大鵬、柏戸が同時横綱昇進 (この年、「上を向いて歩こう」がヒット)
衆参両議院で原水爆禁止決議案可決
東京タワー完成 (この年、映画入場者数が11億人を突破)
未曾有の原発事故は、戦後最悪の事故となった。福島第一原発事故で、原発の「安全神話」はもろくも崩れた。まさに国難である。放射能汚染は偏西風に乗って地球を一周した。
危険度は最悪のレベル「7」まで引き上げられた。東電は原発安定化へ6〜9か月の工程表を発表しているが、収束の見通しない。福島原発が辿って来た過程を原発小史を中心に検証する。
原発建設に進んだわが国の経済状況はー。戦後、目指ましい復興を成し遂げ、1956年(昭和31)「もはや戦後ではない」(経済白書)と宣言した。
石原慎太郎が『太陽の季節』で芥川賞を受賞した年だった。「三種の神器」として電気冷蔵庫、テレビ、電気洗濯機が主婦たちの関心を集めた。
その後、驚異的ともいえる高度経済成長が続き、「青田買い」(62年)、「三ちゃん農業」(63年)、「JALパック」(65年)などの時事用語が流行した。66年は「3C時代」といわれ、カー、クーラー、カラーテレビが「新三種の神器」としてもてはやされた。
ーーー取られたものは取返すまでよ。 漠然とだが、そんな覚悟ができた。俺はこの城を造った氏郷の子だ。この絆、切るなら切ってみるがいいーーー 「いよいよここを発つ日、天守を見て俺は誓った。決してそなたを忘れはせぬ、とな。いや、それは、亡き父上への誓いだったかもしれぬ」 そして今、天守に招き寄せられるようにして、彼は会津に帰って来た。 「もしかすると、父上が俺を呼び戻したのかもしれぬな」 父に似て精悍さを加えて来た年若い城主の瞳は、空の青さをうつして澄み切っていた。(完)
◇ ◇ ◇ 本日で「歴史小説鶴ヶ城物語」は一旦、中止し、明日から福島原発の検証を始める。レベル7と最大の警戒度に引き上げられ、放射能汚染が広まる一方の福島第一原発。原発が何時、どういう経緯で福島に建設さたのか、詳しい小史を通して明らかにする。実に興味深い事実が明らかになる。
「いつかは帰って来ようと思った城だがーー」 言いかけて彼はさらに微笑した。 「いや、何としても俺は帰るつもりだったんだ。できないことはないと思っていた」 その決意を固めたのは、秀吉が家康と自分の結びつきを警戒していると告げられたあの日からだった。 その瞬間、彼の胸の中で秀吉という偶像が、音をたててこわれた。秀吉が超人的な存在にみえたからこそ、18万石への減封も致命的なものに思われたのだが、その話を聞いて、秀吉がひどくちっぽけな人間に見えてきたのである。 ーーーこう思うと気が楽になった。 慌ただしい国替えの最中、案外、平気でいられたのは、そのためだった、と初めて彼は明かした。
彼の入国は慶長6年(1591)9月、父が初めて会津を見たと同じ季節に再び、彼は背炙山の峠に立った。 空は冷え冷えと青かった。 ーーー懐かしいあの青さだ。 枯れた穂薄を渡る風に頬をなぶらせながら、彼は、その広がりの果てを見た。いよいよ会津の町へ、そして鶴ヶ城に近づいた時、従っていた蒲生郷可がうめくように言った。 「殿、天守はちっとも変わっておりませぬな」 振り返ると、馬上の秀行は眼を閉じていた。やがて、その瞳を上げた時、静かな微笑がその白晢の頬にあった。 「そうだ。ちっとも変わっていない。会津を発ったあの日、俺が見た通りの城だーー」 眼をとじた瞬間、秀行はあの日の印象を、瞳の底に探っていたのである。
