将軍夫人が、お静の方の懐妊を忌むだのは、むろん激しい嫉妬からでもあろうが、 「もしも妾腹に男子が生まれた時は・・・」 将軍位を巡っての紛争も予想されぬことはない。 事実、正之が生まれた頃は、3代将軍を誰にするかということも決まっていなかったのであり、大坂城には豊臣秀頼を擁した豊臣の残存勢力が健在だったし、長年、戦乱の苦しみ悲しみをなめて来た於江としては、 (いささかの油断もならぬ) と思い極めていたのであろう。 於江の場合、単なる女の嫉妬というだけで片付けてしまえぬ何物かがあるように感じられる。それは戦国の乱世を生き抜いて来た女の重みが、やはり匂いたってくるからだ。
秀忠もまた営々として於江ひとりを守り通してきたわけだが、はからずもお静の方を見るに至って触手が動かざるを得ぬところとなった。 謹直な将軍・秀忠が、恐妻とのトラブル覚悟で、生涯にただ一度の「浮気」をしたのであるから、保科正之の母は、すぐれて美しく、魅力に富んだ婦人であったのだろうし、今に残る正之の端正な肖像画を見ても、それが察しられる。 恐妻家だった秀忠に隠れたエピソードがある。大坂の陣で、家康がわが子秀忠に問うた。 「お前は側室を連れて来ないのか」と。戦国の武将は陣中に側室を同伴するのが普通だった。勿論、家康も連れて来ていた。 しかし、秀忠は「側室などおりません」と真面目に答えた、という。それほど於江が怖かったのである。 ◇ ◇ ◇ 昨日の民主党大会を観ていて気付いたことがある。羽田務がヨタヨタして付き添いの助けで投票していた。長野支局時代、当時、大蔵大臣(自民党竹下政権)だった羽田と支局長会が懇談した。地元であるから政界裏話を期待したのだが、冗談ひとついわぬ堅物だった。信州人そのもので、実に面白みのない男であった。今期限りで引退するが、民主党はあんな見窄らしい人間になるまで議員をさせている。年齢制限もないのである。
ところが、九条道房が死ぬと、豊臣秀吉は彼女を徳川家康の後継ぎ秀忠へ押し付けてしまった。四婚目である。 いうまでもなく政略結婚の典型的なもので、この時、於江は23歳。秀忠は6つ下の17歳であった。 23歳の女が、これだけ厳しい運命の中を泳ぎ渡ってきているのだから、その強さは只事ではない。年下の夫を押さえ込んでしまったのも、なるほどと思わせられる。 於江は秀忠との間に、男3人、女5人を倦んだ。千姫もその一人だし、3代将軍となった家光もそうである。 ◇ ◇ ◇ 民主党代表選の決選投票で、野田が海江田を大差で破った。壇上での演説のうまさが票につながったようだ。小沢、鳩山の推した海江田は組織票以外伸びず、惨敗だった。 気分はいいのだが、日米安保、憲法改正をどうするのか、党の綱領もなく、小沢のような自民党体質の最も古い人間や憲法九条死守という社会党まで含む寄せ集めの党なのだ。 どうでもいいが、早く解散して政権の座から去っていってくれ!
