河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2015年07月31日(金) 戦国武将便覧(12)
      松永久秀(1510〜77)

 将軍足利義輝を殺し、主君だった三好長慶の妻を奪って側室とし、奈良・東大寺の大仏殿に火をかけたと、久秀には悪逆の限りを尽くしたとのイメージがある。しかし、そんな久秀を信長は高く評価していた。
 久秀と信長の関係は永禄11年(1568)、信長が足利義昭を擁して上洛した時、名物茶器として有名な「九十九茄子」を信長に献上したのに始まると考えられてきた。
 しかし、最近の研究で、その2年前から、三好長逸、三好政康、石成友道のいわゆる三好3人衆との戦いを有利に進めるため、信長の力に期待したと、考えられている.
 信長上洛の頃、大和は筒井順慶の力が強かった。久秀は信長を後ろ盾として戦い、居城の多門城及び信貴山城を中心に織田軍団の一員として各地で活躍した。
 ところが、天正元年(1573)2月、甲斐の武田信玄の上洛が近いとみた足利義昭が、公然と信長に反旗を翻し、久秀も呼応して共同歩調をとった。
 が、信玄が4月に亡くなったため義昭は信長に降伏、久秀も11月に続いた。信長の行動からして裏切り者は許さないのが普通だが、久秀は許された。この後、天正5年(1577)越後の上杉謙信に呼応して信貴山城に立て籠もった。この時も信長は使者を送り、説得している。「(名物の)平蜘蛛の茶釜を差しだせば命を助ける」といわれたのかも知れない。しかし、久秀は頭を下げなかった。同年10月、平蜘蛛の茶釜と共に自爆して果てた。

2015年07月30日(木) 戦国武将便覧(11)
      九鬼嘉隆(1542〜1600)

 熊野別当九鬼氏の一族が志摩国(三重県)英虞郡波切村に移住し、志摩の九鬼氏が誕生した。舟を操ることに長けており、「九鬼水軍」として重用された。
 嘉隆ははじめ伊勢国司の北畠氏の配下にあったが、信長の伊勢進出の時に信長に属し、永禄12年(1569)の伊勢大河内城攻めでは船手の大将として活躍、後に鳥羽城を本城とした。
 嘉隆の名を高めたのは、天正6年(1578)11月のいわゆる大坂湾海戦。信長の命で建造した大型戦艦6隻を率いて毛利水軍を撃破し、石山本願寺への食量運び入れを阻止、本願寺を孤立させた。
 大型戦艦は鉄張りで、毛利水軍による火矢及び焙烙を使った攻撃を撥ねつけた。信長は激賞し、嘉隆に伊勢・志摩で3万5千石の大名に抜擢した。
 信長死後は秀吉に従い、同15年の九州攻め、同18年の小田原攻めでも水軍を率いて活躍。文禄の役(1592)では船手の大将となって嘉隆の船は秀吉から「日本丸」と名付けられ、50余隻を率いて朝鮮に渡り、朝鮮水軍の名将・李舜臣と戦った。
 慶長5年(160)関ヶ原の戦では西軍石田三成方につき、東軍についた嫡男守隆の城鳥羽城を奪って籠城した。
 しかし、西軍敗北の報を受けるや自害。守隆が自信の戦功に代え、父の助命を嘆願、その許可が降りたが、間に合わなかった。

2015年07月29日(水) 閑話
  ◇落語は、仏教の辻説法が起源だった!
 テレビやラジオでお馴染みの落語。その起源はいつか?を調べてみたら、何と仏教の辻説法が起源と判明した。
 江戸時代の寛永20年(1643)生まれの「露の五郎兵衛」という説教僧が、京で仏教の経典や教義を民衆に説き聞かせていた。
 やがて、説教の中に、「こっけいさ」を加えて変化していった、というのだ。
 寛永20年といえば、會津にとっては記念すべき年である。あの名君保科正之が山形から會津23万石の太守として着任した年なのだ。
 義兄にあたる徳川3代将軍家光の篤い信任に応えるべく、正之は幕政や藩政に善政を敷いてゆく。「予は生まれながらにして将軍である」と宣言した家光。
 戦国時代は終わり、のどかな辻説法〜落語が庶民の楽しみになってゆく過程は容易にに想像できる。
2015年07月28日(火) 戦国武将便覧(10)
      荒木村重(1535〜86)

