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2012年12月31日(月) |
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論語(3) |
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子曰、「巧言令色、鮮矣仁」
子曰わく、巧言令色、鮮(すく)なし仁
意味は、先生が言った。「巧みに言葉を飾ったり、人に気に入れられようと顔色を取り繕ったりする人物には、仁の徳がほとんどないものだ」と。
◇ ◇ ◇
平成24年も今日でお終い。年をとると、それだけ時間、時が過ぎるのが早く感じる。年末になって自民党に政権が代わったことで、記憶に残る年になった。
思い起こせば平成17年10月末、故郷・会津若松市の菩提寺で倒れて7年が過ぎた。片輪になりながら、千葉日報や福島民友で「士魂は何処へ」を連載して房総半島会津藩士顕彰会を立ち上げ、以来、毎年6月に会津藩士の墓地にお詣りして、異郷の地で亡くなった藩士と家族の御霊を慰めてきた。
我ながらよくやったと、自分を褒めてやりたい。
この間、飯野藩士(千葉県富津市)の子孫とも初めて連絡がとれ、活動の幅も広がった。また、熊本の佐川官兵衛顕彰会とも交流が始まり、「会津藩士」をキーワードに友好の輪ができた。「絆」は、わが顕彰会の会報の題字に使用しているが、東日本大震災以降、全国で使うようになってきた。先見性があった、のだ。これは自慢だ。
来年は「会津の年」だ。明るい年にしたい。それでは皆さん、よい年を! |
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2012年12月30日(日) |
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論語(2) |
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子曰、「学而時習之、不亦説呼、有朋自遠方来、不亦楽呼、人不知而不慍、不亦君子呼」
子曰(のたま)わく、「学びて時に之を習う、亦(また)説(よろこ)ばしからずや、朋(とも)有り遠方より来る、亦楽しからずや、人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや」
意味は、先生が言った。「習った事をいつもおさらいし、しっかりと身につけていく、何と喜ばしいことではないか。このようにして知識が豊かになれば、志を同じくする友達が遠路もいとわず訪ねてきて、学問について話し合うようになる。
これはまた、何と楽しい事ではないか。しかし、いくら勉強しても、この自分を認めてくれない人が世間には居るものだ。そうした人が居たとしても、怨まない。それでこそ、学徳共に優れた君子(人格の完成した人)ではないか」と。 |
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2012年12月29日(土) |
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論語(1) |
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年末年始は論語を勉強する。論語は孔子が弟子たちと交わした言行録である。会話や行動が短い文章で500章にまとめられている。その内から適当に拾って紹介する。
子曰、「為政以徳、譬如下北辰居其所、而衆星共上之」
読みは、子のたまわく、「政(まつりごと)を為すに徳を以てすれば、譬えば北辰其の所に居りて、衆星之に共(むか)うが如し」
先生が言った。「政治をするのに徳(人格)によって行えば天下の人心は自らその為政者に帰服するようになる。ことさらに政治的な手段を用いなくとも、秩序は保たれる。
ちょうど北極星がいつも同じ所に居て、多くの星がそれを中心に秩序正しく運行するようなものである」と。
安倍新政権には、王道でいって欲しい。民主党のような、小手先のごまかしのばらまき政治は、化けの皮が剥がされたのを、お手本にして欲しい。 |
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2012年12月28日(金) |
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閑話 |
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通っているリハビリが今日でお終い。今年1月から通い始めて合計101回にのぼった。1回も休まず皆勤。作業療法士、理学療法士交代の30分の治療が”売り”だ。毎週火曜、金曜日の2回で、よく休まずに通ったものだ。
午前中、水を呑んり、読書したりと、器具を使った運動の合間にのんびり過ごすのがいい。気分も晴れる。
脳溢血で倒れて以来、2か所目だが、前に通っていた所は午前中2時間だけで、療法士などは置いておらず、惚け老人もいたので不満が強かったが、それもなく、ゆったりした半日を過ごしてきた。
車での送迎にしても、ドライバーは親切で、安心して乗っていられる。左半身が痺れている障害程度が回復することはないが、現状維持できれば最高だ。加齢に従って運動能力も落ちるので、今後は、如何に低下するのを僅かにするかーにかかる。 |
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2012年12月27日(木) |
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新島八重(最終回) |
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大正時代となり、八重は同志社大学の経営には依然として関わりをもち、多方面で社会奉仕活動で活躍していた。そうした大正13年(1924)、大正天皇の皇后が同志社女学校を行啓されたが、その際、八重は単独で謁見を許されるなど、その道の第一人者となっていた。