いや、正之の前に一度妊り、正之の言行を記した『千年の松』によれば、 「御胤懐胎などということ御台様(将軍秀忠の夫人)に漏れ聞こえ候ては、一家一門何様の曲事に逢い申すべくもはかりがたく、しかれば大切の事に候と、緒親類うち寄り相談いたし、もったいなくも水となし奉り・・・」 と、いうことになった。 秀忠夫人は於江といい、有名なお市の方の娘だから淀君の妹であり、織田信長の姪にあたる。現在NHKで放映中の大河ドラマの主役らしいが、マンガチックなので筆者はテレビを見ていない。 この妻に秀忠は生涯、頭が上がらなかった。於江の嫉妬ぶりはひと通りのものではない。まだ戦乱の絶えなかった時代に生まれ、母のお市の方も戦火の中に自殺しているし、於江も成長してから尾張大野の城主・佐治与九郎と結婚したが、豊臣秀吉によって無理矢理、離婚させられ、その後は秀吉の養女として羽柴秀勝、九条左大臣道房と、併せて三度の結婚をしている。
保科正之は、徳川2代将軍秀忠の第三子として、慶長16年(1611)、江戸で生まれた。今年が生誕400年にあたり、養子に出された信州・高遠藩があった長野県高遠町(現伊那市高遠町)が中心になって一昨年、NHKの大河テレビで取り上げて欲しいと、会津若松市も参加して署名運動を行ったが、実らなかった。 その代わりというわけでもないだろうが、再来年、「幕末のジャンヌダルク」といわれた山本八重子を取り上げて、東日本大震災と原発事故で被災した福島県を応援するという。 保科正之に戻る。生まれたのが江戸といっても江戸城ではない。というのは、将軍の子ながら世を憚って生まれ出たわけで、一時は、強引に流産させられようとしたほどなのだ。 正之の実母お静の方は、北條家の旧臣で神尾伊豫栄加(しげます)という者の娘だが、江戸城中へ上がって奉公するうち、将軍秀忠の手がついて正之を妊った。
加藤明成が致仕退転して後の会津に、保科正之が入封したのは寛永20年(1643)7月である。時に正之は33歳であったが、以来、治世に意を注ぎ、会津藩の祖として領民と家臣たちに景仰されるに至ったのは周知のことだ。 加藤明成の治世が、種々の騒擾を起こし、ことに収取の強化による領民の窮乏は、その極に達して、農民たちの逃散が領内に頻発するという有り様であっただけに、新領主・保科正之の意欲的な政治が始まるや、領民の喜びは当然ながら、世上にも、 「類い希なる名君」 との評判が高まるばかりとなった。 このことにつき、正之自身が侍臣に、こう漏らしている。 「前の政事が悪過ぎたので、わしが当たり前にしていることが層倍によく見えるのじゃ」 けだし、この一言は「名君」ものといってよいかと思う。
2年が過ぎて、将軍家光が老中たちに 「式部は50万石にかえてもと申しておったな」 と語ったという噂が明成の耳に伝わって来た。明成は、その噂を聞くと、 「病躯大藩を治むるの任に堪えざるを以て云々」 という会津奉還の願を家光に差し出した。 寛永20年(1643)5月3日、家光は、その願を赦し、明成の子明友に石見国安濃郡山田に1万石を与えた。(完) ◇ ◇ ◇ いよいよリビアのカダフィ独裁も倒れ、反体制派はカダフィ逮捕、もしくは殺害にやっきになっている。1億2千万円の報奨金まで出る騒ぎだ。 チュニジアに発火したジャスミン革命で、エジプト、リビアの3カ国は今後の国の再建が問題となってくる。 ところで、チュニジアの首都チュニスは昔カルタゴといった。ローマ帝国時代は3国はローマ領で、カルタゴは一度、ローマの軍門に下りながら、叛旗を翻したため、焼け野原にされた歴史がある。戊辰戦争の会津藩の郭内と同じである。
