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2016年04月30日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(136) |
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第7章 晴れて軍人に(3)
その頃、太一郎が保釈になって田名部の佐多蔵の許に戻って開拓に従事していたが、東京司法省の裁判を受けるため、再び、東京に護送され、従兄弟の諏訪武之助にお預けになった。
翌日、五郎は上野・池之端の諏訪邸を訪ね、2年ぶりに太一郎に逢った。悲喜こもごも語る言葉もなく、五郎は兄に縋り付いて泣くだけ泣いた。裁判の結果、太一郎は翌年、司法省内の拘置所に収監された。
試験の結果を待つ五郎に、再び、災難が降りかかる。12月3日は新暦で明治6年(1873)1月1日。1か月早く正月を、あと3日で新年を迎えようとしていたその日、安部邸に、福島にいる主人の安場保和知事が落馬して重傷ーという知らせが届いた。 |
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2016年04月29日(金) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(135) |
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第7章 晴れて軍人に(2)
試験科目は、読書が『日本外史』と『日本政記』の各一節、算術は簡単な加減乗除、作文は陸軍志願を郷里の友人に知らせる文章、これに若干の口頭試問と身体検査であった。及第は翌年判明するということだった。
11月の末、野田が安場邸に来て五郎に試験の様子を聞いてきた。詳しく報告すると、
「よかごたるなあ」
と感心したように言ってくれた。
五郎は野田の感想を聞いて夢心地になった。野田はこの時、試験の結果を当局から聞いていたのかもしれなかった。 |
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2016年04月28日(木) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(134) |
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第7章 晴れて軍人に(1)
その頃、野田が陸軍会計一等軍吏に就任した時、
「近々、陸軍幼年生徒隊(陸軍幼年学校の前身)で生徒を募集する試験がある。受けてみよ。それに合格すれば陸軍士官になれるのだぞ。お前は武士の子であるから不服はあるまい」
といってくれた。
これを聞いて五郎は飛び上がらんばかりの衝撃を受けた。早速、野田と山川の両人に保証人になってもらって願書を提出した。
11月初旬、和田蔵門外の兵学寮に出頭して受験した。同じく野田に世話になっていた斎藤實(後の海軍大将、朝鮮総督、首相)も受験した。 |
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2016年04月27日(水) |
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学生に人気の企業は? |
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25日発表された27年度就職希望ランキングによれば、
1位は三菱東京東UFJ銀行、2位は東京海上日動火災保険、3位が三井住友銀行でベスト3は銀行と保険会社。
以下4位損害保険ジャパン興亜、5位みずほフィナンシャルグループ、6位ANA,7位JAL、8位サントリー、9位三井住友海上火災保険、10位トヨタ自動車。
11位以下を見ると、11位JR東日本、25JR東海、12位伊藤忠商事、13位三菱商事、18位三井物産、23位丸紅、28位住友商事。マスコミ出版では21位電通、22位博報堂、53位NHK、58位講談社、68位集英社、視聴率低迷のフジテレビが74位で民放で唯一登場。81位朝日新聞などなど。
銀行や損保など堅い企業に人気が集まっている。わが読売は欄外(残念!)また、ディズニーランドの経営母体オリエンタルランドが33位だった。毎年上位に顔を出していた証券会社は野村が41位と振るわず、景気の悪さを物語っている。 |
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2016年04月26日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(133) |
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第6章 東京へ(11)
1月初旬から山川邸で世話になったが、中旬になって野田に呼ばれた。同郷熊本出身の福島県知事安場保和氏の留守宅に下僕として斡旋してくれたのだ。
留守宅には母堂と夫人の他、2女がいた。長女は後の安場男爵夫人、次女は後藤新平子爵の前夫人となる。書生や車夫もいて格式が厳しい家庭だった。
日々の仕事は、朝と夕方、屋敷内外の清掃、家族の3度の食事の給仕を食卓の下で座って行う他、長女と次女が雉橋の女学校の登下校の際、人力車の後ろから走って御供することだった。
二人は五郎と同じ年と1歳下。こっちは下僕という境遇の違いを後になって考えると、何とも哀れではあった。 |
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2016年04月25日(月) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(132) |
