会津の歴史
河野十四生の歴史ワールド
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3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
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 日本の電気事業
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 家訓15か条と什の誓い
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 軍都・若松
11月10日〜12月17日
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12月18日〜12月27日
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 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
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8月30日〜11月17日
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 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
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3月5日〜3月12日
 木更津異聞
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 若松町役場の会津藩士
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 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
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 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
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 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
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 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2012年09月30日(日) 軍都・若松(86)
 当時、武装越南同盟軍は武器弾薬が皆無に等しい状況だったため武器や医薬品を手に入れるため、日本軍に執拗に接触し、ベトコンへの加入者は部隊の指揮官として将校や下士官に任命し、安南美人を妻とし、家も与えるーなどの条件を提示し、独立運動に対する熱意はたいしたものであった。
 日本将兵の中には独立義勇軍に身を投じ、反仏運動に参加した者が53名を数えた。ベトコンの戦闘は専ら日本軍の戦法を用い、奇襲ゲリラ戦法で連合軍に多大な損害を与えた。
 連合軍はベトコンのゲリラ戦に手を焼き、捕虜である日本兵に対し、暴動鎮圧の軍事作戦に出動させる命令を下した。連合軍はベトコン討伐は不可能であったのだ。
 このため山中第1大隊は首都サイゴンの治安維持にあたり、藤木第3大隊はダラット、ファンランなどの警備についた。
 ベトコンとの交戦で穴沢嘉夫大尉以下20数名の戦死、負傷者を出したのは悲憤に堪えない。終戦になり、捕虜となった者が、再び銃をとって独立運動の志士と交戦し、戦死者を出す愚かさは痛憤の極みであった。
2012年09月29日(土) 軍都・若松(85)
 29聯隊は、連合軍の上陸作戦に対する訓練と、日夜、教育演習を実施していたが、8月15日、天皇の終戦を宣言する重大放送に接し、一同、突然の敗戦を知り、悲憤痛哭その極みに達した。
 しかし、三宅聯隊長の統率の下、将兵一同、厳粛裡に終戦業務を遂行した。軍旗は三宅聯隊長自らビエンホア飛行場脇のゴム林の中で奉焼した。その後、8月下旬、聯隊はビエンホアに部隊を集結した。
