会津の歴史
河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2012年10月31日(水) 軍都・若松(115)
 昭和19年(1944)秋には、米軍がフィリピンに侵攻した。7月には、マリアナ諸島の一つのサイパン島が陥落した。サイパンは戦争遂行上、絶対確保すべき圏域として定めた「絶対国防圏」の中心にあった。大本営陸郡部第20班(戦争指導班)は「速やかに戦争終末を図るべきだ」との結論に至った。
 しかし、総辞職した東条英機首相の後を継いだ小磯国昭、鈴木貫太郎両首相は米軍に一矢を報いて対米講和を優位に進めたいとの「一撃講和論」に立ち、戦争を続けた。
 サイパン陥落後も戦争を続けた結果、何が起きたか。サイパンや隣のテニアンから飛び立った米軍のB29爆撃機によって日本各地で無差別爆撃が行われ、やがて広島、長崎に原爆が投下されるのだ。
2012年10月30日(火) 軍都・若松(114)
 目を日本国内と世界へ向けよう。日本が大東亜戦争と命名した太平洋戦争は緒戦では日本陸海軍が電撃的な攻撃で米、英、蘭、中などに勝利して、国民も浮かれていた。
 しかし、昭和17年(1942)6月のミッドウェー海戦で日本の連合艦隊がアメリカ海軍に完敗を喫してから米軍の反攻が始まった。8月には、ソロモン諸島のガタルカナル島に米軍が上陸し、日米の死闘が繰り返され、翌年2月には日本軍が撤退を余儀なくされた。
 アリューシャン列島のアッツ島では、わずか2000名の日本軍守備隊が2万人の米軍を相手に一歩も引かず、弾丸や食糧の補給が途絶えても抵抗を続け、玉砕していった。こうして南太平洋からニューギニアを経て中部大平洋のマリアナ諸島の島々で、日本軍は降服することなく、次々と玉砕していったのである。
2012年10月29日(月) 軍都・若松(113)
 昭和18年(1943)7月1日には戦時編成が改正され、以下の陣容が決定した。65聯隊長ー陸軍大佐桜井徳太郎以下将校114名、下士官兵3480名。
 この後、720名の見習士官や兵の補充を受けた。8月18日、桜井聯隊長は少将に任じられて第55歩兵団長に転出し、後任に独立臼砲第1聯隊長伊藤義彦陸軍大佐が着任した。
 10月に入ると大陸命第861号で第13師団は南方へ転用されることになり、先遣隊として第13歩兵団副官高木利光少佐を隊長に将校や下士官兵50名が10月26日、沙市を出発、翌19年1月8日、サイパンに到着した。
 残った部隊は10月18日から湖南省常徳殲滅作戦を実行した。
      ◇   ◇   ◇
 本日の福島民友新聞に小生の寄稿文『釘隠し』が掲載されている。第1原発の風評被害に悩まされている郷里・会津で評判になっているに違いない。
 江戸時代、会津藩下屋敷で使用されていた本物だ。戊辰戦争で郭内は勿論、城下町も薩長軍に焼き打ちされたり、略奪されて会津藩関係のものは殆ど残っていない。
 あの鶴ヶ城は昭和40年に再建され、観光施設「武家屋敷」は勿論、偽物。それだけに「釘隠し」は貴重だ。下屋敷の道場で使っていたもので、姑くはわが家の家宝にしたい。その後に、しかるべき所に寄贈したいーと思っている。
2012年10月28日(日) 軍都・若松(112)
 昭和17年(1942)10月21日、陣容を一新した歩兵65聯隊は、湖北省江陵県沙市に移動し、以後、同地区の警備に任じた。11月4日には資福寺付近で戦闘が勃発し、20日から三湖作戦が始まった。4日ほどで終了し、29聯隊と交代した。
 翌年の1月13日から白露湖作戦が開始され、各地で敵が出没して聯隊に攻撃を仕掛けてきたが、聯隊は直ちに反撃に転じ、敵を補足、殲滅した。2月から江北殲滅作戦が展開され、日本軍は揚子江北部湖沼地区に堅固な陣地を構築し、逐次兵力を増強しつつあった敵3個師団を殲滅する作戦に乗り出した。
