天正18年(1590)の7月、秀吉が小田原の北條氏を滅ぼした後、會津へやって来た時は、この道を通った。それから10年後の慶長5年(1600)、會津征伐に乗り出して来た家康軍を、白河の南方、皮籠ヶ原の湿地帯へ誘き寄せ、殲滅しようと諮った時、上杉景勝や直江山城等は、勢至堂峠を越えて乗り出して行った。 さらに明治戊辰の役に、會津藩の家老西郷頼母は、白河口総督として、この勢至堂峠を攻守の要所とした。 私の母方の親戚は、長沼の南方3里、現在の西白河郡大信村と変わっている下小屋で、造り酒屋をしていたが、この戦の時、會津軍主将の宿所となった。 そして會津軍が退却の際、塗駕篭や青貝鞘陸奥守歳長の刀を置いていったが、それらが西郷頼母のものであったかどうかは聞いていない。
私の祖先は岩瀬郡長沼町に、200年近く住んでいた。代々水戸藩士だったが、長沼が水戸領になったのは、元禄13年(1700)とあるから、それ以来ということになる。 明治維新後、一家一門は四散してしまったが、先祖の墓があるというので、少青年の時代、二度、親に連れられて墓参りに行ったことがある。また「碑」を書くために、30代の頃、一人で長沼を訪ねたこともあった。 3年ばかり前、ある出版社のカメラマンと共に、白河から車で長沼を訪れた折、私は初めて勢至堂峠を越え、會津の地に入った。茨城街道の名で呼ばれているこの道は、古い駅路である。 崇神天皇の10年(88)四道将軍の一人武淳河別命(たけぬなかわわけのみこと)が久慈川を遡り、會津に入ったという古事記の記載が事実ならば、恐らくこの道を通ったことであろう。
めでたいことがさらに重なった。松平家に仕官してから間もなくのこと、高倉が上野のあの寺院に行っての帰途、おりからの雨の後の道の悪さに、乗っている馬が蹄を踏みすべらせてよろめいた弾みに、高倉は落馬し、右の腕をしたたかに打った。 その腕は又八郎を返り打ちにした時、負うた傷がひきつりになり、屈伸の自由が きかないようになっていたのだが、この打撲で傷の跡が破れて多量に出血したところ、以後、自由に屈伸ができるようになったので、時の人々は高倉を、 「まことに冥加に叶った武士である」 と云ったという。 この話は劇的に過ぎて、後人の作為が相当加わっているように思われるが、それは高倉に彼の知らない子があり、それと邂逅したなどというくだりが作為部分で、他の部分はいかにもその時代に相応しい話になっているから、実説とみてよいのではないかと思う、故長谷川伸の名戯曲「疵高倉」は、この話が材料となって作られた(完)。
それはまさしく、東郷茂兵衛と決闘した夜に、女中に与えた短刀であった。さすがに豪気な高倉も胸に迫って涙をこぼし、少年の手をとって引き寄せた。 やがて母も立ち現われた。3人相対して涙にくれているところに、住職も出て来て、不思議な縁と、酒を出してくれ、親子夫婦の奇遇を祝わせた。 このことが神尾備前守から松平大和に知らされると、大和守も奇遇を喜んで、高倉を500石、少年を別に200石に召し抱えたという。 ◇ ◇ ◇ 昨日でNHKの「坂の上の雲」が終った。感激しながらテレビを観たのは久し振りだ。主人公の秋山兄弟は伊予・松山出身で、河野水軍の後裔だが、以前、書き込んだように、筆者も同じ系属である。家紋は隅切り四角に三。これは瀬戸内海にある大三島からとったものだ。家紋とは元々は、戦の際の旗指物で、いわば目印のようなもの。 この島にある大山祗神社には、河野氏が鎌倉時代の元冦の際、必勝祈願して奉納した太刀類は国宝だ。毎年7月には「河野会」があり、全国から河野氏が集結している。 そういえば、12月4日の読売新聞日曜版に作家北方謙三が、同じ時代、九州西部に勢力のあった松浦水軍の末裔だとか。それを知って、妙に親近感を覚えた。
「お引き合わせするのは、とくと貴方様のご心底を承っての上のことに致します。貴方様はお会いになった以上は、その母をご本妻にそなえ、そのお子を総領にお立て下さいましょうか。しかとそれを承りましょう。そのようにお誓い下さらぬ限り、お引き合わせは出来ぬことでございます」 と、少年の言葉は厳しい。 「勿論のこと! 誓い申す!」 と熱し切って高倉が云うと、少年ははらはらと涙をこぼし、 「その子と申すは、わたくしでございます。証拠の短刀もここにございます。ご覧下され」 と差し出した。 ◇ ◇ ◇ 昨日、年末恒例の正月用の餅が会津から届いた。クリスマスプレゼントだ。母の実家、会津若松市甲賀町の日本一本店は筆者が初孫として生まれた家。明治末の創業で、現在6代目。 白い餅と豆餅、よもぎ餅の3種類で、店の土産品「黄金餅」だ。年末は注文をさばくのに、大晦日まで頑張る。原発の風評被害、不景気を吹き飛ばして頑張れ!
