河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2016年07月23日(土) お知らせ
 永らくご愛読いただいた「河野十四生の歴史ワールド」は本日をもって終了します。

代わって「河野十四生のヒストリーワールド」に変更します。
引き続きご愛読下さい。

新ブログ 「河野十四生のヒストリーワールド」
http://history-world.seesaa.net/
2016年07月23日(土) 奥羽越列藩同盟(最終回)
 9月24日、西軍が鶴ヶ城を受け取った。だが、田島方面の佐川官兵衛らは戦いを止めなかったため、藩士桃沢彦次郎らが、藩主・容保の親書を彼等に手渡して降伏を促し、戦いは終わった。
 この後、24日盛岡藩、25日庄内藩が降伏し、奥羽越列藩同盟加盟の31藩の抵抗は終了した。
 10月1日、奥羽平定せらるを以て西軍諸藩に帰還命令が出された。以後は、蝦夷地へ逃れた土方歳三ら五稜郭に立て籠もった函館戦争が翌明治2年5月、降伏したことで戊辰戦争は終了した。
 會津では、降伏後の10月に入って各地で世直し一揆が勃発し、平穏が回復したのは12月になってからであった。(完)
2016年07月22日(金) 奥羽越列藩同盟(18)
 9月20日、土佐藩の参謀板垣退助は會津藩士手代木直右衛門、秋月悌次郎らに降伏の条件を申し渡す。鶴ヶ城に戻った手代木らの言上に対し、藩主松平容保は家臣らに開城するよう申し渡す。
 21日、容保は上田大学、諏訪伊助、佐川官兵衛らに親書を与え、降伏することを告げる。
 そして2日、遂に會津藩は降伏した。籠城戦は1か月に及んだ。開城し、容保父子や照姫は滝沢村の妙国寺に謹慎した。
 23日、藩士は猪苗代と塩川に収容され、病人は城南の青木村に設けられた病院に収容された。我が国初の野戦病院であった。
2016年07月21日(木) 奥羽越列藩同盟(17)
 9月8日、會津では、飯寺村の戦で、會津に落ち延びていた長岡藩士が多数戦死した。11日、先に降伏した米沢藩の使いが熊倉(現喜多方市)の會津藩陣営を訪ねて樋口源助らと会見、帰順するよう説得した。
 13日、鶴ヶ城籠城中の會津藩士らの意気は高く、観月の会を催し、気勢を上げた。14日、再び、米沢藩士斎藤主計らが鶴ヶ城を訪ねて帰順するよう説得。
 17日、一ノ堰の戦いで山本権八らが戦死、城南、面川村泰雲寺で内藤信頼一族自刃。
 19日に至り、手代木直右衛門、秋月悌次郎らが米沢藩の斎藤主計に伴われて土佐藩陣営を訪ねて降伏の書を提出した。手代木直右衛門は佐々木源八の長男で、幕末、江戸湾防備で上総国富津村に7年間、駐留していた。京都見回り組与頭で坂本龍馬を暗殺した佐々木只三郎の実兄である。
2016年07月20日(水) 奥羽越列藩同盟(16)
 運命の9月に入る。會津藩は8月23日から籠城戦に突入していた。7日、福島藩(3万石)がまず降伏。同じ日に奥州の雄藩仙台藩が西軍の軍門に下った。仙台藩は62万石ながら、家老らが、それぞれ数万石の支藩ともいうべき立場にあり、直参ではなく陪臣が多かった。
 このため、藩主の意向が直ちに全藩士に届くことは少なく、「日和見主義」から「武闘派」まで意見はまちまちだった。7月に堕ちた白河城攻防戦で西軍と戦ったのが最初で最後。あとは外様らしく錦旗の前に跪いた。
 次いで17日、山形藩(5万石)と上山藩(3万石)が降伏した。一方、西軍は9月8日、慶應を明治と改元し、名実ともに新政府樹立を内外に示した。
2016年07月19日(火) 奥羽越列藩同盟(15)
 長岡藩が降伏した7月29日、新潟藩(5万石)も降伏した。翌日には三根山藩(1万1千石)も引きずられ、次いで8月3日、同じ越後の黒川藩(1万石)、4日村松藩(3万石)と続いた。いずれも小名で、抵抗する力はなかったのだ。
