河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2014年05月31日(土) 若松町役場の会津藩士(117)
 ◇栄町(17)

吉田 熊冶(安政4年8月生まれ)  32歳
八橋 元治(安政6年7月生まれ)  31歳
安西 牛九(明治元年五月生まれ)  22歳
西郷武八郎(安政5年7月生まれ)  32歳
渡部小三郎(安政3年11月生まれ) 33歳

     ◇   ◇   ◇
 いよいよ明日は第8回会津藩士慰霊祭だ。富津市の最南端、竹岡は會津から遠い。幕末、會津から家族を伴って一家で歩いてきたのだ。10日間はかかったと思われる。
 年寄りから幼児まで一緒だったのだ。そんな辺鄙な場所での慰霊祭。「遠くて〜」と腰が引ける人もいる。
 その慰霊祭に、また「会津と富津の架け橋隊」と名付けた赤べこと起き上がり小法師の飾り物が送られる。富津市の男性が副市長へ届けてきたのだ。延命寺は小法師が紛失しているので新しいのと変えよう。
 それにしても熱心な人がいるものだ。感心するばかり!
2014年05月30日(金) 若松町役場の会津藩士(116)
 ◇栄町(16)

牧原勘太輔(文政12年3月生まれ)  51歳
斎藤 守利(天保14年12月生まれ) 46歳
麻生 満吉(天保8年9月生まれ)   52歳
斎藤 岩記(文久2年2月生まれ)   28歳
斎藤 岩次(天保4年3月生まれ)   57歳
平山益次郎(天保14年11月生まれ) 46歳
荒川志津馬(嘉永3年9月生まれ)   39歳
大八木直四郎(弘化2年3月生まれ)  45歳
武田按次郎(元治元年2月生まれ)   25歳
常磐  栄(文久元年12月生まれ)  28歳
2014年05月29日(木) 若松町役場の会津藩士(115)
 ◇栄町(15)

宗川 虎次(文久元年6月生まれ)  29歳 (註)平民
原   勇(文久元年3月生まれ)  29歳
角 久右衛門(文政元年3月生まれ) 72歳
竹尾逓之助(慶応3年正月生まれ)  23歳
並河  亨(天保7年8月生まれ)  53歳
(註)明治2年(1869)蝦夷地・余市へ渡った会津藩士を率いた宗川成友の末弟。開拓に一段落をつけた後に、一家は余市から明治11年(1878)會津の耶麻郡窪町=会津坂下町=に戻った記録がある。その後、若松に落ち着いたのであろう。れっきとした藩士だが、開拓に従事した、というので平民扱いになったのではなかろうか。
 その他、余市移住に失敗して會津に戻った藩士は、鈴木留吉、鈴木権三郎、古田新平、清水伊与の4名がいるが、若松町にその名は見当たらない。
2014年05月28日(水) 閑話
 最近の支那の横暴、暴力、無法ぶりは目に余る。空では東シナ海の公海上空を偵察飛行中のわが自衛隊機に支那の空軍機が異常接近し、あわや参事になる寸前だった。24日のことで、自衛隊機まで30メートルに接近し、威嚇したのだ。ミサイルを積んでいる空軍機だ。
 小野寺防衛大臣は「常軌を逸した行動だ」と激しく批判した。さらに南シナ海ではパラセル諸島沖で26日、ベトナム漁船に支那の漁船が体当たりし沈没させるという、戦争直前の海賊行為をしでかした。
 東シナ海7〜南シナ海を「わが物」にしようとしている支那の国際法無視の傲慢な行動を許していけない。我が国とアジア諸国が一致団結して無法者を懲らしめなければならない。世界を敵にして資源確保に血道を上げる支那の共産党を打破しなければ〜。
2014年05月27日(火) 若松町役場の会津藩士(114)
 ◇栄町(14)

江花竹次郎(文久2年正月生まれ)  28歳
佐藤 定義(文化6年11月生まれ) 80歳 4位
松本恒次郎(天保5年6月生まれ)  56歳
松永 浅次(嘉永2年3月生まれ)  41歳
成田岩三郎(天保14年5月生まれ) 47歳
渋川源太郎(安政3年3月生まれ)  34歳

      ◇   ◇   ◇
 毎週2回通っているリハビリ施設「えにしあ」で、職員がアイパットを持ち込んだ。ユーチューブで歌謡曲に挑戦、河島英五の「時代おくれ」などを口ずさみ、図面をなぞる画面に挑戦、他の者は漢字の書き方にじっくり向き合っていた。
 リハビリをする者にとっては、指の運動になり、ボケ防止にも役立つに違いない。大人のおもちゃであるが、現実には子供らが勉強も忘れて夢中だとか。
 実際にやってみて夢中になるのが分かるような気がした。
2014年05月26日(月) 若松町役場の会津藩士(113)
 栄町(13)

近藤 義夫(元治元年9月生まれ) 25歳
佐藤勝之丞(文化8年3月生まれ) 79歳
大久保多蔵(弘化元年4月生まれ) 46歳
高橋 英門(嘉永2年6月生まれ) 41歳
柳沢 良三(文久3年6月生まれ) 27歳
大藪 久雄(明治元年2月生まれ) 21歳
楠  常八(文久3年3月生まれ) 27歳
永峯富次郎(明治6年2月生まれ) 17歳
中野 庄蔵(明治元年9月生まれ) 21歳
片山 友吉(天保7年4月生まれ) 54歳
2014年05月25日(日) 墓掃除
 今日は、来月1日の会津藩士慰霊祭に備えて富津市竹岡の延命寺の会津藩士墓地を清掃してきた。会員の瀬田さんのベンツに乗せてもらい、まず、延命寺墓地へ。2年ぶりで、墓地は草ぼうぼうと思いきや兼務住職の最上寺の計らいで業者が草刈りや周辺の整備をしてくれていた。
 瀬田さん夫妻は道具一式を持ち込んでの本格的なボランティア。会津藩士のみならず、備前藩士、白河藩士も眠る墓地は1時間ほどできれいになった。
 墓前には會津名物の赤べこと起き上がり小法師のつがいが「會津富津の架け橋隊」という台に乗った飾り物が延命寺と近くの松翁院に供えられていた。
 当顕彰会の運動が徐々に実をつけ花咲く時期を迎えているのかも知れない。
 嬉しかった!!
2014年05月24日(土) 閑話
 先ごろ、文化財保存や修復を支える地道な業績に光を当てる「読売あおによし賞」の本賞に福島県昭和村のからむし生産技術保存協会が唯一選ばれた。ご同慶の至りである。
 からむしはイラクサ科の多年草で、国の重要無形文化財・小千谷縮、越後上布の原料。繊維は「青苧(あおそ)」と呼ばれ、木綿より古い代表的な天然繊維で、『日本書紀』にも記され、正倉院に布地が伝わっている。
 化学繊維の普及で姿を消し、現在では、昭和村が本州唯一の生産地だ。保存協会では手作業による栽培と繊維を採取する「苧(お)引き」の技術保存、後継者の育成に努めている。
 戦国時代、越後から會津の領主になった上杉景勝が奨励したのが始まりで、冬季間、雪の上に繊維を晒す作業は風物詩だ。
 作品のネクタイは1万数千円、ブラウスは4〜5万円もする。
2014年05月23日(金) 若松町役場の会津藩士(112)
 ◇栄町(12)