「思うところがあって、お尋ねしているのでございます」 少年は真剣な目つきで高倉を見つめる。 高倉はしばらく考えていた後、云う。 「全く覚えのないこともござらぬが、それにしても、どうしてそんなことをお尋ねなさるのだ」 と、高倉も真剣な目つきになった。 「あなた様のそのお子を、仔細あって、わたくしよく存じているのです。貴方様は元会津加藤家のご家来であったと承っていますが、その頃、女中衆にご寵愛の者がございましたはず。しかじかのことがありましたので、短刀一振りをお与えになって、お別れになりましたはず。その後、その女中は男の子を産んで、様々な辛苦のうちにその子を育て上げました。唯今、わたくしと同じ年になっています。いかがでございます。お覚えがございましょう」 高倉は驚き一方でない。 「覚えがあるどころではない。それは全く拙者の子に相違ない。唯今どこに住んでいましょうか。お引き合わせ下され!」 と呼吸を切って頼んだ。
少年は母を連れて出かけた。高倉は少年に会って、 「お喜びあれ、町奉行の神尾様のお世話で、そなたも拙者の仕官することになっている松平大和守様へ御奉公が叶うことになりましたぞ」 と告げた。少年は篤く礼を云った。 母は隣室の襖の陰から高倉を見ていた。高倉の面部には幾筋かの刀痕があって、昔と面影が変わっているが、身ごなしや音声は昔のままだ。間違いないと見た。飛び立つ思いだ。万感が胸に迫って、涙がこぼれて止まない。声を立てて泣きたいのをやっと堪えていた。 少年は母に申し含められたことを訊ね始める。 「異なことをお尋ね致しますが、貴方さままにはお子さまはないのでございますか」 高倉は笑った。 「拙者はこれまで妻を持ったことがなく、独身を通している故、子はござらぬ」 「妻はなくとも、妾や女中に子を産ませた人は珍しくありません。そのようなお子もございませんか」 「そなた、何故そんなことを聞きなさるのだ?」 と高倉はいぶかし気な顔になった。
「その人はそなたの父上かも知れぬ。今まではそなたにも包んでいましたが、そなたの父上は元会津加藤家の家中で、しかじかのことがあって会津を立ち退かれたのです。私はそなたの父上の許に女中奉公をしていて、お情けを受けるようになったのですが、そなたを宿した頃、思いもかけず、今申したことが起って、短刀一振りを戴いて、お別れしたのです。この短刀です。今こそ、そなたに渡しましょう」 と一振りの短刀を出して来て、少年に渡した。思いもかけない話に少年は驚いて口もきけない。 母は少年に、この次にそなたがその方にお目にかかる時には、私も連れて行っておくれ、私は物陰から、その方をよく見ます。そなたはかようかようにお尋ねしてみなされよ、と教えた。 数日経って、寺から少年の許へ、高倉殿のお世話で、よい奉公口がありそうであるから、すぐにお召しあれと云って来た。
その頃のある日、高倉の止宿している寺の住持が、高倉に13、4の美しい少年を紹介して、 「この若衆は、貴殿と同じ苗字で、高倉宗五郎と申される。拙僧の心安くしている家の子でござるが、武家方に稚児小姓を望んでおられる。貴殿は大名、旗本衆にお顔の広い方でござれば、心掛けておいて下されよ」 と云った。高倉は、 「よろしゅうござる。稚児小姓は年若いうちのもの。一日も早いがようござれば、今明日中にも出入り先に問い合わしてみましょう」 と、快く引き受けた。 少年は喜んで、礼を云い、家に帰ると、母に今日の高倉の言葉を語った。母もまた喜んだが、その親切な武士の名が高倉長右衛門というのであると聞くと、顔色を変えて姿、形、年のほど、言葉使いなど詳しく訊ねてから、しみじみと云う。