 6日には福島方面では青馬・中村藩(6万石)が、11日村上藩(5万石)、28日には、會津藩と所縁が深い米沢藩(10万石)が堕ちた。
 會津藩包囲網は着々と狭まってきた。
2016年07月18日(月) 奥羽越列藩同盟(14)
 7月26日になって急に三春藩が降伏した。敵前寝返りである。これによって二本松藩は後ろを西軍に狙われる結果になり、壮絶な戦いが展開され、二本松少年隊が全滅する悲劇を生んだ。
 以来、會津では「三春狐」と卑怯な振る舞いを怒り、「三春狐とは婚姻せぬ」と言い伝えられている。
 一方、越後平野では、長岡藩(7万4千石、牧野家)が家老河井継之助の働きにより、買い入れたガトリング銃が威力を発揮して西軍を翻弄、越後平野を駆け巡る1か月に及ぶ戦闘を繰り広げた。
 7月2日に降伏したが、會津藩からも応援が駆けつけ、1か月に及ぶ戦闘を続けて西軍に抵抗したのは會津藩を除いて長岡藩のみである。
 長岡城は2度にわたって奪回戦を繰り返し、城下は壊滅した。今もって長岡市では、河井の評価は功罪半々だそうだ。
2016年07月17日(日) 奥羽越列藩同盟(13)
 まず最初に降伏したのは6月24日、棚倉藩(10万石)である。次いで、28日泉藩(2万石)。
 7月になると、秋田藩(20万5千石)が早くも白旗を挙げた。同じ日に、矢島藩(1万2千石)、本庄藩(2万石)、新庄藩(6万8千石)、亀田藩(2万石)と秋田県内の諸藩が相次いで降伏した。
 13日には、平藩(6万7千石)、15日弘前藩(10万石)、25日守山藩(2万石)、新発田藩(10万石)など小名、大名家が続いた。
 西軍の奥州攻めは陸と海から続いた。
2016年07月16日(土) 奥羽越列藩同盟(12)
 5月25日、東軍は大挙して白河城を攻め、7月まで激しい攻防戦が続いた。29日、白河口総督参謀板垣退助が白河に入り、気勢を上げた。
 越後平野では、會津藩家老佐川官兵衛が長岡藩家老河井継之助と協力して西軍に対抗した。
 6月16日、奥羽越列藩同盟は新政府を樹立、年号を「大政」とした。西軍は常陸国平潟港に上陸し、海と陸から東軍を攻めた。
 こうした情勢の中で奥羽の雄藩秋田藩が早々に7月4日、列藩同盟を離脱した。26日は三春藩が降伏、29日には二本松藩も軍門に下った。
 列藩同盟の戦いの中で特筆するのが三春藩の敵前降伏である。三春藩が裏切ったため、二本松藩は後ろを攻撃され、少年隊の全滅を産むなど悲劇に襲われた。
 列藩同盟の戦いの中で、西軍に降伏していった諸藩を順に挙げてみよう。
2016年07月15日(金) 奥羽越列藩同盟(11)
 5月3日、仙台藩主伊達慶邦、米沢藩主上杉斉憲は重ねて奥羽25藩の老臣を集めて仙台で会合し、越後・長岡藩などの老臣も参加して奥羽越列藩同盟が結成された。これに北陸道の6藩も加わり、31藩となった。
 郡上藩の凌霜隊が下野国塩原の防備に着いた。15日、江戸では上野に籠っていた彰義隊が西軍に討伐されてしまった。
 會津藩は白河城奪回のため16日、白河城の西軍に逆襲する。西軍は岩倉具定を奥羽征伐白河口総督に、一方、越後方面では高倉永?を越後口総督にそれぞれ任命して陣容を整えた。
 19日、西軍は長岡城を陥落させ、藩主牧野忠訓は栃尾に走った。24日、輪王寺宮公現新王が奥羽越列藩同盟の総督に就任し、東軍の気勢が上がった。
2016年07月14日(木) 奥羽越列藩同盟(10)
 4月28日、仙台、棚倉藩兵も白河城に入城し、防備を固めた。一方、會津藩は、家老梶原平馬、一瀬要人が連名で、長手に対して嘆願書を提出した。
 5月1日、薩摩の伊地知知支の軍が白河城攻略を開始し、白河城を巡る攻防戦が始まった。會津藩は家老横山主税以下戦死者200余人、他藩の戦死者併せて682人が戦死した。1日の戦死者は戊辰戦争で最大の犠牲者だった。以下、7月1日まで攻防戦は続き、會津藩救援に駆けつけた飯野藩剣術指南森要蔵らが壮烈な戦死を遂げた。