昭和3年(1928)旧会津藩最後の藩主松平容保の孫勢津子妃が秩父宮家に嫁がれるという、會津の人間にとっては「賊軍」の汚名を晴らせる、目出度い出来事に触れ、八重は感涙にむせんだという。
さらに、昭和天皇の即位の大礼に際しては天杯を受けるという名誉にも恵まれ、八重の後半生は、それまでの努力が認められて、栄誉に囲まれた。
八重は最晩年の昭和6年(1931)、菩提寺である故郷会津若松市慶山の大龍寺に「山本家之墓」碑を建立し、気持を整理して、同7年(1932)、87歳の波乱に富んだ人生を閉じた。
現在、会津若松市では、同志社大学と協力して大河ドラマをチャンスとして捉えて、観光面で盛り上げようと懸命だ。会津名物ソースカツ丼などを売り出しており、来年は是非とも、戊辰戦争の原点、会津を訪れて欲しい。(完) |
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2012年12月26日(水) |
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新島八重(9) |
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明治38年(1905)、遂に日露戦争が勃発した。中国大陸での地上戦、それに続く日本海海戦での聯合艦隊によるバルチック艦隊殲滅などによって辛うじて日本は勝利を収めた。実際は、アメリカによる仲介による結果で、日本はロシアから賠償金を得ることはなかった。
怒った国民は日比谷公会堂を焼き打ちにするなど、現実を知らないことが如何に恐ろしい結果を招くかを示した。
この戦争にも、八重は篤志看護婦として従軍し、負傷兵の手当てにあたった。これが認められ、翌年、勲六等宝冠章を受賞した。
◇ ◇ ◇
本日の衆議院で自民党の安倍晋三総裁が第96代首相に選出された。5年前に続く再登板で、これは戦後の吉田茂首相についで2人目。衆議院では圧倒的多数で選ばれたが、参議院では第1回投票で決着がつかず、決選投票になった。
安倍首相には、民主党政権で壊れた日米同盟関係や経済問題、周辺国との関係など山積する課題に果敢に取り組んで、まず、不況からの脱出をお願いしたい。
福島県郡山出身の根本匠代議士が復興相に就任するので、震災と原発被害に苦しむ福島県民のために汗をかいて欲しい。彼とは知り合いで、郡山の婦人らを議員会館に連れて行き、国会を見学させたこともあった。
当時は、首相補佐官で忙しかったようだが、反面、地元に帰らないーことなどで前回は苦杯を舐めた。今度は大臣だから力強く頑張れ! |
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2012年12月25日(火) |
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新島八重(8) |
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「什の掟」は、数年前、ベストセラーになった藤原正彦の『国家の品格』でも紹介された。第七条、戸外で女の人と話してはいけないーを除けば、現在の教育に充分通用する内用だ。いじめ問題は後を断たず、社会問題になっている現代こそ、会津藩の教育が必要であろう。
筆者は千葉県内で中学生らを対象に講演する際、必ず、この「什の掟」を全員で読み上げさせ、身に付けてもらうよう努力している。
さて、八重だが、明治31年(1898)には京都婦人慈善会の理事となって一般社会でも福祉活動を展開する。
そして同34年(1901)、愛国婦人会京都支部を立ち上げるため、創立委員となり、設立と同時に臨時評議員となった。
こうした空気の中、ロシアの南下政策に、侵略される恐れありーという気運が強まった。ロシアと手を結ぶか、戦かーと国論は二分されたが、やがて日露戦争へと繋がって行く。 |
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2012年12月24日(月) |
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新島八重(7) |
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八重の社会奉仕活動は続く。弱者はいたわらねばならないーという精神に支えられていた。会津藩時代、男子は6歳から9歳までの間、「什」の仲間を作り、什の掟を立てて遊んでいた。什とは、中国の軍隊用語で、10人単位のことだ。
1、年長者のいうことに、背いてはなりませぬ
2、年長者にはお辞儀をせねばなりませぬ
3、虚言(うそ)をいってはなりませぬ
4、卑怯な振舞いをしてはなりませぬ
5、弱い者をいじめてはなりあませぬ
6、戸外で物を食べてはいけませぬ
6、戸外で女の人と言葉を交えてはなりませぬ
7、ならぬことはなりませぬ
というのが掟で、これを破ったら、軽くて「しっぺ」、重いと「派切り」といって仲間外れになった。仲間に入れてもらうには、親か兄弟と一緒に仲間を回って謝るーという厳しい掟であった。
こうした男子の什を身近にしていた八重に弱者を労る気持が芽生えたは必然であったのだ。 |
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2012年12月23日(日) |
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新島八重(6) |
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明治8年(1875)、八重はアメリカ留学から帰国した新島襄と運命的な出会いをし、初めてキリスト教式の結婚式を挙げる。前年に覚馬らの尽力で学校敷地を得て同志社英学校を開いた新島襄と二人で、キリスト教の伝導に尽す。
