河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2014年11月30日(日) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(78)
         ◇浮洲重治(1639〜99)
            (勤倹家)
 浮洲氏は世々會津の人で、次郎左衛門と称す。藩祖・保科正之に侍し、禄200石を食んだ。勤倹をもって家を治め、傍ら多くの孤児を養っていたので、家僕を置くこともできなかった。
 職にあっては、精錬剛直、その交わるところ奇傑の士が多かった。ある時、姻戚の内田某が人に金を借りた時、重治は請け人(保証人)となった。内田は返済しないうちに亡くなり、重治もまた、返済途中で死の床に就いた。
 重治は子息甚助に向かって
「われ平生にかまけて責任を果たせなかった。汝、我が意を継いで借財を償ってくれ。そうでなければ私に対する供養などうけない」と言い残した。
 甚助は重治の遺言を守って借財受け取りを拒む相手に全額返済した。
2014年11月29日(土) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(77)
         ◇細川春流(1819〜81)
             (歌人)
 細川庄次郎長英の嫡男として生まれ、名は長世。通称万吾、佐兵衛などと称した。澤田名垂、野矢常方の門に入り、出藍の誉れ高かった。
 嘉永3年(1850)の「鶴城三十三番扇合」では講師を努めた。文久三年(1863)蝦夷地在勤を命じられ、斜里・函館に赴任したが、その性極めて剛直で、上司と合わず、辞して帰国した。
 戊辰の役後、斗南に移住したが、脱藩して京に赴き、明治5年(1872)開拓使として出仕。学校掛となって資生館の舎監を兼ねたが、同7年、辞して若松へ戻った。
 その後、東京に出て、曙新聞の記者となった。明治11年(1878)明治天皇の北陸巡幸に陪従して、新潟で『奇題百詠』を著した。晩年は郷里で私塾を開き、和歌などを教授した。
2014年11月28日(金) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(76)
        ◇中島豊近(1759〜1802)
           (与力)
 利兵衛と称した。幼いころから武芸を好み、助国流刀術の印可を三瓶久忠より受けた。明和5年(1768)飼鳥見習となり、寛政2年(1790)父の跡を継いだ。
 城南、若葉街の別荘にタンチョウヅルを飼っていた。ところが、ツルは一度も卵を産まなかった。そのため、川虫などを捕えて餌の不足を補った結果、卵を産むようになり、雛も得られることに。
 寛政12年(1800)与力となったが、享和2年、44歳の若さで亡くなった。
     ◇   ◇   ◇
 このところ原油市場で安値が続いている。輸入国である日本にとっては冬を迎えて嬉しい状態である。産油国は減産をせず、このまま輸出を続ける形勢である。
 この原油安値の原因はどこにあるのか?答えはアメリカで盛んに掘られているシュールガス対策なのだ。価格が安いシュールガスが大手を振っているが、掘削には大変な技術が必要で、安値合戦に、そのうちにアメリカが音を上げるだろうーと産油国はみているからだ。アメリカ潰しが効くかどうか、今後を注目してほしい。
2014年11月27日(木) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(75)
         ◇土屋爲雄(1742〜1802)
            (歌人)
 土屋市郎太夫清念の嫡男として生まれ、幼名六蔵と称し。柳塘と号した。13石3人扶持の家を継ぎ、新番組兼式講懸頭取を命じられた。
 『日新館誌』に「故事を暗記し、弁懸河の如し」と記されているように非常に多弁で多才の人物だった。
 また長沼流軍学を極める傍ら詩文、和歌にも長じ、明和2年(1765)善波明雄に請われて赤枝村に遊び、その時に作った和歌18首を収めて『寝覚之爪印』1巻を著した。この他、十指にあまる歌集がある。
2014年11月26日(水) 会津人群像28号
 本日、『会津人群像』28号が出版された。小生の原稿は2本。1本は「会津の間諜、神戸岩蔵」。幕末に長州藩へ潜入し、事情を逐一、会津藩へ送っていたが、身元が露見して斬首された際、余りにも潔い態度が相手方に気に入られ、「わが藩へ〜」と誘われたほど。