 摂津の土豪から身を起こし、信長の抜擢を受けて摂津1国の支配を任されながら、天正6年(1578)信長に反旗を翻し、その後、織田軍に包囲されていた有岡城(兵庫県伊丹市)をわずかな供と脱出し、自ら命を永らえたことで、卑怯な武将というイメージがある。
 が、実際は、信長につくか、毛利輝元につくかで迷い、毛利を選択したのであろう。卑怯者と描くのは、信長の喧伝ではなかろうか。
 摂津国の支配者として村重は有能だった。現在も伊丹市に一部が残る惣構えの築城を見ればわかる。惣構えは、城と城下町を土塁や堀ですっぽり包むこと。
 北条氏の小田原城は惣構えで有名だが、時期的には村重の築城の方が早い。城下町を総延長4キロ、堀の深さ5〜7メートル、土塁の高さ3〜5メートル。これにより、織田軍の攻撃を1年近くも撥ねつけた。
 結局、有岡城に残された一族・家臣は落城後、皆殺しに逢う。村重と嫡男は尼崎城と花岡城で抵抗を続け、最後には毛利氏の元に逃げて庇護を受け、余生を送った。後年は茶に親しみ、道薫と号して秀吉の茶器にも招かれている。利休7哲の一人でもあった。

2015年07月27日(月) 戦国武将便覧(9)
      滝川一益(1525〜86)

 一益は信長にとって秀吉、光秀と同じ新参者の部類だ。しかも出身は尾張でなく、近江(滋賀県)の甲賀郡で、甲賀忍者だったとの説も。
 信長が伊勢(三重県)を攻める時に予め土地の国人・土豪を懐柔する工作を行い、永禄11年(1568)信長が本格的に攻略を始める前の露払いを果たした上、戦でも戦功を上げ、北伊勢5郡の支配を任された。
 織田軍の遊撃軍団長の立場で、勝家の加賀攻め、秀吉の播磨攻めで遊撃軍として参戦するなど、信長に都合よく使われた。
 天正10年(1582)3月、武田氏を滅ぼした時、論功行賞で上野(群馬県)と信濃の小県、佐久の2郡を与えられ、「東国の儀御取次」という立場となり、正規の軍団長に昇格した。
 ところが、直後の本能寺の変で、関東を実質的に支配していた北条氏政・氏直親子との戦で敗れて伊勢へ逃げ帰った。
 その年の6月27日、尾張の清州城で開いた織田家の後継者を決める清州会議には招かれず、重臣の地位から転落した。翌11年の賤ヶ岳の戦で勝家に味方し、秀吉に降伏。秘蔵の茶掛けの絵「朝山の絵」を秀吉に献上して命は助けられた。
 その後、秀吉から3000石を与えられ、入庵と号して余生を送り、以後、歴史に登場しないまま越前で没した。

2015年07月26日(日) 戦国武将便覧(8)
      柴田勝家(生年不詳〜1583)

 信長の筆頭家老で、宿老ともいわれた。もと信長の弟信勝の家臣で、最初に信勝が兄信長に反旗を翻した時は信勝方として信長軍と戦っている。
 ところが、2度目の謀反の時は、その動きを信長に密告し、信勝は殺された。以後、信長の家臣に迎え入れられたが、忠節を尽くさねばと、命を落とす危険がある先駆けを志願し、いつしか、勇猛な闘いぶりが「鬼柴田」の異名がつけられた。
 武勇伝のうち、近江・長光寺城に籠城して六角軍と戦った時、水源を断たれ、飲み水として溜めていた瓶を割って、全軍で討って出て血路を開いたとう「瓶割り柴田」で有名だが、これは後世の創作であろう。
 信長が天正3年(1575)越前の一向一揆を平定した後、越前の8割を勝家に与え、越後の上杉謙信・景勝との戦で最前線に置かれ、「北陸方面軍司令官」として加賀・一向一揆との戦でも大活躍した。
 居城の北庄(きたのしょう)城には9層の天守を建て、安土城の7層を上回るのは信長の信頼が篤かった証左である。信長の死後、明智光秀討伐にあたり、羽柴秀吉に後れを取り、そのまま後の力関係になった。
 天正11年(1583)賤ヶ岳の戦で敗れ、北庄城での勝家の最期は、「鬼柴田」の異名をとった勝家らしい身の処し方だた。落城後、最後の酒宴を開き、茶々、初、江の3姉妹を城から出し、再婚したばかりのお市を殺し、自らの腹を切り、五臓六腑までかきだしてから介錯させたという。切腹の正式な作法だった。