当時の武士社会では、武勇を武士第一の資格としたので、見事に敵を討てば勿論称賛されたが、見事に返り打ちにしても名誉とされた。高倉の名は一時に高くなった。 彼が二度の決闘によって、面部から手足の末に至るまで全身疵だらけになっているところから、「疵高倉」と異名されて、江戸中の人気者となった。 人気者を賞翫するのは、今も昔も変わりはない。彼は諸大名や大身の旗本らに呼ばれ、出入りを許されたが、とりわけ、その頃の江戸町奉行神尾備前守に贔屓にされ、その取り持ちで出羽山形の松平大和守直矩に召し抱えられる約束まで出来た。 ◇ ◇ ◇ 北朝鮮の金正日は心筋梗塞で急死したのだが、このニュースは世界を駆け回った。とりわけ、隣国であるわが国は、右往左往したようだ。共産国家で金王朝という特殊事情の国だけに、ジャスミン革命の波も住民には届かない。住民には、ネットをやるパソコンさえ買えない、という極貧生活にあるからだ。世界から完全に隔離された国。こんな国があっていいのか。不安定は世界を不安に陥れるが、3代続く世襲王朝よ、何処へ行く。
正月2日の白昼のことだ。見物人が群集した。その中の一人の武士が、大きな声で叫んだ。 「着込をしていると見えるぞ!足を払え!」 肌に鎖帷子(かたびら)を着込んでいる又八郎は、これを耳にすると、単なる助言とは思わなかった。てっきり、高倉に助太刀の者があると思い、ちらとその方を振り向いた。 それが隙になった。すかさず、高倉は踏み込んで斬りつけた。又八郎はしたたかに太股を斬られ、たじたじと退ったそこをまた高倉は踏み込んで斬り、遂に仕留めた。 ◇ ◇ ◇ 北朝鮮の金正日総書記が17日に急死ーとテレビ発表。69歳。現場を指導に向かう途中、らしいが、反乱分子に射殺されたのでは?長い間、親子で独裁体制を築いて来た金だけに、憶測が世界を駆け回ることだろう。 中東のジャスミン革命が北朝鮮に及ぶ前に死んだことになり、後継者の三男で国が治められるのか?内戦が起きて、不安定な状態に陥ると、火薬庫だけに大きな危険がわが国に〜。
「兄の仇!許さぬ」 という声は、斬り掛かってからであった。 高倉は仇として狙われる身であることを知っていて、用心を怠っていない。素早く飛び退いて、睨みみすえ、 「卑怯もの!敵討ちは尋常にするものであるぞ!不意打ちするとは何事!」 と叱咤しながら、袴の裾をかかげて腰にはさみ、抜刀した。 激しい斬り合いが始まった。又八郎も数カ所の傷を負うたが、高倉も負うた。取り分け、左右の指を数本斬られて、刀をつかむ手に力が入らない。血糊にすべって、ともすれば取り落としそうで、受け太刀になった。 ◇ ◇ ◇ テレビが故障して昨日、業者を呼んだ。「18,000円くらいかかります」といわれ、年末の思わぬ出費を覚悟した。が、しかし、テレビの液晶パネルを交換した業者は、「無料です」。購入して4年しか経っていないので、詳しい説明はなかったが、不良品だったようだ。 電気製品は当たり外れがあるようだが、保証期間は延長した方がよいーとの御託宣。でも、なにか儲かった気がした。
討たなければ武士として世に立つことは出来なくなるのである。兄弟は茂兵衛の敵討ちをすることにしたが、間もなく兄の権左衛門は病気になり、遂に死んだ。 責任は又八郎一人にかかった。又八郎は方々の知るべに連絡して、高倉の在所を探っていると、高倉が江戸に出ているということが分かったから、もう一刻も我慢が出来ない。老母を知るべに頼んでおいて、江戸に出て、探索に関わると、高倉が上野の寛永寺の中の某院の住職と知り合いで、ここに身を寄せていることが分かった。 又八郎はこれを付け狙ったが、上野山内は殺生禁断の聖域である上に、代々の将軍の廟所であるから、どうにも出来ない。外出を伺っていると、ある年の正月2日、高倉が知るべに年頭の祝儀にでも行くつもりであろうか、折り目のついた紋服と袴をはき、編笠に面体を包んで、山を出て来るのを見た。 又八郎は先回りして、本町通りに出るところの町木戸の陰に隠れていて、いきなり斬ってかかった。