 もう1本は、鶴ヶ城が明治新政府から払い下げられた時、金を出したのは藩主の子息容大だと断定した、おかしな原稿を否定したものだ。
 旧会津藩士で遠藤敬止という、元七十七銀行頭取とされていたのだが、新しい史料から容大だと断定した原稿が会津若松市の史料集に掲載されたので反論したものである。おかしな、おかしな原稿を掲載したものだ。
2014年11月25日(火) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(74)
         ◇有賀満包(1701〜68)
            (歌人)
 有賀孫太夫俊満の嫡男として生まれ、幼名兵四郎と称し、■山と号した。膳番、金山奉行などを歴任、4代藩主容貞の時代、會津と二本松藩の間で嶽山の公事(訴訟)が起き、双方の奉行が江戸の評定所へまかり出た。
 評定所では、二本松藩の奉行に対して「この度の會津山の公事に関して登ってみたか」と尋ねた。二本松は「左様」と答えた。
 會津の奉行にも「二本松の山に登ったか」との質問があった。満包は「左様ではなく、會津領の山故、登らない」と答えた。 結果、紛れもなく會津領なり、と判定された。
 満包は後に小姓頭御馬方支配となり、300石を賜った。安田享意に和歌を学び、横笛にも巧みだった。『積慶録』編者の一人。

※上記文の1行目の■は、「しんにょう」と「卓」を組み合わせた漢字になりますが、当サイトを作成しているソフトがこの文字に対応していないため表示されません。
seesaaブログの『河野十四生の歴史ワールド』では表示されています。
上記青文字をクリックしてご参照ください。 (『会津の歴史』管理人より)
2014年11月24日(月) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(73)
        ◇須佐信重(生年不詳〜1609)
           (伊北山内氏家臣)
 須佐信清の嫡男で、下総と称した。天正17年(1589)伊達政宗軍が奥會津に侵攻した時、山内氏勝を助けて奮戦し、伊達方の将大波玄蕃の前進を阻み、夜襲をかけて敵を混乱させた。
 しかし、数を頼みの伊達勢の反撃にあって山氏軍は利あらず、横田へ逃れた。
 8月13日、越後の上杉謙信に救援を求めて使者を送ったが、豊臣秀吉の會津下向によって局面は一変。政宗は會津を追われ、蒲生氏郷が入府してきた。
 結果、山氏氏勝は再興することができず、信重は「二君に仕えず」と帰農した。大窪山の墓地は、後年、子孫が建立した供養塔である。
     ◇   ◇   ◇
 総選挙の投票日と重なるため、どうなる?だった軍師官兵衛最終回が1週間延期されることに。選挙優先は当然だし、大河も観たいし、さぞNHKも悩んであろう。
 もう一つ、維新の党共同代表の橋下市長、松井府知事が総選挙への立候補を見送った。興味が半減したが、まあ、当然だろう。
2014年11月23日(日) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(72)
         ◇井深尹常(1687〜1735)
            (兵学家)
 井深重右衛門常方の嫡男。幼名重矩、平蔵、監物などと称し、後に重右衛門を襲名した。
 元禄16年(1703)膳番となり、宝永3年(1706)1900石の家禄を継いで書簡に列し、用人となった。翌4年、3代藩主正容の側衆となり、正徳元年(1711)内證用人等を経て享保7年(1722)国老に任じられ、100石加増された。
 神田良近から河陽流兵学の伝を受け、小泉安周から和歌を修めた。
2014年11月22日(土) 年末総選挙スタート
 衆議院が解散され、来月2日公示、14日投票の総選挙がスタート、候補者は走り出した。
 今回の総選挙はアベノミクスをどう評価するか、集団的自衛権容認の閣議決定などをめぐって論戦が展開するだろう。
 1強多弱といわれる政党にあって、みんなの党解党や維新の党共同代表の橋下大阪市長が公明党つぶしを狙って立候補するかーなど話題もある。 
 自民党は20〜30議席は失うだろうが、常任委員会の委員長を独占する絶対安定多数は獲得すると思う。年末選挙に体勢の決まっていなかった野党は苦戦を免れない。
 結局は現在と大幅に変わりはしない結果と予測しているが、歳末選挙はなにかとせわがしい。
