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2014年07月31日(木) |
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會津藩士の蝦夷地移住(15)
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◇移住者第一陣(4)
61、無黒蘊次郎 62、相澤政次郎
63、西村仙之助 64、鈴木善次郎
65、川俣与四之助 66、宇佐美弥太郎
67、長澤辰之助 68、岡島梅吉
69、柏木 栄吉 70、加藤久吉
71、石川 石松 72、平山仙七
73、木村栄次郎 74、永井 辰吉
75、鈴木巳之吉 76、穴澤 源蔵
77、渡部平三郎 78、赤塚栄三郎
79、宗像久兵衛 80、林 広吉 |
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2014年07月30日(水) |
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會津藩士の蝦夷地移住(14)
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◇移住者第一陣(3)
41、富永 広治 42、美濃部武士
43、垣沼 新助 44、垣沼竹次郎
45、高橋量之助 46、角田鹿三郎
47、渡部 竹八 48、鈴木 七郎
49、粒羅 直助 50、高田三郎
51、広瀬 利助 51、渡部 庄蔵
53、田口 五助 54、玉川 五郎
55、田崎源三郎 56、高橋八四郎
57、大堀八之助 58、石山 幾馬
59、付属、鈴木善五郎 60、佐藤常之助
◇ ◇ ◇
近くの(鎮守の)森公園で本日もアマチュアカメラマン数人が樹の上で子育て中のアオバズクを撮影していた。暑さもここだけは別、涼しい風が吹いている。
その一人に聞けば、この鳥は意外にも獰猛で、ムクドリなどを捕えて餌にしているそうだ。青葉の頃に南からやってくる渡り鳥で、生まれたヒナも8月中には飛べるようになり、また、南へ帰ってゆく。
この森に、穴が開いている樹があり、子育てに適していることを知っているのか、毎年、同じようにやってきて、カメラマンに愛嬌を振り向く。頑張れ アオバズク! |
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2014年07月29日(火) |
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會津藩士の蝦夷地移住(13)
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◇移住者第一陣(2)
21、佐瀬藤次郎 22、田村千代之助
23、 同加え 24、佐藤 清松
25、石山亀次郎 26、奥村信之助
27、樋口喜代三郎 28、船橋 逸八
29、戸田捨之進 30、青木丑之助
31、赤塚志賀之助 32、細谷伴助
33、永井兼四郎 34、寄合組 百瀬清太郎
35、小松勇三郎 36、栗田鉄馬
37、小池源之助 38、清水主計
39、渡部健助 40、岩田助三郎 |
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2014年07月28日(月) |
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會津藩士の蝦夷地移住(12)
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◇移住者第一陣(1)
1、中隊長 宗川熊四郎
2、小隊長 簗瀬辰之助
3、 同 落合恒三郎
4、半隊頭 武藤 格弥
5、 同 杉本弥三郎
6、御普請奉行
郡奉行兼務 佐竹四郎太
7、御目付 野村隆之進
8、甲子 藁谷三八
9、吉田次郎 10、木村熊雄 11、野村常太郎
12、中山 庫 13、一柳平太郎 14、大場秀五郎
15、黒河内辰巳 16、日向俊江 17、東 蔵太
18、東 次郎 19、平塚常三郎 20、渡部益之助 |
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2014年07月27日(日) |
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會津藩士の蝦夷地移住(11)
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明治2年2月20日には、會津降伏人を蝦夷地へ移し、開拓させる告諭が出された。翌月、主に東京謹慎中の會津藩士の中から百人ほどを選んで派遣することになった。
同年9月、兵部省は會津降伏人を北海道(同年8月15日、蝦夷地を北海道と改称)への移住を決め、約260戸6000名が移住することに。11日、兵部省の管轄下に置かれた會津藩士と家族103戸330名の第一陣が品川沖からアメリカ船「コユール号」で出航、11日間の船旅の後、21日、オタルナイ(現小樽市)に到着した。
以下、氏名が分かっている第一陣を列記する。 |
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2014年07月26日(土) |
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會津藩士の蝦夷地移住(10)