新島襄は伝導のため全国を回り、その過労から明治23年(1890)急死する。が、八重は、その遺志を引き継いで英学校を守るため、私有財産を全額同志社に寄付すると共に、キリスト教の伝導も引き継いだ。
その後、日本赤十字社の正社員となり、同28年(1895)には終身社員となり、前年に勃発した日清戦争では、篤志看護婦として戦場に駆け付け、負傷兵の看護に尽した。この功績が認められて、民間の女性として初の勲七等宝冠章を受けた。明治新政府が叙勲制度を設けて初の女性の叙勲であった。
戊辰戦争で和製ジャンヌ・ダルクと呼ばれ、今、ナイチンゲールと呼ばれるようになった。
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八重が大河ドラマに登場するので、早くもラジオの電波から「八重」という歌謡曲が流れた。須賀川市の出身(だと思うが)の島津亜矢という肥った歌手が、八重が鶴ヶ城から立ち退く際に簪で壁に刻んだ詩「明日の夜は〜」を枕の台詞にしてしっとりと歌っていた。来年はヒット間違いなし。
また本日の読売新聞日曜版で1月6日にスタートするドラマ「八重の桜」や1月2日、テレビ東京の新春ワイド時代劇「白虎隊」も紹介されている。主演は家老西郷頼母役の北大路欣也。
会津藩が国営と民間放送で登場する訳で、来年は「会津の年」となる。明治の薩長藩閥政治によって歴史の表舞台から消された会津藩の復権の年だ。
ただ、われわれ会津人にとって、西郷頼母は婦女子21人が自刃したのを尻目に鶴ヶ城から敵前逃亡した卑怯ものと映っており、複雑な気持ではある。 |
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2012年12月22日(土) |
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新島八重(5) |
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上記のような清冽な藩風の会津藩士の娘として生まれた山本八重は、婦女子が自害する際には、足首を結んでやること、と教えられて育っただけに、1日に2千数百発もの砲弾を受けながらの籠城戦を戦い抜いたのだ。
さて開城後、八重は上京し、兄覚馬を頼って京都へ出る。覚馬は鳥羽・伏見の戦で負傷して捕えられた。牢の中で盲目となりながら、新生日本の政治、教育、外交などの論文を発表し、注目を集めた。会津藩の教育水準の高さを天下に示したわけで、その後、京都府知事から顧問に迎えられ、活躍していた。
八重は覚馬の推薦で府職員となり、日本初の女学校、女紅場(じょこうば=後の府立第一高等女学校)の舎監兼教師となる。
◇ ◇ ◇
衆議院総選挙で自民党が大勝し、民主党は惨めな惨敗を喫して、大臣どもが「選挙で負けたのは野田のせい」と情けない同士打ちをする有様。近代政党とはとっても思えない。
こんなみっともない政党を応援したのが朝日新聞だ。民主党政権が誕生した際、「朝日新聞は民主党を応援しています」と販売局が電話してきて販促をしたのだ。3年3か月の不様な決められない政治は断罪を受けた。朝日新聞も断罪されてしかるべきなのだが・・・ |
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2012年12月21日(金) |
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新島八重(4) |
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何故、会津藩が、かようにも度重なる、過酷な海岸防備を担当しなければならなかったのか?それには、会津藩が背負った運命がある。
会津藩祖保科正之は、徳川二代将軍秀忠の側室お静が腹を痛めた子供だ。秀忠の正室はお江与、織田信長の妹お市の方の3人姉妹の三女だ。長女は、いわずと知れたお茶々(淀君)で、二女お初が京極隆次の正室である。
秀忠は、正室お江与の嫉妬心の強いのを畏れて生涯側室を置かなかった。だが、たった一度の浮気の結果が正之であった。だから正之は三代将軍家光の異母弟にあたる。
正之(幼名幸松)は、お江与の毒殺を怖れて、秘かに信州・高遠藩主保科正光(二万石)の養子に出された。やがて家督を譲られた正之は、異母兄家光に見い出され、20万石の出羽・最上藩主、さらに23万石会津藩主と出世して行く。
このため正之は、将軍家へのご奉公が第一と考え、寛文8年(1668)「家訓15か条」を定めた。第一条に「大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非らず、面々決して従うべからず」と、将軍への忠節を説いている。
この家訓は幕末まで受け継がれ、会津藩は引くに引けない土壇場に追い詰められて行くのだ。 |
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2012年12月20日(木) |
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新島八重(3) |
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何故、戊辰戦争が起きたのか。徳川幕府が開幕以来250年が経ち、文化、文政の時代を迎えると、幕藩体制に綻びが見られ、周辺には異国船が出没して開国、通商を迫ってきた。
これに対応するため、幕府は会津藩を中心に、海岸防備に務めた。文化5年(1805)会津藩は蝦夷地防備(1年)を命じられたのを始め、同7年には江戸湾防備のため相模湾防備を担当(10年間)、さらに上総防備も担当(7年間)した。
これだけではない、アメリカの東インド洋艦隊司令長官、ペリー提督が浦賀に来航した嘉永6年(1953)秋には品川第2砲台の防備を担当した(2年)。
