平安末期、會津の独立を守った慧日寺が1200年ぶりに再現することになった。会津若松市の隣町、磐梯町の国指定史跡「慧日寺跡」に、本堂にあたる金堂が平成20年4月に完成した。最盛期には奥州一円の教化に影響力を持つ会津仏教文化のシンボルだった。 慧日寺跡は昭和45年(1970)に国の史跡に指定され、同町では、史跡整備を文化庁に働きかけて来た。そして平成17年(2005)文化庁の直轄事業として工費3億9000万円で着工された。 同時代に建立された奈良の室生寺を参考に、寄せ棟造りで、屋根は厚さ1.5センチの杉材を使った「とち葺き」を採用し、壁は赤色の漆喰にするなど、当時の工法に近い仕様。 その後、平成21年には中門が完成し、引き続き電線の地中化を進め、往時の門前町を復元する計画だ。 このように、会津仏教文化を代表する慧日寺が蘇り、一大仏教寺院がお目見えするのが楽しみだ。(完)
會津の領主慧日寺は、迫りくる平泉の勢力を排除して、會津の独立を保とうとして、城氏との同盟を策していたのであった。しかし、これは地形上、會津が遠い中奥や北奥よりも、遥かに越後に近く、自然にこれと結ばざるを得ないというような事情にもよっていた。 こうしてみると、會津は平泉の支配を排除して、もっとも長く政治的独立を保った国として、平安末期の東北の歴史の中でも例外をなしていたことになる。 奥州の西南、自ずから一つの国をなした會津は、政治的にも文化的にも、一つの独立した国に相応しい歴史を綴った。 長い間、愛読して頂き、感謝に堪えない。明日が最終回になるが、1200年ぶりに蘇った慧日寺金堂など、国指定史跡慧日寺跡の文化庁による復活事業について述べる。
「藍津」は、會津の当て字であろう。會津は城氏と同盟していたから、越後におれなくなった城氏が亡命したとしても、不思議はない。また、平泉藤原氏が、その亡命を拒む地というのは、当然、奥羽の中でなければならないので、この藍津が會津であることは、ほとんど疑いないのである。 しかし、藤原氏がこの機会に、會津の押領を企てたことで、それまで、會津が平泉に対して独立を保っていたことも、分るのである。 ◇ ◇ ◇ スピードスケートの堀井学という選手を御存知だろうか。1994年(平成6年)リレハンメル五輪の男子500メートルの銅メダリストだ。頭を剃りあげた選手。しかし、98年の長野五輪では、進化したスケート靴に対応できず、500メートルで13位、1000メートルも17位に沈み、男泣きした姿が印象に残る。 その堀井は現在、故郷の北海道の道議に当選し、政治の世界に飛び込んだ。その名前を頼りに、自民党は北海道9区の衆議院選に出てもらおうと、持ちかけている。 「首相を辞めたら議員も辞める」と公言した、あの鳩山由紀夫元首相の選挙区で、有力な対抗馬となるだろう。 原発問題から消費税問題までデタラメ続きの民主党政権を倒すことの象徴的な選挙区であり、対決が楽しみだ。
成功のきっかけは、城資職の會津亡命問題にある。これは、京都の貴族で、当時、右大臣をしていた九条兼実という人の日記(『玉葉』)に書いてあるところであるが、資職が越後に戻ろうとすると、国府の役人たちは、その入国を拒んだ。これまで痛めつけられて来た腹いせをするのは、この時だといわんばかりに、彼等はこの敗軍の将に追い討ちをかけようとしたのである。 行き場のなくなった資職は、「藍津」に逃れようとしたが、今度は藤原秀衝がすかさず出兵したので、資職は、ここからも逃げ出した、ざっとそういう日記になっている。
また、多賀国府や地元の郡衙などに対しても、名目的にはやはりその下にいる管理者もしくは請負人のような形をとったであろう。 これは、平泉藤原氏などの場合も、まったく同じことである。だから、そういうことは、慧日寺が事実上の會津総領主であったことを否定することにはならない。 横田河原の敗戦の結果、會津の首脳部は、総崩れとなった。乗丹坊は戦死した。藤原秀衝は、それを機に會津に出兵、その無血占領に成功するのである。 ◇ ◇ ◇ 今日は會津の同期、平塚と稲毛駅で久し振りに逢った。身体を悪くして都内へ出られないので、稲毛まで来てくれたのだ。脳溢血で倒れる前に呑んで以来だから8年ぶりか。彼とは鶴城小学校ー2中ー會津高校ー慶応と、1浪したのも同じ。おまけに母親は謹教小学校時代、平塚の母親に教わったという、誠に浅からぬ因縁の間なのだ。日本IBMの関連企業で社長の平塚は現役。近況を話して別れたが、彼に負けずに顕彰会で頑張ろう!