中條 直義(文久3年2月生まれ) 27歳
福島 直寿(弘化2年8月生まれ) 44歳
田中多喜冶(万延元年8月生まれ) 29歳
風間 廉蔵(慶応2年11月生まれ)23歳
安藤  勇(慶応3年9月生まれ) 22歳
辰野 次郎(安政4年9月生まれ) 33歳 (註)
(註)辰野氏の子孫、辰野一郎さん(都内在住)によれば、辰野家は信州・高遠以来の旧家で、代々500石の上士。3代與右衛門が寛永13年(1636)会津藩祖保科正之に従って山形に移り、同20年(1643)會津に従った。
 戊辰戦争で13代源左衛門は大目付、義勇隊に属して奮戦。敗戦後、斗南に挙藩流刑された時、陸奥国三戸郡第八大区小三区荷怪井村に移住したが、明治6年(1873)一家8人で郷里・若松へ戻った。次郎(17)は源左衛門(55)の次男。
 明治22年(1889)4月に若松に町政が施行され、町議会議員選挙が行われた。納税額によって候補者は1〜3級に分けられたが、辰野次郎は1級候補者として名前が上がっている。その他、森川、塚原、佐瀬、宮森など旧家の当主の名前が載っている(『図説近代會津百年史』)。
2014年05月22日(木) 若松町役場の会津藩士(111)
 ◇栄町(11)

山内 豊吉(弘化2年6月生まれ) 45歳
清水四郎平(文久2年7月生まれ) 28歳
田口 正義(嘉永元年5月生まれ) 42歳
鈴木 保衛(弘化4年5月生まれ) 43歳
原田 種龍(天保13年8月生まれ)47歳
渡部八三郎(明治元年11月生まれ)21歳

      ◇   ◇   ◇
 第8回会津藩士慰霊祭は6月1日、富津市竹岡の延命寺で行う。今年で市内4か寺に眠る会津藩士の墓地墓参で二回りとなった。
 富津市内の人たちにも少しは浸透したようで、入会してくれる人もいる。その反面、今年こそ、と願っていた会津若松市長の室井照平君が直前になってキャンセルしてきた。自分が主催者の行事とダブったため、というが、新しく就任して以来、一度も現地に来てくれない。
 その他、会員夫妻が直前キャンセルしてきて、参加者の減少に頭が痛い。辺鄙な場所であるが、そこへ會津から10日間もかけて会津藩士が家族連れで赴任したのだ。
2014年05月21日(水) 若松町役場の会津藩士(110)
 栄町(10)

大澤 勇吾(文政7年5月生まれ)   66歳
小林 三郎(明治10年10月生まれ) 12歳
鈴木 音治(慶応3年111月生まれ) 22歳
中山裕三郎(慶応元年7月生まれ)   25歳
相川清之進(弘化2年9月生まれ)   44歳
佐藤  清(明治18年4月生まれ)  5歳

      ◇   ◇   ◇
 福島原発では、廃炉を向けた作業が始まっている。40年以上はかかる、といわれる気の遠くなるような作業だ。
 一方で、朝日新聞が事故当時の責任者だった故吉田所長の聴取内容を特ダネとして昨日から掲載し、しばらく詳細が報じられそうだ。
 それにしても、「安全神話」を真に受けて原発誘致を町議会で可決した大熊町と双葉町。当時の関係者はまだ生存しているはずだ。どんな気持ちで現在を受け止めているのか。誘致を可決した模様は2011年5月28日から6月4日まで「検証福島原発」で詳細に記述しているので、再度ご覧を!
2014年05月20日(火) 若松町役場の会津藩士(109)
 ◇栄町(9)

植村八之助(天保11年4月生まれ) 50歳
柳沢八次郎(文久元年正月生まれ)  29歳
吉田 勝吾(天保8年9月生まれ)  52歳
相澤 伊助(安政6年7月生まれ)  31歳
鈴木九八郎(万延元年8月生まれ)  29歳
矢部 政造(嘉永3年4月生まれ)  40歳
川井林之助(天保14年2月生まれ) 47歳
高瀬 伴助(文政5年4月生まれ)  68歳
下川 幾弥(文久2年8月生まれ)  27歳
相川 源助(弘化元年11月生まれ) 45歳
斎藤 熊吉(明治元年11月生まれ) 21歳
2014年05月19日(月) 若松町役場の会津藩士(108)
 ◇栄町(8)

林  勝助(嘉永4年6月生まれ)  39歳 (註1)
後藤 源八(文久2年10月生まれ) 27歳
植村八之助(天保11年4月生まれ) 50歳
多賀谷岩次郎(慶応元年3月生まれ) 25歳 (註2)
(註1)林勝助=文久年間分限帳に林閑助と安政5年11月に林長助の名がある。どちらかが親ではないか。
(註2)多賀谷岩次郎=戊辰戦争で薩長軍から「鬼官兵衛」と恐れられた会津藩家老佐川官兵衛は勝と再婚したが、勝は450石多賀谷勝右衛門の娘。この多賀谷岩次郎は多賀谷氏の縁者ではあるまいか。
2014年05月18日(日) 若松町役場の会津藩士(107)
 ◇栄町(7)

二瓶貞次郎(文久元年5月生まれ)  29歳
斎藤 金吾(文政12年12月生まれ)50歳
林   止(慶応元年2月生まれ)  25歳
吉田 新介(天保14年7月生まれ) 47歳
相良 貞次(安政元年12月生まれ) 35歳
君島 勝平(天保4年正月生まれ)  58歳
赤城 三郎(万延元年4月生まれ)  30歳
白井忠右衛門(天保7年2月生まれ) 54歳
梅津力四郎(文政元年12月生まれ) 71歳
高崎 伴助(文化10年6月生まれ) 77歳
2014年05月17日(土) 閑話
 3年ほど前、読売新聞に「大名屋敷 食事は庶民的」という見出しで都内港区の会津藩下屋敷跡地発掘で出たごみの中から、アジやイワシの骨が見つかったーという記事が載った。
 場所は母校慶應義塾の付属女子高校内で、18世紀後半のものとみられる魚の骨を発掘した。その結果、アジ、イワシなど、「賞玩によろしからず」とされた「下魚」の骨が全体の71%強を占め、「賞玩なり」のタイ、ヒラメなど高級魚は24%だった。またホウボウ、ボラなど「中魚」は2,6%だった。
 発掘にあたった研究者は「町人が食べるような生活雑記が多い。下級武士が出したごみであろう」と推測している。
 会津藩下屋敷は、藩祖保科正之が4代将軍徳川家綱から拝領した屋敷で、晩年、江戸湾を眺めながら過ごした。18世紀後半は5代藩主松平容頌(かたのぶ)か6代容住(かたおき)、7代容衆(かたひろ)の3人の藩主時代。
 藩主は上屋敷に住んでおり、下屋敷は下級武士が住まいしていたので、その生活ぶりは町人と同じような食事をしていたのだ。武士とはいえ、特権階級ではなかったことが分かる。
2014年05月16日(金) 若松町役場の会津藩士(106)
 ◇栄町(6)

牧野啓次郎(安政4年12月生まれ) 32歳
羽賀重太郎(安政5年3月生まれ)  32歳
板橋八太郎(文久2年正月生まれ)  28歳
星  清次(嘉永5年2月生まれ)  38歳
尾崎 七郎(文久2年正月生まれ)  28歳
小原辰太郎(文久2年10月生まれ) 27歳
中川寅次郎(慶応元年9月生まれ)  34歳
村松作太郎(安政6年4月生まれ)  31歳
永瀬 数馬(天保9年6月生まれ)  52歳
棚木熊五郎(文久3年5月生まれ)  27歳
2014年05月15日(木) 若松町役場の会津藩士(105)
 ◇栄町(5)