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前田さんが中心になってまとめた『余市移住 旧會津藩士の足跡』や『黒松内町史』上巻、『新訂 會津歴史年表』などによれば、慶応4年(1868)9月、會津藩降伏により、翌年1月6日、會津藩士は越後・高田藩や猪苗代、塩川に謹慎させられ、猪苗代の藩士と家族3254人は東京へ護送された。
會津藩士を管理することになった兵部省は『會津降伏人始末荒目途』を作成した。総数1万7000人を、蝦夷地へ移住させる者1万2000人、内地3万石(斗南を指す)へ5000人とした。
移住者の家作、農具、米代として40万両を新政府が貸し出し、翌3年から8か年賦で返済させるという内容であった。 |
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2014年07月25日(金) |
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會津藩士の蝦夷地移住(9)
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戊辰戦争直後の明治2年(1869)9月から5次にわたり、會津藩士は蝦夷地へ移住した。北海道郷土史に詳しい余市町の元中学校長、前田克己さんによれば、會津藩士の蝦夷地移住は大まかに分類すると、
@東京から直接余市地区に移住した一団
A挙藩流刑された斗南藩経由で歌棄郡(別手村)=現黒松内町に移住した一団
B瀬棚郡に入植した一団
に分けられる。
総計は(一部部名だが)、現在の余市町と、積丹半島を挟んで南側の黒松内町の2町に併せて500戸、1500人。 |
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2014年07月24日(木) |
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會津藩士の蝦夷地移住(8)
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明治2年11月、會津藩は本州最北端の下北の地に3万石の斗南藩として再生し、藩主松平家の家名再興が許された。松平容保の子息容大が子爵に列せられ、華族になることができた。
翌年1月には、前将軍徳川慶喜や松平容保ら旧幕府の罪が許され、旧會津藩士4700名と家族併せて17800名が斗南へ流された。蝦夷地へ移住する264戸は斗南藩知蕃事である松平容大お預けとなり、容大に後志、胆振などの4郡を支配させることにした。
4月には、蝦夷地瀬棚、太櫓、歌棄、山越の各郡が斗南藩支配となり、旧會津藩士が次々と移住して開墾を始めた。 |
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2014年07月23日(水) |
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會津藩士の蝦夷地移住(7)
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この頃は、まだ戊辰戦争の余燼が燻っていた。明治2年(1869)、戊辰戦争の責任を一身に背負った家老萱野権兵衛は5月18日、東京・麻布の飯野藩保科藩邸で見事な切腹を遂げ、同じ日に凾館・五稜郭では、榎本武揚が新政府軍に降伏し、名実ともに戊辰戦争は終わりを告げた。
この年の3月、江戸は東京と改称されて遷都が静かに行われ、6月には、廃藩置県が実施されて261の藩は302の県に生まれ変わり、藩主は知蕃事に任命された。
8月、新政府は蝦夷地を北海道と改め、渡島、石狩など11か国を置いた。本格的な北海道開拓に乗り出し、まず、兵部省を通して會津降伏人の北海道移住を正式に決定した。 |
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2014年07月22日(火) |
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會津藩士の蝦夷地移住(6)
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敗戦後、會津藩士は塩川に1800人が、猪苗代に3200人が分散して収容された。「会津降伏人」への処断は峻烈を極めた。塩川の藩士は越後・高田へ送られ、猪苗代の藩士は翌明治2年(1869)2月、東京へ護送されることになった、俘虜として。
薩長新政府は蝦夷地を開拓する計画を立て、蝦夷地の初作部、石狩、小睡内の地を軍務官の管轄とした。その後、東京で謹慎中の會津藩士の中から100人を選んで先陣として蝦夷地へ派遣することになった。
◇ ◇ ◇
本日、関東地方も梅雨明けとなった。平年より1日遅れだという。それにしても暑い!一般家庭では、とうにクーラーが全開だと思うが、わが自宅マンションは周囲が緑に囲まれていて部屋の温度は外気より、2〜3度低く、今年になってクーラーが動いたのは1日だけ。天然クーラーの有難さを満喫している。
連日、熱戦が続く夏の高校野球。千葉県大会は面白くない、実に面白くない。”ちば”を代表していた銚子商業や成田などが姿を消し、松戸周辺の私学が幅を利かせている。これでは千葉県は盛り上がらない。伝統校の来年以降の復活を期待したい。 |
