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2014年08月31日(日) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(11) |
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◇中野義都(1728〜98)
(神道家、藤樹学者)
義都(よしくに)は、瀬左衛門義信の次男で若松城下で生まれた。先祖は猪苗代城主葦名盛国の子盛胤で、その子盛親が岩城鳥居氏に仕えて中野村を領したので中野性に。盛親は後に會津藩祖保科正之に仕え、4代を経て義都に至る。
義都は若くして藤樹学を修め、小田付の肝煎井上安貞(国直)、小荒井の郷校教授矢部湖岸(直言)と共に”後三子”と呼ばれていた。
また神道は佐瀬常職、吉川従門に師事した。他に兵法、刀術、居合術、射術にも精通して文字通り、文武兼備の士であった。
父は、その才を愛して兄に代えて家督に据えようとしたが、義都はあくまで兄を立て耶麻郡熊倉村に隠れ、次に上高額村で医を業として隠棲した。
天明3年(1783)、蕃に召し出されて弓術師範となり、翌年には卜部神道の教授を命じられ、8代藩主容敬の侍講を務めた。 |
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2014年08月30日(土) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(10) |
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◇志賀重則(下)
(宝蔵院鎌流鎗術師範)
帰国した重則は修行俸7口を賜った。さらに佐賀藩からは野邊田剛四郎らも重則を慕って會津にきて重方、重則親子の親切な指導を受けた。重則の指導を受けた長州藩士岡部半蔵は帰国後、萩で宝蔵院流の師範となった。
弘化3年(1846)、重方の後を継いで師範となったが、当時、疫病が流行し、重則はこれに罹って嘉永3年、不帰の人となった。38歳であった。
1女2男があり、長男英馬が家督を継いで6年後に師範となったが、次男勇馬と共に、戊辰戦争で戦死した。英馬23歳、勇馬21歳だった。また黒河内傳五郎らもすべて戦死し、會津の宝蔵院流鎗術は途絶えた。
このように戊辰戦争からわずか20年前は、會津藩と長州藩は仲が良く、人事交流があったのだ。それが、今日まで遺恨が残る関係になろうとは〜。
◇ ◇ ◇
志賀重則という人物は非常に興味深い藩士だ。長州藩との絆まで結んでおり、「天家夢想の槍遣い」と怖れられた。わずか38歳で急死し、子孫や弟子たちもすべて戊辰の彼方へ姿を消したのだ。近く小説化したいと、史料を収集中である。 |
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志賀重則墓 |
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2014年08月29日(金) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(9) |
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◇志賀重則(1813〜1850)(上)
(宝蔵院鎌流鎗術師範)
重方の長子。父に似て豪気、鎗術の妙技に達し、印可に進んだ他、余暇には弓馬の術を修める一方、兵学を講じるなど、文武兼備の士であった。
18歳の時、単身、槍を携えて奥羽越の諸藩を修行して回り、翌年には山陽、西海の諸国をめぐって技芸を磨いた。
久留米藩に井上慶太という評判の者がおり、試合を挑んだが、相手にならず、長州蕃でも重則に勝てる者はいなかった。村田清風は詩を送って武勇を称えた。
重則の武名は「天下一」との評判となり、諸藩から「わが蕃で藩士を指導してほしい」と申し込みが来るほどだった。
弘化元年(1844)長州藩主毛利慶親の招きで父の高弟黒河内兼視らを従えて萩を訪れ、藩士らに教授すること半年、去るにあたって長州藩士岡部半蔵ら4人を率いて會津に戻った。 |
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2014年08月28日(木) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(8) |
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◇志賀重方(1783〜1858)
(宝蔵院鎌流鎗術師範)
藩士野矢常行の第3子で、志賀重興の養子となる。体は小さいが激しい稽古によく耐えた。重興に従って山陰、山陽、西海の諸国を遊歴した。
會津では、許位にとどまり、印可伝のないのを残念に思い、南都に赴いて宝蔵院覚弾坊の末裔・某について印可を受けて帰ってきた。
文政12年(1829)門人、野矢常方、黒河内兼規、町田俊蔵ら4人を率いて西海の途へ。海を渡り久留米藩で藩士と試合をしたが、相手になる者がおらず、数名が一団となって試合を挑んだが、夕刻まで彼らは勝つことができなかった。