香坂 登京(弘化3年5月生まれ) 44歳
丸山忠次郎(慶応元年9月生まれ) 24歳
一条小三郎(弘化2年3月生まれ) 45歳
落合 繁次(明治元年8月生まれ) 20歳
宗像平三郎(慶応元年7月生まれ) 25歳
牧原 源蔵(天保3年9月生まれ) 52歳
鈴木清太郎(安政2年5月生まれ) 35歳
家坂章之進(弘化4年3月生まれ) 43歳

      ◇   ◇   ◇
 毎週火、金曜日に通うリハビリ施設の経営が今月1日から、横浜に本部がある「えにしあ」に代わった。これで3回目だが、内容は徐々に良くなってきた。
 車の送迎に多少の不安はあったが、解消。機器の使い方も、基本的な使い方を教えてくれ、とても親切だ。
 「息を吐いて」「吸って」と、細かに指導してくれる。これまでは自己流でやっていたので、効果は?だったが、今は違う。理学療法士による個人リハビリも丁寧だ。
 脳溢血で倒れて以来、左半身がしびれて杖をついての歩行だ。現状維持が目的だったが、歩行訓練のスピードも僅かに上がったし、目の前が明るくなったようだ。
2014年05月14日(水) 若松町役場の会津藩士(104)
 ◇栄町(4)

金田小文次(記載なし)
武田 清吉(文久元年12月生まれ) 28歳
岩田熊太郎(弘化元年5月生まれ)  46歳
川寄虎千代(明治5年5月生まれ)  18歳
本間  進(弘化4年10月生まれ) 42歳
吉川 種清(明治12年3月生まれ) 11歳
三坂大弥太(天保7年11月生まれ) 53歳
高橋 久輔(天保13年8月生まれ) 47歳
石山 房吉(文政5年正月生まれ)  68歳
小林晴冶郎(文久3年7月生まれ)  68歳
2014年05月13日(火) 若松町役場の会津藩士(103)
 ◇栄町(3)

池田岩次郎(慶応3年正月生まれ)  23歳
吉田 伝助(文化9年11月生まれ) 77歳
糸川 蔦美(文久2年12月生まれ) 27歳
平山 次郎(文久3年9月生まれ)  26歳
沖津義太郎(安政4年12月生まれ) 32歳
阿部松三郎(明治15年6月生まれ)  7歳

      ◇   ◇   ◇
 昨日の続きで、南シナ海の中国による衝突事件。中国が南シナ海に異常な関心を示すのには理由があるのだ。日本と接する東シナ海は海底が浅く、原潜の動きを日本やアメリカ軍に筒抜けなので、万が一、アメリカからの核攻撃を受けると、原潜から反撃することが不可能というわけだ。
 このため、海岸線から急に深くなる南シナ海への進出をやみくもに狙っているのだ。当面、ありもしない”恐怖”を怖れ、アジア諸国と摩擦を繰り返しているのである。
 そうした「海賊国家」中国にすり寄ってパラセル諸島を西沙諸島、スプラトリー諸島を南沙諸島と中国語読みの表記をする朝日、毎日の反日行動は許せない。馬鹿げた新聞だ!
2014年05月12日(月) 若松町役場の会津藩士(102)
 ◇栄町(2)

上野熊太郎(天保元年3月生まれ)  60歳
福田 清吉(天保6年9月生まれ)  54歳
鈴木九十九(文久3年5月生まれ)  27歳
中村  林(天保3年2月生まれ)  58歳
馬場 信冶(安政3年4月生まれ)  34歳
田中 数江(天保7年7月生まれ)  54歳
佐藤紀一郎(文化12年10月生まれ)74歳

      ◇   ◇   ◇
 このところ、南シナ海に不法に進出を図る中国と近隣諸国との衝突が続いている。「我が国の海だ」とばかりに強引に境界線を引き、石油掘削や資源を独り占めしているのだ。
 ”海賊”中国漁船はワシントン条約で規制されているウミガミを捕獲し、フィリピン当局に拿捕された。当然で、石油掘削ではベトナムと衝突している。
 アジア諸国と衝突を繰り返しながら領有権を主張するのが中国共産党なのだ。こんなバカな中国から、我が国の企業は引き上げればいいのだが、そうなれるとべらぼうに高い税金(?)や条件がついて、引くに引けないのが実情だ。
2014年05月11日(日) 若松町役場の会津藩士(101)
 ◇栄町(1)

町野 守衛(明治12年正月生まれ) 11歳
塩沢吉之助(慶応元年111月生まれ)24歳
田畑峯次郎(嘉永4年10月生まれ) 38歳
鯨岡 満吉(嘉永元年2月生まれ)  42歳
生田喜太郎(安政元年11月生まれ) 35歳
甲斐 広次(文久3年12月生まれ) 26歳
石沢 甚伍(天保3年4月生まれ)  58歳
赤塚 孝盛(嘉永3年10月生まれ) 39歳
藤井 重助(慶応元年2月生まれ)  25歳
嶋田彦四郎(慶応3年8月生まれ)  22歳
2014年05月10日(土) 竹島問題(最終回)
 膠着状態が続く中、韓国の李大統領(当時)は平成24年(2012)8月10日、韓国大統領として初めて竹島に強行上陸した。我が国は激しく抗議し、在韓武藤正敏大使を一時帰国させるなど最悪の状態となった。
 李大統領は12月に任期切れとなることから、政権の求心力を回復させるためのパフォーマンスであった。李は、竹島に不法常駐する警備隊から島の状況の説明を受け、「独島は韓国の領土であり、誇りをもって守っていこう」と警備隊を激励した。
 こうした韓国側の不法占拠は国際的にも糾弾されてしかるべきであるが、当時の民主党政権は”激しく抗議する”形に終始し、現在に至っている。
 韓国の政治家は、これまでの経緯から、国民の支持率が落ちると、「反日」を強く掲げることで、政権浮上を図るのが常だ。従軍慰安婦問題も同じことで、「併合時代」の重荷はいつまで続くやら。