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2014年07月21日(月) |
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會津藩士の蝦夷地移住(5)
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奥羽諸藩の最後の砦・會津藩が降伏したことで諸藩は次々に降伏し、西軍の軍門に下った。10月1日、奥州平定せらるるを以て西軍参加の兵士に対して帰還命令が出て、それぞれ引き揚げていった。
若松城下に民生局が置かれ、會津藩領は新政府軍の管轄下に置かれたが、事実上は無政府状態であった。
10月3日には、大沼郡内で世直し一揆が始まり、瞬く間に會津一円に一揆の輪が広まった。大規模な世直し一揆はこの年の12月までに4度も起き、年末になってようやく収まった。
その後、會津を脱出した新撰組副長土方歳三らを含む幕府軍残党との戦は仙台〜凾館と続き、翌年5月18日、函館戦争の終結で、1年半に及んだ戊辰戦争は終わった。 |
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2014年07月20日(日) |
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會津藩士の蝦夷地移住(4)
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會津藩では家老たちが、藩主容保について
「戦の責任は家臣にある。藩主父子には寛大なご処置を」
という嘆願書を中村半次郎に差し出して、式を終えた。
容保は一旦、鶴ヶ城に引き揚げ、家臣や応援の兵士たちに別れを告げ、戦死者を葬った城内の空井戸と二の丸の墓地に花束を捧げた。
この後、義姉照姫らを従えて北追手門から城を出て、薩摩、土佐両蕃の兵士に囲まれ、滝沢村の妙国寺に入った。
この日、開城を迎えた會津軍の総数は約5000人。うち婦女子は照姫はじめ570人、残された兵器は大砲50門、小銃2845丁、弾薬25万発、槍320筋などであった。
翌23日、鶴ヶ城明け渡しになり、會津藩士は米沢藩士の護衛で猪苗代に移り、城外の兵士1700人は塩川村に送られた。
傷病者は城南青木村に急造した野戦病院に収容された。我が国初の野戦病院であった。 |
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2014年07月19日(土) |
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會津藩士の蝦夷地移住(3)
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降伏式では、藩主松平容保が家老梶原平馬、内藤介右衛門を先案内に世小嘉徳、家老萱野権兵衛を従えて甲賀町通りの式場に向かった。
西軍は軍監中村半次郎(後の桐野利秋)、軍曹山県小太郎(後の山県有朋)らが諸藩の兵士を従え、錦旗を立てて待ち構えていた。
◇ ◇ ◇
會津藩士が眠る千葉県富津市富津の商店で、奥会津名産の桐をパウダーにして作ったソーメンやうどん、パスタが販売されている。福島県三島町の「会津桐炭」が昨年夏から発売しているという。
今年2月、東京・ビックサイトで開いた展示会に出品したところ、富津市で「角市商店」を経営している多田剛さんの目に留まり、取引が始まった。健康食品として販売されているが、多田さんは、會津と富津の友好のため赤べこと起き上がり小法師を作り、藩士が眠る富津市の4か寺に飾った人物。「少しでも會津と富津の有効に役立てば〜」と話している。 |
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2014年07月18日(金) |
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會津藩士の蝦夷地移住(2)
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慶応4年(1868)9月22日午前10時、鶴ヶ城北追手門に白旗が上がった。會津藩士鈴木為輔、安藤熊之助らは、籠城した婦女子が白布の断片を縫い合わせてやっと作った白旗をがっちり握っていた。8月23日以来、1か月に及ぶ籠城戦を戦い抜いてきた會津藩が西軍に降伏した瞬間だった。
正月3日、鳥羽・伏見で勃発した戊辰戦争で、幕府軍は敗戦に次ぐ敗戦を続け、4月には江戸城を無血開城した。
これ以降、薩長軍を中心とする西軍は會津へ、会津へと攻め寄せ、8月23日には鶴ヶ城城下に乱入した西軍は、薩摩、長州、土佐の3藩に加え、熊本、小倉、久留米、肥前、鍋島、大垣藩や、譜代の彦根、越前の他、尾張、紀州、水戸の御三家まで含め34藩を数えた。
急ごしらえの錦の御旗の威力は西国すべての藩を巻き込んでの會津討伐だった。総兵力は3万とも7万ともいわれた。 |
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2014年07月17日(木) |
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會津藩士の蝦夷地移住(1)
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戊辰戦争に敗れた會津藩士が本州最北端の斗南(現在のむつ市)に挙藩流刑されたのは、皆さんご存知だが、 本日から、その後、蝦夷地開拓を目指して多数の會津藩士がグループで蝦夷地へ渡った史実は、これまで史上にあまり登場してこなかった。
