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2015年03月31日(火) |
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幕末の剣豪 森要蔵(35) |
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当の左源太は寛永4年(1627)病死し、同じ年に正貞は高遠を出奔、諸国を流浪するのである。
これによって世継ぎ問題は解決した。正光は寛永8年、亡くなり、成長して幸松から改めた正之が保科家を継承した。
一方、高遠を出奔した正貞は諸国流浪しながら仕官の道を探った。だが、思うように捗らず、辛酸の年月が過ぎた。
老中酒井忠世や桑名藩主松平定勝らに
「幕臣として仕官できるよう、お取りはかりいただけまいか」
執拗に頼んで回った。
神は彼を見捨てなかった。 |
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2015年03月30日(月) |
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幕末の剣豪 森要蔵(34) |
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成長して保科家を継いだ正光だったが、実子がなかったため、文禄3年(1594)異母弟の正貞を養子に迎え、さらに親戚筋の真田左源太を養子にしていた。
しかし、元和3年(1617)2代将軍秀忠の側室の子幸松(7歳)を養子に迎えることが決まり、翌年5千石を加増されて3万石となった。
将軍家から養子を迎えたことから、複雑な世継ぎ問題が浮上した。元和6年、将軍家への気遣いからか、正貞を「気違いもの」として世継ぎから外すよう、正光は遺言を残す。
この時、左源太については「それなりに処遇してほしい」と言い残している。 |
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2015年03月29日(日) |
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幕末の剣豪 森要蔵(33) |
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慶長7年(1602)徳川家康は征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開いた。 そして大坂冬の陣、夏の陣を経て豊臣秀頼は死亡、豊臣家は滅亡する。
ところで、家康の母於大は、はじめ徳川広忠と結婚して家康を産んだ後、離縁されて尾張・阿久比城主久松俊勝の後添えとして再婚し、多劫を産んだ。多劫は家康にとって異父妹にあたる。
その多劫は高遠藩主、2万石保科正直と結婚、正直を産んだ。保科家もまた徳川家の縁戚関係にあるのだ。
正直は、それより前に拍心妙貞尼(高遠城の戦いで自刃)と結婚して長子正光が産まれていた。 |
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2015年03月28日(土) |
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幕末の剣豪 森要蔵(32) |
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さらに天正13年(1585)、小笠原貞慶が3000余名を率いて高遠城に攻めてきた時、地形を利用した独創的な戦術でこれを破って武名を上げ、家康から「包永」(かねなが)の太刀と感状を与えられた。
これらは、保科家宗家の家宝として代々引き継がれ、現在、包永は国の重要文化財に指定されている。
4代正光は家康の関東移封に従って天正18年(1590)下総国多胡(現千葉県香取郡多古町)に1万石を与えられ、慶長5年(1600)11月、関ヶ原合戦のの後に再び、高遠城主になり、2万5千石を賜った。 |
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2015年03月27日(金) |
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幕末の剣豪 森要蔵(31) |
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3代正直は天文11年(1542)に生まれ、武田親子に仕えた。
武田氏滅亡後の天正10年(1582)徳川家康に仕え、高遠城主として2万石を領し、同12年家康の異母妹多劫(たこ)姫を妻に迎えた。
同年、家康の木曽・妻籠城攻めの時や同13年、家康が真田昌幸を信州・上田城に攻めた時、
「保科の名を挙げよ」
と自ら殿(しんがり)を勤めて退き、武功を挙げた。家康にとって義兄弟にあたる正直は自らの地位を確実にしたようだ。 |
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2015年03月26日(木) |
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幕末の剣豪 森要蔵(30) |
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ここで會津藩と飯野藩の縁について述べる。保科家は元々、信濃国高井郡保科村(現在の長野市川中島)に住み、当初は甲州・武田信玄の支配下にあった。