たしかにこの時、会津の人々は再び秀行を見ることはあるまい、と思ったようだ。ところが、数年のうちに歴史の大きなうねりが、奇しくも彼を会津に呼び戻すことになった。 関ヶ原の合戦が起ったのである。それに先立ち奥州で挙兵したのは、秀行の後を襲って会津の大守となった上杉景勝だ。家康はこれを追討に向かう途中、景勝に呼応した石田三成の挙兵をきいて兵をかえし、関ヶ原で決戦を挑んだわけだが、その際、上杉への押さえとして子息、結城秀康を残し、秀行にこれを助けさせたのである。 この時、この方面では、関ヶ原のような華々しい戦闘は行われなかったが、上杉勢をそのまま釘付けにさせたのは、旧領地の勝手を知った秀行の功績であるとして、家康は、上杉を米沢30万石に減封した後、60万石の主として秀行を会津へ入れたのである。 家康の子息たちを除けば、これは行賞中最大で、秀行の働きは抜群と認められたわけだった。
その彼が、今日は、まともに城に向かい合っている。石垣に組み込まれた巨石のひとつひとつ、天守の甍、白壁ーーすべてを瞳の底に刻みつけて行こうとするようにーー。 その細面の白晢(はくせき=顔色の白い)の横顔を見た時、 ーーー父君に似ておいでになった。 ふと、家臣たちはそう思った。いや家臣だけではない。国替えを見送る城下町の人の幾人かも、もう再びみることもあるまいこの若い城主の面差しの中に会津の第二の開拓者であった氏郷の俤をみつけて、 ーーー何やらおいたわしいーー そんなつぶやきを漏らしたのだった。
◇ ◇ ◇
近々、福島原発を検証する。第一原発から半径20キロ圏内を警戒区域に設定して住民が住めない区域になるなど、放射能汚染は広がるばかり。冬になれば北風が関東方面に汚染物質を運ぶだろう。驚くべき事実を明らかにする。
「父上が精魂かたむけて造られた城だ。ひとに笑われないようにして発ちたい」 秀行が会津の若松城に別れを告げたのは、慶長3年(1598)2月のことである。空は冷たく蒼く澄んでいるのに、時折、雪に似たものが頬にあたるのは冬の名残りだろうか。 城を出た時、一度だけ秀行は天守を振り返った。ゆたかな屋根の反り、松の緑に囲まれた白亜の壁は、空の色を映してか、薄い蒼味をおびてそそりたつ。厳しい会津の風雪に耐えた石垣には、すでにもの寂びた風格さえも加わり始めている。 秀行は、あの日から今日まで城の明け渡しについて、ほとんど指図らしい指図はしていない。 「潔い発ち方をするように」 と言っただけで、ことごとに父を思い出させる城内から、努めて顔を背けているようにみえた。
今の間こそ服従を装ってはいるが、この狸め、なにをやり出すことか!(結局、秀吉の予感はおそろしく的中したわけだがーーー。) そして、その時、彼は我にもない大失敗をしてしまったことに思い当たる。 ーーー敵は伊達ではない。家康めだったのに。その家康と秀行を縁組させるとはーーー。 一世一代の不覚、とおそらく秀吉は舌打ちしたに違いない。 だから、今度の国替えは容易ならざる意味を含んでいる。つまり、蒲生家は、時代の浪をまともにかぶったのだーーーと郷可は言った。 秀行は暫く無言だった。自分を巻き込もうとしている渦の大きさをはかりかねているのかーーーと、家臣たちは、ふと、痛々し気な眼付きになった。が、口を開いた時の彼の言葉は意外なほど落ち着いていた。 「城をきれいにして発とう」 それから暫くして付け加えた。
「なんと、奥が?」 「はい、御内室、振姫さまは、徳川家康公の御息女。ゆえに、殿は家康公の婿君にあたらせられます。そして、それがーーー」 それが、今度の転封の最大の原因だといっていいい、というのである。 「が、しかし、あれは秀吉公の御口添えで当家に嫁いで参ったのだぞ」 秀行は、さすがに合点のゆかない顔をした。 「左様でございます。が、あれから時世は著しく変わっております」 あの時は、秀吉は、家康を秀行の後見につけて、伊達を監視させるつもりだったのだ。つまり、恐るべき敵は伊達で、家康がそれと手を握らないためにも、秀行との間に血のつながりをつけておく必要があった。いわば、この縁組は一石二鳥の巧妙な政策だった。 ところが年とってくるに従って、秀吉はたった一人のわが子、お拾い(後の秀頼)の将来が心配になって来た。そして誰彼がすべて愛児の敵のようにみえて落ち着かなくなったのだが、中でも一番恐るべき相手だと気付いたのは徳川家康だった。