今回の執筆は、ここに光を当て、會津藩士が刀を鍬に変えて荒地開拓に打ち込み、あるいは失敗して、どこかへ去って行った藩士を取り上げた。
『會津人群像』24号に掲載したら、北海道の関係町村から「自分たちの歴史を知りませんでした。お蔭で町の誕生からの歴史を知ることができました」と感謝のメールもいただいた。
酷寒の地で、我が国初のリンゴ栽培に成功し、第1号は、會津藩主松平容保が京都守護職時代、孝明天皇から下賜された大和錦で作った陣羽織から名前をとって「緋の衣」と名付けた。
我が国のリンゴ栽培は會津藩士が初めてで、歴史に名をとどめたい。以下、続く。 |
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2014年07月16日(水) |
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尖閣諸島(最終回) |
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同諸島問題で、台湾の元総統李登輝さんは、かつて「週刊文春」で阿川佐和子と対談している。京都帝国大学を卒業し、知日派の李総統だけに、はっきり、そして史実に基づいた話を展開している。
まず、総統時代に、尖閣諸島は日本の領であると明言した。台湾と日本の歴史を知っているための発言だった。1895年(明治28年)に尖閣諸島を日本が領土だと決めた。清朝の支配が及んでいないことを確認したからだ。
同じ年に日本は、台湾を統治下においた。尖閣の近海はいい漁場で、その頃から沖縄からも台湾からも漁師が魚を獲りに行った、という。
双方は仲良く、沖縄の漁民が獲れた魚を台湾や基隆などで売ったりした。沖縄県では漁民、漁場、漁船の管理を当時の台北州政府に委託していた。同じ日本国内だから何の問題もなかった。
ところが、1971年(昭和46年)、突然、支那が尖閣は支那古来の領土だと宣言した。支那が尖閣を支配していたことは一度もないのに〜。何故か?近海に大量の石油が埋蔵していることが分かったためだ。
支那は自分が弱い立場だと黙っているが、ちょっと強くなるとたちまち大きな声を出して脅かし始める。日本が毅然とした態度をとることが必要だと力説した。(完) |
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2014年07月15日(火) |
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尖閣諸島(6) |
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支那の公船は、その後も連日、同諸島の接続水域または領海内に入り込み、無法な海賊航行を続けている。これに対して我が国の海上保安庁は巡視船を出して警戒、監視活動を行っている。
相手が弱いとみれば、なんでもしてくるのが支那の常套手段。このため、海軍力が弱く、アメリカ軍が撤退したフィリピンは、支那のなすがままになり、今では、自国の海岸近くでの支那による違法、無法な海底油田掘削を指をくわえて見守るばかり。自衛組織がしっかりしている我が国との違いはそこにある。
尖閣諸島の扱いについて、アメリカは日米安全保障条約の適用範囲内である、とケリー国務長官も発言したほか、アメリカ上院が昨年7月の本会議で、尖閣諸島周辺で示威行動を活発化させている支那を非難する決議を採択した。
さらに支那が昨年11月に尖閣諸島を含む東シナ海上空に設定した防空識別圏についても、今月10日、「現状変更のための威圧的な行動だ」と非難する決議を行った。 |
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2014年07月14日(月) |
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尖閣諸島(5) |
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そうした中でのアメリカでの石原都知事(当時)の尖閣諸島購入発言だった。都では早速、平成24年(2012)9月2日、同諸島の魚釣島、北小島、南小島の周辺海域を線上から調査した。都では調査結果を踏まえ、島の取得額を算定して都議会に諮った上で予算案を上程する。
この問題に都民が反応し、取得のためにと寄付金が115億円も集まったのである。一方、民主党政権も地権者から直接購入する方針を決め、20億円前後で買い取りたいとした。国の所有にした法が後々、面倒が起きないーとの考えからだった。
そして9月7日、埼玉県在住の地権者との間で島の売買契約を締結し、国有化を実現させた。
◇ ◇ ◇
今年も、近くの(鎮守の)森公園に南からの渡り鳥アオバズクがやってきた。現在、母鳥がヒナを産んで子育ての真っ最中だ。一眼レフのカメラに300〜400倍の望遠レンズをつけ、10人ほどのアマチュア・カメラマンが、シャッターチャンスを狙っている。
1昨年はヒナがカラスに襲われたため、昨年は姿を見せず、寂しかった。本来の姿に戻ってなによりだ。彼らは、展示するわけでなく、一人楽しむのだという。 |
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2014年07月13日(日) |