『寛政重修家譜』によれば、初代正則は保科村に生まれ、後に信濃国伊那郡高遠村(長野県伊那郡高遠町=合併で伊那市)に移った。
2代正俊は永正4年(1507)生まれで、始め諏訪氏に仕え、しばしば武田信玄と戦ったが、天文18年(1549)武田氏に下り、信玄や嫡男勝頼の武将として勲功を立てて「槍弾正」と称された。 |
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2015年03月25日(水) |
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幕末の剣豪 森要蔵(29) |
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これに対して
「いや、時代の趨勢は薩長方に傾いている、錦の御旗の前に戦はできない」
と恭順を主張する藩士もいて、藩論は真っ二つに割れた。
「會津を救援すべし」
を主張した森要蔵に同調したのは、家老三宅亘里や八田善右衛門らであった。
対して家老上原平太夫や用人瀬下宗太郎、加瀬小藤らは恭順を主張して譲らなかった。
会議は延々、一晩中続いた。甲論乙駁、論はまとまる気配はなかった。
家老の一人が呟いた。
「二股公約しかあるまい。殿(正益)は、こうなるのを見過ごしておられたのじゃ」
この時、
「藩に迷惑がかからぬように」要蔵は密かに脱藩を決意した。 |
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2015年03月24日(火) |
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幕末の剣豪 森要蔵(28) |
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このため林軍は27日、箱根山を退却し、官軍の追撃を受けながら十国峠を越え、熱海を経て網代湊から館山湾に向かった。
28日未明、館山湾に上陸、その後、飯野藩、前橋藩の藩士は空しく帰藩したのである。
残党は奥州各地で転戦し、10月5日、仙台で降伏したが、飯野藩士の隊長だった大出辰之助のように、函館・五稜郭の戦いまで参戦した者もいた。
同じ頃、藩主不在の飯野藩では、170名ほどしかいなかった藩士が本陣に集まって藩としてのとるべき道を決める話し合いを持った。
「本家筋の會津藩を救うのが武士道ではないか」
「會津藩祖・保科正之公の御恩を忘れてはなるまいぞ!」
會津藩と飯野藩の深い縁を思う時、救援を力説する声は大きかった。 |
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2015年03月23日(月) |
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幕末の剣豪 森要蔵(27) |
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こうした一連の騒動で飯野藩や前橋藩から藩士20名が林軍に参加した。林軍は房州一帯を襲って隊士を増やし、200名を超えて士気は大いに上がった。
4月10日には館山湾から相州へ渡り、箱根の山中村に本陣を構えて箱根関所を占拠し、官軍の軍監仲井五郎を斬殺した。
また、小田原藩へ軍資金を要求し、千5百両と米200表を巻き上げた。同月26日には、長州、岡山、鳥取、藤堂藩兵と湯本、山崎で激戦を交え、戦死者35名、行方不明15名の損害を受けた。
中でも、房州・勝山藩士は戦死者15名と損害が最も大きかった。 |
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2015年03月22日(日) |
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幕末の剣豪 森要蔵(26) |
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4月3日、藩士70名、遊撃隊士36名を率い、大砲を1発放って請西の真武根陣屋を出立した。
途中、佐貫藩主や幕臣撤兵隊(さっぺいたい)も合流して富津陣屋に迫り、陣屋を包囲した。武器、食糧の提供を強要したばかりでなく、藩士の参加も求めたのである。
陣屋は当時、江戸湾防備を終えた會津藩士の後を引き継いだ前橋藩が駐留していた。林軍の攻撃に抗することができず、前橋藩の家老小河原佐宮は切腹して陣屋を明け渡し、大砲6門、小銃50丁に千両を提供した。
◇ ◇ ◇
昨夜は久しぶりに日本酒を飲んだ。親父が生存者叙勲で勲5等双光旭日章を受賞した際、下賜された菊の紋章いりの金杯で。素晴らしい器で飲む酒があんなに甘く、おいしいものと感じたことはなかった。お蔭で熟睡!! |
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2015年03月21日(土) |
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幕末の剣豪 森要蔵(25) |
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藩論が二分し、しかも藩主が留守になった飯野陣屋は、厳しい動乱の渦に巻き込まれた。
3月末、上野の彰義隊挙兵で敗れた幕府遊撃隊長、伊庭八郎が隊士を率いて榎本武揚指揮の軍艦海洋丸に乗船して飯野村の隣、木更津村に上陸し、請西藩主林忠崇を説いた。
「何卒、幕府のため御助勢願いたい」
「箱根で官軍の本体を迎え撃って食い止めれば、江戸は救える」
