天正13年(1583)の生まれなので戦国武将の範疇に入らないが、関ヶ原の合戦に深く関わったので戦国武将として取り上げる。 父盛安は出羽国(秋田県)角館城(仙北市)主で天正18年の秀吉の小田原攻めに参陣したが、陣中で病死した。秀吉は弟の光盛に家督を継がせ、4万4300石を与えた。 ところが、光盛が文禄元年(1592)の朝鮮出兵で肥前(佐賀県)・名護屋に参陣する途中、病死してしまった。家臣たちは、山伏に育てられていた盛安の遺児政盛に戸沢家を継がせ、翌年、9歳の政盛に秀吉からの安堵状が出された。 慶長4年(1599)會津の若松城主上杉景勝の動静をいち早く家康に報告して家康の上杉攻めとなり、結果的に関ヶ原の合戦のきっかけになった。山伏を通して情報ネットワークを駆使したのかもしれない。 同7年、常陸(茨城県)の佐竹義宣が出羽・久保田(秋田市)に左遷され、代わって政盛が常陸・松岡地方を含む4万石の城主となり、家康の腹心鳥居元忠の娘を正室に迎えるなど、外様ながら譜代なみの扱いを受けた。 後に、山形藩最上氏の改易に伴い、6万石で新庄(新庄市)藩主となり、新田開発や鉱山開発に力を注いだ。
祖父清兼は三河(愛知県)の松平弘忠の重臣で、広忠に嫡男竹千代(後の家康)が誕生した時、妖怪降伏の弓を鳴らす蟇目の役を努めた。 その子家成が酒井忠次と並ぶ「両家老」の一人で、西三河の旗頭だった。家成の兄康正の子である数正も、家康が今川家から独立して行く過程で軍事面、政治工作の両面で力量を発揮した。 家康が武田信玄と結んで今川家を滅ぼした後、遠江・掛川城主に転じ、永禄12年(1569)から西三河の旗頭となり、岡崎城を守った。酒井忠次が織田信長との交渉役で、数正は秀吉担当だった。 天正11年(1583)賤ヶ岳の戦で秀吉が柴田勝家を破った後、家康は戦勝祝い数正を秀吉の元に送り、名物茶入れ「初花肩衝」を持参したが、数正は秀吉の人間的魅力に取りつかれた。 翌年の小牧・長久手の戦で秀吉と家康の和議を家康に進言して家康の機嫌を損ね、徹底抗戦を叫ぶ主戦派との間に軋轢も生まれた。その時、秀吉から数正に誘いの手が伸び、天正13年11月、数正は岡崎城を脱出し、秀吉方に走った。 同18年(1590)信濃(長野県)松本城主10万石となり、国宝の天守閣や城下町を造った。徳川の世でも数正の子康長が引き継いだが、慶長18年(1613)金山・銀山奉行だった大久保長安事件に連座して改易された。
家康の懐刀といわれた本多正信の子。天正10年(1582)から家康に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で頭角を現した。家康は決戦を前に、諸将を味方につけるべく手紙戦略を展開した。 普段の相談相手政信は秀忠について中山道を進んでおり、本来、相手になるべき井伊直政、本多忠勝も傍にいなかったので、正純を側近として重用した。 本格的に手腕を発揮するのは、家康が将軍職を秀忠に譲り、駿府城(静岡市)で「大御所政治」を推進した時、以来だ。ブレーン筆頭として諸政策を推進し、それを秀忠が実行する時代が続いた。 権力がありながら禄高は3万5千石だったのは、父政信の「権ある者は禄すくなく」を踏襲したからだ。父の死後、元和5年(1619)下野国宇都宮城で15万5千石に加増されたが、それが命取りになり、「宇都宮釣天井事件」で秀忠暗殺の嫌疑をかけられ、さらに同僚の嫉妬もあって失脚、出羽国横手(秋田県横手市)に配流された。 「日だまりを 恋しと思う うめもどき 日陰の赤を 見る人もなく」が辞世の句。
