会津の歴史
河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2013年09月30日(月) 箱館戦争(29)
 風が強くなった。雲が重く沖合に垂れはじめ、素人眼にも容易ならぬ天候になりつつあることが分かった。歳三は艦橋を降りて舷側へ行き、先刻食べたものを一気に吐き捨てた。
 夜に入って晴雨計がどんどん下がり始め、風浪が激しくなった。それまでに回天は帆を一枚ずつ剥ぐようにおろしていたが、ついに汽力航走に切り替えた。
 夜半、当直士官が騒いだ。後続の蟠竜、高尾の舷灯が見えなくなったのだ。艦橋で仮眠していた甲賀館長を起こした。
 「彼等は、浪に任せている」
甲賀は驚かなかった。回天とは汽力が違うからだ。
 蟠竜と高尾はおそらく汽缶を止めて錨をおろし、ひたすら艦の損傷を避けるためにただ浮かんでいるだけの航法をとっているのであろう。
 その夜、回天は横波の為、舷側の外輪の覆いを壊された。
2013年09月29日(日) 箱館戦争(28)
 「妙案です。発見される危険性は伴うが、戦には賭けが必要でしょう」
甲賀源吾は、すぐに2艦に連絡し、錨を巻き上げ、やがて低速汽力で出航した。
 港外に出たら、蒸気を止め、帆走に切り替えた。幸い、追い風である。艦橋は静かだ。歳三も無口だし、甲賀という武士も必要なこと以外はほとんど口をきかない。
(この男は、箱館きっての人材かもしれない)
と歳三は、甲賀を好意的な眼で眺めていた。
 甲賀源吾は幕臣である。しかし、譜代の旗本ではなかった。遠州掛川藩士甲賀孫太夫の4男に生まれた。遠祖は、忍びで有名な近江国甲賀郡からでている。
 江戸で幕臣矢田堀景蔵(後に鴻・幕末の海軍総裁)について航海術を学び、後に荒井郁之助(箱館政府の海軍奉行)について高等数学、艦隊操練の蘭書を翻訳し、さらに長崎で実地に航海術を修業して、この技術で幕臣に取り立てられ、軍艦操練所教授方、軍艦頭などをつとめた。
2013年09月28日(土) 箱館戦争(27)
 回天、蟠竜、高尾の3隻は、その序列を守って一列で南下している。歳三は、旗艦回天の艦橋にいた。
 23日は、南部藩久慈の隣、土地では「鮫」と呼んでいる無名港に入った。3艦とも、幕軍の船旗「日の丸」を降ろし、マストに新政府軍の船旗である「菊章旗」を掲げていた。漁民や航行船の通報を畏れていたからだ。
 「土方さん、陸兵の斥候を降ろしますか」
館長の甲賀源吾が尋ねた。
「俺が行く」
歳三はそう云って、小姓の市村鉄之助一人を連れて短艇に乗った。
 鮫村、という漁村に着き、土地の漁師から新政府軍の動静をきいた。皆、知らなかった。
 歳三は一旦、艦に戻り、陸図を覗き込んだ。宮古湾をやり過ごせば、同湾から南5里に山田という漁港がある。
 「ここがいい、やや接近するきらいはあるが、山田村の人間なら宮古湾の様子を知っているだろう」
2013年09月27日(金) 箱館戦争(26)
 歳三の目の前に、ハンモックが、袋に包んで立てられている。歳三は、踏み込んだ。和泉守兼定が陽光にきらめいたかと思うと、ハンモックは縦真っ二つになって転がった。
 「腰をぐっと押して行って相手の臍にくっつけるところまで行って斬れ。切先で斬るのは臆病者がやることだ。刃は必ず物打ちで斬る。逃げながら相手の同を払ったり、籠手をたたいて身をかわすような小技はするな」
 聞いている連中も、各隊よりすぐりの剣客だ。新選組からは、野村利三郎、大島寅雄ら20人、彰義隊から、笠間金八郎、加藤作太郎ら20数人、神木隊からも三宅八五郎、川崎金次郎ら20数人が選ばれた。
 どの男も、京都、鳥羽・伏見、上野戦争、奥州戦争などで死地の中を何度も潜ってきた連中である。
 3月20日夜12時、彼らは3隻に分乗し、箱館の町をあとにして、密に蝦夷地を離れた。
2013年09月26日(木) 箱館戦争(25)