数を頼んでの試合も決着がつかず、相手の師範は「日なお高し」と反発、試合は続行された。月が昇り、今度は相手が「止めよう」と申し入れた。が、重方はきかず、夜半になってようやく、終わった。
一同が眠りにつくと、宿の主人が「なにやら藩士たちに不穏な動きがある。密かに蕃出ては」と忠告してきた。重方は感謝しながらも「會津武士でござる」と宿にとどまり、翌朝、柳川藩に向かって出立した。會津蕃の武威はますます高まった。
弘化3年(1846)3月、致仕して子重則に継がせたが、重則は若くして急死したため再び師範に返り咲いた。
◇ ◇ ◇
読売が本日より、朝日新聞の慰安婦大誤報問題の検証記事を掲載しし始めた。遅すぎる感じだ。産経はすぐに朝日よ、謝れーの連載をスタートさせている。
同じ日に週刊文春(朝日新聞売国のDNA)と週刊新潮(1億国民が報道被害者だ)も特集した。朝日は文春の広告掲載を拒否した。お粗末さ、国を貶めた事実を覆い隠そうとしている。まずは社長が謝罪会見することである。 |
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2014年08月27日(水) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(7) |
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◇志賀重興(1752〜1802)
(宝蔵院鎌流鎗術師範)
武助伊清の第四子。天明4年(1784)2月、宝蔵院鎌流横地重教の門に入って許に進み、多くの弟子に教授した。
寛政元年(1789)4月、江戸に上って鎌流の名家長尾小兵衛と井上筑後守の食客野田要助の教えを乞うて技を磨き、翌年12月、俸3口(扶持と同じ)を給された。同7年(1795)12月、槍師を命ぜられ、俸2口が加増された。享和2年(1802)5月、芸者(師範)となり、さらい俸2口米9石、職料米1石が加増された。
弟子を率いて5代藩主松平容頌や家老の前で技を披露すること数度におよび、その指導よろしきを得たかどにより、銀子、真綿を賜ることが度々であった。 |
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2014年08月26日(火) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(6) |
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◇飯沼一臣(1841〜68)
(戊辰殉難者)
慶応3年(1867)12月9日、王政復古の大号令が発せられるや、京都守護職を免じられた會津蕃や桑名藩士、幕臣らは「討薩!」を叫んで二条城に結集した。薩長軍との衝突を怖れた将軍徳川慶喜は大坂城へ立ち退いた。
これを追って會津藩士らも大坂城に集まり、遂に翌年1月3日、鳥羽・伏見で戦端が開かれ、戊辰戦争が勃発した。新型銃で整備した薩長軍に幕府軍は追いまくられ、鳥羽街道の淀付近で幕府軍は川と湿地で囲まれた場所で待ち受け、正面衝突の大激戦となった。
この戦闘で會津藩家老佐川官兵衛率いる別撰隊を中心に犠牲者が続出し、隊長官兵衛が負傷したのに続き、飯沼一臣ら9人が戦死するなど、別撰組の大半を失った。
一方、長州藩も小隊司令石川厚狭佐以下戦死7人、負傷者40人、薩暗蕃も12番小隊長伊集院與一ら戦死9人など大きな犠牲を出した。 |
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2014年08月25日(月) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(5) |
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◇田中玄宰(下)
玄宰の藩政改革も一段落した文化2年(1805)5代藩主容頌がが死去、跡を継いだ容住(かたおき)はわずか4か月でこの世を去り、三男金之助が封を継ぐことになり、7代容衆(かたひろ)に。幼君を助けて玄宰は大老として藩政の処理にあたった。
1年の間に藩主が2人も死去するという困難な時期に、幕府は會津藩をはじめ奥州の諸藩に樺太出兵を求めてきた。ロシアの船が度々樺太に出没したためで、會津藩は文化5年(1808)600名の藩士を送り出した。
この時の北方防備は1年足らずで終わるが、藩士たちがまだ帰国しない同年8月、玄宰は亡くなる。「わが骨は、城と日新館が見える処に埋めよ」と遺言を残し、墓は小田山頂上に建っている。
平成20年(2008)8月、玄宰没後200年墓前祭が現地で行われ、遺徳を偲んだ。
◇ ◇ ◇
小生が週2回通うリハビリ施設に車イスの女性が最近、通い始めた。60代で聞けば10年ほど前、JR総武線市川駅でホームから線路に転落し、両足を太ももから切断したーという。直後は絶望の淵に追い込まれ、悩んだそうだ。
しかし、5年ほど前から気を取り直し、前向きに生きようと決意、務めて明るく振る舞っている。機器を使ってのリハビリも小生とほぼ同じコース。自宅では趣味のパソコンを楽しむ毎日だ。 |