 当時、ベトナムの状況は無法化して治安は乱れ、日本軍は敗者となり、再び、フランス軍が権力を取り戻していた。日本軍は武装解除され、名目上、ベトナムはフランスの植民地となっていたが、独立志向の民衆が各地で蜂起して無政府状態だった。
 これに代わってイギリス軍が南部ベトナムを、中国が北部ベトナムの治安維持を担当する形になったが、地方の拠点を押さえるのが精一杯だった。
 かくして反仏運動の実態は、北部ベトナムのハノイで立ち上げたホーチミンを盟主とする越南独立同盟であった。そしてベトナム民主共和国の独立を宣言し、南部ミトにもコーチシナ臨時独立政府が樹立された。
2012年09月28日(金) 軍都・若松(84)
 山中第1大隊は野砲第2聯隊と協力してサイゴンーショロン間の防衛陣地の構築、原田第2大隊はカンボジアの首都プノンペンを中心としてプルサットーカンポットータチオの線に陣地を構築した。
 藤木第3大隊はコーチンナ州ツドウモ、ビエンホアなどに分駐し、次期作戦準備に入った。聯隊本部はビエンホアに置いた。防衛陣地構築は、将兵の昼夜兼行の努力により、8月1日、概ね完了した。
 このため第2師団は対連合軍の決戦に備えて部隊の一部を改編した。歩兵29聯隊は東部のビエンホアに、山中第1大隊をビエンホア飛行場軽微に、原田第2大隊をロンタン地区に、藤木第3大隊をアプタタンーホンカンーダラットに配備した。
 この頃の日本軍は制海権、制空権を失い、敗戦が目の前だった。昭和20年3月10日、首都東京の大空襲、海では巨大戦艦大和に4月5日、出撃命令が下った。大和は「海上特攻隊」として片道の燃料を積んで4月7日午前11時、広島の呉海軍基地を出港した。
 米軍の攻撃に晒されている沖縄の海岸に突っ込み、米軍を攻撃せよーという無謀な命令であった。しかし、出撃命令の暗号電報は米軍に解読されていた。午後零時32分、米軍空母から出撃した艦載機が次々と襲い掛かり、午後2時半、大和は東シナ海に沈没した。
2012年09月27日(木) 軍都・若松(83)
 また、コンポンクナンのフランス幼年学校とプルサットの保安隊に対する奇襲も成功した。山中第1大隊はサイゴン市内とその周辺に作戦行動を開始し、マルタン兵営やチェホァ保安隊、ベルダン兵営などでは若干の抵抗があったが、間もなく鎮圧に成功した。
 聯隊は逃亡したフランス軍将兵討伐のため、5月2日までに作戦を続行し、その間?死者7名、負傷者16名を出したが、南部仏印を完全に平定した。
 しかし、連合軍の上陸作戦に備えて日夜、陣地を構築し、対上陸作戦の猛訓を続けた。
 その一方で、現地人による保安隊の結成、教育訓練に努力した。保安隊の編成では、一般民衆は次々志願して、幹部将校に新聞記者や教師などインテリが集まり、その独立への覚醒はすごいものであった。
2012年09月26日(水) 軍都・若松(82)
 午後9時15分、ドーク総督から回答が届く。内容は「回答期限の延期と武力発動の中止」だった。午後10時、第38軍司令官土橋勇逸中将は明号作戦に断を下した。
 「武力攻撃を開始せよ」の無電を受けた29聯隊は、主力の直轄部隊及び藤木第3大隊がスットットレン、クラチエ、パクセの仏軍及び保安隊を奇襲、又、メコン川の仏軍砲艦を撃沈した。3月10日払暁までに武力処理を完了した。
 原田第2大隊はロミャスの仏軍1個旅団の奇襲であった。大隊長原田少佐は部下の犠牲を考えて完全武装した将兵15名をトラックに分乗させ、ロメヤス兵営の正面から浸入し、旅団長に武装解除を命令した。
 しかし、旅団長は断乎拒否したため、大隊はやむなく、ロメヤス兵営を完全に包囲し、赤信号弾を合図に全重火器が火を吹いた。
 わが軍の奇襲に仏軍は反撃することなく約3000名の仏軍は降服した。時に3月10日午前3時だった。
2012年09月25日(火) 軍都・若松(81)
 3月9日、駐仏印の松本俊一日本大使は午後6時、フランスのドーク総督に対して
「仏印軍及び保安隊を日本軍の統一指揮に入れよ。同時に必要な全機関を日本軍の管理下に置くべし。仏印軍は忠実に日本軍の要請に即応すべし」
という強硬な要求を突き付けた。
 但し、2時間以内に前面的受諾の応答をせよ。応答がなければ仏印全土に日本軍は軍事行動を開始するーという2項目を付け加えた。聯隊の全将兵は今や遅しと軍の命令を待った。
000ー攻撃中止
333ー攻撃開始せよ
という暗号を待っていた。
2012年09月24日(月) 軍都・若松(80)
