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2013年08月31日(土) |
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箱館戦争(2) |
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ロシア人は18世紀半ばから、千島や樺太のアイヌと交易を始めた。やがて、蝦夷地まで南下してアイヌと密貿易を行うようになった。ロシア政府は、この過程で日本との交易を求め、寛政4年(1792)には、アダム・ラクスマンを根室に派遣して、幕府に対して通商を求めた。
結局、この時は日露国交は樹立されなかったが、その後もロシア船が蝦夷地近海に頻繁に出没するようになった。
文化元年(1804)、幕府に通商を拒絶されたロシア使節レザノフは、その腹いせに樺太や択捉島の日本人村を攻撃した。
これに対して幕府は、近藤重蔵や最上徳内、間宮林蔵らに蝦夷地や択捉島、樺太を探検させた。同4年(1807)には蝦夷地をすべて幕府の直轄地とし、松前奉行をしてその支配にあたらせ、かつ奥羽諸藩には、周辺の防備を担当させ、国防体制の強化を進めた。 |
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2013年08月30日(金) |
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箱館戦争(1) |
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箱館戦争に入る前に、幕末当時の世界の情勢を覗く必要がある。18世紀以降の北太平洋におけるロシア、イギリス、フランス、アメリカの具体的な動きを追う。18世紀初頭、ロシアがカムチャツカ半島に到達して千島列島を南下し始めた。ベーリング隊がアリューシャン列島からアラスカを探検し、北太平洋にロシアの版図を拡大していった。
イギリスもキャップテン・クックが北アメリカで毛皮を発見し、大量の毛皮は太平洋を横断し、中国に持ち込まれた。太平洋の西と東が市場として連結されたのだ。
一方、フランスもラベルーズ探検隊を北太平洋に派遣、アメリカも西海岸へ進出した。
このような情勢の中で、ロシアと日本との間で、千島列島と樺太を巡る領土分割競争が起こってきた。このため、幕府は国防体制を固め、北方の境界を確定することを急いだ。 |
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2013年08月29日(木) |
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奥羽越列藩同盟(下) |
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9月に入ると中旬から、続々と降伏する藩が増えた。9月15日福島藩に続き”盟主”の仙台藩が落ちた。ろくに戦いもせず、形ばかりの同盟が露呈した。17日山形藩、上山藩、18日天童藩(以上山形)、そして核だった会津藩と一関藩が22日降伏、24日盛岡藩、最後は新徴組を結成して頑張った庄内藩(山形)。
庄内藩は、長岡藩家老河井継之助が死の直前に「頼るのは庄内藩」と遺言したとおりの藩であり、降伏したのは9月25日であった。
新政府は、庄内藩の降伏を以て奥羽越列藩同盟は壊滅し、平定したーと認識し、10月1日、「奥羽平定せらるるを以て」諸軍に帰還命令をだし、奥羽の平定は終わった。
いよいよ、戊辰戦争の最終局面、函館戦争に移る。 |
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2013年08月28日(水) |
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奥羽越列藩同盟(中) |
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これまでの藩は、ろくに西軍と戦いもせず、城門を開き、白旗を上げている。7月26日以降は裏切りー涙の決戦が展開された。26日、三春藩(福島)が敵前で突然、裏切り、東軍に刃を向けた。あわてふためく東軍陣営。最初の、そして決定的な被害を受けたのは二本松藩(同)であった。城は西軍に囲まれ、昨日まで味方だった三春藩兵が銃を向けてきた。必死に城を守る二本松藩兵。まだ幼い少年隊が全滅する悲劇が二本松を襲った。29日、二本松城は落城する。三春藩の卑怯な振る舞いに対する恨みは、維新後も引きずり、会津では、三春の子女とは結婚しない徹底ぶりである。
同じ29日、新潟藩、長岡藩、30日三根山藩、8月3日、黒川藩、4日村松藩(以上新潟)、6日中村藩、7日相馬藩(以上福島)、11日村上藩(新潟)、28日米沢藩(山形)。
米沢藩は、会津藩祖保科正之の息女と縁を結んだ幕府開闢以来の縁戚関係にあり、会津藩が降伏する際、仲介の労をとってくれた。 |