そして、このような會津に君臨する僧侶支配を組織できる僧侶、及びその集団というようなものは、当時、慧日寺僧徒をおいて考えられないのである。 乗丹坊というのは、こうして、寺伝通りに平安末期の慧日寺住僧であり、慧日寺僧徒は、一つの僧兵組織をもって、會津四郡に君臨し、その行政権、領主権を一手に掌握していたと考えねばならない。 尤も、それは會津の最高領主権のことだから、その下に、中小の領主があっても構わないし、都の有力な貴族や寺院が名目上の荘園を設けたりする場合には、その現地の管理者のような形をとったこともあろう。 ◇ ◇ ◇ 福島中央テレビ(日テレ系列)が、12年度日本記者クラブ賞特別賞を受賞した。「3.11」の福島第一原発1号機の水素爆発の瞬間をメディアで唯一捉え、当時の枝野官房長官の「爆発的事象」というデタラメ会見を訂正させた。当時、このブログでも特別賞を期待した、当然だ。おめでとう。
『平家物語』や『源平盛衰記』には、越後の城四郎資職(長茂ともいう)という者が越後守に任命されて、信濃国の横田河原で木曽義仲を討つくだりが物語れている。 この作戦は、義仲方の巧妙な戦術に引っ掛かって、城氏の大敗となるのであるが、そこには、次のようなことが書かれている。 城氏に従った軍勢は、越後、出羽、會津四郡の兵どもであって、その連合軍の中では、會津の乗丹坊と称した法師が指導者格で、その子どもの僧たちが、その指導部を構成していたというのである。 城氏が「頼み切った者」といわれる乗丹坊であってみれば、当然、その會津四郡というのは、彼の統率下にあったと考えるべきであろう。
こうしてみると、慧日寺にとって、その権威の証として貴重だったものが二つあったことになる。 一つは白銅三鈷杵であり、もう一つは古尺である。前者は寺の依って立つ宗教の由来を明らかにし、後者は、俗領主として會津に君臨するに至った政治権力を象徴する。慧日寺の歴史は、この二つに要約されるといってよい。 当時、東北では、平泉藤原氏が、奥羽両国の公の土地証文の類いを、すべて平泉の政庁に集めて、事実上、奥羽公権を代行していた。ただ、會津だけは平安時代の末まで、その平泉支配の外に立っていた。慧日寺が、會津において藤原氏のように行政権を代行していたのだ。 つまり、會津は平安末期、一円慧日寺の公権支配の下に立っていたと考えられる。
慧日寺では、この古尺とともに、平城、嵯峨、淳和、白河四朝下賜と称する銅印も伝えていた。今は古尺ともども、すべて失われてしまったのであるが、その印影だけは残っているので、多少の推測は試みることができる。 これらが果たしてどこまで遡るものかは、疑問であるが、このうちの淳和天皇下賜と伝えるものが「余戸郷印」であることからいって、これらもまた、會津の領主慧日寺の支配に結びつくものだということはできる。 物そのものの年代推定には問題があっても、これは本来、郡や郷が行使すべき公の支配権が、ある時期から慧日寺の手中に帰していたことを物語っているのである。
標準度量衡を持つこと、それは支配者の政治的特権に属する。法隆寺や熊野神社は、古代以来の権威の象徴として、また荘園領主としての支配者の明証として、本来ならば国家や官庁のみが所持すべきものを、これに肩代わりして所有するに至ったのである。だから、それは、国家権力の代行者たる地位を保証するものである。 慧日寺が、法隆寺や熊野と並んで、それほど古い物指の所持者となったのは、このようにしてこの寺が、會津において国家権力を代行する公権存在に転化してきていたことを暗示するものである。
こんなふうに四天を見、地蔵を拝するというふうにして、12体を見終わって、偉大な徳一の12変相であろうと思われる。 勝常寺彫刻の平安朝仏教文化への貢献は、そのまま歴史的人格徳一の日本古代史への寄与である。我々は、これを彼の信仰の遺産として受け止めなければならない。宇内薬師をはじめとして、會津の長い仏教文化の歴史は、ここから始まるのである 慧日寺には明治の初めまで、古い物差があった。これは江戸時代の享保年間、八代将軍吉宗が、新たに曲尺を制定するにあたって基準とした紀伊熊野神社の古尺と同種のものであり、法隆寺、熊野神社、慧日寺などに伝えられた基準物差の一つであった。 この古尺は、後に専門家の研究によって、古代においては、建物を建てる時に用いられたのではなしに、条里などの田地の面積を測量するのに用いられたものであることが分かった。