 65聯隊は焦子淵、古長堤などを攻撃し、白露湖付近の敵2000名を投降させる堂々たる戦果を得た。
 さらに5月には江南殲滅作戦を実施、揚子江南岸一帯の敵殲滅作戦を計画、揚子江を宣昌まで確保する作戦を立てた。聯隊は直ちに行動を開始し、揚子江岸を西進して万城、江口などを経て敵前を渡河。順水廟、金波嶺、王家沖などを次々と攻略し、沙市対岸と湖堤の到着してこの地区の警備を担当した。
 この作戦で第1中隊長大井中尉と第10中隊長大島中尉以下将校14名、下士官兵164名が戦死したが、戦果は大きかった。
2012年10月27日(土) 軍都・若松(111)
 65聯隊は昭和17年(1942)1月から湖北省龍泉鋪付近の警備を担当し、3月には湖北省宣都県紫金嶺地区に移駐して同地区の警備を担当した。この間、聯隊の第2大隊は依然、龍泉鋪の警備にあたった。
 5月に入ると淅侃地区で作戦が始まった。しかし、7月末には敵の2個師団が揚子江を渡って進入してきたのである。65聯隊はこれを殲滅すべく行動を開始し?下許家、波風台付近で撃退した。
 9月には高嶺寺付近でも戦闘が始まり、梅子渓付近から進入して来た敵を逆に包囲して殲滅することができた。
 その直前、8月1日、65聯隊長立花芳夫陸軍大佐は広島聯隊区司令官に栄転し、後任に陸軍憲兵軍医学校兵術教官の桜井徳太郎大佐が着任した。さらに同月17日、第13師団長内山英太郎中将が第3軍司令官に転出し、赤鹿理中将が交代した。
2012年10月26日(金) 軍都・若松(110)
 昭和16年(1941)10月18日、第38次補充兵252名が到着し、龍泉鋪付近を警備していた12月8日、英米に対し宣戦布告する事態に発展した。山本五十六大将率いる帝国海軍連合艦隊が「ニイタカヤマノボレ」を合い言葉にハワイの真珠湾を攻撃した。
 10年ほど前に真珠湾を訪れたが、いまなお海底に沈む戦艦アリゾナから燃料の油が洩れ出て海面に浮かんでおり、「リメンバー・パールハーバー」が米国人に深く刻まれているのを身近に感じたものだ。
 真珠湾攻撃成功の知らせは陸軍の第一戦に届いたのであろうか。軍部上層部が仲が悪いとされてきた陸海軍だが、軍人の志気を昂揚するには絶好のタイミングであったろう。
 12月20日から翌年1月17日にかけて警備地区境東辺の掃討戦を行った後、歩兵第29聯隊と交代して帰還した。将校10名、下士官兵150名の160名だった。
2012年10月25日(木) 軍都・若松(109)
 昭和16年(1941)1月現在の歩兵第65聯隊の将校名簿がある。
 珍しい名前が載っている。
 聯隊長は第8代立花芳夫陸軍大佐。副官は宝田長次郎大尉、第1大隊長は山本義雄少佐で、副官が小泉賢吾中尉。この人物は、小野町出身で東京農大名誉教授小泉武夫の父である。小泉名誉教授は「食の名人」として活躍した名物教授であった。
 廃刊になった雑誌『福島春秋』(歴史春秋社)の編集を世話していた頃、一度対談したかった人物だ。当時は食べ物について辛口の批評を発表しており、対談すれば、面白い話が聞けたと思う。残念なことをした。
 彼がこのブログに気付いたら喜ぶに違いない。
 第2大隊長鈴木忠少佐、第3大隊長は中井春一少佐、歩兵砲中隊長が平山勇中尉、聯隊機関銃隊長が植山正弘大尉、聯隊砲中隊長平林貞治中尉の陣容だった。
2012年10月24日(水) 軍都・若松(108)
 昭和16年(1941)9月28日、湖北省宣昌周辺での戦闘が続いた。10月15日、第13師団は第二次長沙作戦のため、第26旅団を抽出したため宣昌付近は第103旅団(歩兵65、104聯隊)のみとなって兵力は著しく減少した。
 敵はこの機に乗じて宣昌を奪還すべく兵力15個師団を動員して反攻を開始した。宣昌地区は敵に完全に包囲され、苦境に陥ったが、65聯隊は総力を挙げて迎撃し、危機に陥った宣昌の師団司令部を救援して死傷者が続出したものの、死力を尽して第26旅団が復帰するまで宣昌地区を死守した。
