会津の歴史
河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2013年11月30日(土) 出直し都知事選
 猪瀬直樹東京都知事が医療法人徳洲会から5000万円を借入した問題で昨日、都議会の滅意表明で釈明した。個人的に借り入れたものーとの従来の釈明を繰り返したが、各党からは不信の声が高まっている。5日からの質問で猪瀬知事は針の莚であろう。
 早くも政界では、「持ちこたえられまい」と辞任を示唆する声が出始めている。今のところ、舛添要一・元厚生労働大臣と小池百合子・自民党衆議院議員が候補として上がっている。
 猪瀬さんは、福島民友に出向していた時、地元中小企業経営者対象の講演会に講師として招いた記憶がある。信州大卒の信州人らしく冗談も言わない真面目人間の思い出。「あの猪瀬が〜」という思いである。
 政治の世界は、どこまで汚れているのだろう。情けない、嫌だなあ!
2013年11月29日(金) 若松町役場の会津藩士(9)
 ◇大町名子屋町(下)

二瓶長之助(嘉永元年正月生まれ) 42歳
塚原庄助(明治19年8月生まれ) 3歳
新妻 浩(明治2年4月生まれ) 21歳
島影源蔵(嘉永3年正月生まれ) 40歳
菅井守之助(嘉永3年7月生まれ) 40歳
高吉庄吉(嘉永5年11月生まれ) 37歳
野村留次郎(嘉永3年正月生まれ) 40歳
伊藤新四郎(文久2年5月生まれ) 28歳
                以上32人
(大町三、四之竪町の北、旧糠塚全体をさす。戸数31戸。町内に第2尋常小学校、誓願寺、融通寺、東明寺などあり。大町通りを基として大町一之丁からここに至る間を昔は大町と称した。駅前町、城北町、大町二丁目に変更)
2013年11月28日(木) 若松町役場の会津藩士(8)
 ◇大町名子屋町(中)

山浦辰之助(天保3年5月生まれ) 58歳
荒井次郎(弘化2年8月生まれ) 44歳
窪田喜代吉(明治5年5月生まれ) 18歳
澤田武雄(明治18年6月生まれ) 5歳
澤田鉄衛(弘化元年9月生まれ) 45歳
外井類輔(天保11年10月生まれ) 49歳
渡部半之亟(嘉永5年4月生まれ) 39歳
平山久拓(安政元年正月生まれ) 36歳
結城栄次郎(嘉永3年12月生まれ) 39歳
古川一二(明治2年8月生まれ) 20歳
小川丈吉(文久元年正月生まれ) 29歳
菅井龍馬(安政6年4月生まれ) 31歳
辺見栄之助(不明)

       ◇   ◇   ◇
 本日は南風が強い中、モノレールで千葉駅前に行き、年末ジャンボを購入してきた。初夢は28日がよいーとのラジオ放送を聞いて出かけた。
 売り場は閑散としており、ラジオ放送を聞いた人は少なかったようだ。売り場では笑顔で、とも言っていたが、苦笑したのみ。
2013年11月27日(水) 若松町役場の会津藩士(7)
 ◇大町名子屋町(上)

角 心吉(慶応4年8月生まれ) 21歳
外島栄太郎(文久3年正月生まれ) 23歳
竹本確次(天保10年12月生まれ) 60歳
相沢藤次郎(安政6年12月生まれ) 30歳
佐藤久馬(安政4年5月生まれ) 33歳
西川安吉(文久3年正月生まれ) 27歳
安積新三郎(慶応元年3月生まれ) 35歳
穴沢光里(慶応元年12月生まれ) 34歳
佐藤甚蔵(天保9年2月生まれ) 61歳
皆川鶴吉(弘化2年7月生まれ) 45歳
吉田三平(慶応3年8月生まれ) 22歳
                以上11人
2013年11月26日(火) 若松町役場の会津藩士(6)
 ◇大町原之町

