河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2014年12月31日(水) 會津藩士の蝦夷地移住(54)
 食生活は相変わらず欠乏し、食量米にもこと欠く日々が続いた。開墾にあたって政府から支給された補助米は、実は3年で打ち切られていたのだ。
 3年で、はっきりした収穫が見込めることは不可能であった。このため、ニシンの漁期が近くなると、出稼ぎ人夫としてニシン漁を手伝って日銭を稼がねばならなかった。
 これだけで生活はできず、夫人や子供たちが物売りに歩くことが欠かせなかった。しかし、周囲の目は冷たく、どこまでも「朝敵」、「逆賊」の汚名が付いて回った。
     ◇   ◇   ◇
 大晦日、今年を振り返ってみる。御嶽山の噴火や支那漁船によるサンゴ盗魚、自公民大勝の衆議院総選挙。だが、マスコミに籍を置いた者としてあげなくてはならないのが、朝日新聞の従軍慰安婦報道だ。誤報ではなく、捏造である。
 我が国と国民を世界的に貶めた罪は大きい、実に大きい。新聞全体の信用度も大きく失墜させた。いやな1年であった。
2014年12月30日(火) 會津藩士の蝦夷地移住(53)
 會津藩士は藩祖保科正之以来、神道であり、従来のやり方に戻したまでのことだ。
 鶴ヶ城の南東に會津藩大窪山共同墓地(会津若松市指定文化財)があり、歴代約4000名の藩士が眠る。すべて神道式で神号をおくり、土葬である。
「遺体を傷つけてはならぬ」
という正之の方針が明治になっても生きていた。
 神主を勤めたのは、在竹四郎太だった。在竹は旧禄高200石で、黒川村四番組村長だった(12月16日)。また、明治8年((1875)に余市稲荷神社が郷社になってた時から神官を勤めていた。
 在竹の司祭で無事に法要を終えることができたが、藩士らは、これ以来、元の神道に帰依した。
2014年12月29日(月) 會津藩士の蝦夷地移住(52)
 さて、血判書まで提出し、新たな決意を示して入植した藩士たちを待ち構えていたのは、開墾の苦労だけではなかった。
 入植後、初めて死者が出た時のことである。弔いのため、山向こうの浜にあるお寺に頼みに行った。住職は
「檀家総代に相談する」
というので待っていると、
「會津は朝敵であり、檀家でもないので弔いは行ってはならぬ」
と総代に言われて、冷たく断られた。
「戦場では、敵味方の区別なく弔うのが僧侶ではないのか」
「逆賊とは何事か!」
 総取締宗川茂友は、怒り狂う一同を宥め、
「我々だけで、神道で弔えばいい」
ということになった。
2014年12月28日(日) 會津藩士の蝦夷地移住(51)
 珍しい記録が山田町の小松家に残っている。
「馬球の用具だった」
という、ホッケーのステックのようなものだ。
 曲がった柄の先に木綿紐の網が張ってある。馬上から球を打ち合うものらしく、長い竹の先に網の部分を結びつけいる。
 古老の話では、黒川町9丁目の開村記念館辺りの広場で盛んにやっていたようだ。
2014年12月27日(土) 會津藩士の蝦夷地移住(50)
 青木丑蔵は明治26年(1893)5月、古沢から真砂流の「中極秘」を29年には「大極秘」を授けられて師範代となった。 
 この真砂流柔術だが、會津藩の柔術は神道精武流、神妙流、稲上心妙流、大野新当流、夢想流の各派があり(『会津若松史』12巻)、神妙流の誤りではなかろうか。
 剣術は、はっきりした記録はないが、會津藩士の粟田鉄馬が太子流の使い手であり、明治44年(1911)5月、皇太子殿下の北海道行啓の際、選ばれて御前試合に出場していることから、太子流を学んだと思われる。