「申すまでもござりませぬ」 戦国生え抜きの荒武者、蒲生郷可の眼にも涙が浮かんでいるようだった。 「こらえる。俺はこらえるぞ」 そういって肯く秀行を見上げた郷可は、この時、かたちを改めると、 「ーーー殿」 息づかいで彼は言った。 「それだけではござりませぬ。いま世の中は容易ならぬ事態になろうとしております!」 今度のことは冬姫だけが原因ではない。というよりも大きな理由は別にある。それは御内室、振姫様のことだ、と彼は言った。
『会津人群像』19号が出版された。連載「飯野藩剣術指南森要蔵物語」の最終回と、幕末、維新最大の謎「孝明天皇毒殺」と偽の討幕蜜勅の2本が載っている。興味深い読み物なので、是非ご一読を!
瞬間、郷可はかすかに動揺したようだった。 「御存じでございましたかー」 「知らないと思っているのか」 もちろん、冬姫は何ひとつ秀行には言ってはいない。が、妻を娶り、大人になりかけていた彼は自然とその事情を知ってしまっている。彼は美しい母が好きだった。その母が天下の権力者を向こうにまわして、その意に従わなかったことで、ますます好きになって来ている。その清清しい生き方のために、いま、彼が窮地に陥ったとしても、母を恨む気には到底なれなかった。 ーーー母上が清清しい生き方を選びとられたことを、亡き父上はきっとどこかで御覧になっているに違いない。ーーー めめしく恨んだり、憤ったりすることはよそう。俺もまた、清清しい道を選びとらなければならぬ、と思ったのは、この時である。 「耐えてくれるか、その方たち」 そういった秀行の顔は急におとなびて見えた。最初にその前にがばと身を投げ出したのは、蒲生郷可である。
「それは違う」 若い秀行は頬を蒼白ませて、叫ぶように言った。信頼していた八右衛門を私怨によって殺した郷安のことは八つ裂きにしてもあきたりないと思っていたのだが、秀吉の命でやむなく斬ることをあきらめたのではないか。それだけでも不公平だと思っているのに、郷安は加藤に転がり込んでしゃあしゃあとしていて、俺だけが罰せられるというのかーーー 「それ以外に俺に何の落度があったというんだ!」 太閤ともいわれるお方がーーーと口に出かけた時、彼は、側近の蒲生郷成や蒲生郷可たちの、もの言いたげな顔にぶつかると、ついと顔をそむけた。 そしてやがて、再び、家臣たちの方を振り向いた時、彼の顔からは、少年じみた興奮は消えていた。 「母上のことかーーー」 正面にいる郷可を真直ぐ見詰めて彼は言った。
郷安はこのことを 「御家のためを思ってー」 と申し立てたが、秀行は八右衛門を信頼していただけに、この言葉に腹を立てた。 「郷安め、私闘を言いくるめるつもりか。喧嘩は両成敗だ」 事実、秀行は彼を斬るつもりだった。ところが、郷安はこれに感づいて飛び出し、石田三成を頼った。三成がさらに秀吉に上申したとみえて、間もなく、秀吉から直々に郷安を許すように、と命じて来た。 ーーー太閤殿下にも似合わぬ。 これでは片手落ちだ。と腑におちなかったが、やっと斬ることは諦めた。が、郷安は秀行が心中自分を許していないことを知ると、遂にその許に帰らず肥後の加藤清正の所へ奔ってしまった。 と、そこへ、秀行に思いがけない転封の命が下ったのである。郷安を許さなかったことを激怒しての削封だという。