忠次は家康が三河で自立し、秀吉に臣従してゆく時期に老臣筆頭だった。榊原康政、井伊直政、本多忠勝らと「徳川四天王」と称したが、年齢的にも忠次がはるかに上で、活躍時期も早い。 家康より15歳も年長で、家康の父広忠の妹を娶っており、重臣というより一族の長老の存在だった。 家康も絶大の信頼を寄せ、忠次が永禄7年(1564)東三河の吉田城を落とした時、家康は忠次を吉田城主に据えている。家臣を城主にした第1号だ。 天正3年(1575)の三河長篠・設楽ヶ原の戦で、織田信長に提案した鳶ヶ巣山の奇襲作戦が採用され、戦局を織田・徳川連合軍有利に導いた。この他、同12年の小牧・長久手の戦でも戦功をあげ、軍事面で徳川軍団トップの実力を発揮した。 外交面でも活躍し、同7年のいわゆる「築山殿事件」で、信長に武田との内通を疑われた正室・築山殿と嫡男信康を家康が処断した時、終始、信長との折衝役にあたった。家康の外交を一手に引きうけていた。 忠次は同16年、隠居して家督を子の家次に譲った。その2年後、家康は井伊直政に12万石、本多忠勝、榊原康政に各10万石を与えたが、家次には3万石しか与えなかった。 忠次は家康に「家次の石高を上げてほしい」と訴えたのに対し、家康は「お前でも子どもはかわいいか」と答えたという。「築山殿事件」で、家康の嫡男信康を庇い切れなかったことを根に持っていたらしい。
家康の股肱の臣として「徳川四天王」の一人直政は,不遇な幼年期、少年期を送った。父直親は今川氏に仕えていたが、謀反の疑いをかけられて殺された。虎松といった直政はわずか2歳で、15歳まで遠江(静岡県)や三河の各地を転々とした。 天正3年(1575)2月、浜松城下で家康に見いだされた。初陣は翌4年、武田勝頼勢と戦った遠江・芝原の戦だった。以後、家康軍の先鋒となって軍攻を上げ、13歳上だった本多忠勝、榊原康政と功を争うようになった。 同10年、武田氏が滅び、家臣団の多くが家康に付属させられた時、旧山懸昌景隊の赤備えと称する一団を直政につけた。いわゆる「井伊の赤備え」の誕生だ。直政は槍働きだけでなく、外交面でも活躍。交渉術に長け、本能寺の変の後、家康と北条氏直の軍勢が甲斐(山梨県)で衝突した際、22歳の直政は交渉の使者になり、見事、講和を成立させた。 これにより、家康はそれまでの駿河(静岡県)・遠江・三河に、甲斐と信濃を加え、5カ国の大大名となった。 同18年、秀吉による小田原攻めの後、家康は関東に移封されたが、直政には上野(群馬県)箕輪12万石を与えた。年長だった忠勝・康政がともに10万石なので、直政は家康家臣団のトップとなった。 慶長5年(1600)直政は忠勝と共に家康本隊に加わり、関ヶ原合戦では、家康の四男忠吉と共に先陣を切った。しかし、勝利が確定した際、敵中突破という奇策で戦場から脱出を図った島津隊を追い、鉄砲で負傷した。この傷がもとで合戦の2年後に亡くなった。 家康は、その軍功に報いようと直政に石田三成の居城だった佐和山城(滋賀県)を与え、18万石に栄転させた。のちに彦根藩35万石になるのだ。
徳川四天王の一人で、家康より6歳下。永禄6年(1563)元服の際、家康から一字を与えらた。その年、三河に一向一揆があり、康政の初陣となった。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いまでの戦で、ほとんど先陣を努めた。中でも、元亀元年(1570)姉川の戦で康政隊が朝倉軍に横槍を入れ、それによって朝倉軍が崩れ、織田・徳川連合軍の勝利となったことは、康政の輝かしい戦歴の一つだ。 天正18年(1590)秀吉の小田原攻めの後、家康が北条氏の遺領の関東に移封された際、上野(群馬県)館林で10万石を与えられた。 その後、文禄の役(朝鮮出兵)で家康が肥前(佐賀県)名護屋まで従軍したが、子息秀忠は江戸に留まり、康政はその補佐を命じられた。 関ヶ原の戦では、井伊直政と本多忠勝が家康と共に東海道を西に向かったが、康政は秀忠本隊として中山道を辿った。途中、信濃(長野県)上田城攻めにてこずって関ヶ原合戦に間に合わない大失態を犯した。怒った家康は秀忠との面会を許さなかった。 この時、家康・秀忠親子の間を取り持とうとした康政は家康に面会し、 「秀忠殿が大事に間に合わなかった失態は、家康殿にも間違いがありましたぞ」 と諫言した。要は、家康が開戦の日をはっきりと秀忠に伝えていなかったのも原因だと指摘したのだ。 家康は康政の諫言に納得し、秀忠と面談したという。家康に諫言できる数少ない重臣の一人だ。