 隊長の宗川茂友は宝蔵院流槍術の師範で、後に会津に戻り會津中学校で武道教師を委嘱されているが、余市在住中に槍術を教えた記録はない。
     ◇   ◇   ◇
 本日は、仏壇掃除をして1年間のホコリを払ってきれいにした。年末に清々しい気分になれる瞬間だ。この1年を無事に過ごさせてもらったことに感謝し、新しい年の幸を願って阿弥陀仏に頭を下げる。
 年末恒例の行事だが、いつまで続けられるか、一抹の不安がないわけでもない。でも前向きに進んでいこうと思う。
2014年12月26日(金) 會津藩士の蝦夷地移住(49)
 また、講武所は黒川、山田両村に設けた。居宅の1軒を充てたもので、講武所ーというほど立派な施設ではなかったが、
「我々は、百姓とは違う。未開の土地ではあっても會津魂は失うまいぞ」
という意気込みであった。あくまで「降伏人」「流罪人」という屈辱のレッテルに対する抵抗の姿であった。
 講武所で柔術を指導したのは古沢幸三郎友雄であった。青木丑蔵著『由緒書』によれば、
「真砂流柔術ハ(中略)遠藤貞八郎二伝ワリテ天保ノハジメ會津城主
松平忠恭君(8代容敬)該流ノ妙術ナルヲ悟得セラレ同藩士倉沢伝之進ヲ
ソノ門二遣ワシ其奥義ヲ会得(以下略)」
とあり、戊辰の役で一旦は途絶えたが、棚倉(福島県)にいた生亀六蔵が憂えて師範の資格を取り、後に後志国余市郡黒川村に教場をつくり、伝授したようだ。
 その後、大先生古沢幸三郎が跡を継いで指導した。
2014年12月25日(木) 會津藩士の蝦夷地移住(48)
 また、次の文書も残っている。
「安政五戌年九月生 嶋影幸三
 万延元庚年三月生 石川幸作 
 文久元酉年六月生 宗川虎二
当余市郡教育所生徒之内兼而勉強之者検査仕候処右三名之者
学業進修別段勉励二候間 御褒美被下度此段相伺候也
 明治六年十二月五日」
 学業優秀な子弟を表彰し、褒美を与えている。これらの子弟はやがて有為な人材として道内の各地で官公吏、教師、実業家として北海道発展の礎となった。
     ◇   ◇   ◇
 いやはや驚いた。数日前から微熱と鼻水が続くので近くの医院へ行ったら、なんと「インフルエンザA型」陽性の判定。移った場所は?と聞かれて数日前に降圧剤をもらうために訪れた、この医院だ。
 医院でインフルに感染するとは〜。生涯で初めてだ。おかげで明日26日の今年最後のリハビリは休みに。情けない年末になった。
2014年12月24日(水) 會津藩士の蝦夷地移住(47)
 この間、明治6年5月(1873)5月、黒川郷学所は開拓使の指示を受け、学業優秀な子弟を報告している。
甲、石山九八郎(安政2年乙酉生まれ)
丙、板橋徳衛(安政3年丙辰生まれ)
丁、岩田友八(同)
丁第2、小澤辰五郎(どう)
丁第3、国井未(同)
戊、斎院 某(元治元年申子生まれ)
壱人前二付キ半紙三速 朱硯壱面
 右二品代 六拾壱銭弐厘 六人前分代金 三円六拾壱銭弐厘

添付写真は日進館で使用した教科書などである。
(余市町水産博物館提供)

2014年12月23日(火) 會津藩士の蝦夷地移住(46)
 3万石といわれながら実質7千石の石高しかない痩せた斗南の土地だけに、当初から予想されたことだった。
 明治4年3月と6月に斗南藩が提出した北海道移住者名簿には46戸153人と記されている。 
 一方、日進館で学んだ子弟は、他の子供の教育とは比べものにならない高度な教育を受け、やがて余市教育の中枢になってゆく。
 日進館は明治6年(1873)春、官立の黒川郷学所に昇格し、その後、黒川教育所となり、澤町小学校黒川分校へ。
 明治28年(1895)黒川小学校にとなり、同34年(1901)大川小学校分校、そして大正11年(1922)本校に統合され、51年の歴史の幕を閉じた。
     ◇   ◇   ◇