 1月以来の戦死者は、第1中隊長山本(英)中尉、第4中隊長及川中尉、第5中隊長山本(健)中尉、第9中隊長伊藤中尉、第10中隊長吉川中尉以下将校14名、下士官兵189名、計213名であった。
2012年10月23日(火) 軍都・若松(107)
 昭和15年(1940)8月から10月まで7次にわたる補充を受け、12月20日には陸軍少尉中野春郷以下56名で臨時迫撃砲隊を編成した。65聯隊は中支軍の最前線部隊として龍泉鋪に本部を設け、同地区に陣地を構築して警備にあたり、特に教育訓練に精緻を期するとともに、積極的に蠢動する敵を求めて宣昌北方地区に、宣昌対岸西方地区に、逐次作戦を展開することにした。
 16年1月15日、湖北省長橋渓左岸地区で戦端を開いて銭家山付近での戦闘に移り、次いで宣西突破作戦、宣昌北方作戦へと展開した。そして1月28日、歩兵第28聯隊と交代して帰還した。
 同年6月、宣西突破作戦の功により、各部隊に第13師団長内山英太郎陸軍中将から表彰状が伝達された。歩兵第65聯隊第1大隊、第11中隊、機関銃隊、聯隊砲中隊、歩兵砲隊。
2012年10月22日(月) 軍都・若松(106)
 65聯隊は漢水の奇襲渡河に成功し、爾後、建陽駅、河容鎮、半月山、石子嶺、龍泉鋪などを攻略して宣昌北方地区一帯を手中に収めた。こられの戦闘で第3中隊長松本中尉、第4中隊長矢部中尉、第9中隊長天野中尉以下将校12名、下士官兵268名併せて280名が戦死した。
 昭和15年(1940)4月には下士官と兵1536名の大量補充を受け、8月〜12月、湖北省龍泉鋪付近の警備にあたった。
 同年10月3日、冬期作戦及び宣昌作戦の功により第13師団長田中静壱中将から表彰状が授与された。
 多宝湾警備隊、下士官候補者隊教官少尉石丸貞義、
 第5中隊少尉 齋藤金一
 第2中隊軍曹 渡辺寅二
 第9中隊長中尉 天野三郎
表彰状授与に時を合わせて第13師団長、田中静壱陸軍中将は憲兵司令官に栄転し、後任に内山英太郎陸軍中将が着任した。
2012年10月21日(日) 閑話
 今日は2か月ぶりで近くの床屋に散髪にいってきた。5人ほど先客がいたが、予定通りに午後1時過ぎにはさっぱりした。帰途はいつもの通りに蕎麦やで昼食。盛り蕎麦にビールとこれもいつもの通り。
 しかし、ここからは「いつもの通り」ではなかった。左足の痺れと痛さで、杖も突いていても倒れそうになり、車がそばを通るので、ヒヤッとした場面も。 「これからは床屋も一人で行けそうになくなるのか?」と自問自答しながら帰ってきた。この日は気温が高く、24度を超えていたので、帰ってくると、汗びっしょり。下着まで着替えたが、まともなブログを打つ気力はなく、閑話でお茶を濁したー次第。お粗末でした。
2012年10月20日(土) 軍都・若松(105)
 昭和14年(1939)10月、将校と下士官兵併せて449名の補充を受け、湖北省で冬期作戦に入った。65聯隊は漢水、河畔旧口鎮付近を警備中、敵の冬期攻勢に遭い、聯隊の正面に約3万が漢水を渡河して陣地に浸入してきた。
 各警備隊は一時孤立したが、各所で迎え撃ち、勇戦奮闘して敵に甚大な損害を与えて漢水西岸に撃退することができた。特に多宝湾周辺の戦闘は惨烈を極め、第4中隊長佐藤中尉、第11中隊長大木中尉ら30名の戦死者を出した。
 翌15年も兵の補充から始まり、5月には第一次湖北省宣昌作戦が開始された。漢水を渡河して蒋介石が首都にした重慶の防衛第一線の要衝宣昌を攻撃せんと企図した。
 その第一段階として漢水東方地区に散在する敵を掃討する計画を立てた。65聯隊は豊楽河、南瓜店、コク山一帯の敵陣を攻撃して多大な戦果を上げた。続いて6月、第二次宣昌作戦が始まった。奥地へ奥地へと日本軍は侵略してゆく。
