会津の歴史
河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2012年03月31日(土) 歴史小説 鶴ヶ城物語(376)
     ◇歴史に見る古代の會津(26)

 會津の人で、初めてその名を歴史にとどめたのは、丈部(はせつかべの)庭虫という人である。これより先、東北出(今日の宮城県牡鹿郡出身)の人でありながら中央で近衛中将にまで昇り、現地では陸奥大国造を兼ねていた人に、道嶋嶋足(みちしまのしまたり)という人がいた。
 その絶大な声望を背景に神護景雲3年(769)、彼は東北の有力者たちに中央貴族並みの氏姓の賜与を斡旋した。この時、會津郡の人、外(げ)正八位下丈部庭虫ら二人は、阿部會津臣と氏姓を賜わった。
 当時、そのような改姓の場合には、丈部は阿部臣へ、吉弥侯部(きみこべ)は毛野公(けぬのきみ)へ、大伴部は大伴連(むらじ)へーというように、主要な豪族たちの間には、おうよそ対を為す組み合わせが前もってできていた。

2012年03月30日(金) 歴史小説 鶴ヶ城物語(375)
     ◇歴史に見る古代の會津(25)

 というような次第で會津嶺の近くの陸奥人は、防人として筑紫に赴いている。その人も、妹との別れには、紐を固く結ばせて変わらぬ愛を誓った。とすれば、第一首といい第二首といい、まったく同じシチュエーションの歌である。
 歌の心からすれば、この第一首も、會津の人の防人に出て立つとて読める歌、ということになる。
 万葉十四の東歌には、常陸国歌の一つに次のようなのがある。
「妹が門弥 遠ぞきぬ 筑波山隠るる程に 袖は振りてな」
 會津嶺の歌と好一対である。しかも、この常陸国歌に比べて會津嶺の歌は、はるかに優れている。
 故郷の山と思う人とを一つに縫い合わせた愛の純粋感動が會津嶺の歌にはある。これに対して常陸国歌では、筑波山と妹が門とは、何となく別物である。そのために振る袖も山と妹とに割れて心もとないのである。

2012年03月29日(木) 歴史小説 鶴ヶ城物語(374)
     ◇歴史に見る古代の會津(24)

 陸奥国歌の第二首は、明らかに筑紫における陸奥(みちのく)人の歌である。
 「筑紫なる にほふ児ゆえに 陸奥の かとり少女の結ひし 紐解く」
筑紫にあるみちのくびととなれば、防人より他に考えようがない。
 これが、東北のうちのどの辺りの人の歌なのかは、しかとは分らない。しかし、會津をそう遠く離れない東北南部の人の歌で、これも會津の人の歌である可能性だって、充分ある。
 何故なら、第三首は安太多良(あだたら)の歌で、會津嶺と安太多良嶺の間に配される歌は、會津などに近い歌と考えても、そうおかしくないからである。
     ◇   ◇   ◇
 巨人軍のいわゆる選手契約金の”裏金”問題で、連日、巨人は朝日新聞と論争している。規約違反か、どうか?高橋6億円、上原5億円、ニ岡5億円、阿部10億円、内海10億円、野間口7億円。これが前球団代表清武が朝日に売った内部資料だ。
 しかし、多の球団は黙殺。同じようなことをやっているのだ。一般に比べれば、確かに高額だが、彼等は夢を与えてくれるのだ。

2012年03月28日(水) 歴史小説 鶴ヶ城物語(373)
     ◇歴史に見る古代の會津(23)

 さらに、都へ衛士(えじ)といって1年間、宮中警固役にあたる旅もあるし、同じ都へ上るのには運脚といって、調庸のような税物を運送する人夫となって旅の人になるということもある。
 これは、そのどれでもありそうに見えながら、実は、万葉の約束からみて、そのどれもないように思われる。万葉の名もない人たちの歌は、純粋に故郷に拘わるものを除けば、東歌といい防人歌といい、大体において西辺への出征の歌なのである。
 そうしてみると、この會津嶺の歌も、その一環として、やはり防人の旅にでも出る兵士の歌として詠むべきものではなかろうか。