要 平八(天保10年11月生まれ) 50歳
                以上1人

      ◇   ◇   ◇
 中国共産党がなにを思ったのか、突如、尖閣諸島を含む空域一帯に防空識別圏を設定した。一方的な措置で我が国は勿論、アメリカも強く抗議し、不信感を表明した。東シナ海全体を「俺のものだ」と、強盗が空威張りしているようなものだ。戦闘行為の発生も予想される。
 中国国内が、少数民族や、貧富の格差で一般民衆まで不満が鬱積しており、その不満を外へ向けようと画策している。それだけ中国共産党は”怖れている”のだ。
 もはや共産党は世界の潮流から忘れ去られている。中国や北朝鮮、キューバにベトナムなど数えるほどしか共産党は残っていない。ベトナムは開放路線に転じているから実質は3か国だけ。
 時代の”遺物”ともいえる共産党、何とかしなくてはいけない。消えてなくなれ共産党!
2013年11月25日(月) 若松町役場の会津藩士(5)
 ◇大町四之町

芳賀重次郎(安政3年8月生まれ) 33歳
荒井直五郎(弘化2年4月生まれ) 45歳
好川熊蔵(明治10年12月生まれ) 12歳
高橋善太郎(弘化4年11月生まれ) 43歳
清水民弥(文政7年10月生まれ) 65歳
高畑秀五郎(慶応3年9月生まれ) 22歳
長尾半之助(文久3年10月生まれ) 26歳
森山源太郎(嘉永6年6月生まれ) 37歳
                以上8人

 ◇大町三四之竪

宇田川亀之助(嘉永3年6月生まれ) 40歳
井上久四郎(嘉永3年5月生まれ) 40歳
金指晴三郎(慶応3年11月生まれ) 22歳
相田善四郎(明治5年9月生まれ) 16歳
                以上4人
(大町二、三之竪町と大町名子屋町との間にある戸数31戸。戦前、芝栄銀行や弥勒寺があった。大町1丁目に変更された)
2013年11月24日(日) 若松町役場の会津藩士(4)
 ◇大町一之町

頓宮 勇(文久3年8月生まれ) 27歳
太田友太郎(慶応3年7月生まれ) 23歳
斎藤 寛 (慶応3年5月生まれ) 23歳
               以上3人

 ◇大町二之町

加藤岩人(天保14年4月生まれ) 47歳
小林栄三郎(天保14年3月生まれ) 47歳
五十嵐庄之助(天保14年3月生まれ) 47歳
                以上3人
(戸数20戸、停車場への通路だった。大町1丁目に変更)

 ◇大町二之竪

斎藤和一(慶応元年9月生まれ) 25歳
瓜生辰次(文久2年2月生まれ) 28歳
                以上2人

 ◇大町三之町

新妻善八(天保元年9月生まれ) 60歳
小沼タツヤ(明治8年3月生まれ) 15歳
鈴木熊四郎(明治5年12月生まれ)18歳
神田寅次郎(嘉永元年10月生まれ) 42歳
山崎亀五郎(弘化3年3月生まれ) 42歳
手代木常雄(明治11年3月生まれ) 12歳
                以上6人
2013年11月23日(土) 若松町役場の会津藩士(3)
 ◇大町堅丁