家康の三河時代、即ち徳川創業期、家臣としては酒井忠次と石川数正が「両家老」で突出し、次にランクされたのが旗本先手役の忠勝である。切り込み隊長だ。 13歳の初陣ー永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、尾張・大高城の守りについていた松平元康(後の家康)に従って出陣した。元亀元年(1570)の近江(滋賀県)・姉川の戦で先陣で大活躍したが、武名を高めたのは、同3年の遠江(静岡県)三方ヶ原の戦での前哨戦・一言坂の戦いだ。 現在の磐田市で、武田信玄が2万5千の大軍で家康の居城浜松城に迫り、徳川軍が僅かの兵で偵察に出かけたところを追撃された。 その時、忠勝が殿を努め、一言坂で武田軍を食い止めたのである。その様子をみた武田側が「家康に過ぎたるものが二つあり、唐(から)の頭に本多平八」と褒めそやした。唐の頭というのは、舶来品で貴重だったヤクの毛を飾った兜を指し、平八は平八郎忠勝を指している。 武勇一辺倒ではなく、天正10年(1582)本能寺の変の際、家康は忠勝らわずかな供を連れて和泉(大阪府)の堺から京へ戻る途中だった。途中で、茶屋四郎次郎から信長の死を聞かされた家康は、「仇討をして斬り死にする」ときかなかった。 が、忠勝は家康を宥めて伊賀(三重県)越えで三河に戻った。この時、忠勝の諫言がなかったら,後の家康はなかった。 忠勝は家康の関東移封に伴って上総(千葉県)の大多喜10万石に封ぜられ、新しい城と城下町を造った。現在、地元では、忠勝を大河ドラマに取り上げるよう、運動を展開中。
本多というと「徳川四天王」の一人に数えられる本多忠勝が有名だが、しかし、トップである家康を支えたナンバー2の参謀役としての政信の方が大きな役割を果たした。 永禄6年(1563)に戊発した三河一向一揆(愛知県)で一揆側に属して出奔。後、同僚だった大久保忠世の取りなしで帰参がかなう経歴があった。 四天王のような武功が全くない政信が家康の帷幄(本陣)に加わったのは、天正13年(1585)石川数正出奔事件が関係した。 酒井忠次と並び「両家老」として重用された数正が豊臣秀吉に引き抜かれた時、さすがの家康も狼狽し、「岡崎城を誰に守らせたらよいか」と政信に声をかけた。すかさず政信は「本多作左衛門重次がよろしかろう」と即答し、家康は採用した政信は家康の家臣団一人一人の情報を持っていたのだ。情報収集能力は参謀に欠かせない資質だった。 注目すべきは政信の待遇である。天正18年(1590)小田原攻めの論功行賞で秀吉から関東に移封された時、井伊直政に12万石、本多忠勝と榊原康政にそれぞれ10万石が与えられた際、政信には1万石しか与えなかった。 権限を持ち、その上に禄高まで多く持つと、力を持ちすぎるーという家康の判断だった。 これは後の江戸幕府の大名配置のベースになった。外様大名は禄高は多くするが、幕府の要職には就かせず、禄高の低い譜代大名を老中や奉行につけるシステムが出来上がった。因みに、国宝の信州・松本城を築城したのは石川数正である。
有名なキリシタン大名だが、彼が起こした「岡本大八事件」によって江戸幕府がキリスト教禁止を徹底するという、皮肉な結果をもたらした。 肥前(長崎県)有馬の領主有馬義貞の次男だが、兄義純が若くして亡くなり、元亀2年(1571)家督を継ぎ、日之江城(同県南島原市)の城主となった。 天正8年(1580)イエズス会の巡察使バリニャーノから受洗し、城下には、教育施設のセミナリヨも建てられた。この頃、晴信は龍造寺隆信の脅威にさらされ、イエズス会から武器・弾薬、さらには食量の援助を受け、かろうじて防衛できる状態だった。 バリニャーノの勧めで同10年正月、大村純忠、大友宗麟と共に少年使節をローマに派遣した他、宣教師の要請を受けて領内の多数の神社仏閣を破壊した。 