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2014年08月24日(日) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(4) |
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◇田中玄宰(はるなか)(1748〜1808)(上)
トップバッターは藩政改革で有名な家老田中玄宰だ。5代藩主松平容頌(かたのぶ)時代に疲弊した藩政を立て直し、藩校・日新館を建設して学問を奨励し、また養蚕、薬用人参、酒造など産業の振興を図り、後年の會津の伝統産業の礎を築いた。
享保時代(1716〜36)は8代将軍吉宗の「享保の改革」が民力を疲弊させて失敗に終わった余波を受け、會津蕃の借金は、安永元年(1772)には57万両に膨れ上がった。
破綻状態の藩政を立て直すため登用されたのが玄宰だった。彼は農村や産業を立て直すには、人材育成が基本であるとし、家臣団に対して、藩政に役立つ人物として文武一体の習得を義務付けて11歳から18歳までの藩士の子弟を学ばせるため、享保元年(1801)藩校・日新館を建設した。 |
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2014年08月23日(土) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(3) |
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◇序章(下)
昭和58年(1983)、白虎記念館館長だった故早川喜代次氏の提唱で会津史談会はじめ文化団体が合同で「會津大窪山墓地顕彰会」が結成された。忘れ去られた大窪山に光が当てられた瞬間だった。
荒れ放題の墓地一帯を整備しようと立ち上がったのだ。顕彰会では墓地の写真を納めた記念パンフレットを作って広く市民にPRして運動を盛り上げ、教育委員会では昭和62年(1987)遂に墓地調査を行うことになった。
郷土史家の故小島一男氏が墓を1基ずつ丹念に調べ上げ、墓所の範囲、位置、墓碑などを平成6年(1994)から9年までのの再調査も含め12年間の調査によって4000基の墓石が判明した。
81、000平方メートルの斜面一帯に生い茂る雑草や雑木を伐採しながらの調査に改めて感謝したい。小島氏は、筆者が會津にUターンして歴史的にも貴重な町名を復活させようとした時、故事来歴や町名の由来などを教えていただいた先生である。
そして仕上げは、「小田山麓の歴史を訪ねる会」の故兼子正光会長らのボランティアである。斜面に階段を作ったり、周囲に散策通路をめぐらすなど平成13年(2001)から続けてきた。
会津若松市でも、新たに墓石を作って応援してくれ、平成12年(2000)1月には市の文化財に指定された。 |
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2014年08月22日(金) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(2) |
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◇序章(中)
町人の為の墓地は、実際にはあまり利用された形跡はなく、多くの町人はそれまでの火葬にしたようだ。
ところが、大窪山墓地は會津松平家が幕末まで続く215年の間、家老から藩士に至るまで約4000体の御霊が眠っている。これだけ多くの墓所が1か所に集まっているのは全国的にも稀であろう。
戊辰戦争で敗れ、會津蕃は斗南(青森県)に流刑され、その後、廃藩置県などを経て藩士は全国に散らばってしまったため、大窪山墓地は見捨てられ、草が茂り、墓石も倒れて哀れな墓地になっていた。
時折、墓地を訪ねてくる藩士の子孫も、先祖の墓を確認することができなかった。約100年の間、墓地は眠りについたままであった。 |
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2014年08月21日(木) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(1) |
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◇序章(上)
さて、お待ちかね大窪山墓地を再スタートさせる。会津若松市の市街地から東南の小田山南斜面の一帯、通称大窪山に広がる會津蕃共同墓地に眠る藩士たちを逐次、紹介する。
近世初頭の會津における葬送の習慣は概ね火葬で営まれていた。ところが、寛永20年(1643)會津藩主になった保科正之は、朱子学並びに吉川神道を以て主旨とした人物であり、彼は火葬の習慣を不孝な弊風として、産子の間引きと共に火葬の習慣を禁止し、土葬にするよう教導した。
この間の事情を『家世実記』巻之二十三(寛文3年=1663)及び『同』巻二十五(寛文4年)には、
「火葬ハ不孝、産子ヲ殺候ハ不慈ニ候」