 朝日の慰安婦大誤報問題で、第3者委員会が報告書を提出。「取り消し記事」が大幅に遅れたこと、8月の記事取り消し記事も謝罪がないーなど当然といえば当然だ。
 渡辺雅隆社長が、吉田証言を裏付け取材もせず、青山とかいう記者の思い込みだけで記事にしたーと謝罪した。普通、誤報の訂正は編集局長が担当するが、社長が登場するのは異例だ。朝日の慰安婦報道で我が国が貶められ、新聞界の信用も低下させた罪は大きい。
2014年12月22日(月) 會津藩士の蝦夷地移住(45)
 かつては敵将であった黒田清隆の深い計らいによって、どうやら待望の會津村が誕生した。「黒川」の名前を思う時、藩士の胸にこみ上げるものがあった。
 早速、新しい地名を開拓使余市出張所に届け出た。正式に公文書として使われたのは、明治6年(1873)からであった。以後120年、黒川、山田の地名は変わることなく続いている。
 第3次隊が渡道したのは明治4年7月で、すでに入植は始まっていた。
 一方、この年正月には、斗南藩から樺太開拓使宛てに
「藩士は困窮している者が多いので樺太で引き受けてほしい」
との保護を願い出た。
「どうしても生活が成り立たないので」
となり振り構わないお願いである。
2014年12月21日(日) 會津藩士の蝦夷地移住(44)
 このような苦しい生活状況の中で、食量はどうしたのだろう。
 明治5年(1872)、北海道開拓使の管轄下に入った藩士たちに次の支給があった。
 ▽15歳以上の男女に、一人1日米7合5勺(1.2キログラム)と一人月50銭
 ▽7歳から14歳まで一人1日米5合〈750グラム)と一人月37銭
 ▽6歳以下は米一人1合と25銭
 これが翌6年2月には、塩菜料として1銭7厘が上乗せ支給された。斗南藩へ挙藩流刑された會津藩士とは扱いが違うことがわかる。斗南へ「捨てた」のに比べ、「未開地の蝦夷を開拓する」という考えの違いだ。
2014年12月20日(土) 會津藩士の蝦夷地移住(43)
 書道指南は美濃部武四郎、読書は上島兵衛、数学は二宮俊蔵らが担当した。無報酬であったが、誇りだった會津藩の教育水準を生徒24名に直接引く継ぐ決意を示したのだ。
 明治6年(1873)には、名を郷学所と改め、翌7年、余市教育所となった。さらに同10年には、澤町小学校となった。余市町教育の始まりであった。
 肝心の開墾は明治4年5月、新天地の山田原野へ入植し、
「刀ヲ鍬二替ヘテ丈(3.3メートル)ナス熊笹、雑草、幾千年ノ荒無ノ地へ鍬ヲ下シ、豆ヤ蕎麦ノ少量ヲ蒔種スル」(炉辺夜話)苦労が続いた。
2014年12月19日(金) 會津藩士の蝦夷地移住(42)
 村の村名前を決める為、総会を開いた。余市川左岸は黒田清隆と藩士隊長宗川茂友の名から「黒川村」に、右岸は開拓使監事として世話をしてくれた大山莊太郎太郎の名から「山田村」と決まった。
 「黒川」という地名は、天正18年(1590)蒲生氏郷が会津90万石の太守として豊臣秀吉の命で入府した時、黒川といっていた地名を「若松」と替えた史実に基づく地名。黒川という地名は、會津藩士にとって、懐かしい地名でもあったのだ。
 また子弟の教育の為、寺子屋方式の「日進館」を黒川村の一番地住宅に開設し、會津藩で用いた本をそのまま使用することにした。
2014年12月18日(木) 特報! 特報!
 千葉県富津市西川の正珊寺には、會津藩士の墓地30数基が倒されたまま放置されてきたが、現地の會津ファンが独力で改葬してくれた!
 市内で小売店を経営する多田剛さん(42)で、11月24日から2週間かけて重さ20キロもある墓石を1基ずつ立ててきちんと整理してくれた。この大いなる善意に対して万感の感謝をしたい。多田さん ありがとう!