伊庭は忠崇に立ち上がるよう迫った。忠崇は直ちに立ち上がる決心をする。
「将来は、幕閣になる英傑」
とされた忠崇は、他に迷惑が及ぶことを避けるため、藩主自ら脱藩したのである。 |
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2015年03月20日(金) |
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幕末の剣豪 森要蔵(24) |
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4月5日になって、ようやく許されて入京したが、京では謹慎が命じられて身動きがとれないまま、6月19日、謹慎が解かれた。
この後、正益は7月26日、摂津国に行き、石蓮寺村真福寺に暫く留め置かれて10月23日になって東京(7月17日、江戸を東京と改めた)に帰着した。
結局、なにもすることもなく、なんの成果もなく、飯野ー京を往復したに過ぎなかった。
藩内が恭順か會津藩救援かで、真っ二つに揺れたため、藩主自ら京に赴いて
「勤王の志」
を西南諸藩に示したかったのだが、西軍に
「飯野藩は恭順した」
ことを植え付けることは失敗した。
しかし、幕府瓦解後、會津藩は滅亡の憂き目に逢ったが、飯野藩は何らの処罰設けず生き延びた。 |
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2015年03月19日(木) |
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幕末の剣豪 森要蔵(23) |
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対岸の浦賀で尾張藩の船に乗り換えて18日、伊勢国四日市に上陸した。京へ、京へと正益は歩を進めた。
しかし、21日、東海道草津宿まで来たところで進軍中の西軍に
「この先はまかりならぬ」
と入京を拒否されてしまった。
正益は、家臣74名、小銃32丁を携えての入京の目的を
「禁裏を御守りするためでござる」
と懸命に弁解した。
ところが2万石の小藩とはいえども、會津藩に近い譜代大名であるのを直ちに見破られてしまったのだ。
◇ ◇ ◇
本日は富津市西川の正珊寺で、改葬なった會津藩士墓地を見に行き、約3週間かかって一人で墓石30基を改葬してくれた地元の多田剛さんへお礼を述べてきた。
重いもので20キロ以上ある墓石を助けもなく、独力で改葬してくれた。
さらに顕彰会役員の鈴木登美子さんは浄財で富津市内の會津藩士墓地4か所と只今、このブログで連載中の森要蔵の墓がある浄信寺に併せて5か所に案内板を顕彰会名で作っていただいた。いずれも富津市民へ郷土史に関心を持ってほしいーとの願いから。お蔭で今年の慰霊祭は胸を張って参列者を迎えられる。 |
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2015年03月18日(水) |
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幕末の剣豪 森要蔵(22) |
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それまで飯野藩は2万石の小藩ながら、親藩の雄會津藩との関係で幕府から重用されてきた。正益は慶応2年(1866)若年寄となり、同年7月の第2次長州藩征討のための幕府軍に参加した。
石州(石見国ー現在の島根県)口の指揮を命じられたが、間もなく、沙汰やみとなって10月13日、大坂に戻った。さらに、京都に移り、翌3年正月、江戸へ戻った。
そして同年7月、若年寄を辞するーという、まことに慌ただしい情勢になった。2月まで、品川宿関門の警備を命じられ、、その後、12月から翌4年正月まで正益は飯野で過ごした。
しかし、何を思ったのか、3月11日になって急に
「入京いたすぞ」
と家臣に告げて慌ただしく青木浦から出航したのである。 |
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2015年03月17日(火) |
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幕末の剣豪 森要蔵(21) |
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しかし、家老西郷頼母らは強硬に反対した。
「民が可哀想である」
と。要蔵の建議は退けられた。要蔵は
「ああ、民を憐れんで社稷を滅ぼすか!」
と長大息して肩を落とした。
これより要蔵は、討死の覚悟を固く決めたようであった。その様子を肌で感じた門弟たちも、先生の悲壮な覚悟を知っていやが上にも緊張した。
その頃、房州・上総国周准郡飯野村の飯野藩保科家ではー。江戸屋敷から戻った9代藩主保科正益(まさあり)は苦悶の日々を送っていた。
藩論が、
「理は會津藩にある。何故に朝敵なのか?」
という佐幕派と
「朝廷に逆らうことはできぬ」
という恭順派で真っ二つに割れていたからだ。 |
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2015年03月16日(月) |
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幕末の剣豪 森要蔵(20) |
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早速、本丸で軍議が開かれた。西軍に対抗するため、會津藩を中心とする同盟軍は当時、藩主不在だった白河城を守ることだった。