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第6章 東京へ(10)
五郎は早速、野田の添え状を持って浅草菊屋橋通りの永岡邸を訪ねた。永岡は五郎の身の上は理解してくれたが、家族の他に書生もいて狭い家は一杯で
「暫くは山川大蔵方にて待機するよう」
に言われた。
その足で浅草永住町観蔵院に間借りしている元會津藩家老、山川大蔵方へ行った。
が、ここも家族の他、旧藩の書生が多数寄宿していて一見して生活が困窮している様子だった。それでも山川は
「いつでも来い」
といってくれた。
山川邸には母堂、姉、親戚らがおり、山川徳治ら書生が毎日、入れ代わり立ち代り宿泊していた。この上、五郎が世話になる余裕はなく、無理なことは明らかだったが、他に頼る所もなかったので世話になることになった。 |
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2016年04月24日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(131) |
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第6章 東京へ(9)
9月末、野田は五郎の困窮ぶりを見かねて會津の先輩である永岡久茂(参照)と山川大蔵に添え書きを書いて世話してくれるよう、依頼してくれた。
多くの先輩たちも猟官や出世の糸口を掴むのに汲々としており、たかだか一給仕のことなどに一顧だにしない風潮だっただけに、自分の利害に拘泥しない野田の風格に接して五郎は、感激ひとしおだった。
(参照)永岡久茂は天保11年(1840)會津藩250石、永岡権之助の次男として生まれ、少年期から秀才の声が高く、藩校・日新館から昌平黌に学び、鳥羽・伏見の戦いに敗れて奥羽越列藩同盟などに奔走。
戊辰後、藩主松平家の再興の際、町野主水と争って斗南説を強く主張し、斗南に移住後は少参事となって広沢安任と共に大参事山川大蔵を助けて新しい開拓事業にあたった。
斗南藩瓦解後は上京して評論新聞社を興し、薩長藩閥政治を言論攻撃した。
明治9年(1876)前原一誠の萩の乱に呼応して同士と共に千葉で蜂起する計画を立て、東京・思案橋から船出しようとした時、官憲に察知されて斬り合いの大乱闘の末に逮捕された。同10年1月、獄中で死去した。(思案橋事件)再興
◇ ◇ ◇
本日の読売日曜版で明治〜昭和の詩人四賀光子を取り上げている。経歴に興味を惹かれた。東京女子師範学校(現・お茶の水女子大)卒業後、新設の會津高等女学校(現・葵高校)に1年間勤務した、そうだ。
會津高等女学校は會津女子高になり、子供減少で福島県の女子高が姿を消した。当初、會津葵高校にする予定だったが、「會津葵」という菓子店があり、商標登録されていたので、葵高校に。関係者は残念がったという。 |
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2016年04月23日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(130) |
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第6章 東京へ(8)
また新政府は、神仏は一つーとしてきたものを、分離して多くの仏閣が破壊された。信心するものが定まらず、祖先を祀ることも篤としない世相になってしまった。
五郎は、世話をしてくれそうな親戚や知人を頼って訪ね歩いたが、自分の生活に追われる人がほとんどで、悉く断られてしまった。
「二度と来るな」
と怒鳴られることもしばしばだった。
こんな五郎に同情して青森から五郎を連れてきた大蔵省出仕の長岡重弘が
「暫時、我が家に来い」
といってくれたのは9月の下旬だった。
9月12日、新橋ー横浜間に鉄道が開通した。新橋の停車場で見物していると、明治天皇が柿色の装束で百官を従え、横浜から戻ってきた汽車から降り立った。外国の公使も列席して荘厳華麗な式典が催された。 |
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2016年04月22日(金) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(129) |
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第6章 東京へ(7)
鶴ヶ城開城後、五郎は新政府軍に捕らわれるのを防ぐため、清助叔父に頭髪を切られて丸坊主の百姓姿になっていたので髪を整える必要はなく、ザンバラ髪だった。
当時、どのように髪を切ったらよいのか、役所に問い合わせる者が多かったので、次のような申し渡し書が貼りだされた。
「総髪(前頭部の月代を止めて結束す)
剃髪(全部を剃り落とす)
摘髪(ザンギリ、後ろ短く前長し)
撫附(摘髪に比し前部少し短く後さらに短くす)
右は願いに及ばず勝手次第の事」
昨日の権威は地に落ちて踏み汚され、かつての軽輩者が権威の座に着いて贅沢の限りを尽くしていた。 |
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2016年04月21日(木) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(128) |
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第6章 東京へ(6)
再び戻った東京は、いまや帝都として威容を整え、街行く人の足取りにも変化が現れていた。
みすぼらしい風体は以前と変わらなかったが、
「虜囚にあらず」
と五郎は自らを励ました。