2014年11月21日(金) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(71)
          ◇井深重應(1853〜68)
             (白虎隊士、戊辰殉難者)
 井深守之進重教(300石)の嫡男、通称茂太郎。その性温順にして沈毅。10歳で藩校・日新館に入学、止善堂の入ることを許された。通常は四等から始まって二,一等に昇り、試験を受けて止善堂に入学するが、茂太郎は13歳で止善堂の入学試験に合格し、『詩経集駐』を賞詞せられ、會津藩における青年文士の名の筆頭に挙げられた。
 戊辰の役で白虎士中二番隊に編入され、藩主容保の世子喜徳が安積郡福良村に出陣するや、同隊士37名が従った。
 西軍を戸ノ口原に迎え撃ったが利あらず、退却して飯盛山で自刃した。時に慶応4年8月23日。19士の一人。墓所は飯盛山にもある。
2014年11月20日(木) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(70)
          ◇木本政理(1698〜1771)
             (垂加神道家)
 幼名成貞といい、九郎左衛門と称した。宝永7年(1710)3代藩主正容の小姓となり、享保12年(1727)家禄450石を継いだ。
 神道を跡部良顕、岡田正利、玉木正英に学んで、各々その印可に進み、神道を誹る者のために『解国嘲』1巻を著し、また垂加神道の秘書1巻を著した。元文2年(1737)正容の息女常姫に仕えて100石が加増された。
 その年の7月、中根新八と共に『会府世稿』4巻を編術して正溶に献じた。寛保元年(1741)職を辞して江戸から會津に帰り、城東に煙雨亭を作って読書三昧の日々を過ごしたが、延享元年(1744)再び命を受けて大目付に。明和2年(1765)には若年寄となり、9月には江戸に上がって奉行に。
 同4年、許しを請うて致仕。著書は『唯一伝例秘訣』『夷子大黒記』など多数。
2014年11月19日(水) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(69)
         ◇木本成善(1734〜1801)
            (垂加神道家)
 本木成理の次男。九郎左衛門と称し、積山翁と号した。父について神道垂加派を修めた。兄成美の養子となり、安永元年(1772)650石を継ぎ、外隊士に召し出された。
 同7年、奉行、12月には官地奉行となり、翌8年、班を町奉行上に進められた。天明2年(1782)には礼服格に出世し、4月、大目付に。翌年、供番頭、同8年用人。寛政元年(1789)には累進して若年寄となった。同6年、職料秩100石が加増された。
     ◇   ◇  ◇
 今年も年賀欠礼のはがきが届くシーズンになった。「父が〜」「兄が〜」「母が〜」に交じって「妻が〜」のはがきが届いている。すでに6通がきており、「みんな、それぞれに年を取ったのだ」と実感している。
 年々、増えているようだ。本日の新聞で俳優高倉健さんの訃報が大きく取り上げられている。やくざ者や網走番外地シリーズは何本か観た記憶がある。年末を控えて寂しいニュースが多い。
2014年11月18日(火) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(68)
        ◇佐藤泰次(1830〜99)
           (県会議長)
 父安右衛門が名主の職を辞し、長男泰次が職を継いだのは15歳の時。職務を遂行するのに他の名主と変わらず、人々は泰次の将来を嘱望した。
 戊辰戦争後、若松に民生局が設置されると生産方御用掛となり、戦で荒廃した物産の恢復に尽力した。中でも、朝鮮人参と會津木綿の製造に意を注ぎ、弘業会社の設立にあたり、社長に就任。在職すること長年におよび、成績は大いに上がった。
 後に県会議員となり、推されて議長に。利民事業を主唱し、雁堰の土木事業、猪苗代湖汽船の創設、三方道路の開設、岩越鉄道の施設等には特に力を注いだ。
2014年11月17日(月) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(67)
          ◇森山八郎(1839〜68)
            (戊辰殉難者)
 13石2人扶持。諱を末廣という。進撃隊小室隊徒目付一之寄合士。