これだけなら、会津藩が西国雄藩の恨みを一身に背負うことはなかった。直接の原因は文久2年(1862)会津藩主9代松平容保が京都守護職を引き受けたことにあった。討幕の志士らが横行し、京都町奉行所では取り締まれなくなった京の治安を守るため、新たに京都守護職を置いたのだ。会津藩は新選組を支配下において浪士狩りを行い、各藩の恨みを買った。
第一次、第2次長州征伐などを経て、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦が勃発、薩長軍中心の西軍が江戸へ、会津へと攻め上った。
◇ ◇ ◇
最近の新聞で懐かしい2人が登場した。17日、東京都知事選で圧倒的な大差で当選した猪瀬直樹氏と、18日に死去した日本将棋連盟会長の米長邦雄氏だ。
お二人とも子会社に出向していた当時、地元郡山市内の中小企業経営者を対象に開いた講演会に迎えた。猪瀬さんは道路公団民営化で名を挙げ、辛口の批評で知られていた。ノンフィクションを書いた時代の思い出などを語ってくれ、参加者は納得していた。
一方、米長さんは知識が豊富で、東京都の教育委員を務めたほど学識もあった。「兄貴三人は頭が悪いから東大に入った。自分は頭が良いから将棋指しになった」と発言して参加者を笑わせた。 |
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2012年12月19日(水) |
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新島八重(2) |
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八重は、会津藩砲術指南、15石山本権八の5人兄弟の三女として弘化2年(1845)に生まれた。家庭環境から幼い時から砲術を学び、操作を覚え、近所の白虎隊士に銃の扱いを教えたほどであった。
元治元年(1865)藩校・日新館の砲術教授川崎尚之助と結婚する。尚之助は、八重の兄覚馬が日新館へ招いた但馬国出石藩の医師の子で、慶応4年(1868)戊辰戦争で鶴ヶ城の籠城戦が始まると、会津藩士と共に戦った。
八重は、その年の正月、鳥羽・伏見の戦で負傷し、亡くなった弟三郎の形見の装束を身にまとい、銃を片手に鶴ヶ城に入城。圧倒的な西軍の銃火器に対抗して撃ちまくった。
籠城1か月、会津藩は降服し、藩士ら4500人は本州最北端の斗南(現青森県むつ市)に挙藩流刑される。八重は、鶴ヶ城を離れる際、「明日の夜は 何国の誰かながむらん なれし大城に残す月影」の詩を簪で壁に刻み込んだ。
八重は女性だったので流刑は免れ、鳥羽・伏見の戦で負傷し、京で捕われ、その後京都府顧問になっていた兄覚馬を頼って京都に出る。 |
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2012年12月18日(火) |
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新島八重(1) |
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来年の大河ドラマ「八重の桜」が正月にスタートするが、地元会津若松市は最大限に盛り上げ、観光客誘致に利用しようと、あの手この手の作戦を展開中だ。例えば、三の丸にあった会津図書館跡の建物に「大河ドラマ館」を作って会津のジャンヌダルク、ナイチンゲールなどの異名を持つ八重の生涯を紹介する展示館をドラマスタートに合わせてオープンする。
市内では、会津名物ソースカツ丼や名物馬刺、饅頭のテンプラなどを売り込もうと待ち構えている。来年から観光は会津へ、会津へ。
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294ー57ー54ー53強。何の数字かお分かりかな? そう今回の総選挙の当選者の数だ。自民党、その次は四分の一に激減した民主党、それに日本維新である。最後は投票率。
安部・自民党の政権復帰で、株価は上がるし、アメリカのオバマ大統領からは祝意が届くなど、「待っていた」自民党の復権である。
思えば、3年3か月の間、日米関係はこじれ、中国、韓国との軋轢は増し、中国船が連日、尖閣諸島周辺に出現し、空からは飛行機が領空侵犯する始末。日本は「なめられた」。すべて民主党の失政によるものだ。
党の綱領さえない寄せ集めの集団であり、離党、除名を繰り返した挙句、かつてない多党化を迎えた。投票率は下がり、若者にそっぽを向かれた。
現役閣僚8人が落選する前代未聞の珍事がおき、壊滅的な大敗だった。落選し、只の大臣の恨み節が聞こえてきた。
安部新総理には十二分に腕を振るい、閉息感のある日本を明るくして欲しい。 |
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2012年12月17日(月) |
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昭和天皇(33) |
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昭和61年(1986)4月、陛下は、在位60年を迎えられ、厳かに記念式典が開かれた。既に85歳のご高齢になられ、健康もすぐれない時が多くなった。
その後、体調を崩され、「下血」という宮内庁の発表が度々繰り返された。マスコミは「その時」に備えて万全の報道態勢を敷いた。病院、宮内庁、政府間系、民間の関係者などあらゆる方面での取材に全力を傾けた。
読売新聞でも政治部、社会部だけでは間に合わず、全国の支局から記者を動員し、一週間ずつで取材の裏方を務めた。当時は長野支局長であったが、若い記者を順番で応援に出した記憶がある。
こうした取材態勢は数年続いたが、昭和64年(1989)1月、遂に昭和天皇は崩御された。87歳の長い、波乱に富んだ人生であった。
一連の行事があった後、当時の官房長官が新しい時代の称号は「平成」とする発表をしたのは記憶に残る。(完)
明日から、来年のNHKの大河ドラマの主人公「新島八重」を書き込む。 |