2012年10月19日(金) 軍都・若松(104)
 昭和14年(1939)5、6月にかけ三次に亘って補充兵がきた。将校、見習い下士官に兵併せても21名であった。充分な兵力でなく、本国の窮状が手に取るように分る。
 8月5日、襄東会戦の功により下記の6名が第13師団長萩洲立兵中将から表彰状と軍刀が授与された。
 第5中隊長角田栄一中尉、聯隊砲中隊長平林貞治中尉、第4中隊松崎政吉少尉、第2中隊軍羽根田信一軍曹、同室井精作軍曹、第12中隊遠藤武伍長
 翌日には、同会戦における第1大隊選抜黄砦山突撃隊寺島圓次少尉以下18名は武功抜群により第11軍司令官陸軍中将岡村寧次から感状が贈られた。
 同月、萩洲中将は第6軍司令官に栄転し、後任に田中静壱中将が着任した。さらに10月には65聯隊長吉田弘大佐が歩兵第33旅団長に転出、後任に関東軍司令部付の立花芳夫大佐が宛てられた。
2012年10月18日(木) 軍都・若松(103)
 昭和13年(1938)10月10日、第11次補充として兵80名が着任。12月1日、65聯隊長の両角業作陸軍大佐は本郷聯隊区司令官に抜擢され、後任に第20師団付の吉田弘陸軍大佐が着任した。 
 陣容が一新した65聯隊は湖北省淋山河街団風付近の警備にあたり、12月25日、大別山突破作戦の功により第13師団長萩洲立兵陸軍中将から表彰状が授与された。
 14年1月から4月にかけても将校、下士官兵の補充が続いた。こうした中、福島、宮城、新潟各県の慰問団が新州を訪れて兵たちを慰めた。前年の7月28日に次いで2度目の慰問であった。
 4月21日、軍は襄東会戦を企図した。大洪山脈並びに襄陽東方地区の敵を撃滅せんとし、聯隊は周家集、襄陽三合店、黄砦山、長店コウを攻略して敵に甚大な損害を与え、その戦果は個人に対する感状、表彰状となって全軍の称賛の的になった。
 しかし、その影には佐藤主計中尉ら33名の犠牲者を出したのである。
2012年10月17日(水) 軍都・若松(102)
 昭和13年(1938)6月から7月にかけて第7〜10次の補充員が到着し、計127名が着任した。8月26日から安徽省史河河畔の戦闘が開始され、9月には大別山突破作戦に移った。 
 そして10月25日、中国第2軍の首都武漢三鎮を攻略する作戦を企図した。このため第13師団は史河河畔の敵を撃破し、天然の要塞である大別山脈を突破して漢口に突入すべしとの命を受けた。
 65聯隊は六安舒城、新店を次々と攻略して大別山中央の標高1000メートルを越える峻嶮に突入して悪戦苦闘の末、突破した。そして漢口に突入を果たした。
 一連の戦闘で、第3大隊長沢村少佐と第7中隊長矢本中尉が戦死したのを始め将校17名、下士官125名、兵84名、併せて226名が戦死した。
2012年10月16日(火) 軍都・若松(101)
 昭和12年(1937)12月15日、65聯隊は南京付近の警備にあたり、17日には第四次補充員が到着した。将校13名、下士官と兵414名、計427名であった。翌年正月3日には第五次として将校8名と下士官と兵362名、計370名。
 補充を受けた聯隊は13日、江蘇省順陽作戦に乗り出す。ここでも戦死者37名を出した。5月3日には、江蘇省徐州会戦が始まった。軍は北支第2軍に対して済南地区の敵を撃破し、敵に南下する態勢をとらせ、中支軍に対しては、順陽平原に点在する敵を撃破しつつ、北進態勢をとらせ、敵主力50万人を徐州平野に集結させて、大包囲網を敷いて一挙に殲滅せんと企図した。
 65聯隊は麦畑の続く順陽平原の定遠を出発して、永城、土楼子の戦闘を経て徐州に向けて進撃、西門に一番乗りを敢行した。しかし、一連の戦闘で聯隊機関銃中隊長針岡寿大尉以下将校3名、下士官と兵48名が戦死した。
 これ以降、65聯隊は兵の補充を受けながら、中国奥地へ奥地へと進む。
2012年10月15日(月) 軍都・若松(100)