脇侍日光、月光は、中尊の威厳のもとに緊張した感動を、静かに美しい慈悲へと解きほぐす。天平風ともいえる典雅な作りに、どこか理知的な感じが彫り出されているのは、やはり貞観の心であろう。爽やかに美しいのである。 聖観音は、内に秘められた意志の奥行きを深々と覗かせるように森厳である。豊かな姿態を高雅な知性が内面化して、貞観彫刻の内から迫る美しさの形象化としては、希に見る傑作である。
勝常寺は、會津中央薬師で知られる著名な寺院である。現蔵する古仏はすべて12体。薬師三尊(中尊薬師、脇侍日光、月光)、四天王(持国、増長、広目、多聞)、聖観音、十一面観音、地蔵2体、伝虚空蔵より成る。 すべて貞観様式の一本彫りで、9世紀も中期は下らぬものである。とすれば、まさしく徳一時代、恐らくその縁りの仏像であるといってよい。 このように、優れた文化を興す力は、徳一の人格をおいて他にはなかったと思われるからである。 薬師像は、大粒の螺髪(らほつ=仏の32相の一つで、頭髪が右に渦巻いている形)をかぶり、鷲のように鋭い目で、人の心の奥の奥まで見通す。下顎の小さく円くもれ上がった彫法は、大柄な作りをぐっと引き締めて、逞しい意志の現れで印象的だ。
徳一建立の寺として、文献に明確なのは慧日寺(会津若松市河東町)であり、徳一ゆかりの仏像を今に伝えているのは勝常寺(湯川村)である。 慧日寺の寺号の起こりは、唐の慧沼撰『能顕中辺慧日論』にある。この論者は略して『慧日論』ともいった。徳一は、この本の教義を踏まえて『慧日羽足』『中辺義鏡』などという本を著した。 慧日寺というのは、その慧日論所以の根本道場の意味である。今日の遺構としては三重塔趾に重なっているもう一つの遺構、五間四間の堂宇跡が最も古く、石造りの徳一廟塔と伝えられるものが、ほぼこれに準じるもので、平安中期頃を下らない。 寺宝の白銅三鈷杵は、徳一請来品であろう。天台、真言以前の古密教の宗風を語り伝える立宗の形見といってよい。
徳一の真摯にして緻密な論理に対して、空海の論理はあまりに高踏で神秘的である。 これは現在の感想であるばかりでない。真言教学では、平安時代から鎌倉時代にかけて、教祖空海が成し遂げなかったこの真言批判を打ち破ろうとして『真言宗未決文』研究を継続している。その徳一批判が完了するのは、やっと、鎌倉末期である。それは徳一の真実を真言側が否定的に認めていた証拠なのである。 天台や真言に、これほど深く、長く立ち向かった教学はない。日本仏教には天台宗や真言宗の真実のほかに、もう一つの真実があった。激しい論争は後世にこの教訓を残したのである。
最澄と四つに組んで、仏教本来の厳しい宗風を守り抜いた徳一を、今はもう忘れ去られた日本仏教のもう一つの真実として、認識し直す必要があろう。 徳一の数多い著書は、『仏性抄』にせよ『中辺義鏡』にせよ、主に最澄批判に向けられているが、原本は存在しない。すべて最澄の著書の引用を通して知られるだけである。 これに対して、空海を批判した『真言宗未決文』は現存する。それによると、徳一は空海とは友好的であったという通説に反して、彼にも激しい論争を挑んでいたことがわかる。ただ、最澄と違って空海は、この批判に正面切って答えようとしなかったために、表面上、論争がそう目立たなかっただけである。 しかし、空海が、批判に一部答えている『秘密曼陀羅教付法伝』を、徳一の『真言宗未決文』と対比して読めば、天才僧侶・空海という伝統的なイメージに動揺がくるのを禁じ得ない。