4日、籠に吊られて揺さぶり通された時、3人は糞尿も許されなかったので、下着が汚れて異臭を放った。それを刑を言い渡した明成が嘲笑った。主水はそれに応えたのである。 斬首役の堀川嘉兵衛が主水の首を斬ろうとした時、主水は書院の障子をきっと睨み付けた、明成がそこにいた。首はねじれたまま前に落ちた。 明成は主水たちを処刑しただけでは、まだ怒りが納まらなかった。追手を鎌倉東慶寺に入れて、主水ら3人の妻子を奪い、主水を斬った同じ場所で自決させた。 主水の妻だけは、主水と同じように打ち首にした。主水の首と、主水の妻の首は塩桶に漬けて若松に送り、城下を引き回した上獄門にした。 ◇ ◇ ◇ リビア情勢は、最高指導者カダヒィ大佐が首都トリポリを脱出し、最終局面を迎えた。42年に及んだ独裁国家から人民は開放される。エジプトで始まったジャスミン革命は次の標的シリアに向かっている。 サウジアラビアの王政国家も危ないが、波及して欲しいのは中国だ。共産党一党独裁国家が日本のそばにある。一握りの富裕層が共産党とつるんで大多数の人民を抑圧している。ネット社会は報道管制も打ち砕くだろう。
明成は主水兄弟を引き渡されると、芝新銭座の浜屋敷に拘留して、3人を籠に乗せて青網を掛け、これを宙に吊るして太綱で揺さぶり、仮眠すら与えず、4日の間を責め通しに責めさせた後、主水を斬罪に処した。 主水は、籠から降ろされて斬罪に処せられる前、切腹を命じられた又八郎、小兵衛の二人の処刑が行われている間、後ろ手に縛られたまま、縄取りの貝塚新七の膝をかりて微睡んだ。4日の間、一睡もしていないので眠りが主水を襲っていた。主水は高鼾をかいて熟睡した。小兵衛の切腹が終って、新七が主水を揺り起こすと、主水は起き直って、 「今、面白い夢を見たわ、鬢髪を櫛形に剃り、馬鹿ぶとりに肥った下り屁の男が、わしがひった糞をうまそうに食うておった。その男、いかにも式部(明成を指す)めに似ておったわ」 というと、声をたてて笑った。
そのためには己も幕府に出訴して、幕府の罪を受けて、幕府から死を賜わりたいと思った。それが、己を侍らしく死ぬることの出来るただ一つの道と、主水には思えたのである。 主水は越後新発田藩主・溝口出雲守宣直に、叉八郎は信濃上田藩主・仙石越前守政後に、小兵衛は但馬豊岡藩主・杉原伯耆守重政にそれぞれ預けられた。主水は、幕府重役の前で明成と対決することを心に描いていた。 しかし、その対決のことはなかった。主水が上訴したことは、将軍家光が直々に裁いた。 3月25日、明成は、黒木書院に召し出され、江戸在府の徳川譜代諸侯の前で、家光から、主水兄弟を下げ渡される旨を言い渡された。 家光の裁きは、主水が妄りに会津を退去したことを主従の道をないがしろにしたものとして、その主において、臣道の成り立つように処刑すべしというのであった。
宗徒たちは紀州家に迎えられ、その8人に守られて主水は江戸に出た。寛永18年(1641)3月15日、大目付井上筑後守政重に、明成の非行を訴え出た。訴状には、1、明成専ら叛逆を企て云々にはじまる7か条が書かれてあった。 この時、主水は一つの過誤を侵した。主水は己を高野山まで追い詰めた明成が既に領国を失わねばならぬことを知っていた。又、高野山まで追い詰めた明成から、もはや己が身を隠すことが出来ないことも知っていた。 といって、主水がここで己から己の腹をかき切れば、己が明成に負けたことになるのである。主水は所詮、己が死ぬるにしても、裸馬に乗せられ、若松城下を引き回されて、斬罪、獄門に処せられるという辱めからは何としても逃れたかった。 ◇ ◇ ◇ 昨夜は新米を食べた。焚きたての米粒から新鮮な香りがして美味しかった。ところが、である。何と宮崎産米なのだ。放射能汚染の心配がない西日本からの取り寄せだ。 わが故郷・会津も心配だ。米に限らず、天皇家に献上している身不知柿(みしらずがき)も汚染が心配。毎年注文している会津若松市御山の柿農家に電話したら「私たちも不安です」と心細い返事が返って来た。出荷の秋は?