 慶応4年8月23日、若松城下に乱入した西軍を迎え撃ち、鶴ヶ城の南、天神口の戦で戦死した。30歳であった。
     ◇   ◇   ◇
 読者の長崎さん、先祖の長崎尚志の名前を志賀小太郎関係の史料で発見しました。只今、志賀小太郎を主人公にした小説と取っ組んでいます。史料では、小太郎の父重方の門弟らしいのです。
 小太郎は若死にしたので、父が師範として再登場したわけです。
 それにしてもネットを通じてのやりとりで付き合いが何倍も広がります。詳しくはメールでお尋ねしますが、それにしてもネットの広さを実感してます。
2014年11月16日(日) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(66)
         ◇横田俊晴(1652〜1723)
            (儒学者)
 横田俊益の長男、幼名九之助。清四郎、俊晴、新右衛門と次々改名。4,5歳で「天地山川」「東西南北」など雑字を暗誦し、7歳の時、春の彼岸で高巌寺で額の文字を見つけて乳母に読んで聞かせた、という。堂上の老人、「10歳の大人、百歳の童は本当だ」と感心した。
 寛文元年(1661)俊益が藩祖正之に召されて江戸に赴く際、
「今日河邊離別秋 雲飛落葉水空流
 故郷千里君無訝 不作野原渓獵遊」
という詩を作って父への贐とした。
 家督相続後は、外様組士として若松並びに江戸勤番として喪以外には1日たちとも休むことはなかった。家老以下の藩士に書を講じたのをはじめ、元禄12年(1699)、論語を御前講演した。宝永5年(1708)には、『二程治教録』の講座を正月から7月まで38回にわたる大講演だった。
 傍に、弟で次男横田俊将の墓もある。
2014年11月15日(土) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(65)
          ◇竝河爲光(享保時代の人)
              (奉行)
 會津藩の財政困難は2代藩主正経の頃から始まっており、3代正容の元禄13年(1700)には藩札の発行に追い込まれた。だが物価の高騰を呼び、改革は失敗。いわゆる享保の藩政改革の手始めであった。
 享保12年(1727)藩の年間収入7万2千両に対して18万両の借金を抱え、破綻状態であった。藩では年貢を増徴したため南山お蔵入領の百姓が一揆を起こすなど世情は乱れた。
 竝河は年貢引き上げを主張し、豊作を理由に年貢引き下げを主張する同じ奉行の中野藤太夫と対立した。竝河の主張が通り、中野は職を追われたが、この処置が後の農村荒廃の原因となった。
 農民の生活は極端に困窮し、寛延7年(1749)には”金曲騒動”と呼ばれる1万5千人の農民一揆が勃発した。
2014年11月14日(金) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(64)
          ◇遠山爲章(1649〜1730)
             (御書簡役)
 爲實の三男、半三郎と称した。延宝4年(1676)父の400石を継ぐ。遠山家は建福寺の檀家であったが、爲章は大山墓地に神葬したので建福寺住職黙堂はこれを恨んで
「爲章は耶蘇(キリシタン)の疑いがある」
と藩庁に訴え出た。
 しかし、爲章は朱子学徒であると主張して無罪となった。
 元禄8年(1695)御用人仮人、同11年、御書簡役・小姓頭となった。
 82歳まで長生きした。
     ◇   ◇   ◇
 今朝は冷えた。リハビリに行く日なので午前6時に起床したが、リビングのガラス戸は結露だらけ。今年初の結露だ。雑巾で拭いたが、「冬になった」感じを強くする。
 日一日と寒くなる。気温が低いと、不自由な体が余計に動かなくなる。いやなシーズンが始まる。
2014年11月13日(木) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(63)
         ◇黒坂光貫(1649〜85)
            (射芸家)
  前述勝行の第5子。小八郎と称した。射芸を父について学び、また横井来折翁について教授を受けた。来折は吉田大蔵の高弟だったので、やがて江戸に上り、大蔵より学ぶこと数年、遂にその奥義を極めた。
 浅草の三十三間堂において射を試みたこともあり、藩主正之に抜擢されたが、37歳で病没した。