 新政府軍艦隊は北上を続けている。途中、幾度か時化に遭い、宮古湾寄港が予定よりずっと遅れた。
 五稜郭にある榎本は、海軍奉行新井郁之助に命じて、しきりに宮古湾周辺まで斥候船を出させている。
 陸軍奉行並の歳三は、軍服に乗馬用の長靴をはき、函館港内に係留している「回天」に乗り込んで毎日のように「斬り込み隊」の訓練をしていた。
 「よいか、人を斬る剣は所詮は度胸だ。剣技はつまるところ、面の斬撃と、突き以外にない。習い覚えた区々たる剣技の末梢を忘れることだ」
と歳三は、甲板上で右足を踏み出し、ぎらりと和泉守兼定を抜いた。
 瞬間、凄味があたりに満ち、陸兵も海員も、皆声を呑んだ。京都の頃、史上、最も多くの武士を斬って来た男が、殺人法の実技を見せようとしている。
2013年09月25日(水) 箱館戦争(24)
 軍艦が4隻、汽船が4隻だった。甲鉄艦を旗艦とし、これに次ぐ軍艦は薩摩藩の「春日」(1269トン)がわずかに期待されるだけだ。残る2隻は長州藩の「第一丁卯」(ていぼうー120トン)と秋田藩の「陽春」(530トン)だが、大きさ、速力、威力は蝦夷地側と比べれば問題にならない。
 3月9日、一斉に錨を上げて出航した。
 この事実は、横浜に潜伏していた間諜から蝦夷地側へ報告された。この間諜は外国人だったらしい。
 「春日」には、後の東郷平八郎が、23歳の3等士官として乗り組んだ。日露戦争でロシアのバルチック艦隊を撃滅した聯合艦隊司令長官である。
 この無口な若者は、砲術士官として舷側砲を受け持っている。東郷元帥の経歴の不思議さは、我が国におけるあらゆる海戦に参加したことにあるーと言われた。
 日露戦争の直前、海軍大臣山本権兵衛が、当時閑職の舞鶴鎮守府長官として予備役編入を待つばかりの運命だった東郷(当時中将)を司令長官に任命した理由を
「あれは天運のついた奴だ」
と語っている。
2013年09月24日(火) 箱館戦争(23)
 土方の提案に榎本だけは、しきりと頷いている。前に、この夢のような戦術を聞かされていたからだ。
 「しかし、土方君、我が方には、既に開陽がないのだ。以前とはこちらの条件が違っている」
と榎本は云った。
 開陽は昨年11月、江差の弁天島投錨地で台風に遭い、沈没してしまったのだ。蝦夷地政府の海軍力は半減していた。
 「回天があれば充分。我々を運んでくれればよい。乗っ取りは我々陸軍がやる」
皆沈黙した。旧幕府海軍の秀才たちは、こういう乱暴な戦術は学んだことがない。
 一方、新政府は、艦隊の編成に困っていた。政府の艦船は、甲鉄艦1隻、輸送艦は飛竜丸1隻きりだ。他は諸藩が外国から購入した艦船を集めるだけであった。
 そうした艦船が品川沖に集まって艦隊を編成したのは、明治2年3月のはじめだ。
2013年09月23日(月) 箱館戦争(22)
 明治2年(1869)2月になると、新政府軍の艦船8隻が品川沖で出航準備を整えているーという情報が、函館の外国商社から蝦夷地政府に入ってきた。
 その中に甲鉄艦が含まれているという。勿論、木製だが、甲鉄で包んで鋲(びょう)で打ちとめてあることから、通称で呼ばれたようだ。
 旧幕府がアメリカに発注し、できた時には幕府瓦解の直後だった。ためにアメリカ側は横浜港にうかべ、ー国際法上の慣例により、内乱が落ち着くまで双方に渡せない。と、どちらにも渡さなかった軍艦である。
 しかし、新政府は、佐賀藩の大隈八太郎(後の重信)らの苦心の折衝でようやく手に入れることが出来たのだ。
 この情報がもたらされた時、土方は、こともなげに言った。
「甲鉄艦は南部領の宮古湾に寄港するはずだ。その時に襲って奪い取ってしまおう」
 皆、あきれ顔で土方をみた。
2013年09月22日(日) 箱館戦争(21)
 函館港には旧幕軍の軍艦「回天」と「蟠龍」が入り込み、港と市街を制圧し、函館周辺の地を完全に占領した。拠点は五稜郭に決めた。旧幕府軍は、本格的な政権づくりを始めた。まず、政権の閣僚を選挙によって決めた。