       ◇   ◇   ◇
 明日から「若松町役場の会津藩士」を再開する。
2014年05月09日(金) 竹島問題(16)
 「竹島の日」決定に韓国は猛烈に抗議、その後、首相韓昇沫が平成20年(2008)7月、韓国首相として初めて竹島に上陸して「独島は韓国領である地位を明確にする」という、領有権を主張する行動に出た。
 我が国も、中学校の教科書社会科で、竹島を我が国固有の領土として載せていたが、民主党の鳩山政権下の同21年(2009)12月に発表された高校の「地理歴史編」の記述で、竹島問題の明記を見送る馬鹿な措置をとった。
 この年が「韓国併合100周年」にあたることから、韓国に遠慮したものだが、領土問題は絶対に譲れない最低線があるのに、それすら破った鳩山の愚かさが指摘される。
 結局は、民主党政権の自信のなさが顕著に表れたーといっていい。
2014年05月08日(木) 竹島問題(15)
 ところが、韓国は「竹島は歴史的に韓国領であり、ハーグの国際法廷は、この問題とは何の関係もない」と出廷を拒否してきた。つまり、自信がないのだ。昭和40年(1965)の日韓正常化でも、この問題は解決しなかった。
 こうした韓国の実効支配が続く状況の中で、島根県議会は平成17年(2005)3月16日、「2月22日を竹島の日」とする条例を可決した。竹島の領土権確立をめざした運動を推進して国民世論の啓発を図る趣旨で、明治38年(1905)に島根県が編入を公示した2月22日を「竹島の日」としたのである。
2014年05月07日(水) 竹島問題(14)
 こうした状態が続く中、韓国は昭和29年(1954)夏、竹島に警備隊が常駐できる永久的な施設を構築した。ヤグラ型鉄骨を組んで灯台を設置し、材木数トンを上げて警備員が起居できる施設であった。
 それを確認するため上陸しようとした我が国の巡視船に対して韓国は発砲したのだ。
 当時の状況について、巡視船「おき」は同年8月23日、竹島に上陸するため、島から500メートル沖合に接近したところ、韓国側は撤退するよう、信号を発した、という。「おき」は従わなかったため、韓国側は警告の意味で発砲したが、「おき」も韓国側に発砲して東方に退去したーと韓国側は発表した。
 我が国は厳重に抗議して、9月4日の閣議で竹島の領有権問題を国際司法裁判所に提訴することを決定し、翌25日、奥村外務次官は韓国公使を呼んで竹島問題を国際司法裁判所に付託する旨を伝えた。
2014年05月06日(火) 竹島問題(13)
 我が国外務省は、韓国の海洋主権宣言に抗議し、昭和27年(1952)2月12日付けで
「韓国のかかる僭称または要求を認めるものではない」
ことを発表した。
 翌年の6月27日、海上保安庁の保安官と島根県警察本部の警察官、それに島根県職員が竹島に上陸して調査した際、韓国人6人を発見、
「竹島は日本領である」
ことを告げて退去を命令した。
 そして島根県は「島根県穏地郡五箇村竹島」と記した標柱二本と
「竹島の周囲5〇〇メートル以内には第一共同漁業権が設定されているので、無断採捕を禁ずる」
という制札1枚を立てた。
 これに対して韓国側も自国領だとして標札を立てるため軍艦を派遣する強硬策をとり、7月には軍隊が上陸して日本の標札を引き抜くなど、いざこざが続いた。
2014年05月05日(月) 竹島問題(12)
 韓国の要求に対してアメリカは、
「竹島は朝鮮の一部として扱われたことは一度もなかった」
として拒否した。これにより、昭和26年(1951)9月に締結されたサンフランシスコ講和条約では、韓国への返還地域として「済州島・巨文島・鬱陵島」となっており、竹島は日本領土として残った。
 ところが、講和条約が発効する直前の同27年(1952)1月1日、韓国の李承晩大統領は突如、「海洋主権宣言」を発して韓国沿岸から50〜60海里の海岸資源及び地下資源は韓国に主権が存在すると一方的に宣言したのである。
 いわゆる「李承晩ライン」を引いて竹島をその中に含めてしまった。国際法を無視したやり方であった。
2014年05月04日(日) 竹島問題(11)
 韓国では、民族の独立を失うことへの激しい抵抗が起こり、その後も独立回復の運動が根強く続き、当然ながら、竹島は日本領土に含まれていた。
 韓国併合は第2次世界大戦で日本が降伏するまで続いた。この植民地時代に日本は韓国国内で鉄道を敷設したり、近代的な建築物を建てたりしたが、最もいけないことをしたのも事実だ。最たるものは「創氏改名」であった。韓国国民の皇民化を図るためで、韓国語も抹殺された。
 自分の名前を日本名にするのだから、韓国自体の抹殺であった。実に愚かなことをしたものだ。
 昭和20年(1945)の敗戦後、独立を回復した韓国は竹島の領有権を主張し、日本が主権を回復したサンフランシスコ講和条約の条約案作成段階でアメリカに対して日本が放棄する中に竹島を含めるよう、申し入れた。
2014年05月03日(土) 竹島問題(10)
 問題をややこしくしたのは、明治43年(1910)の我が国による韓国併合であった。日清、日露戦争を経て世界の列強の仲間入りを果たした日本は、韓国に「総監府」をおいて支配を強めていった。
 日本の安全と満州の権益を守るには、韓国併合が不可欠であると、考えたのである。
 当時、イギリス、アメリカ、ロシアの3か国は朝鮮半島に影響力を拡大することを互いに牽制しあっていたので、日本の韓国併合には異議を唱えなかった。日本は韓国国内の反対を武力で抑え込んで併合を断行した。

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 韓国で今度は地下鉄の追突事故が起きて多数の負傷者を出し、公共輸送機関に対する国民の不安が高まっている。韓国では、事故が起きると、関係者の責任追及に重きをなして捜査するため、原因追及が疎かにになっている。
 ”つげ口”ばあさんは、このことを頭に入れて今後の行動をとるべきだ。
2014年05月02日(金) 竹島問題(9)
 こうした中、明治38年(1905)1月28日の閣議決定で、
「この無人島は他国において占領したと認める形跡はない」
として「竹島」と命名し、我が国の領土として告示した。
 島根県は告示に基づいて同年2月22日、「歴史的に日本の固有の領土と確信してきた所属未定地を本県の管轄に編入し」、対外的には、竹島を近代法の無主地先占による領土権の確立を宣言した。
 これに対して、韓国(当時は大韓帝国)は、明治33年(1900)国王の勅令で鬱陵島を「鬱島群」とし、その行政区域を「鬱島群と竹島、石島」と定めた。しかし、竹島を、当時の大韓帝国では、「リャンコ島」と呼んでおり、現在の竹島ではないのだ。
 韓国側もそれを認めていたにもかかわらず「石島こそ竹島(独島)だ」と主張しているが、その根拠は明確になっていない。
2014年05月01日(木) 竹島問題(8)
 その後、幕府は鬱陵島については朝鮮の領土と認め、元禄9年(1696)、鳥取藩主に対して鬱陵島への渡海を禁止した。
 しかし、竹島への渡海は禁止することなく、明治時代まで漁業基地として活用されたことから、日本は
「竹島の領有権は放棄しなかった」
として我が国固有の領土と決めた。その証拠に、安永8年(1779)に長久保赤水が作成した『改訂日本興地路全図』には竹島が記されている。
 一方、韓国は、これら日本側史料の解釈を全面的に否定し、明和7年(1770)の『東国文献備考』の「興地考」を根拠に、「歴史的に独島(竹島)は鬱陵島とともに韓国領だ」と主張している。

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 「1強多弱」といわれる我が国の政治。安倍政権は「向かうところ敵なし」の状態でゴールデンウイーク中、多数の閣僚が外遊して「骨休み」している。政治アナリストに言わせれば夏の内閣改造を控えて”卒業外遊”とも呼べるという。
 日本維新と結いの会の合流話も進んでいるが、石原慎太郎らは、結いの江田代表に「乗っ取られる」のを怖れているーという。彼は官僚あがりのくせに官僚らしくなく弁舌もさわやか。神奈川県選出でスマートさも売りだ。
 さてさて、政界再々編はどうなることやら〜。
2014年04月30日(水) 竹島問題(7)
 元禄9年(1696)正月、因伯太守池田新太郎光政が老中へ提出した『竹島之書付』には、「隠岐国焼火山ヨリ福浦江七里程、福浦ヨリ松島江八十里程、松島ヨリ竹島江四十里程」とも記している。
 このように、竹島航路の途上に発見された松島は、大谷、村川両名の独占漁業として、また竹島渡海の寄港地として利用されたのである。
 鬱陵島での漁業の寄港地として竹島(当時は松島)を大谷、村川両名は利用しており、朝鮮は鬱陵島への渡海を禁止していたので、平和は保たれた。
 しかし、元禄5年、禁を破って鬱陵島へ出漁した朝鮮の漁民と日本の漁民が初めて遭遇、日本の漁民は、鬱陵島から追い出されtしまった。これは、朝鮮の『粛宗実録』を基にした平成5年(1993)の中学校の教科書「国史」にも載っている。
2014年04月29日(火) 竹島問題(6)
 前述の『竹島渡海〜』によれば、竹島が我が国の領土であり、永禄年中(1558〜1570)、幕府から米子の住人、大谷甚吉と村川市兵衛の両名に因伯太守池田新太郎光政を通じて竹島への渡海免許が下付されているのは明らかである。この免許に老中土井利勝、酒井忠世ら4名が署名している。
 以後、78年間、大谷、村川両名は竹島の漁業を独占し、将軍のお目見えを許され、お礼として江戸城改築の木材を献上した。
 また、当時、国替えの事務で目付として伯耆国にいた畑本阿部倍四郎五郎が立ち会っている。竹島の拝領は、4代将軍家綱の明暦2、3年だと記し、海を渡るときに寄る「松島」は「草木がござなき岩島」であるとしている。この「松島」が竹島なのである。