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2012年12月16日(日) |
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昭和天皇(32) |
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昭和39年(1964)10月、東京オリンピックが開かれた。アジアでは最初のオリンピックであった。これに間に合わせるため、東海道新幹線がスタートした。日本はオリンピックムードに湧いた。陛下63歳であった。
さらに45年(1970)3月には、大阪で日本万国博覧会が開かれた。高度成長の象徴ともいわれた万国博開催で、国民の多くが、豊かな将来への夢を膨らませた。
アメリカの施政下にあった沖縄では、ベトナム戦争で基地使用の頻度が高まり、住民の抗議の声も強くなり、祖国復帰運動が盛んになった。
佐藤栄作首相は、非核3原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)を表明し、核抜きで基地を維持するという条件で、沖縄返還への同意をアメリカから取り付け、昭和47年(1972)5月、沖縄の本土復帰が実現した。陛下71歳。
そして、昭和50年(1975)9月、御夫妻はアメリカ訪問の旅に出発され、アメリカ各地で日米親善に大きく貢献された。74歳。
陛下はこれに先立って、「アメリカに行く前に沖縄に行けないか」と宮内庁長官の宇佐美毅に下問され、沖縄訪問をたびたび口に出されたが、生涯、沖縄訪問は叶わなかった。 |
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2012年12月15日(土) |
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昭和天皇(31) |
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昭和34年(1959)皇太子と美智子妃のご成婚が行われ、都内を馬車でパレードするお二人に国民は旗を振り、声をかけてお祝した。テレビで放映され、都内の下宿で観たことを思い出した。まさに日本晴れであった。初めて民間人からお妃が選ばれたことも国民を熱狂させた。
日本が独立を回復し、復興に務めている間、目を世界に向けると、自由民主主義対社会主義という思想の戦いが展開され、昭和40年(1965)アメリカは、北ベトナムと対立する南ベトナムを支援するため軍隊を派遣し、中国やソ連が援助する北ベトナムと戦いが始まった。ベトナム戦争である。
アメリカはナパーム弾など化学兵器も使った大掛かりな作戦を実行したが、勝利を収めることが出来ず、アメリカ本国や日本始め各国からアメリカの軍事介入を非難する声が高まったため、48年(1973)アメリカはベトナムから撤退。2年後には北ベトナムが南を軍事力で併合し、ベトナム社会主義共和国が誕生した。 |
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2012年12月14日(金) |
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閑話 |
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今日は、6時に起きて朝食を作り、一人で食べ、洗濯もやった。早起きは午前9時からのリハビリのための送迎車に乗るためだ。午前中いっぱいかかって理学療法士のもみ治療を受けたり、器具で体操したり、自転車を漕いだりと活発な運動をやってきた。
帰宅して、慌ただしく昼食をとり、モノレールで千葉へ。駅前のみずほ銀で2か月に1度の年金を下ろし、年末ジャンボで6億円の夢を買う。片輪なので歩きは鈍く、往復で2時間もかかり、家に着いたらぐったり。リハビリを2日続けてやったような疲れだ。
本日のブログはやりたくない気分なので、これでお終い。叱れた! |
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2012年12月13日(木) |
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昭和天皇(30) |
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昭和26年(1951)9月、サンフランシスコで講和会議が開かれ、日本はアメリカを中心に、自由主義陣営48カ国とサンフランシスコ講和条約を結んだ。さらに、アメリカと日米安全保障条約を結び、米軍の日本駐留を認めた。昭和天皇50歳であった。
翌27年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復した。しかし、沖縄はアメリカの施政下におかれた。
昭和29年(1954)防衛力強化の約束で、警察予備隊は自衛隊に改編された。独立と同時に、日本はアメリカの要請を受け、台湾の中華民国と講和条約を結んだ。また、独立したアジア諸国に、戦争の被害に対する賠償を開始した。
ソ連は、国後、択捉など北方4島を日本の領土と認めないため、日ソ間には平和条約は締結出来ず、昭和31年(1956)10月、日ソ共同宣言で戦争状態を集結し、国交を回復した。
これでソ連の反対がなくなり、同年12月、日本は国際連合に加盟して国際社会に復帰した。陛下55歳であった。 |
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2012年12月12日(水) |
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昭和天皇(29) |
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昭和25年(1950)6月、北朝鮮は突如、南北の武力統一を目指し、韓国へ侵攻した。朝鮮戦争の勃発である。これに対してマッカーサーが指揮するアメリカ軍主体の国連軍が反撃し、北朝鮮を中国国境付近まで追い詰めた。