 総裁は榎本武揚だった。副総裁は松平太郎、海軍奉行は新井郁之助、陸軍奉行は大鳥圭介、陸軍奉行並が土方歳三だった。旧幕府の若年寄だった永井玄番守が首都の市長ともいうべき函館奉行、松前城には奉行を置き、漁港の江差には江差奉行、さらに開拓長官として開拓奉行もおき、実戦部隊指揮官として海軍頭、歩兵頭、砲兵頭、器械頭などの旧幕以来の職を設け、22人の練達者が選任された。
 こうして体制を一新した蝦夷地共和国は、在函館の外国公館、商社などを招いて盛大な祝賀会を開き、イギリス、フランスなどから正式に政権として承認された。
2013年09月21日(土) 閑話
    会津藩士の蝦夷地移住 

 本日発売の『会津人群像』24号で会津藩士の蝦夷地移住をまとめて掲載した。小樽近くの余市町へ移住したことは知られているが、実は周辺の歌捨郡別手村や瀬棚郡などへも移住していたのだ。
 これら会津藩士の集団移住についての史料は会津図書館にもなく、広く知られることはなかった。
 上記の町村へ移住した藩士の総数は約730名で、刀を鍬に持ち替えて原野の開拓に挑み、逆賊の汚名を着たまま、厳しい環境で開墾に挑まなければならなかった。
 苦しい開拓生活の中で、我が国初のリンゴ栽培に成功し、「緋の衣」と名付けたことは明るい情報だった。
 移住者の中には、白虎隊士の生き残りもおり、開拓に見切りをつけて会津へ舞い戻った者もいる。
 この原稿はこれからの蝦夷地移住の貴重な史料となるのは必至。原稿をまとめるにあたり、史料や写真を提供していただいた北海道内の関係者に深く感謝したい。
 間もなく、関係者には本号を郵送します。しばし、お待ちあれ!

会津人群像24号
『会津人群像』24号
2013年09月20日(金) 箱館戦争(20)
 歳三は云った。
「松前殿がおられる江差まで隊士に送らせます」
とっさの判断で、名指しした。斎藤一と松本捨助の二人である。どちらも新選組の指揮官ではないか。
 しかも「江戸までお伴せい」
と命じた。斎藤は眉をひそめた。「土方さん、正気ですか」
「正気さ」
「あんたとは新選組結党以来一緒にやってきた。蝦夷地もこれからという時になって江戸行きとはあんまりだ」
「江戸に着いたら故郷へ帰れ」
 いよいよ斉藤と松本は驚いた。
「隊命に背く者は斬る、という新選組法度を忘れたか」
 有無を言わせず承知させ、餞別を与えた。
 二人は江差から蝦夷地を脱し、明治末まで生きた。斎藤一は藤田五郎として。
2013年09月19日(木) 箱館戦争(19)
 その頃には、法華寺山の味方の砲兵陣地から撃った弾が城内に火災を起こし始めていた。
 土方軍は全軍で乱入した。松前藩兵は城を捨てて江差へ敗走した。歳三は追撃を命ずるべきであったが、皆、寝るために松前城を陥としたのだ。
 兵士に「寝ろ」と命じてから、新選組のみを率いて自ら斥候になり、江差へ行く大野口の間道を登り始めた。山道を2丁ばかり進むと樵小屋があり、旧幕府歩兵が何故か先着していた。
 中に5人の御殿女中風の娘が、病人らしい若い婦人を守って凄まじい形相で懐剣を握っていた。松前藩主松前志摩守徳広の正室であった。
2013年09月18日(水) 箱館戦争(18)
 やがて5度目の門が開き、2門の砲が同時に火を噴き、歳三の背後にいた歩兵8人を吹き飛ばした。すぐに門が閉ざされた。
 歳三は20名の銃兵と共に走り、搦手門の目前まで接近して立射の姿勢をとらせた。
「門が開くと同時に射手めがけて一斉射撃しろ」」
 後方の味方は、地に身を伏せながら皆、かたずをのんで見守る。もし大砲の発射の方が早ければ、20人は歳三含めて木端微塵になるだろう。
 やがて門が開いた。にゅっと2門の砲が出てきた。と同時に20丁の小銃が火を噴き、大砲傍の松前藩兵がばたばた倒れた。
