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2014年09月30日(火) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(37) |
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◇向山利信(生年不詳〜1868)
(太子流刀術家)
向山家は太子流刀術家の家系である。『校訂戊辰殉難名簿』の中に向山の名は見当たらないが、墓碑にある没年「明治元年戊辰9月24日」は籠城戦の後に會津藩が降伏した翌々日であり、また「壽昌院義山中道居士」という没年と法名からして戊辰殉難者であろう。
慶応4年1月3日の鳥羽・伏見の戦闘の後、6日に「慶応」は「明治」と改元された。
◇ ◇ ◇
朝日が29日付けで従軍慰安婦問題の訂正記事(8月5日)のうち、第1報を書いたといわれる元記者は間違いでしたーとする訂正の訂正記事を掲載した。今回も御嶽山噴火当日を狙い、いかに小さい記事にしたか、の姑息な考えが見え見え。
その元記者(67)が務めていた帝塚山学院大に「あの記者上がりを辞めさせないと爆破する」という脅迫文が舞い込んだ。国を貶めた記事を書いた責任からみれば当然だとおもう。だが、この元記者はすでに教授を辞めたそうだ。 |
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2014年09月29日(月) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(36) |
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◇小松新十郎(生年不詳〜1838)
(御使番)
諱は利義。その頃(天保時代)、各藩にあって、御使番が訪れた際、手筈を狂わせて恥辱を与えることが流行していた。
ある時、新十郎は加賀藩へお使いに参ったところ、御馳走に預かり、御膳が出された。御馳走番が罷り出て、「御頂戴なさるべし」と、手をついて申し出た。
だが、膳には箸が付いていなかった。新十郎は慌てず、やおら脇差から小柄を抜き、朱塗りの膳の縁を切り離し、これを二つに割いて箸として菜も汁も飯にかけて食べた、という。
この時、別の者が罷り出て、「大変不調法にも御膳に箸をつけ落とし、誠にご無礼仕りました」といって、改めて膳が運ばれた。新十郎はこの時も礼儀作法厳然として見事に頂戴した。
泰然自若という會津武士の典型といっていいだろう。 |
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2014年09月28日(日) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(35) |
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◇服部栄(1841〜68)
(戊辰殉難者)
慶応4年8月23日から籠城戦が始まった。會津藩は食料を確保するため、同29日、家老佐川官兵衛を総督とした出撃隊を編成した。春日佐久良の別選組、小室金吾左衛門の進撃隊、田中蔵人の朱雀士中二番隊など総兵力1000名であった。
前夜、藩主容保は酒を下し、別れの酒を飲み交わしたが、官兵衛は飲み過ぎて出撃が遅れてしまった。
西名子屋町の長命寺に籠る西軍を追い詰めて激戦を展開したが、やがて西軍の応援部隊が駆け付けて會津軍は不利になった。西軍の中でも土佐藩の攻撃は猛烈を極め、會津軍の惨状は甚だしかった。
西軍の損害は長州藩戦死7、負傷8、大垣藩戦死5、負傷10、土佐藩は最も多くの犠牲者を出したといわれるが、その数は明らかでない。
一方、會津藩の戦死者は125名と多く、別撰隊組頭服部栄はこの日の戦闘で手負い、翌年5月12日、死亡した。
◇ ◇ ◇
御嶽山が噴火した。まだまだ続きそうで、犠牲者は増えるだろう。長野支局長時代、長野営林局の招待でバスで登ったことを思い出した。のんびりとゆっくりと回りながら登った。穏やかな山ーの思い出しかない。 |
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2014年09月27日(土) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(34) |
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◇山田貢(生年不詳〜1968)
(戊辰殉難者)
慶応4年正月、鳥羽・伏見の戦端が開かれ、敗走を続ける幕府軍。奥州の玄関口、白河城で奥羽列藩同盟参加の東軍が西軍を迎え撃った。
4月25日、西軍は白河城に迫った。會津藩は家老西郷頼母を総督に、副総督に横山主税を任命して防衛にあたった。
5月1日、両軍は激突。會津藩士は200数十名が、仙台兵も100余名が戦死し、城は西軍の手に落ちた。
同29日、東軍は城を奪回すべく一大決戦を挑んだ。だが、西軍の防備は堅く、東軍の死傷者は増すばかり。6月12日には敗北して白河から撤退せざるを得なかった。
この戦闘で山田貢は戦死した。墓碑名には「慶応4年戊辰6月12日於白川口戦死」。
◇ ◇ ◇
読売巨人軍が昨夜、セリリーグ3連覇を果たした。ビールかけは最高潮だった。何故か長嶋がバックネット裏に陣取っていた。優勝するーと動物的な感で見たのだろう。
移籍1年目の片岡や井端は感激一入だったに違いない。常勝巨人へ移籍したからこそ感激の輪の中にいられたのだ。後はCSシリーズ、日本シリーズを勝ち抜いて日本一だ! |