高倉は、我等も同道しようと、立ち上がって、うち連れて東郷の家に向かった。東郷は高倉を門外に待たせて家に入り、急いで片づけ物をして出て来た。 いまはもう互いに心にかかることはさらさらないと、里遠い場所に行き、思うがままに斬り合った。いずれも手練者だ。戦いは数時間にわたり、双方、数カ所の傷を負うたが、高倉が打ち勝って東郷を倒し、止めを刺した。 高倉は知人の家に立ち寄って事情を告げ、下人数人を貸してもらい、その者共に介抱させながら会津を立ち退き、日光の山中で傷養生し、平癒してから江戸に出た。 討ち取られた東郷には権左衛門、叉八郎という二人の弟があった。尋常の勝負によって討たれたのではあるが、武士の意気地は格別である。目上の肉親の仇は理由の如何を問わず討つべきものというのが武門のしきたりである。公法もまたこれを認めている。
だから、高倉は帰宅すると、下僕に、 「やがて東郷茂兵衛が来る。来たならば、主人が先刻からお待ち申していると申して、お通しいたせ」 と言い含めた後、死後見苦しくないように、身辺の書類などを取り片付けた上で、着替えして待った。 間もなく、東郷が来る。高倉は客間で対面して、従容と云う。 「おぬしが来たわけは判っている。われもその覚悟で、支度して待っていた。しかし、我等は死後のために、残しておいては悪い書き付けや見苦しいものをすべて取り片付けたが、おぬしはどうだ。片付けたか?」 東郷ははっとした顔になって、 「恥ずかしいことながら、そこまでは心がまわらなんだ。心づけの段、礼を云う。さらば、我等は一旦帰宅して取り片付けた上で、出直して参ろう」 と云って立ち上がりかけた。
夜中近くになって、皆散じて各々帰宅したが、高倉はこのままに収まるべきこととは思わない。いずれ東郷が先刻の争いの決着をつけに来るであろうと思った。 東郷が特別執拗な性質だからではない。この時代の武士は意気地を最も重んじた。もっと後の時代になると、いわゆる武士道が発生して、武士の行動を律するものは、今日の武士道と最も似たところを持っている武士道であるが、この時代の武士の行動は、意気地によって律せられていた。 だから、止められたからとて喧嘩を止めれば、命惜しさに、いい幸いとして止めたと批判する者が必ず出て来るのである。そう云われては、武士交わりは出来ないから、云った者を斬らなければならない。それなら、最初の喧嘩をとことんまで続けた方がよいのである。 ◇ ◇ ◇ 今年の漢字は「絆」。2位以下は「災」、「震」、「波」だった。筆者は、大震災ー原発事故と災害が続いたので「災」と書き込んだ。「絆」は既に10号になった房総半島会津藩士顕彰会の会報のキャッチコピー「江戸湾を巡る絆」として使っており、我ながら、よく考えついたと自画自賛。
蒲生氏の後、会津の領主になったのは加藤嘉明であるが、加藤家は17年しか続かなかった。嘉明の次の明成というのが、暗患で、暴悪で、貪欲で、遂に没落ということになった。この経緯は他の人が書いた由であるから、それによって、お読み戴きたい。 加藤家の没落の際に起った奇譚が、『砕玉話』と『古今史譚』とに出ている。両書の伝えるところは部分々々多少の相違があるから、取捨総合して書いてみよう。 没落直後のことだ。ある夜、家中の武士数人が集まって、何くれと物語りしているうちに、馬廻りの高倉長右衛門と東郷茂兵衛との間に、ふとした言葉の行き違いから、激しい公論が起き、双方刀の柄に手をかけるまでに激し上がった。居合わせた連中が引き分けて、どうやらその場はことなく済んだ。 ◇ ◇ ◇ イオングループ(千葉市)が全国展開する飲食店「おひつごはん四六時中」が会津産コシヒカリを使った「ソースカツ丼」などを広めている。原発事故の風評被害に悩む会津米の安全性や水準の高さをアピールする狙い、とか。会津にとって、大きな味方が付いた感じで嬉しい。皆さんの協力をお願いしたい。