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尖閣諸島(4) |
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平成22年(2010)9月には、心配された事件が起こった。尖閣諸島沖で支那の漁船が海上保安庁の巡視船2隻に衝突してきた。海保は支那人船長を公務執行妨害容疑で逮捕した。が処分保留で釈放してしまう。
釈放された船長は支那で英雄扱いされるなど、波紋は広がった。我が国でも、「何故、船長を釈放したんだ」という民主党の弱腰政権を非難する声が強くなったが、民主党は「だんまり」を続けた。
業を煮やしたのか、同年11月、海保が衝突事件を撮影した映像がユーチューブに流れ、支那の漁船の一方的な故意の衝突であることが証明された。
海保の保安官が民主党政権の態度に反発してネットに流したもので、この保安官は辞職に追い込まれた。この事件を境に支那の尖閣諸島に対する執拗な要求が始まり、同24年(2012)1月、共産党の機関紙人民日報が、尖閣諸島の領有権を支那の「核心的利益」として言及した。
これに対して、我が国でも動きがあり、指定弁護士が、支那人船長を公務執行妨害、船舶損壊などの罪で那覇地検に強制起訴したが、本人不在の空しい茶番劇だった。 |
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2014年07月12日(土) |
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尖閣諸島(3) |
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ここで尖閣諸島の歴史について。
我が国は、明治23年(1890)、尖閣諸島の領有権を閣議決定し、同28年(1895)、無人島であり、支那の支配が及んでいないことを確認の上、日本の領土に編入すると閣議決定した。
第2次世界大戦後のサンフランシスコ平和条約に基づいて、南西諸島の一部としてアメリカの施政権下に入った。
昭和46年(1971)、台湾が領有権を主張、支那も領海に含むと発表した。翌47年、沖縄返還に伴ってアメリカから尖閣諸島も返還された。
ところが平成8年(1996)になると我が国の政治結社が魚釣島に灯台を建設、その後、台湾、香港などの活動家が魚釣島に上陸し、支那の国旗、台湾旗を立てた。
騒ぎは大きくなり、翌9年(1997)4月には沖縄県石垣市議ら2人が魚釣島に上陸、さらに5月、新進党の国会議員ら4人が同島に上陸、東京都知事だった石原慎太郎氏も船に同乗した。
平成16年(2004)同島に上陸した支那人活動家7人を沖縄県警が出入国管理・難民認定法違反で現行犯逮捕した。が、送検せず、全員を処分保留で釈放した。民主党政権の幼稚さが露呈したもので、以後、我が国の足元をみる事件が続出する。 |
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2014年07月11日(金) |
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住職の退職 |
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後継者がいないー理由で住職がさっさと退職。信じられないことが起きている。会津若松市にある、我が家の菩提寺清林寺から「今年の盂蘭盆会法要には行けません」と電話が来た。
理由を尋ねたら、市内行仁町の本覚寺の住職が突然、退職し、後継者がいないので兼務することになり、東京方面の檀家回りの余裕がなくなったためだという。
本覚寺は、江戸時代の元和4年(1618)、再興された名刹で、檀家には旧家森川家や、花春、栄川、宮泉など酒造業を営む宮森一族を数え、有力町人の墓があることで知られる。上野精養軒の支配人だった二村寿美の先祖の墓もある。
市内七日町の阿弥陀寺も、無住になっている。戊辰戦争で路上に打ち捨てられた会津藩士の遺体800体を葬った寺で、鶴ヶ城にあった御三階も移築されている。
このように、由緒ある名刹が無住になって廃れていくのは寂しい。実に寂しい。 |
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2014年07月10日(木) |
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尖閣諸島(2) |
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この尖閣諸島について述べてみよう。沖縄本島の西410キロにある5島の総称。いずれも無人島で、大正島は国有地、魚釣島、北小島、南小島、久場島の4島は民有地だが、安定的な維持、管理を図るため国が賃借している。
国が支払う年間賃料は魚釣島が2110万円、北小島が150万円、南小島が190万円。久場島は所有者の意向で未公表だ。
かつて魚釣島にカツオ節製造工場があり、最盛期には250人が住んでいた。だが、昭和15年(1940年)ごろには無人島になった。
日本政府は、「我が国固有の領土で、歴史的にも国際法上でも疑いはなく、現に実効支配している」との立場をとっている。
しかし、昭和44年(1969)に周辺の大陸棚に石油資源が埋蔵されていることがわかると、支那や台湾が領有権を主張し始め、支那の公用船による領海侵犯が現在も連日、行われている。 |