信長の息子たち、信孝も信雄もみな父親に似ない凡人だったが、彼女ひとりは、父の誇りと気骨を受け継いだのだった。 冬姫の出家は秀吉にとっては衝撃だった。生涯のうちで、これほどぴしゃりと女性から拒絶をうけたことはない。表面は笑いに紛らしても、決して彼はこのことを忘れないだろうーー。 秀吉の報復は意外に早く行われた。その2年後、秀行は突然18万石に削封され、宇都宮への国替えを命じられたのだ。40万石で会津に入部した父の氏郷はその後加増を受け、90余万石に達していたから、今度の削封は約五分の一という懲罪ともいうべき過酷なものだった。 理由は、「家中おさまらざる故」だった。たしかにこの時、蒲生家では内紛があった。家中の実力者蒲生郷安が亘理八右衛門と対立し、八右衛門を斬ってしまったのだ。
「あの方は、私がここに嫁いでこのかた、氏郷どのの御心の中に一度も気付かないで過ごして来たとでもお思いなのかしら」 冬姫が、38歳の若さで、豊かな黒髪を未練気もなく切って、墨染めの衣を身にまとったのは、その夜のことであった。氏郷が生前、一言も口にしなかった胸の中の微妙な思いを、いつか冬姫は感じとっていたのだろうか。 ーーー成り上がり者の籐吉の側室(そばめ)になる 信長の娘という誇りを持ち続けた彼女にはできないことだった。自分によく似た叔母の小谷の方が、落城とともに死の道を選んだと同じく、彼女もまた、女としての生きながらの死を選びとったのである。 ◇ ◇ ◇ 房総半島会津藩士顕彰会の会報9号ができたので、会員に郵送した。が、福島市と仙台市は「受け付けていません」と宅配便業者。郵便局では?にも「うちが最も危険地帯まで配っているんです」。福島、仙台や原発避難地区は、もはや地図の空白地帯なのだ。改めて原発の恐ろしさを感じている。
秀吉は、氏郷の妻、冬姫に眼をつけていたのだ。彼が生涯憧れ続け、遂に手に入れることの出来なかった小谷の方にそっくりの冬姫、主君織田信長の直系の血筋の彼女を側室に迎えることこそ、彼の本心だったのである。 氏郷の一周忌もすまないうちから、秀吉はこの不躾な申し出をぬけぬけと持ち出した。それを聞いた時、冬姫は、 「この、わたくしに?ー」 まるで不思議なものが眼の前に現れたように首をかしげた。夫を失って以来少しやつれが目立って、それなりに、手を触れればすぐにでも散ってしまいそうな花のもろさを思わせる、翳りのある美しさの深まったその頬に、謎めいた微笑を浮かべたのはこの時である。それ以上、冬姫は何も言わなかった。 使者は微笑の意味を解きかねた。勿論、すぐ答えの得られる話でもないので、その日はそれだけで引き揚げた。 使者が帰って、侍女だけが一人傍に残った時、冬姫の頬には、もう一度、その微笑が浮かべられ、小さな唇から呟きがもれた。
大震災の余震は一か月を過ぎた今も続いている。福島第一原発からの放射能洩れは収まらず、経産省安全・保安院は本日、危険度を最悪の7に引き上げた。これを見越して政府は11日、原発から半径20キロ圏外の飯館村などを計画的避難区域に設定した。一か月をメドに避難させる。 収束するどころか、汚染は拡大する一方である。そうした中、政府は「復興構想会議」を設置した。が、人選が大いに問題だ。宗教学者、芥川賞作家、脚本家など、将来の都市計画を描くのに、素人ばかりだ。 絵空ごとを描くのではない。周辺住民が原発から離れて、どう居住してゆくのか、具体的な構想、例えば港湾、漁港構築、道路などを示して提言する機関なのだ。作家や宗教学者に夢を語らせる場ではない。 優秀な官僚OB、都市計画のプロも必要だ。管が選んだそうだが、基本理念がまったく分かっていないのだ。呆れてものがいえない。呆れた!