数年経って、江戸に大火があり、炎が天寧寺にも及んだ。由解は人々をかいがいしく指図して、本尊から寺宝を全部安全なところに移し、坊さんや人夫らも避難させたが、自分は行方不明になった。 鎮火の後、焼跡を調べてみると、本堂の真ん中に、本尊の台座に向かって、結跏趺坐、合掌した端然たる姿で、焼け死んでいたので、江戸中の美談となったというのである。 「最早、由解はこの世が嫌になったのだが、寺の恩義を受けたままなので、死ぬにも死ねずにいたところ、こんどの火事で報恩することが出来たので、これでよしと、自ら焼け死んだのであろう」 と、『宝鳩巣』は書いている。 美しい話である。昔、この話を、会津蒲生家の家老であった町野左近と町野の被保護者であった少年山鹿素行の二人に絡ませて、「梅白し」という小説にした。知ってお出でであろうが、素行は会津で生まれた人である。
それは蒲生家にいる頃に、大崎一揆、九戸(くのへ)合戦等を初めとして、方々の戦場での働きによって彼の貰った感状類であった。住持は、世にある頃は由解はなかなかの武功の士であったことを初めて知って、益々ゆかしいと思った。 由解はその書類を引き取ると、引き裂いて、炉に投じた。あっと云う間もない。見る見るうちに灰になった。 驚いている住持に、由解は云う。 「世を捨てたつもりでいながら、かようなものを今日まで大事げに持っていた未練が恥ずかしうござる」 由解は寺に留まっていたが、そういう人物なので、その後、本寺の天寧寺に抜擢され、天寧寺の事務を沙汰することになった。勿論、その評判は寺内でも俗家でもよい。
「それには最も格好な者がございます。かようしかじかの人物」 「それは嬉しいこと。ぜひ召し抱えたい」 住持は帰るとすぐ、由解を呼んで、今日の話をしたが、喜ぶかと思いのほか、由解は静かに言う。 「折角の御親切なお言葉ではございますが、拙者は再び世に出る心は捨てています。お差し支えなくば、従前通り当院においていただきたいのです」 「それは少しも構いませぬが、さりとは惜しいこと」 住持は驚きながら言う。由解は 「いやいや、あくせくと世にあるより、今の境涯がいくらよいか知れませぬ」 といって自室に帰り、一包みの書類を持って来て、住持に見せた。
「お見受けしたところ、これからお旅立ちの様子でありますが、どこへ参られます」 「拙者は、この数年、西国にいましたが、浪人のたつき(よるべ、生活の手段)のないままに、知るべを頼って江戸に出て来ましたところ、その知るべは数年前から行方知れずになっていました。それで、また西へ帰るのであります」 住持は、浪人のいかにも篤実な感じであるのが、気に入って、 「そういうことなら、当院に留まり為されよ。及ばずながら、お世話申しましょう」 と言った。 浪人は感謝して、寺に留まることになった。浪人は元会津蒲生家の家中由解某といった。篤実でもあったが、事務の才幹もあり、何くれとなく寺の俗務を処理して、少しも手落ちがない。寺内では、皆喜んだ。 両3年たって、住持の出入り先の大名の隠居が、住持に、 「世馴れて、話題が豊富で、性質のよい人物がいたら、話相手として召し抱えたい。ご坊は世間の広い人である故、気をつけていて下されよ」 と頼んだ。住持はすぐ由解を推薦した。