同15年の秀吉の九州攻めで秀吉に屈し、本領は安堵されたが、伴天連追放令により長崎を追われた宣教師らは有馬領に多数移住してきた。 慶長14年(1609)、長崎に入港したポルトガル船グラッサ号を晴信が焼き討ちした時、本多正純の家臣でキリシタンの岡本大八が、幕府から恩賞を賜るよう仲介する見返りに晴信から多額の賄賂を受け取った。 しかし、何の沙汰もないため晴信が正純に質したところ、大八の虚言が判明して大八は投獄された。ところが、大八は獄中から晴信がかつて長崎奉行の長谷川佐兵衛の謀殺を計画したと訴えたため、大八は火刑、晴信も甲斐(山梨県)に流された後、死罪に。 幕府はキリシタン同士が引き起こした事件をきっかけに、イエズス会宣教師が長崎貿易の仲介を通じて政治介入しているーという問題意識が生まれ、禁教性政策を徹底する方向へ舵を切った。
信之は、父昌幸、弟幸村に比べて知名度は低いが、真田家が近世大名として生き残ったのは、文句なく信之の働きがあったからだ。 天正13年(1585)信濃・上田城における第1次上田合戦では、父昌幸と共に一時敵退していた家康軍を撃退している。翌年には上野(群馬県)の真田領支配を任されている。 その頃、昌幸も基本的には家康に属しており、信之は家康の重臣本多忠勝の娘子松姫を娶っている。小松姫は家康の養女として嫁いできており、関ヶ原の合戦で親子兄弟が東西に分かれて戦う伏線となった。 関ヶ原の直前、慶長5年7月、真田父子は家康と共に會津の上杉を討つため出陣し、途中、下総国犬伏(栃木県佐野市)に到着した時、石田三成からの密使が三成挙兵を知らせてきた。 3人は、真田家の去就について話し合った。信之は当然、家康方につくことを主張した。が、幸村は三成の盟友であり、三成方の主要メンバーだった大谷吉嗣の娘を娶っていた関係で三成方につくと主張した。 昌幸も領土問題で家康と争った経緯があることから、結局、親子兄弟が分かれることになった。 注目されるのは、勝敗がついた後、信之は自分の戦功に代え、父と弟の助命を家康に嘆願したのだ。2人は処刑されるところを、家康は九度山への蟄居で済ませた。 慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、信之は病気であったが、子信吉は徳川方先鋒として、大活躍した。(8日の便覧「真田幸村」参照)
家康の次男。母は家康の側室於万の方で、遠江(静岡県)宇布見村の豪農の家で産声を上げた。幼名・於義丸。3歳の時、初めて父と対面した。 天正12年(1584)12月、小牧・長久手の戦の後、家康と秀吉が講和した時、家康は於義丸を人質として秀吉に差し出した。秀吉は於義丸が元服の時、名乗りの一字を与えて秀康と名乗らせた。実はこれが不運の始まりだった。 家康の長男信康が同7年、切腹させられ、本来なら秀康が徳川家を継ぐ立場にあったが、秀康は秀吉の養子となり、河内(大阪府)で2万石の豊臣大名となっていたことで、後継者候補から外れ、結局、家康の傍で育った秀忠が家督を継いだ。 同18年の家康関東移封の時、下総結城(茨城県結城市)の大名結城晴朝から養子斡旋を頼まれた秀吉は、自分の養子として必要がなくなった秀康を結城家の養子に出した。体のいいお払い箱であった。 秀康は世をすねることなく、10万1千石の大名として秀吉の朝鮮出兵時の名護屋(佐賀県唐津市)在陣、伏見城(京都市)普請などの任務をこなした。 関ヶ原の合戦では、家康から「徳川本隊は秀忠が率いる。そちは上杉の備えとして宇都宮に陣取ってくれ」と指示され、一時は断ったが、家康の説得で宇都宮に。 実際、上杉軍の家康、秀忠軍追撃を防ぎ、東軍勝利に貢献し、論功行賞で越前(福井県)その他75万石を与えられた。弟秀忠が2代将軍になってゆくのを複雑な思いでみていたに違いない。