白地の浴衣に袴を着け、大人の山高帽を耳までかぶり、竹梱を十字に縛って肩にかけ、草履姿の五郎。目につくのは断髪廃刀した人が多く、また、袴をはき、兵児帯を締める人も少なくなかった。
既に明治4年(1871)8月に太政官より断髪廃刀の布告がだされていたが、長い間の風習は一時には改まらず、他人の顔を見てから、どうするか決めようとしている人が多かった。 |
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2016年04月20日(水) |
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電話が通じた! 興梠さん無事 |
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1朔日のブログに書きこんだ熊本県南阿蘇村の興梠さんと昨夜、4日ぶりに電話が通じた。元気な声で「御心配かけました。無事です」。
家は多少、被害を受けたものの大丈夫。ただ電気、水道が不通になったので生活上は大変不便だったそうだ。電話が不通で陸の孤島になるなど、考えもしなかった、という。
依然、余震は発生しているが、1日も早い収束を祈るばかりだ。
でも、本当によかった!守様に感謝したい。 |
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2016年04月19日(火) |
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熊本の次は? |
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熊本地震は、いまだ余震が収まらず、住民は不安な生活を送っている。18日までの死者43人、負傷者は1000人を超した。依然、7人が不明で、避難者は9万人を超す。
東日本大震災から5年目に起きた熊本地震と、巨大地震の傾向について歴史学者の磯田道史さん(国際日本文化センター准教授)は朝日紙上で「歴史の例に学び警戒必要」と興味深い発表をした。
17世紀前半の江戸時代の慶長三陸地震(1611)が三陸を襲った。その8年後と14年後に、熊本で二つの断層地震が発生。
それから8年後の1633年、小田原地震が起きている。日本列島が今回は東日本大震災から5年後に熊本で地震が発生した。断言はできないが、順番からいくと、「次は関東?」なのだ。
日本列島が地震活動期に入ると、東北地方で巨大地震が起き、地盤に大きなゆがみが生じて、各地の断層を動かすのかもしれない。今回は「西国」の地震と捉えるのではなく「次は〜」と考えて、関東では、家具の固定化や建物の補強を講ずるようにーと磯田准教授は説いている。 |
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2016年04月18日(月) |
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お礼のハガキ |
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熊本地震の震源地に近い南阿蘇村、佐川官兵衛顕彰会会長の興梠二雄さんへ電話が通じなくなった。14日の前震の後に電話したら元気な声で「こちらは無事で、家も大丈夫ですたい」。
その後の本震で電話が不通に。そしたら17日に興梠さんからお礼のハガキが届いた。房総半島會津藩士顕彰会の会報19号を送ったお礼だ。ペン字の達筆である。
興梠さんとは、数年前から官兵衛の件で関係して以来、「興梠」という苗字の由来などを伝えたり、会報を送って友好を続けてきた。単なる電話不通ならいいのだが〜。心配だ。 |
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2016年04月17日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(127) |
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第6章 東京へ(5)
(参照)広沢安任は幕末に京で活躍した會津藩士。戊辰後は斗南の藩地決定を推進した責任者。斗南藩で小参事となり、東奔西走して藩士の生活安定に努力した。廃藩置県後、藩士の多くは東京や會津へ戻ったが、広沢は責任を感じて現地に留まった。
明治4年10月、八戸県大参事太田広域と共にイギリス人2人を雇って谷地頭地区に牧場と農場の経営に着手した。
牧場は上北郡三沢村のほぼ半分をを占め、東は太平洋を望み、西は小川原沼に沿う広大な土地で、面積は3260町歩。牧場、農場のほか森林、沼地からなる大牧場に発展した。 |
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2016年04月16日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(126) |
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第6章 東京へ(4)
8月21日、東京へ到着した。千住の街を歩いていたら、前方から人力車を連ねてやってくる一行があり、紛れもなく野田だった。
野田は驚いて奇遇を喜んでくれ
「後日、わが屋敷に来るように」
といって立ち去った。
「薩長土肥の藩士にあらずば人にあらず」
といわれた世の中になったとは露知らない五郎は、手当たり次第に手蔓を求めて援助をお願いした。
結局、五郎の落ち着き先は東北巡行の次席だった信州・松本出身で大蔵属(さかん)の市川正寧邸だった。
この頃、五郎が青森から上京するのとすれ違いに、東京に残っていた四朗が八戸の広沢安任(参照)の牧場に招かれて外国人牧師2人の通訳と案内のため働いていたことを知った。 |