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2013年08月27日(火) |
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奥羽越列藩同盟(上) |
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越後平野を血で染めた長岡藩と西軍の戦は、3か月に及んだ。戦略家、家老河井継之助の戦術と駆け引きで西軍を翻弄したが、長岡城は2度に及ぶ争奪戦で落城し、城下は灰燼に帰した。戦火は会津へ、会津へと向かうが、ここでは、会津藩を救えーと奥羽諸藩がスクラムを組んで西軍と対抗した一場面を覗く。
奥羽越諸藩は、迫りくる西軍に対抗して慶応4年(1868)4月、仙台領の白石に集まり、善後策を協議した。その結果、「会津藩を救うべし」と、仙台藩主を盟主に、奥羽越列藩同盟が結成された。
しかし、明治新政府の懐柔はすさまじく、「今、降伏すれば罪は問わない」との説得が功を奏して次々と脱落していった。各藩の脱落ー降伏の過程を記す。
まず、最初に脱落したのは、6月24日、棚倉藩(福島)、28日が泉藩(同)、7月に入り、4日には、秋田藩、本庄藩、矢島藩、新庄藩、亀田藩と秋田県内の5つの藩が一挙に白旗。13日、平藩(福島)、15日弘前藩、25日守山藩(福島)、新発田藩(新潟)と続くのである。会津藩の運命は先が見えてきた。 |
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2013年08月26日(月) |
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北越戊辰戦争(完) |
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当日の祝辞が残されており、参列者は長岡から継之助の遺族である根岸錬次郎氏はじめ、旧長岡藩士代表丸山亀太郎氏ら、東京からも発起人となった渋川海智氏ら。祝電は海軍中将山本五十六、陸軍中将井上一次らが寄せた。
継之助の現地の墓は、昭和12年(1937)、一部補修され、同53年(1978)に長岡市の篤志家によって再整備され、現在、只見町の指定文化財になっている。
太平洋戦争後、只見川電源開発が国家事業として導入され、滝発電所建設に伴って昭和37年(1962)塩沢集落の大半が水没するため、継之助終焉の地も水没の対象になった。
このため、当主矢沢伊織氏は宅地内の記念碑も含めた補償を求めたが折り合わず、矢沢氏は、やむなく終焉の間だけを切り離して移転先に移築した。
只見町では、昭和41年(1966)記念碑の移転と河井記念館建設を計画し、矢沢邸に隣接する高台に記念館を同47年(1972)、オープンさせた。
その後、終焉の間も含めて土地家屋が矢沢氏から只見町に寄付され、平成5年(1003)現在の「河井継之助記念館」が建設された。
(この項は『歴史群像シリーズ 会津戦争』(学習研究社)、『只見町の戊辰戦争』(飯塚恒夫著)、『峠』(司馬遼太郎著)を参照) |
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←河井継之助記念館 |
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2013年08月25日(日) |
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北越戊辰戦争(105) |
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明治2年(1869)9月、継之助の遺族とその扶養者になった森源三は終焉の地となった塩沢を訪れ、さらに若松の建福寺の墓所に赴き、仮埋葬されていた継之助の遺骨を収めて長岡に持ち帰り、河井家の菩提寺栄涼寺に改葬した。法名は「忠良院殿賢道義了居士」である。
塩沢では、大正4年(1915)12月、矢沢宗徳が発起主催者となって「河井継之助の建碑」を計画したが、なぜか実現に至らなかった。その後、昭和11年(1936)9月、再び記念碑建設が発起された。長岡藩士川島良太郎、伊北村長赤塚常作、その他、伊北村の有志を網羅し、新潟、東京方面の関係者にも広く呼びかけた。
その結果、黒御影石で、高さ2・2メートル、幅1メートルの記念碑が矢沢宗徳方の宅地内に建立された。表題の「河井継之助君終焉の地」は宮内大臣松平恒雄の揮毫である。恒雄は最後の会津藩主容保の子息だ。除幕式は昭和12年8月16日、継之助の68回目の命日に行われた。 |
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2013年08月24日(土) |
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北越戊辰戦争(104) |
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21日夜は、長岡藩主一門並びに藩の重臣も列席して通夜が営まれ、翌22日、葬儀が行われ、建福寺の墓所に埋葬された。