すでに主水が鉄砲を若松城に放ち、芦野原の関所を押し破って退去したことは、江戸でも知らぬ者はなくなっている。このまま手を拱いて主水を放置しておいても、藩内取り締まり不行届きの故を以て、幕府の譴責を受けることは必定であった。 明成は、心の中で、会津50万石が早晩、己の手中から消え去ると覚悟していたのである。 主水は、明成が寺社奉行に出訴したと知ると、高野山を去って紀州家を頼った。大坂夏の陣で紀州権中納言頼信の軍功帳に己の名が書き留められた縁にすがったのである。 しかし、主水は己の生命を惜しんで紀州家にすがったのではなかった。最後のその時まで、主水兄弟に従って苦しみを共にした8人の宗徒たちを紀州家に托すためであった。
主水は妻子たちを鎌倉松ヶ岡東慶寺に托して、男のみで高野山にはいったのである。東慶寺は駆け込み寺、縁切寺の名があり、諸侯といえども追手を入れることが出来なかった。高野山も勿論、同様であった。 明成は、主水が高野山文殊院に身を寄せたことを確かめると、使者を立てて、主水兄弟の引き渡しを求めた。だが、文殊院は使者に対し、にべもなく、 「左様のもの、当院には心当たりはない」 と答えた。 明成は寺社奉行に訴え出て、寺社奉行の威光によって高野山より主水引き渡しが行われることを求めた。例え会津50万石にかえてもと、その訴状に明成は書いた。
追手は次々と放たれて、何時か12、30人になった。それらの追手は主水らしい主従の噂を追って山陽、山陰、四国、九州にまで渡っていった。だが、1年は空しく過ぎた。 翌寛永17年(1640)の七夕も過ぎた頃に、鎌倉に主水が隠れ住んでいることが分かった。5人1組になった主水を追っていた追手の1組が子守女の唄う会津の子守唄から主水の隠れ家を突き止めたのであった。 追手は見とがめられて4人が斬られた。残った1人が江戸屋敷に知らせて江戸屋敷から追手が隠れ家を取り囲んだ時、主水は宗徒3人を隠れ家に残して去っていた。 ◇ ◇ ◇ 天竜川の舟下りで転覆事故があり、1人死亡、3人不明になっているが、筆者も長野支局長時代、管内視察で飯田市の天竜川で舟下りを体験した。上流は静岡県より急流なのだが、救命胴衣はつけなかった。 諏訪湖を源の天竜川では、住民は川虫(ザザムシ)を食料にする。海なし県の信濃人の悪食は有名だ。蜂の子などとお土産まである。
主水の退去を知って若松城から出た追手は、山道に仕掛けられた鹿柴に遮られ、ようよう闇川に至ったが、橋の落ちた闇川の谷を渡ることが出来ずに城に孵った。 明成は主水退去の知らせを江戸屋敷で受け取った。江戸在府の期限が終って、明朝は帰国の行列が発つという前夜のことであった。行列が己の領内に入ると、明成は騎馬だけを従え、足駆けして若松城に入った。既に芦野原の関所が破られたことが分かっていた。 明成は改めて追手を放った。主水がたとえ唐天竺に走ろうとも、きっと探し出せーという厳命が追手たちに下された。 50人の追手がまず若松城下を発っていった。5月初めのことであった。一月、二月が過ぎたが、二股山におびただしい槍、鉄砲の類が焼け崩れていたことが分かったばかりで、主水一行の行方は杳として分らなかった。
闇川の橋のたもとには主水は、よく枯れた柴を運ばせておいた。主水の兄弟、宗徒、小者、その老若男女の家族たち300余人が闇川に掛けた橋を渡り終えると、主水はその枯れ柴を橋に積み上げさせ、菜種油を注いで火を放った。 そして、その夜、芦野原の関所に夜討をかけて押し破り、退去の日の翌17日朝、蝉川を超え、牛の下刻(午後6時)に二股山に至った。既に宇都宮・奥平美作守忠昌の領内である。 主水は先ず槍、薙刀、鉄砲の類いを集め、枯れ柴とともに火をかけた。ついで駄馬に背負わせて来た荷を解いて男には小袖、袴、子には小袖、帯を与えた。 最後に、小判数枚ずつを与えた。決して徒党を組んで去ってはならぬと言い聞かした上、一同を思いの道に去らせた。