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2014年09月26日(金) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(33) |
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◇横山恒徳(1798〜1864)
(江戸家老)
横山家は藩祖保科正之に仕えて以来、禄高700石で家老職の地位にあった。恒徳は通称主税。安政元年(1854)若年寄に登用され、翌年、江戸詰め家老へ。水戸藩の武田伊賀守、宇都宮藩の戸田大和守と並んで江戸の”三家老”と言われた。
文久2年(1862)7月、越前藩主松平春嶽は恒徳を招いて會津藩主9代容保に京都守護職を引き受けてくれるよう伝えた。恒徳は容保に復命したが、無政府状態に陥った京の現況や藩財政の窮状などから「辞退すべき」と進言する。
容保は一度は辞退するが、春嶽は會津藩祖保科正之が定めた「家訓15か条」まで持ち出して引き受けるよう迫ったため、守護職を引き受けざるを得なかった。
翌年、容保は会津藩兵1000名を率いて「天覧の馬揃え」を孝明天皇に披歴。陣将としての恒徳の指揮ぶりは評判となった。恒徳は200石を加増され、文久4年4月には14代将軍家茂から、野村左兵衛、手代木勝任らと共に二条城に召し出され、時服を賜った。
元治元年(1864)病を得て帰国し、37日間の闘病の末、亡くなった。
戊辰戦争の白河城を巡る戦闘で戦死した會津軍副総督横山主税は子息である。 |
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2014年09月25日(木) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(32) |
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◇重松信俊(生年不詳〜1868)
(伊予・松山藩士)
昭和55年(1970)会津史談会の宮崎長八会長(当時)は大窪山墓地の実態調査を行ったが、その際に重松の墓を発見した。
墓には「予州松山藩・重松銅次郎信俊 慶応四戌辰年六月十七日戦死」と刻まれている。慶応4年6月といえば、奥州の玄関口白河城を巡って会津軍と西軍が激しい戦闘を繰り広げていた時期。
西軍についた松山藩を離れて會津藩を応援した重松氏。昭和55年当時も身元を確認する作業を行ったが分からずじまいだった。
「このままでは可哀想〜」と小生は、この間の事情をまとめて愛媛新聞に投稿した。「重松氏を探して」の記事は平成22年(2010)6月6日に掲載された(写真)。愛媛県内からの反響を楽しみに待ったのだが、問い合わせはたった1件。それも関係なしーだった。江戸在勤の藩士ではなかったろうか?
藩の方針に逆らって義に殉じた士はいまだ身元不明のまま寂しく眠っている。 |
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2014年09月24日(水) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(31) |
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◇松平修理(1642〜85)
會津藩士の墓地なのに何故か他藩の武士が2名葬られている。そのうちの一人が松平修理だ。上総国佐貫藩1万5000石の藩主だった。
先祖は徳川和泉守信光の子親で、能見氏を称していた。松平12家の一つで、初代勝隆は、慶長18年(1613)徳川家康に500石で召し抱えられ、後に佐貫1万5000石に封じられた。
2代修理は高家品川高如の嫡子ながら、勝隆の養子となり、寛文5年(1665)大坂加番、同10年奏者番、延宝6年(41678)寺社奉行と順調に出すっせ街道を歩んだが、貞享元年(1684)将軍綱吉の勘気を受けて所領を没収され、會津藩主松平正容にお預けとなった。綱吉の治世、幕府要職にあった者が、感情の起伏が激しかった綱吉によって些細なことで処罰されるケースが多かった。修理は配所の會津で没した。
処罰の理由は定かではないが、羽黒の山伏良覚という追放者を扶持していた、とされる。
◇ ◇ ◇
朝日横浜総局の記者が昨年8月の夏の甲子園で記者章(腕章)を不正に他人に貸し出していたこと。この人物はスマートフォンで記者が立ち入れる応援席で写真を撮っていてたそうだ。
思い出したことがある。成田闘争が激しかった昭和40年代、朝日の腕章をつけた過激派が当局者を”記者面”して激しく追及していた。過激派が多かったので、その場では追及できなかった。が、朝日は当時から、新聞記者としての倫理を逸脱していた。 |
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2014年09月23日(火) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(30) |
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◇田村三省(1734〜1806)
(考古学者)
町人酒井忠友の3男だが、故あって藩士田村清次右衛門の養子となった。吟味所支配無役から物書本役、塩方任役と順調に出世し、天明元年(1781)廃田160石の公田耕作に尽力して益金のうちから1分を賜った。
同八年、幕府は奥羽松前へ巡見使を派遣、会津には14日間泊まった際、接待役を司り、高名な地理学者古川古松軒らと親しく交わた。古松軒は巡察行の見聞録『東遊雑記』の中で、「會津は23万石の大藩なれど城下の民の服装は貧しく、困窮している」と記してる。
天明の大飢饉の直後だけに、百姓一揆が起こり、藩士の俸禄を半減したほどで藩財政が窮迫した状態だった。5代藩主容頌は藩政改革のため江戸から本草学者佐藤成裕を招いたが、三省は世話役となって領内を回った。この時に知識を吸収して享和3年(1803)『會津石譜』を著した。