 29聯隊はメコン川にのぞむストットレンに本部を置き、山中第1大隊は南ベトナムの首都サイゴンとその周辺ショロンとタイニンに進駐し、原田第2大隊はカンボジアのトレンサープ湖南岸地域のコンポクナン、プルサット、ロメヤス周辺に進駐、藤木第3大隊はカンボジアからラオスにかけクラチエ、パクセ、ハータン、ケマラに配備を完了した。
 この間、将兵は階級章を取り外し、軍属集団として武器を隠して行動する一方、小部隊として演習部隊に化けて配備につく有様だった。 
 また、聯隊将兵はフランス軍の状況を連日連夜偵察し、将兵各自は突撃地点まで緻密に行動し、作戦計画が完了したのは3月6日であった。
 当時、仏印はビルマ戦線とは異なって平和そのもので、一般民衆も水牛に戯れて誠にのんびりした風景であった。
2012年09月23日(日) 軍都・若松(79)
 さて、歩兵第29聯隊の動きだが。
 南方総軍の決戦兵力として第2師団(馬奈木敬信中将)主力はビルマから転身、2月中旬から3月中旬にかけて南ベトナムのトレンサーブ湖南岸よりメコン流域に配備が完了した。29聯隊が完了したのは3月9日であった。
 当時、仏印は日仏軍事協定に基づきフランス総督ドークが統治し、比較的親日的であったが、日本軍の戦況が逐次、不利になるにつれて反日の雰囲気が高まった。在仏印10万のフランス軍の動向も日増しに悪化し、連合軍と密接な連携行動を始めた。
 そして連合軍の仏印上陸に呼応して内部から反乱を起こし、日本軍に対して挟撃作戦行動を起こすなど、極めて危険な状態だった。
 これに対処するため、29聯隊はラオスとカンボジア、南ベトナムの主要な軍事目標に対し、隠密裡に進駐作戦を敢行した。
2012年09月22日(土) 軍都・若松(78)
 インドシナの国々は、中国の秦始皇帝の時代から政略に遭い、さらにインド勢力の浸入、西欧勢力の圧力が繰り返され、18世紀からフランスの圧政のもとに民衆は塗炭の苦しみを味わっていた。
 独立への熱望に燃える志士は常に弾圧され、南シナ海の孤島プロコンドール島には、政治犯として投獄され、故国と絶縁状態におかれた人々が多かった。
 それが昭和20年(1945)3月9日、日本軍の明号作戦(武力クーデター)によってフランスの圧政を排除し、ベトナム、カンボジャ、ラオスの3国は永年の独立を達成した。民衆の歓喜は全土に広がった。
 その後、日本の敗戦で再び、フランスの植民地となるのだが、ベトナムでは、独立運動の火が吹き、昭和29年(1954)春、北部ベトナムのデインビンフーの戦闘でフランス軍はベトナム軍のモグラ作戦に敗れ、仏印から手を引くことになった。ベトナムは一つの国にまとまるはずであったが、共産党革命軍の誕生によって南北ベトナムに分断された。その後、3国は自由主義と共産主義の戦いが続き、アメリカの介入に以て血みどろの戦いが展開されたのは、歴史が証明している。
2012年09月21日(金) 軍都・若松(77)
 一方、アキヤブから転進中の第1大隊は9月3日、芒市に到着し、師団予備隊となっていたが、13日から二の山攻撃を開始した。ここは歩兵第16聯隊勝俣少佐指揮の大隊が攻撃中であったが、これに代わって敵の反撃が極めて強かったが、逆襲の反撃を繰り返し、ようやく占領することができた。
 ここに、歩兵第29聯隊は、9月中旬、竜陵地区に兵力を集中し、転進以来、全将兵一同に会したのである。聯隊は直ちに竜守備隊となり、約1か月間、敵と交戦し、敵の反攻を挫折せしめた。
 こうして勇第2師団は10月4日、竜陵地区の守備を竜兵団に譲り、森ビルマ方面軍司令官の直属となり、次期作戦準備のため、中部ビルマに転身した。この作戦に29聯隊は1802名が参加し、291名が戦死、398名が負傷した。
 さらに聯隊はピンナマに集結中、内地から角田栄一中尉以下600名の補充を得て戦力が充実し、昭和20年1月中旬、南方総軍寺内寿一元帥の予備隊として1月29日、仏印カンボジア目指して泰麺鉄道で一路南下した。
2012年09月20日(木) 軍都・若松(76)
 9月2日夜、第3大隊は青葉山を夜襲した。大隊長滋野少佐と第9中隊長多田中尉、第11中隊長阿部中尉が負傷して、第10中隊長千葉守夫大尉が大隊の指揮をとることに。
 続いて9月4日、払暁から竜陵一の山攻撃を始めると、千葉大尉が戦死して代わって第3機関銃隊長穴沢嘉夫中尉が指揮をとることになり、目まぐるしく指揮官が代わった。
 この間、突撃が6回も行われ、竜陵一の山を占領した。聯隊は3か月に亘り竜陵地区に連日連夜の攻撃を展開し、藤木第2大隊をようやく収容することができた。その感激や言語を絶するものであった。