2016年07月13日(水) 中国領土にあらず
 オランダの仲裁裁判所は12日、中国が南シナ海で主張してきた「九段線」について、国連海洋条約上の根拠はないーとする判決を出し、フィリピンの訴えをほぼ全面的に認めた。
 南シナ海を巡っては、中国と、ベトナム、フィリピン、ラオスなど各国が中国の一方的な埋め立てに反対して対立しており、今回の判決は、中国の「ならず者」ぶりを徹底的に排除した内容だ。
 顧みれば、1950年代、フランス軍がベトナムから撤退した後に、中国がパラセル諸島の半分を占拠、73年、在南ベトナム米軍が撤退、翌年1月、中国がパラセル諸島の南ベトナム軍を攻撃、諸島全島を支配した。
 さらに83年3月、中国軍はスプラトリー諸島でベトナム軍を攻撃、ジョンソン南礁を占拠。
 92年2月、中国は「領海法」を制定、南シナ海の諸島の領有を主張。同年11月、フィリピンから米軍が撤退すると、フィリピン所有のミスチーフ礁を占拠した。
 このように、支那は仏軍米軍が撤退して軍事力が弱くなった国を個別に攻撃して岩礁や島を強引に奪い取っている。「ならず者国家」「無法者国家」といわざるを得ない。ならず者一家の親分習近平は世界を相手に無法を働き続ける積もりか。こんな無法者が国連の常任理事国であるのは間違いなのだ。
2016年07月12日(火) 奥羽越列藩同盟(9)
 4月12日、奥羽列藩が提出した會津藩救解嘆願書を九条総督は認めたが、独り西軍参謀世良修藏参謀はこれを退けて、あくまで會津討伐を主張した。
 17日、九条総督は再び、仙台、米沢両藩主に會津への進撃を厳達した。會津藩恭順嘆願書が拒否された奥羽諸藩は九条総督の命令を拒否して「討會」の兵を解いてしまった。
 さらに、嘆願書拒否に怒った仙台藩士は世良修藏(34)を福島の宿で殺害した。
 20日、大鳥軍の協力を受けた會津藩は白河城を占拠した。当時、白河城(小峰城)は藩主不在の空き城だった。
 21日、仙台、米沢両藩主は奥羽諸藩の重臣と白石で協議する。さらに西軍九条総督が仙台に入ったのを機に、23日、奥羽諸藩の重臣が白石に集合し、救解同盟は一変して攻守同盟となった。後に越後・長岡藩が加わって、ここに奥羽越列藩同盟が成った。31の藩が参加して、西軍に対抗する一大勢力となった。
2016年07月11日(月) 自民大勝、民進惨敗
 参議院選挙は予想したとおりの結果になった。有権者は「安全、安心」な政権を選んだ。野党4党が野合して統一候補を立てたが、効果なし。
 防衛予算を「人殺し予算」と批判した共産党との連携は、有権者には理解できず、拒否されたーといっていい。
 ところで、今回の選挙は100%的中だった。心配した福島の岩城法相と沖縄の島尻担当相の二人は落選したのは残念だった。
 一方、民進は空白区がJ7から20に増えるなど、岡田代表の責任問題も表面化しそうだ。田中直紀や小野次郎など、おかしな候補が消えたのは結構だ。
 投票した青山繁晴氏は高得票で当選した。週刊文春の悪口も効果がなかったようだ。ニッポン放送に再登場してくれればいいのだが〜。
2016年07月10日(日) 参議院選挙
 今日は、近くの小学校で投票してきた。千葉選挙区は塾の後輩で弁護士の元栄太一郎、比例選はニッポン放送の「そこまでいうか」のリスナーの関係上、青山繁晴に投票した。二人とも当選は確実だろう、と思う。
 だが、気がかりは現職閣僚2人の勝敗だ。福島の岩城光英法相は民進党とがっぷり四つ。沖縄の島尻・沖縄北方担当相は劣勢だ。
 選挙が終われば内閣改造があるだろう。それが楽しみでもあり、またイギリスのUA離脱後に世界恐慌が心配され、内閣がどう乗り切るか、不安は大きい。
2016年07月09日(土) 奥羽越列藩同盟(8)