荒井一郎(文政9年2月生まれ) 64歳
河野喜左衛門(文政2年正月生まれ) 71歳
奥村伊波(天保14年7月生まれ) 47歳
横山熊吉(天保12年8月生まれ) 48歳
黒河内保衛(天保元年5月生まれ) 60歳。
                以上5人
(この町は、栄町3丁目の北、大町二之竪町に至る間で、戸数75戸。商家多く、維新前は札木の場所(日光街道、越後街道、米沢街道などの出発点)だった善行院がある。昭和38年から始まった住居表示で、中町、大町1丁目になった) 
2013年11月22日(金) 仏教伝来
 昨夜のNHKBSプレミアムで仏教伝来を放映した。西暦538年、朝鮮半島の百済の聖明王が倭の欽明天皇(29代)に仏像と経典を献上し、後に聖武天皇(45代)が東大寺の大仏を広く人民に呼びかけて建立し、全国に国分寺を設立したことによって仏教が広まったーと解説していた。
 ところが、仏教は会津地方に直接伝来した?ーことを御存じだろうか。会津坂下町の恵隆寺に伝わる「高寺伝説」によれば、中国の梁(502〜557)という国の青巌という坊さんが越後海岸に漂着し、阿賀野川を遡って会津に現れ、高寺山に庵を作って布教したーという「高寺伝説」だ。
 その弟子恵隆が跡を継ぎ、斉明天皇(37代)4年(658)になり、蓮空上人が二人の徳を慕って金堂を建立し、平安末期、現在地に恵隆寺として再建され、今日に至る。
 江戸時代の古文書である『新編會津風土記』(文化6年=1809)によれば、「欽明天皇元年、中国梁の僧清巌、会津に来たりて高寺山に草庵を営み高寺と称す。その頃は、仏教いまだ東漸せざる以前なり。次第に繁栄し堂舎3千余に及ぶ。宝亀6年(775)兵火に罹り遂に廃絶す」
とある。
 当時は日本海側が表日本で中国や朝鮮との窓口になっていて、各地へバラバラに仏教が伝来していたのではないかーと思われる。大和朝廷は権威付けするため百済から天皇に献上されたーことにしたのではなかろうか。「仏都会津」の名誉にかけて訴えたい。
2013年11月21日(木) 若松町役場の会津藩士(2)
 因みに、明治23年(1890)といえば、国内、会津でどんな出来事が起きただろうか。まず、前前年の同21年7月15日、磐梯山が噴火、檜原湖が誕生して秋元原などの村落が埋没し、死者477人を出した。
 同年4月に市制、町村制が交付された。同月30日に枢密院が設置され、初代議長に長州の伊藤博文が就任した。
 同22年は、2月に大日本帝国憲法が発布され、衆議院議員選挙法などが公布された。7月1日、東海道線が全通、新橋ー神戸間に直通長距離列車が登場。
 23年2月17日、福島県から会津中学の設立が認可された。同19日には、若松住民の悲願だった鶴ヶ城跡地の払い受け請願が閣議決定され、金2万円の払い込みで松平容大に払下げられた。実際の払下げ資金は旧会津藩士の遠藤敬止が行い、晴れて8万7千坪(28万7千平方m)が払い下げられた。
 7月1日には第1回衆議院選挙が実施された(有権者は高額納税者で45万人、国民の1.14%だった)。初代議長は、婦女子21人が自刃した西郷頼母邸で見届けた土佐藩の中島信行。
 10月30日、教育勅語が発布された。
 翌24年8月7日、市立会津中学校は県に移管され、会津尋常中学校に。1月1日、日本の総人口は4025万人。9月、上野ー青森間鉄道開通。
2013年11月20日(水) 若松町役場の会津藩士(1)