 一方、原田少佐指揮する第2大隊は三の山攻撃を命じられ、9月3日薄暮から攻撃を開始し、切込み隊の反復夜襲で4日午前3時、占領した。
 第3大隊は関金一郎大尉が着任して大隊の指揮をとることになった。9月10日朝、第五山を攻撃中、またも戦死してしまった。激戦が続き、相田小隊は全滅してしまう。再び、藤木大佐が第3大隊長に任命された。このように、断作戦は3人の大隊長が戦死、負傷すると云う、戦闘の熾烈さを物語っていた。
2012年09月19日(水) 軍都・若松(75)
 一方、聯隊主力は昭和19年7月19日、サンドウェーから急遽、転進を始め、第1大隊はアキヤブから7月28日転進を開始した。敵の空襲下、しかも雨期のビルマの悪路は部隊の行動を妨げた。しかし、第2大隊救援のため、将兵は黙々と竜陵へ進軍した。
 主力は8月27日、芒市に入り、昆集団司令官本田征材中将、勇第2師団岡崎清三郎中将、竜師団長松山祐三中将、それに断作戦主任参謀辻政信大佐が派遣され、断作戦という雲南反撃作戦が火蓋を切った。
 第2大隊長原田少佐は野戦病院で治療中だったが、聯隊が転進したのを知って治療中の80名の負傷兵を指揮して8月29日、久し振りに三宅聯隊長の元に復帰し固い握手を交わした。三宅聯隊長はモールの激戦に際し、感激の流すほどの人情聯隊長であった。
     ◇   ◇   ◇
 このブログを読んで青森から菅野さんという、お若い方が書き込んでくれた。若松聯隊に興味をもって調べている、という。青森と會津は、斗南以来、深い縁がある。この13日には、わが母校會津高校2年生が修学旅行でむつ市を訪問し、剣舞を奉納したようだ。菅野さんも、もしかしたら會津藩士と関係があるのでは?と思ったりしている。ブログの楽しみだ。
2012年09月18日(火) 軍都・若松(74)
 4月3日、歩兵第4聯隊長一刈大佐のもとに配属され、一刈支隊となってモールのイギリス空挺部隊の基地を攻撃することになった。
 モールはマンダレーとミットキーナの中間にある戸数50戸足らずの小部落で、東北に小高い山が5つ、東西2キロ南北2キロにジャングルがあって、東南には水田や鉄道が通っていた。
 この陣地に対して竜兵団の1コ中隊が南方から攻撃し、壊滅的な打撃を与えた。満月がジャングルを通して美しい。時折、自動火器の銃声が聞こえる。
 この結果、モール陣地は増永調所大隊が占領したものと思っていたが、実は増永少佐以下多数の戦死者を出して攻撃が失敗したことを知った。7日、大隊は正面に敵の攻撃を受けたが、戦闘数時間、ようやく敵を追い払った。
 9日、13日、14日と聯隊は敵飛行場を攻撃したが頑強な抵抗に遭い、攻撃は失敗し、多数の犠牲者を出した。
 敵がモール陣地を撤退したのは5月初旬であった。
2012年09月17日(月) 軍都・若松(73)
 大隊長原田少佐は、第6中隊成田末太郎中尉、第7中隊長新城猪之助中尉、第2機関銃中隊穴沢嘉夫中尉らを指揮してテキジン部落の石原中島自動車隊を攻撃中のイギリス空挺部隊に対して猛烈な攻撃を始めた。精鋭部隊の果敢な攻撃で敵は算を乱して西方に潰走した。石原隊を収容したのは3月26日夕刻であった。
 大隊は尚も敗走する敵を追撃し、イラワジ河支流のナザー地点まで52キロを一挙に追撃した。時に27日午前1時、敵はナザー部落に露営中だった600名と遭遇、ジャングル内でこれを補足、銃砲声突撃の時の声が混ぜあう乱戦となったが、敵は死体を遺棄して迫撃砲、重軽機、火焔放射器に無線、食糧を放棄して四散した。
 このように大隊はイギリス空挺部隊に対して大いなる打撃を与え、大戦果を飾った。その後、再び、テキジン部落に敵の攻撃を受け、反転してインドーテキジン地区の掃討作戦を続行した。
2012年09月16日(日) 軍都・若松(72)
 第2大隊はイギリス空挺部隊との戦闘について。インドーはインパールのミットキーナに通じる交通の要衝で、東北地方には美しいインドー湖があり、小さな町であったが、廃虚と化していた。3月26日午前2時、銃声が聞こえてきた。愈々、戦場にきたという感じを深くする将兵は緊張した。
 独立混成旅団は林少将と幕僚第4聯隊一刈勇策大佐が司令部になり、部隊は原田大隊のみであった。
 林少将は原田大隊長に対し、「敵状は全然不明である。石原自動車部隊は目下、イギリス空挺部隊の攻撃を受けて奮戦中で、聞こえる銃声の通りだ。到着早々、御苦労だが、威力偵察を行って敵状を報告してくれ」と命じた。
     ◇   ◇   ◇