 この戦闘で11月8日、65聯隊は旅団長山田少将から賞詞を受け、さらに12月5日、上海派遣軍司令官、陸軍大将松井石根から感状が贈られた。将校らの感激はひとしおだったろう。
 同じ日、第三次補充兵の将校17名、下士官と兵357名が到着した。早速、目的の南京城攻略作戦が始まった。7日に始まった作戦は14日には終了し、戦死者は7名に止まった。
 この時、日本兵による中国民衆の多数の死傷者がでた。一部には、3万人が虐殺された、という報道もあり、「南京事件」として現在まで尾を引いている。「3万人は多過ぎる」という反論もあるが、数は問題ではない。日本軍の蛮行が問題なのだ。
 これに加担した65聯隊の将兵がいるに違いない。これについては、中国に対して謝罪しても仕切れない。心からお詫びしたい。
 日本軍は、南京を落とせば蒋介石は降伏するーと楽観視していたが、どっこい、蒋介石は内陸部の重慶に首都を移して交戦を続け、日本は泥沼に入り込むのだ。
2012年10月14日(日) 軍都・若松(99)
 聯隊が受けた損害があまりに大きかったので、本部は第一次、第二次に分けて将兵を補充してくれた。第一次は下士官と兵併せて55名、第二次が将校24名、下士官と兵399名計423名だった。失った分の8割弱に過ぎなかったが、この頃には早くも、日本国内から兵の補充が苦戦していた。
 昭和12年(1937)、日本軍は国民党の首都である南京を落とせば、蒋介石は降伏するだろうとの甘い考えから、南京攻略を企図し、実戦した。同年12月、65聯隊が所属する第13師団(師団長、萩洲立兵中将)第百3旅団(旅団長山田栴二少将)は、敗走する敵を追撃して、揚子江沿いに点在する敵軍を撃破し、南京防衛の第一線、謝家橋鎮及び揚子江封鎖線の江陰城を攻略することになった。
 江陰城一番乗りは平顕美少佐率いる第3大隊だった。この戦闘でも第11中隊長代理兼子少尉以下将校4名、下士官と兵76名の戦死者がでた。
2012年10月13日(土) 軍都・若松(98)
 昭和12年(1937)9月16日、聯隊長両角業作陸軍大佐は宮中に参内、軍旗を拝受し、勅語を賜わる。
 9月18日、聯隊の編成が完了した。将校109名、下士官兵3586名。同24日、若松出発。10月3日、上海に上陸、揚樹浦大康サショウに到着。11月11日、直ちに戦線に参加し、上海北西部の要衝老陸宅、馬家宅の攻撃を命じられる。
 要塞は堅固で、クリークに囲まれた上、数倍の敵兵のため、言語に絶する悪戦苦闘を強いられ、戦死、負傷者は1719名に上り、聯隊の半数を失った。
 主な戦死者は聯隊副官小畠哲次郎少佐、第1中隊長長沢市太郎中尉、第5中隊長高久武中尉、第6中隊長椙村正巌中尉、第8中隊長志賀繁中尉、第11中隊長佐藤国一中尉以下将校30名、下士官170名、兵420名計620名だった。
      ◇   ◇   ◇
 読売新聞が大誤報をやった。完全な虚報だ。11日付け1面「ips細胞利用で心筋移植」の記事だ。京大の山中教授がノーベル医学・生理学賞を受賞した直後の世紀の大誤報だけに授賞に水を指した。
 情けない。取材したのは共同通信、NHKと一緒だが、この2社は裏付けで怪しい、と分かって記事を取り止めた。読売は東大やハーバード大、それにマサチューセッツ総合病院に裏付けも取らないお粗末さ。本日の1面と8面で釈明しているが、とんでもない話だ。記者のみならず、次長、部長、編集局長は首だ。責任を明らかにせねばならない。
2012年10月12日(金) 軍都・若松(97)
 それでは支那事変以降の歩兵第65聯隊の歴史について書き込む。昭和12年(1937)7月7日、北京郊外の廬溝橋で演習していた日本軍に対して発砲事件があり、中国の国民党軍との間で戦闘状態に発展した。