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 本日で2年4か月通ったリハビリ施設が終了し、新たな業者が同じ施設で5月から営業を始める。通った”成果”として強いて挙げれば、階段を一段ずつ降りられるようになったこと。狭い道なら杖なしで歩行できるようになったーことぐらいか。
 「これで終了」ということのないリハビリ。長嶋さんも「トレーニング」といって頑張っているという。こちらも「長さん」に負けずに頑張っていこう!
2014年04月28日(月) 竹島問題(5)
 一方、朝鮮側の史料にも、鬱陵島を磯竹島、または、竹島と呼んだこと、日本人が、この島を支配していたことを記録している。
 『芝峯類説巻二地理部』(万歴42年=慶長19年=1614)に「壬辰変後、人有往見者(略)近聞倭奴占拠磯竹島(以下略)」と記している。
 大谷、村川両氏の渡海免許より遙か以前から、鬱陵島を日本人が利用していた証拠として、慶長19年に朝鮮の東莢府使と宗対馬守との間で磯竹島論争が起きていた。

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 本日は、新キャベツとキュウリ、それにショウガを刻んで、独特の塩もみを作った。塩と昆布茶を混ぜるのがコツで、夕飯には食べられる。
 防腐剤も添加材もなし。無添加の、おいしい漬物である。日本人の食事に漬物は不可欠だ。酒のつまみとしても〜。晩酌が楽しみだ!
2014年04月27日(日) 竹島問題(4)
 江戸時代の享和元年(1801)、大社(出雲)の矢田高当が書いた『長生竹島記』には、米子の村川氏が竹島で大坂の人・徳兵衛なる人物の石碑を発見し、大谷、村川両氏が渡島した以前に、既に日本人の足跡があることを示し、文禄、慶長の役に際して、竹島を中間地として朝鮮へ渡った、としている。
 米子の大谷九右エ門の『竹島渡海由来記抜書控』によれば、元和4年(1618)江戸幕府から竹島を拝領し、竹島渡海御免の奉書を下された。以後、毎年、竹島で鮑や鯱等の漁業を営んだ他、檀木等の木材を伐採していた。
 また、竹島に渡る途中の松島でも、明暦2,3年(1656,7年)、竹島同様、阿部四郎五郎の取得として幕府から拝領し、鯱などを捕っていた。
2014年04月26日(土) 竹島問題(3)
 島根県竹島は、北緯37度9分30秒、東経131度55分に位置する。狭い水道を挟む東西の2島とその周囲15町(1635メートル)、東島は海抜125メートル、周囲10町(1090メートル)。いずれも火成岩からなり、四周は断崖絶壁をなしており、登攀することも困難で、2島間の水道の両側に狭長な磯浜が2,3か所あるが、飲料水にも乏しく、人の常駐するに適しない。
 従来、夏数か月だけ壱岐島の漁民が渡島して仮小屋に住んで漁業を営んでいた。竹島は、江戸時代初期、またはそれ以前に発見されてから明治38年(1905)2月22日、島根県の行政区域に編入されるまでは、「松島」として日本人に知られていた。この島根県告示第40号によって「竹島」と命名されるまで、古記録に記されてきた「竹島」とは、すべて鬱陵島を指していたのである。

        ◇   ◇   ◇
 韓国を訪問したオバマ大統領に対し、”つげ口ばあさん”は、史実にも明記されていない旧日本軍の従軍慰安婦問題を持ち出し、オバマから「戦時中であっても言語道断な人権侵害である」との発言を引き出し、悦に入っている。
 証明されない噂をまことしやかに喧伝する外交は、我が国は認めるわけにはいかない。旅客船沈没で国民から批判されているのを忘れたのか!
2014年04月25日(金) 竹島問題(2)
 竹島問題のバイブルともいえる1冊の本がある。『島根県竹島の新研究』(田村清三郎著)で、昭和40年(1965)11月に島根県松江市の島根県総務部総務課分室から出版された。
 それより先の昭和29年(1954)に島根県が出版した『島根県竹島の研究』を一部補訂して出版したものだ。竹島問題が大きくクローズアップされた平成8年(1996)に島根県にお願いして送ってもらった。
 それによれば、安土桃山時代には、福井・浄得寺所蔵の日本図屏風および、その系統の日本図屏風には、壱岐と朝鮮・高麗の間に「磯竹」という島が描かれ、豊臣秀吉の朝鮮出兵に関して磯竹島が日本の領域として初めて地図に示されている。 
 また、中国の明、清時代の1561年以降の各種日本図には、竹島を山陰道沖合に描いているーという古くからの史料を丁寧に記述して、竹島は我が国固有の領土であると、断定している。
2014年04月24日(木) 竹島問題(1)
 今年2月22日、島根県が竹島の領有権確立を目指して制定した「竹島の日」の記念式典が松江市で開かれ、政府から亀岡偉民・内閣府政務官や、自民党の細田博之幹事長代行ら与野党の国会議員16人が出席した。
 いうまでもなく、竹島は我が国固有の領土であるが、韓国が不法に占領している状態が続いている。
 文部科学省は、1月に中学校と高校の学習指導要領解説書に「竹島は我が国固有の領土」と明記することを決め、全国の教育委員会に通知した。
 式典で、溝口善兵衛知事は「韓国は竹島の占拠を既成事実化しようとする動きを強めており、誠に遺憾だ」と述べ、国に対して世論の醸成や国際社会への情報発信を強く求めた。
 これに対して亀岡政務官は「平和的に解決するため全力で取り組む」と応じた。
 これまで日本政府は明治38年(1905)1月、竹島の編入を閣議決定、之を受けて島根県は告示から100年にあたる平成17年(2005)、条例で2月22日を「竹島の日」と定め、翌年から毎年、式典を開催している。
2014年04月23日(水) 若松町役場の会津藩士(100)
 ◇材木町(下)

池上輿兵衛(天保4年10月生まれ) 56歳
中澤 平吾(明治9年4月生まれ)  14歳
丹羽 弥助(天保5年4月生まれ)  56歳
米野 市八(安政2年2月生まれ)  71歳
荒川秀三郎(安政元年9月生まれ)  71歳
                以上16人
(往時は川原で、蒲生秀行の時代=1601〜12=南の山々から材木を運び、鶴沼川に流して売買した商家を慶長14年=1609=郭内の米代からこの地に移したので町名に。江口市之亟という武士が蒲生家に仕え、1800石の物頭を務めていたが、蒲生家断絶の際、浪人に。その子善右衛門は山浦と改名し、その後も材木4町分の名主となって子孫が続いた。城西町、川原町、一部が材木町1丁目、2丁目に)
2014年04月22日(火) 若松町役場の会津藩士(99)
 ◇材木町(中)