廷議に逆らって東国に流された、という伝えがあるが、、空海が徳一に宛てた書状に、学徳一世に高い彼が、法を求めて東国に向い、人々の間に教えを広めたといっているから、そういう事実はまったくない、といってよい。 最澄が天台宗を開き、法華一乗の法によって、万民平等の菩薩を成し遂げようとするのに対して、徳一は激しい非難を加えた。悉有(しつう)仏性とか一性皆成などというものは、すべて仮の方便である、五性は各別であり、救いに三乗の別がある、というのこそ真実なのだ。 徳一はそう批判して、三乗真実、一乗方便の論を展開した。日本仏教史では、通例、天台の側に立って、大乗一実の道を正統と決め込んでいる。しかし、そこには、色々の問題があるように思う。
本日は歴史の面白さについて述べたい。実は明治23年(1890)の若松町役場の旧藩士名簿という貴重な史料を手に入れ、原稿にしようと、房総半島会津藩士顕彰会の会報11号作成、郵送と同時平行で調べているのだが、今日になって「若松町栄町 辰野次郎(安政4年生まれ)」が、江戸湾防備で7年間、上総国飯野に滞在しながら、郷里に戻ることなく現地で亡くなった藩士辰野央信の子孫と判明したのだ。 央信の子孫で新しく顕彰会会員になった都内在住の辰野一郎氏が、先祖で500石大目付の13代源左衛門は戊辰戦争後、斗南に流され、明治6年、会津に戻って来た史料で、「次男次郎 17歳」と、小生の史料で、栄町に住む辰野次郎と年齢的に符合し、間違いないことが分かったのである。 実に嬉しい。これが活きた歴史なのだ。旧藩士(士族)一覧は近く『会津人群像』で発表する予定で、大きな反響があるに違いない。特に藩士の子孫関係者にとっては。
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白秋は、はなやかな悔恨のような感覚で「真実鈴ふり」と詠ったのであるが、碩徳、徳一もまた「斗薮(とそう=托鉢行脚のため)京を離れ、錫を振って東に赴く」のである。 この「真実一路の旅」こそは、東国そして会津に初めて法の歴史と文化を開き、日本古代史には、法の救いが右すべきか左すべきか、仏道の分水嶺を越えるための選択がかけられた旅であった。 以下は1200年前の「古代真実一路」である。奈良では修円という僧について法相宗を学んだが、都市仏教の堕落を嫌って、その改革を志し、都を離れ、法を求めて東国に下った。 まず常陸の筑波山に籠って中禅寺を開き、次いで会津に移って慧日寺を創立、東国に初めて民衆のための法の世界を開いたのであった。
山本有三の『真実一路』は、北原白秋の有名な『巡礼』からの引用で始まる。 真実一路の旅なれど 真実 鈴ふり思ひ出す 白秋の詩は、一人の人における二つの真実を、どちらかというと、絵画的に詠って美しい。 これに対して有三の『真実一路』は、相容れない二つの人格の、実存的な真実の平行線を描き、それが子にまで引き継がれていがみ合う真実修羅の世界である。 この真実一路のゆえに、激しく衝突し、闘争しなければならなかった平行の歴史を、もっともっと彫りの深い形で徳一と最澄、空海という法の対決においてみる。 それが相伝の対決となって、長い論争史を形成する点でも、これは古代真実一路である。
會津ではもう一つ、平安初期の會津びとの名を数多く伝えている経筒銘がある。それは如法経といって法華経を書いて納めた筒の銘文で、保延5年(1139)のものである。 但し、『新編會津風土記』(1809年完成)に紹介されているだけで、現物はない。ここには10人ほどの名が挙げられているが、その中に、日奉、物部などのように、丈部などとは別な古い氏族の名も見える。 會津の古代を背負った氏族の構成を知らせるものとして、これは甚だ貴重である。 ◇ ◇ ◇ 1年余に渡って書き続けて来た「歴史小説 鶴ヶ城物語」も間もなく完結する。長い間、愛読して頂き感謝申し上げる。鶴ヶ城の話題を中心に、會津にまつわる史実、話題を書き続けてきた。中には、初めて知った方もおろう。参考になってくれれば幸甚である。 次は、電力に関係する話題が全国に広がっており、原発ゼロになる、この夏を乗り切れるのか、不安も高まっている。現在の電力10社による独占体制はどうして生まれたのか、東日本と以西の周波数の違いはどうして生まれたか?などを分かりやすく解説したい。