白河城(別名小峰城)は奥州街道の入り口にあり、陸奥から會津へ抜ける、いわば玄関口にあたっていた。
要蔵は一同を見渡しながら戦略を建議した。
「岩城平から會津まで焼け野原とする。さすれば西軍は會津まで来ること難しかるべし」
いわゆる”焦土作戦”を主張したのだ。この作戦では、無縁の百姓や町人が大変な被害を受けるのが目に見えている。
後に「鬼官兵衛」といわれる會津藩家老佐川官兵衛は、要蔵の申し出た大胆な作戦に同意した。 |
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2015年03月15日(日) |
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幕末の剣豪 森要蔵(19) |
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照姫は、飯野藩8代保科正丕(まさもと)の息女だ。天保13年(1842)、親藩である會津藩8代藩主松平容敬の養女となり、中津藩(大分県)10万石藩主奥平昌服(まさゆき)に嫁いだが、間もなく離縁となって會津藩の江戸上屋敷引き揚げ(慶応4年3月)と共に會津に戻っていた。
美濃・高須藩から松平容敬の養子になっていた9代容保にとっては義姉にあたる。
照姫は、8月23日からの籠城戦では、婦女子580人の先頭に立って負傷者の手当てや防火、弾薬運びなどに懸命な働きをみせ、5000人の兵士を励ますのである。 |
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2015年03月14日(土) |
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幕末の剣豪 森要蔵(18) |
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城内の會津藩士の中には、
「飯野藩から援軍、数千!」
と触れ回る者もいて、救援到着に城内の士気はいやが上にも上がった。
言上の間もなく懐かしい姫君が要蔵らの前に姿を現した。照姫である。まだ籠城戦は始まっておらず、元気そうな、たおやかな表情に要蔵は思わず目頭が熱くなるのを抑えきれなかった。
「御苦労に存じます」
優しく言葉をかける照姫。
「姫さま!」絶句する要蔵。口から言葉が出なかった。
◇ ◇ ◇
今日は御袋の13回忌である。早いもので亡くなって12年が過ぎた。この間、會津の墓参にも行けず、忸怩たる思いが募る。
せめてと、仏壇に御袋の好きだった花を供えて供養。般若心経もいつもより心を込めて読み上げた。気分は少し爽やか。 |
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2015年03月13日(金) |
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幕末の剣豪 森要蔵(17) |
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驚いた攻撃軍は本丸突入を諦めて、暮れ六つには退却した。大田原城攻撃はやがて上総の飯野村まで噂となって届いた。
「森先生は大田原城落とした」
と。
一行は大田原城占拠を断念して奥州街道を進み、會津へ向かった。鶴ヶ城に入ったのは、5月上旬だった。
要蔵は、お城で會津藩主松平容保に会い、平伏して力強く言上した。
「飯野藩剣術指南、森要蔵にございます。藩士と門弟一同を引き連れて御助勢に駆けつけましてござりまする」
幕府を支えてきた佐幕派の諸藩の多くが「錦の御旗」の前に次々と討幕派に寝返っていた時期だけに、容保は大いに喜んだ。
「長い道中、ご苦労であった。よしなにな。まず、体を休めよ」
と労いの言葉をかけ、一行を心から歓迎した。 |
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2015年03月12日(木) |
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幕末の剣豪 森要蔵(16) |
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大田原藩主・大田原勝清は当時、7歳だった。11400石の小藩で、いち早く官軍に味方すると旗幟を鮮明にしていた。
藩主勝清は、これより先に国境防備にため出撃して城を出ており、城内に残っていた藩士は数百人だった。
5月2日7つ半、森軍(実際には、會津藩士原田主馬の指揮下にはいっていた)は火蓋を切って攻めた。要蔵率いる保科家脱藩隊は城の西側にある華陽門から城内に突入し、坂下門の三日月堀を廻って土塁によじ登った。
「やあ、攻めろ!」
「それ続け!」
鋭い時の声を上げて要蔵を先頭にした攻撃軍の鋭い切り込みで二の丸、本丸と次々攻め落ととされ、「落城近し」と思われた。
が、この時、火薬庫が大爆発を起こした。 |
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2015年03月11日(水) |
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幕末の剣豪 森要蔵(15) |
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翌日は、陽が昇る前に出立したが、この間に人数が一段と増えた。幕臣や諸藩の脱走兵が次々と仲間に入ってきたのだ。
宇都宮に着く頃には、これらを集めて1000名に膨れ上がった。意気は上がる一方だ。