 新撰組局長近藤勇は4月3日、下総国流山で西軍に投降したが、同25日、中山道板橋宿付近の板橋刑場で斬首され、京・三条河原に鳩首された。
 29日、東山道の西軍は日光山に迫り、大鳥圭介らは東照宮の神主を奉じて會津へ逃げてきた。同じ日に、仙台、會津藩士が会見し、會津藩の降伏条件を協議する一方で、會津藩は仙台、米沢、庄内藩に降伏のための斡旋を依頼した。
 これより先、西軍は越後・長岡に迫ってきた。このため會津藩は4境に出兵して防備を固める傍らで容保は、家老梶原平馬を米沢に遣わして仙台、米沢両藩が共同で會津藩の救済を総督府に請うよう依頼した。
 この結果、仙台、米沢両藩は會津藩の謝罪嘆願書を奥羽鎮撫総督に提出した。
 また両藩は、同時に會津藩救済を目的として奥羽越列藩重臣の会合を開くことを決め、會津藩との停戦を鎮撫総督府に報告した。
 4月11日、奥羽列藩の重臣白石城下に会して會津救解を目的に奥羽列藩の公議所を白石に設置した。
2016年07月08日(金) 奥羽越列藩同盟(7)
 4月14日、「松平容保が西軍に抗戦する」の知らせが京に入り、薩摩、長州、加賀、安芸藩以下12藩に命じて兵を奥羽越に増援して征討体勢を強化した。奥羽鎮撫総督九条道孝が岩沼に進出し、諸藩に會津征討を命じた。
 一方、北陸道では、北陸道先鋒総督高倉永■(たかくら ながさち)を北陸道鎮撫総督兼會津征伐総督として、いよいよ、會津侵攻の体勢固め。
 また下野国日光口では、郡上藩の凌霜隊が4月20日、會津藩に合流した。郡上藩(大和=現在の岐阜県郡上市、4万8千石)は朝廷への恭順派と佐幕派に分かれ、江戸家老朝比奈藤兵衛はJ7歳の子息茂吉を隊長とした凌霜隊を47名で組織して會津へ向かわせた。
 途中、宇都宮での戦闘を経て、9月4日、若松城下へ進んだ。既に鶴ヶ城の籠城戦は始まっており、激しい戦闘の中、
「殺されたら魂になっても城に入れ」
と隊長は督励し、スペンサー銃を持参した一行の増援は會津藩士を歓喜させた。
 1か月の籠城戦の後に開城した際、隊員も囚人となって故郷・郡上に護送され、禁固の刑を受けて受牢。明治3年になって赦免された。
 籠城戦で戦死した郡上藩士は、飯盛山白虎隊士の墓近くに祀られており、参拝者の香華が絶えない。
※■は「示古」を1文字にしたもの。
2016年07月07日(木) 奥羽越列藩同盟(6)
 4月1日、東海道先鋒総督、江戸城に入り、収めた。6日、仙台藩主伊達慶邦は、東征の不可を5か条並べて徳川慶喜、松平容保らのために寛大な許しを請うが、総督府はこの書を退け、あくまで會津征討を表明した。
 4月10日、會津藩と庄内藩との軍事同盟が締結され、防戦の一部体制が整った。11日、慶喜は上野・寛永寺から出身の水戸へ退去した。
 作家早乙女貢さんは慶喜が嫌いだった。敵前逃亡したり、容保らの江戸城登城を止めるなど、「自分さえよければ」という、あからさまな態度を嫌ったのだ。最後の徳川将軍としては、本当にお粗末な人物だった。
2016年07月06日(水) 奥羽越列藩同盟(5)
 3月13日、薩摩の西郷隆盛と旗本勝海舟が江戸城で会見し、江戸城無血開城がきまった。同19日には、奥羽鎮撫総督九条道孝らが仙台に入り、會津藩征討を命じ、米沢藩にはこれを助けさせるよう命じたが、米沢藩は拒否した。
 一方、會津藩は3月23日、家老梶原平馬がオランダ商人スネルからライフル銃780丁を購入して軍備を強化したほか、家老山川大蔵を下野国へ、佐川官兵衛を越後国へ、さらに西郷頼母を白河口に派遣して西軍に対応した布陣をとった。
 その一方で、重臣田中土佐ら連名で太政官へ嘆願書を提出するなど、和戦両面の戦準備を始めた。
2016年07月05日(火) 奥羽越列藩同盟(4)
 2月10日、慶喜は會津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬の江戸城への登城を差し止める。慶喜は江戸城を出て上野・寛永寺に謹慎する。結局,慶喜は、自分だけがいい子になりたかったのだ。 