中村 健助(天保6年11月生まれ) 54歳
加藤 栄吉(天保9年4月生まれ)  52歳
太田 健治(弘化元年2月生まれ)  46歳
加藤 時冶(弘化3年12月生まれ) 43歳
上野 勇吉(弘化4年正月生まれ)  43歳
坂 忠三郎(文久元年正月生まれ)  39歳
坂  清吉(安政元年12月生まれ) 35歳
佐原 景次(明治8年2月生まれ)  15歳
廣澤 要吉(文久2年正月生まれ)  28歳
荒川  純(万延元年5月生まれ)  30歳
池上 勝馬(文政7年正月生まれ)  66歳

      ◇   ◇   ◇
 この若松町役場の会津藩士は100回になった時点で、いったん中止。少し毛色の変わった連載を始めたい。現在、韓国で旅客船が沈没し、大変な事故が起こっている。
 我が国の優秀な海上保安庁の応援を求めることもなく、子供らを無駄に死なせている朴大統領。反日に凝り固まった”告げ口女”の責任は免れない。
 そんな状況で、島根県竹島が不法に韓国に占領されている実態を書き込む。
2014年04月21日(月) 若松町役場の会津藩士(98)
 ◇材木町(上)

小林 為助(文政11年2月生まれ) 62歳
長尾常之進(天保11年12月生まれ)49歳
村本政之助(文政10年9月生まれ) 62歳
石井 勘吾(慶応元年12月生まれ) 24歳
鈴木又三郎(文政6年5月生まれ)  67歳
長谷川勇蔵(文化9年10月生まれ) 77歳
皆川 俊幸(安政4年正月生まれ)  33歳
小沼継殿助(文久2年4月生まれ)  28歳
吉田久太郎(明治7年4月生まれ)  16歳
古川藤太郎(安政4年正月生まれ)  33歳

      ◇   ◇   ◇
 先ごろ、読売の夕刊で懐かしい名前が出てきた。塾に入学した際の担任だった池田潔先生である。イギリスの名門パブリック・スクールを卒業された教授は授業中、よくイギリス留学時代の話を懐かしそうに話されていた。
 その池田教授が『自由と規律』という本を出され、ロングセラーになっているという話題。お粗末ながら学生時代、その本は読んだ記憶がない。英文学者の池田先生は、寮生活を送ったリース校の寮生活や教員たち、スポーツなどを振り返るのだ。
 その中で、「社会に出てからおおらかな自由を享有する以前に、まず規律を身に着ける訓練を与えられる」と、イギリス人の考える自由について結論づけ、自由を保障するのは、勇気である、とも指摘している。読んでみたい本ではある。
2014年04月20日(日) 若松町役場の会津藩士(97)
 ◇川原町(下)

宮島 彦作(天保14年11月生まれ) 46歳
長谷川八太郎(明治元年8月生まれ) 21歳
平田民之助(文政2年11月生まれ) 71歳
武井 小橘(弘化4年10月生まれ) 42歳
阿部八之進(嘉永6年9月生まれ) 37歳
               以上18人
(慶長の頃まで、黒川(湯川)の河原に沿って南北へ斜めに住居があったので町名に。嘉永8年=1631=大洪水があり、人家悉く水没し、東西の通りとしたが、旧町名のままに残った。長さ3町26間=370メートル=幅4間=7,2メートル。若松第4尋常小学校、大法寺、弘長寺あり。
 町の東端を流れる湯川は源を布引山に発し、河沼郡に至って日橋川に合流する。一部が御旗町に)
2014年04月19日(土) 若松町役場の会津藩士(96)
 ◇川原町(中)

黒河内與次郎(弘化元年6月生まれ) 46歳
赤羽庄三郎(文化4年10月生まれ) 82歳 高齢2位【註】
春日 重泰(明治9年正月生まれ) 14歳
小林 〇八(嘉永6年2月生まれ) 37歳
渋谷 源蔵(天保10年9月生まれ) 50歳
(【註】350石、御旗奉行。幼少より学問を好み、武芸もよくした。西軍関係の蔵書をほとんど読破し、学生の訓育に功績があった。門下生に有為の士が多かった。明治27年、88歳で死去。善龍寺に眠る)

      ◇   ◇   ◇
 顕彰会の会員辰野さん、会報15号でお知らせした会津藩富津陣屋の藩士名は次号で終了しますが、その次は富津市内4か寺に眠る会津藩士を連載します。
 御先祖の名前が載るのを楽しみにお待ちください。
2014年04月18日(金) 若松町役場の会津藩士(95)
 ◇川原町(上)

伊澤四郎左衛門(天保4年11月生まれ) 56歳
小倉 守衛(文久元年9月生まれ) 28歳
山木司馬書(明治4年6月生まれ) 12歳
野島鉄三郎(天保10年9月生まれ) 50歳
菊地 幸澤(文政7年9月生まれ) 63歳
山本弥次郎(嘉永2年正月生まれ) 41歳
間瀬 清吉(明治元年4月生まれ) 22歳 (註)
市野千之助(嘉永元年3月生まれ) 42歳
(註)戊辰戦争の際、飯盛山で自刃した白虎隊士間瀬源七郎の縁者ではなかろうか。源七郎は350石、間瀬新兵衛の次男。慶応4年8月22日、藩主松平容保に従って滝沢村に向かい、戸ノ口原に出陣したが、西軍の猛攻に逢い、飯盛山まで退いて23日、自刃した。16歳だった。
 一族のうち、叔父の間瀬吉太郎は幕末、相模国(神奈川県横須賀市)に江戸湾防備で駐留して、現地で亡くなり、西徳寺に眠っている。
 小生は、会津若松市立2中時代、国語を習った女性教師が源七郎の子孫だった。
2014年04月17日(木) 若松町役場の会津藩士(94)
 ◇片柳町(下)

遠藤 文吉(安政2年12月生まれ) 34歳
富塚  徹(安政6年11月生まれ) 30歳
黒河内五三郎(天保11年3月生まれ) 50歳
大原吉次郎(慶応3年8月生まれ) 22歳
岩田 重吉(天保5年3月生まれ) 56歳
佐々木又三郎(嘉永5年11月生まれ) 37歳
皆川 喜助(弘化4年8月生まれ) 42歳
小池勝太郎(嘉永3年9月生まれ) 39歳
                以上18人
(旧柳原町と旧片柳町が合併して町名に。西は神指町柳原に通じ、南は材木町に至る。戸数18戸。昔、東西の通り四条南北の小路が数条あって柳原といった。足軽同心らの住居。柳の木が多かったので地名に。御旗町に変更)
2014年04月16日(水) 若松町役場の会津藩士(93)
 ◇片柳町(上)

望月孝太郎(安政元年2月生まれ) 36歳
柴  三郎(弘化2年11月生まれ) 44歳 (註)
鈴木源次郎(文政9年正月生まれ) 64歳
武藤蔵之丞(天保6年正月生まれ) 55歳
上田 広記(嘉永5年5月生まれ) 38歳
上田市太郎(安政2年7月生まれ) 35歳
太田栄次郎(天保6年7月生まれ) 55歳
尾崎栄之助(文政4年12月生まれ) 68歳
山内熊三郎(慶応2年3月生まれ) 24歳
梶内又三郎(慶応2年2月生まれ) 24歳
(註)「慶応年間会津藩士人名録附斗南藩職員録」には「柴三郎玄直」が開蚕掛」として載っている。『ある明治人の記録』によれば、柴五郎(後の陸軍大将)の兄五三郎は父佐多蔵と二人、廃藩置県後に斗南から會津に戻ったーとなっており、帰国後に改名したのではなかろうか。
2014年04月15日(火) 若松町役場の会津藩士(92)
 ◇新横町(下)