2015年07月25日(土) 閑話
 中国が東シナ海の日中中間線付近でガス田開発のため海上施設を併せて16基建設した写真を、外務省が公表した。
 現時点では、防空レーダーなどは備えてないが、将来、軍事拠点としての機能をもつことが懸念され、自民党から不安の声が上がっている。
 中国は南シナ海で、スプラトリー諸島の岩礁を勝手に埋め立て、飛行場や通信施設を整備している。このため、防衛省は「海上施設が軍事拠点化する可能性は高い」とみている。
 習近平国家主席は、海洋権益の保護を「核心的利益」として、一方的に開発を続ける強硬姿勢を崩していない。また、「将来は沖縄まで捕りにに行く」と公言する中国人学者もおり、沖縄県人も、「中華思想」の中国人の恐ろしさ、愚かさに注視していく必要があろう。
 この時期の写真公表の裏には、安保法制問題で故意に中国を仮想敵国とする話を避けている安倍政権が、中国の脅威を国民に知らせるためであろう。
中国ガス田施設
2015年07月24日(金) 戦国武将便覧(7)
      佐久間信盛(生年不詳〜1581)

 信長家臣団の中で、柴田勝家と並ぶ古参の老臣だが、最後、信長から追放処分を受けた。だが、信盛の活躍が織田軍の躍進を支えたことは事実だ。
 あの独裁者・信長に建言、諫言をしたのは信盛だけ。弘治元年(1555)、出奔した信長の叔父信次の尾張・守山城に、信長の兄弟秀俊をいれるよう建言し、意見が採用された。信盛の武将としての活躍が分かるのは、信長による近江攻略の一連の戦いだ。勝家の守る長光寺城(滋賀県近江八幡市)と共に信盛の永原城(同県野洲市)が、拠点になっていた。天正元年(1573)8月、小谷城攻めの時、朝倉軍の撤退を見過ごし、信長から叱責された。他の武将は信長から、叱責されっ放しだったのに、信盛一人「そうはいっても、我々ほどの者は他の大名の家臣にはいない」と抗弁した(『信長公記』)。
 しかし、天正4年(1576)から本格化する石山本願寺を攻めあぐねた。信盛の怠慢とみた信長は同8年4月9日、講和という形で顕如が石山から退去すると、同月12日、19か条の折檻状を信盛に突きつけ、高野山へ追放した。
 折檻状には7年前の信盛の抗弁の1件が書いてあった。その後、赦免されることなく、翌年7月、大和の十津川で病死した。

2015年07月23日(木) 戦国武将便覧(6)
      丹羽長秀(1535〜85)

 信長の美濃攻めから軍攻を挙げはじめ、近江・小谷城(滋賀県長浜市)の浅井長政との戦では、羽柴秀吉が横山城(同市)を拠点にしたのに対し、長秀は佐和山城(同県彦根市)を拠点に共同歩調をとっている。
 信長家臣だった時代、長秀は2度の晴れ舞台を経験した。1度目は天正4年(1576)から始まる安土城の築城にあたり、惣奉行ー築城の総責任者となって推進したこと。2度目は同9年の京都馬揃えで、織田軍団の第1陣として入場したこと。
 この時、秀吉は中国攻めで不在。序列をつけるのは難しいが、京都馬揃えを統括する立場にあった明智光秀と、長秀、柴田勝家、秀吉の4人が、織田家臣ベスト4であろう。
 天正10年(1582)6月27日、信長亡き後の清州会議で、長秀は、秀吉が提案した、信長の嫡孫・三法師(秀信)に家督を継がせる案に賛成した。これにより、秀吉による織田政権簒奪の目論見に手を貸した形だ。事実、以後、長秀は秀吉の天下統一の協力者として位置づけられ、翌年の賤ヶ岳の戦でも、秀吉陣営に属し、勝家と敵対した。
 結局、長秀は秀吉の力量を認めて自らの野望を殺し、秀吉に賭けた、のである。結果、越前・若狭両国(共に福井県)の南半分を与えられ、123万石の大大名となった。

2015年07月22日(水) 戦国武将便覧(5)
      織田信忠(1557〜82)

 11歳の時、信長の戦略から武田信玄の娘と婚約したが、その後、信長と信玄が敵対関係になって、婚約は破棄された。
 初陣は元亀3年(1572)7月、近江(滋賀県)の浅井長政との戦で、翌年、元服した。この頃から諸役免除や禁制など、文書を出している。信長が信忠を自分の後継者とみて、政治見習いさせていた。
 軍事面でも、伊勢・長島攻め、長篠・設楽原の戦など、信長の「天下布武」の大事な戦に従軍して、信長から認められている。『信長公記』によると、天正3年(1575)11月28日、信長から家督を譲られた、という。織田家は信忠に任せ、自分は「天下人」になるという信長の構想だったかもしれない。
 天正10年(1582)2〜3月の武田攻めは、歴史的には信長が滅ぼしたーということになっているが、実際は信忠が総大将をつとめた。
 同年8月の本能寺の変で自刃した。二条御所にいて明智軍と戦ったが、多勢に無勢で、御所の主であった誠仁(さねひと)親王を逃がした後に自刃した。