 容保は江戸・和田倉の會津藩邸で、藩士に対して會津藩を守り通すよう、励まして、2月16日、江戸を出立、會津へ向かい、22日會津着。
 同27日、容保父子、藩中に武備恭順を告示して挙藩一致の防戦を告諭。そして3月10日、軍制を改革し、朱雀、青龍、玄武、白虎の4隊を編成してさらに農民や力士隊などを募集した。全會津を総動員して朝廷側の攻撃に備えたのである。
2016年07月04日(月) 奥羽越列藩同盟(3)
 慶応4年1月10日、朝廷は徳川慶喜、松平容保、松平定敬らJ7人の官位を除き、容保以下6人の京都屋敷を没収。15日、明治天皇が元服。
 朝廷は秋田藩に會津藩征討を激励、次いで仙台藩に會津藩追悼の命令を下す。
 2月4日、容保は輪王寺宮に頼って哀訴。家老らは尾張、肥前藩など23藩に嘆願書を提出。容保は藩主の地位を養子喜徳に譲り、恭順の意を表明した。
 これに対して朝廷側は、會津討伐の態度を変えず、東海、東山、北陸3道鎮撫使を改めて先鋒兼鎮撫使とした。
 対して、會津藩は鶴ヶ城や4境の防備を固めて、応戦の構えをとった。
2016年07月03日(日) 奥羽越列藩同盟(2)
 慶応3年12月9日、王政復古の大号令が下り、會津藩は京都守護職を辞し、代わって薩摩,土佐、芸州などの各藩兵が御所の警備にあたる。前将軍・慶喜は二条城から大坂へ退く。
 慶応4年1月1日、慶喜は勅許に応じて上京しようと、會津、桑名両藩及び旗本らに命じて先発させる。
 3日、鳥羽・伏見で薩長土3藩兵が突如、発砲して鳥羽・伏見の戦が始まった。薩長軍の新式銃の威力は凄まじく、幕府軍は敗退を余儀なくされる。
 6日、慶喜は會津藩主松平容保、桑名藩主松平定安敬等を従えて軍艦・開陽で江戸に脱出。
 これに対して朝廷側は、高倉永■(たかくら ながさち)を北陸道鎮撫総督に、岩倉具定を東山道鎮撫総督にそれぞれ任命し、全国平定に乗り出した。
※■は「示古」を1文字にしたもの。
2016年07月02日(土) 奥羽越列藩同盟(1)
 慶応2年(1866)會津藩が公武合体の頼みの綱としていた孝明天皇が逝去された。36歳だった。下級公家岩倉具視らによる毒殺の疑いが濃いーと今でも信じている。
 これ以降、京都守護職だった會津藩は西国有力大名から”目の敵”にされ、打倒目標になってしまう。徳川15代将軍慶喜は
「これ以上、政権は維持できない」
と慶応3年10月14日、政権を天皇に返還する「大政奉還」を宣言する。
 が、この前日、討幕の密勅が薩摩、長州藩などへ下されたのだ。武力で政権を倒す強硬手段がとられた。
 この年の11月15日、土佐藩の坂本龍馬は京都・近江屋で、中岡慎太郎と二人、元會津藩士で京都見回組与頭佐々木只三郎らに急襲され、暗殺されてしまう。
 京の町は風雲急を告げてきた。嵐は目前に迫った。
2016年07月01日(金) 慰霊祭が富津市広報に
 會津藩士慰霊祭も今年で10回目となり、去る6月5日、竹岡の松翁院で行った。10回記念で古武術「浅山一伝流」を墓前で奉納し、會津藩の優れた武術の一端を話し合った。
 これが富津市の広報「ふっつ」7月号で取り上げられた。最終面の「地域情報館」で写真2枚(法要と古武術奉納)にしっかり内容もある記事だった。小生の談話も載った。「10回目を迎えて世間的にもしられるようになった」。
 広報誌掲載は初めてで、富津市の全戸に配布するだろうから、會津藩士慰霊祭が多くの市民の目に触れたら、あり難い。「會津藩士の墓がある」ことなど知らない市民が多いだけに広報誌に掲載されたことは非常に喜ばしい。来年以降に期待したい。
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