葬儀には会津藩主松平容保はじめ会津藩士多数が列席し、荘厳を極めたという。
この日の朝には、石筵(郡山市熱海)の敗戦が鶴ヶ城にもたらされており、西軍は目の前に迫っていた。翌23日には若松城下に雪崩こんでおり、葬儀が一日遅れたらそうなっていたか。
一方、終焉の地只見村塩沢では、村人が火葬にした後の残灰を拾い集め、医王寺の墓所に埋葬して墓を建立した。西軍では罪人使いだったので、墓標は刻まず、祠のような形にした。 |
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2013年08月23日(金) |
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北越戊辰戦争(103) |
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継之助のいいつけに対し、松蔵は涙を呑み、慰めたが、継之助は
「貴様の知ったことではない。用意しろといったら、用意せよ」
と叱りつけた。
松蔵は夜を徹して棺を作り、平型の骨壺を二つ作った。一つには土を入れ、西軍に見とがめられた時の用心にするためだ。
翌朝、継之助はそれを見て大いに喜び、いつものように談笑していたが、午後、一眠りしようと付き添いの者を遠ざけて眠りに入った。
そのまま昏睡状態に陥り、再び目を開けることなく、16日午後8時頃、永眠した。時に42歳であった。
継之助の遺体は、遺言の通り、只見川の川岸で村人によって荼毘に付された。遺骨は、19日、最後まで付き添っていた根岸勝之助、須藤勝硯、松谷政之進らによって若松へ運ばれ、21日、直ちに長岡藩主一族の仮宿所である建福寺の位牌所に安置された。 |
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2013年08月22日(木) |
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北越戊辰戦争(102) |
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塩沢の矢沢家における8月12日から14日までの継之助の様子について『邑従日記』に長岡藩士植田十兵衛の報告が載っている。
「継之助殿、12日塩沢迄参られ止宿。翌13日朝5時前より、少々ふさぎ気味にて熱が出て、うわごとばかりだった。夕方になって、小水があり、2回ほど通じがあって追々快方となる。14日朝は、特に別状もなかったが、体力の衰えが増して、若松まで参られ候も六ヶ敷(むつかしく)」
とある。
15日の夜、継之助は従僕松蔵を枕辺に呼び、
「松蔵や、永介抱して呉りやって有難かったでや」
と礼を言った。
そして、死期が迫ったことを告げ、松蔵に死後は火葬にするよう命じた。さらに、今夜のうちに納棺と骨壺を作るよう伝えた。 |
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2013年08月21日(水) |
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北越戊辰戦争(101) |
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継之助に良順が、どう説得したのか、良順が帰った翌日、継之助は行ける所まで行くことを承知し、7日間滞在した目明し清吉方を後にして只見村を発った。
途中、休所に予定された塩沢村の医師矢沢宗益方で休息をとった。ところが、そこで体調が思わしくなくなり、矢沢方で投宿することになった。
塩沢村の岩淵清四郎が書き残した『明治備忘録』に、
「大殿様ハ矢沢新角、若殿ハ岩淵清四郎方、奥女中方ハ五十嵐忠道方御休息」
とある。矢沢新角とは宗益の次男で、当時38歳であり、当主の宗益は60歳前後と思われる。
継之助一行の対応は、宗益の次男新角が一切を取り仕切ったらしい。 |
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2013年08月20日(火) |
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北越戊辰戦争(100) |
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『河井継之助伝』(今泉次郎著)には、良順と継之助の様子を、付き添っていた長岡藩士外山修造が語っている。
「河井さんは(松本氏の来訪を)大層喜んで、一見旧知の如しという体で、直ぐに話を仕掛けて上機嫌でした。松本氏も傷などは碌々見もせずに、戦の話やら世間話やらして、相互に愉快そうに見えました」
「また松本さんは、土産だといって西洋料理風の肉のたたきをもってこられたが、河井さんは喜んで御食になりました。松本さんが、帰られた後で、河井さんは『久し振りで豪傑の顔を見た』とおっしゃりました。松本さんは帰る際に『上手の医者が幾人もいるから会津へ遣って来たまえ。会津の壮士も君の来るのを待っているから』」