 聞けば、11月に会津若松市を訪れ、田辺副市長に挨拶に訪れた際、話の中で會津藩士墓地が倒れたままで可哀想だーという話になり、
「私が何とかします」と約束したそうだ。
 行きがかり上ーというわけで、一人で商売の傍ら、毎日コツコツと墓石を立てかけ、すべて改葬してくれた。
 「事前」と「事後」の写真をつけて報告する。「事後」は年明けてから撮影する。
2014年12月17日(水) 會津藩士の蝦夷地移住(41)
 入植地も決まり、5家25戸1村の体制も村長も決まった。家族の移住を待つばかりだった。役員会で小宴を設けた際、4番組村長在竹四郎太は即興の1首を詠じて門出を祝った。
 「弓取りし 辛さに今は 引き換えて
  新たな民に入るぞ 嬉しき」
 この間の事情については『炉辺夜話』が詳しい。昭和15年(1940)、地元の川俣兵司が余市入植の會津藩士の渡道の経緯や生活ぶりなどを、古老からの伝聞をもとにまとめたものだ。
 それによれば、余市川沿岸は地味が肥沃で水運の便がよく、さらに海産物も豊富なため入植地に選定したという。河口沿岸には、アイヌ人の草葺き小屋が点在するだけで、和人(日本人)の在家はなく、寂しい場所だった。もっともアイヌ人は文字を持たないため高等な教育を受けてきた會津藩士とは疎遠だったに違いない。
2014年12月16日(火) 會津藩士の蝦夷地移住(40)
 こうした地形を選び、現在の黒川町9丁目の「開村記念碑」がある辺りを藩士の幹部住宅とした。やがて穀藏や日進館、講武所、共同浴場などができ、住む場所らしくなってきた。
 6か村の各村長は次の6人と決まった。
川東(後の黒川村)
 1番組村長 杉本弥三郎
 2番組村長 佐藤駒之進
 3番組村長 武藤格弥
 4番組村長 在竹四郎太
川西(後の山田村)
 上村村長  一柳平太郎
 下村村長  落合軽三郎
2014年12月15日(月) 総選挙
 予想通り、自公政権が圧勝した。自民党は3議席減らしたが、公明が予想以上の頑張りで4議席増やした。何より民主代表の海江田が落選したのは特徴的だ。
 また、共産が倍増、逆に次世代は消滅寸前に追い込まれた。安倍首相の解散断行が的中したのだ。1強多弱の状態は続くが、野党の集合離散は当然起こるだろう。
 郷里・会津若松市では、維新の小熊慎司君が元市長の自民・菅家一郎君を僅差で破り、菅家君は比例で復活当選した。小熊君は市議時代から懇意にしており、町名復活運動でも協力してくれた。
 反対に菅家君は、ダメな職員の言いなりで、自分の意見が言えなかった。基本的におつむが弱いのである。小熊君は顕彰会に招待してもよいと考えている。華を添えるためにも。
2014年12月14日(日) 會津藩士の蝦夷地移住(39)
 移住先として指定された土地は、余市川下流で、アイヌが「シュプントー」と呼んでいたところだった。「シュプン」は魚のウグイ、「トー」は沼である。
 文字通りウグイの生息する沼は、余市川が蛇行屈曲してできた三日月湖や古川が至る所にある湿地帯であった。
 アイヌの集落は余市川河口にあり、それより上流のシュプントーは柳、ハンノキ、ヤチダモ、その他の樹木が枝を広げ、陽が当たる地表には人の背丈を超すクマイサがびっしり生えていた。
 余市川を挟んで東側に4日村、西側に2日村を作ることになった。水運を利用したのだ。移住が決まると、必要な家屋の木材は南部(岩手県)産のものを函館で切り込んで船で運んだ。
     ◇   ◇   ◇
 本日は衆議院総選挙。「自民党圧勝」の報道各社のアナウンス効果がどれほどか、見ものだ。小選挙区制度では、「圧勝」の事前報道はそのまま最後まで続くもの。いわゆる「バンドワゴン(勝ち馬)効果」という。
 反対に「アンダードッグ(判官びいき)効果」という劣勢の候補に入れる効果はないーという。果たして今夜の開票結果は?