2015年07月21日(火) 戦国武将便覧(4)
      織田信秀(1511〜52)

 信長の父である。信忠を織田家の嫡流とする系図が多いが、実際は分家のさらに分家だ。尾張には守護代が二人いて、信長の父信秀は下四郡守護代清州織田氏の一族で、その家臣の一人にすぎなかった。
 居城の勝幡城の近くに津島という、木曽川と伊勢湾の船運を結ぶ港町があり、津島社(牛頭天王社)を要する宗教都市でもあった。信秀は、商業活動を掌握して経済力をつけて守護代を凌ぐ勢力へ。
 その後、信秀は尾張中心部に位置する那古屋城を奪ってから戦国大名への道を歩み始めた。尾張一国を制圧すると、三河(愛知県)まで勢力を伸ばし、北隣の美濃(岐阜県)の斎藤道三と戦う。
 天文13年(1544)と16年の2度にわたって美濃に攻め込みながら勝てないとみるや、道三に同盟を申し入れる。結局、同J7年、和が結ばれ、道三の娘濃姫が信忠の子信長に嫁ぐことに。
 信忠はしかし、尾張国内の反対勢力を徹底的に叩き潰すことはなかった。信忠の限界かもしれない。国内統一は信長に受け継がれた。

2015年07月20日(月) 戦国武将便覧(3)
      織田信長(1534〜82)

 信長の生誕地は尾張(愛知県)の那古屋城といわれてきたが、最近、尾張の勝幡(しょばた)城とする説も出てきた。
 その信長の飛躍を決定づけたのは永禄3年(1560)の桶狭間の戦だ。「海道一の弓取り」といわれた駿河(静岡県)の今川義元が2万5千人という大軍で攻め込んだのを、わすか2千の軍勢で打ち破り、さらに、美濃(岐阜県)、伊勢(三重県)へ版図を広げた。
 凄さは、その独創性にある。居城の移転はその一つで、那古屋城〜清州城〜小牧山城〜岐阜城〜安土城というように目標に近い場所に移転している。
 また兵農分離も信長が初めてで、常時、兵力を抱えることになった。
 もう一つ注目すべきは経済政策。楽市楽座、関所の撤廃などは独特のアイディア。商人たちの往来が自由になることで、商人たちから矢銭(軍用金)を取ることができ、財政基盤が整った。
 有名なスローガン「天下布武」は古代からの公家(朝廷)、寺社勢力を廃して武家が政治の中心になる新しい社会の樹立を目論んだものだった。

2015年07月19日(日) 戦国武将便覧(2)
      北条早雲(1432〜1519)

 早雲は、斎藤道三、松永久秀と共に「戦国3梟雄」などといわれ、悪辣な手段で國を奪った武将の代表のように言われてきた。
 合戦に際して、謀略的な手段を用いたり、奇襲戦法を多用して、きれいな戦い方をしなかったことは確かだ。卑怯な手段を使ったのは戦いの時だけで、領国経営にあたっては真摯な態度で接した。
 早雲は若い頃、京都を焼け野原にした応仁・文明の乱に巻き込まれている。足利義尚と対抗した足利義視方となったからだ。義視側が形勢不利になった時、袂を分かち、姉妹の一人が嫁いでいた駿河の今川氏を頼って下向した。
 その後、早雲は今川氏から兵を借りて堀越公方足利茶々丸を倒し、明応2年(1493)伊豆に攻め入った。この時、比較的短時間で伊豆平定に成功した。成功の秘訣は二つ。
 一つは減税。それまで5公5民だった年貢を4公6民に。二つ目は福祉政策。当時、伊豆一帯で「風病」が蔓延していたが、早雲は駿府から、さらに京都から薬を取り寄せて治療させた。他国の人は「われらが国も真九郎殿(早雲の通称)の国にならばや」と羨ましがったという。

2015年07月18日(土) 戦国武将便覧(1)
 今年は大坂夏の陣(1615)から400年。室町時代末期から戦国の世に移り、全国の武将たちが、天下を狙って覇を競った。織田信長、豊臣秀吉を経て徳川家康が天下統一するまで約130年間、天下は権謀術数の波に呑まれ続けた。
 京を舞台に10年余も続いた応仁の乱で、京の町は灰燼に帰した。下剋上の風潮が起こり、室町将軍の不在で国中は騒乱に包まれた。農民は兵に駆り出され、国土は疲弊した。
 混乱はやがて家康によって平定され、260年続く江戸時代に入る。混乱した国には、ヨーロッパ列強が”毒牙”を向くのは、中国を例にとれば明らかだ。
 地球儀からみれば、まことに小さい日本は、小さな井戸の中で争いごとに暮れていた。以下、信長、秀吉、家康の系譜を中心に名だたる武将たちを取り上げる。
     ◇   ◇   ◇
 このシリーズは、小和田哲男・静岡大名誉教授が、2010年から5年間、読売新聞に連載した「戦国武将の実力」から抜粋したものである。第1回目は、守護大名の食客から一代で伊豆・相模2カ国の戦国大名になった北条早雲。
2015年07月17日(金) 日本女帝物語(最終回)
      後桜町天皇