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2016年04月15日(金) |
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熊本激震、震度7 余震続く |
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昨夜、熊本県を中心に震度7の地震が発生した。死者9人、被災者数万人を数える大地震だ。余震が続く生活は大変だろう。
熊本・南阿蘇村の佐川官兵衛顕彰会長の興梠さんへお見舞いの電話をしたら、「もう大変、かつてない騒ぎです」。
幸いにも屋敷に被害はなかったので一安心。
◇ ◇ ◇
本日は京都會津会の幹事長小西さんから電話をいただいた。志賀小太郎の本を出版するにあたって読売新聞京都版でも掲載して貰おうと計画しており、京都會津会の関係者と連絡を取る予定だった。
小西さんによれば、会員は100名だそうで少しはPRになるはずだ。
熊本といい、京都といい、新しい「會津仲間」が増えるのはうれしい。 |
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2016年04月14日(木) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(125) |
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第6章 東京へ(3)
長岡たちは、これらの事情を知らなかったので、五郎の希望はほぼ受け入れられ、同行を許された。
6月初旬、父から貰った竹梱を背負い、草履をはき、山高帽を耳までかぶった格好で勇躍、東京へ向かった。長岡は牛輿に乗り、他は歩いて続く。
長岡は優しい人で、幼い五郎を労わって輿に乗せてくれたり、馬にも乗せてくれたので実際に歩いたのは1日のうち4,5里(16〜20キロ)だった。
途中、盛岡で1か月滞在し、松島ー仙台ー福島と順次、仕事をしながら渡り歩き、さらに、二本松ー本宮ー三春ー小野新町ー磐城平の県庁で一行の仕事はすべて終了となった。 |
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2016年04月13日(水) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(124) |
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第6章 東京へ(2)
五郎は直ちに、長岡が泊まっている宿屋に行って面会を求め、東京への同行を願い出た。長岡は
「東京に縁者はあるか?」
と尋ねたので
「東京には兄の四朗や親類、それに兄の親友秋月悌次郎(参照)らがいていかようにも世話してくれるはずです」
と自分勝手に知っている名前を並べた。
(参照)秋月悌次郎は幕末、會津藩の公用方(渉外係)。名は胤永。文政7年(1824)若松城下に生まれ、藩校・日新館を優秀な成績で出てJ7歳で江戸に遊学。22歳で昌平黌に入学し、書生寮寮長になった。會津藩主・松平容保が京都守護職に任じられると、公用方として藩の外交を担った。
戊辰戦争で鶴ヶ城が開城する直前、藩主の命を受けて米沢藩に赴き、西軍参謀板垣退助に降伏を申し出た。明治5年(1872)正月、熊本の旧制5高の教授になり、倫理と漢文を教えた。
翌年、松江から赴任してきたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は秋月を「神のごとく」と尊敬した。 |
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2016年04月12日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(123) |
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第6章 東京へ(1)
この頃、五郎と森寅之助は東京へ上京する機会を求めて相談を重ねていた。5月末、地租改正調査のため東北地歩を巡回中の大蔵省役人一行が青森に宿泊した。
主席は肥前・大村出身で、大蔵省7等出仕の長岡茂弘という人物だった。
五郎は、この好機を逸してはならないーとまず、野田に東京留学の志を打ち明け、彼等に同行できるよう、お願いした。
それに対して野田は賛成し、
「まず自分から直接願ってみよ。しかる後に考えてやる」
ということになった。 |
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2016年04月11日(月) |
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話題満載! 会報19号 |
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房総半島會津藩士顕彰会の会報も19号を数えるまでになった。
今号は、従前になく、面白い話題満載だ。表面は千葉県富津市竹岡の松翁院(別名十夜寺)の寺宝である「釈尊涅槃図」だ。菱川師宣の父が作成した縫伯刺繍で、千葉県の重文である。
刺繍にある徳川家康ー秀忠ー家光の3代将軍の弥栄を願うものだ。とここまでは寺の説明文だが、秀忠は會津藩祖保科正之の父、家康は祖父にあたり、家光は義兄なのだ。
會津藩にとって、深い縁がある刺繍なのだ。会報を読んだら、住職さんは驚くに違いない。會津藩との縁をー。
裏面は同寺の墓石説明。ソニー創業者井深大氏の高祖父が眠り、孫は白虎隊士石山虎之助だ。黄泉で大氏は、「我が先祖をみよ」と胸を張るだろう。 |