 この日支両軍衝突事件は、外国の権益が集中する上海における抗日、排日運動を益々激化させ、8月9日、海軍大尉大山勇夫と1等水兵齋藤要蔵が保安隊のために斬殺される事件に発展した。
 ここに8月13日、海軍特別陸戦隊は、1万人の在留邦人の生命財産を守るために直ちに軍事行動を開始し、国民党正規軍(約30万人)と交戦状態に入った。以後、8年間にわたって日中戦争が継続した。
 8月15日、蒋介石は総動員令を下し、南京に大本営を設置した。これに対して日本は陸軍大将松井石根を上海派遣軍司令官に任じ、第3、第9、第11の各旅団を上海に上陸させたが、彼我の兵力差、堅固な要塞に対して如何ともし難く、さらに第13師団外6個師団を増派した。第65聯隊に再編成の命が下ったのは9月9日であった。
2012年10月11日(木) 軍都・若松(96)
 まず、昭和12年(1937)当時の歩兵第65聯隊の将校一覧をみる。聯隊長は両角業作大佐、第1大隊長は山口憲三少佐、第2大隊長山口武臣少佐、第3大隊長が平顕美少佐、それに歩兵砲中隊長が鈴木数馬大尉、聯隊機関銃中隊長が針岡寿大尉、聯隊砲中隊長が齋藤二郎大尉らの名前がある。
 この中に珍しい人物を発見した。第1大隊の軍医見習に木村守江の名がある。いわき市出身で、元福島県知事だった人物だ。4期目だったかに、汚職事件で地検に逮捕され、晩節は汚したが、福島県にとっては大物知事であった。
 退任後は田舎に戻り、内科医として老年まで地区民の健康の世話をみていた。そのずっと後の佐藤栄佐久知事も5期目に贈賄事件に抵触して座を降り、現在も最高裁で係争中のようだ。いかにしても権力者である知事の座に長く坐るのは悪いのだ。
2012年10月10日(水) 読売新聞にイライラ
 東日本大震災の復興予算19兆円が被災地以外の対策に支出された問題はわれわれ国民の血税が無駄な支出になったという、国民を騙すーいわば詐欺にあたる行為である。官僚が民主党政権を見限ってしたい放題なことをやっているのだ。
 これは10日前ほどのNHKの特集で明らかになった。その後、各新聞やテレビで取り上げて民主党政権の阿呆らしさを追及している。ところが、である。読売新聞は一切、この問題を取り上げていない。
 昨日、衆議院決算行政監視委員会で、小委員会を開いて追及しようとしたが、民主党は欠席し、開催される見通しはない。こんな馬鹿げた話があるものか!!怒り心頭である。
 毎日などは取り上げているが、読売新聞はなし。これがマスコミだろうか。無料、だから取っているのだが、読みたくない。小さなことながら、富津市長選も開票翌日に結果が載っていなかった。なにか狂っている。記者教育をやり直せ!!
2012年10月09日(火) 軍都・若松(95)
 まことに勇ましい聯隊歌である。白虎隊の名のもとに中国を侵略している気分が匂って来る。上海、南京、襄東などを次々占領して、中国奥地まで侵略してゆくのだ。これでは、正しく「中国侵略」だ。
 殊に南京城入城の際に、数万人といわれる民衆虐殺の疑いもあり、この若松聯隊がその一端を担ったのだろうか?そうでないことを祈る。
 明日から、主に支那事変以降の戦闘が行われた地域ごとの報告を書き込む。
      ◇   ◇   ◇
 京都大学の山中伸弥教授(50)がノーベル生理学・医学賞に選ばれた。再生医療や難病研究に役立つiPS細胞を作った功績に与えられるもので、日本人のノーベル賞受賞は19人目、生理学・医学賞は利根川進マサチューセッツ大教授以来、25年ぶり2人目。
 注目したいのは、細胞作成から6年目という早さだ。これまでは研究成果が発表されて半世紀も経ってから受賞、という場合が多かっただけに、今回の受賞が、今後の再生医療への道を開く端緒になるのは間違いない。
 振り返れば、隣の中国や韓国などはノーベル賞とは無縁だ。平和賞を受けた中国の人権活動家は共産党から自由を奪われていたし、自然科学とは無縁。こうした2等国、3等国が大きな顔をして周辺国と衝突を繰り返している実情は嘆かわしい。