2012年03月27日(火) 歴史小説 鶴ヶ城物語(372)
     ◇歴史に見る古代の會津(22)

 會津の人たちが、會津の国を會津嶺の国として意識したのは、この山が、會津の人たちにとって、「かがいの山」(男女が互いに歌を懸け合う)でもあったからではなかろうか。後に法相宗の碩徳、徳一がこの山の信仰を慧日信仰に移して、會津の心を征服するのであるが、彼がこの山と並んで同じような信仰征服を行った常陸の筑波山は、有名な「かがいの山」である。
 似たような信仰の山として、磐梯山もまた、かがいを通して神人融合の山であったために、愛の誓いを、そのまま山への愛に移し変えることができたのではなかろうか。
 さて、會津の若人は、最愛の妻と別れて、遠くどこへ旅立つのであろうか。公用での遠出と考えるべきであろう。近い旅としても軍団に兵士として上番するということもあろう。また同じ陸奥国でも、国府のある多賀城の方へ、雑徭といって60日間を限度とする労働奉仕に出る、というようなこともある。

2012年03月26日(月) 歴史小説 鶴ヶ城物語(371)
     ◇歴史に見る古代の會津(21)

 それは、貴族の観念の歌などではなしに、庶民の生活の中で詠まれているものである。してみれば、そのように、生々しい愛の感動を、そのまま受け止める會津嶺そのものもまた、彼等にとっては、命と仰ぐ山でなければならぬ。ただ景色が美しい山なのではないのである。
 愛する人の姿は五町十町も来ないうちに、その目には見えなくなる。それに対して會津嶺の姿は、一里来ても二里来ても、振り返れば、そこに見える。
 そうだ、妹のいるのは、あの山の国なのだ。山を仰げば、その姿が浮かんで来る、ああ美しい山だ、妹はどうしているだろう。
 「會津嶺の国をさ遠み逢はなはば」、そう詠う人たちは、およそこのような連想のもとに、山への愛と人への愛とを重ねて詠うことができたのである。

2012年03月25日(日) 閑 話
 本日は、昨年10月急逝した娘婿の納骨式で松戸を往復した。46歳の若さで、妻と二人の子供を残して逝ってしまい、さぞや口惜しかったに違いない。
 新しい墓を建立し、住職の読経の中で、静かに納めて来た。その住職だが、天台宗から派遣された人物で、京都に家族を残して単身赴任とか。寺に住んでいるわけでなく、マンションから毎朝、通勤するーというからサラリーマンと同じだ。
 天台宗の教義ともいうべき「一隅を照らす」の語源もお知りにならない坊さんで、有り難みは半減。寺の世界もサラリーマン化したのかー怪し気な新興宗教がはびこる一因をのぞいた気がした。
 しかし、疲れた!
2012年03月24日(土) 歴史小説 鶴ヶ城物語(370)
     ◇歴史に見る古代の會津(20)

 万葉集巻十四東歌に陸奥国歌というのが三首ある。その第一首が有名な會津嶺の歌である。
「會津嶺の国をさ 遠み逢はなはば 偲ひにせもと 紐結ばさね」
 美しい歌である。訳はいろいろあろうが、こんな訳はどうだろう。
會津嶺の国を遠く旅立ち別れてしまっては、愛する人に逢いようもない。せめて思い出になりと、この下紐を固く結んでおくれ。
 「紐を結ぶ」というのは、愛をよその異姓に移さぬ誓いのことである。相愛の人同士が、変わらぬ愛を契るしるしなのである。
 この歌の美しさは、断ち難い妻との別離の心を、遠くなる會津嶺への惜別に重ねて詠っているところにある。
     ◇   ◇   ◇
 明日25日は會津会創立百周年記念式典が上野・上野精養軒で行われる。作家松本健一が「近代日本をつくった會津の人々」と題して講演する。招待を受けながら、身内の法事で欠席するのが残念だ。
 福島民報が連載したが、戊辰戦争に敗れ、會津を離れた旧藩士が絆を守ろうと明治45年(1912)4月20日に発足させた。初代総裁に、最後の藩主松平容保の子息、子爵松平保男が就き、戦後は総裁制から会長制になるが、初代会長は東京都長官などを歴任した飯沼一省。集団自決した白虎隊の唯一の生き残り、あの飯沼貞吉の弟の息子だ。第三代が東急専務の柏村毅で、彼とは学生時代、一緒に会食した経験がある。懐かしい名前だ。