「斬りこめ!」
最初に飛び込んだのは彰義隊の寺沢新太郎、次いで新選組の斎藤一、松木捨助、野村利三郎だった。
       ◇   ◇   ◇
 新選組の斎藤一は、会津藩降伏後に奥女中の高木時尾と結婚し、斗南で艱難辛苦の生活を経て箱館戦争を戦い抜き、明治を迎える。以後は、会津藩主松平容保から頂いた藤田五郎として生きる。
 その五郎の次男剛の長男は横浜市役所に勤務し、その長男佳宏さん、すなわち藤田五郎のひ孫が三浦半島会津藩士顕彰会の会員で、房総半島会津藩士顕彰会の慰霊祭に参加してくれている。我々は、「生きた歴史」を体現しているのだ。
2013年09月17日(火) 箱館戦争(17)
 白兵戦が始まると、新選組の一団の上には常に血の霧が舞っているようで、最も強かった。彰義隊と共に敵を大手門まで追い詰めたが、退却する敵は大手門を閉ざしてしまった。
 斎藤は、彰義隊の渋沢政一郎、寺沢新太郎らと協議し、搦手(からめて)門でないと破れないーと歳三が決めた部署を勝手に変更してどっと駆け出した。
 歳三も同意したとみえ、これに従った。城壁から鉄砲玉が撃ち落されてくるが、可哀想なほど当たらない。そこで敵は奇妙な戦法をとった。
 城門の内側に砲2門をならべ、弾を込めるとパっと門を開き、と同時に発射して門を閉める、額兵隊、歩兵は攻めあぐみ、砲弾の炸裂から身を伏せてかろうじて身を守った。
 歳三は、額兵隊長の星恂太郎を呼び、開門から閉門までの時間を計らせた上で、
「銃兵20名を貸したまえ。諸君は突撃の態勢を整えておけ」
と命じた。
2013年09月16日(月) 箱館戦争(16)
 歳三は馬上で指揮を執った。松前城は、地蔵山を背にし、前に30間の川を巡らせている。
 川岸まできた。敵は川向うから、銃をさかんに撃ってくる。が、ゲベール銃という火打ち式の発火装置を持つ銃は、操作に手間取る上、命中率が悪い。
「あれは音だけだ。おれは伏見で知っている」
と歳三。
「花火が上がっていると思え。川に飛び込め」
と、馬腹を蹴って自ら流れに入った。
 新選組がやや下流を遅れて進んでいる。市村という小姓を馬のそばに呼び、
「斎藤(一)に云え、京都を思い出せと」
 斎藤は聞くと、
「京都でも、鴨川を泳いだことはなかった。蝦夷地の冬に川泳ぎするとは思わなかった」
 でも全軍はどっと対岸へ渡った。
2013年09月15日(日) 箱館戦争(15)
 その夜は焼け跡で寝たが、夜中、風雪がひどくなり、露営もできなくなった。歳三は兵を起こして、
「ねぐらは松前城と決めよ。城を奪うか、凍死か、どちらかだと思え」
皆、ふらふらしながらも行軍した。
 遂に歳三軍は松前城の天守閣を見る高地まで辿り着いた。歳三はまず、城から6,7丁(1丁は110メートル)離れた小山(法華寺山)に4ポンド山砲2門を据え、城内に向けて砲撃を始めた。 
 敵も、城南築島砲台の12ポンドカノン砲の砲座を変えて応射し、砲兵戦になった。
 歳三は、砲兵に援護射撃をつづけさせつつ、彰義隊、新選組には大手門を攻めさせ、歩兵、額兵隊などの洋式部隊は搦め手攻めをとった。
2013年09月14日(土) 箱館戦争(14)
 鳥羽・伏見の戦では、薩長軍のミニエー銃に負けたが、今度はこちらがミニエー銃を持ち、相手は火縄銃と五十歩百歩のゲベール銃しか持っていない。装備には優っていた。
 しかし、雪中の行軍に悩まされた。知内峠までは民家に宿泊できたが、次の日は露営だった。
「火をどんどん燃やせ」
と命じるほか方法がない。歳三は外套(マンテル)をひっかぶって焚火のそばに
寝ころんだが、体の下の雪が解けてきて、かえって体が凍り付くような始末。
 このため夜中に、全軍をたたき起こして
「敵陣を奪う以外に寝る場所はないと思え」
と夜行軍を始めた。