家康の長男として生まれながら21歳の若さで父に切腹させられた悲運の武将だ。 切腹を指示したのは、家康と同盟関係にあった織田信長で、「自分の代は家康より自分の方が上だが、子の代になったら、俺の子信忠より信康の方ができがよく、逆転される」と心配し、信康に嫁いでいた娘の五徳からの密告を理由に、死に追い込んだ。 「築山殿事件」と呼ばれているが、近年、別の解釈、即ち徳川家の御家騒動を唱える歴史家も多い。家康は版図を三河(愛知県)から遠江(静岡県)まで広げると元亀元年(1570)居城をそれまでの岡崎から浜松へ移し、12歳の信康を岡崎城に残した。 重臣の平岩親吉らを付けたが、本来、親から子へ伝える帝王学を教える機会がなかったのだ。戦いには滅法強かったことが信康の自信になり、父や親吉らのコントロールが効かなくなったため、家臣たちから、主君として相応しくないと判断され、切腹に追い込まれたようだ。
家臣は三河武士が主力だったが、滅ぼされた戦国大名の遺臣を大量に取り込んだのが特徴だ。今川家を滅ぼした際は、今川家の家臣を寝返りさせて家臣とし、織田信長が武田氏を滅ぼした時は、武田氏の旧臣を大量に取り込んだ。天正18年(1590)秀吉に滅ぼされた北条氏の遺臣も登用した。 それぞれの大名に、有能な家臣がいたのを知っていたのだ。いってみれば、徳川家臣団は、三河家臣団と今川、武田、北条といった信長、秀吉、家康によって滅ぼされた遺臣たちで成り立っていた。 実際、家康は今川、武田、北条の3戦国大名の先進的領国経営を取り入れて後の幕藩体制的支配のモデルとなった。 また、バランス感覚の良さも指摘される。「懐刀」といわれた、相談役の本多正信は1万石しか与えず(後に2万2千石)、武闘派の本多忠勝、榊原康政、井伊直政らは10万石以上だった。「権あるものは少なく」が家康の考えで、関ヶ原以後の外様大名の扱い方に共通していた。 外様大名は禄高は大きいが、幕政には参加させず、老中などは禄高の低い譜代大名をあてるシステムにつながってゆく。 こうした家康にとって最大のミスがあった。関ヶ原の合戦で西軍の大将となった毛利輝元を存続させたことだ。毛利は安芸・長門・周防など120万石の大大名だったが、家康は輝元を周防・長門の30万石に減封しただけだった。改易しておれば、幕末の維新騒動は起きなかったのだ。実に大きなミスであった。
豊臣秀吉系譜の最後。武田氏滅亡の後、父昌幸が越後の上杉景勝に属した時、人質として春日山城(新潟県上越市)に行き、その後、昌幸が秀吉に属した時には大坂城へ行っている。この人質時代に、上杉軍法や豊臣軍法を身につけた。初陣は天正18年(1590)の秀吉の小田原攻めで、24歳だった。上野(群馬県)の松井田城、箕輪城攻めで軍功を挙げた。 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、兄信之が東軍家康方につき、昌幸と幸村は西軍石田方として居城の上田城(長野県)に籠城し、徳川秀忠率いる東軍主力を釘づけにしたのは有名だ。 9月15日の合戦には間に合わず、西軍があっけなく敗れたため、昌幸・幸村親子は高野山麓の九度山に蟄居させられ、昌幸はそこで没した。 同19年の大坂冬の陣で、豊臣秀頼の要請を受けて、諸方に散らばっていた元家臣を集め、手勢100人ほどで大坂城に入った。しかし、軍師としての扱いは受けず、実権を握っていた大野治長らの主導で出撃論は否決され、籠城に。 幸村は一番危ないのは惣構えの南側とみて、そこに出丸を築き、守りについた。世にいう真田丸で、冬の陣で最大の激戦地となった場所を守りぬいた。 結局、力攻めでは落とせないと知った家康は講和を持ちかけ、冬の陣は終わった。翌年の夏の陣では、籠城は無理と見て城外へ打って出て、家康の本陣に肉薄したが、そこで壮絶な最期を遂げた。寡兵で大軍にあたってゆく、戦国武将らしい生き方に多くの人は魅了されている。 徳川方からも「真田日本一の兵(つわもの)」と称賛された。真田家は兄信之が家を残し、幸村は名を残した。 真田丸は来年の大河ドラマに登場する。