2014年12月13日(土) 會津藩士の蝦夷地移住(38)
 やきもきしていた明治4年春、ようやく余市移住が決定した。その直前の1月1日付けで、余市郡へ移住を希望する者が開拓使小樽仮役所へ
「天恩に報いる為、決められ農業に従事し、産業を興します」
という血判書を提出した。宗川熊四郎(茂友)が代表で、以下192名の連名となっている。
 決意表明のようなものだが、全員が血判者として提出するーというのは、並々ならぬ決意を表したものだ。
 御請書(写真)は明治4年の記載があるが、矛盾点も多く、後年になって、なんらかの理由で作成された副本ではないかと、余市町水産博物館の学芸員小川康和さんは話している。
2014年12月12日(金) 會津藩士の蝦夷地移住(37)
 黒田の即答はなかったが、後日、宗川宛てに書簡が届いた。明治3年11月4日付けで、
「身柄を引き受けるのは構わない」
という好意ある文面で、さらに
「そのまま居住してもよし、帰国してもよい。どちらにするか分別して願い書を出しなさい」
温情ある計らいだった。
 そうこうしているうちに、翌月、急遽、會津藩士を樺太開拓使の予算の中から余市郡へ移すことが決定した。小樽上陸から1年3か月が経っていた。
 しかし、喜んだのも束の間、翌明治4年8月には樺太開拓使が廃止されて北海道開拓使に併合されるごたごたが続き、藩士たちは再び、北海道開拓使の管轄下になるなど、新政府の方針は二転三転した。
2014年12月11日(木) 會津藩士の蝦夷地移住(36)
 兵部省が引き揚げ、開拓使は冷淡。頼みとする斗南藩は苦労に喘ぎ、帰るべき故郷は遠い。進退窮まった藩士たち。隊長宗川が苦悩したのはこの頃であった。
 困り果てた宗川は旧会津藩の同朋広沢安任と開拓使次官の黒田清隆を訪ねて
「このままでは、われらは野垂れ死にするだけです」
と救援を頼んだ。
 7000人の老若男女を抱えて、政治的な折衝は容易ではなかったろう。黒田は当時、樺太開拓使長官も兼ねていたから、黒田に頼むことは、樺太開拓移民となるに等しい。
2014年12月10日(水) 會津藩士の蝦夷地移住(35)
 會津藩士は兵部省の指揮下にあり、開拓使は勝手に任命するわけにはいかなにので、
「兵部省並びに開拓使熟談の上」
決めたようである(『青木日記』)。これら藩士は引き続いて開拓使に残った者がいたが、細谷らは大半が余市に戻っている。
 賊軍、降伏人と侮辱しながらも、會津藩士の優れた教育抜きでは開拓も進まなかった。
 石狩国当別移住が取りやめになったのは、石狩が兵部省支配から離れて開拓使管轄になったためであった。管轄変更の政府文書は明治3年1月であるが、その頃の文書から摘記してみると、方針変更がよくわかる。
明治2年 12月 大友亀太郎、当別に移住者受け入れの準備に着手。
3年 正月 大友、当別の仕事を中止して引き上げる。
3年 3月 寺尾秀次郎人夫18人を連れて石狩に到着。
同月 石狩国当別の小屋掛け中止。
4月 16日 兵部省から開拓使へお渡し。
4月 26日 大友、関係書類を返上。
2014年12月09日(火) 會津藩士の蝦夷地移住(34)
 さて8月20日以来の蝦夷地への移住に戻す。
 明治新政府の度重なる方針変更で、小樽の宿舎で待機させられていた会津藩士の中には脱落し、転出して行く者が続出した。
 明治3年(1870)2月12日、隊長宗川茂友は、急遽、開拓使出張所へ出頭するよう呼び出しを受けた。
「旧會津藩士から開拓使の役人に12名採用したいので、差しだすように」
とのことだった。
 宗川は相談しながら、次の12名を選んだ。
志賀熊太郎、梁瀬辰之助、川上広八郎、尾崎重蔵、細谷伴助、美濃部武志、渡部又三郎、林俊六、河田恵助、飯東恒治
の10名は13日付けで権少主典に任命された。
 伊藤多久治と藤田磐乃助の2人は開拓使掌に採用された。
 會津藩士の教養の深さ、使い方を知っていた新政府の役人がいたのだ。
2014年12月08日(月) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(最終回)
           ◇藤田祐詮(生年不詳〜1734)
              (郭内講所師範)
 森雪翁の実弟。藤田了甫という藩医が裕詮を養子にしたいと思ったが、藩の許可が降りないまま死去した。
 これを知った友人の儒者横田三友が不憫に思い、養子にすることを家老梁瀬三左衛門に推薦して許可された。裕詮は三友の有力な門人となり、郭内講所の師範となった。