 今日は、近くの作草部神社の祭礼だ。午前10時過ぎには、氏子らがお囃子を奏で始めた。10人ほどの子供らが、ミニお神輿を担いで付近を回る。神社周囲は古木が生い茂り、現在はほとんど姿を消した鎮守様のお祭だ。屋台も3軒出て、子供が綿飴などを買い求めていた。
 ここいらは「稲毛区作草部」と地名の通り、百姓の住む地区だ。勿論、歴史上にも登場しない。昭和53年以来、住んでいるが、今持って妻は地名を嫌う。歴史上、有名な城下町に生まれ、育ってきた小生も好きではない。現役時代、成田と本社に近いーという理由で住んだまでのこと。愛着などまったくなし。気候だけが取り柄だ。
2012年09月15日(土) 軍都・若松(71)
 サンドウエーを防備中だった第2大隊は3月23日、急遽、独立混成第24旅団長林少将に配属の命令を受け、イギリス空挺部隊攻撃のため、北ビルマインドーに鉄道輸送で転進を開始した。
 一方、第1大隊は在タンガップ第54師団に配属され、タンガップに急行したが、アキヤブ方面が戦雲急を告げたため、再び、第55師団に配属を変更され、大隊長、副官はマグエ・ランミヨウからアキヤブへ空輸となったが、再び、アラカンへ引き返し、夕刻、ブローム渡河点で敵機の大空襲を受けた。しかし、対空行動がよかったので、負傷者は1名だけだった。
 やがて3月9日、敵の意表をついてアキヤブ海岸地区に進出、ピー川方面に増援、インド領内に活発に遊撃戦を展開した。
 また第2大隊はマンダレー経由でイラワジ河を渡り、3月26日早朝、インドに到着した。しかし、全兵力が集結したのではなく、第5中隊の機関銃2個小隊はマライから転進中で、後続を待たずに大隊主力は転進したのである。
2012年09月14日(金) 軍都・若松(70)
 ビルマ決戦に対する第29聯隊の編成と作戦行動はー。
聯隊長は三宅健三郎大佐、第1大隊長ー山中豊吉少佐、第2大隊長ー原田久則少佐、第3大隊長ー滋野茂少佐であった。
 マレーに時期作戦準備と警備を兼務していた勇第2師団は、ビルマの戦雲急を告げてビルマ転進の命を受け、歩兵第29聯隊も新しい軍旗のもと、2月26日までにビルマのレパタンに集結した。当時、聯隊本部はカマウスにあって、南岸のサンドウェーを中心とした海岸線防備の任務を受けていた。
 3月中旬、ビルマ北部に英国ウィンゲート少将指揮下の空挺旅団が降下し、インパール攻撃中の菊第18師団の補給露を遮断する作戦を開始した。
     ◇   ◇   ◇
 千葉県木更津市の地域紙、房総時事新聞社が8月末で廃刊したーとの連絡を受けて驚いている。昭和40年代、木更津に勤務していた頃からの知り合いであった同紙の責任者と交誼を続けており、房総半島会津藩士顕彰会の慰霊祭の記事を掲載して貰ったほか、地域に関する話題を提供してきた。
 多分に木更津地方の読者に、顕彰会の有り様を知らせる役目をしてもらった。同紙は60年余の歴史に幕を降ろしたが、最近、新聞離れの風潮も一因であろう。ゲームに熱中し、電車内でも、そのような若者が多い。実に嘆かわしい。そのうち、大新聞も姿を消すーことになりはしないか、不安だ。
2012年09月13日(木) 軍都・若松(69)
 昭和19年(1944)2月頃における彼我戦況の概況はー連合軍は英国のマウントバッテン元帥を総司令官として、インパールに英印軍3個師団、アキヤブ方面に同じく5個師団、フーコン地区に米支2個師団、雲南怒江地区に米式重慶軍14個師団の大軍を配置。ビルマ方面の日本軍に対して西北方及び東北地区から挟撃作戦を開始した。
 これに呼応して北部ビルマカーサ地区に英国ウインゲート少将旗下の空挺団が降下し、日本軍第一線の後方遮断並びに後方の遊撃戦を開始中であった。
 対して日本のビルマ方面軍司令官河辺中将指揮下の菊第18師団、竜第56師団、北第55師団、弓第33師団の4個師団であったので、軍は急遽、列第31師団、祭第15師団、兵第54師団、勇第2師団の4個師団を救援し、ここにビルマ決戦が開始された。
2012年09月12日(水) 軍都・若松(68)
 ガタルカナル島での悲劇的な敗戦を後世に残すため、わが29聯隊の昭和17年10月24日現在の将校一覧と戦死者、行方不明者の数を掲載する。
 聯隊長ー古宮正次郎陸軍大佐▽第1大隊長ー中島耕平大尉
▽第2大隊長ー渡部勝利中佐▽第3大隊長ー吉井忠雄少佐▽旗手ー犬塚芳雄少尉
 上陸部隊の総兵力は32206人▽第2師団ー10318人
▽第29聯隊2453人
 ◇死没者総数21541人▽第2師団ー7671人
▽第29聯隊2153人(撤退者は僅か300人)