一生の間に主君を10人も変えたことで、後世の評価は芳しくない。しかし、自らの生きる道を自分の力で切り拓いていった武将であった。 弘治2年(1556)近江国犬上郡藤堂村に生まれた。父虎高は地侍で浅井長政に属しており、高虎は元亀元年(1570)6月の姉川の戦いに初陣した。 何人かの武将に仕えた後、秀吉の弟秀長に仕え、頭角を現した。秀長の死後は秀吉に仕え、伊予国(愛媛県)で7万石の大名に。瀬戸内海に面し、水軍の多い土地柄で、水軍の将になった。 秀吉死後は、「次の政権は家康」と見ぬいて慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で東軍に属して家康の天下取りに貢献した。 加藤清正と並んだ築城名人で、居城だった伊予の宇和島城、大洲城、今治城はじめ伊勢国(三重県)の津城、伊賀国(同)の伊賀上野城などは名城として有名だ。 築城術を家康に認められ、丹波篠山城(兵庫県)など大坂城包囲網の築城に関わった。一芸に秀でていたため豊臣恩顧の大名だったにも関わらず、近世大名として生き抜くことに。 最終的には、津城主32万石余の大大名となって藤堂家は幕末まで続いた。
通称の又兵衛で知られる。播磨(兵庫県)の生まれで、父新左衛門は別所氏の家臣だったが、後に小寺政職に仕え、幼少の頃から黒田官兵衛に養育されて、官兵衛の子長政とは兄弟同様に育てられた。 叔父の藤岡九兵衛が荒木村重と小寺による謀反に同調したため、信長に一族同罪ということで追放された。その後、秀吉の家臣仙石秀久に仕えたが、やがて長政に呼び戻され、官兵衛・長政2代に仕えた。 長政の右腕として活躍し、第1次朝鮮出兵、文禄の役の晋州城攻めでは一番乗りで名を挙げた。関ヶ原の戦では長政隊の先手を努め、長政が筑前(福岡県)52万石を与えられると、同国嘉麻群大隈城代となり、1万6千石を拝領した。「黒田24騎」の一人。 ところが、又兵衛が細川忠興ら大名と親密になったことで長政と不仲になり、又兵衛は翌年、黒田家を出奔。長政は又兵衛が黒田家の内情に詳しいことを懸念し、他家に仕官することを警戒して妨害した。 ために又兵衛は浪人するしかなく、大坂に隠棲していた。慶長19年10月(1614)、大坂城の豊臣秀頼が諸国の兵を募っていることを知って大坂城に入った。真田幸村、長曾我部盛親、毛利勝永と共に重視され、11月26日、冬の陣最大の激戦となった今福・鴫野の戦で大活躍した。 翌年の夏の陣では、真田隊・毛利隊と力を合わせ、道明寺(大阪府藤井寺市)で徳川方を迎撃する手はずで出陣したが、5月6日、真田隊・毛利隊が到着する前に敵が接近したため、2800名の兵で防戦し、敢え無く討死してしまった。 大坂夏の陣の立役者の一人。猪突猛進型の豪傑、というイメージがあるが、冬の陣では講和を秀頼に進言したことが知られている。
京極氏は、北近江(滋賀県)の守護大名だったが、高次の祖父高清の時、被官(家臣)の浅井亮政の国人一揆に近江を追われ、戻った後は浅井氏の客将的な扱いを受けていた。 元亀元年(1570)浅井長政が信長に反旗を翻した頃、信長に接触し、3年後に信長が将軍足利義昭を山城(京都府)の槇島城に攻めた時、従軍した。 天正10年(1582)本能寺の変の際、明智光秀は京極氏の旧臣で浅井氏の遺臣でもあった阿閉(あつじ)貞征に、京極の再興を名目として北近江の浪人を集めて秀吉の居城長浜城を攻めさせた時、高次は加わった。 続く山崎の戦で光秀が敗れ、立場を失った高次は美濃(岐阜県)に逃れた。高次の探索にあたった堀秀政は先祖が京極氏の旧臣だったため、高次を密かに越前の柴田勝家の元に落ち延びさせた。 だが、そこも安泰ではなく、翌年の賤ヶ岳の戦で勝家が敗れると、再び浪人に。いかに鷹揚な秀吉でも、2度までも敵対勢力に属した者の帰参は許すはずがなかったのだが、高次の姉龍子が秀吉の側室になったことで赦され、2千5百石を賜り、次いで5千石、同15年には1万石の大名になった。 しかも、浅井長政とお市の方の娘で、茶々(淀君)の妹初を娶っており、悲願の京極家再興がなった。 姉の力で世に出た形だが、妻初の力も貢献した。関ヶ原の合戦で、高次は初めは西軍に属したが、途中から東軍に加わった。初の助言であった。大津城に籠城して立花宗茂ら西軍の精鋭1万5千人を釘づけにして、東軍勝利に大いに貢献した。 先見性を持っていた初には、生涯、頭が上がらなかったであろう。