ところが、今度は中国が北朝鮮側について参戦し、国連軍を押し返し、北緯38度線付近で、戦況は停滞した。28年(1953)に休戦協定が締結されたが、この戦争で日本に駐留するアメリカ軍が朝鮮に出撃したので、それを補う目的で、日本はGHQの指令によって警察予備隊を設置した。日本はアメリカ軍の多くの物資を供給し、太平洋戦争で疲弊した経済は息を吹き返した。(朝鮮特需)
朝鮮戦争をきっかけに、アメリカは、基地の存続と防衛力強化を条件に日本の独立を早めようと考えた。ソ連の脅威から自国を防衛するという日本の国益にもかなっていたので、時の首相吉田茂は経済復興優先で小規模の防衛力強化を認めた。
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本日、北朝鮮が長距離弾道弾ミサイルを発射した。東アジアの平和と安定のため反対している国際世論を敵に回しての蛮行である。金王朝3代目が血迷ったのか。馬鹿な国である。それを庇う支那もまた馬鹿である、
こんな下らないことをやって何の得があるというのか。人民が可哀想だ。 |
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2012年12月11日(火) |
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昭和天皇(28) |
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占領軍は昭和21年(1946)5月から極東軍事裁判所を開廷し、戦争中の指導的な軍人や政治家を「平和に対する罪」などを犯した戦争犯罪者(戦犯)であるとして裁判にかけた。23年11月、彼等はすべて有罪と宣告され、東条英機以下7人が絞首刑に処せられた。
この裁判は、戦勝国から裁判官が選ばれ、審理でも、検察官のあげる証拠の多くがそのまま採用され、弁護側の申請する証拠調べは却下されることが多かった。第一、「平和に対する罪」は自衛戦争ではない戦争を開始することを罪とするものであったが、こうした罪で国家の指導者を罰することは過去になかった。
ただ一人、国際法の専門家であったインドのパール判事は「国際法上の根拠を欠く」として全員の無罪を主張した。しかし、GHQはパール判事の意見書の公表を禁じ、その他、一切の裁判への批判をさせなかった。
昭和天皇47歳であった。
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このほど刊行した『会津人群像』第22号で、明治23年、(1890)若松町に住んでいた旧会津藩士の名前を掲載した。士族として894名が若松に戻っていたことが分り、家老を務めた諏訪伊助や初代若松市長だった秋山清八の名前が確認できる。
戊辰戦争時、4000名が生き残り、多くは本州最北端の斗南(現むつ市)に流されたが、その内の22%が若松に戻っていたことになる。
貴重な史料なので、藩士の子孫が判明したら、是非とも連絡して欲しい。 |
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2012年12月10日(月) |
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昭和天皇(27) |
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第731部隊の続き。昨日は中途半端で終ったので追加。
駐在した成田支局の管内は成田市と山武郡芝山町が主であったが、問題は芝山町。空港からの税金が落ちるのは成田市が主で、芝山町は騒音だけーという特殊事情から空港反対派の牙城であった。三里塚・芝山連合空港反対同盟の中心勢力行動隊と青年行動隊、それに少年行動隊、老人行動隊が結成され、反対運動の中心をなしてきた。
その中でも千代田地区は空港のすぐ側で、731部隊の産みの親石井四郎中将の故郷だ。農民の中にも子孫がいたに違いないが、しかし、731部隊について語られることはなかった。一人としていなかった。
さて昭和天皇だが、全国巡幸の中で、会津若松市にも巡幸された。昭和22年(1947)8月18日である。夏の暑い盛りで、写真は銃を持ったMPに守られた白い背広着用の天皇が市役所を訪れた時のもので、陛下は帽子を振って出迎えの人たちに応えられている。
出迎える左側から2人目が我が父である。この4月、第一回普通選挙法が施行され、市議会議員選挙に立候補した父は見事第3位で当選した。その際、筆者は小学校一年生で、応援弁士として「来る30日の選挙には私のお父さんを宜敷くお願いします」と演説した。子供弁士は始めての登場で人気を呼んだ様だ。懐かしい思い出である。 |
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2012年12月09日(日) |
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昭和天皇(26) |
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第731部隊については、後日談がある。筆者は成田空港問題の専門記者であった。成田には通算10年以上勤務した。代執行ー開港ー2期工事着工と節目節目に起用された。いやいやながらではあったが、「大義は農民にあり」が信条だった。今でも誇りに思う。
話を本筋に戻す。敗戦の翌年、昭和21年(1946)1月、昭和天皇は「人間宣言」をされた。現人神から人間になられたのである。GHQでは、政治、経済に大きな影響力を持っていた治安維持法の廃止、財閥の解体、国家神道の廃止、軍国主義教育の禁止などを次々と実施した。
このほか、各界の指導者20万人を公職追放し、日本軍国主義の基本法である大日本帝国憲法の改正を迫った。21年2月、GHQは自ら作成した憲法草案を日本政府に示した。日本政府は、この草案に基づいて11月、日本国憲法が公布され、22年5月3日、施行された。