と、火葬は間引きと同様、不孝な行為であるので止めて、以後は土葬とし、場所も
「南青木村ト北青木村之境二大窪ト申ス谷有之、此ノ外、郷ノ原ト滝沢山続小山ト申ス卑キ山(以下略)」
の3か所を指定した。
このうち、大窪山は藩士のための墓所で、後の2か所は町人用であった。 |
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2014年08月20日(水) |
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會津藩士の蝦夷地移住(33) |
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大友は土地を開拓使に引き渡し、開拓使掌に任じられた。しかし、相次ぐ計画の変更に失望して6月、北海道を去った。 翌明治3年(1870)正月を小樽の宿舎で迎えた會津藩士たちも、そろそろニシン漁の準備が始まるので宿舎を明け渡さなければいけない。
相次いだ政府の方針変更で、一部藩士は開拓に絶望して脱落し、転出し行く。
◇ ◇ ◇
本日で蝦夷地移住を中断し、明日から「会津藩大窪山に眠る藩士たち」を連載する。片桐さん、長崎さん、お待たせしました! |
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2014年08月19日(火) |
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會津藩士の蝦夷地移住(32) |
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兵部省は、會津藩士を最初は札幌へ移住させる計画を立てたが、前記のごたごたで取りやめとなり、次に石狩国当別へ移そうとした。そこで現地調査を大友亀太郎に命じた。大友は当別が適地であると認めたため、開墾に着手することになった。
大友は同年12月、石狩川の結氷期を待って會津藩士や樵ら100余名を伴って渡り、雪原を調査した。
藩士らは家を建てる材木の切り出しを始めた。が、翌明治3年正月、突然、會津藩士の入植は中止の命令を受けた。新政府は兵部省に石狩、高島、小樽、足寄などを開拓使に引き継ぐよう、無情にも命令したのである。藩士のみならず大友も大いに落胆した。
◇ ◇ ◇
サイト「会津の歴史」で扱っている「會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち」を、明後日から、こちらのブログで再スタートさせることにした。神道の信仰する會津藩士400名が眠る一大墓所である。
「亡骸を傷つけてはならぬ」との藩祖・保科正之の教えから幕末に至るまで會津藩士が鶴ヶ城を眺めながら安らかに眠ってる。
その藩士の中から代表的な人物を選び出して會津武士を描いていきたい。 |
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2014年08月18日(月) |
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會津藩士の蝦夷地移住(31) |
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開拓使より一足早く北海道へ渡った兵部省は、石狩、小樽国など主要な地を管轄下に置いた。
一方、開拓使は石狩国のうち札幌、厚田、上川、後志国では忍路他7群を管轄下にした。
兵部省の北海道開拓の責任者は長州出身の井上弥吉、開拓使は鍋島藩出身の島義男であった。兵部省はかねてから札幌に着目し、支配しようと計画したが、開拓使の管轄区域になってしまい、不満が強かった。
両社はことごとくに対立した。兵部省にとっては、新入りの開拓使が次々と経営を広げ、施設を拡充してゆくのが目障りだった。 |
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2014年08月17日(日) |
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會津藩士の蝦夷地移住(30) |
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藩士の苦悩は深まるばかりであった。その後、第二陣が到着し、200戸ほどは小樽一帯の民家に分宿することになった。総取締を宗川が務め、当番の藩士が出勤して役場のような役目を果たした。
『青木日記』には、この年の11月28日、佐藤虎之助と清水金五郎、広瀬新吉が喧嘩をして、翌日、佐藤が死亡ーとある。新政府の厳しい措置や将来の不安などが原因ではなかろうか。
さらに同年9月27日、旧藩主松平家の家名再興の詔勅が出たことも、藩士に喜びを与える一方で、複雑な思いを呼び起こしたに違いない。諸手を挙げて家名再興を喜ぶ一方、
「こんなに早く藩主の謹慎が解けたのに、蝦夷地へ移住させた真意はどこにあるのか」
藩士らは口々に不満を訴えた。
日一日と寒さが忍び寄ってきた。滞在が長引いたのは開拓使と兵部省との不仲が原因だった。 |