2012年03月23日(金) 歴史小説 鶴ヶ城物語(369)
     ◇歴史に見る古代の會津(19)

 「かひなしや たづね来たれどみちのくの 會津の里も 名のみなりけり」
これは『夫木和歌集』で藤原定国が詠んでいる。定国は貞観9年(867)に生まれ、中納言、近衛大将、大納言まで進み、延喜6年(906)亡くなった公卿である。
 延喜2年から6年に没するまで、陸奥出羽按察使を兼ねていたから、この歌は、その按察使時代のもので、10世紀初頭の作と考えてよい。字義通り実作かどうかには、多少問題もあろうが、まったくの題詠とばかりみる必要はあるまい。
 そして、これは歌の世界の會津を謡いながら、意外と『和名抄』の世界に近いのに興味を覚える。
 既に10世紀に入る頃から、王朝の政治は、この山国の支配を失い始めていた、という歴史的事実が、文学のまるい叙情を借りて、そこに顔を表わし初めているのではなかろうか。
     ◇   ◇   ◇
 長崎ストーカー殺人事件で、千葉県警習志野署がとんでもない醜態を曝け出している。被害者の父が事件を届けようとしたら、「一週間待ってくれ」と、さっさと北海道旅行に出かけてしまった。
 最後は守ってくれるはずの警察が遊び優先で、事件を受け付けない一体、市民はどこへ訴えればいいのか!
 千葉県警には、成田闘争以来、警備畑偏重の人事がまかり通り、刑事警察を疎かにしてきた。警備でないと出世できないのだ。窃盗犯検挙率は全国最低クラスがそれを物語っている。一般市民は知らないだけだ。

2012年03月22日(木) 歴史小説 鶴ヶ城物語(368)
     ◇歴史に見る古代の會津(18)

 河沼、大沼などという郡は、こうして平安時代にも末になって、恐らく私称としておこったもので、正式な郡名ではない。『和名抄』という本の郡や郷の名を上げた部分は、一般にあまり信用出来ないとされているが、會津の混乱ぶりは特に甚だしい。これには、色々理由があるのだが、一般的には、會津が本来なら四郡にも五郡にも分かれるべき広大な「くに」であるのに、名目上一郡にして、その下に事実上、小郡にあたるような中間的なまとまりを許したりするとうような扱いをして、行政上の系統区があいまいであった、ということにあるのではあるまいか。
 それに慧日寺の領主支配が横合いから入り込んで、混乱をさらに大きくしたのである。

2012年03月21日(水) 歴史小説 鶴ヶ城物語(367)
     ◇歴史に見る古代の會津(17)

 ところが、平安時代も後半になった承暦4年(1080)には、陸奥国からの申請で、會津・耶麻二郡を統合して「一国」としたのである。これは『水左記』という本にみえることで、一国は一郡の意味で、国の古い用法である。
 政治の一般的な傾向からは、まったく逆行しているが、會津は地形上、まったく自然な一国をなし、行政的にも分郡して支配するよりも、一郡一円支配を便としたために、このような措置をとったものであろう。
     ◇   ◇   ◇
 本日は、顕彰会会報の「会員紹介」欄を取材に木更津市を訪れた。桜井公民館で絵てがみ教室を主宰している田村さんと久し振りに対面。顕彰会立ち上げからの会員で、高校時代から絵が趣味で、呉服屋をたたんだ10年程前から教えている。市内に教室を6か所、掛け持ちで主婦を対象に教えているが、生徒さんらは「花でも葉でも、細かに観察するようになりました」と熱心に作品に挑戦していた。

2012年03月20日(火) 歴史小説 鶴ヶ城物語(366)
     ◇歴史に見る古代の會津(16)