 會津藩には各種の『孝子伝』が存在するが、裕詮の撰述したものが最も古く、元禄5年(1692)藩に献上された。18年後の宝永7年(1710)実刑の雪翁が、漢文で書かれた裕詮の書を平易な和文に改め、挿絵も挿入したので民衆から愛読された。(完)
      ◇  ◇  ◇
 長く続いた大窪山に眠る會津藩士も終わった。それにしても大規模な墓地を全て調査し、冊子にまとめた郷土史家、故小島一男さんの努力に敬服する。
 この連載で子孫の方々と連絡がとれた。IT時代の効果は大きいと実感している。片桐さん、長崎さん、今後ともよろしく。
 ところで昭和16年12月8日は大日本帝国海軍連合艦隊がハワイの真珠湾攻撃をした日だ。「ニイタカヤマ ノボレ」の無線を受けて山本五十六指揮下の将兵はアメリカ海軍の船舶を攻撃したが、「主力の空母はいなかった」ミスが敗戦へとつながるのだ。
2014年12月07日(日) 恒例の餅つき大会
 わが西千葉グリーンハイツ自治会主催の餅つき大会が7日、小春日和の公園で行われた。ハイツの入居が始まった昭和53年から続く恒例の行事。
 災害時の訓練を兼ねたもので、昨年からは、自主防災会議の避難訓練も兼ねて実施されている。
 消防署員の訓練説明に続いて20キロのもち米を次々とつきあげ、途中、子供が参加する一幕も。30年以上続く、和やかな行事だ。
2014年12月06日(土) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(84)
           ◇守屋澄易(1782〜88)
              (茶人)
 名を安清という。享保7年(1722)職料俸3口を賜り、同9年、飯東林清について茶を学んだ。その後、越後・新発田藩の溝口家茶頭渋谷意斎に学び、全伝を受けた。
 享保16年(1731)組頭となり、翌年、父の跡を継いで俸3口15石が給された。同20年、坊主頭となり、元文11年(1746)小番上に進み、明和2年(1765)秩禄100石を賜った。その後、命により名を安齋と改め、3代から5代まで3人の藩主に約50年仕えた。
     ◇   ◇   ◇
 大窪山の會津藩士もいよいよ、明日で最終回。明後日からは、會津藩士の蝦夷地移住が復活する。刀を鍬に持ち代え、文字をも持たないアイヌの中に入って極貧の生活を送りながらも我が国初のリンゴ栽培に成功した會津藩士。
 入植先が決まらず、逆賊の汚名のもとに他藩より差別を受ける藩士たち。途端の苦しみの中でリンゴ栽培に成功し、燭光がさしてきた。今も余市周辺に残る會津藩士の子孫たちの苦悩の連続を描いてゆく。
2014年12月05日(金) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(83)
           ◇野村俊胤(1715〜89)
              (祐筆)
 野村惣右衛門俊武の5男として生まれ、幼名關之丞。波江と称し、善太夫と改めた。永田流軽筒鉄砲を草刈彦太夫より、新格流棒火矢を池上五郎兵衛より修め、寛保2年(1742)永田流の鉄砲芸者として4代藩主容貞に召し出された。
 早くから佐瀬常職に従って吉川神道を修め、京都の卜部兼雄についても師事することがあった。文武兼備の士で、印可の数は28にも及んだという。
 明和3年(1766)能書の故も以て祐筆に転じ、しばしば5代藩主容頌の御前で神書を講じた。天明3年(1783)致仕して、野村家の定紋・柏葉と号した。
     ◇   ◇   ◇
 『会津人群像』27号を、通っているリハビリ施設に貸し出して會津をPRしたが、読んでくれた通所者が誤りを指摘していた。井上昌威の「白虎隊の真実」という原稿で、白虎隊に混じって「娘子隊」などと表記したのを指摘したのだ。
 戊辰戦争で會津藩は娘などを駆り出して戦わせた史実など一切ない。誇り高い會津藩を貶める原稿なのだ。
 井上という男は、会津歴史研究会会長、神指城を守る会会長などをしているようだが、歴史を全く知らない、お粗末な男だ。こんなデタラメな原稿を掲載する歴史春秋社もお粗末なのである。
2014年12月04日(木) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(82)
           ◇津田朝重(生年不詳〜1802)