と述べている。
継之助の傷は既に14日も経っており、良順は、その症状から、脳梅毒と疑い、足を切断しなければいけないと判断し、云いだせずに、包帯を巻いただけで帰ったとみられる。 |
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2013年08月19日(月) |
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北越戊辰戦争(99) |
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松本良順は、佐倉藩医佐藤泰然の次男に生まれ、後に松本良甫の養子となり、長崎でオランダ軍医ポンぺについて学び、当時の日本人では、最も本格的な西洋医学を修めたといわれる。
将軍侍医を勤め、大阪城で14代将軍家茂の治療にあたり、その臨終を看取っている。
また新選組局長近藤勇とも親交があり、隊士の診察にもあたったが、幕府瓦解後は会津に走り、奥羽越列藩同盟の軍医となり、鶴ヶ城内に野戦病院を開設した。
明治新政府の初代軍医総監となり、貴族院議員、男爵に列せられ、明治40年(1907)76歳で亡くなった。
若松から只見村まで22里(88キロ)あり、早駕籠で2日はかかる。良順と同行した長岡藩士吉田平右衛門は、途中、柳津で一泊し、翌8月10日の夕方、只見村の目明し清吉方に到着した。 |
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2013年08月18日(日) |
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北越戊辰戦争(98) |
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いよいよ継之助の最期の時を迎える。長岡藩老公牧野忠恭は、継之助が重傷を負って、面目なしとして途中でとどまっていることを知り、一刻も早く若松へ呼び寄せて治療させようと槇吉之丞に命じ、只見へ出立させる。
8月5日、吉之丞は若松を発った。その日は継之助一行が、只見村に到着した日であった。前後の数日は大雨で、道は痛み、橋が流されるなど、街道の交通は、マヒ状態であった。吉之丞が只見村付近に到着したのは7日と思われる。
只見に入る途中、只見から若松へ向かって急行する長岡藩士牧野吉右衛門に遭い、
「家老は重篤で若松入りは無理だ。すぐに引き返し、急ぎ医師の派遣を請う」
と、いわれそこから再び引き返し、9日早朝、若松に着き、次第を報告した。
老公は直ちに医師の派遣を指示した。ちょうど若松に滞在していた旧幕府の侍医松本良順は、要請に応え、その日のうちに若松を出立し、只見に向かった。 |
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2013年08月17日(土) |
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北越戊辰戦争(97) |
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そのヘンリー・スネルが只見村にも足跡を残している。只見村熊倉の旧家熊倉家所蔵の『熊倉目黒文書』に、
「慶應四年六月、フランスの者、金山見分とて、蒲生泊まり、黒谷泊まり、叶津村、田子倉村へ寄り、黒谷泊まり、若松役人三人立添」
とあり、将来の為、鉱山の調査に来たらしい。
初めて外人を見た村人の目には、「汚らしい姿」と写っている。また、平成4年(1992)に出版された『会津藩最後の首席家老梶原平馬』(長谷川つとむ著)に、
「ヘンリー・スネルは只見村の農夫・喜助の遺児タネを妻として迎えた」
とある。事実なら新たな1ページが生まれる、と期待したが、フィクションであった。 |
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2013年08月16日(金) |
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北越戊辰戦争(96) |
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スネルとは、継之助が横浜での武器調達以来の親しい間柄で、いわゆる、戊辰の戦に備えて、かねて武器を預けていたという。
さらに
「数年後には、天下の形勢は一変し、今日の一敗は、必ずしも憂うるに足らず。それよりも俗論に動かされて、将来の計画を誤ることなかれ」
と、死を目前に控えて、長岡藩の将来あることを説き、今後の方針を花輪に託している。
また、従者寅太には、
「もう武士の世は終わるのじゃ。これからは、力量の時代だ。思い切って商人になりやい」
と、新しい時代の来ることを教えている。
スネル兄弟は東軍に味方し、継之助が江戸屋敷を引き払い越後へ帰る際、スネルの協力で新潟へ寄っている。特に、兄ヘンリーは、会津藩の軍事顧問になって日本名を「平松武平」と名乗り、越後戦線では米沢藩の軍事顧問を兼ねるなど、東軍にかなりの肩入れをした。 |