主水は、又八郎、小兵衛の二人の弟を呼んで 「わしは殿が腹を切れと仰せられれば腹を切るつもりでおった。したが、おめおめ獄門に己の首をさらしとうはない」 といった。 その日、主水の心に、会津退去のことが決まった。若松城の南方一里半余(6キロ)の中野村の外れで、若松城に鉄砲を放って退去した堀主水の一族は日光街道が山道にかかると、要所要所に鹿柴(ろくさい=鹿の角のように木や竹を組んで浸入を防ぐ仕掛け)を仕掛けた。鹿柴は主水が退去を心に決めた日から、心を許した宗徒に命じて作らせておいたものである。 ◇ ◇ ◇ 今日は66回目の終戦(実際には敗戦)記念日だ。310万人の犠牲者を悼む全国戦没者慰霊祭が行われた。あの日も暑かった。母の実家、日本一本店(会津若松市甲賀町)は火災が広がるのを防ぐ意味で、建物に縄をかけて取り壊そうとしていたーのを記憶している。玉音放送で救われたが、間一髪だった。 時がたつのは早い。覚えている人も少なくなった。が、暑さだけは同じだ。
慶長16年(1639)の年が明けた頃、江戸の町から主水についての噂が若松の城下に流れて来始めた。参観交替で江戸在府中の明成はその年5月には若松に帰城するが、帰城し次第、明成は即日にも主水を捕らえて極刑に処するという噂であった。 主水が明成を斬り殺そうとしたーというのが理由であった。主水は初めは、その噂を聞き流していたが、主水がかねて懇意であった江戸・芝三緑山増上寺の良沢和尚がわざわざ、その同じ噂を主水に伝えて来た。雲水に托された良沢和尚の手紙には、明成は主水を裸馬に乗せ、城下引き回しの上、斬罪、獄門に処する所存としたためてあった。
主水は、それらの者を通じて、明成の心に訴えようとした。しかし、明成は、主水を遠ざけたようにそれらの者を遠ざけた。遠ざけたばかりでなく、明成を諌めた者が主水とかかわりがあったと分ると、主水を憎んだように、それらの者を憎んだ。 後には、それらの者の中に明成の成敗を受ける者も出るようになった。そして最後には、明成は事を構えて、主水の手から、嘉明が主水に預けた金の采配と朱印とを取り上げた。 主水の一族には、そうした明成の仕打ちに堪えかねる者が出るようになった。だが、主水は、それらの者に 「5年、待て」 といった。赤心は山をも動かすと主水は信じていたからである。しかし、その5年が過ぎ、さらに3年が過ぎた。その間には、主水の宗徒の一人が明成の寵臣守岡主馬のために辱められて自決したことさえ起きた。主水の堪忍も遂になり難い時が来た。
主水がそういって明成に詰め寄ると、明成は思いがけず、 「主水、そちは思い違いをしておるな、松光院殿の御朱印は、そちにお形見として与えられたもの、わしはわしの朱印を用いておるわ」 といった。 明成は民に対して苛斂誅求を極めた。主水の耳には民の怨嗟の声がしきりに伝わってくる。明成は、そんな主水に閉門を命じて主水の登城を禁じた。 主水は、それでもなお諦めなかった。若松城中にも、江戸屋敷にも、主水の心を知る者は、まだかなりいた。 ◇ ◇ ◇ 女子サッカーブームが続く。なでしこジャパンのワールドカップ優勝以来、日本国中を席巻し、入場者は最高記録を更新中。最高殊勲選手選ばれた澤穂希は本になったりヒートしている。来年生まれる女児は「穂希(ほまれ)」が多いに違いない。今から楽しみだ。
主水は、その度に明成に直諌した。明成は主水の直諌を無視した。しかし、無視されても無視されても主水は諫言を繰り返した。 もし万一これらのことが江戸表に誤り伝えられれば、忽ちお家の大事に至るべき事柄であったからである。幾度、主水が諫言を繰り返しても、明成は、その度に冷たく 「聞きおくわ」 と言い捨てるに過ぎなかった。主水は、ついに嘉明から預けられた朱印を明成に示して諌めようとした。その朱印なく、それら一切のことは行われてはならぬことであった。 ◇ ◇ ◇ 会津松平家第13代当主の松平保定氏が9日、肺炎で亡くなった。84歳だった。松平さんには新聞連載「士魂は何処へ」の題字を揮毫していただいたが、霞ヶ関ビル屋上の「霞クラブ」でお会いした。元藩主たちが集う会員制で、「あそこの方が熊本藩、隣が土佐藩」と、浮き世離れの感がする所であった。ご冥福をお祈りする。