安芸(広島県)の守護は武田氏だった。同族甲斐(山梨県)の武田氏は戦国大名として生き残ったが、安芸武田氏は武田信重の時、天文10年(1541)国人一揆から力をつけてきた毛利元就に居城・銀山城(広島市)を攻め落とされた。 落城の寸前、信重の遺児竹若丸は城を脱出し、安国寺に逃れた。竹若丸は安国寺の住持竺雲恵心の下で出家し、恵瓊となった。一時は武田氏再興の夢を持っていたが、夢もしぼみ、永禄12年(1569)安国寺の住持に。 その頃から毛利氏の使僧として活躍し、天正元年(1573)元就の孫輝元が足利将軍義昭の処遇をめぐって織田信長と交渉した時、毛利川の代表として信長の元に赴いた。 この時、交渉の経過を恵瓊が輝元の家臣に報じているが、「信長の代、5年、3年は持たるべく候。明年辺りは公家などに成らるべく候かと見及び申し候、高ころびにあおのけにころばれ候すると見え申し候」と、本能寺の変を予言している。 変の直後、羽柴秀吉との和平交渉でも毛利側代表として臨んだ。秀吉は、その後、恵瓊を毛利氏から引き離し、天正13年(1585)6月の諸国攻めの後、恵瓊に伊予(愛媛県)2万3千石を与え、豊臣大名の一員に。 普通なら、ここで還俗して元の武田氏を名乗り、御家再興を考えるのだが、そのまま。僧侶を続け、京・東福寺の224世住持になった。 関ヶ原の戦では石田三成と相談の上、輝元を西軍総帥に据えた。しかし、小早川秀秋の寝返りを予知できずに敗れ、10月1日、三成、小西行長らと京の六条河原で斬首された。
堺(大阪府堺市)の豪商小西家の一族の出身。備前・美作(共に岡山県)の戦国大名である宇喜多直家に仕えていて、直家が秀吉を通じて信長に投降した際、その使者を努めた。 天正6年(1578)頃のことで、既に「中国方面司令官」として毛利氏との戦の最前線にいた秀吉との絆を強くしていく。間もなく、父立佐と共に秀吉の家臣となり、播磨(兵庫県)の網干に近い室津に所領を与えられた。 やがて瀬戸内海の塩飽(しわく)から堺にかけての船舶を監督する水軍の大将に抜擢される。船奉行といい、兵站奉行の石田三成と懇意な関係になっていく。 同16年(1588)一揆制圧に失敗した佐々成政の後をうけて肥後(熊本県)南半国14万石を与えられ、宇土城の城主に。北半国は加藤清正に与えられ、共に文禄元年(1592)に始まる朝鮮出兵で先陣として活躍した。 明の枕維敬との講和交渉で行長は日本代表として交渉し、名を挙げた。しかし、明の使節が来日した際、秀吉が期待した講和内容と大きなずれが発覚し、激怒した秀吉は再度の出兵、慶長の役となり、再び朝鮮へ。 関ヶ原の戦では、6千の兵を率いて天満山に布陣し、中山道を抑える重要な場所を任されたが、小早川秀秋の寝返りで行長軍は最初に崩れ、西軍敗北のもとになった。実力が発揮されないまま「負け組」になった不運の武将である。
石田三成に仕えるまでの前歴は、大和(奈良県)の戦国大名・筒井順慶の重臣で、同じく重臣の松倉右近とで、「右近左近」よ並び称されていた。 順慶が没し、養子定次と折り合いが悪くなって筒井家を出奔、浪人となった。声をかけたのが三成だ。三成は当時、4万石の大名だったが、半分の2万石を与えた。秀吉は「君臣の禄相同じといふこと昔より聴きも伝へず。いかさまにも其志ならではよも汝んは仕えまじ」とびっくりしたという。 「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり、島左近と佐和山の城」と謳われた。慶長5年の関ヶ原の戦いでは一軍を率いて奮戦するが、東軍の銃弾によって戦死。これ以外の活躍はみられないが、近年発見された石田三成の判物から左近が三成の直轄地の年貢徴収に関わり、単なる軍師という軍事面だけでなく、家老として領国経営の一端を担っていたことが判明した。