              (祐筆)
 助五郎と称した。天明5年(1785)小番頭となり、捧8口を賜った。同8年春、新番組に進み、書学寮督を兼ねた。寛政9年(1797)祐筆となり、給米10石、職料米3石を賜った。
 群を抜いて書を能くし、『礼義類典』など数多くを謄写し、銀子・真綿などを賜った。菩提寺は会津若松市の恵倫寺。
 千葉県富津市竹岡の松翁院(浄土宗)の墓地に眠る「津田朝則妻」の夫朝則は朝重の子息であろう。扶持米も13石と合っている。
 妻は白虎隊士中二番隊、津田捨蔵の母だ。捨蔵は竹岡陣屋で生まれ、その後、江戸藩邸で幼少期を過ごした。戊辰戦争で飯盛山で自刃した19士の一人。
     ◇   ◇   ◇
 各社世論調査で総選挙序盤戦展望で自民党圧勝の予想。300議席を超す勢いだ。対して民主党は100議席にも届かない低調ぶり。安倍首相の解散実行が当たった。
 小生は自民党が20〜30議席晴らすのでは、と予想していたが外れた。中盤戦〜終盤戦と情勢はどう動くか?変わらなければ1強多弱は変わらず、自民党結党以来の「自主憲法制定」が議題に上ってくるだろう。
2014年12月03日(水) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(81)
           ◇上遠野秀庸(生年不詳〜1748)
              (祐筆)
 上遠野五左衛門隆重の次男、務右衛門と称した。書を名古屋氏について学んだ。元禄11年(1698)仮祐筆となり、宝永2年(1705)祐筆に進み、5口を賜った。
 同5年、3口20石となり、さらに正徳4年(1714)1口5石が加増された。享保4年(1719)秩100石を賜った。元文元年(1736)致仕を願い出たが許されず、翌年職料として50石が加増。寛保2年(1742)職料を本俸に改められ、寛延元年、70余歳で死去。
     ◇   ◇   ◇
 総選挙でさらに話題を。民主党の元首相管直人と野田佳彦が二人とも比例選に重複立候補した。選挙区選で当選の自信がないからだ。お粗末すぎないか。維新の代表海江田だって選挙区選の単独立候補だ。
 首相までやった男が比例選に名を連ねて恥ずかしくないか!それも1位でだ。
2014年12月02日(火) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(80)
           ◇上遠野隆真(1673〜1739)
              (山野當流刀術師範)
 上遠野五左衛門の三男。宇多右衛門と称した。山野當流の刀術をよくし、元禄14年(1701)芸者(師範)として3代藩主松平正容に召し出され、捧2口10石を給された。享保3年(1718)3石が加増、元文2年(1737)代官となった。
 小川渉著『志ぐれ草紙』に、「宇多右衛門とて壇術(罪人を誅戮して刀剣を試す術)に長ぜし人あり〜」と逸話が載っている。
     ◇   ◇   ◇
 総選挙が公示された。1強多弱といわれる政治情勢が変わるか、といえば変わらない。自民党が20〜30議席減らしても絶対安定多数は確保しそうだ。海江田は選挙の”顔”としてはお粗末、人材不足が露呈した。面白味のない選挙だ。
2014年12月01日(月) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(79)
           ◇平尾松亭(生年不詳〜1866)
              (能書家)
 忠吉といい、字は善導、悌五郎と称した。天性は曠大直率、胸にわだかまるところがなく、詩や書を能くして交遊する者は皆、快人と称した。
 君側に侍する者の外交を許さなかった。松亭も幼児から君側に侍したが、彼だけは広く海内の人士と交わることを許され、以て8代藩主・容敬の耳目として藩政の資に供された。そのため松亭は好んで海外のことを論じ、広く訳書を研究、外国の事情にも通じていた。
 松亭の書は草体に妙を得、その筆風は長風の怒涛を捲くが如く気高く、並み居る書家の遠く及ぶところでなかった。
 文化13年(1816)家禄100石を継ぎ、江戸にあって大監察に上って50年に及んだ。常に勤直の人として知られた。蔵書は多数あったが、死後2年の戊辰戦争で灰燼に帰した。
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