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2014年08月16日(土) |
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會津藩士の蝦夷地移住(29) |
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14日の申し渡しは、見事なまでの會津藩士への蔑んだ処置ではないか。集会どころか話もできず、親戚を集めてもダメー口惜しいばかりの薩長藩閥政治の會津への酷政だ。
會津藩士への処置は、これだけにとどまらなかった。蝦夷地移住は天恩だから有難く思えーと押し付けている。
小樽上陸後、藩士らへ1日玄米1升(3.75キロ)と銭200文が支給された。しかし収入がなく、生活必需品などを買うのにも困り、ニシンの運搬や酒樽を背負って札幌まで出かけ、労賃85銭を稼ぐ人もいた。
ある時、3人で札幌に向かったが、空腹のため一人が倒れ、民家から粟粥をもらってかろうじて助かった例もあった。
◇ ◇ ◇
朝鮮半島の慰安婦問題で朝日新聞は今月5日に訂正記事を掲載し、過ちを世間に認めた。しかし、日本の立場を貶め、日韓関係を泥沼に追い込んだ責任には言及していない。
朝日新聞社長は記者会見で釈明する必要がある。朝日の責任で、アメリカに8か所建てた慰安婦の像は撤去させることだ。
それと、朝日の言いなりになって”強制連行”を認めた河野洋平官房長官談話については、河野本人を国会に呼んで参考人聴取すべきである。 |
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2014年08月15日(金) |
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終戦(敗戦)記念日 |
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今年も8月15日がやってきた。69回目の記念日である。思えば、あの日も暑かった。実家の日本一本店(会津若松市甲賀町)の建物が、あわや、取り壊される寸前に玉音放送があった。
「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び〜」の昭和天皇の生の声を国民は初めて耳にしたのだ。 あれから70年近く、ありのままの生活を送っていることに素直に感謝したい。
8月は「北方領土返還運動強調月間」でもある。日本帝国の軍隊は玉音放送と共に武装解除し、戦をやめた。ところが、旧ソ連は停戦せず、日ソ不可侵条約を一方的に破って9月5日までに関東軍支配の満州に攻め込み、北方領土では、カムチャッカ半島から千島列島に上陸、 さらに南下して択捉、国後、色丹、歯舞の4島を不法占領した。アメリカ軍の北海道占領が遅れたらソ連領になっていたのだ。
翻ってロシアは、現在、北方領土で大規模な演習を行っている。日本へ返還する気持ちなどさらさらないのだ。無法国家が大きな顔をしてヨーロッパではウクライナのクリミア半島を占領した。いつになったら、平和は来るのだろう。
厳しい暑さが続く8月ではある。 |
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2014年08月14日(木) |
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會津藩士の蝦夷地移住(28) |
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その頃は、春のニシン漁期と秋の鮭漁期になると妓楼や飲食店は、石狩に出稼ぎに行くので、小樽は空き家が多かった。
第一陣の中隊長は宗川茂友、小隊長は簗瀬辰之助、半隊長が落合経三郎、杉本弥三郎、武藤格弥だった。隊員は士中(甲子=上士)、寄合、足軽などであった。
新政府は先の7月、蝦夷地開拓使を設けて8月15日、蝦夷地を北海道と名付けた。
「會津降伏人」というレッテルを張られた會津藩士には、開拓にあたって心得3か条を申し渡された。
1、北海道移住については、役人の指示に従い、少しでも違背してはならぬ。
2、恒産が立たないうちは、例え親戚旧知でも集会し、飲食は勿論、閑談してはならない。
3、親族そのほか旧知の者が遠方より来ても、官の許可なく出会いや止縮してはならぬ。
万一右違反した時は、厳罰に処す。 |
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2014年08月13日(水) |
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會津藩士の蝦夷地移住(27) |
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背後の丘陵が海に迫っていて平地は少ない。こんなオタルナイの明治元年の家の数は200戸ほどで、人口は800人そこそこであった。
疲れ切って上陸した一行が収容されたのは、漁師のニシン番屋か漁師相手の遊女街だった。