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2016年04月10日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(122) |
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第5章 生い立ち(40)
野田は書生を取り立てるのに気を遣い、それと興味と義務を感じていたらしく、後藤新平、斎藤實、林田亀太郎、高道竹雄ら、多くの人材を育成した。
後藤は岩手県出身の政治家で、満鉄総裁、内相、外相、東京市長などを歴任。1857〜1929。
斎藤は同県出身の軍人。海相、朝鮮総督、内大臣を歴任。海軍大将。2.26事件犠牲に。1858〜1936。
五郎と森は野辺地や落の沢での乞食同然の暮らしを経験しただけに、素森での仕事は楽しく、簡単なことだった。このため二人の評判はよく、県庁の給仕は、全部會津出身者になった。 |
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2016年04月09日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(121) |
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第5章 生い立ち(39)
4,5日の間は宿屋から役所に通い、早朝、一般職員が出勤する前に10丁(1100メートル)ほどの雪道を走って出勤した。
火を起こして湯を沸かし、各部屋の掃除、火鉢の用意、鉄瓶茶釜などを配る。ここで一旦、宿屋に戻って朝食を取り、再び、宙を飛ぶように役所に戻る。
暫くして五郎は、野田大参事の屋敷に引き取られて家僕として働き、役所の時間中は出勤して給仕として働いた。
野田邸には、食客兼従者として會津出身の捕吏真柄某と馬丁、飯炊き女がいた。野田は独身だったので、野田を頭として合宿所のようだった。 |
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2016年04月08日(金) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(120) |
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第5章 生い立ち(38)
五郎は、兄五三郎に送られて落の沢を出発し、田名部で森寅之助と落ち合って用意された駅馬に乗って青森に向かった。
行く先々で易馬が用意され、宿屋は駅役員が世話してくれて支払もしてくれたので、本当に楽な旅だった。
2日目は野辺地で1泊、3日目は野内村という所で日が暮れ、夜になって青森に着いた。
旧會津藩から青森県庁の役人と会なった梶原平馬や野口九太郎その他が泊っていた合宿所へ挨拶に出向くと大参事の野田が来訪中で、その帰りがけに台所で初めて挨拶した。
野田は五郎の姓名を聞いて
「後日、わが屋敷にくるように」
と言い残して去った。
翌日、森寅之助と共に県庁に出頭、元會津藩家老の梶原平馬・庶務課長から
「給仕、申しつける」
と厳かに申し渡され、月給二分を支給された。 |
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2016年04月07日(木) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(119) |
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第5章 生い立ち(37)
このような絶望の淵に際して五郎の青森派遣は、どん底の柴家にとって大きな欣快であり、朗報となった。
五郎は、兄五三郎に伴われて羽織、袴に小刀を帯び、佐多蔵が苦心して誂えた草履をはいても寒さは感じなかった。
田名部県庁で、旧藩主に代わって山川大蔵大参事から激励の言葉をもらうなど、あたかも明治初期における欧米派遣の留学将校が天皇陛下に拝謁するようであった。
県庁から路銀として金1両が支給された。五郎は知人からの餞別と併せ1両1分1朱を首から吊ったがま口に入れて懐中にした。
五三郎から教えられて暗記した挨拶の言葉を父の前に手をついて申し上げた。
「何か、ひとかどの修業をいたさねば、再び、家には戻りませぬ。父上、ご健勝にてお待ちくだされ」
佐多蔵は、ただ頷くだけ。兄嫁は声を忍んで泣いていた。 |
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2016年04月06日(水) |
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出版迫る!志賀小太郎物語 |
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昨年から構想を練ってきた小説がようやく脱稿した。早ければ4月中に出版されるだろう。
戊辰戦争以来、我々會津人は長州人へ恨みを隠さないで生きてきた。戊辰での會津藩士に対する冷酷、無慈悲な扱いに恨みを持つ會津人は多い。
しかし、幕末から20年ほど前、長州藩と會津藩は仲が良かった。長州藩主が宝蔵院流槍術の天才児、會津藩の志賀小太郎重則を萩城下に招いて藩士を指南してもらった。2年に及ぶ指南で會津と長州の深い縁が生まれた。
この史実を元に小太郎を巡る両藩の親密ぶりを描いたつもりだ。會津人も案外、知らない史実を掘り起こし、初めて小説にしたのが、『幕末を駆け抜けた天馬』である。會津人、長州人には是非ご一読してほしいと願っている。
乞う、ご期待!! |
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2016年04月05日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(118) |