 明治23年(1890)当時の若松町役場で作成した士族名簿を入手した。戊辰戦争でバラバラになった会津藩士は、その多くが本州最北端の斗南に挙藩流刑され、一方では、蝦夷地へ開拓民として渡った。
 廃藩置県後に、山川家など有力藩士は「薩長藩閥政治なにするものぞ」と風雲の志を抱いて上京し、中央で活躍するが、田畑を捨てて郷里会津へ戻った旧藩士も多かった。
 今回判明した894名は下士が多いのではないかと思われるが、中には、家老を務めた諏方伊助や初代若松市長になった秋山清八らの名前が確認できた。
 れっきとした上級武士でありながら、蝦夷地へ渡って開拓を指揮し、後に会津に戻った宗川茂友の家族は平民扱いになっており、扱いの不自然さが目立つ。戊辰戦争で生き残った会津藩士は4000名と思われるが、その22%が郷里に戻った計算だ。
 藩士の屋敷があった「郭内」は、戊申の役で一面焼け野原になり、「戻りたくとも戻れない」状態であった。が、「栄えてほしい」という住民の願いを込めて「栄町」となり、894名のうち、最も多い155人が戻ってきていた。その他は城下町の各町に散らばって住んでいた。離れがたい故郷の再興を誓う旧藩士らの胸の内は、いかばかりであったろう。
2013年11月19日(火) 会津の銘酒あれこれ
 目の前に15日付福島民報がある。東北清酒鑑評会で、会津若松の名倉山が吟醸酒の部で東北一になった記事が大きく取り上げられている。
 また、評価員特別賞に、会津美里町の白井酒造(萬代芳)が、蔵元として喜多方市の吉の川酒造がそれぞれ選ばれている。
 このほか、栄川酒造、末広酒造、辰泉酒造、鶴乃江酒造、山口酒造(以上同市)、稲川酒造(磐梯町)、國権(南会津町)などが吟醸酒部門で優等賞。
 また、純米酒の部では、稲川酒造、栄川酒造、末広酒造、名倉山酒造など24銘柄が優等賞に選ばれた。件数でも東北一だ。
 さすが、「会津は酒どころ」と言われるだけのことはある。
 が、しかし、気になることがある。会津では最高の銘酒といわれる花泉(南会津町)が入っていないこと。花泉の辛口はプレミアムがつくほどで、入手困難な酒だ。それなのに〜。おかしいなあ!
 昔は会津の酒を代表した花春の名は消えたままだ。これも寂しい。
2013年11月18日(月) 大河ドラマ
 NHKの大河ドラマ「八重の桜」の視聴率は低迷している。年初の頃から戊辰戦争までは、視聴率は17〜18%台で好調だったが、2月、3月になると、15%台に。8月に悲劇の戊辰戦争が終了し、舞台が京都になると、ぐっと落ち込む。9月末以降は、視聴率ベスト20から姿を消している。
 第一、山本八重の存在自体を知らない人が多いことだ。会津出身者でも歴史に詳しい人でなければ知らないだろう。
 大河ドラマについて、NHKは東北大震災被害の応援ーと位置付けて放映したのだが、これより先の2011年(平成23年)に生誕400年を迎えた会津藩祖・保科正之を取り上げてーと運動した経緯がある。呼びかけは、なんと信州の片田舎の高遠町(現伊那市)。
 わが顕彰会も署名に協力したが、これは会津若松市が本来は運動施べきだった。当時の菅家市長は高遠町に先を越されたのだ。
 正之を取り上げれば、徳川2代将軍秀忠の生涯一度の浮気で出生した正之が正室お江代の刺客に狙われ、高遠藩に養子に出されて以降、義兄の3代将軍・家光に見いだされ、山形藩主〜会津藩祖に出世し、後に島原の乱や江戸城の天守閣を焼いた振袖火事があり、こうした舞台背景の中で、武断政治から文治政治へ切り替えてゆく幕府の政治を取り仕切る正之は、素晴らしいドラマになったに違いない。