若林功著『北海道開拓秘録』には、
「彼等(が収容されたの)は妓楼の空き家だったので大いに憤慨した」
と記してある。
◇ ◇ ◇
今日は旧暦の盂蘭盆会。全国の家庭でお墓参りや坊さんがきて回向をしているだろう。しかし、我が家には、会津若松市の菩提寺の坊さんが他の寺も兼務するため来れなくなった。一抹の寂しさを覚える。が、せめて花でも飾って先祖の”御帰り”を待っている。
ブログは毎日続く。要望のあった「会津藩大窪山に眠る藩士たち」はサイト「会津の歴史」の中にあるが、中途半端な形で終わっている。近く新しいスタイルにして再スタートする。片桐さん、長崎さん、もう少しお待ちください。 |
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2014年08月12日(火) |
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會津藩士の蝦夷地移住(26) |
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さて、余市移住は明治2年(1869)9月21日の朝、アメリカの汽船「コユール号」が蝦夷の西南、積丹半島の麓オタルナイの浜に到着したことに始まる。
東京・品川を13日に出港し、兵部省の役人井上弥八に率いられた會津藩士と家族332名の一行だ。これから壮絶な闘いが始まるであろう蝦夷地開拓の第一団である。旧暦の9月21日は新暦では11月4日。北海の朝風は冷たく、防寒着もない藩士、家族には、會津とは違う寒さが身に滲みた。
上陸したオタルナイ(後の小樽市)のノブカ浜は、大きくない河口の砂浜に、大小の家が散在するだけだった。岸には漁船が数隻係留されていた。 |
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2014年08月11日(月) |
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會津藩士の蝦夷地移住(25) |
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ケプロンは明治6年(1873)リンゴやナシ、サクランボなど果樹の苗木を移住者に配布し、栽培方法を指導した。
6年後の明治12年(1879)には、山田村の赤羽源八方の品種名「キング・オブ・トムソン・アーワンデー」19号が、金子安蔵方の「ローズ・ゼネット」49号が、それぞれ日本で初めてリンゴとして結実した。
余市のリンゴは「緋の衣」「国光」「紅玉」と命名されて増産を続け、余市の名産品となってゆく。
◇ ◇ ◇
支那・上海の食品会社の期限切れ鶏肉使用は支那人民(漢人)の食品安全のモラルなしーを全世界にさらけ出した。こんな国から食料を輸入する自体がおかしい。
また韓国では、高校生多数が死亡した旅客船沈没事故で、事故後に法律を作って責任を追及するなど、近代国家とは到底思えない処置がまかり通る。
こんな隣国と仲良くしなければいけない〜というのか。アフリカや南米で開発援助という名ばかりの手を差し伸べて燃料を独占し、漢人を働き手に送り込む支那という国が国連の常任理事国だと、ふざけるな!! |
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2014年08月10日(日) |
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會津藩士の蝦夷地移住(24) |
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さらに、新政府は會津藩士に「會津降伏人」というレッテルをはったことが、會津藩士の誇りを傷つけ、役人に反発させた。
「會津武士は降伏人にあらず」
「われら賊臣にあらず」
という気概は、下僕や百姓からの成り上がり者が幅を利かす薩長藩閥政府に、ことあるごとに対立したようだ。
前田さんも筆者への手紙の中で、
「余市移住の會津藩士北海道庁の役人に対して、あまり従順ではなかったようです」
と指摘している。
しかし、蝦夷地移住が、斗南への挙藩流刑と決定的に違うのは、開拓使長官だった黒田清隆がアメリカから農業顧問としてホーレス・ケプロンを招聘したことだ。これは新政府が蝦夷地開拓を政府の方針としたためであった。 |
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2014年08月09日(土) |
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會津藩士の蝦夷地移住(23) |
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典型的な例が、藩士への原野開拓割り当て面積だ。1戸に割り当てられた耕作面積は、會津蕃より10年遅く入植した阿波藩士などには1戸1町2反(1,2ヘクタール)から4町歩(4ヘクタール)もあったのに、會津藩士にはなんと200坪(660平方メートル)しか与えられなかったのだ。朝敵、逆賊ーの名のもとに、徹底的な弾圧がここにも見られた。