この完成を待って『新編會津風土記』の編纂が始まり、御用掛として尽力した。著書『孫譜録』は奥州三大飢饉(1783)の様子を克明に記録した名著である。 |
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2014年09月22日(月) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(29) |
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◇河原政心(1762〜1831)
(礼式家)
遠祖は近江国の住人。子孫重方が蒲生氏に仕え、蒲生氏断絶後は信州・高遠藩主保科正之に仕えた。その後、會津へ。
河原勘治の子で、幼名勝太郎。譜代の武門の家柄で、18歳から槍、弓、柔、剣に精を出し、5代容頌上覧の折には、その都度お褒めに預かった。
武芸にとどまらず多方面に才能を発揮した。学校躾方取締方を命じられ、寛政2年(1790)、29歳の時、養蚕の世話の為、藩外へ出張、栽培技術を学んだ。以後、44歳まで養蚕事業の展開に尽力した。
同9年には小笠原流礼式修行の為、江戸へ遊学。文化元年(1804)には家督100石を継いで礼式指南に。同4年には、所蔵する小笠原流礼法書600巻を3年前完成した藩校・日新館礼式方に寄付した。
これより先の同2年、江戸で南蛮國堅毘流火術の伝授を受け、幕府の命で大筒鋳造の役を命じられた。同5年、蝦夷地防備のため宗谷まで出向き、同7年には、相州(神奈川県横須賀市)防備で観音崎に1年間駐留、同11年、御密事奉行兼作事奉行となった。 |
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2014年09月21日(日) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(28-下) |
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◇横田俊益(1620〜1702)・下
(儒者)
前述で父俊次が俊益に諭した言葉、「父は貨殖を業としているが、心中財は尊ばない。そもそも身につけた材は時にはなくなるが、心につけた材は滅するとがない。学を学べば近くは日の道を知り、遠くは天地の理を極め得るので人生の至楽と言わねばならない」。
これは、中国・北宋の名臣司馬温公(司馬公)(1019〜86)が子孫に残した家訓によっている。
「金を積みて子孫に遺す 子孫未だ必ずしも守らず
書を積みて以て子孫に遺す 子孫未だ必ずしも読まず
しかず、陰徳を瞑々の中に積み 以て子孫長久の計をなさんには
これ、先哲の格言にして すなわち後世の亀鑑なり」
この家訓から用いたようで、俊次の博学ぶりがわかる。
陰徳とは、人に知られず行う善行、即ち学問を励むことで、学を学ぶことが子孫に遺す一番の見本である―とした。先哲は立派な先人。亀鑑は鏡、見本のこと。 |
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2014年09月20日(土) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(28-上) |
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◇横田俊益(1620〜1702)・上
(儒者)
若松城下、大町四つ角の豪商倉田俊次の第3子で、幼い頃から父が招いた名僧、興徳寺第23世逸傳から「般若心経」などを学び、寛永4年(1627)加藤嘉明が伊予松山20万石から會津40万石で移封すると、稚児小姓として召しかかえると伝えられた。が、父は「若すぎる」と断った。
俊次は「身に着けた材はなくなるが、心の財は滅することはない」と学問を身につけるよう諭し、11歳で連歌、点茶、13歳で「四書」、「詩経」、「論語」などを学んだ。寛永13年(1636)江戸に遊学。堀立庵や林羅山らについて勉学を励んだ。
寛永20年(1643)保科正之が23万石で會津藩を立藩すると、會津に戻っていた俊益を200石で召し抱え、侍講となった。
寛文2年(1662)侍講を致仕し、同4年、若松城下桂林寺町に稽古堂を建立し、武士や町人に学問を教え始めた。庶民の教育機関としては江戸時代最初であった。
その後、再度、正之の侍講とあり、300石を賜った。著書に『養心録』、『山内横田系譜』などがある。江戸での俊益の名は高く、林大学は「当世学者は多いが、俊益の如きは稀だ」と太鼓判を押した。 |
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2014年09月19日(金) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(27) |
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◇丹羽能教(1766〜1843)
(家老)
先祖は尾張丹羽郡に在して丹羽氏と称した。寛永年間、5世宗貞が藩祖保科正之に仕えた。5歳で母を、10歳で父と死別した。
幼少より書を放さず、一意勤勉沈黙寡言、長じて文武に秀で、また兵法に詳しく、経済にも長じた。
安永4年(1775)家禄400石を継いで外様組付になり、天明8年(1788)藩政改革で番頭組頭となった。後に、幼君容住の用人、伝副勤兼用人、奉行と出世した。
文化2年(1805)5代容頌が死去、容住が6代襲封すると用人頭取兼軍事奉行となった。容住はわずか4か月で死去し、7代容衆が襲封、能教は専任奉行へ。