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2014年07月09日(水) |
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尖閣諸島(1) |
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尖閣問題が浮上したのは、平成24年8月16日、渡米中の石原慎太郎・東京都知事(当時)がワシントンで演説し、我が国固有の領土である尖閣諸島の一部を買い取る意向を表明したからだ。
石原知事は、中国や台湾が領有権を主張しているため、我が国の領土を守るため、島を所有する埼玉県の男性と買い取り交渉を始めており、「年内に取得を目指す」意向を表明した。
突然の演説に関係者は驚いた。当時の民主党野田政権は、それまで何の対策も取ってこなかったため慌てた。
石原知事が買い取りを表明したのは、尖閣諸島で最大の魚釣島(面積3,82平方`)と北小島{同0,31平方キロ)、南児島(同0,31平方`)の3島。
知事は「最近、中国が俺たちのものだといい出した。とんでもない話だ」と中国側をけん制した。 |
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2014年07月08日(火) |
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閑話 |
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6月1日、安倍内閣が、集団的自衛権行使を限定的に容認する閣議決定をして以来、朝日、毎日など左翼系マスコミで、すぐにでも戦争に巻き込まれるーなどというごまかしの記事が満載だ。
待ってほしい。集団的自衛権を行使するには、自衛隊法などの関連法案を国会で通す必要があるのだ。国会提出は、統一地方選などから来年春以降になりそうだ。地球の裏側まで自衛隊が出動する、ということを挙げている新聞もある。
だが、東シナ海や南シナ海で海賊行為を続ける支那の共産党独裁国家、空では監視用自衛隊機に襲い掛からんばかりに接近する支那の空軍機。
これらを牽制する上でも集団的自衛権は行使されるべきである。中東から原油を運ぶ我が国の輸送船を護衛しているのはアメリカ海軍なのだ。自国で守るべきことをしていない現状を憂うるものである。 |
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2014年07月07日(月) |
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般若心経(最終回) |
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◇羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶、般若心経。
往った、往った、彼岸に往った、彼岸に完全に往った、悟れよ、めでたし。
キリスト教の「アーメン」のような祈り。
釈尊は約2500年前に誕生、25歳で悟りを開き、90歳で入滅。22年間にわたって説法した教えを、500年後の1世紀中頃に、弟子たちが600巻にまとめたのが「大般若経」。その中から肝心な部分を凝縮したものが「般若心経」である。
これを毎日、朝と夜の2度、両親や先祖たちの位牌を祀る仏壇の前で唱えている。唱えることで頭は「空」になる。それでよいのであろう。 |
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2014年07月06日(日) |
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般若心経(9) |
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◇故知般若波羅蜜多、是大神咒、是大明咒、是無上咒、是無等々咒、能除一切苦、眞實不虚、故説般若波羅蜜多咒、即説咒白。
故に、こう知るべきである。智慧の完成は大いなる真言(仏の真実を伝える霊感ある言葉)であり、大いなる明智の真言であり、無上の真言であり、無比の真言である。よくすべての苦しみを除き、それは真言であって虚偽ではないから、智慧の完成の真言を説こう。ただちに真言を説いていった。
咒は呪術的色彩の濃いマジックのようなものであるが、大乗仏教の咒は、より深い哲学に基づいて真言、つまり仏の眞實を伝える霊感ある言葉となった。 |
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2014年07月05日(土) |
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般若心経(8) |
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◇菩提薩■〔註〕、依般若波羅蜜多故、心無罫礙無罫礙故、無有恐怖、遠離一切、転倒夢想、空竟涅槃、三世諸佛、依般若波羅蜜多故、得阿耨三藐三菩提。
菩薩は智慧の完成によっているから、心に覆うもの、さまたげるものがない。覆われること、さまたげられるものがないから、怖れがない。