「鶴千代、来たかー」 そういって大手を広げて立ちはだかっている父をそこにみたのである。 始めて見た会津若松城だったにも拘わらず、彼はずっと前からこの城を見知っていたような気がした。太く逞しい木の柱、金具もいかめしい追手門、そして白亜の壁におちる陽のかげーー樹々のにおい、堀の波紋、みんな、とうから知っているもののように思えるのは、不思議なことだった。 やがて徳川家康の娘、振姫も輿入れしてきた。父親似の下ぶくれの、あまり器倆はよくないが、おとなしい娘である。有力な舅を背後に持って、秀行の治世は、まず順調な滑り出しをしたように思われた。 が、間もなくー。 この幸運は、実は蒲生家にとって、見せかけだったことを、秀行が悟る時がやって来た。ひどく寛大だった秀吉の処置には、実は別の下心が隠されていたのだ。
家臣たちは半ば諦めていたが、秀吉のこの時の処置は極めて寛大なものだった。 「氏郷は特別のよしみがあるので、鶴千代は幼弱ながら、そのまま会津を相続させよう」 しかも、彼は鶴千代を徳川家康の息女振姫と結婚するように指示を与えた。13歳の鶴千代は元服して秀行と名乗ったが、彼はこの上もなく頼もしい舅を後見役とすることができたのである。 その年(文禄2年)の7月、秀行は初めて父の国の会津へ入国した。生前、父が口癖のように自慢していた七層の天守閣を見たのはこれが始めてである。 「いい城だぞ。都の近くにも、あれだけの城はない」 父と同じく背炙峠を下って始めてその七層の天守を目にした時、彼はいつもの父の声を耳にしたように思った。というよりむしろ、会津野にそそり立つこの城こそ、父そのものだという気がしたのだ。
時に40歳。 「限りあれば吹かねど 花は散るものを 心短かき春の山かぜ」 これが彼の辞世である。 鶴ヶ城という壮麗な記念碑を残して氏郷がこの世を去った後、蒲生家には大きな運命の変化が予想された。まず気遣われたは転封の恐れである。普通、大国の当主が早逝し、後継が若い場合は、 「その任にたえず」 として国替えされるのが例だった。 この時、氏郷の後嗣鶴千代は13歳、しかも体が弱くて、氏郷の会津入部の際、京都の南禅寺に預けられたままである。 「修業をして丈夫になったら後嗣にするし、さもなければ僧にする」 というのが父氏郷の意向だったらしい。 ーーーされば国替えはやむを得ないかのーー
氏郷と彼女が天守に立って、磐梯の峯や、果てしなく広がる会津の野(と作者はいうが、会津は盆地であり、果てしなく〜という感じではないと思うのが)を眺める姿を想像してみた。 そして、その時、遠い平野の果てから、そして緑の尾根の彼方から、俺はいつもこの天守を見るだろうーーー彼はその時、始めて会津のこの地にがっしり根を下ろした自分を感じていたのであった。 しかし、この地にあって飽かずに天守を眺めたいという、彼の願いは遂にとげられずに終った。 この頃、彼は頻繁に京都と会津を往復しているが、文禄2年(1593)、天守閣が完成した年の冬、帰国して一か月余滞在して、又上洛し、遂にそれなり会津に帰らなかった。 その前から、少しずつ病魔に苛まれていた彼は、京都の屋敷で床につき、帰らぬ人となったのである。最後の帰郷の折に、仕上がったばかりの天守閣が新雪に覆われたのを見たのが最後になった。