2013年11月17日(日) 箱館戦争(番外)
 戊辰の役が終わり、世の中が一段落すると、新政府は蝦夷地を北海道に、箱館を函館に改称した。
 北海道の名付け親は、松坂藩(三重県松坂市)の探検家、松浦武四郎である。下級武士の家に生まれた武四郎は、幕末、ロシアの南下政策を知ると、
危機感を抱き、弘化2年(1845)以後、6回にわたって蝦夷地や樺太を探検した。
 明治に入って蝦夷地の高官に任じられたが、新政府のアイヌ同化政策に反発して高官を辞した。
 武四郎は、アイヌの長老たちが、「北加伊道」と呼び、「加伊」はこの国に生まれた者を意味し、アイヌの人たちが自分たちの土地、と呼んだ名前と理解していた。
 アイヌへの敬愛を忘れなかった武四郎は、本州の東海道など5機7道に対応して最終的に「加伊」を「海」とし、「北海道」と名付けた。明治2年(1869)8月であった。
2013年11月16日(土) 箱館戦争(最終回)
 閣僚8人のうち4人までは後に赦免され、新政府に仕えている。榎本武揚はじめ大鳥圭介、荒井郁之助、永井玄番守(尚志)だ。
 榎本は、その能力を高く買ってくれた黒田清隆の協力で、蝦夷地開拓使となり、その後、海軍所、清国駐在特命全権公使となり、農商務大臣などを歴任した。退官後は、東京農大を創設した。
 かくして戊辰の役は終わりを告げた。が、この物語には後日談がある。
 明治3年(1870)、降伏した榎本軍の元見廻組、今井信郎が新政府軍の取り調べに対して驚くべき事実を自供した。
 慶応3年(1867)11月15日、京・河原町の醤油屋「近江屋」で、土佐脱藩浪士坂本龍馬と中岡慎太郎の二人を仲間と襲って暗殺したーというのだ。
 襲撃隊隊長は会津藩出身の佐々木只三郎だった。只三郎は翌年正月の鳥羽・伏見の戦で負傷し、その後、淀川沿いの橋下で被弾して死亡、和歌山の紀三井寺(紀州藩の菩提寺)に葬られた。
(この項は、『日本主義』NO5,『燃えよ剣』(司馬遼太郎著)を参考にした)(完)
2013年11月15日(金) 箱館戦争(72)
 「いま申したはずだ。新選組副長が参謀府に用がありとすれば、斬り込みに行くだけよ」
あっ、と敵方は驚き、全軍、射撃体勢をとった。
 歳三は馬腹を蹴ってその頭上を跳躍した。が、馬が再び地上に足を付けた時、鞍の上の歳三の体はすさまじい音を立てて地面に転がっていた。
 なおも怖れて、皆、近づかなかった。
 が、歳三の黒い羅紗服が血で濡れ始めた時、初めて長州人たちは、この敵将が死体になっていることを知った。
 歳三は死んだ。享年35。
 それから6日後の5月17日、五稜郭は降伏、開城した。総裁、副総裁、陸軍奉行など8人の閣僚の中で戦死したのは、歳三ただ一人であった。
2013年11月14日(木) 箱館戦争(71)
 「名はなんと申される」
 長州部隊の士官は、あるいは薩摩の新任参謀でもあるのかと思ったのである。
 「名か〜」
 歳三はちょっと考えた。しかし箱館政府の陸軍奉行、とはどういうわけか名乗りたくなかった。
 「新選組副長土方歳三」
と云った時、新政府軍は白昼に竜が蛇行するのを見たほどに仰天した。歳三は、駒を進め始めた。
 士官は兵を散開させ、射撃用意をさせた上で、なおも聞いた。
「参謀府に参られるとは、どういう御用件か。降伏の軍使ならば作法があるはず」
「降伏?」
歳三は馬の歩速をゆるめない。
2013年11月13日(水) 箱館戦争(70)
 歳三は、敵の頭上を飛び越え、飛び越えして片手斬りで左右になぎ倒しつつ進んだ。鬼、としかいいようがない。