 しかし、郡というのは、これとは別であって、開拓が進み植民数が増えれば、どんどんこれを分けてゆくのが通例であって、このことは、奥羽の前線地帯でも変わりなかった。
 これに対して、會津では、非常に違った形をとった。分郡が緩慢であったばかりでなく、一旦分郡したものも、また一郡にまとめる、という形をとっているのである。
 それは、つまり、會津というところが、陸奥国の中で、自ずから一国をなしてきた地理的、歴史的事情によっていた。
 まず、會津郡から耶麻郡が分かれたのは、9世紀の前期である。その初見は承和7年(840)である。そして10世紀初めの延喜式という本にも、會津、耶麻2郡しかないから、河沼、大沼などというものは、まだ會津郡の中で眠っていたのである。

2012年03月19日(月) 歴史小説 鶴ヶ城物語(365)
     ◇歴史に見る古代の會津(15)

 新しい律令政治に組織された會津が、初めて名を表わすのは、奈良時代の初め、養老2年(718)である。この時、會津郡は白河・石背・安積・信夫の四郡とともに、陸奥国から分かれて、石背国を形成した。
 この時は、海道方面の六郡は石城国を形成した。だから、東北でも、現在の福島県にあたる地帯が、もっとも早く開けていたことになる。
 ただし、石城、石背両国は、わずか数年でまた陸奥国に統合された。奥知れぬこの国の中北部は、慢性的な戦闘状態にあって、国力は大きく統合しておく必要があったからである。

2012年03月18日(日) 歴史小説 鶴ヶ城物語(364)
     ◇歴史に見る古代の會津(14)

 天智天皇の頃の陸奥国は、現在の福島県を版図としていたと思われるから、その北、宮城県の、さらにその北部にあたる信太郎の人が、ここに登場するはずはないので、信太は信夫の誤りであろう。 
 しかし、この頃、陸奥国をそのような外国遠征に動員したとは考えにくい面もあるので、この陸奥国は常陸国の誤りではなかろうか。
 そうだとすると、奈良時代の會津は、東国並みの政治的風土を形成するという点で、東北を代表していたことが想像される。それは、會津における中央的政治支配の成立が、非常に古い歴史を持っていたことに関係すると思われるのである。

2012年03月17日(土) 歴史小説 鶴ヶ城物語(363)
     ◇歴史に見る古代の會津(13)

 古代国家は、その四周に孤立した山間の地勢を、東国・北国・奥羽を一つに結ぶ自然の要塞として、積極的に基地化した。大彦命と武渟川別命をここに落ち合わせたのは、そのことを物語っている。
 大塚山古墳は、物をもってそのことを立証する。その出土品は東日本でも有数な物ばかりである。それは古代政治が、ここを一つの拠点基地としてみなしていた証拠といってよい。
 福島県内で万葉集に名を残す土地としては、會津嶺、安太多良、安積山、真野の草原などがある。従って、奈良時代に入ると、會津が特に重視されていたとはいえないかもしれない。
 『続日本記』の慶雲4年(707)には、陸奥国信太郎の生王五百足という者が天地天皇の時の白村江の戦いに加わり、捕虜となったが、40年余経って帰国することができたので、これに衣類や塩、穀物を与えた記述がある。

2012年03月16日(金) 歴史小説 鶴ヶ城物語(362)
     ◇歴史に見る古代の會津(12)

 古代の會津では、どのような道が、この地を四方に結んでいたのか、今日からは想像も出来ないほど、道の奥中にじっと閉じこもった山国であった。
 地図を見ると分るように、下総、上野、越後、出羽、陸奥本国が、四方からこの国を押し込めるように取り囲んでいる。
 近代に入っても、有名な土木県令三島通庸が明治初期、着任早々の大事業として會津を四方へ開く、いわゆる三方道路を企画して?れが福島事件の発端をなしているが、それほど山国會津の孤独を、広く四周の国に開放することが、長いことこの国の悲願となっていたのである。
 筆者註 しかし、この説は誤りのようだ。わが国への仏教伝来は563年、百済から伝わったとされているが、會津には越後の阿賀野川を遡って中国・簗の僧青巌が直接仏教を伝えた、という伝承があるのだ。文化を伝えるのは、道だけではない。船もあったのだ。こういう伝承を見逃しており、この説には賛成出来ない。