蒲生家は氏郷の死後、一旦、宇都宮に移された。関ヶ原役後、また会津に帰って来たが、寛永4年(1627)、氏郷の孫忠郷に嗣子がなくて亡くなったので、会津蒲生家は断絶した。 忠郷には忠知という弟があって幕府は伊予松山に20万石の家を立ててやったのだが、これも数年後に嗣子なくして死んだので、ここに完全に蒲生家は滅んだ。 会津蒲生家の浪人か、松山蒲生家の浪人か、はっきりしないが、蒲生浪人由解某の話が『駿府雑誌』に出ている。 江戸の芝・西ノ久保の浄土宗の大寺天寧寺で、ある年の秋、大念仏の興行があった。そこへ一人の旅姿の武士が来て、自らも念仏を唱えながら大念仏の様子を見ていたが、その様子がいかにも殊勝げで、信心深気である。天寧寺の子院の住持の一人がそれを見て、心を引かれ、声をかけて自分の寺に連れて行き、茶などを供してから、訊ねた。
忠興は所望はしたものの、人の家の重代の宝器を譲ってもらったとは心無いことをしたものと後悔して、返却しようと申し込んだが、氏郷は、 「既に差し上げたものでござる。さようなご斟酌は要らぬこと」 と、受取ろうとしない。忠興は氏郷の死後、子の秀行に返したという。 蒲生家が父祖以来、いかに義理堅く、また清白な心の家であったか、よく判るのである。秀吉はこの点も見て、氏郷を会津に封じたに違いない。いかに手腕才能が優れていようと、誠実でない人間は信頼出来ないのである。 ◇ ◇ ◇ 経営再建中の歴史春秋社(会津若松市)に協力するため『会津人群像』に執筆しているのだが、現在NHKで第三部がスタートした「坂の上の雲」に合わせて「陸軍大将柴五郎」を提稿したが、作業が遅れて「20号の出版は12月中」になった。馬鹿な連中だ。 日露戦争に勝利したのは日本海海戦でバルチック艦隊を破ったわが連合艦隊の活躍だが、その裏には、義和団事件で世界的なヒーローとなった柴五郎の活躍があったから。これが日英同盟締結になり強大なロシアに打ち勝ったのだ。柴五郎の活躍に標準を合わせた読み物は、テレビ放映前に出版してこそ「売れる」のに、間に合わないのだ。倒産したのは当然だ。折角の読み物が台なしだ。不愉快!
次は蒲生氏郷。 蒲生家に、源平合戦の頃、宇治川の先陣をした佐々木四郎高綱の鐙というのが、先祖代々伝わっていた。これを細川忠興が所望した。氏郷は承諾したが、家来の亘理八右衛門と言う者が、 「これはご当家の家宝でござれば、他に遣わされることは如何、以よりのものを求めて、お遣わしになるがようござる」 と言った。すると、氏郷は、 「『なき名ぞと 人には言ひてやみなまし 心の問はば何と答へむ』という古歌がある。人は知らずとも、わが心に恥じぬわけにゆかぬ」 と言って、忠興に贈った。 ◇ ◇ ◇ 今日の読売新聞に、巨人軍が清武氏を名誉毀損で提訴の記事。何と19面全面を使ってナベツネの言い分を掲載した。老害の言い分を聞いているのが石井社会部長。これは筆者が浜松支局時代、新人で入社し、使いものになる記者だった。 それがナベツネの言うなりの紙面を作る役目になるとはー、本当に情けない。読売社内にはナベツネに物言う記者は誰もいないのだ。読売新聞の暗〜い将来をみるようだ。読みたくないが、ただなので読んでいるのだ。
その安土城を出る時だ、夫人が、 「お城に火をかけよ」 といったところ、賢秀は、 「当城は故右大臣様が年来心をつくして築き給うた、天下無双の名城でござる。拙者には、それは出来ませぬ」 と拒んだ。夫人はまた、 「さらば金銀財宝など、敵に乱捕りにされること誠に無念。その方に遣わす故、持ち去るよう」 と言ったが、賢秀は、 「敵に乱捕りされることは無念ながら、この期に及んで私を営んだと批判されては口惜しゅうござれば、それも拙者には出来ませぬ。賊兵らが、この城に入って乱捕りすれば、冥加忽ちに尽き、自滅を招かんこと必定、幸いなことであります」 と答えて、一亳(いちごう=ほんのわずかの意の漢語的表現)もとらず、金銀財宝の目録を代官の木村某に、城と共に渡して、日野に向かったというのである。 (安土城は天守を持つ最初の城であったが、明智勢に焼かれて灰燼に帰した)