 そこへ新政府軍の予備隊が駆けつけてきて左翼隊の崩れがかろうじて支えられるや、逆に五稜郭軍は崩れ立った。これ以上、進めない。
 が、ただ一騎、歳三だけが行く。悠々と硝煙の中を進んでいる。それを諸隊が追おうとしたが、新政府軍の壁に押しまくられて一歩も進めない。
 皆、呆然と歳三の騎馬姿を見送った。五稜郭軍だけでなく、地に伏せて射撃している新政府軍の将士も、自軍の中を悠然と通過してゆく敵将の姿になにかしら気圧される思いがして、誰も近づかず、銃口を向けることさえ忘れた。
 歳三が、行く。
 遂に箱館市内の端の栄国橋まで来た時、地蔵町の方から駆け足で駆けつけてきた増援の長州部隊が、この見慣れぬ仏式軍服の将官を見とがめ、
 「いずれへ参られる」
と、問うた。
「参謀府へ行く」
 歳三は、微笑すれば凄味があるといわれた、その二重瞼の眼を細めて云った。無論、単騎斬りこむつもりであった。
2013年11月12日(火) 箱館戦争(69)
 歳三は白刃を肩に担ぎ、馬上で、すさまじく指揮をとったが、戦勢は劣勢だった。敵は歴戦の薩長が主で、余藩の兵は予備に回されており、一歩も退く気配がない。
 それに、ここまで来ると、箱館港から撃ちだす敵の艦砲射撃の命中率がいよいよ正確になり、松平太郎などは自軍の崩れるのを支えるのにむしろ必死だった。
 歳三は、もはや白兵突撃以外に手がないとみた。幸い、敵の左翼からの射撃が不活発なのをみて、兵を振り返った。
 「おれは箱館へ行く。恐らく再び五稜郭には帰るまい。世に生き飽きた者だけはついて来い」
というと、その声に引き寄せられるようにして,松平隊、星隊、中島隊からも兵が駆けつけてきて、たちまち200名に膨れ、そのまま隊伍も組まずに敵の左翼へ吶喊を開始した。
2013年11月11日(月) 箱館戦争(68)
 そこへ新選組、額兵隊、伝習士官隊が殺到し、銃撃、白兵をまじえつつ戦ううちに松平、星、中島隊が殺到して敵を一挙に潰走させた。
 歳三は、さらに進んだ。途中、津藩兵らしい和装、洋装取り混ぜた新政府軍に出遭ったが、砲3門にミニエー銃を連射して撃退し、遂に正午、箱館郊外の一本木関門の手前まで来た。
 新政府軍は主力をここに集結し、放列、銃弾を布いてすさまじい射撃を開始した。松平隊らの砲、銃隊も進出して展開し、
ーその激闘、古今に類なし。
といわれたほどの激戦になった。
2013年11月10日(日) 箱館戦争(67)
 陽が昇った。待ち構えた居たように、新政府軍の4ポンド山砲隊、艦砲が轟々と天を振るわせて射撃を始めた。
 味方の五稜郭からも24ポンドの要塞砲隊、艦砲が火を噴き始めた。歳三の隊に後続して、松平太郎、星恂太郎、中島三郎助らの諸隊が続き、その曳行山砲が躍進しては撃ち始めた。
 たちまち天地は砲煙に包まれた。歳三の周りに間断なく砲弾が炸裂しては鉄片が飛び散ったが、歳三の隊はますます歩速を上げた。
 途中の原始林を抜けた時、新政府軍の先鋒100人ばかりに遭遇した。敵が馬上で銃の照準を開始した。
 歳三は馬腹を蹴り疾風のように走って馬上から、その砲手を斬った。
2013年11月09日(土) 箱館戦争(66)
 歳三は、すでに、この日の戦場を境に、近藤や沖田のもとに行くことを心に決めていた。ここ数日、うかつに生きてしまえば、榎本や大鳥らと共に降伏者になることは明白だった。
(彼等は降れ。おれは長い喧嘩相手だった薩長に降れるか!)
と思っていた。できれば喧嘩師らしく敵陣の奥深く突き入り、屍を前にむけて死にたかった。