秩父 保世(文政4年9月生まれ) 68歳
野々村惣之助(弘化3年10月生まれ) 42歳
山口 清助(天保14年6月生まれ) 47歳
五ノ井郷実(明治11年4月生まれ) 12人
                以上21人
(明治初年に旧烏橋通りおよび薪丁、横丁を併せて町名にした。戸数143戸。東は融通寺町の南端、西は片柳町、南は川原町に至る。藤森稲荷、薬師堂、若松製紙場、佐藤人参製造所、山中酒造所などあり。
 烏橋は湯川にかかる橋。一部が湯川町に変更)

       ◇   ◇   ◇
 新横町に住んでいた旧会津藩士は以上なのだが、『會津人群像』の読者である会津若松市城前に住む無職、上杉恒子さん(85)から、「先祖はれっきとした藩士でした。斗南から戻って新横町に住んでいたはず」と指摘を受けて、原本を探したら、「猪狩義彦、安政6年7月生まれ」は、なんと「平民」になっていた。
 上杉さんの明治25年の戸籍謄本では、「若松町新横町50番地、士族猪狩勝蔵長男義彦」と記載されている。100石の上士で、本三之丁に住んでいたという。
 どうやら受け付ける際のミスのようだ。勝蔵は斗南に流された後、若松に戻り、義彦は若松郡役所に勤め、最後は若松第一尋常小学校(現在の鶴城小学校)の校長になった。小生の母校である。
2014年04月14日(月) 若松町役場の会津藩士(91)
 ◇新横町(中)

五十嵐留吉(明治4年正月生まれ) 19歳
皆川孫次郎(天保10年11月生まれ) 50歳
船山 平次(慶応3年10月生まれ) 22歳
神尾 清見(明治13年10月生まれ) 9歳 (註)
(註)後述の栄町追加分にある神尾勝治郎は、慶応4年5月1日の戊辰戦争の戦に勝治郎の父武右衛門の名前がある。神尾家は藩祖保科正之の母お静の実家の性で、直近では、元治元年=1864=神尾織部が奉行を仰せつかっており、石高は400石。屋敷は本一之丁。神尾家は代々、猪苗代城代、物頭を務めていた。清見はその子孫であろう。

      ◇   ◇   ◇
 昨日、顕彰会会員の遠藤さん(北海道)から、「梶原景昭さんが3月30日に死去されました」とメールが入った。梶原さんは会津藩家老、梶原平馬の子孫で、顕彰会発足時から参加してくれた。最近は体調を崩して、電話での応答も苦しい様子だった。
 昨年3月に「これから入院するので、退会します」と、苦しそうな声で連絡があった。「1日も早い回復を期待します」と応えたのが最後になった。
 平馬の最後も困難な状況だったーらしいことを思う時、去来するものが〜。
2014年04月13日(日) 若松町役場の会津藩士(90)
 ◇新横町(上)

森  裕衛(天保8年10月生まれ) 52歳
稲村 時衛(明治9年7月生まれ) 14歳
山室 重明(弘化元年2月生まれ) 46歳
根本 医磧(文政元年3月生まれ) 72歳
遠藤充佐義(安政4年2月生まれ) 33歳
野島 豊太(弘化2年6月生まれ) 45歳
斎藤 証契(慶応元年2月生まれ) 25歳
田邊 久衛(明治7年3月生まれ) 16歳
児島 宗説(嘉永4年正月生まれ) 39歳
滋野 甚吉(嘉永6年3月生まれ) 37歳
中島繁次郎(文久3年8月生まれ) 26歳
西方栄太郎(明治7年6月生まれ) 16歳
中井出孫助(天保2年7月生まれ) 59歳
2014年04月12日(土) 若松町役場の会津藩士(89)
 ◇融通寺町(下)

佐久間直次郎(安政3年7月生まれ) 34歳
貝沼  勇(嘉永5年9月生まれ) 37歳
藤澤内蔵丞(文政3年4月生まれ) 70歳
山口 清助(天保14年6月生まれ) 46歳
                以上12人
(栄町西分の北から西名子屋町に続く、長さ3町9間=340メートル=幅4間=7,2メートル=。戸数105戸。往時、融通寺があり、地名に。市内西南の入口にあたり、商人の町。至徳元年=1384=、領主葦名直盛が13世文誉に対して小館に融通寺を与え、蒲生氏郷に乞うて現在地にうつり、地名に。日新町、本町に変更)

      ◇   ◇   ◇
 このところ、成田空港は不安だらけの毎日だ。羽田空港が拡張を続けており、外国エアラインがどんどん乗り入れているからだ。お蔭で成田は週63便減った。
 羽田は都心から近く、勤務を終えてからでも乗れる便利さ。成田は「都心から世界一遠い空港」「午後11時から翌朝6時まで飛行禁止」など国際空港としての性格を持たない空港なのだ。おまけに入場するのに厳しい検問がまっている。開港前にヘリコから不便な空港をレポートしたものだ。
 昭和53年5月の開港の際、時の福永運輸大臣は「難産の子は育つ」と胸を張ったが、あの世で、「こんなはずではなかった」と嘆いているだろう。
2014年04月11日(金) 若松町役場の会津藩士(88)
 ◇融通寺町(上)

橋爪又次郎(文政11年8月生まれ) 61歳
要  恒吉(文政元年11月生まれ) 71歳
江川英之進(文政10年3月生まれ) 63歳
星  清記(安政3年4月生まれ) 34歳
山本 源太(明治9年12月生まれ) 13歳
渋井義太郎(明治7年11月生まれ) 15歳
鈴木芳次郎(慶応4年3月生まれ) 39歳
石塚 五平(文政元年8月生まれ) 71歳

       ◇   ◇   ◇
 福島県知事は今年11月で任期満了を迎える。次期知事選に向けた候補者選びがスタートしている。現職佐藤雄平は3期目を目指して準備を進めているが、自民党は今回は候補者を立てて戦う。
 佐藤雄平は、正直言って”オツム”はよろしくなく、〇〇づらしている。県知事を任せられる人物とは思えない。引退した元衆議院副議長渡部恒三の甥で一時の民主党ブームに乗って当選した。 
 雄平は会津地方、前の佐藤栄佐久は中通りの郡山で、順番からすると次回は浜通りだ。そこで、元いわき市長の参議院議員岩城光英の名が挙がっている。スポーツで鍛えた人物で、以前、会った際の目の光が気に入っている。
 長嶋ほどでもないが、目は本物だ。是非とも出馬してほしい。
2014年04月10日(木) 若松町役場の会津藩士(87)
 ◇諏方四ツ谷

荒川 〇〇(天保7年7月生まれ) 60歳
鈴木長次郎(安政2年2月生まれ) 35歳
檜山重太郎(文化10年10月生まれ) 76歳
雪下佐次郎(文久2年12月生まれ) 27歳
山口 平伍(天保9年3月生まれ) 52歳
植村 〇〇(文政3年正月生まれ) 70歳
星野 辰国(嘉永2年4月生まれ) 41歳
高橋  一(明治11年2月生まれ) 12歳
                以上8人
(桂林寺町の南端、諏方神社の後ろから屈曲して西は融通寺町に、北は赤井町に出る小路。戸数30戸。珍しい習慣あり。祭礼の際、家主が互いに葬式の品を持ち寄って手伝った、という。本町に変更。
 小学校ー中学校―高校、慶応大学と1浪も一緒だった友人平塚が住んでいた、懐かしい町内だ。今は駐車場に)
2014年04月09日(水) 若松町役場の会津藩士(86)
 ◇赤井町