 このように第29聯隊は全滅の敗戦だったが、国内には一切、知らされなかた。
 つぎはビルマ作戦に移る。
     ◇   ◇   ◇
 全日本柔道連盟は、先のロンドン五輪で金メダルが男女で1個という惨敗に終った男子監督篠原信一、女子監督園田隆二の両監督について、引き続き監督をやらせることになった。特に、男子は金メダルゼロという前代未聞の負けっぷりなのに、柔道界はけじめもつけようとしない。こんなことではブラジル五輪でも、負けは決まったようだ。
 歴史的な惨敗に危機感をもって若手を指導しようとする指導者はいないのか。お家芸の柔道なのだ。われこそは、と手を挙げて鍛え直す指導者が欲しい。
2012年09月11日(火) 軍都・若松(67)
 飢え細った兵士らが最後の攻撃を試みる時が来た。1月14日、150人の将兵は全員小銃を握って前線に向った。ボバ川と勇川まで4キロ、それに1日半もかかり、ようやく歩く将兵。岩山の陣地に至り、配備についたのは15日夕刻であった。
 しかし、敵の攻撃は熾烈を極め、17日夕、勇川の線に後退した。その後も敵の攻撃は圧迫急にして30日にはコカンボナに後退した。
 2月2日、夜行軍で一挙にガタルカナル島西端のエスペランスに翌朝到着。後ろは海原だ。部隊は玉砕を覚悟した。同地に聯隊は終結。その数は100余人に減っていた。自決する者も出た。
 ここで部隊は初めて撤退の命令を受けた。幾多の戦友の屍を戦野に晒したままで帰られようか。胸が締め付けられる。
 そうこうしているうちに迎えの駆逐艦が姿を現わした。チカッ、チカッと信号灯が点滅する。そして午後9時頃、艦に収容された。一路ブーゲンビルに向う。
 この後、ブーゲンビルの病院に収容された将兵は併せて300名であった。2500名のうちの300名。全滅ーだった。同地で2か月休養して、聯隊はビルマ戦線に投入されるのである。
2012年09月10日(月) 軍都・若松(66)
 その後の部隊は?食糧なし、マラリヤ蚊の襲撃、アミーバ赤痢の発生と各隊将兵の体力は痩せ細ってゆく一方であった。12月に入ると、各中隊で毎日2人、3人と飢え死んで行った。幕舎の付近は死体で埋め尽してしまった。
 明けて昭和18年の新年を迎えると、情勢は更に悪化した。死体を処理する体力さえなくなってきた。屍は幕舎の周辺に放置されるようになった。死臭の漂う幕舎。死を待つだけの哀れな聯隊に成り果てた。
 海軍は駆逐艦、潜水艦まで出して食糧の輸送を実施したが、犠牲者がでて成功しなかった。小銃を持てる元気のある将兵は150人まで激減し、飢え死にによる自然消滅寸前に追い込まれた。
 一進一退を続けたガタルカナル島の戦況は悪化の一途、この頃、米軍は七万に膨れ上がった。これに向うは1万余の徒手空拳の日本軍。敵機の銃火の洗礼と艦砲射撃に打ちのめされてゆく。
2012年09月09日(日) 軍都・若松(65)
 一方、部隊は負傷者の護送に苦労しながら、マタニコウ川上流の谷に集結したのが11月7日であった。敵撃滅に燃えて進撃した道は敗残の退路と化した。食糧はなし、栄養失調が表れた。疲労は極度に達した。死の黒い影が忍び寄る。
 砲弾の荒れ狂う戦場よりも、静かに訪れる死との対決はむしろ残酷である。11月18日、新29聯隊長小原重孝大佐が38個師団の輸送に便乗して裸で上陸、着任した。部隊の姿に接した小原大佐は無言〜。
 11月23日、聯隊は師団予備となって海岸警備のため、ボハ川、ママラ川の線に3分の一となった800名が丸山道を下る。しかも独歩患者は単独で後退し、重傷患者は現在地に残置であった。
 同月26日、聯隊本部と第2大隊はママラ川上流地区、第3大隊は下流地区、第1大隊はコカンボナ、ボハ川付近に各々分散し、海岸警備についた。残存将兵の大半はここで飢え死にするのだが、ガタルカナル島で最も残酷なものであった。
2012年09月08日(土) 軍都・若松(64)
 3名の部下を失い、残った古宮正次郎聯隊長以下7名は、29日夜半、全員が軍旗を中心に集まり、最後の礼を行って、山川軍曹以下の5名に軍旗と29聯隊の最期を伝えるように命じ、鈴木大尉と二人で永遠に帰らざる前進を続けて行った。
 山川軍曹以下5名は脱出の為、出発した。5名は30日早朝、敵の第一線に辿り着いたが、敵陣は強化されている。見つからぬよう、静かに脱出を図ったが、敵に発見され集中砲火を浴びて山川軍曹ら4名は無念の戦死。残る坂本上等兵一人が敵陣を抜けて戻り、11月1日、部隊に無事戻って、以上の報告をしたのである。
 軍旗は?聯隊長と鈴木大尉は?