 歳三は、3門の砲車を先頭に進んだ。途中、林を通った。暗い木蔭からにわかに飛び出してきて、馬の口輪を抑えた者があった。馬丁の忠助だ。
 「忠助、何をしやがる」
 「皆さん、来ています。新選組として死ぬんだと、おっしゃっています」
みれば、島田魁はじめ一昨夜別盃を汲んだ連中がそこにいる。 
 「帰れ、今日の戦はお前たち剣術屋の手には負えねえ」
と、馬を進めた。島田ら新選組は馬側を囲むように駆けだした。
2013年11月08日(金) 箱館戦争(65)
 偶然、新政府軍参謀府でも、11日を五稜郭総攻撃の日と決めていた。その当日、歳三が五稜郭の城門を出た時は、まだ天地は暗かった。
 歳三は馬上。従うものはわずか50名である。榎本軍の中で最強の洋式訓練隊といわれた旧仙台藩の額兵隊に、旧幕府の伝習士官隊の中からそれぞれ1個分隊を引き抜いただけだった。
 この無謀さには、松平らも驚いた。が、歳三は
「私は少数で錐のように新政府軍に穴をあけて箱館へ突っ込む。諸君はありったけの兵力と弾薬荷駄を率いてその穴を拡大してくれ」
と云った。
2013年11月07日(木) 箱館戦争(64)
 大鳥は後に外交官になった男だけに、どんな場合でも論理は明晰であった。
 「君は」
と、歳三は云った。
 「籠城説をとっている。籠城というのは援軍を待つためにやるものだ。我々はこの国のどこに味方がいるのだ。この場合、軍議の余地などない。出戦以外は〜」
 皮肉を込めて云った。籠城は、降伏の予備行動ではないかと歳三は疑っているのだ。
 松平太郎や星恂太郎らは歳三に同調し、翌11日未明を期して箱館奪還作戦をおこすとになった。
2013年11月06日(水) 箱館戦争(63)
 一方、新政府軍の司令部では、すでに五稜郭の本営に対し降伏勧告の準備をしつつあり、正式な招降使を出す前に、五稜郭出入りの商人を通じてうわさ程度のものをしきりに流して城内の反応を打診しようとした。
 箱館政府軍の箱館が敵の手に落ちた。永井玄蕃頭ら敗兵が五稜郭へ逃げ込んできた。もはや残された拠点は、弁天崎砲台、千代ヶ岱砲台、それに本営の五稜郭のみであった。
 軍議が開かれた。榎本、大鳥は籠城を主張した。歳三は相変わらず黙っていたが、副総裁の松平太郎がしつこく意見を求めてきたので、ぽつりと、
「私は出戦しますよ」
とだけ言った。
 陸軍奉行大鳥圭介が、歳三への悪感情をむき出した顔で言った。
「それでは土方君、意見にならない。ここは軍議の席だ。君の事ではなく、我々がどうすべきかという相談をしている」
2013年11月05日(火) 箱館戦争(62)
 箱館政府の海軍は5月7日、全滅した。ために新政府軍艦隊は全艦、箱館港に入った。五稜郭本営では、海軍全滅の日、もっとも緊張した空気の中で軍議が開かれた。
 「(降伏か、籠城かを)どうするか」
というのである。
 野戦陣地は潰されたとはいえ、五稜郭の他、箱館港の弁天崎砲台、千代ヶ岱砲台はまだ健在であった。
 「籠城がよかろう」
という意見は、大鳥圭介である。
 が、榎本も松平太郎も、主戦論を主張した。歳三は、相変わらずだまっていた。もはや、どうみても勝ち目はない。
「拙者は、どちらでもよい」
と、意味の分からぬことを言った。歳三は、自分が死ぬことだけを考えるようになっていた。
2013年11月04日(月) 箱館戦争(61)
 周りの将兵は、予想していた以上の敗色を、榎本の涙で悟った。さらに、帰営して驚いたのは、大鳥が率いていた幕府歩兵が数百人脱走してしまったことだ。