2012年03月15日(木) 歴史小説 鶴ヶ城物語(361)
     ◇歴史に見る古代の會津(11)

 本居宣長は、「国」というのは、東日本で屋敷の周りや垣に植え巡らした立木のことを「くね」というのと語源が一緒で、「限る」意味であるとした。その通りであろう。
 国とは、まず、自然が自ずから、これとそれを境した一画のことである。政治の国はこの自然の国に従って、それぞれの支配を区別した。
 日本書紀の成務天皇条に
「山河を隔(さか)いて国県を分かち、阡陌(せんぱく=南北の通路、東西の通路)に随いて以て邑里を定む」
といっているのが、それを示している。
 會津は山国である。広い平野もその中にもっている。しかし、四方を山に囲まれて、四周からまったく孤立していた太古の會津に比べて、一本の道が長く通じていた木曽の方が、まだ開けた国だと言える。

2012年03月14日(水) 歴史小説 鶴ヶ城物語(360)
     ◇歴史に見る古代の會津(10)

 数ある出土品のうち、最も興味をそそるのは、前述の三角縁神獣鏡と並んで、靭(ゆき)と紡錘車である。
 鏡をもし、埋葬者の族長の帯びた政治的権威の象徴であるとするならば、靭は、鎧、兜に身を固めて、馬上四方を攻めとった武将の象徴であろう。数多い刀や鏃は、この武力を構成する諸要因である。
 そして紡錘車は、會津における富を支配した領主権の象徴でもあろうか。碧玉製の丹朱に輝くその美しさは、芸術品といってよい。実用品か単なる模造品か、問題があるのも、尤もである。これは模造品で、実用されたのではないと思われる。
 靭によって男の弭(ゆはず=弓の両端の弦をかける部分)の調(みつぎ=古代の物品税)が象徴されていたとすれば、この紡錘車では、女の手末(たなすえ=手の先)の調が象徴されていたともいえるのではなかろうか。
 井上靖が古墳と正倉院との組みになるカットグラスから、妖婉に空想した、あの『玉碗記』のおもいが、この紡錘車からは限りなく紡ぎ出されてくるのである。
 大命彦と武渟川別命たちは、こういう地元族長たちを巡撫し、天皇に代わって、その労をねぎらい、ここに副葬されている物のうち最も高貴な物を授けては、その協力体制を固めていった。會津国は、このようにして4世紀には、最も北に寄った「塞外の国」として、北と東の落ち合いを取り持つ山間の廊下をなしていた。

2012年03月13日(火) 歴史小説 鶴ヶ城物語(359)
     ◇歴史に見る古代の會津(9)

 第二に、昭和39年(1964)5月、大塚山古墳が発掘されたことの意味は大きい。前期古墳の前方後円墳で、4世紀中頃と推定され、豊富な出土遺物によって、畿内文化との直接交渉がたどられるばかりでなく、三角縁三神二獣鏡(註)は、岡山県和気郡の丸山古墳と鏡と同じ鋳型で作られた同笵鏡であり、これらは畿内の政治的権威、つまり大和朝廷から権威の分身として分かち与えられたものであろうことが分かって来て、国の史跡に指定された。
 この古墳に眠っていた支配者のもとに會津盆地は統一されて、4世紀中頃までには、さらに大和朝廷に支配下に入っていたのではないか、ということになる。
 そうなれば、4〜5世紀頃の北方経営が、會津を経路として、越国と東(あずま)国とを結び付けていたとしても、少しも不思議はない。
 (註)発掘された当時は三角縁「二神二獣鏡」とされて国の史跡指定を受けたが、その後の調査で三神二獣鏡と判明した曰く付きの鏡。現在も大塚山の古墳現場に「二神二獣鏡」として史跡指定という看板がある。文化庁のその後の処置の悪さを示している。

2012年03月12日(月) 歴史小説 鶴ヶ城物語(358)
     ◇歴史に見る古代の會津(8)