折から日本北辺をロシアの船が出没したため幕府は會津と仙台藩へ北辺防備を命じた。同年正月、能教は藩士を率いて樺太に出兵、9月には帰国した。その功で100石が加増された。
さらに文化7年には、江戸湾防備のため會津藩は相模国(三浦半島)へ、白河藩は上総国(房総半島)へそれぞれ11年間駐留した。能教は一隊を率いて相模国の沿岸防備を担当、翌年、若年寄格用人に。同9年(1812)禄100石が加増され、翌年、若年寄となり、文政2年(1819)、遂に家老となった。
同8年、8代藩主容敬より禄100石を加須され、後に病を得て致仕を願いでたが許されず、同12年、ようやく致仕が許され、禄100石が加増された。78歳の長寿だった。
◇ ◇ ◇
全世界の注目を歩めたイギリス北部スコットランドの独立の是非を問う住民投票はどうやら反対が多数を占め、独立はならなかった。大英帝国が残ったのだ。海外の市場も歓迎している。沖縄の新聞社は「琉球王国」復活を夢見て取材陣を送ったが、”夢”で終わった。
沖縄のマスコミ、学者には琉球王国復活を夢想する輩がいるが、今回で目を覚ますことだろう。 |
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2014年09月18日(木) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(26) |
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◇加賀山蕭山(1751〜1828)
(書家)
医師加賀山盛昌(100石)の次男として生まれる。加賀山家は代々医を業としていたが、寛保(1741〜44)、蕭山の祖父盛政が會津に来て医を業として100石を賜り、4代藩主容貞に仕えた。
その子盛昌も医業を継いだ。しかし、蕭山は学業を好まず、馬術や遊技ばかりに勤しんだ。ある時、馬場で馬術の稽古をしようとしたら、仲間の一人が「彼は文字もわきまえず、禽獣にも等しい奴だ。一緒にはできない」と面罵された。
蕭山は涙を飲んで帰宅し、「吾もまた士なり、辱めを受け悔しさを晴らさねば」と一念発起。
日夜、文学に熱中し、特に書に心を配った。その頃、画家の奥山磐谷と交わっていたが、「この地にわが師とする人物なし」と諸国を巡游しようと持ち掛け、二人は諸国巡遊へ。
遠く長崎まで廻って書や絵を学び、苦学すること10年。天明7年(1787)、郷土に戻った。
5代藩主容頌から華様(書法)師範に取り立てられて俸5口を賜り、後に6代藩主容住から藩校・日新館の教授に推薦され、『日新館童子訓』などの刻書を残した。5代容頌、6代容住、7代容衆の墓碑銘を謹書して、會津藩”書道の中興”と言われた。 |
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2014年09月17日(水) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(25) |
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◇多賀谷勝之進(1848〜68)
(戊辰殉難者)
慶応4年5月19日、白河城が西軍の手に落ちた頃、西部戦線でも越後・長岡城が落城した。長岡藩家老河井継之助や救援に駆け付けていた會津藩士佐川官兵衛らは長岡城を奪回すべく6月1日、加茂を出発した。
勝之進(450石)は朱雀士中隊佐川隊の小隊長として先頭に立った。翌2日、會津の衝鋒・遊撃の二隊と長岡兵は、三方面から今町に侵入、悪戦苦闘の末、長岡城の奪回に成功した。しかし、この戦闘で勝之進は戦死し、20年の短い生涯を終えた。
西軍には長州を中心に松代、松本藩などの兵がいたが、御三家の尾張藩が加わっている。御三家筆頭の尾張藩は錦旗に頭が上がらなかったのだ。
大窪山墓地の墓は、子孫の多賀谷岩次郎が昭和11年(1936)9月に建立したもので、郭内・本二之丁の自邸で自刃した祖父勝右衛門(71)はじめ一族8名の殉難者名も刻まれている。
◇ ◇ ◇
イギリス北部のスコットランド独立の是非を巡る住民投票が18日、行われる。賛成多数なら、イギリスの国連常任理事国の立場が危うくなる恐れもある。
この一連の動きを取材するため沖縄の琉球新聞が記者を派遣しているそうだ。沖縄の独立を夢見ているらしい。そんな動きを日本政府はご存知か? |
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2014年09月16日(火) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(24) |
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◇小松成房(生年不詳〜1868)
(戊辰殉難者)
慶応4年8月23日早朝、西軍は若松城下に侵入してきた。鶴ヶ城は堅固であったが、長州藩の有地品之丞(後に海軍中将)は、南側が防備上弱点があると見抜き、一隊を城の東南の湯川を渡り、熊野口から三の丸に攻め入る構えを見せた。
城内には隊伍を組む兵士はおらず、近習、馬廻りや老幼婦女子であった。藩主・容保は残る藩士で守備にあたらせ、原田対馬は、士分の者は番頭格へ、以下の者は士分に取り立てて和田伝蔵(250石)を頭に対応した。
午後3時ごろ、大砲の援護を受けた有地の一隊は天神橋を渡って攻撃、迎え撃つ會津勢と激戦になった。會津藩は宝蔵院流の鎗術で鍛錬しており、槍を携えた會津勢に押しまくられ、また城内から婦女子が声を限りの声援を送って西軍の侵入を防いだ。
西軍は我先に湯川を戻って退却したが、勝ちに乗じた小松(100石)ら會津勢がこれを追わんとした。これに西軍は銃弾を浴びせ、湯川河原は敵、味方の死体で真っ赤に染まった、という。この戦闘で和田以下27名が戦死した。和田、小松以外は皆微禄の者ばかりだった。 |