「畏まりました。あれは馬鹿正直といわれているくらいの者でござるが、それだけに性根は頼もしゅうござる。見事に説き伏せましたなら、必ずお役に立つ者となるでござろう」 友盛は日野に行って賢秀に会い、心を込めて説いたので、賢秀もやっと得心して開城、降伏することになったのである。 賢秀の義理堅さを語る話はまだある。 信長が本能寺で明智光秀に殺された時、安土城の留守役を承っていたのは賢秀であった。賢秀はやがて押し寄せて来るであろう明智勢を引き受け、城を枕に討死する覚悟を決めていたのだが、部下らの逃走が多くて、見苦しからぬ抗戦が出来そうもない状態になったので、信長夫人生駒氏をはじめ信長の一族や女中らを連れて日野城に退却した。 ◇ ◇ ◇ 本日は、マンション恒例の年末餅搗き大会。役員さんらが朝早くから準備し、10時過ぎには搗きたてのアンコロ餅やきな粉餅を賞味した。被災した際の緊急対策として入居以来、20年以上続いている。今どき、臼に杵まで用意している所も少ないのでは。結構な行事ではある。
日野城のある辺りは岐阜(とはいわなかった、美濃だろう)から京へ至る幹線道路を外れているから、信長にとって、さしあたってどうというわけでのものでもないが、放置しておいては権威にも関するし、後の患いの種ともなる。 柴田勝家、蜂屋頼隆らを派遣して攻撃させたが、賢秀の防守は巧妙で、勇敢で、寄せ手は攻め倦んだ。 伊勢の神戸友盛は賢秀の妹婿だ。友盛はこの年の2月、信長が伊勢北部を攻略した時、信長と和睦し、信長の三男信孝を養子に迎える約束などして、織田党となっていた。信長はこの友盛を呼んで、 「蒲生賢秀はそなたの妻の兄じゃというが、なかなかの者じゃな。武勇のほどもじゃが、今の世には珍しい義理堅さじゃ。気に入った。あの小城に籠っていること故、いくら強くても攻め潰すに造作はないが、むざむざと殺すのは惜しい。そなた行って開城するように口説いてくれんか」 と申し渡した。 ◇ ◇ ◇ 福島県中通りの米から、さらにイノシシやクマの肉からもセシウムが検出され、福島、栃木、茨城の肉が出荷停止に。まるで、野生動物の巣がある”未開”の地のようだ。情けない。かろうじて、わが会津だけはセーフ。
主のためには、飽きも、飽きれもせぬ仲の息子夫婦を離婚させてまで力を尽くすこの義理堅さに、六角父子の定秀に対する信任は最も篤いものになり、定秀は六角家の家老となった。 次は定秀の息子の賢秀の義理堅さの話だ。 永禄11年(1568)、織田信長は足利義昭の依頼を受け、これを奉じて京に入る計画を立て、六角氏に協力を要求した。が、六角承禎は拒絶したばかりか、当時京畿の権勢を握っていた三好党と通謀して、立ち塞がって通すまいとした。 信長は一挙に蹴散らした。六角父子は観音寺城を出て、どこかへ落ち失せてしまったので、六角氏に服属していた南江州の豪族らは皆信長に降服したが、只一人賢秀は降らない。 「わが家は六角家の家老職を勤めている家である。主君の敵としてい給う者に降伏してなろうか。命のある限り、当城を守り抜く」 と宣言して、日野城に籠った。
定秀は謀反の発頭人である後藤但馬守とはごく親密な仲で、後藤の姉を息子の賢秀の嫁にもらっているほどであった。定秀は思案した後、賢秀を呼んで、 「今度の騒ぎについて観音寺(六角氏の居城のある所)のお屋形から、しかじかと頼んで来た。わが家は被官になっているというだけで、格別お屋形のお家から御恩を蒙ったことはないが、名だけにしても主従は主従だ。主から特に頼まれたとあっては、出来るだけのことはせねばならん。ついては、お屋形が疑心をお抱きにならぬようにせねばならん。そなたの嫁、あわれではあるが、離縁いたすよう」 と、申し渡して、離縁させた上、居城日野に六角承禎父子を迎えておいて、後藤但馬守とその一味の者共と折衝して、和議をまとめあげ、六角父子を観音寺城へ返した。