勇躍、大田原城を目指した。この城は別名龍体城とも呼ばれた。丘陵に建ち、本丸だけが最も高い所に建っており、二の丸とは3間余の高低差があったため、攻めにくい城だった。
森要蔵は日頃から、
「関東において寡兵(敵の兵力より少ない兵力)で容易に堕ちる城は大田原城だ」
と話していたので、まず、手始めに攻めることにした。 |
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2015年03月10日(火) |
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幕末の剣豪 森要蔵(14) |
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これより、ひと月前ほど前の3月15日、江戸城は幕府側勝海舟と官軍西郷隆盛の会談で無血開城と決まり、江戸八百八町は戦禍を免れた。そして4月11日、官軍が入城した。
これを不満とした旗本らは上野の山に「彰義隊」と称して立て籠もり、官軍と一戦を交えたが、敢え無く敗れた、その後だった。
敗軍となった彰義隊の一部は要蔵の部隊に合流した。負傷して白い布を頭に巻いた武士たち。傷ついた足を引きずりながら、黙々と歩き続ける。
落人武者の中にあって要蔵の一行は元気溌剌だった。やがて草加宿、越谷宿、粕壁宿へ辿ってゆく。この日は幸手宿で草鞋を脱いだ。 |
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2015年03月09日(月) |
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幕末の剣豪 森要蔵(13) |
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要蔵は、この夜は道場で暫くぶりに体を延ばしてゆっくり休んだ。
「再び江戸へ帰る日がやってくるか!」
考えているうちに、いつしか要蔵は深い眠りに落ちていった。
翌朝、28名になった一行は、風雲急を告げる江戸城を後に、勇躍、まだ見ぬ會津へ向けて江戸を発った。
一行は、若い武士が中心だけに五体壮健で心気溌剌、矜持が胸に滾(たぎ)っている風情だ。足取りも軽く、千住宿から奥州街道へ進む。 |
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2015年03月08日(日) |
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幕末の剣豪 森要蔵(12) |
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要蔵は、義憤を感じた救援に手を貸してくれるよう、門弟たちに呼びかけた。北辰一刀流森道場の門弟は直参旗本や大名家の子弟たちだ。
「天下無双」といわれた要蔵の名声に、門弟は一時は800人を超え、江戸でも指折りの名門道場であった。
が、しかし、幕末になって急に門弟の数は少なくなった。それでも、師範要蔵の訴えに、10人が同意した。
「薩長、なにするものぞ!」
「先生に御助勢仕る!」
薩長軍に傾きつつある天下の形勢を、将軍家直臣の子弟たちは知っていた。それでも将軍家存続を願う彼等は
「會津藩救援」
に否応なく賛同したのだ。 |
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2015年03月07日(土) |
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幕末の剣豪 森要蔵(11) |
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しかし、伊藤英臣は帰途、百姓屋で刀を金に替え、ようやく飯野へ辿り着いた時は、乞食同然の姿であった、という。
江戸に向かう一行の中で要蔵の次男寅雄16歳の姿があった。森らは検見川宿で一泊し、翌3日夕刻には、江戸は赤坂・永坂町の森の剣術道場に到着した。
要蔵は、道場に着くとすぐに門弟らを集めて、此度(こたび)の決起について経緯(いきさつ)を語った。
「わが飯野藩の本家筋にあたる會津藩が朝敵の汚名を着せられて薩摩、長州、土佐藩など西国諸藩の討伐の目標になってしまった。
我が藩は二股公約で中立を守るという、不甲斐なさ。是非もない、會津藩を救援することこそ武士の大義である。會津藩を救援するため脱藩してきた」 |
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2015年03月06日(金) |
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幕末の剣豪 森要蔵(10) |
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最年少は14歳の伊藤英臣。脱藩する時に父に願って黄金作りの太刀を頂いてきた。會津で西軍との戦で、いよいよ敗色濃厚となるや、森要蔵は英臣を呼び寄せ、
「お前は体も弱いし、第一、年も若い。一緒に最期を迎えるのは忍びない。飯野へ帰るがよい」
と諭した。
対して英臣は顔色を変えて激しく言い放った。
「討死を覚悟で先生の御供をして参りました。年が若いからといっても寅雄さんとはたった二つしか違いません。帰るのは嫌です」
暫く押し問答が続いたが、要蔵の
「お主には明日がある。飯野藩のため尽くすのじゃ」
との諭しを英臣が聞き入れ、ようやく飯野へ帰ることになった。 |