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2013年08月15日(木) |
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北越戊辰戦争(95) |
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長岡藩老公牧野忠恭(ただゆき)は、若松城下、建福寺にあって、継之助が傷を負い、只見村に滞在していることを知り、一刻も早く若松に呼び寄せるように使者を送った。
しかし、継之助は動こうとせず、只見村を最期の地と決めたーと思われる。幕末の怒涛の中で長岡藩の命運を一身に背負い、その舵取りに全身全霊を傾けた日々を回顧していたであろう。時に惨憺たる気分に陥ったこともあろう。
継之助は只見村で言葉を残している。家臣花輪求馬には、長岡藩の将来について
「努力して他藩の嘲りを受くることのないように」といい、
「奥州諸藩は、日ならずして敗北する。その時、牧野公の血統を絶やさぬよう、機を見て密に世継(23代忠毅君)を奉じ、仙台に停泊中の西洋人スネルの汽船にてフランスへ渡航させよ」
と指示している。 |
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2013年08月14日(水) |
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北越戊辰戦争(94) |
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本日から、西軍相手に3か月にわたって戦い続けた長岡藩家老河井継之助の活躍を描く「北越戊辰戦争」を再開する。
前回は、6月1日までで、長岡藩士や家族が八十里越えで会津藩領只見村に落ち延びてきた悲劇を描いた。約4000名が大挙して会津へ逃れてきたが、長岡藩士の子弟が現地農民に預けられる場面もあった。
戦争遺児たちが会津で教育され、そのまま定住した者が少なくない。最近になって、只見町上ノ原墓地に長岡藩士の墓が発見されている。墓石には
「龍山院覚誉良浄居士 長岡藩 石垣龍三郎 慶応四辰年六月二十七日」
と刻まれている。
この人物は、継之助の只見入りより前に亡くなっており、5月19日の長岡城落城により藩主牧野公父子一行が只見に逃れてきた際の随行者とみられる。
その他、只見新町で藩士一人が切腹し、その墓もある。 |
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2013年08月13日(火) |
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講演とコーラスのコラボレーション |
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顕彰会会員の大橋しのぶさんが代表の「わくわく夢実現チーム」が主催する作家浅見帆帆子講演会と混声合唱団「福島ハミングコール」とのコラボが11月17日(日)福島市の福島県文化センターで開かれる。
浅見さんは、『あなたは絶対!運がいいい』(廣済堂出版)などの著作があり、「あなたは絶対守られている2013」と題して東北地方初の講演する。
また現地の「福島ハミングコール」は、福島出身の作曲家古関裕而の「高原列車は行く」などを歌い継いでいる。
前売りは9月14日から中合福島店などで、3800円。収益金の一部は、東日本大震災こども支援基金に寄付するという。
わが顕彰会も後援しています。 |
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2013年08月12日(月) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(最終回) |
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◇おけい(最終回)
おけいの命日はわからない。月日も不明だ。ずっと後になって大理石で墓を作り、丘の上に建てたが、表面に「おけいの墓」とあるだけで左右に「日本皇国明治四年○月○日没す 行年19歳」と刻んである。
作家の故早乙女貢氏は昭和47年(1972)「おけい」を週刊朝日で1年余連載し、おけいを慰めた。氏は「空白を埋めたやりたい」と事績調査で6回も現地を訪れた。
郷里会津でも、おけいを偲んで昭和32年(1957)9月、「おけい顕彰会」が結成され、墓石建立の計画が持ち上がった。小生の母方の実家、甲賀町の日本一本店の店主国分ハツミが気前よく費用をだし、当時あったケーブルカー終点そばに墓が建立された。その後、昭和62年(1987)背炙山頂上付近に移転したが、何故か、我がおばあちゃんの寄付による事績は記録にとどめていない。(完)
◇ ◇ ◇
このシリーズは『會津に燃えた女たち』(早乙女貢著)と故小島一男さんのHP「戊辰戦争百話」を参考にした。 |
