇(4)
 昭和16年(1945)12月8日午前7時、日本軍が米英両国と戦闘状態にはいった臨時ニュースが全国を駆け巡った。陛下40歳であった。日本の海軍機動部隊がハワイの真珠湾に碇泊する米太平洋艦隊を空爆した。艦船は次々と炎上、沈没し、飛行機も片端から炎上して大戦果を挙げた。
 同じ日に日本の陸軍部隊はマレー半島に上陸し、イギリス軍と交戦状態に入った。自転車に乗った銀輪部隊を先頭に、日本軍はジングルをぬって進撃を続け、翌年2月には、マレー半島1000キロを縦断してシンガポールを陥落させた。イギリスの東南アジア支配を崩したのである。
 フィリピン、ジャワ、ビルマなどでも米、英、蘭軍を破り、緒戦を制した。数百年にわたる白人の植民地支配に喘いでいた現地の人々の協力があってこその勝利であった。
 この日本軍の緒戦の勝利は東南アジアやインドの多くの人々に独立への夢と勇気を育んだ、といえよう。
2012年11月13日(火) 昭和天皇(3)
 昭和12年(1937)7月、中国で廬溝橋事件が勃発し、日支戦争の泥沼に突入した。陛下36歳であった。この事件は、関東軍が自ら橋を爆破したにも拘わらず、中国軍の仕業だーとデッチ挙げ、中国との戦線を拡大した。
 今考えると、どうして陸軍もしくは大本営が、関東軍を押さえられなかったのだろうか、不思議だ。関東軍が勝手に独走し、王国を建国したのだ。
 翌年の13年4月には、国家総動員法が公布され、国民皆兵制度ができた。一方、ヨーロッパでは、昭和8年(1933)に政権の座についたナチス党のヒトラーはユダヤ人を迫害を繰り返していた。14年9月、ドイツがソ連と秘密協約を結んだ上、ポーランドに電撃的に侵攻してポーランド全土をソ連と分割した。 
 これに対してポーランドと同盟を結んでいたイギリスとフランスはドイツに宣戦布告し、第2次世界大戦が勃発した。
 ドイツ軍は電撃作戦で西ヨーロッパを攻略してパリに入城し、フランスを降服させた。
 日本は、ヨーロッパにおけるドイツの勝利に目を奪われ、イギリスにも勝つことを期待して昭和15年(1940)イタリアも加えて日独伊3国同盟を締結した。アメリカの参戦はないものと多寡を括った日本政府と大本営の見通しの甘さが露呈したのだ。
2012年11月12日(月) 昭和天皇(2)
 大正12年(1923)9月1日、関東大震災が発生した。未曾有の震災で首都東京は壊滅し、数10万人の死傷者を出した。天皇22歳の出来事だった。
 翌年の1月、ご成婚された。この頃から、父大正天皇の健康状態はすぐれず、摂政として国事を代行された。
 大正15年12月、大正天皇が亡くなられて昭和と改元され、昭和3年(1928)11月、27歳で第124代天皇に即位された。激動の昭和時代の始まりである。
 資源の少ない日本はアジア、中国へ進出を始め、戦争へ戦争への階段を昇ってゆく。昭和7年(1932)3月には満州国が建国され、日本軍の傀儡政権が誕生した(天皇30歳であった)。
 その年の5月15日、「5・15事件」が発生、続いて11年(1936)2月には「2・26事件」が発生し、軍部内部の抗争があり、特に「2・26事件」では決起した陸軍の青年将校らが政府や軍の要人を次々と襲撃し、大蔵大臣や軍務局長らを殺害した。一種の反乱であった。34歳の陛下の「兵に告ぐ」の降伏文書が反乱を鎮圧した。
2012年11月11日(日) 閑話
 昨日10日の読売新聞夕刊の「追悼抄」に懐かしい二人の名前が載っていた。一人は元アサヒビール社長の樋口広太郎氏。会長だった当時、平成の10年頃か、小泉内閣の成長戦略会議議長だったかの肩書きで郡山で講演した。隣の本宮町に工場がある関係で招かれたのか、経済が不況に陥り始めた時代の経営戦略について「ピンチをチャンスに捉える」と題して講演した。後にメモするほど内容が濃かったものだった。業界首位に押し上げた実績を裏付ける人物であった。9月6日、心不全で死去、86歳。
 いま一人は評論家の田中直樹氏。辛口の批評で有名だった。書いてなかったが、我が母校会津高校の先輩である。数少ない京都大学卒業だ。民主党の渡部恒三と同期で、会津に戻っていた平成10年代、恒三の応援の形で会津に来た際、話を聞いた。「恒三は頭が悪かった」と本人の前でいってのけ、恒三が頭を掻いていた。