人間宣言をされた昭和天皇は21年2月から23年にかけて全国を巡行された。会津若松市を訪れられたのは22年8月であった。 |
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2012年12月08日(土) |
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昭和天皇(25) |
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GHQ当局による石井四郎尋問の前に、日本の某所で石井ー北野会談が極秘に行われた。犯罪もみ消しのためにするアメリカ軍当局の温情だった。石井と北野は丸一日の情報交換と相談の機会が与えられ、口裏を合わせて秘匿すべき事項を守り、来るべき尋問に備えた。
この結果、GHQ当局の尋問は形式だけのものとなり、
「石井四郎以下の幹部は所在不明。731は戦犯に値しない」
という見解がソ連側に伝えられた。世界史上空前の細菌戦を行い、3000人以上の人間を抹殺し、”消費”した第731部隊はほとんど無傷のまま戦後の日本に生き延びた。
石井はこの後、アメリカ軍から東京・四谷に元海軍関係宿舎を改装したアメリカ兵慰安施設(いわゆるパンパン宿)を1軒与えられ、女たちに売春させながら朝鮮から持ち帰った731関係のデータ整理に当たっていた。
戦後の昭和20年(1945)の冬から翌年の春先にかけて731部隊の本部があった平房付近全域を、猛烈なペストが襲った。義発源という村では1日平均10人が亡くなり、400戸が全滅した。(参考文献『悪魔の飽食』(森村誠一著) |
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2012年12月07日(金) |
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昭和天皇(24) |
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潰走列車の群れは安東から新義州を経て8月中、下旬に朝鮮半島の釜山に到着した。帰還船は8月18日から25日前後にかけて佐世保、博多、舞鶴、敦賀、門司、仙崎(山口県)、萩などの港に着いた。
「全隊員に告ぐ、諸君らは次の3項目を厳に守られたい。郷里へ帰った後も731に在籍した事実を隠す、あらゆる公職には就かぬこと、隊員相互の連絡は厳禁」ー731隊員に伝えられた命令であった。
石井四郎は終戦直後、東京・新宿区若松町で焼け残った建物を利用して旅館を経営していたが、アメリカ占領軍から呼び出しを受けた。昭和20年(1945)冬であった。
極東軍事裁判開廷にあたってソ連は満州第731部隊石井四郎部隊長以下指導的幹部の取り調べと処罰を要求した。
だが、石井はいち早くGHQに取り入り、秘かに持ち帰った731関係資料をアメリカ軍に提供し、自己の保身を図った。
当時、世界最新の細菌戦データの山を入手したアメリカ軍は狂喜し、既に上海で捕虜収容所に捕われていた北野政次(1942〜45年の部隊長)をこっそりと日本へ帰国させたのである。 |
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2012年12月06日(木) |
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昭和天皇(23) |
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潰走する第731部隊員と家族を乗せた専用列車は、8月11日から15日にかけて15本(1本20両編成)を数えた。多くは、15日夕刻、奉天で、また新京(長春)の手前で終戦(敗戦)を知った。
「日本には、アメリカ軍が上陸し、女は全員強姦されているらしい」「日本全土至る所が爆撃され、家族は四散している」「新京はソ連軍に占領され、市街戦が始まっている」などのアングラ情報が、終戦を告げる昭和天皇の詔勅と並行して貨車から貨車へ伝わった。
専用列車を運転していた中国人運転手はいち早く逃亡したため、後発組の貨車は新京付近で一日中、止まったまま動かなかった。隊員たちは貨車の床に積み上げた米、味噌、醤油などを路線脇に持ち出して、付近の中国人部落に忍び込み、鶏舎を襲って鶏を盗み出し、急ごしらえの食事を作った。
こんなこともあった。16日の夜、貨車が新京駅で停車中、石井部隊長の演説があった。
「日本は負けた。お前たちを内地へ帰すが、731の秘密はどこまでも守ってもらいたい。もし軍事秘密を漏らした者がいたら、この石井がどこまでも追い掛けるぞ!」 |
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2012年12月05日(水) |
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昭和天皇(22) |
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席上、部隊長の石井四郎中将は驚くべき発言をした。「ソ連軍の進撃途上にあるハイラル、林口、孫呉、牡丹江の731部隊員には全員自決するよう命じた。現在収容中の丸太は一人残らず殺害する。部隊施設は工兵隊の手で爆破する」などであった。もし施設がソ連軍の手に落ちれば、3000人に及ぶ丸太生体実験の悪魔の所業が明るみになり、731部隊全員が戦争責任の責めを問われるーという理由であった。
これには、第1部長の菊地少将が猛烈に反対した。「731部隊には有能な研究員が多く、徒に自決を押し付けるよりも、各支部の救出を練ることが先決だ」。
結局、石井が折れ、部隊員は家族と共に内地引き揚げが決まった。この間、石井は次の3つのことをした。
@731部隊が蓄積した細菌戦準備のための各種資料と膨大な実験データなどを日本に持ち帰る