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第5章 生い立ち(36)
野田は、後に陸軍に入り、初代陸軍経理局長、男爵を賜った。義侠に厚く、無私の人で、特に、よく後輩の面倒を見た。函館戦争では、新政府軍軍監として活躍し、かつては敵軍の将であったが、薩長土肥の閥外にあり、東北諸藩の子弟教育に奔走した人物だった。
五郎の他には、森寅之助という1歳上の秀才が選ばれた。森は後年、イタリアに派遣され、陸軍少佐となって彼の地で客死した森雅守である。
これより先、廃藩置県とともに全国一斉に旧藩主に対して知藩事の職を免ずることになり、8月25日、藩主松平容大は父容保ともども藩士一同に対して永きにわたる困苦忠節に感謝し、東京へ去っていった。
開拓がいまだ緒につかず、荒涼たる原野に取り残された藩士の群れ。支柱を失って、その前途に迷い、天を仰いで嘆息するばかりだった。 |
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2016年04月04日(月) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(117) |
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第5章 生い立ち(35)
不吉な鳥の鳴き声に明け暮れる飢餓の荒野にも遂に燭光が昇る朝を迎えた。明治4年(1871)2月の半ばを過ぎた頃、突如、この乞食小屋に光が入った。
藩政府の選抜によって学問修行のため、五郎を青森県庁の給仕として遣わし、大参事野田豁通(ひろみち)の世話になることが決まった。五三郎が奔走してくれた結果だった。
この年の7月4日、廃藩置県の令があって斗南藩は斗南県となり、弘前藩が弘前県として野田が大惨事になった時、野田はわずか28歳であった。その後、弘前県を含めて青森県となり、本庁を青森に移した。
野田は熊本・細川藩産物方頭取、石光真民の末弟で、勘定方出仕の野田家の養子となって幕末、京都に出て実学派の横井小楠の門下になった。 |
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2016年04月03日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(116) |
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第5章 生い立ち(34)
陸奥湾から吹きつける北風は小屋の中を吹き抜け、凍った月の光が射しこんで寒気が肌身に沁み、夜を徹して狐の遠吠えが聞こえてきた。
いよいよ、吹雪の季節となった。五郎には以前から下駄も草履もなく、裸足だった。氷点下15度の吹雪の上に立てば凍傷にかかるので、常に足踏みするか、あるいは全速力で走るしかなかった。
足先の感覚がなくなって危険を感じたので、途中の金谷村の三宅宅に駆けこんで、少し暖まり、また夏のままの着物を風に翻して氷雪の山道を飛ぶように走って落ちの沢の父を訪ねて米1升を置いて再び、凍結した山道を駆け戻ってきた。
厳寒の季節になって五郎は、勉学を中断して父の元に戻った。今日も明日も、来る日も来る日も黙々と縄をなって暮す柴家の人々だった。 |
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2016年04月02日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(115) |
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第5章 生い立ち(33)
五三郎は6月から、小林方に寄寓して通学し 1,6の休日ごとに落ちの沢に戻り、配給米1升(1,5キログラム)を背負ってくるのが習わしだった。
やがて秋が過ぎ、恐ろしい冬が来ても柴家には、昨年の冬と同じく満足な戸障子もなく、敷く蓆さえない、乞食同然の生活だった。
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昨日から電力自由化になり、我が家は東京ガスに切り替えた。何しろ、多い時で1か月2万5千円も電気代がかかるので参っていた。どれほど安く成るのかだが、1か月1万円以上の家庭では、確実に安くなる、という。
戦後、地域独占で電力会社の思うように料金が設定されてきた。来月からの電気代を見るのが楽しみだ。 |
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2016年04月01日(金) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(114) |
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第5章 生い立ち(32)
それでも夏はセリ、蕨、浅葱などが山菜が豊富なので充分だった。
時には、桑を摘めるだけつんで、これを背負って田名部まで運んで売れば24文になり、銭湯の代金になった。
晩春となって五三郎が突然、東京から来た。勉学のため東京に残って船員を目指していた五三郎は、斗南藩が買い入れた「安渡丸」に乗って訓練中、房総沖で難破した。
船を離れた際、太一郎が藩のため罪を背負って獄舎に繋がれているのを知って勉学を中断して父を助けるため斗南に来たのだった。
五三郎は実情を知って驚き、翌日から一心不乱に父を助けて開墾に従事した。五三郎が学校にも通わず、百姓の子倅になり下がっているのを憐れんで田名部にいた五三郎の友人小林英衛に頼みこんで、同居訓育することになった。 |
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