これではいかに食料米が支給されようとも農業が成り立つはずはなかった。新政府の役人、会津藩士双方の無知も指摘され、窮乏の生活に見切りをつけて會津藩士は次々と戸長役場吏員や教師、警察官へ転出していった。
◇ ◇ ◇
10月9日告示される福島県知事選で、自民党福島県連は、元日銀福島支店長の鉢村健氏(55)を擁立することを決め、民主党にも協力を呼びかけるという。
現職の佐藤雄平は態度をはっきりさせていないが、あの〇〇さ加減の知事には県民も呆れているのだ。理想的には自民党参議院議員の岩城光秀氏が最適だが、本人が固辞している。
福島県知事は、會津、中通り、浜通りと順送りに選出されており、中通り(佐藤栄佐久)、佐藤雄平(會津)の次は浜通りなのだ。原発被害で浜通りはメタメタなので仕方ないか。 |
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2014年08月08日(金) |
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會津藩士の蝦夷地移住(22) |
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『余市町史』編纂で中心的な活動をした余市町栄町、元中学校長前田克己さんは、明治時代の行政を担当したため、史料が豊富な北海道庁の行政資料室(現文書館)に何度も足を運んで會津藩士の余市入植について調べた。
その中から、余市在住の會津藩士の子孫から史料を借りて丹念に読み取り、少しずつ蝦夷地移住が判明し、平成6年(1994)、『余市移住 旧會津藩士の足跡』をまとめた。
前田さんによれば、會津藩士はリンゴ栽培で実績を上げた明治12年(1879)頃までは北海道庁から軽視されていた、という。明治5年ごろ、178戸もあった會津藩士が開拓の夢が破れてどんどん転出しているが、その裏には、開拓に不慣れな武士たちに、十分な営農指導もせず、営農に失敗した藩士らが次々脱落していったのだ。 |
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2014年08月07日(木) |
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會津藩士の蝦夷地移住(21) |
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この「緋の衣」は実は、会津の郷土史家の団体、会津史談会の会員90人が平成11年(2000年9月、余市町を訪問し、「開拓記念碑」や藩士の子孫らと交歓した際に、地元農家からもらったものだ。
「緋の衣」は会津若松市民にとっては忘れ難い史実があるのだ。幕末の文久2年(1862)12月、會津藩主松平容保が京都守護職として上洛し、治安が乱れて無政府状態だった京の治安を取戻し、感銘をうけた孝明天皇から下賜された大和錦で作った陣羽織は「緋の衣」と名付けられた。 容保はこれをまとって天覧の馬揃いを実施し、孝明天皇の前で訓練された會津藩士の勇ましさを貴族たちにも見せつけたのである。
「緋の衣」は會津藩にとって、朝廷に忠勤をはげむ”心の拠り所”だったのだ。 |
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「緋の衣」を育てている白井さん |
緋の衣 |
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2014年08月06日(水) |
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會津藩士の蝦夷地移住(20) |
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北海道余市町に移住した會津藩士が栽培に成功した、我が国初のリンゴ、「緋の衣」の穂木(接ぎ木するための芽)が平成12年(2000)10月、會津に里帰りし、総合運動公園(青木)に記念植樹された。
今では、同市門田の農業白井康友さんら7戸で、それぞれ数十本が毎年秋にリンゴを実らせている。
地産地消のイベントで市民に味わってもらうほか市内の菓子店では、リンゴを使った新しいお菓子を土産品として売り出している。
白井さんは「會津藩士が北海道開拓で苦労した成果を會津で結実させ、嬉しい。余市町などと交流ができればいいが〜」と話している。 |
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2014年08月05日(火) |
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會津藩士の蝦夷地移住(19) |
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入植地には、子弟教育のため日進館(藩校・日新館と一字違うのは建物がみすぼらしかったためであろう)、講武所が設けられ、會津から取り寄せた漢書などを使用した。