 どうせ根は武士ではなく、江戸、大坂でかき集めてきた町人どもで、いざ敗戦となれば根性がない。が、その脱走の事実を知って、歳三の戦勝部隊にいる歩兵も動揺し、帰陣後、10日ほどでの間に、百人は姿を消した。
 さらに衝撃を与えたのは、箱館政府軍の虎の子ともいうべき軍艦が、次々と失われたことである。既に高尾がなく、千代田形艦が箱館弁天崎沖で座礁し、最大の戦力であった回天も箱館港内の海戦中百5発の砲弾を受けて浅瀬に乗り上げ、無力化した。
 残る蟠竜も、機関故障で機能を失い、榎本がもっとも頼りにしていた海軍は全滅した。この全滅が榎本はじめ海軍出身の幹部に与えた衝撃は大きく、意気消沈が全軍の士気を弱めた。
2013年11月03日(日) 三浦半島会津藩士顕彰会の慰霊祭続き
 昨日の横須賀市の会津藩士顕彰会も慰霊祭で大勢の方に会うことができた。母校・会津高校の同期生と後輩の山寺君。彼は在日米軍横須賀基地の憲兵隊で、准尉だそうだ。
 連日、訓練に明け暮れ、鍛錬に努めている。会津若松市出身で、小生が区長をしていた馬場一ノ竪町のうなぎ屋「えび屋」の主人と同期だとか。
 面白かったのは、会津坂下町出身で、若商〜独協大卒の元神奈川県副知事の小川さんが初参加していた。この他、会津出身者の2世の神奈川県議や横須賀市義らが4人もいたこと。
 都内から通勤圏内で会津出身者がいることは知っていたが、予想以上に多かった。法要後の斎は盛り上がった。
 対して、こちら房総半島会津藩士顕彰会は地元富津市には会津出身者がいないことだ。寂しいが、会員は北海道から神奈川県まで広く散らばっているのが自慢だ。
2013年11月02日(土) 三浦半島会津藩士顕彰会の慰霊祭
 本日は横須賀市で行われた三浦半島会津藩士顕彰会(佐藤良一会長)主催の会津藩士慰霊祭が同市鴨居の西徳寺で行われた。今回は46回目で、会津若松市の職員や会津弔霊義会の鈴木清章理事、会津会の福田のぶ子副会長、房総半島会津藩士顕彰会会長の小生の他、地元関係者約40人が参加した。
 法要の後、11名が眠る墓地と近くの腰越墓地の2か所ををお参りし、献花、焼香した。
 本堂での斎で、河野会長から、大河ドラマで翻った「會」の旗を佐藤良一会長にプレゼントし、江戸湾を挟んで友好を深めた。
 写真は贈呈のようす。左が佐藤良一会長。
2013年11月01日(金) 箱館戦争(60)
 二股から箱館への通路にあたる矢不来の陣地が敵の艦砲射撃で陥ちたという。もし新政府軍が入ってくれば、土方軍は孤立してしまう。
 やむなく10数日にわたって新政府軍を撃退しづけてきた二股の陣地を下り、歳三は亀田の五稜郭に帰営した。
「土方さん、よくやっていただいた」
と、榎本は城門で馬上の歳三を迎え、将兵にもいちいち涙をためて目礼した。榎本には、こういうところがあり、それが人徳になって一種の統率力にまでなっていた。
 歳三も、近藤勇にはなかった、そういう榎本の一面が嫌いではない。しかし、この場合、涙は余計だった。士気に影響した。
      ◇   ◇   ◇
 明日は、対岸の横須賀市で三浦半島会津藩士顕彰会の慰霊祭がある。古く昭和43年から続けており、房総半島会津藩士顕彰会にとっては兄貴分にあたる。
 2,3年ぶりの出席になるが、大河ドラマで翻っていた「會」の旗を佐藤良一会長にプレゼントする。会が盛り上がるだろう。お互い、会津藩士の御霊を弔う意義を深くかみしめたいものだ。
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