2012年10月08日(月) 軍都・若松(94)
 歩兵65聯隊の将兵を勇気づける聯隊歌があるので紹介する。
支那事変の時に作られた。
1、 維新の華と謳われし 白虎隊士の熱血を
享(う)けし誉の武士が  今決然と膺懲(ようちょう=敵に大打撃を与え
2度と立ち上がれないように懲らしめる)の
正義の戦進めゆく  白虎その名ぞ我が部隊
2、 輝く御旗さきがけて 上海江陰南京も
鎧袖一触大和魂  徐州大別死を超えて
曠野を圧す勝鬨譜  白虎その名ぞ我が部隊
3、 転戦山河幾千里  行くや襄東また宣昌
栄光の感状幾度ぞ  軍旗に香る勲功は
御陵威と倶に輝かん 白虎その名ぞ我が部隊
4、 噫呼この勲受継ぎて 御詔畏こみつ
剛毅放胆武を磨き  気魄を練りて打ち立てん
大東洋の新秩序  白虎その名ぞ我が部隊
2012年10月07日(日) 軍都・若松(93)
 65聯隊、正式には第2師団第3旅団歩兵第65聯隊の若松設置によって地元若松市は軍都の名をほしいままにした。多数の将兵を迎えて街の商況も人気もうなぎ登りに上昇した。
 聯隊御用の調達から、軍用品の払い下げ、将兵の日用雑貨、入除隊記念品製作、写真館、旅館から兵営から排出される大量の残飯などの入札までいれたら、軍の経済効果は数え切れないほどであった。
 いうなれば「兵隊様々」だった。かくいう筆者の生まれた甲賀町の日本一本店は軍の御用達であった。母方の祖父は、写真からみても、かなりの大物で、なにかの記念に当時あった栄楽座を借り切って浪曲大会を催し、舞台上から挨拶している。
 大正3年(1914)頃の大野が原での観兵式で、馬に乗った将校が兵を閲兵、射撃演習で重機関銃を撃つ兵、銃剣術の試合などの写真や、食事や入浴風景など、懐かしい写真が残っている。
2012年10月06日(土) 軍都・若松(92)
昭和17年 10月 21日 湖北省江陵県沙市に移駐、警備。
(1942)
18年  4月 19日 白露湖作戦、江花江南殲滅作戦。
5月 1日 軍令陸甲第36号により編成を改正。
7月 1日 編成完了。聯隊長桜井徳太郎大佐以下3480名。
19年 5月 29日 湘桂作戦(12月4日まで)
12月 20日 広西省河池金城付近の警備(20年5月9日まで)
20年 5月 20日 湘桂反転作戦(8月14日まで)
8月 15日 終戦詔書発布。
18日 復員下令。
26日 軍旗奉焼(湖南省衝陽県で)
10月 5日 江西省湖口地区に終結。
21年 5月 20日 内地帰還のため湖口出発。
6月 13日 上海出航。
6月 23日 佐世保上陸、復員。
2012年10月05日(金) 軍都・若松(91)
昭和12年 9月 9日 歩兵第65聯隊再編成の命令。
(1937) 同月 18日 若松市で編成完了。将兵3695名。
25日 中支派遣のため若松出発。
10月 3日 上海上陸。上海で戦が始まる。
11月 15日 江陰城攻略戦(12月6日まで)
12月 7日 南京攻略戦(14日まで)
13年 1月 13日 准陽作戦(2月7日まで)
5月 3日 徐州作戦(19日まで)
8月 26日 史河河畔の戦闘、大別山の突破作戦
(10月25日まで)
14年 1月 4日 新州団風付近の警備(20日まで)
4月 21日 襄東会戦(5月31日まで)
9月 5日 歩兵29聯隊留守隊に交代し帰還。
15年 4月 13日 第1次第2次宣昌作戦(7月31日まで)
16年 1月 1日 宣昌付近の警備中、長橋渓左岸の戦闘、
宣西突破作戦。
17年 3月 9日 宣昌北方作戦、歩兵29留守部隊に交代、
帰還。
 以上、昭和17年(1942)までの動きを追ったが、目まぐるしく戦地を転戦しているのが分る。将兵は休む間もなく動かされていた。苦労が偲ばれる。
 あの南京城攻略作戦に関わっており、虐殺事件との関連は?