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2014年09月15日(月) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(23) |
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◇友松氏興(1622〜87)
(家老)
四国・土佐の城下に生まれた。父は荘右衛門氏盛。幼名利盛。通称は勘十郎。初め佐藤氏と称し、後に友松と姓を改め、12歳の時、信州・高遠の城主保科正之に仕え、累進して2000石の家老となった。
山崎闇斎について宋儒学を考究し、大河原養伯、荒井眞庵が會津で藤樹学を伝えると、進んで講義を聞いた。神道は吉川惟足に、国学歌道は正親町公通について修めた。豪気にして博学で、正之の江戸在勤中は、藩の治世を任され、国老の田中土佐と共に果断の政治を行った。
老中の酒井忠勝は「勘十郎は言行二なく、古今の名臣である」と氏興を評した。寛文年間(1661〜73)、正之の命を受けて領内を巡検し、山川の地形、土俗、文書、古跡などを調査して『會津風土記』を編んだ。また家訓制定を正之に進言した。
同12年(1672)正之が死去するや、家禄を返上、晩年は土津神社の創建に尽力、同神社の東側から磐梯山麓を横切って流れる土田用水堰は今も清冽な流れを誇っている。 |
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2014年09月14日(日) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(22) |
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◇小川勝次郎(1856〜77)
(西南戦争殉難者)
名越鉄蔵の子として生まれ、明治6年(1873)従兄弟小川早次郎の求めで養子となり、その妹と結婚した。同8年、上京して警視庁4等巡査となり、翌年、3等巡査に昇進した。
維新後、各地で士族の不満が高まり、同10年、西南戦争が勃発した。勝次郎は綿貫少警視の麾下にあって討伐に向かった。多くの藩士は「戊辰戦争の仇」と復讐を叫び、汚名を雪ぐ絶好の機会と奮戦した。
西南戦争で戦死した旧會津藩士は、警視庁1等大警部の佐川官兵衛(元家老)以下69名。勝次郎は京町口の戦で重傷を負い、3月20日、病院で死亡した。その御霊は熊本市の小峯墓地忠霊塔に合祀されている。靖国神社にも合祀されている會津藩士は12年6月の「靖国神社と会津藩士」の項参照。同神社は明治2年、長州藩士大村益次郎によって、戊辰戦争の西軍の死者を祀るため創建された。
◇ ◇ ◇
朝日は昨日、英語、朝鮮語などで「従軍慰安婦」と原発事故問題の捏造記事で謝罪した記事を」を掲載した。当然だ。しかし、何故か「従軍」が抜けている。90年代に朝日の捏造で始まった従軍慰安婦は朝日の造語である。
それ以前は従軍看護婦、従軍記者しかなかったのだ。 |
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2014年09月13日(土) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(21) |
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◇桃沢惟一(生年不詳〜1677)
(小番頭)
戸枝市郎左衛門の末子、幼名熊之助。家は小禄で兄弟も多く、家計は苦しかった。折しも目付戸枝平兵衛が江戸へ上る際、滝沢峠まで見送りに行き、「親に養われるのが心苦しいから江戸へ連れて行ったほしい」と頼んだ。
平兵衛は種々諭したが、自害するそぶりを見せたため、江戸へ連れて行った。藩主保科正之はこれを聞き、「幼年にしては感心じゃ」と小姓として召し出された。
元服して彦五郎と改め、小番頭を仰せつけられた。正之の学問の相手として久しく仕え、また文学を好むところから友松氏興の記した正之の伝記を書き継ぐよう仰せつけられた。
寛文12年(1672)正之の死去に際して遺命によって副奉行となり、奉行の友松を助けて奉公した。その後は桃沢惟一と名を改め、吉川惟足と共に見禰山神廟(土津神社)の神楽歌を詠作した。
惟一は死の直前、親族の者に「弔いは仏式でなく、儒礼で」と遺言した。親族は遺言に従って 惟一の旧友だった横田俊益に依頼し、朱文公の家礼によって棺に納め、葬った。 |
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2014年09月12日(金) |
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朝日社長、捏造記事で謝罪会見 |
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朝日新聞の木村社長がようやく謝罪会見した。それも原発事故の「吉田調書」が公開された日に合わせ、慰安婦問題が小さい扱いになる、しかもニュース番組が終わる午後7時半を狙ったのだ。
明らかに前代未聞の姿を国民の前に晒したくないという意思が見え見えだ。みたことか、質疑応答では、吉田調書に関する質問が多かった。朝日の思惑に若い記者どもは踊らされていた。
慰安婦問題の”でっち上げ”は全世界に広がった。悪いニュースほど広がるものだ。それだけに朝日の責任は大きい、実に大きい。あれほど日本を、日本国民を貶めたニュースは記憶にない。
前にも指摘したが、朝日の責任でアメリカに建った慰安婦像の撤去、そして国連へ、強制連行した慰安婦などなかったーことを指摘する必要がある。