2014年11月12日(水) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(62)
            ◇黒坂勝行(1606〜1681)
               (射芸家)
 日向国(宮崎県)で生まれた。祖父は雅楽頭だったが、領地を失って関東から羽州(山形県)に至りに、鳥居忠政・忠恒に仕えた。その後、再び放浪し、寛永10年(1633)信州・高遠の城主保科正之に仕えた。
 その後、正之に従って会津藩士となり、射芸の力量は群を抜き、強弓を引いても少しも正鵠を失わなかった。
 江戸の三十三間堂の通し矢を試み、60歳になっても強弓を引いた。常に心を射芸において弓書3巻を著した。
 性質は朴にして利に走らず、仏に帰依していたが、後に儒教に帰依した。
     ◇   ◇   ◇
 会津から、注文していた「身不知柿」(みしらずがき)が届いた。会津若松市門田の御山地区で栽培している。昔から注文している遠藤農園自慢の柿で、セシウム検査済の市長名でOKの通知書が付いている。
 渋柿を焼酎でさわして7日から10日間で食べごろになる。到着した日に早速箱を開封し、夫婦で初物を堪能した。甘く、いつもの会津の味。自慢したい、会津の名産だ。
2014年11月11日(火) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(61)
         ◇山崎忠央(1661〜1734)
             (旗奉行)
 父勝太尊秀は蜂須賀侯に仕えた。阿波で生まれ、はじめ定規と称し、後に勝蔵、また松心と改めた。幼児より学を好み、長じて江戸に出て後藤松軒の門に入って宋学を修めた。
 貞享元年(1684)後藤の勧めで會津3代藩主正容の侍講となり、30口を賜った。
 性質諄朴にして学術もまた深く、正容の寵遇を受け、20口加増の上、山奉行の上に班せられた。元禄15年(1702)大目付に出世し、宝永5年(1708)には300石を賜った。
 翌年、致仕しようと願い出たが許されず、正徳元年(1711)100石加増され、翌年、奉行になった。
 藩が幕府から利根川堤防修理の命を受けた際、忠央は監督して功があった。享保2年(1717)猪苗代城代の次の旗奉行に。同16年(1731)正容没し、4代藩主容貞封に就くや命を報じて幕府に報告、8代将軍吉宗から時服、羽織を賜った。
 著書は『大学辨断』、『通宣政鑑』など20余部66冊に及んだ。
2014年11月10日(月) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(60)
          ◇諏訪光高(生年不詳〜1724)
             (駒改吏)
 藤右エ門光吉の次男に生まれ、傳五右衛門と称した。大坪流の馬術を能くし、寛文10年(1670)馬方として2口15石を賜った。
 延宝5年(1677)俸1口5石が加増され、貞享4年(1687)3代藩主・正容の厩別当になり、さらに秩100石を加増された。
 宝永2年(1705)駒改吏、列外隊士となった。恪勤ゆえを以てしばしば朝服銀子等を賜わった。
2014年11月09日(日) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(59)
          ◇山内道次(1745〜1814)
             (豊秀流射芸家)
 山内藤太夫道孝の三男。小三郎と称し、英弧斎と号した。堀長照に豊秀流の射芸を学び、許可の域に達した。
 寛政4年(1792)善誘を褒章せられ金5百疋を賜った。同7年、給金2両となり、同12年、給俸2口を賜り、文化8年(1811)1口の加増があった。
 會津藩の武術のうち射芸,即ち弓術は日置流であった。この中に道雪派、豊秀派、印西派の3系統があり、それぞれ師範、締方勤が一人ずついた。
     ◇   ◇   ◇
 元会津史談会会長三橋正雄さんのご子息から年賀欠礼のはがきをいただいた。聞けば昨年の大晦日の31日に87歳で永眠した、という。
 三橋さんとは會津で町名復活運動を始めたころからの知り合いで、平成18年1月から福島民友で「士魂は何処へ」を連載した縁で、会津史談会の会員を連れて富津市の4寺に眠る會津藩士を墓参してくれた。以来、年賀をやりとりしてきた。
 會津の知人の悲報が届くたびに寂しさを覚える。寂しいなあ!