たまたま会津に激しい落雷があって、若松城壁の老松にも落ちた。二つに裂けた巨木の老松は倒れて石塁をも崩した。松山で二つの山を埋めて一つの山に改めるほどの築城を行った明成には、落雷の後の石塁の補修など工事のうちに入るとも思えなかった。 明成は領民を徴発して、その工事にあたらせたが、同時に、内郭外郭の城壁の崩れも調べさせ、改めさせた。明成はまた大掛かりな野戦の調練を試みることもあった。これらのことは、いずれも主水には一言の相談もなく行われた。 ◇ ◇ ◇ 東電は9日から、需給が逼迫している東北電力に140万キロワットの電力を融通中だ。先月下旬の新潟・福島豪雨で東北電力の28の水力発電所が運転を中止しているためだ。 ここまでは理解できる。が、東電管内で現在、節電中だ。 法律まで適用して強制的に節電させておきながら、一方で他の電力会社へ電力供給? 電力が余っているなら節電などさせなくともー?おかしな世の中だ。
そして慶長7年(1602)松前から松山に城を移した時のことが髣髴と蘇ってくる。松前の城は取り壊して、瓦一枚、石一つに至るまで悉くを松山の新城に移したのだが、松前から松山まで2里半(10キロ)の間、野面の道には石垣の石を背負った男たち、頭の御用櫃に瓦を乗せた女たちが踵を接して続いた。 急峻な松山の城は初めは谷を挟んだ二つの山であったものを、その谷を埋めて高さ52間(約94メートル)の城山に築き上げたのであった。明成の心にはその盛んであった築城工事が昨日のことのように思い出された。 ◇ ◇ ◇ アメリカの国債格付けが1ランク落とされたことに端を発した世界同時株安が地球を覆っている。わが国でも、午前中、平均株価が5か月ぶりに9000円台を割りこんだ。特に、円高が進行し、輸出関連業界は苦境に立っている。トヨタでは1ドル上がることで300億円儲けが減る計算だ。 海外から観光客を招こうにも、円高は痛手だ。このまま推移すれば世界同時不況に陥ることが心配だ。
明成の心の中には屈したものがあった。明るい南国伊予に長じた明成には、一年の半ば以上を暗鬱な雪雲に覆われた会津の地は、馴染もうとしても馴染めぬ地であった。 会津40万石、属領を加えて50万石を超えても寒冷痩骨の地は温暖肥沃の松山20万石に及ばない。明成の心の眼には若年を過ごした明るい伊予の空の色が残っていた。 ◇ ◇ ◇ 会津若松市長選で元県議の室井昭平君が、元河東町長の栗城君を破って当選した。二人とも会津高校の後輩だが、室井君は、会津に戻っていた時、「会津から光を発しろ」と個人的に付き合った。菅家一郎と渡部恒三の次期衆議院選挙の前哨戦で、予想通り接戦となったが、室井君のため数十票は獲得したはずだ。よかった! 市議選でも目黒章三郎君や塾の後輩本田玲子君が当選を重ねた。原発事故の風評被害で観光客ゼロで、わが古里は苦戦している。立ち直れ会津!
加禄の沙汰も主水にはなかった。そればかりでなく、主水を猪苗代から若松城詰に移した。家老職はもとのままであったが、若松には明成の末弟明重がいて、主水には、なすべきことは何もなかった。 嘉明が主水に寵を与えたように、明成は、明成の身の周りにいた者に寵を与えた。それらの者は明成が主水を疎んじていることを知って、己らも主水を疎外した。のみならず主水を讒(ざん=そしる)した。明成はいよいよ主水を遠ざけるようになった。 ◇ ◇ ◇ 管首相は広島の平和記念式典で、「エネルギー政策を白紙から見直して、原発に依存しない社会を目指す」と挨拶した。しかし、原発の海外輸出については、当面、継続する、と自民党議員の質問趣意書に答えている。ヨルダン、ロシア、韓国、ベトナムへの原発輸出は「世界最高水準のわが国の原子力技術を提供する」という。 一方で脱原発を唱えながら、危険な原発を輸出する?のはおかしくないか。
大の事といえば慶長19年(1642)11月、大坂に冬の陣がおこった時のことである。その時、明成は松山にあった。明成は直ちに大坂に攻め上ったが、播磨の国まで兵を進めた時、家康の命で江戸にとめおかれていた嘉明からの使者に出逢った。 使者は嘉明のーきっと先陣仕り、徳川家の御為御功名相立てらるべく候という直書を携えていた。戦いが終った後に、その嘉明の直書が主水の献言によったものと分かったが、その時も、明成は我と我が身体苛みたいような苛立ちを持てあました。嘉明と主水によって、己が無視された思いがしたからであった。 嘉明は死の間際に朱印を主水に預けたが、同時に主水の加禄のことをも明成に遺言した。 しかし、嘉明が死んだ後、明成が家臣たちに嘉明の形見分けをした時、明成は主水には何も与えなかった。