岩田甚之助(天保12年11月生まれ) 48歳
斎藤 次郎(元治元年11月生まれ) 26歳
佐々辰四郎(慶応元年7月生まれ) 25歳
(諏訪四谷の北に並び、西は融通寺町に至る、長さ14間=25メートル=、幅3間=5,4メートル。戸数62戸。葦名氏の時代、赤井印旛が郎党で居住した故、地名に。西光寺、熊野神社などあり。本町に変更)

      ◇   ◇   ◇
 流れ着いた重油被害のため、3月20日以来、休漁していた富津市の富津漁協の潮干狩りが12日から再開されることになった。おめでたい。
 周辺にオイルフェンスを張って、流出に備えての再開。かきいれ時の5月のゴールデンウイークは営業できるーと漁民、民宿は喜んでいる。
2014年04月08日(火) 若松町役場の会津藩士(85)
 ◇西名子屋町(下)

大河原丈之助(文政7年7月生まれ) 66歳
松本 亀露(文政13年正月生まれ) 60歳
島田新三郎(天保13年6月生まれ) 48歳
藤井 伴蔵(天保元年4月生まれ) 60歳
石綿 新蔵(文久3年11月生まれ) 26歳
伊藤房次郎(文政3年6月生まれ) 70歳
田完上藤太郎(弘化4年10月生まれ) 42歳
                以上17人
(融通寺町の末に続き、赤井町の南から北の方、七日町に至る。長さ5町23間=590メートル=、幅4間=7,2メートル。戸数144戸。
 町々の名子譜代が差異をきたした故についた地名。長泉寺、興性寺、西連寺などあり。日新町、本町に変更)
2014年04月07日(月) 若松町役場の会津藩士(84)
 ◇西名子屋町(上)

佐藤  等(天保2年5月生まれ) 59歳
竹田  節(明治17年3月生まれ) 6歳
米畑 清蔵(文政11年11月生まれ) 61歳
木村常三郎(慶応3年12月生まれ) 22歳
菅井 善極(文政11年4月生まれ) 62歳
広野 克己(嘉永元年6月生まれ) 42歳
長谷川寅次郎(安政5年10月生まれ) 31歳
荒川 勝蔵(天保4年8月生まれ) 56歳
大竹 類八(明治11年12月生まれ) 12歳
飯塚 軍次(文政11年10月生まれ) 61歳
2014年04月06日(日) 若松町役場の会津藩士(83)
 ◇善久町(下)

秋山 清八(嘉永元年8月生まれ) 41歳 (註)
西川 義次(明治10年3月生まれ) 13歳
桐山 運蔵(天保9年11月生まれ) 51歳
                以上9人
(当麻中町の北、長さ2町42間=300メートル、幅3間=5,4メートル=。戸数41戸。往時、葦名氏の臣、佐瀬大和が和子=武士に仕え、農耕に従事した半奴隷的身分の農民=が住んで、大和和子町と称したが、町内にある法光院を善叶寺と号した故に葦名時代中頃、善叶町と呼んだ。後に、善久町に改めた。日新町に)
■(註)秋山清八=17歳で京に上り、別撰組に選ばれ、御所の警護にあたる。鳥羽・伏見の戦では、先頭で奮戦し、右手に負傷して若松に戻る。
 間もなく、越後口に向かい、赤谷口の戦いで左足を負傷した。維新後は、専ら郷里の公共事業に尽力し、會津中学校の創立や育英事業に力を注いだ。明治17年=1884=県会議員、同32年=1899=、初代若松市長となる。2期途中の大正4年=1929=8月、68歳で死去)
2014年04月05日(土) 若松町役場の会津藩士(82)
 ◇善久町(上)

佐野権一郎(安政元年3月生まれ) 36歳
鈴木午三郎(慶応元年9月生まれ) 24歳
横山 永馬(嘉永4年9月生まれ) 30歳
新藤文太郎(安政2年11月生まれ) 34歳
増沢 清助(嘉永元年10月生まれ) 41歳
斎藤 久三(明治8年4月生まれ) 15歳

      ◇   ◇   ◇
 平成27年度の小学校の教科書の選定作業が終了した。懸案だった領土問題で、島根県竹島と沖縄県尖閣諸島を「我が国固有の領土」と規定し、「竹島は韓国が不法に占拠している」と明記した。当然であり、遅すぎた感じもする。
 竹島の不法占拠が続いている現状については、以前も別のブログで書いたが、近く、再録して読者の喚起を待ちたい。
2014年04月04日(金) 若松町役場の会津藩士(81)
 ◇針屋町

横山 丈助(文政9年11月生まれ) 63歳
高畑 次郎(慶応3年5月生まれ) 23歳
小山 徳次(安政6年7月生まれ) 36歳
三宅 覚馬(文政元年5月生まれ) 72歳
                以上4人
(善久町の北、長さ2町47間=300メートル、幅3間=5,4メートル=。昔、針師が多く住んでいたので地名に。見性寺あり。日新町に変更)

 ◇針屋名子屋町

冨田 清治(文政8年10月生まれ) 64歳
山浦 福松(万延元年5月生まれ) 30歳
                以上2人
(西名子屋町秋山邸から北針屋町の末にいたる。戸数40戸。同じく日新町に)
2014年04月03日(木) 若松町役場の会津藩士(80)
 ◇当麻中町

今田 満橋(文政10年3月生まれ) 63歳
物井近之助(天保12年11月生まれ) 48歳
中野 常次(慶応3年3月生まれ) 23歳
小島常次郎(天保5年12月生まれ) 56歳
佐藤 新吉(嘉永5年12月生まれ) 37歳
木村  定(明治17年10月生まれ) 5歳
吉田常之進(天保5年4月生まれ) 56歳
丹羽 岩吉(文久3年2月生まれ) 27歳
                以上8人
(当麻町から西に折れる、長さ1町48間=200メートル=、幅4間=7,2メートル。戸数71戸。当麻町から別れた。大蓮寺あり。日新町に変更)
2014年04月02日(水) 若松町役場の会津藩士(79)
 ◇当麻町

広田龍一郎(弘化4年5月生まれ) 43歳
山崎新次郎(文久2年8月生まれ) 27歳
赤塚孝太郎(弘化3年7月生まれ) 44歳
狩野 正彦(嘉永2年6月生まれ) 41歳
山崎又三郎(文久2年6月生まれ) 28歳
大庭 重助(文政8年4月生まれ) 65歳
笹原 文蔵(明治7年4月生まれ) 16歳
志賀孫太郎(弘化3年5月生まれ) 44歳
棚木文右衛門(文化14年8月生まれ) 72歳
                以上9人
(桂林寺の西、赤井町より北は大和町に続く、長さ2町45間=300メートル=戸数113戸。当麻山東明寺があったので地名に。東明寺、長泉寺あり。日新町に変更)
2014年04月01日(火) 若松町役場の会津藩士(78)
 ◇上大和町
五島 源八(天保4年12月生まれ) 56歳
中村 善八(文政3年12月生まれ) 69歳  以上2人
(当麻町の北、針屋町に至る。戸数16戸。光明寺や旧家新城家あり。京都帝大総長新城新蔵が生まれた町内である。日新町に変更)

 ◇中大和町
西村 幸三(弘化4年6月生まれ) 43歳 1人
(七日町に変更)

 ◇下大和町
猪俣 秀作(天保8年正月生まれ) 53歳 1人
(中大和町の北、田圃に至る。戸数72戸。往時、葦名氏の家臣佐瀬大和が家人を住まわせたので地名に。金剛寺、大安寺、光妙寺などがあり。城北町、七日町に変更。まさに由緒ある町名が消滅した)
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