2014年11月08日(土) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(58)
          ◇松本佐牧(1831〜1804)
              (能書家)
 十兵衛と称した。書を土屋甚助、渡部成以に学んで尊圓流の書を能くし、その門下からは能書家多数が出た。 
 天明8年(1788)書師を命じられ、且つ講所書学寮の司書を兼ねた。
 寛政5年(1793)職料秩30石を賜り、同7年、書学寮司書を免じられて専任書師となった。
 享和2年(1802)班を目付上に進められた。恪勤善誘のかどにより度々、時服および銀子、真綿等を賜った。
2014年11月07日(金) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(57)
          ◇和田家殉難婦女子墓
             (戊辰殉難者)
 和田氏の傍に和田家婦女子の墓がある。
 慶応4年(1868)8月23日、「西軍、城下に迫る」の報に警鐘が乱打された。城下では市街戦が随所で発生、逃げ惑う町民で城下は大混乱となった。
 流れ弾で死ぬ者、父母の名を呼ぶ子供、幼児や病人を背負って難を避ける人々。まさしく城下は地獄絵図であった。
 郭内の和田義方邸でも、3人の婦女子が屋敷に火を放ち、自刃した。義方の後妻赤羽ミワ(41)と3歳の長女コマらだ。
 この日、藩士家族で自刃した者は、判明しているだけで230人に上った。
2014年11月06日(木) 閑話
 昨夜のBSフジで、ジャーナリスト櫻井よしこさんがいいことを指摘していた。小笠原諸島などの周辺海域に200余隻が侵入している支那の漁船について、「サンゴ漁ではなく、島を奪いに来た前兆などの政治的目的がある」と断言した。
 支那の本土から4000〜5000kmもの距離を往復する船は、燃料代で数百万円もかかる。それを個人で負担できるはずがなく、後ろ盾になっている団体が負担してるそうだ。第一、あんな乱暴な捕り方だったらサンゴの商品価値はゼロ。
 さすが鋭い指摘だ。以前、長崎・五島列島の福江島に支那の漁船が多数押し寄せ、警察官一人しかいない島を、支那人が我が物顔で闊歩した事件があったが、弱いとみればつけ入ってくる支那の共産党政権。
 米軍が引き上げた後のフィリピンの現状を見るにつけ、支那の膨張する覇権主義には、徹底的に対抗するしかない。
2014年11月05日(水) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(56)
          ◇和田義高(生年不詳〜1868)
             (戊辰殉難者)
 慶応4年8月23日、戸ノ口原を突破した西軍は滝沢峠で全軍を2隊に分け、1隊は飯盛山から鶴ヶ城の東南に、1隊は滝沢峠から城下を目指して一気に殺到した。
 城下の各地で防戦する會津軍との間で激突した。甲賀町郭門で指揮を執っていた藩主容保の乗馬にも敵弾が命中、容保は落馬し歩いて鶴ヶ城に入るという、きわどい戦となった。
 午前8時頃には、甲賀町と大町に西軍の大砲が据えられ、それどれの郭門に一斉砲撃がかけられた。
 西軍を迎え撃った會津の兵力は玄武隊、足軽、老臣、白虎隊に水戸脱藩兵など数百を数えるのみ。必死の防戦にもかかわらず、六日町口、甲賀町口の郭門は次々破られた。
 壮絶な市街戦は敵味方入り乱れての死闘となり、四方から火災も発生した。この日の戦闘で和田義高は戦死したが、會津軍はこの日だけで460余名の戦死者を出し、この日以後、1か月に及ぶ籠城戦になる。
      ◇   ◇   ◇
 小笠原諸島と伊豆諸島周辺の海で密漁を続けている支那の漁船は200隻を超えている。もはや密漁ではなく、”盗漁”だ。隠れて漁をしているのでなく、堂々とやっている。
 支那でサンゴを禁漁しているため越境してきており、巡視船で追い払うことが不可能なら自衛艦を出動させたらいい。支那の共産党政権は軍隊をコントロールできていないから不測の事態が起きないとは限らない。台風で逃げ込むことなど、絶対に許さないぞ!