刀を鍬に持ち代えて、未開の原始林を切り開いた會津藩士は苦悩の連続だった。農業で成功した藩士は少なかったが、特筆されるのは、我が国初のリンゴの栽培を成功させたことであった。
◇ ◇ ◇
朝日新聞が本日付1面、16,7面で慰安婦問題を特集している。中で注目すべきは、当時の取材の過程で、元慰安婦の証言や数少ない資料をもとに書いた記事の一部に誤りがあったーと認め、誤報を自ら認めたことだ。
この記事をもとに、当時、宮沢内閣の官房長官だった河野洋平が「官房長官談話」をだして慰安婦が旧日本軍によって強制的に連行されたーと発表した。
これは重大な誤りで、朝日が誤報と認めた以上、「官房長官談話」は取り消すのが筋ではなかろうか。同姓ながら、首相になれなかった初の自民党総裁は朝日に踊らされ、みっともない醜態だった。 |
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2014年08月04日(月) |
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會津藩士の蝦夷地移住(18) |
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さて、「会津降伏人」一行はオタルナイに到着後、兵部省の北海道からの引き上げで暫くは落ち着き先が決まらない日々が続いた。
藩士らは樺太開拓使の黒田清輝に請い、樺太開拓使の管轄下に入ったが、間もなく、樺太開拓使は廃止となり、最終的に余市への移住が決まったのは、オタルナイ上陸後1年半がたった明治4年(1871)4月だった。
直前の正月、藩士隊の隊長宗川茂友以下全員に開拓の決意を披歴した血判が押された「御受書」が、新政府へ提出させられた。「賊軍會津」への新政府の嫌がらせであった。
7月までに移住は完了した。余市川上流の川東に4か村(黒川村)、川西に2か村(山田村)を開き、開拓を始めた。
周囲は文字を持たないアイヌ人。その付き合いには藩士も苦労したに違いない。 |
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2014年08月03日(日) |
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會津人群像 |
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小生が執筆した「横須賀の中の會津」が掲載された『會津人群像』27号が発刊された。
鎌倉時代初期から、400年間、會津の戦国大名だった葦名氏を通じて會津と三浦半島・横須賀市は深い縁があり、その歴史を通して戊辰戦争後に浦賀を訪れ、寛いだ日を送った最後の會津藩主松平容保の詠んだ和歌を紹介、旧會津藩士が多く移り住み、地域に奉仕する人物や、福島県立若松商業高校卒で中央大学出身の元神奈川県副知事なども登場する。
また最後は、日清戦争に従軍し、海軍軍人として活躍した旧藩士が、魚雷発射で操作が誤った責任を取って自刃するエピソードで締めくくる。
充実した内容だと自負している。ご一読下さい。 |
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2014年08月02日(土) |
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會津藩士の蝦夷地移住(17) |
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◇移住者第一陣(最終回)
95、小沢辰次郎 96、合田 恒弥
97、大竹 源吾 98、長谷川熊蔵
99、御徒目付土屋民蔵
以上99名
このうち、(4)69番の柏木栄吉ほか3名は本州最北端の斗南に流され、士族ではなく平民になっていたが、明治26年(1893)念願かなって士族に復帰したことを示す文書を子孫が探し出した。当時の福島県知事日下義雄名で「福島県平民」の柏木ら4名を士族に編入するーという4通の通知書だ。
平成22年(2010)5月23日付けの福島民友に掲載され、柏木ほかの子孫を探し出したいーという記事だ。 |
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2014年08月01日(金) |
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會津藩士の蝦夷地移住(16)
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◇移住者第一陣(5)
81、小林 忠蔵 82、佐藤盛之助
83、御普請・御吟味役割元役人二宮俊蔵
84、会計枝村伝八 85、方の勤河田恵助
86、御徒目付斎院弥八 87、当務の侭山添信助
88、鈴木 平八 89、石黒新太郎
90、御普請方小奉行割元役山内直助
91、松本源之助 92、渋谷運蔵
93、佐藤熊五郎 94、吉田豊蔵 |
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