2012年10月04日(木) 軍都・若松(90)
 初めに、歩兵第65聯隊の通年の行動概要を述べる。明治41年(1908)5月8日、宮中にて軍旗が親受された。9月20日、兵営移転のため仙台出発し、26日、若松新兵営に入る。明治43年(1910)4月11日、韓国駐留のため屯営若松を出発、19日、韓国竜山着、守備につく。
 大正元年(1912)4月、交代帰還のため竜山出発、屯営若松に帰還。同6年(1917)9月、青島守備のため若松出発、10日後、青島上陸。
 翌7年9月、若松に帰還。同14年(1925)1月、軍備縮小により廃止となる。
     ◇   ◇   ◇
 本日は台風19号が関東地方を逸れて天気が回復したので気分が晴れ、近くの公民館まで足を伸ばした。足が悪いので30分ほどかかるが、実は先月20日以来、2週間ぶりの外出なのだ。
 季節の変わり目か、左足の具合が悪く、部屋を歩くだけが精一杯だった。理由は不明。
 気分が晴れたのは天気のせいかもしれないが、酒を4日ほどやめたのが効いたのか? 公民館では「ここんとこ、見えませんでしたね」といっていた。本を借りる常連なので気安く声をかけてくれるのだ。
2012年10月03日(水) 軍都・若松(89)
 明治41年(1908)6月26日、歩兵第65聯隊は木の香も新しい、若松の兵営に入営した。その日、若松駅から兵営までの沿道、滝沢町ー博労町通りー上一ノ町ー甲賀町は、各学校の生徒や市民で埋まり、旧城内での歓迎式に望んだ。
 『図説 近代會津百年史』の写真を見ると、沿道は市民で埋め尽され、歓迎アーチの下を将校が隊を作って行進している。隊員は、さぞや気分がよかったであろう。
 さらに家々の軒下には祝賀提灯が並び、若松市が全市一体となって待ちわび、歓迎した様子が伝わって来る。また、甲賀町には、現在の市役所栄町庁舎だが、憲兵隊分駐所が設置された。筆者が生まれた、日本一本店は分駐所の前にあり、憲兵隊員に随分、可愛がられたようだ。
2012年10月02日(火) 軍都・若松(88)
 本日から歩兵第65聯隊が始まる。若松城下は戊辰戦争で灰燼と化し、無惨な姿を曝け出していたが、明治初期、少しずつ回復の動きが芽生えた。明治22年(1889)4月、町政が施行され、さらに明治32年(1899)4月には、県内で初めて市制が施行された。
 若松市では、旧郭内を栄町と命名して、復興への意欲を示し、その中核となる陸軍の聯隊設置運動を積極的に始めた。明治29年(1896)2月、若松市会は兵営設置の建白書を陸軍大臣に提出した。
 市会はさらに、兵営設置請願とともに兵営敷地の献納を申し出た。現在の市立2中の用地一帯で、面積は12万余坪(39万6000u)だった。うち8万坪は郡市の
土地で、4万坪を買い上げる予定だった。
 かくて運動は実り、明治40年(1907)3月、聯隊の設置が確定した。栄町に兵営の建設が始まり、猪苗代町には広大な演習場もできた。
歩兵第65連隊
65聯隊の赤い門柱2本は現在も残り、往時を忍ばれる。
2中は筆者の母校である。
2012年10月01日(月) 軍都・若松(87)
 前述の数字は、日本軍に対する反日戦ではなく、反仏運動の巻き添え的な犠牲である。独立を祈願するベトナム民衆の愛国心は、老若男女の別なく赤々として燃え、祖国解放の熱意は筆舌に尽し難いものがある。
 日本軍は敗戦の悲嘆に陥り、昭和21年(1946)1月19日、歩兵第29聯隊は本部をバリアに移し、4月24日、サンジャク及びサイゴン港から内地へ引き揚げ、故国の土を踏んだ。全将兵は2986名であった。
 その後、ベトナムは南北に分かれ、南ベトナムはアメリカの支援を受けていたが、共産国家の北ベトナムと血みどろの戦闘を繰り返し、いわゆるベトナム戦争も北側の勝利に終り、全土が統一されたのは、承知のとおりである。
 明治29年11月に結成された歩兵第29聯隊の歴代聯隊長を列記して最後を飾る。
 (階級は大佐)初代依田広太郎、2代山本信行、3代平田辰造、4代島田繁、5代豊田竜成、6代及川恒昌、7代庄司平三郎、8代森知之、9代寺田秀武、10代村岡長太郎、11代山田軍太郎、12代伊丹松雄、13代関東、14代中川茂雄、15代工藤豪吉、16代鶴島無難太、17代小川恒三郎、18代上野西郎、19代水島顕、20代平田幸弘、21代川村薫、22代齋藤済一、23代佐伯文郎、24代飯島信之、25代牧野四郎、26代佐藤半七、27代古宮正次郎、28代小原重孝、29代大島護、30代三宅健三郎。
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