A部隊員の引き上げ列車の優先的通過
B特別班員の緊急避難。3番目は丸太を専門に管理する隊員である。
そして丸太は殺害された。この時、40人の丸太が収容されていたが、全員、毒ガスで殺害された。 |
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2012年12月04日(火) |
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昭和天皇(21) |
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「ソ連軍越境開始」の報は、満州全土を大混乱に陥れた。新京(長春)上空に現われたソ連軍爆撃機による空爆を、多くの人々は米軍機によるものと錯角したエピソードは知られている。
ソ連の戦術は、研究し尽された用意周到なものであった。空軍が鉄道、軍事施設、飛行場を爆撃した後、9日夜半から10日未明にかけて、戦車を先頭に、機甲部隊が怒濤のように進軍し、最大で1日50キロの進攻速度であった。
10日午前1時、沿海州地方からソ連軍第1極東方面軍先遣支隊が国境を越え、ハルピンー吉林方面に向って進撃を開始した。元ソ連国防相のマリノフスキー元帥の回想録によれば、午前8時30分には国境から20キロ地点に浸入、日本軍守備陣をやすやすと突破し、砲兵の援護射撃は殆ど不要であったという。
第731部隊の様子は?石井部隊長の姿はなかったが、平穏であったようだ。関東軍司令部は、陸軍参謀本部からの指示や各部隊からの緊急連絡が殺到し、火事場のような騒ぎだった。
石井部隊長が戻ったのは10日夜、直ちに撤収作戦会議が開かれた。 |
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2012年12月03日(月) |
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昭和天皇(20) |
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逼迫した情勢の中で、ネズミの「300万匹増産」を目指し大号令が下りた。ネズミ捕獲のため特攻隊が組織された。またペスト・ノミの増産も10億匹(300キログラム)が目標とされた。
しかし、こうした狂気の細菌戦の計画は昭和20年(1945)8月9日のソ連軍対日戦闘で終焉を迎えた。9日午前零時から1時にかけてソ連軍の満州、朝鮮進攻が始まった。総司令会ワシレフスキー元帥のもと、ザバイカル方面軍、外蒙騎兵軍団、第2極東方面軍など併せて150万のソ連軍が5500台の戦車、5000機に及ぶ空軍機と共に雪崩を打って国境を越え、満州と朝鮮半島に進撃したのである。
これより先の4月5日、ソ連は日本との中立条約を破棄していた。この年の2月、クリミア半島のヤルタ会談でアメリカ、イギリスとの間で、「ソ連軍はドイツ降伏後、3か月以内に対日参戦する」ことが確認され、直後の5月、ドイツは無条件降服し、連合軍相手に戦うのは日本軍だけとなっていた。 |
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2012年12月02日(日) |
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昭和天皇(19) |
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第731部隊の崩潰をもたらしのは昭和20年(1945)8月に始まったソ連軍の対日参戦であった。
既にその前年、ニューギニア戦線で全面敗北を喫した日本軍は、サイパン島守備軍全滅(7月)、ビルマ雲南方面戦線での全面潰走(9月)、台湾沖空戦による決定的敗北(同)と壊滅の一途を辿っていた。
満州の関東軍70万といっても実態は朝鮮人、中国人を併せた人数であり、小銃は5人に1丁がやっとという有様だった。関東軍が握っていた唯一の近代兵器は第731部隊の各種細菌と毒物であったのだ。
同年3月、日ソ開戦は必至の情勢と、総力を挙げて細菌製造に取り組んだ。既に部隊は、ペスト菌の乾燥保存ー乾燥菌製造技術を開発し、通常ペスト菌の60倍の毒性を持つ変性菌を産出していた。
ペスト菌を中心に、井戸水や貯水地に投げ込むチフス菌、コレラ菌、河や牧場を汚染する脾脱疽菌を向こう2か月間に生産せよーとの命令が下りたのは、5月10日のことであった。
731部隊が敗戦直前に「使用OK」として保存した各種細菌は、「全部を理想的にばらまけば、地球上の人類は悉く死んでしまう」(元隊員の話)量に達していた。 |
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2012年12月01日(土) |
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昭和天皇(18) |
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満州に王道楽土を建設し、5族協和(モンゴル人、満州人、漢人、朝鮮人、日本人の5民族が仲良くすること)の理想国を作るのだーという日本軍部の喧伝が、日本国民のほとんどの目を塞ぎ、軍部自らも、こうした理屈に酔っていた。
関東軍の進軍は王道楽土のための聖戦であり、これに刃向かう者は悉く、殺傷してよい、という邪論であった。
「我々の行う作戦は、貧乏な日本を富ませ、アジアの平和に役立つ、と信じて疑わなかった。だからマルタは人間じゃない、畜生以下の存在だった。731部隊の軍属、軍人全員がマルタは殺されて当然だと確信していた」ーは元隊員の証言だ。
3000人以上の人間を生きたまま細菌戦用の実験材料として殺し、悪魔の暴虐をほしいままにした731部隊に、やがて崩潰と逃亡の日がやってきた。 |
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