 現時点で最後の女帝である。徳川10代将軍家斉時代の宝暦元年(1751)に即位したが、5歳の親王(後の後桃園天皇)への中継ぎであった。23歳だった宝暦12年(1762)に即位式で着用したといわれる日輪を頂いた金色の冠が平成13年(2001)栃木県立博物館で初公開された。
 参考になる女帝の冠がなく、皇室に嫁いだ2代将軍秀忠の娘のものをモデルにしたという。中継ぎとはいえ、朝廷の安寧のためにたてられた女帝で、任務を全うしたといわれる。
 譲位した118代後桃園が即位後、間もなく早世した(1772)後も、9歳で即位した119代光格天皇を助けて、天明3年(1783)浅間山の大噴火にはじまる「天明の飢饉」では、困窮した民衆へ大量のリンゴを配る気配りを見せた。
 即位から退位後まで綴った日記は、儀式の装束や髪形、発言を詳細に記しており、昭和女子大の久保貴子講師は「後世の女帝に参考になるよう、記したのではないか」と話す。
 個性豊かな女帝たち、その治世は、いずれも時代の変わり目であった。(完)
     ◇   ◇   ◇
 明日から、戦国時代の武将たちを列挙する。今年は大坂夏の陣から400年。天下取りを夢見て悪戦苦闘したり、棚からぼた餅で手に入れた武将たち〜。歴史好きには、懐かしい名前も登場するはずだ。

2015年07月16日(木) 日本女帝物語(31)
      明正天皇

 江戸時代の女帝は二人いるが、共に生涯独身であった。しかしその人生は明暗がはっきりと分かれた。 
 徳川2代将軍秀忠は、将軍家の血筋を皇室に入れたいと考え、娘を108代後水尾天皇に嫁がせた。しかし、生まれた男子は幼くして死去してしまう。
 幕府は男子誕生を望んだが、権限を次々と剥奪された後水尾天皇は寛永6年(1629)独断で、わずか7歳の娘に譲位した。109代明正天皇である。幕府は明正に政務を執らせず、御所の門に番所を置いて厳しく監視した。
 家康が慶長8年(1603)征夷大将軍となって江戸幕府を開いて以来、幕府は朝廷をあの手この手で抑え込み、宮廷に与えた扶持は僅か3万石だった。城持ち大名ではなく、2万石で陣屋しかなかった上総国飯野藩(千葉県富津市)を少し上回る程度だった。
 14年後、明正は異母弟に譲位し、21歳で隠居。外出もままならず、74歳まで独身で寂しい人生を送った。

2015年07月15日(水) 日本女帝物語(30)
      孝謙天皇=称徳天皇(下)

 これを機に孝謙は翌年、称徳天皇として48代天皇に返り咲く。孝謙天皇、というと僧道鏡が連想される。女帝の病気を治した、ということで重用され、道鏡は法王に上った。
 日本の歴史の危機の一つといわれる「宇佐八幡宮神託事件」が起こる。769年、道鏡は宇佐八幡宮(大分県)の神託を利用して皇位に就こうとした。
 これに対して、勅使の和気清麻呂は宇佐を訪ね、命がけで偽りの神託だと報告し、怪僧道鏡の大胆な企てを阻止した。
 立役者、和気清麻呂を陰で支えた姉・和気広虫を主人公に取り上げた小説『慈愛の人 和気広虫』(淡交社)の作者斎藤史子さんは「広虫は女官として70歳まで生きたキャリアウーマンで、彼女の支えがなかったら、道鏡の企ては防げなかったでしょう」と話している。
 再即位後、藤原仲麻呂のクーデター平定を祝って西大寺(奈良市)を建立した。称徳以後、日本の歴史で、女帝が再登場するのは、850年後の江戸時代である。

2015年07月14日(火) 日本女帝物語(29)
      孝謙天皇=称徳天皇(中)