後に聳える磐梯山の堂々たる姿に対抗するには、やはり天守は七層でなければならない。 「まあ、七層の?」 冬姫は驚いたように彼を見詰め、 「私、亡き父上が次から次へとお城をお造りになるのを見て参りましたけれど、七層の天守はまだ見たことがございません」 それから、やがて、華やかな笑顔になって 「見事ですこと。そのお天守が出来ましたら、このお城は日本一のお城でございましょう。そしたら私、毎日お天守からあたりを眺めとうございます」 うなじの細い、ろうたけた瓜実顔。一世に美貌を謳われた小谷の方は彼女の叔母にあたるが、小さい頃から、小谷の方の娘ーいまの淀君たちよりもむしろ似ているといわれた美貌は、三十過ぎた今、豊かな、なまめかしさを加えて来ている。
緑の山を背に、川の流れを堀にー始めて峠に立った時、描いた夢は、着々と実現されつつあった。彼は、この地の名を若松と命名し、城の名を鶴ヶ城と名付けた。 故郷近江国、蒲生郡にある若松の森に因んだものであったが、多くの未知数を含んだ、この陸奥の地の本拠に相応しい若々しい名と思ったからだ。 自分の国、自分の城。いまこそ、それをたしかめ得た、と氏郷は思う。そして誰よりも喜んだのは妻の冬姫だった。 「若松ー私が始めて嫁いでまいりましたあの近江の、懐かしい名前をおつけになりましたね」 「そうだ」 「私たちはあそこを離れてしまいましたけれど、若松の方が向こうからやって来たようなものでございますわ」 冬姫はおかしそうに笑った。 「いずれ、ここには七層の天守が建つ」 氏郷は妻に、その計画を明かした。
そしてとうとうーーー。 会津野に、この若き武将が、みずからの城を築く時が来た。 文禄元年(1592)6月、彼は城と城下町造りに乗り出した。彼はまず、甲賀派の縄張りに長じた家臣、曾根内匠に命じて、これまでの黒川城とは根本的に性格の違う近世城郭を設計させ、この城を中心にさらに外郭を造った。 郭の四方内濠を深くして軍備態勢を整える一方、いままで雑居していた商人と侍との屋敷を区別したり、市場を設けたりして、近世的な商業の中心として城下町の経営にも同時に着手している。 彼の故郷日野町から従って来た町人が日野町を造ったのは、この時である。 ◇ ◇ ◇ 今朝、遂に待望の納豆をゲットした。近くのスーパーで開店と同時に入り、懐かしい納豆を。一人一個の制限付きだった。大震災以降、24日ぶりの対面だ。今夜が楽しみ!
もっとも政宗は、その後も全面降伏をしたわけではなく、かなりの小細工をやって氏郷軍の進撃の足をひっぱっている。が、結局、最後まで謀反に踏み切らなかったのは、やはり氏郷に一目おいたからであろう。 朝の茶会の顛末を、誰にも明かさなかった氏郷ではあったが、その峻烈にして進退清清しい人となりは、政宗にかなりの衝撃を与えたものらしい。 幾多の困難の末、氏郷は遂に木村父子の救出に成功した。その翌年は、さらに大崎、葛西の残党を討ち、敵対した九戸政実を降して、遂に奥州一円を平定した。 彼をこの地に派遣した秀吉の意図は、心からの信頼だったのか、それとも何となく意識の隅にひっかかる若者へ、わざと困難を与えるためだったのか、いずれにしても、無言で、何一つの弁明もせずに彼は黙々とこの難事を乗り越えたのである。
茶席で殺すなどとは愚の愚。奥州の独眼竜といわれたほどの政宗だ。よもやそれほど愚かではあるまい。むしろ招待を断りでもすれば、かえってこちらが隙を見せたことになる。 「今まで毅然たる態度を示して来たわれらが、ここで負けては何にもならぬ」 瞳の光は依然として鋭かったが、その顔には、微笑さえも浮かべていた。 それでも、翌日、主人を送り出した左近将監たちは、氏郷の顔を見るまでは気が気ではなかった。刻一刻、まるで自分の胸に匕首を突き付けられているような気がした。氏郷が無事な姿を見せたのは、数刻後である。 「あっ、殿ーーー」 思わず駆け寄る部将たちに、 「政宗もさすが男よの」 氏郷はただそれしか言わなかった。