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2013年08月11日(日) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(68) |
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◇おけい(4)
現地で死亡した者や罹病した者が多く、はたして帰国できたのは、何人であったろう。詳細に物語る史料は少ない。カリフォルニアに残った人も勿論いた。桜井松之助や増水国之助ら数人か、その中におけいがいた。
ピアカンプの家に雇われていたおけいは、働き者で明るく、温かい心が人々に好かれ、殊に子供たちが離れたがらなかった、といわれる。
だが、おけいに幸福は訪れなかった。いくら望まれたとはいえ、異郷の地で若い娘が外国人の中にぽつんと取り残された寂しさは、思うだに哀しい。黄金の丘に佇んで遠く日本、いや会津を想い、郷愁の涙を流したであろう。
そんなおけいに、ピアカンプ家の若者が心を動かされたに違いない。灼熱の恋か、短い命の最期の花の輝きか、薄幸のおけいにも、幾つかはあったであろう。
だが、明治4年(1871)おけいは死んだ。増水が黒人女性と結婚し、その子供が病気になったため看病に出かけて突然発熱し、急死したのだ。
◇ ◇ ◇
本日も気温が35度を超え、猛暑日が続く。朝からクーラーが活動中。近くの公民館で単行本を借りてきたが、千葉市に、昨日に続き光化学スモッグ注意報が発令された。
昭和40年代後半に逆戻りした感じだ。気温が高く、風がなく、排ガスなどが高いせいだ。あの頃は、木更津に駐在し、新日鉄の公害に苦戦したのを思い出す。 |
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2013年08月10日(土) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(67) |
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◇おけい(3)
だが、会津人にとって運命は、あまりにも過酷であった。開墾した土地に桑や茶、稲、麦などを植えて挑んだ彼らに対して、カリフォルニアの乾燥した土地は、受け付けようとしなかった。彼等の開拓は失敗した。
ワカマツ・コロニーは1年余の後、惨憺たる結果に終わった。茶も桑も、半年も雨が降らない、強い太陽の下では、カラカラになった。日本の温暖さ、適当な温度によって育まれてきたものは、根付くはずがなかった。
あるいは、根気よく、数十年がかりで土地を改良し、土地に合った作物を作れば、品種改良の誕生も考えられたであろうが、乏しい財力では、そこまで耐えることは不可能だった。
ワカマツ・コロニーは解散することになった。ヘンリーの思い込みもあった。「死の商人」という印象から、ヘンリーの立場は悪く見られるが、敗残兵の会津武士を騙して、どれほどの儲けがあろうというのだ。
やはり、理想の挫折であった。 |
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2013年08月09日(金) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(66) |
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◇おけい(2)
名前が示すように、そこは、いわゆるゴールド・ラッシュの地であった。もっとも、ブームはとっくに去って廃坑がやたらに目立っていたが、西部へ西部へと東部からの移住者は続いており、カリフォルニアの太陽が降り注ぐ新天地には、誰もが希望を抱いていた。
シュネル兄弟の出自と関係するビアカンプという一家がそこに住んでいて頼った。ヘンリーには理想があった。敗戦の会津武士たちへの同情もあったに違いない。根を下ろし、開拓が成功したら、会津武士たちを次々と招いて「ワカマツ村」を作り、新生の場にしたい、と思った。
おけいも開拓団の一員としてカリフォルニアの乾いた空気と太陽に、青春の胸を躍らせていたであろう。 |
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2013年08月08日(木) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(65) |
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◇おけい(1852〜71)
日本から初めて海を渡って渡米した女性だ。戊辰戦争後、会津藩は本州最北端の斗南に挙藩流刑されたが、これとは別にオランダ系ドイツ人ヘンリー・スネルに率いられたメリケン(米利堅)開拓団の一行が密にアメリカに渡った。正確な人数は不明だが、20数人の中に「おけい」という女性がいた。17歳であった。
生家は材木町の桶屋ともいわれる。西軍が攻め入った若松城下材木町に銃器弾薬の製造所が作られ、外人顧問としてスネルが招聘された。スネルには、エドワードという弟がいて、横浜で貿易商を営んでおり、会津藩が銃を購入した関係で会津藩との関係が生まれた。スネルは藩主松平容保から「平松」という姓を賜り、武兵衛と称していた。