すべての逆立ちした妄想を遠く離れて、空竟の涅槃を成就している。 三世(大乗仏教では、仏陀は釈尊一人でない。過去の釈尊、未来仏の弥勒仏、現に西方浄土にいて我々を救ってくれるのが、阿弥陀仏である)の諸仏たちも智慧の完成によっているから、この上もなく正しい平等の悟りを得て覚者(仏陀)となるのだ。 |
■〔註〕 土+垂 を1文字にしたもの。 |
(この一文字が何故か表示されません) |
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2014年07月04日(金) |
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般若心経(7) |
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◇無智亦無得、以無所得故。
智(悟った人)もなく、得もない。般若すらも空の中にない。何故なら仏法は得るものでも掴むものでもない。「無」であるからだ。法を得たいというのも、「私は悟った」「私は仏になった」という「私」が強制的な努力による自我のはからいに囚われていては、自我を鍛えて大我にしたーということでしかない。大我をさらに空じて「無我」とする。
この境地に至って初めての「般若」の「空」観が徹底するのだ。 |
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2014年07月03日(木) |
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般若心経(6) |
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◇無無明、亦無無明盡、乃至無老死、亦無老死盡、無苦集滅道。
無明(般若の智慧の欠如)もなし、老死もなく、また無明がなくなること、ないし、老死がなくなることもない。苦しみもなく、苦しみの原因もなく、苦しみの超克もなく、苦しみの超克への道もない。
「苦」、「集」、「滅」、「道」の4語とは、初期仏教伝来以来、釈尊金口の直説として、小乗仏教徒がありがたがる四つの真理である。
「苦諦」−人生とは苦しいものだという見極め。釈尊は人生は苦であると見極め、その解釈を求めて宗教の道へ。
「集諦」−人生の苦の原因(集)の究明。渇愛(強い欲望)ないしは無明があるから人生苦が生じる。渇愛、無明がなければ人生苦はない。
「滅諦」−渇愛や無明がなくなった永遠の平安の境地。
「道諦」−そうした理想の状態にどうして到達するか、その実践、行のこと。それもないと喝破する。
つまり無明があるから「生老病死」という「苦」が存在する。本当は無明など存在しないから「生老病死」という苦もないのだ。だから「苦」の原因もないし、「苦」を克服した後の平安もないし、そのための行もないのだ。 |
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2014年07月02日(水) |
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般若心経(5) |
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◇是故空中無色、無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色聲香味觸法、無眼界、乃至無意識界。
この故に、空の中には色もなく、受、想、行識もなく、眼、耳、鼻、舌、身、意もなく、色や聲、香、味、觸、法(意識の対象)もなく、眼界(目の領域)もなく、意識界もないのだ。
だが、心経の特色は、否定を媒体にして肯定することである。無の耳、舌、身、心があるからこそ「無の色」を見て、「無の心」を聞き、「無の舌」をかぎ、「無の味」を味わい、「無の觸」を触り、「無の意識」を感じると、肯定的に読むべきだ。
「無心」は「無心の心」として、「無我」は「無我の我」として働くのである。
◇ ◇ ◇
毎日、仏壇に向かって上げている般若心経を説明しようとしているが、これが意外に難しい。だからこそ、夢中になって読み下してほしい。
先月1日の会津藩士慰霊祭は滞りなく終わり、各新聞社へも投稿した。木更津市の地域紙から千葉日報、福島民報、福島民友と4紙に掲載された。少しでも慰霊祭をPRするためだ。かなりの努力を理解してほしい。 |
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2014年07月01日(火) |
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般若心経(4) |
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◇舎利子、是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。
舎利子よ、この五つの諸々の存在は、空を相として生ずるということもなく、滅することもなく、汚れることもなく、清いということもなく、増やしもせず、減りもしない。
物質と精神を構成する五つの要素は、実体のない空っぽなのだから、生まれることも死ぬこともない。罪を犯しても垢が付くこともなければ、懺悔して浄めるということもない。勿論、増えたり減ったりすることもない。
この六つの否定を「空相の六不(ろっぷ)」といい、「空」とはどういうものかを説いている。 |
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