 これより先、既に5度の渡日を目論んで失敗し、失明していた鑑真が一行に加わった。鑑真の乗った船は激しい風雨に逢い、種子島、屋久島などを経て3か月かけて上陸した。
 そして「不惜身命」の精神を貫き、有名な唐招提寺を建立した。鑑真の日本文化に与えた影響は甚だ大きく、経典は教学の発展に大きく寄与した。
 孝謙は目をかけてきた藤原仲麻呂が推挙した天武天皇の子舎人親王の子大炊王を47代淳仁天皇として即位させた。ところが、仲麻呂は淳仁をロボットとして専権をいよいよ発揮した。
 これに反発した藤原良継や大伴家持らは天平宝字7年(763)仲麻呂を倒すクーデターを図ったが、事前に漏れて失敗。逆に、仲麻呂は兵を集めてクーデターを準備したが、これも事前に漏れて仲麻呂は捕えられ、斬られてしまう。あっけない最期であった。

2015年07月13日(月) 日本女帝物語(28)
      孝謙天皇=称徳天皇(上)

 東大寺で大仏開眼法要が営まれた天平勝宝4年(752)緊張の面持ちで大仏を見上げる45代聖武上皇と46代孝謙天皇の父子。仏教による鎮護国家樹立を達成しようと感無量であったろう。
 聖武は光明皇后との間に男子が育たず、孝謙を若くして初の女性皇太子に指名し、帝王学を教育した。
 この頃、遣唐使が盛んに派遣されたが、同3年、光明皇后の甥にあたる藤原清河を大使に、吉備真備を副使にした遣唐使が唐に渡った。
 当時、留学生として唐で学んでいた阿倍仲麻呂は玄宗皇帝に仕えていたが、一行は翌年、帰国する際、律学の高僧鑑真を招聘することになった。

2015年07月12日(日) 閑話
貴重な裁判記録みつかる

 明治初期、士農工商の身分が廃止された後も旧士族に支払われた家禄が旧會津藩士に支払われないのは不当ーとして集団で明治新政府を相手に訴訟を起こし家禄を勝ち取った貴重な史料が會津若松市内で見つかった。
 明治42年(1909)に旧藩士の集まり「旧斗南藩士復禄期成会」が興した裁判の記録だ。
 會津藩士は戊辰戦争後、斗南に流され、その後、赦されて會津や東京へ戻ったが、蝦夷地へ渡った者は「平民」扱いされ、會津に戻ってからも平民のままだった旧藩士もいて(明治23年の『若松町役場の旧藩士』で既報)、家禄が支給されなかった。
 郷土史家は「いかに平民扱いされても會津武士の誇りは捨てなかったのだ」と話している。この話は7月9日付けの福島民友で、翌10日付けで掲載してある。

2015年07月11日(土) 日本女帝物語(27)
      元正天皇(下)

 元正はまた、高齢者対策や農民への稲の貸付など母の施策を継承し、女医の養成など、女性らしさもみせた。これらは現代でも、通用する施策である。
 こうした諸施策をとった元正天皇について、京都女子大の滝良貞子教授は
「自分の役割を明確に理解し、それを全うした芯の強い女性だった」
と説明している。
 元正は退位後も、次の45代聖武天皇と行動を共にし、748年、元正が亡くなると、聖武天皇も翌年、娘の46代孝謙天皇に譲位した。
     ◇   ◇   ◇
 今年も南方からの渡り鳥・アオバヅクがやってきた。近くの(鎮守の)森公園には、朝早くから、アマチュア・カメラマンが高そうなデジカメの望遠レンズでパチリ、パチリ。船橋あたりから来る人も。
 毎年、忘れずにやってきて、卵を産み、ヒナをかえしてから親子で南へ去ってゆく。
 作草部神社が加護するのか、カラスに襲われることもないようだ。「神の国」ならではのほほえましい風景ではある。

2015年07月10日(金) 日本女帝物語(26)
      元正天皇〈上)

 元正は、未婚のまま即位した初の女帝だった。母元明の「よい国にして孫に渡したい」という思いも引き継いだ。天武天皇の孫長屋王をブレーンに、遷都まもない平城京の発展のため、次々と政策を打ち出した。
 大宝律令にわずかな修正を加えた養老律令(718年)、日本書紀(720年)の完成、三世一身法、百万町歩開墾の計画等々。 
 東北地方には蝦夷と呼ばれた人々、九州には熊襲または隼人と呼ばれた人々がいて大和朝廷に服従しなかったので、東北の経営拠点として多賀城(現在の宮城県)を設置した。
    ◇   ◇   ◇
 中国・上海市場で10日、株がやや上がったーなどと放送しているが、一覧をみれば「0」が並んでいるのに気付くはずだ。共産党の指導によって株の売買を禁止されている企業が半分以上もある。
 共産党の官制市場は明白で、禁止期間が解けたら、「売り」が先行するだろう。バブルがはじける瞬間をみたいものだ。

2015年07月09日(木) 日本女帝物語(25)
      元明天皇(最終回)