同席した編集担当役員のニックネームは”ヒラメ”。上をばかり見ているそうだ。 |
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2014年09月11日(木) |
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昭和天皇実録 |
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昭和天皇実録が公開された。興味深いのは太平洋戦争中の出来事だが、會津とも関係があるのだ。終戦後の昭和21年元旦、「人間宣言」を行った天皇は、「戦争で傷ついた国民を慰めたい」と周囲に語り、全国を巡幸した。
若松市には昭和22年8月18日、巡幸された。市役所前で市長や議員らがお出迎えしたのだが、その時の写真にわが亡父がはっきりと写っている。
終戦後、普通選挙法の施行によって第1回の市議会議員選挙が行われ、父は定数30で第3位で当選した。その時の選挙運動で、小学校入学前の小生が”小さな弁士”となって「来たる4月30日の選挙には、うちのお父さんのよろしくお願いします」とぶった。
さて天皇をお迎えする議員たちは緊張したことだろう。白い帽子を振って挨拶する天皇の脇にはMPが銃を肩に警戒している。真に終戦直後を思わせる写真だ。
『写真 図説 近代會津百年史』に収められている。
(左から3人目が父河野和夫) |
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2014年09月10日(水) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(20) |
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◇浮州七郎(1839〜68)
(戊辰殉難者)
藩校・日新館で学び、優秀なるを以て選抜されて江戸・昌平黌に遊学した。慶応2年(1866)、藩命によって京都に上る家老梶原平馬の顧問として同行した。が、当時の京都は一時小康状態に戻ったため、七郎は間もなく江戸に戻り、再び、勉学に勤しんだ。
同4年(1868)正月、鳥羽・伏見において戊辰戦争の戦端が開かれ、幕府軍は大敗した。急報に接した七郎は急遽、上洛。軍事参謀兼隠密の御用を仰せつけられ、直ちに戦後の防衛策を話し合った。
しかし、既に幕軍の士気は喪失していて収集する術もなかった。止む無く退却して大坂に退いたが、将軍慶喜は江戸に逃れた後であった。
七郎も江戸に戻り、箱根の峻嶮を境として決戦を試みようと尽力した。これもまた聞き入れられず、仕方なく七郎は暫く江戸に潜入した後、日光に逃れて幕府軍陸軍奉行大鳥圭介の軍に投じて、その参謀となった。
その頃、会津藩家老山川大蔵は田島(南会津)にあって日光口の守備にあたっていた。4月21日、大鳥と山川は連絡を取り合って日光に籠る西軍を攻撃した。
この戦闘で七郎は胸に貫通銃創を負った。山川は七郎を助けようとしたが、七郎は「土佐兵の中で我を知っている者がいる。首が敵の手に落ちれば恥なので、首を斬って持っていってくれ」と頼んだ。しかし西軍の追撃は急で山川は七郎の首を持ってくることはできなかった。 |
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2014年09月09日(火) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(19) |
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◇木村忠成(1631〜1710)
(奉行)
忠次の子。父が浪々の身で京都・紫野大徳寺近くの住んでいた頃、信州・高遠藩主保科正之が、異母兄の3代将軍家光に従って上洛し大徳寺に入った。
幼名重直は大徳寺で遊ぶ、活発で、利発な子であった。正之が訪れた際、住職は茶をもてなそうと、たまたま遊びに来ていた重直に茶碗を持たせた。
ところが、重直は正之の前に来ると、立ったままで茶を差し出した。はなはだ不遜な態度だったが、正之はこれを咎めず、「何故、立ちながら給仕したのだ?」と尋ねた。
すると重直は「我は豊臣家の臣である。故に関東の士には膝を屈せぬ」と答えた。正之は、大器なりと感じて「今は代も変わり、天下の士みな関東風に服している」と諭した。
「故に今より我に仕えよ」と父忠次と共に召し抱えた。父が150石、重直は3人扶持と金5両を賜って小姓となった。
寛永20年(1643)正之が會津藩主となった際、名を忠成と改めた。その後、寛文2年(1662)町奉行を務め、同8年、郡奉行、貞享3年(1686)南山お蔵入り(現在の南會津から栃木県塩谷郡、5万石)の郡奉行となった。
親子2代で會津藩祖保科正之に仕えた。 |
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2014年09月08日(月) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(18) |
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◇木村忠次(1615〜56)
(使番)
豊臣秀頼の臣木村長門守重成の子。重成は元和元年(1615)5月、大坂夏の陣で戦死。忠次は、その直後に生まれた。初め重直と称した。
京都・紫野の辺りに住んでいたが、寛永11年(1634)7月、上洛した保科正之が紫野大徳寺に入った時、正之に召し出された。 同13年7月、正之が信州高遠藩3万石から羽州最上20万石に増封された際、忠次は禄100石を賜り、さらに同20年(1643)7月、正之が會津23万石の大大名に移封された時、忠次も50石が加増されて使番となった。 |