 前述の史実は、様々な事柄によって証明することができる。まず、承
和2年(835)の太政官符(政令)は、古記録によって、白河、菊多両関が置かれたのは、今から400年前であると言っている。
 これによれば、白河、菊多両関が北関東と東北とを境したのは、5世紀の初めごろと考えらる。ところで、それらの関の維持には、防衛地帯として最小限、経営は、その北にも及んでいなければならない。そうして、菊多と白河を結んで、南と北とを堺する防衛戦を延長し、これを越国の北を限る境界線に結ぶ陸の回廊が、つまり會津だったのである。

2012年03月11日(日) 閑 話
     ◇大震災から1年

 東北大震災からちょうど1年、時間のたつのは早い。被災3県には、2200万トンという桁外れの瓦礫の山。引き受けようとする自治体がない。これで「絆」といえようか。神奈川県がいい例だ。知事が引き受けを表明したが、地元横須賀市民がノー。
 こんな時、友人の地名研究家、楠原佑介さんが『この地名が危ない』というタイムリーな本を出した。(幻冬社新書)
 例えば、津波で900人を越す犠牲者を出した宮城県名取市。「な」は古語で土地を意味し、「とり」は土地が削り取られたことを指す。つまり、津波が地面を削り取った土地ーと解説。
 今回、かろうじて損壊を免れた福島第2原発も、津波の危険性が大きい。同原発のある福島県楢葉町波倉の「倉」は「刳(く)る」が名詞化した語で、「地面が抉られたような地形」に使われることが多いという。文字通り、波が抉った土地というわけだ。
 近い将来、予想される房総半島沖の地震。半島南端の安房地方の「安房」は本来は海の中にあったものが地震による隆起で暴かれる土地、という。東海地震で心配されるのは鎌倉市。「かま」は竈や釜の由来でもあり、穴のように凹んだ所だ。13世紀の100年間で7回の大きな地震、津波に襲われたことを語り継ぐ必要がありそうだ。

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2012年03月10日(土) 歴史小説 鶴ヶ城物語(357)
     ◇歴史に見る古代の會津(7)

 大彦命と武渟川別命とが、肩を抱き合って泣きあう物語は、東北の歴史、開巻の第一ページを飾る挿話である、しかしながら、この人たちは、そのような劇的物語を通して、もっともっと奥行きのある歴史事実を物語っている。
 いうまでもなく、大彦命には、幾代となく続いた北国経営の歴史が、また武渟川別命には、またそれに劣らず長く久しい東国経営の歴史が、英雄伝説の形をとって集約されている。
 とすれば、この二人の英雄を、わざわざ東と西に折れ曲がらせて?津に相会せしめているのはこの地が、古代大和朝廷時代における北と東の落ち合う場所として、周知のことであったからであろう。
 相津という地名が、それと別な理由で知られているとすれば、こういう地名伝説になるはずはないのである。北国と東国の経営は、北越と北関東とを會津で結ぶ線を、北の限界としていたー大彦命と武渟川別命の伝説は、古代史におけるそのような事実を物語っているのである。

2012年03月09日(金) 歴史小説 鶴ヶ城物語(356)
     ◇歴史に見る古代の會津(6)

 こうして二人の息子は、異境万里の果てに、目出たく使命を終えて、相会する。會津というのは相津である。親子の将軍がここに劇的な出会いをもったからそういうのだ。
 古事記はこう説明している。これは東北地方が、具体的な物語を以て記紀の伝承に登場する殆ど唯一の例である。
 古事記の神武天皇条には、道奥石城国造という言葉があるが、物語ではない。日本武尊の東征条には、葺蒲、玉浦、竹水門などの地名や嶋津神、国津神らの名前が出るが、この地名や神名を、具体的な土地に比定したり、人格神に当てて考えたりすることは出来ない。
 そうしてみると、東北の歴史の中で、ひとり會津だけが、確かな地名伝説を残していることになる。これは、古代史における會津の位置を考える上で、見逃すことができない意味をもつもののように思える。

2012年03月08日(木) 歴史小説 鶴ヶ城物語(355)
     ◇歴史に見る古代の會津(5)