 和銅7年(714)6月、首皇子は14歳で元服し、皇太子にたてられた。翌年、元明は57歳で娘の永高内親王に皇位を譲り、内心王は即位して44代元正天皇となった。
 母から娘への譲位は先例がなかった。自分の甥にあたる首皇子の成長まで位を継ぐことが願いだったのだ。
     ◇   ◇   ◇
 中国の上海市場で株式の大幅暴落が止まらない。共産党が底支えしようと株式の4割の売買中止を働きかけても、暴落は止まらない。
 中国のバブルの崩壊が目前に迫っている。アジア・インフラ投資銀行設立で世界の金を集めて、アジアに共産党政権の軍事施設を造ろうと目論んでいるようだが、こんな目論見は”泡”と消えるだろう。
 我が国との結びつきは深く、ギリシャ危機の比ではない。バブルが弾けた中国はどこへ?

2015年07月08日(水) 日本女帝物語(24)
      元明天皇(5)

 農民の苦しみの中で、律令国家整備へと突き進む元明は、愛孫首皇子(後の45代聖武天皇)に皇位を伝えようとした。しかし、首皇子は若すぎた。
 首皇子の外戚父となっている藤原不比等と提携する一方、天智天皇の皇子や皇孫たちの間に立って、その不満を抑え、宥和を図ってゆくことが必要だった。
 759年に編纂された『万葉集』の和銅元年(708)の女帝の歌に
「ますらおの 鞆の音すなり もののふの 大臣(おおまえつきみ) 楯立つらしも」
と詠み、それに応えた御名部皇女の
「わご大君、物な思ほし 皇神(すめかみ)の、つぎて賜へる われ無けなくに」
の歌は、平城京遷都前後の、揺れ動く宮廷の空気を微妙に反映している。
     ◇   ◇  ◇
 わがマンション前の公園で、ウグイスの鳴き声が聞こえてきた。まだ若いウグイスらしく「ホ〜 ホケきょ」は情けなく、頼りない。が、しかし、寝ているベッドの頭の方からウグイスの鳴き声が聞こえてくるのは、清々しい。環境は抜群だ。

2015年07月07日(火) 日本女帝物語(23)
      元明天皇(4)

 公地を支給された公民は、祖・庸・調という税の義務を負った。祖は田の面積に応じた収穫の3%で地方の財政を賄った。庸は労働を奉仕する義務、調は絹、布、糸、海産物など、実際の労働の代わりに一定量の布地を朝廷に納めるもの。
 他に、雑徭(ぞうよう)といって60日を厳度に地方で労働に従う義務もあった。また、都の警備をしたり、北九州の海辺を防備する防人の義務もあり、農民にはかなりの負担であった。
 奈良時代の日本の人口は600万人。平城京の人口は10万人、うち官僚は1万人、貴族は200人ほどだった。

2015年07月06日(月) 日本女帝物語(22)
      元明天皇(3)

 このような華々しい新都造営の裏には、しかし、数えきれない民の苦しみがあった。慶雲年間の飢饉、疫病で疲弊した農民の上に、新都造営の労役の負担がのしかかった。
 その苦しみに耐えかねて逃亡する農民が相次ぎ、地方から都に調(税として納める産物)を運ぶ運客の農民も、帰途の食量が支給されないまま、多くが路頭で餓死した。
 ここで、当時の律令国家の税の仕組みについて、おさらいしよう。中学校の歴史の再勉強である。律令国家は、大化の改新から50年余に及ぶ経験を活かして「公地公民」という理想を実現しようとした。
 全国の耕地は区分されて6年ごとに戸籍が改められ、6歳以上の男女に口分田が与えられた。一生、耕作が認められて売買は禁止、死後は国家に返上する仕組みだった。
    ◇   ◇   ◇
 サッカー女子W杯決勝でなでしこジャパンはアメリカに2−5で敗れ、連覇はならず。前半で3点を取られたことが最後まで響いた。でも、準優勝だ(くじ運にめぐまれたんだが)。
 また4年後目指して新たななでしこを作り上げてほしい。ご苦労さん!