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2014年09月07日(日) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(17) |
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◇飯河光義(1824〜84)
(明治日新館教授)
飯河岩之進の長男として生まれたが、幼くして父が亡くなったため家が途絶えた。長じるにしたがって豪壮にして大節、家の途絶えたことを嘆き、刻苦勉励して文を修め、武を練り、家門再興を誓った。
幕末、京の街は騒然とし無政府状態になったため、藩主容保が京都守護職に任じて上洛した。光義、自分の力を発揮できる機会を伺い、参加を申し入れた。容保はこれを聞き入れ、寄合組士としてお召し抱えになった。
元治元年(1864)7月19日、蛤御門の変が勃発、光義は槍を携えて奮戦、鎮圧に功があった。このため禄100石を賜り、外様組付となって、宿願は達せられた。戊辰戦争後は會津北部の大塩村中島地区に隠棲していた。
明治9年(1876)思案橋事件が起き、一味であった旧友中根米七を光義は一時、匿ったが、中根は同11年8月、熊倉村(現喜多方市)の光明寺境内で自決した。
その後、若松に戻り、同15年(1882)旧藩士中條辰頼らと力を合わせて私学校を設立、旧藩校に因んで日新館と名付けた。同24年(1891)4月、佐原盛純の撰文によって墓碑が建立された。 |
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2014年09月06日(土) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(16) |
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◇高津■川(泰)(1785〜1865)
(儒学者)
外様士13石3人扶持、佐藤覚左衛門の第4子として生まれ、後に高津傳吾成良の養子となって家禄350石を継いだ。幼児の時、学、後に平蔵と称した。生家が小禄で貧しかったため苦学し、徂徠の学を修めた。
文化5年(1808)會津藩北方防備の際は家老北原采女に従って樺太に渡り、帰国後、『終北録』を著した。
藩命により前述安部井帽山と共に江戸に上り、古賀精里の門に学んで程朱の学を修め、朝鮮より使者が来日した際、林述斎と古賀精里に従って対馬に渡って使者と応接し、 時事・詩文について筆談をかわし、これを紀行文『對游記』に著した。
藩校・日新館は徂徠学によって創立されたが、帰藩後は、安部井帽山と共に学風復古のために働いた。■川は体躯魁偉、その音声はさながら鐘の如しであったといわれ、旗奉行、大物物頭、学校奉行供番を兼ねた。
終始、日新館に見参して多くの弟子を育成した。また幕府の日光廟の事があれば藩主に変わって出席し、7代容敬の侍講を務め、老齢のため致仕した後も命によって9代容保の侍講も務めた。
81歳の高齢まで長生きし、遺体は遺言によって安部井帽山の墓の傍らに葬られた。■川は詩文に秀で、文は韓柳を、詩は李杜を主とし、佐賀藩の儒者草場佩川と共に「東西の二川」と称された。
◇ ◇ ◇
朝日が本日、ジャーナリスト池上彰氏の原稿不掲載問題で、報道局長,市川速水名で「お詫びと訂正記事」を掲載した。慰安婦問題でまったくの誤報を掲載し、国際的にも日本国を貶めながら、内外からの批判に目を背けてきたが、抗しきれずの結果だ。
以後の対応に注視したい。 |
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【お詫び】 (『会津の歴史』サイト管理人より)
当サイトの作成ソフトが第三・第四水準漢字に対応していないため■の漢字が表示できません。
ブログ『河野十四生の歴史ワールド』の方をご参照ください。内容は同じです。大変申し訳ございません。 |
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2014年09月05日(金) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(15) |
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◇安部井帽山(1778〜1845)
(儒者)
安田厚伯範光の長男として生まれたが、藩の儒者安部井澹園(100石)の養子となり、その禄を継いだ。通称弁之助、帽山はその号。
幼児より学を好み、寸暇を惜しんで勉学に励んだ。その頃、諏方神社で隔年に大祭(授光祭)が執行され、当日は神輿が街中を練り歩いて喧騒を極めた。帽山は独り戸を閉じて読書に耽り、窓外を伺うこともなかった。
学問は、初め古学(徂徠学)を主とし、藩の地誌『新編會津風土記』120巻の編纂に最も尽力した。その他、『日新館童子訓』等を著したが、家老田中玄宰が亡くなると、藩内には急に学風復古の動きが表面化し、帽山は高津泰らと藩命で江戸に上り、林述斎・古賀精里の門に入って程朱の学を修め、帰国するや、復古の主唱者となった。
文化7年(1810)11月、古学風改め純粋程朱の学風に復する旨の発令が出され、帽山は、この学問規則の改正に努めたということで、晒1反を賜った。
その後も久しく儒官にあって會津藩の教育を司り、その学風を細大にわたって定めたほか、『四書輯疎』29巻など多数を著した。
弘化2年1月、病を得て没したが、明治になり、旧門下生らが帽山と高津のために飯盛山上に頌徳碑を建立した。 |
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2014年09月04日(木) |