 命にもいっぺんに人恋しい思いがおそってきた。日本武尊も、この辺りを通っては、さすがに
「新治筑波を過ぎて、幾夜か寝つる」
と感慨をもらさねばならないのである。
 命の足は急に早くなった。父大彦命の折れ向かって来る国、いや、恐らくその子がそこまで来るのを待っているだろう、會津を目指して、命は常陸国を下り切った国境の道を、すぐに左へ折れ曲がった。
 それは、多分、久慈川を遡って白川にかかる道であったろう。越国からは會津を通って東国へ、そして東国からは逆に會津を通って越国へ。會津は北国と東国とを一つに結ぶ山間の国である。政治の道もこの自然の道に導かれていたのである。

2012年03月07日(水) 歴史小説 鶴ヶ城物語(354)
     ◇歴史に見る古代の會津(4)

 さて、武渟川別命の東海経営は、古事記では東方十二道経営とされている。道というのは国のことであるが、その東方十二国というのは、伊勢・尾張以東の東海道諸国で、陸奥国もその中に入ると、古事記は考証している。
 但し、それは陸奥国という正式の国がそこにあったというのではなしに、後に陸奥国と呼ばれる道の奥にも、大和朝廷の勢力が、一部及んでいたという程度の意味で国扱いされたのである。
 東方十二道というのは、そんなわけで、越国などとは比較にならないほど、苦労の多い長途の旅である。それはこのすぐ後、古代の英雄日本武尊が東征する道を地ならしするような宣撫の旅でもあった。
 ふと、若い男女の笑いどよめく声を聞きとめて、命は、
「ここはどこか」
と問う。伴の者は、前方に男体・女体が向き合う山を指して、
「筑波嶺が見える」
といった。

2012年03月06日(火) 歴史小説 鶴ヶ城物語(353)
     ◇歴史に見る古代の會津(3)

 大彦命が高志国経営を命ぜられた時には、その子の武渟川別命(たけぬなわかわけみこと)は東海方面に、吉備津彦は西道に、丹羽道主命は丹羽に、それぞれ派遣された。「四道将軍」というのが、それである。
 ただ、このように、四道将軍をあげているのは、日本書紀だけで、古事記には、大彦命と武渟川別命の二人しかあげていない。
 してみると、四道将軍の物語の中で、本当に物語として意味を持っていたのは、北国経営と東国経営だけだったということになる。というのも、当時、北国、東国が蝦夷国だったからなのである。
 物語の伝えでは、その経営と言うのは、「まつろはぬ(服従しない)人たち」ないし「遠き荒(くに)の人たち」をことむけやわす(いうことを聞かせる)ことだったとだけあるが、平安時代初期の『新撰性氏録』という本の難波忌寸(なにわのいみき)の条は、大彦命のこの巡撫を蝦夷征伐とよんでいる。これは、当時の四方経営の中心問題が蝦夷経営にあったことを示すものである。

2012年03月05日(月) 歴史小説 鶴ヶ城物語(352)
     ◇歴史に見る古代の會津(2)

 この方面(越国)の奥に、渟足柵(ぬたりのき)、磐舟柵(いわふねのき)が造られて、信濃川、阿賀川の中州地帯を北に越えて越後平野が安定するのは、大化改新後の大化3年(647)及び4年のことである。
 大彦命の巡撫といわれるものは、恐らく、この両川付近を北限としていたであろう。都を出てから、もう何年になろうか。
 「夏も身にしむ越の山嵐」。後世でもそう謡われた北国である。命は急に恩郷の念に駆られて道を右にとった。それは、越国から東国を経て帰京する道、東に連山を臨む會津越えの道であった。

2012年03月04日(日) 歴史小説 鶴ヶ城物語(351)
     ◇歴史に見る古代の會津(1)