金石文に名をとどめている人としては、南会津郡田島町(現南会津町)の熊野神社の御正体(みしょうたい=懸仏)の墨書銘に源貞明の名がある。康和2年(1100)の銘があるが、文章には、やや不審なところもあるようなので、名前だけを挙げておく。 この種のもので確かなのの初めは、喜多方市慶徳町の松野経塚出土の経筒のうちの石櫃に書かれた銘文がある。大治5年(1130)の製作で、ここには大檀越平孝家・散位源俊邦の名が見える。 極めて丁寧な作りは、やがてその檀越たる両名をも、會津の名門と推定せしめる。しかし、源氏といい、平氏というのは、遡っても平安初期どまりの新興氏族である。 恐らく平将門の乱(935)の前後から前九(1051)、後三年の役(1083)頃にかけて、會津入りするようになった源平の流れに属するものか、ないしは、そのような名を新たに侵すようになった地元の武士たちかであろう。 會津における中世は、こういう人たちのよって開かれていった、と考えてよい。
會津の人といってよいかどうか、多少疑問はあるにしても、會津の人とほぼ推定できる者に、會津牡麻呂(あいづのおまろ)がいる。延暦8年(789)、紀古佐美(きのこさみ)という将軍が、坂東の安危をかけた大決戦を、北上川を挟んで蝦夷との間に戦ったことがある。 しかし、その戦闘では、上級指揮官たちが、第一線の指揮を下級武官に任せて本営を動かなかったために、下士官、兵士が全滅に近い大敗を喫したのであった。會津牡麻呂という下士官も、壮烈な戦死を遂げた。 この時、一緒に戦死した人には、東北出身者もいるので、會津を氏名とする人は會津出身者と看做すことができるであろう。 但し、彼には阿部氏や丈部との関係があったかどうか、見当がつかない。これは、推測であるが、牡麻呂はかなりの地位にあることから、然るべき名門の出であろう。阿部會津臣牡麻呂ー正式に言えば、そんなふうにでもなるのが、通称で表わされているのではないか、そうも考えられるのである。
大化改新以後の律令時代でも、その名門氏族としての社会的地位はやはり氏姓をもって表示された。だから、東北の名望家は、古い系譜をたどって、阿部臣、毛野公、大伴連などという氏姓を下賜された。 大彦命、武渟川別命の古い伝統を持つ會津の名門氏族が、阿部氏の分かれという形をとるのは当然である。會津の郡領(郡司)もこの家柄の形をとる。古く国造もそうであったろうと思われるのである。 承和7年(840)、耶麻郡大領の外正八位上勲八等の丈部人麿が、上毛野陸奥公の姓を賜わったとある。 この一族と、神護景雲3年(769)の丈部庭虫の一族とが、血縁上の繋がりまで持つかどうかは不明であるが、同じ會津の中でのことだけに、広義の一族をなしていた者の子孫と考えておいて、そう間違いはなさそうである。
こうしたことは、大化前代から大和朝廷の中で、特に蝦夷経営に功績のあった阿部、毛野、大伴などの大氏族のもとに、東北の有力者たちが、その一族、部下とともに、部民(べみん)、つまり服属集団のようにして仕え、そうでない者までもそういう名前を侵して、その地位を誇っていた名残りのようである。 丈部というのは阿部氏の、吉弥侯というのは毛野氏の、また大伴部というのは大伴氏の、それぞれ部民のような形を古くとっていたのである。 ◇ ◇ ◇ 今日から4月、ようやく春の訪れだ、と思ったが、昨日の強風雨といい、今日は寒い。変な天候が続く。今年は、どんな年になるやら、民主党政権と同じく不安定だ。 わが郷里會津でも不安材料は多い。原発から120キロも離れている南会津郡金山町の沼沢漁協が沼沢湖でのヒメマス放流と捕獲を今年は中止した。 1kg100ベクレルの基準を超え、120ベクレルのセシウムが検出されたという。明治末期から始まった100年の歴史を誇る県内唯一のヒメマスの産地はピンチに立たされている。