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2015年03月05日(木) |
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閑話 |
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2日の朝日新聞に中国で「三角縁神獣鏡」が発見されたーの記事。歴史的には大変な特ダネだが、読売、毎日に後追いの記事がなかった。
神獣鏡は2000年ごろ、洛陽の骨董市で地元研究者が手に入れた、というが、発掘場所などは不明。
神獣鏡は「魏志倭人伝」によれば、3世紀末、魏の皇帝が邪馬台国の女王、卑弥呼に「銅鏡」百枚を贈ったと記述されている。国内からは、宮崎県から福島県まで約60枚が発掘され、初期ヤマト政権との勢力範囲がわかる、貴重な遺物だ。東北地方では唯一、会津若松市の大塚山古墳から出土している。
実は昭和40年代、千葉県木更津市内の宅造地でも出土したが、業者は「知らなかった」と放棄したため行方不明に。
中国では、1枚も出土していないため、「国産ではないか」を主張する研究者もいた。洛陽で発見された鏡の出所不明ーが問題。共産党独裁国家で古代の遺物を守るような意識は低く、発掘場所確定までたどり着けるか? |
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三角縁神獣鏡 |
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2015年03月04日(水) |
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幕末の剣豪 森要蔵(9) |
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男たちは、譜代大名飯野藩2万石保科家の剣術指南役、森要蔵を棟梁に従う若い藩士たちであった。
勝俣音吉、花沢金八郎、小野光好、小野悦三郎、小松維雄、野間好雄、大出小一郎、小林寅之助、玉木仙之助、伊藤英臣らだ。
玉木仙之助が27歳で最年長、北辰一刀流の免許皆伝をもつ腕前だ。花沢金八郎は18歳、後は15〜17歳の若者たちである。
金八郎は身の丈が抜群に高く、常に朱鞘の太刀を腰に、見事な風采だった。腕前も飯野藩若侍の中で、要蔵の次男寅雄と並び”竜虎”といわれた。 |
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2015年03月03日(火) |
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幕末の剣豪 森要蔵(8) |
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一行は、寺の中央にある飯野藩2代藩主・保科正景の墓所にそろって額づき、手を合わせて静かに首を垂れた。みな、決意を胸に秘めた、厳しい顔つきだ。
「では、参ろう」
年長者の言葉に
「いざ、参りましょう」
「いざ!」
若々しい言葉が返る。一行は静かに歩み始めた。向かうは江戸。武芸者らしく歩みは早い。
陽が昇る頃には、飯野村を外れて江戸湾沿いに北上、中野村から木更津村へ抜けていた。浦賀水道の波は凪で朝日を照らしていた。朝の早い漁師たちの姿もない。 |
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2015年03月02日(月) |
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幕末の剣豪 森要蔵(7) |
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慶応4年4月20日払暁、上総国周准郡(すえごうり)飯野村の浄信寺。飯野藩2万石保科家の陣屋から半里ほど離れている。
男たちが一人、二人、三人と集まってきた。いずれも、たっつけ袴に、ぶっさき羽織の旅姿。両刀を手挟んでいる武士の一団である。いずれも若い。15,6歳と思しき者もいる。
総勢が10数人になったろうか、やがて
「おぬしたち、これで揃ったかな」
年長者らしい男が静かな口調で口を開いた。
長い顎鬚をはやし、白髪が混じっている総髪が肩まで垂れている。剣豪の風貌、といえよう。背丈は5尺4寸ほど、がっちりした肩。年の頃は50歳を超えていよう。 |
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2015年03月01日(日) |
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幕末の剣豪 森要蔵(6) |
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密勅は、
「汝、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮(てんりく=殺しつくす)し(以下略)」
という凄まじい字句で綴られ、前例をみない文面であった。
偽の密勅を手にした薩長両藩は、にわか作りの錦の御旗を押し立てて
「江戸へ」
「會津へ」
と進撃した。
錦の御旗の前に各藩はひれ伏した。御三家の尾張、紀州藩はじめ、親藩、譜代の大名が悉く参陣した。 |
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鶴ヶ城に押し寄せた西軍 |
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