 古事記、日本書紀に會津は登場する。高志国(こしのくに)の巡撫を命ぜられ、大彦命が北国の経営にあたったのは、10代崇神天皇10年の頃からであった。
 山城国から近江国へ、そして恐らくは後世、義経・弁慶主従も越えたであろう愛発山(あらちのやま)の難所を通って、高志国つまり越国に入ったのは、それからさらに何年か経ってのことであろう。
 大彦命は、山代国(山城国)で、崇神天皇の命を狙う者がいると予言する乙女に逢い、急を告げるため一旦都に帰り、天皇と協議の結果、山代国にいる武埴安彦(たけはにやすひこ)の謀反を知って、まず、その征討にあたっている。北国経営は、その後になるのである。
 当時、というと、大和朝廷時代の北陸地方は、越前、越中、越後すべてを含めて、ただ越国とだけ称していた。まして加賀・能登などの分国はなお先のことである。越後方面の経営が、ようやく信濃川流域から阿賀川流域に及んだだけであって、北方の異変に備えて、越国は一国にまとまった防衛態勢をとっていなければならなかった。

2012年03月03日(土) 歴史小説 鶴ヶ城物語(350)
     ◇鶴ヶ城あれこれ(最終回)

 桝形を経て城門に入るには、全部右回りになっている。また枡形門は渡櫓門になっていたので、裏側に石段がついているのを見逃してはならない。
 天守閣を五層にする時、全部を解体して各層の形を整え、土台から組み立てた。蒲生時代には天守台いっぱいに建てられていたが、明成は西北に寄せて小形に建てたので、東と南に空地が設けられた。従って地下の穴蔵も蒲生時代のを変更して、新しい天守の中心に合わせて造られたのである。
 本丸の南方の濠は、葦名時代に深い牛沼という沼があったのを、氏郷が濠に利用したと言われている。土塁は緩い傾斜であったため、防御の上から土塁の上の石垣に「横矢がかり」といわれる屈曲をつけたのも、明成の寛永の改築である。
 うっかり見過ごすことが多いが、注意を要する。石垣の屈曲は西出丸の四方の石垣や、太鼓門前の枡形の東北石垣に見られる。(完)

2012年03月02日(金) 歴史小説 鶴ヶ城物語(349)
     ◇鶴ヶ城あれこれ(6)

 北出丸、西出丸、帯郭の入り口に全部「枡形」を設けたのは、明成の寛永修築の時である。殊に、追手筋を北に変更したので、北出丸の枡形や、北出丸から坂を上がって帯郭に入る太鼓門にかかる枡形には、城中では最も大きな石で石積みされている。
 勿論、追手筋を堅固に守るためではあるが、一方では、威厳を示す意味も多分に含まれている。太鼓門を南に廻ると、「坂合わせの武者走り」という鶴ヶ城には1か所しかない、珍しい施設も見られ、ここの堅固さが伺われる。
     ◇   ◇   ◇
 週2回通っているリハビリ施設で、会津出身という婆さんがいた。顕彰会の会報を持参して、少しは會津をPRしようとしたら、「亡くなった主人は会津若松市出身です」。
名簿を調べたら旧制会津中学43回卒であった。千葉大名誉教授で、元国立千葉病院の院長とか。
 身の回りに会津出身がいたものだ。会津高校の大先輩で、七日町に自宅があったという。
「私も会津田島町出身です」のおまけもつき、話が弾んだ。

2012年03月01日(木) 歴史小説 鶴ヶ城物語(348)
     ◇鶴ヶ城あれこれ(5)

 蒲生時代には本丸に入る追手筋(表玄関)、搦手筋(裏門)を守る「馬出」というものを、「馬出郭」といわれるような大きな郭(通称北出丸、西出丸といわれている)にまで拡張して、以前あった郭の配置と相まって、城防御の完備を期したことである。
 試みに帯郭の北にある城内稲荷社の東方に立って、下を俯瞰するがよい。北出丸に入る道が屈曲しているので、そこを通って入る者は、濠を隔てた二の丸の一段低い通称「伏兵郭」といわれる所から、側面、背面を攻撃され、一歩も北出丸に近付けないようになっていることが判るだろう。西出丸においてもまた同様であって、城防御の堅固さが伺われる。
 また、天守台から走長屋を出して、本丸と帯郭とに分け、本丸の守りを固めた。本丸に入る門を鉄門(くろがねもん)という。門の木部を鉄板で包んだ明成時代の門は残っていないが、当時、門の木部を鉄板で包むことは最も進んだ技術であるといわれ、明成は本丸防備のため、それを採用したのである。

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