2015年07月05日(日) 日本女帝物語(21)
      元明天皇(2)

 まず、元明は和銅元年(708)藤原京を去って、大和盆地の北方、平城の地に新たな都を造ることを明らかにした。秋の収穫の終わるのを待って本格的な事業が開始された。
 同3年に平城京の主要な殿舎はほぼ完成し、3月には正式に皇都とする旨が宣言された。2010年(平成22年)は平城京遷都1300年で、奈良を中心にいろいろな事業が展開された。
 平城京は、唐の都長安を模した東西4.5キロ、南北5キロの壮大な都城で、南北に貫通する朱雀大路は、都を左京、右京に分かち、北正面には宮城があって、天皇の居所、内裏、百官の政務執行となる朝堂や多くの官衙が並び建っていた。
 東西・南北に走る大路、小路によって整然と区画された市街には、多くの官人の居宅が並び、元興寺、薬師寺、大安寺などの寺院が甍を連ねていた。不比等の居宅は宮城の東方、左京一条二坊にもうけられ、父鎌足の時に建てられた山科寺も飛鳥から移されて、京の東方の山腹には興福寺が建立された。

2015年07月04日(土) 日本女帝物語(20)
      元明天皇(1)

 文武天皇の違勅により、母(草壁皇子の室)阿閉(あべ)皇女が4人目の女帝に即位し、43代元明天皇となる。天皇の位を子から親へというのは前例がなく、母は拒んだが、天武天王の他の皇子に即位させないため、女帝が誕生した。
 天皇は和銅元年(708)左大臣に石上麻呂(いそのかみまろ)、右大臣に藤原不比等を任命し、中央、地方の官人の大移動を行った。
 元明の政治は、一口で言えば、律令体制を一層、強力に推進し、中央集権国家の権威を誇示することによって、以前に起きた社会的動揺を克服しようとするものであった。
 平城京への遷都や和同開珎の鋳造、蝦夷征伐など、この時期に行われた諸政策は上記の意図によるものだった。

2015年07月03日(金) 日本女帝物語(19)
      持統天皇(最終回)

 文武4年(700)6月、天皇から「律令を選定するように」との詔が藤原不比等らに下された。翌大宝元年に完成した大宝律令である。持統上皇は、夫だった天武天皇が制定した飛鳥浄御原令を、さらに整備したのだ。
 不比等のもとで選定にあたった多くは帰化人や入唐の経験者で、学問や誌才に優れた人々であった。唐の進んだ政治体制を身を以て体験し、文物に最も接近した人々でもあった。
 同じ年、文武天皇の夫人宮子(不比等の娘)が首皇子(おびとみこ)を出産した。後の45代聖武天皇である。
 文武は貴族の中でも外戚となった不比等を重用したのはいうまでもなく、不比等は朝堂の中心としての地位を占めた。
 律令制定の事業をなし遂げた持統上皇は大宝2年(702)眠りについた。大きな後ろ盾を失った文武は生来の病弱から慶雲4年(707)25歳の若さで世を去った。

2015年07月02日(木) 日本女帝物語(18)
      持統天皇(3)

 持統10年(696)太政大臣高市皇子が世を去った。皇子は天武天皇の最年長の皇子で、持統には年来の宿願を果たす絶好の機会が訪れた。皇族や重臣を集めて次の皇位継承者について意見を求めた
 会議は、それぞれの思惑があって混乱したが、故大友皇子の子葛野(かどの)皇子は
「子孫相承けて皇位を継ぐのが日本の法であり、兄弟相およべば、乱が起こる」
と主張して天武天皇の皇子を立てようとする意見を退けた。
 こうして翌697年、持統は、わが孫軽皇子を皇太子とし、8月、早々と皇太子に皇位を譲った。42代文武天皇である。自分は上皇となった。
     ◇   ◇   ◇
 女帝物語を書き込んでいるが、強く感じるのは”近親相姦”である。皇室で江戸時代まで続いたのであろう。いやな感じがしないでもない。
 精錬、潔白という言葉は思い浮かばない。ドロドロした感じがする。

2015年07月01日(水) 日本女帝物語(17)
      持統天皇(2)

 即位した持統天皇は、早速、近江令を改めて飛鳥浄御原令を施行し、我が国で初めて中国の都城にならった藤原京の造営に取り掛かる。白村江の戦で、唐・新羅の連合軍に敗れ、国家建設を急ぐ必要に迫られたいたのだ。
 この都の特徴は、王宮の位置である。唐の長安の見習ったとすれば、王宮は都城の北部中央とすべきだが、藤原京の王宮は都城の中央に建設された。白村江の戦で敗れ、遣唐使が中断した時期だったため、情報が入らなかったか、素直に唐の模倣を嫌ったか、いずれかであろう。
 持統天皇の御代、貴族政府高官への進出が目立った。中でも、藤原不比等は順調に昇進した。不比等はまず、689年、判事に任命された。判事は犯罪人の罪状を調べ、刑罰を決めたり、訴訟の判決を担当する役人。
 この頃から、冠位を授けられた貴族が出たのが特徴で、不比等は直広肆位(じきこうし=後の従五位)、さらに直広壱位(正4位)と昇進した。この地位は右大臣、大納言に次ぐものだった。

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