 その後、激戦が終り、米軍が戦場整理に乗り出した時、飛行場近くのジャングルで日本の将校の死体を発見した。軍服のポケットの紙片に「部隊の歴史を傷つけ誠に申し訳なし。時計は鈴木大尉に、双眼鏡は山川軍曹に与える」とあった。
 まさに古宮聯隊長であった。軍旗らしきものはなかったーと米軍戦史にある。軍旗は聯隊長と鈴木大尉によって処分された、と推測できる。
2012年09月07日(金) 軍都・若松(63)
 帰らざる軍旗と古宮正次郎聯隊長捜索の為、夜間を利用して27、8日と行動が続いた。しかし、空しかった。特に、24日の夕食以来、全将兵は一食もとっていない。水さえろくに飲めなかったのだ。唯、闘魂だけで動いていたのだ。戦場が静かになると、空腹が将兵を襲う。
 軍旗は米軍には渡らなかった。聯隊長と共に敵陣に突入した軍旗は第7中隊の鈴木了大尉、小林行雄准尉、大野実信旗手少尉外6名に守られながら敵陣深くに入った。そして軍旗の安全を図るため、紋章、旗、竿を3等分して一時、土中に埋めたのだ。夜となって聯隊長は大野少尉と下士官1名に埋めた地点に向い始めた。
 しかし、待てども待てども帰って来なかった。聯隊長は小林准尉に大野らを探すよう命じたが、小林准尉は自らも迷ってしまったのだ。そのうち高橋軍曹にひょっこり遭った。高橋軍曹は敵陣から脱出した模様を報告し始め、軍旗の消息がようやく判明した。
2012年09月06日(木) 軍都・若松(62)
 その後の軍の命令は、「25日は戦線を整理し、予備の16聯隊を戦線に投入、26日夜、突撃を再興せよ」であった。
 態勢を立て直した友軍は、26日再攻撃を敢行した。しかし、結果は同じ運命をたどるのみであった。熾烈な銃砲火は兵団本部をも一瞬にして打ちのめした。
 那須弓雄少将は重傷を負って、間もなく戦死。第16聯隊の攻撃は頓挫した。広安聯隊長も戦死、230聯隊の右翼隊の突入も成功しなかった。
 悲報が次々届いた。第2大隊長渡辺勝利中佐も戦死、その他、数知れぬほど将兵が戦死した。かくて再攻撃も完全に失敗した。
 この後、16聯隊は沖川方面に、230聯隊の右翼隊はコリ岬方面に戦場を離れて転進していった。
 ムカデ高地の戦場には、29聯隊のみが残った。聯隊の損害は戦闘参加人員2281名中死傷者986名、中程度の負傷者は数知れずで、戦力の7割を失った。
2012年09月05日(水) 軍都・若松(61)
 午前4時半、戦場に第2大隊の渡部勝利中佐が到着した。兵力は第7中隊が既に軍旗とともに突入し、第5、第6の2中隊だけになっていた。
 太陽は戦場を照らしている。白日の下では肉弾突撃は不可能である。地に臥す間もなく死者が続出してゆく。5時になって左翼隊長那須少将からの命令が届いた。天明後は夜襲成功せず、現在地を死守せよー。
 ついに突撃は中止された。一方、第1大隊方面はどうであったろうか?右第一線となって進むうち、余りにも右に偏り過ぎてしまった。11時頃、猛烈な銃声を左から聞こえたため急ぎ密林の中を夢中で走った。敵陣直前の頃は夜が明けてしまったので突撃の機会を失った。ここに29聯隊は5コ中隊が潰れ、第一大隊と第2大隊共に2コ中隊だけとなり、戦力は極端に低下してしまった。
2012年09月04日(火) 軍都・若松(60)
 その時、機関銃の銃声を聞き付け、ジャングルに迷い込んでいた第10中隊がようやく駆け付けてきた。第3大隊長、吉井忠雄少佐は、自ら陣頭に立って敵陣に散る覚悟を決めた。すでに25日午前3時であった。
 第1大隊から迷い込んだ第3中隊も、第3大隊の指揮下に入り、玉砕か勝利か、聯隊は突入の正否にかかっていた。