明成は、主水が嘉明に忠誠を尽すのを見て来ている。それは主水の心が嘉明の心とまるで一つとなっているようにさえ思えるほどであった。 明成は主水の云っていることを、二、三日して嘉明から聞くことがあった。逆に嘉明が云ったと同じわけがらの言葉を、二、三日して主水からきくこともあった。 そういうことが度重なっていくうちに、明成は舌打ちしたい思いを主水に抱くようになっていった。 明成は、嘉明が金の采配を主水に預けた時、家臣たちが、 「采配は若殿にこそ」 とささやき合っている声を耳にした。それは明成の心を苛立たせた。その思いは事の大小を問わず度々明成の心を去来した。
主水の方が己より力倆が秀れているのであるから己が負けるのは当然であるが、同時に勝ち負けではない別のものが明成の心に、重くのしかかって来るのであった。その威圧感が何であるかは明成にはよく分らなかったが、それは現実に重くのしかかって来て、何時とはなしに明成は主水を避けはじめたのである。 ◇ ◇ ◇ ここ2年ほど、新聞の2面の首相の動静とスポーツ面は見なくなった。ブンヤ上がりとして失格だ。民主党のママゴト政権のお粗末ぶりに嫌気がさしているのと、弱い巨人のためだ。民主党を政権の座から下ろさなければならないが、解散ー総選挙は遠い。 巨人は監督原を切って、桑田監督を待望する。これは人気を呼ぶし、理論を勉強しているので思いきった作戦をとってくれるだろう。 桑田監督、待っているよ!
「頼もしい御世嗣じゃ」 政宗はいったが、嘉明はそのような明成に不安を抱いていたのであった。明成は何時からとなく主水を避け始めた。最初に主水を避けたのは、槍をあわせる演武の時であった。明成は主水が勝ちを譲らなかったから避けたのではなかった。 主水を除くすべての者が明成に勝ちを譲っても、自ら槍をよくする明成は、勝ちを譲った者の力倆を見抜くことができた。勝ちを譲られても、己は負けたと明成は思う。しかし、主水の場合は少し違った。 ◇ ◇ ◇ 今年の防衛白書で、中国の軍備拡張や海洋活動が「高圧的」と、強い警戒感を表わした。空母建造や艦載機の空母発着訓練、東シナ海でのアジア各国との摩擦を挙げている。考えてみると、中国の軍隊は共産党の軍隊であり、国民を守る軍隊ではない。中東で発生したジャスミン革命が中国に波及し、共産党独裁政権が倒れない限り、軍拡は進み、周辺国家との摩擦は消えない。
しかし、数日して伊達中納言政宗が嘉明の屋敷を訪ねてきて、転封の祝いを述べた後で、 「徳川殿、こたび貴公父子に会津をお預けされたは、この老いぼれめをよく防げとの御心と承知した、したが、防げるか防げぬか、先ず相撲にてお相手したし」 といった。嘉明が笑って答を避けると、政宗は明成に挑んだ。すると明成は、 「お相手仕る」 といって、たちまち政宗を腰にかけて投げた。 ◇ ◇ ◇ 福島県は、3.11以来、地震、津波、原発事故と天災、人災が続き、疲弊の極みになっているところに、今度は会津地方に豪雨と、福島県は呪われている。平成14年(2002)『福島春秋』という雑誌の創刊号で、県知事と芥川賞の作家玄侑宗久さんと対談した際、「福島から情報を発信すべき」と要望したが、こんな最悪の情報で「フクシマ」を世界に発信するとはーーー。
その明成の激しさの故に、嘉明の心の底には暗い不安の陰がかすかに淀んでいた。松山から会津に転封の沙汰を受けた時、明成は頑にそれを拒もうとした。既に秀吉恩顧の福島正則も加藤忠弘も除封されていた。 「我等もやがて同じ身の上ならば」 と明成がその時云ったのを、嘉明は、抑えて 「いうまいぞ、お主は聡い故、とくと納得がまいっておろうものを」 と云った。明成は不安げに嘉明を見返したが、その時はそれで納得した。 ◇ ◇ ◇ 今朝、散歩コースの都賀公園に立ち寄ったら、アマチュアカメラマン20人ほどがカメラを頭上に向けてパチリ、パチリ。アオバズクのヒナが2羽孵った、という。毎年夏の一光景である。作草部神社を囲むように大木20本が立っている、鎮守の森だ。周りに、暇なじじいが数人。暑さ知らずで、世間話に夢中だった。