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広島災害義援金 |
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周2回通っているリハビリ施設「エニシア」で広島災害の義援金を募集中。横浜市鶴見区にある本部の役員山内将史さん(34)が「助け合いでいこう」と呼びかけた。現地に問い合わせたところ、「物資より現金が〜」となった。
千葉と本部の2か所にペットボトルを置いて、利用者に募金を呼び掛けている。72人が死亡、2人がいまだ行方不明で、自衛隊、警察、消防の他、全国からボランティアが駆け付けて懸命の捜索活動と復旧活動を続けている。
募金は8月末から今月6日まで続くが、われわれ利用者の善意が現地に届き、一抹の援助になれば幸いだ。 |
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2014年09月03日(水) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(14) |
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◇塩田昭博(1760〜1821)
(水野新当流柔術師範)
昭方の長男として生まれ、幼名武雄。後に萩之丞と称した。父に学んで柔術に長じ、傍ら宝生流の散楽を修め、音曲にも秀でた。当時、散楽を事とする者は、ほとんどが昭博を師としていた。
5代藩主容頌の奥番となり、隔年に江戸に従うようになってからは、依田勝英が柔術師範となった。
致仕して隠居になってからも父の門人渡部光豊が新たに道場を開こうとして果たせずに死亡したため、光豊の門人らが皆、昭博に学んだため、寸暇も得られなかった。
昭博は事あるごとに「柔術は技を演じるのみでなく、安居の時といえども心をもって心を練り、体をもって体を練り、帰臥、動静、みな陰陽剛柔の理にあらざるはなし」と言い、また、「師範というものは重圧である。一豪の謬(あやま)りは千里の差を生じ、先師をして汚名を受けしむるに至る。真に慎しまざるべからず」と言って自己を戒めた。
ある時は、高弟数人を引き連れて父の門弟並河光雄のもとに行き、「我が術は教えた。願わくば、その理を教えてもらいたい」と言って、教授に託した。
一切かくのごとくで、私意のない人物だった。 |
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2014年09月02日(火) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(13) |
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◇塩田昭方(1734〜98)
(水野新当流柔術師範)
昭矩の長男として生まれ、大三郎と称した。幼年より書を講じ、剣を修めた。また小林歳重及び父に従って柔術の奥義を極め、父の後を次いで水野新当流の師範となった。
寛政年間(1789〜1801)、江戸の渋川伴五郎という人が関口流の妙手なるを以て、藩がこれを招聘しようとした。家老田中玄宰は、水野新当流の技術をよく検討した上で決すべきであると、昭方及び、その門人の渡部光豊ら数人を邸内に招いて各々に甲冑を着けさせて柔術を演じさせ、大老の北原光保らがこれを観戦した。
この時、昭方は「柔術は捕挫の術にはあらず。修身の業にして萬技の元素である」とその理を弁明、並み居る者もその理に服し、渋川招聘の議は沙汰やみになった。
後日、藩校・日新館に柔術場が設けられたのは昭方の功によるものだった、という。 |
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2014年09月01日(月) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(12) |
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◇塩田昭矩(1701〜68)
(水野新富流柔術師範)
葦名氏の臣西海妓盛輔の後裔にあたる。父の名は喜兵衛。通称権六、諱は重矩。性は活発で文武に秀で用所役を勤めた。
柔術は元、明の帰化人陳某の伝えたもので、その書は難解な部分があった。水野新当流の師小林歳重は後進の為、教法数条を著したが、昭矩はこれを訳し、事の理を明瞭にして師を助けた。
当時、藩吏に秀傑7人あり、と言われた。横田光次郎(大目付)、丸山勝左衛門(郡奉行)、大沼市大夫(同)、今泉隼右衛門(目付)、苗村清三郎(山奉行)、今泉伊三郎(儒者)と昭矩で、「7人衆」と呼ばれた。
学問は朱子学を修め、当時は一般に徂徠学に傾き、朱子学を排する風潮があったが、昭矩は卓然として動かなかった。
父に就いて柳生流を学び、水野新当流柔術は師範として藩士の養育にあたった。
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朝日新聞の誤報問題がまた指摘されている。今年5月に”特報”として福島原発事故問題。第一原発の吉田所長の指示を無視して職員の9割は第二原発へ撤退ーと報じた。
政府の事故調査委員会の質問に答えた吉田所長の発言のうち、一部分だけを抜き取って「全面撤退」としていたことが判明した。反原発とはいえ、これまで現場で必死に
働いていた職員を貶める記事は実に情けない。職員は涙を流して「そんなことはなかった」と否定している。
朝日というマスコミはどこまで日本を、日本人を是界に辱めばいいのか。不買運動が起きそうだ。 |
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