 午前4時、夜が明けた。第3機関銃隊の8丁の機関銃が猛烈な射撃を加えた。「突入ー」の声に吉井大隊長を先頭に全将兵が一気に大地を蹴った。敵の銃砲火はますます激しさを加えた。
 吉井大隊長は両足を失って絶命、その他は敵陣直前でばたばた倒れた。一刻の猶予もない。旗手大野実信少尉が軍旗を持って捧げ立つ。「軍旗に続けっ」古宮正次郎聯隊長の絶叫! 祖国日本の興亡をかけた悲痛な叫びであった。壮絶な肉弾戦が続く。
2012年09月03日(月) 軍都・若松(59)
 先ず、第11中隊が先頭を切って午前11時、決然と敵陣に突入した。敵は草原に十字火砲を猛烈に撃ち出した。射撃の為、草原はボーと明るくなる物凄さ。片っ端から虚空をつかんで倒れた。見る見るうちに味方は折り重なって戦死していった。
 勝俣治郎大尉ら数人を残して壊滅的な打撃を受けた。約10分後、第9中隊が11中隊の突撃正面よりやや左に向い突撃を敢行した。日本軍が遭遇したことのない猛烈な火砲に将兵は倒れ、吹っ飛んだ。突撃の喇叭はやがて悲痛なうめき声に変わっていった。
 両中隊の突撃はアッと云う間に潰え去った。29聯隊全滅の瀬戸際にたった。古宮正次郎聯隊長は、軍旗護衛の第7中隊と本部を引き連れて、第一線に進出してきた。が、敵の火点を潰さなければ成功は無理と、最初の方針を変更して機関銃射撃を決意、第3機関銃隊の準備を命令した。
2012年09月02日(日) 軍都・若松(58)
 魔のジャングルを抜けてきた今、丸腰に近い銃剣1本を頼りに敵陣に突入する時期は近づいてきた。運命の24日は明け、聯隊は黙々と前進するのみ。
 午後3時、ムカデ高地の東南1キロと思われる地点に出た。空が俄に暗くなり、葉を鳴らして大粒の雨が降り出した。バケツをひっくり返したような豪雨となった。
 その中で、最後の夕食をとりながら休止した。互いに煙草を取り出して最後の一服を胸深く吸い込んだ。不思議と雨は苦にならなかった。覚悟のできた今、晴々とした気持である。やがて闇が訪れ一寸先も見えない密林を敵陣に進むのだ。
 が、しかし、密林と闇は前進する部隊の方向を狂わせた。聯隊は第3大隊を左翼第一線とし、右翼第一線に第1大隊を、そして第2大隊を予備隊として前進したが、第3大隊は密林に迷い込んだため、指揮が思うようにならないまま敵陣に近づくのであった。第1大隊も聯隊本部との連絡が不能になった。
2012年09月01日(土) 軍都・若松(57)
 食糧も最後の1合しかなくなった。この状態で23日も敵を求めて進撃を続けた。夕刻、目標にした谷に部隊の先頭が到着した。
 敵陣近くである。それなのに飛行場前面の敵陣地の状況は分らない。総攻撃は絶対に延ばせないのだ。古宮正次郎聯隊長は24日の総攻撃に関して敵情分析と夜襲の注意事項を将兵に与えた。
 1、歩兵は白兵戦に便ならしむる為、小銃、銃剣、弾薬15発、手榴
   弾2発と防毒面、背負袋のみ携行し、他は残置せよ。
 2、機関銃は軽装とし一銃に弾薬4箱のみ携行すべし。
 3、大隊砲は砲を残置して銃剣のみにて続行せよ。
 4、夜襲は奇襲とし、地下足袋を使用、隠密に接敵白兵突撃を敢行
   す。突撃成功するまで射撃を禁ず。
 5、背負袋には残存食糧のみ収容す。その後の食糧は敵より奪取す。
このように、戦では兵站こそが最重要であるにも拘わらず、わが日本軍は食糧は敵から奪う、または現地で調達する、という誠に情けない作戦だった。
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