開拓団は会津藩士と家族であり、スネルの妻の乳飲み子の世話をしていたのがおけいだった。そして開拓団に誘われたのである。
行く先はカリフォルニアの黄金郷(エルドラド)コロマ村の黄金の丘(ゴールドヒル)だった。 |
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2013年08月07日(水) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(64) |
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◇若松賤子(最終回)
『女学雑誌』に連載した「小公子」の翻訳は1年半で完結したが、大きな反響を呼び、多くの読者を得た。賤子は長女、長男、次女を産んで、妻としての役割も立派に果たし、他の雑誌からも執筆依頼を受けて、執筆活動が続いた。
だが、一見、順風満帆だった賤子の肉体は、徐々に蝕まれていく。若い頃から屡、喀血していた。肺患であった。
一方、夫善治の主宰する明治女学校では、賤子は英語を担当し、多忙であった。この頃の教授陣には、明治学院を卒業した島崎藤村や北村透谷、戸川秋骨ら錚々たる人物がいた。
しかし、明治29年(1896)2月5日、無常な失火から明治女学校は焼失してしまう。校内の一部を自宅にしていた夫妻は、子供らと焼け出されてしまった。4人目の子供を身籠っていた賤子は、ショックから危篤になり、懸命な手当の甲斐なく、2日後に天国へ召された。
有名だった女性ヴァイオリスト巌本マリは孫。賤子の出生地は会津若松市竪三日町で、民家の庭先にぽつんと案内板が立つ。入りにくいのが難点だ。 |
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2013年08月06日(火) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(63) |
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◇若松賤子(3)
中島が結婚式の立会人になったのは、会津藩婦女子の「あの時」の心情が常に胸中にあったからであろう。
嘉志子が「若松賤子」のペンネームを使うようになった時期は不明だが、若松はむろん郷里の名から、賤は「神の僕(しもべ)たる賤(しず)」という意味だ。
キリスト教では、己を神の子、神の下僕としての謙虚さを求める。常にその心で神を敬い、世の中の奉仕者になるーという精神だ。
当時のハイカラ女性は好んで洋装になったが、賤子は、あくまでも日本婦人として和服を着こなし、日本の良さを忘れなかった。キリスト教の博愛の精神と日本人の婦徳とを、見事なまでに一致させた巌本嘉志子ー若松賤子は、宗教活動と執筆活動に力を入れるようになった。特に賤子の名を不朽のものにしたのは、『小公子』の翻訳であった。 |
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2013年08月05日(月) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(62) |
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◇若松賤子(2)
嘉志子が洗礼を受けたのは明治10年(1877)、13歳だった。その後、勉強に励み、18歳の時、たった一人で第1回高等科の卒業生となった。席上、英語で答辞を読み上げ、参列者を驚かせた。
フェリス女学院にとって貴重な存在となった嘉志子は、間もなく母校の教師として迎えられる。担当は生理学、健全学、家庭経済、和文章英文解釈、と4教科に及んだ。
フェリス女学院の試験委員だった巌本善治が後に彼女の夫になる。善治は『女学雑誌』を主宰していたが、これにも嘉志子の文章が載るようになり、明治22年(1889)7月、二人は結婚式を挙げた。式場は横浜海岸教会だった。
立会人は、旧土佐藩の中島信行夫妻だった。中島は、戊辰戦争で若松城下へ攻め入って会津藩家老西郷頼母邸に押し入った時、婦女子21人の自刃現場を目撃した男で、自刃したが死に切れずに苦しんでいた長女、16歳の細布子(たいこ)に「味方だ」と名乗って介錯した。維新後、神奈川県知事や衆議院議長を歴任したが、その後、キリスト教に入信した。 |
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2013年08月04日(日) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(61) |
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◇若松賤子(1)
『小公子』の名訳で明治の文学界に新風を吹き込んだ若松賤子が、戊辰戦争の戦火に晒されたのは4歳の時。戦の惨禍は、いかに幼くとも恐怖という反生存本能に焼き付き、終生離れえぬものとなった。