2014年11月04日(火) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(55)
         ◇和田義武(1690〜1753)
            (物頭)
 太兵衛と称した。幼いころから武を好み、遠藤直好について太子伝流の剣を学び、奥義を極めた。享保15年(1730)200石を世襲して外隊士となった。
 同18年(1733)、目付、元文2年(1737)、山奉行。同5年、辞して再び外隊士となった。寛保2年(1742)5月、公事奉行となり、延享元年(1744)、官地奉行を勤め、職料秩100石を賜る。
 宝暦元年(1751)職料秩の中から50石を本禄に加えられた。同3年、物頭となり、同年10月没した。
2014年11月03日(月) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(54)
          ◇橋爪幸求(生年不詳〜1851)
              (神道家)
 澤右衛門と称した。山田彦五郎直治の三男。故あって橋爪氏を継いだ。橋爪家は代々神道家で、幸求は58代吉川従門から一事伝を、59代吉川従方から三事伝を、さらに四重奥秘を受けた。
 同じく従方から60代の道系を許された大竹政文と相並んで寛政(1789〜1801)前後における會津の神道の大家であった。
     ◇   ◇   ◇
 恥ずかしながら新しいPCに文字入力のワードを入れ、そして待望の過去の保存原稿や写真を取り込むのに10日かかりでようやく成功した。
 これまでのマックなら、こんなことは起きなかったのだが、ウインドウズはほとほと困らせてくれる。
2014年11月02日(日) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(53)
            ◇長崎尚志(1832〜88)
               (目付)
 知行100石。実父は宗川茂弘。故あって長崎幸右衛門の養子となり、若かりし時から宝蔵院流槍術の使い手で、兄の宗川熊四郎や志賀重側らと共に関東はじめ九州、中国地方を廻って槍術を伝授した。
 会津藩主・松平容保が京都守護職時代、御供番として京に上り、文久4年(1864)の蛤御門の変で活躍する。戊辰の役では朱雀小隊長として白河口の防衛にあたり、城下長命寺の戦で奮戦、手足に銃弾を受けながら戦った。
 敗戦後、斗南に流刑され、後に蝦夷地・余市に入植したが、明治10年(1877)若松に戻った。小学校で教授したり、槍術を教えていた。
 故小島一男氏の調査では、大窪山の墓地は「長崎尚悌ほか3基」(P87)としか分かっていないが、子孫同士が連絡を取り合っていた片桐氏子孫が小生のブログの読者であったことから、長崎家の墓地が判明した。
 長崎家の墓は尚友、同妻、尚悌、尚志の4基あり、幕末を生き抜いた尚志を取り上げた。
 尚志は宗川茂弘の子息で、故あって長崎幸右衛門の養子になった。小生が『會津人群像』24号で発表した「會津藩士の蝦夷地移住」の中に登場する藩士も出てきて、実に興味深い。
2014年11月01日(土) 會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(52)
           ◇片桐嘉矜(1753〜1820)
              (天文暦学家)
 幼時は林之助と称した。嘉保の長男。父から関流の算額と、天文・暦術を学び、藩校・日新館で教授した。その学統は関孝和ー建部賢弘ー森田豊仙ー片桐嘉保と伝えられたものであった。片桐家5代目を継いだ。 勘定方、与力、南北館算所、天文師、学校算師等を歴任、文化10年(1813)致仕したが、天文師・学校算師はそのまま勤め、同13年、請うて両師を免じられた。著書に『伊須多羅比説』など多数。
 子孫の12代目、日経新聞社員片桐嘉信氏によれば、7代目嘉寿は160石、郡奉行、8代目嘉則(天保6年〜大正5年)は宮内庁歌人、9代目輿八郎(安政6年〜昭和5年)は会津若松市栄町の會津藩天文台跡地あたりに住んでいた。
 10代目嘉靖(会津中学〜札幌農学校〜国鉄)が昭和10年ごろ、若松の土地を売却して都内阿佐ヶ谷に転居した、という。嘉靖は最後は札幌駅長だった。
 片桐家は長野県伊那地方が発祥らしく、會津藩祖保科正之に従って信州・高遠〜山形〜會津へ移ったと推測される。
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