 二人の同期では、東山温泉、向瀧の平田昇氏と今年春に亡くなった林平蔵氏がいる。林さんは福島民友に出向時代、仲良くさせてもらったし、平田氏とは会津で6大学OB会の宴会で一緒だった。田中氏は9月4日心不全で死去、77歳。
 それぞれのご冥福をお祈りする。
2012年11月10日(土) 昭和天皇(1)
 昭和天皇は、太平洋戦争とは切っても切れない、深い関係がある。終戦後は、全国巡幸され、会津若松市にも訪れになられた。現神人から人間になられた初めての方である。昨年3月の東北大震災では、被災地を何度も見舞われて悲劇に見舞われた人々を慰められた。どんな人間が及ばない、尊厳があるのだ。
 天皇は明治34年(1901)4月、誕生された、迪宮(みちのみや)裕仁と命名された。同37年2月には日露戦争が勃発した。2歳であった。
 大正3年(1914)7月、13歳の時、第一次世界大戦が勃発した。同10年(1921)11月、大正天皇の摂政に就任し、国事行為を代行した。同じ年、裕仁皇太子は欧州を歴訪して、イギリス王のジョージ5世から立憲君主制の君主としての在り方を学ばれた。
2012年11月09日(金) 軍都・若松(最終回)
 最後に、「白虎部隊」の異名があった歩兵第65聯隊の歴代聯隊長の名を挙げて終る。いずれも階級は陸軍大佐である。
 初代ー飯島 亀
 2代ー大島 新
 3代ー山内正生
 4代ー平田豊三郎
 5代ー井上 僕
 6代ー両角業作
 7代ー由打 弘
 8代ー立花芳夫
 9代ー桜井徳太郎
10代ー伊藤義彦
11代ー服部卓四郎
12代ー橋本匡
 次は太平洋戦争とは結びつきが多い昭和天皇について書き込む。
      ◇   ◇   ◇
 昨日から中国共産党大会が始まった。胡錦涛総書記に代わり習近平が次期指導者になる大会だ。胡時代の10年間は、貧富の格差が拡大し、軍拡で海洋権益を増し、さらに汚職、言論弾圧、異民族圧迫など、13億の人民を苦しめた時代であった。
 温家宝首相の一族が2150億円もの不正蓄財を指摘されたが、これを伝えるニューヨーク・タイムズ紙のネットの閲覧を不能にするなど共産党独裁政権はやりたい放題だ。こんな国が世界で2番目の経済大国になったなど、人民の生活を無視した国に明日はない。
2012年11月08日(木) 軍都・若松(123)
 さらに8月15日の終戦の詔が伝達された前後の場面ー。昭和20年5月以来、反転作戦の最殿軍として任務を終了した65聯隊は、南支から中支湘江河畔を北へ北へと行軍が続いた。8月14日、広西省から湖南省に到着した。
 連日連夜、米軍機、中国軍機による爆撃を受けたため、行動は夜間のみであった。この14日に限って空は静かに不気味な気配が感じられた。8月6日、広島へ、8月9日長崎へ新型爆弾が投下され、10数万の死者を出したーという風聞が幹部間で交わされ、9日、さらにソ連軍が不可侵条約を破って突如、満ゾ国境を越えて関東軍と交戦中という連絡が師団から通報された。杉山陸軍大臣が全軍将兵に告ぐという訓示が印刷、配付された矢先であった。
 15日夕、電報班が長文の親展電報を解読しつつあった。16日朝、将校が聯隊本部に集合、服部聯隊長から日本はポツダム宣言を無条件で受諾して停戦になったことが知らされた。終戦の大詔が三留副官から読み上げられ、読むことさえ恐ろしく感じられ、陛下の心痛が暴風雨のごとく胸を打った。
 他隊の幹部の中には、軍の崩潰は自らの生きる任務が終ったと自刃した者がいた。しかし、日本再建のために我々の力が必要である、と聯隊長が力説された。
 聯隊本部では、戦犯追及の恐れとなる戦闘詳報や陣中日誌などが焼却された。過去9年間の聯隊のあらゆる歴史は煙となって灰となった。火焔に投じる数千冊の中身には上海上陸以来の将兵や1万数千名にのぼる戦死者の血と魂の記録であることを思うと、涙を押さえることはできなかった。
2012年11月07日(水) 軍都・若松(122)
 昭和20年8月26日、故郷若松を思い出す中支湖南省県桐コウ塞の小高い丘は、夕闇に包まれ、燃える焚き火が憔悴した将兵の顔を赤く染めていた。化石のごとく動く者はいなかった。一点を凝視して、精魂を傾け、夢想だにしなかった敗戦の詔に驚愕し、これから起る事態を推測して胸中は混乱の渦と化していた。 