賤子いや本名甲子(かし、賀志子)は元治元年(1864)、会津藩士松川勝次郎の長女として生まれた。翌年、廻米所の小役人だった勝次郎は抜擢されて京都守護職になった藩主容保の公用方物書として京へ。
戊辰戦争で若松城下に迫った西軍のため、幼い賀志子は母親に背負われて逃げ惑った。母親は身籠っており、次女を産んで間もなく亡くなった。6歳の賀志子は母にすがって泣いたことであろう。無常を恨む心が、後年キリスト教へ走らせることに。
維新後、2歳の妹は親戚の家に預けられた。賀志子も横浜の生糸商の番頭の家に引き取られた。養母に可愛がられ、幸せな日々が続いた。これからの女性は西欧の教育を受けなければーとミス・ギダーの塾に通うことになった。
この塾が明治7年(1874)、フェリス・セミナーと改称され、校舎、寄宿舎が充実した。フェリス学院の前身である。この間、養家が倒産して一時、実父の所に帰っていた賀志子は、再び、ミス・ギダーの寄宿舎に戻った。 |
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2013年08月03日(土) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(60) |
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◇籠城婦人白旗を縫う(下)
城内では、降伏するかどうか、疑心暗鬼が渦巻いたようで、間瀬みつは最後に
「九月二十一日、矢玉止めに相成る」
で結んでいる。
白旗を縫うための白布はすべて負傷者の包帯に使用したのでなく、婦人らは21日の晩に集まり、白布の断片をかき集め、涙ながらに断片を縫い合わせて白旗を作った。「悔しい」「まだまだ」「充分戦った」−など、様々な意見が出たに違いない。
翌22日四つ刻(午前10時)、白旗は北大手門に掲げられ、1か月に及んだ籠城戦は終わった。そして「明治」と改元され、翌年5月、函館戦争で榎本武揚は降伏。江戸は、京より東ということで「東京」に改められ、賑々しく遷都が行われた。 |
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2013年08月02日(金) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(59) |
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◇籠城婦人白旗を縫う(中)
慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦で戦端を開いた戊辰戦争での会津藩の戦死者は2977名を数え(会津殉難者名簿)、郭内(藩士の屋敷群)は焦土と化し、城下も3分の2は焼け野原となった。西軍の見境なき略奪戦が繰り広げられていた。
ここにおいて会津藩は、藩主松平容保の命は保証するーという西軍の計らいもあって降伏するに至った。
9月9日、用人手代木直右衛門、小森一貫斎、秋月悌次郎を塩川村に進軍していた米沢藩の陣営に遣わし、同藩を通じて土佐藩に降伏の意向を伝えた。手代木は佐々木源八の長男で、手代木家の養子となった。三男只三郎は慶応3年11月、土佐の坂本龍馬を殺害した、京都見回組の与頭である。一家は江戸湾防備で上総国富津に7年間駐留していたことがある。
降伏の時の様子を間瀬みつ(前述)は日記風覚書『戊辰後雑記』で次のように述べている。
「毎日馬日と暮らすうちに20日頃にも相成り、鉄砲の音も薄く相成り、穏やかになりて候ても、案じられ候事に候。内々御城内何やらどよめきわたり、いか様の事に是あるやと承り候へば、御降伏にも相成り也。風説もこれあり、いよいよ右御都合にて米沢藩扱いの由承り候」 |
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2013年08月01日(木) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(58) |
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◇籠城婦人白旗を縫う(上)
8月29日の長命寺の戦い以後、会津藩は14か所ある郭門のうち、融通寺町口、川原町口、花畑町口の3か所をかろうじて確保し、城内、外への出入りができるようになっていた。
しかし、西軍は、この3か所を抑えて出入りを不可能にする作戦を立て、9月14日から、ここに総攻撃をかけた。これに加えて奥羽越列藩同盟に参加していた各藩が次々と西軍に降伏し、会津藩は孤立していった。
こうしたことから、応援部隊は望むべくもなく、鶴ヶ城は西軍の真ん中に孤立した。同17日の城南の戦い、18日の高田攻撃によって鶴ヶ城と外部の連絡は一切、遮断されてしまった。
この間、藩士の脱走も目立つようになり、22日の降伏までに約200名の脱走兵が確認されている。この中には、家老西郷頼母親子も含まれている。 |
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