 8月26日午後9時、服部聯隊長の指揮により、栄光比類なき歩兵第65聯隊の軍旗の奉焼式が行われた。聯隊長の決別の辞は切々と胸をうち、全将兵の棒銃は炎にきらめき、別れのラッパは嫋嫋と夜陰に流れて余韻を残し、滂沱と落ちる涙は頬を光らせた。
 遥か故国に別れを告げた軍旗は副官三留大尉の先導で炎の前に進んだ。旗手染谷少尉の手は心無しか震え、聯隊長の号令一下、一瞬に火中にその英姿を消した。嗚呼、時午後9時15分なり。
 思えば、昭和12年(1937)9月16日、宮中で拝受され、白虎部隊の名と共に聯隊将校の象徴としてまた、陛下の化身として上海上陸以来、中国全土に転戦し、幾百度か常に第一線部隊としてその勇名は全世界に轟き、軍旗ああるところに草木土を噛む苦難に堪え、連戦連勝して、その勲は感状授与されること幾度ぞ。
 今夕全ては終り、痛恨の情は筆舌に尽し難い。全ては忘却の彼方へ去れども我々の瞼の奥深く焼き付けられた、悲痛の情景は永久に消すことはできない。
2012年11月06日(火) 軍都・若松(121)
 昭和21年(1946)5月20日、内地へ帰還するため湖口を出発、24日に上海に到着した。6月13日、船で出港し、懐かしの日本へ。佐世保へ上陸したのは23日だった。一部は鹿児島へ向った。復員できた将兵は3435名であった。戦死者は自殺者も加えて4628名。
 20年10月15日現在の最後の歩兵65聯隊の将兵は、聯隊長服部卓四郎大佐、副官三留保大尉、旗手染谷正義少尉、第1大隊長田村武夫少佐、第2大隊長平林貞治少佐、第3大隊長鈴木栄一大尉、歩兵砲中隊長大狩野角重大尉、速射砲中隊長志賀隆文中尉、通信中隊長田子四郎大尉であった。
 明日から、軍旗を奉焼した時の模様と終戦(敗戦)の大詔を拝した時の聯隊の様子を書き込む。親、知人が出征した人なら、涙なくしては読めない。
2012年11月05日(月) 軍都・若松(120)
 昭和20年(1945)4月20日から29日まで広西省都安作戦が実施された。その後、独立混成88旅団編成要員として65聯隊の兼子良介中尉以下将校と下士官兵555名が転属した。
 5月20日、湘桂反転作戦(言葉はいいが、所謂撤退である)が行われ、北支軍の一部が本土防衛に抽出され、戦線を縮小するため、中支の揚子江沿岸まで反転することにした。
 65聯隊は全軍反転作戦の最殿軍として敵中に孤立困難な任務を見事に全うし、敵味方をとわず絶賛の的になった。
 5月20日、河池出発して宣山で作戦的に孤立し、追撃してきた敵を迎撃後、柳橋ー中渡ー桂林ー只安などを経て途中、敗戦を迎えて軍旗を奉焼し、長沙ー通城ー九江で武装解除した。
 そして湖口から周田裡に到着して抑留生活が始まった。
2012年11月04日(日) 軍都・若松(119)
 昭和19年5月末、第3次湖南省長沙作戦が実施され、続いて衝陽作戦も実施された。さらに戦線は拡大して広西省全県に飛び火して、桂林並びに柳州に及んだ。
 65聯隊はト湖堤を出発、漢口、武昌を経て通山、安仁、来陽などを攻略して河地地区に反転し、同地区を警備することになった。一連の戦闘で、第3大隊長日置少佐、第3中隊長永井大尉、第6中隊長山崎中尉、第11中隊長渡部中尉以下将校28名、下士官兵877名、計905名が戦死した。
 同年7月から翌年1月にかけて将校と兵の補充を受けて態勢を整え、1月から2月にかけて将軍らの異動があり、聯隊長伊藤義彦大佐は少将に昇格して保定幹部候補生隊長に転出、後任の11代聯隊長に大本営作戦課長として名を馳せた服部卓四郎大佐が発動された。いよいよ、敗戦への坂を転げ落ちる。
     ◇   ◇   ◇
 読売巨人軍が日ハムを敗って日本一に輝いた。中田の3ランが出て同点に追いつかれた時は、ヒヤッとしたが、頼りになる阿部の適時打で追加点を挙げて乗り切った。いい試合であった。
 ただ、選手としては三流で、しかもテレビ司会者だけの素人監督を日本一にだけはしたくなかった。寵児にしてはならなかった。
 25日には銀座で日本一のパレードだ。低迷している日本の経済に灯をともすだろう。元気なら見に行きたい!
2012年11月03日(土) 軍都・若松(118)
 昭和初頭から敗戦の20年まで、昭和時代前半は、戦争へ戦争へと全国に暗雲が漂い、暗い世相を反映した、嫌な事件が頻発した。
 そうした暗い世の中にあって、会津に夢のような出来事が起った。昭和3年(1928)9月28日、会津藩主松平家の血統を継ぐお姫さまが秩父宮家に嫁入りすることになったのだ。
 戊辰戦争以来、薩長藩閥政府に「朝敵」の名を着せられて辱めを受けてきた会津から、藩主松平家のお姫さまが朝廷に御輿入れしたのだ。松平家から分家した松平恒雄(駐英大使)の息女勢津子姫は、節姫といったが、皇太后と同名というので改名された。
 恒雄は最後の藩主松平容保の4男で、親子は秩父宮との婚約後に、会津入りし、市民から盛大なお祝いを受けられた。「戊辰戦争の汚名が晴れた」と涙する市民が多かった、という。
 婚儀の9月28日には、慶山にある松平家御廟などで婚儀報告会が行われ、公会堂では祝賀会もあり、小中学生による小旗行列、夜は市民の提灯行列が町中を練り歩いた。市民の喜ぶ様子が今も伝わる。
2012年11月02日(金) 軍都・若松(117)
 前線の歩兵65聯隊はー。昭和19年(1944)1月10日、日本軍は江南最大の要衝である常徳付近の敵を殲滅する作戦を立てた。聯隊は直ちに行動を開始し、聯隊長や旗手が負傷する手傷を負ったが、奮戦敢闘して大きな戦果を挙げ、4月、第11軍司令官横山勇中将から感状を授与された。
 この戦闘での戦死者は第1大隊副官佐藤三良少尉以下将校4名、下士官兵146名であった。
 この後、1047名の補充を受け、世界戦史上、希な大作戦に参加した。聯隊は沙市地区を出発、陸上による内地ー南方間のルートを打開すべく、満州ー北支ー中支ー南支ー仏印南方地区への大陸打通作戦を立てたのである。
 この作戦は、その規模、戦線、動員兵力(日本軍40万、中国軍300万)、戦没者数において過去に例を見ないほどの規模であった。海上輸送ルートが米軍に押さえられたための窮余の作戦であったろう。
 この作戦で65聯隊は上海以来最大の戦果を収めたが、戦死者、負傷者も2900名に達するという大損害を受けた。
2012年11月01日(木) 軍都・若松(116)
 昭和19年10月、遂に日本軍は全世界を驚愕させる作戦を敢行した。レイテ沖海戦で、「神風特別攻撃隊」(特攻)がアメリカ海軍艦船に体当たり攻撃を行ったのである。大西瀧治郎中将が考えた必殺の作戦だった。
 追いつめれた日本軍は、飛行機や潜航艇で敵艦に死を覚悟した特攻を繰り返していった。飛行機だけでも、その数は2500機を超えた。18、9歳から20代の若者が次々、死地へ飛び立っていった。
 翌20年(1945)4月には、沖縄本島でアメリカ軍との激しい地上戦闘が始まった。日本国内で、唯一、最初の地上戦闘であった。
      ◇   ◇    ◇
 今月の10日(土)に小生の住むマンションの住民相手に、来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公、新島八重について講演する。福島第1原発の風評被害に悩む郷里会津への応援団を買って出て、少しでも観光の役に立ちたい、と思っている。
 マンションの掲示板を見た住民の一人が本日、八重を描いた本を「参考に」と持ってきてくれた。夫は同志社大OBで、以前から興味を持っていたという。
 史料ならあるので丁寧にお断りしたが、会津人でなくとも、「会津のジャンヌ・ダルク」「会津のナイチンゲール」と呼ばれた八重には興味を持っている人が多い証左であろう。本当に来年が楽しみだ。
▼ トップページにもどる ▼
河野十四生の歴史ワールド
◆Copyright(c)2012 河野十四生 All Rights Reserved.◆