 敵の第1線は、人口千人の港町福島にあり、斥候の報告では守兵は300だという。全軍、眠りたい一心でこの町を攻め、激戦の末、奪取したが、松前軍は雪中露営の困難さを知っているから町に火を放って退却した。
2013年09月13日(金) 箱館戦争(13)
 箱館占領を機会に、榎本軍は市中に公館を持つ諸外国の領事を招待して祝賀会を開くはずであった。が、蝦夷地における唯一の藩である松前藩が、函館の西方25里(100キロ)の居城で藩兵を擁し、なお降伏しようとしなかった。
 榎本軍の軍議が開かれ、城攻めを決定した。総大将は土方歳三だった。宇都宮城を攻め落とした経験が買われた。
 松前藩は三百諸侯の中で、唯一、知行を持たない藩であった。藩の経済は蝦夷地の海産物で賄っていた。
 松前藩主松前崇広(たかひろ)は幕府の寺社奉行、海陸総奉行、さらに老中にまでなった器量人だった。
 小藩とはいえ、相当な城だった。安政2年(1855)に竣工したばかりの新造の城(現国宝)で、天守閣は三層。城の南面、海に向かって砲台も備えていた。
 土方に、新選組、幕府歩兵、仙台藩の洋式部隊である額兵隊、それに彰義隊の脱走兵を含めた700名が与えられた。
2013年09月12日(木) 箱館戦争(12)
 大鳥、土方両軍はこれを各所で打ち破り、清水谷公考は青森へ逃走した。函館の占領が完了したのは、上陸後10日ばかりの11月1日である。
 榎本軍は、函館府の内外に幕軍の旗である日章旗を立て、港内に入った軍艦からそれぞれ祝砲21発を撃って、この占領を日本人、外国人に知らしめた。
 政庁は元町の旧箱館奉行所に置き、永井玄番頭尚志を「市長」とし、榎本軍の軍司令部は、函館の北郊亀田にある旧幕府築造の西洋式要塞、「五稜郭」を本部とした。
      ◇   ◇   ◇
 本日は、小生の○○回の誕生日である。今さら〜と思っているが、しかし、ささやかなバースデイプレゼントをもらえば別だ。周2回通っているリハビリ施設から「HAPPY BIRTH DAY」のカードをもらった。「素敵な1年をお過ごしください」と書いてある。
 2020東京五輪を招致した「おもてなし」の一つだろう。ちょっとした気配りがうれしい。頑張ろう、と思う。
西洋式要塞「五稜郭」
2013年09月11日(水) 箱館戦争(11)
 二手に分かれて箱館を攻撃するのである。本隊の司令官は大鳥圭介、別働隊の司令官は土方歳三。
 歳三は望遠鏡で海岸を覗くと、人家があることに驚いた。140,50軒もあった。アイヌが穴の中に生活していると思っていたからだ。上陸すると、宿場町と同じように本陣もあり、しかも日本建築だった。
 翌日、箱館に向けて進発した。旧幕軍歩兵を主力として、遊撃隊、それに白兵戦のために新選組を傘下に入れた。
 鷲ノ木からまっすぐ南下すれば箱館まで10里(40キロ)。これを大鳥軍が行く。歳三は海岸線を遠回りし、途中、川汲から積雪の山を越えて湯ノ川へ出、東方から箱館を衝くことになった。
 箱館には、公家の清水谷公考(きんなる)を首領とする新政府軍の裁判所(行政府)があり、長州藩士、薩摩藩士1人ずつが補佐し、松前、津軽、南部、秋田藩などの藩兵が駐屯していた。
2013年09月10日(火) 箱館戦争(10)
 榎本艦隊の北上は続く。慶応4年10月13日、薪と水を補給するため、南部藩領宮古湾に入った。
 南部藩は艦隊の威力を畏れ、要求通りの物資を差し出した。榎本は石炭が欲しかったが、奥州ではそれを望めず、薪を代用することにし、満載して出港した。
 宮古湾を出たのは10月18日。晴天で波はやや高かった。さらに北上中、数隻の外国船とすれ違ったが、その都度、軍船の戦旗である日の丸の旗を掲げた。
 艦隊が蝦夷地の噴火湾に入港したのは10月20日だった。鷲ノ木という漁村の沖でそれぞれ錨を投げ込んだ。既に、榎本、大鳥、土方らは、上陸後の作戦の打ち合わせは済ませていた。
2013年09月09日(月) 箱館戦争(9)
 榎本艦隊は、土方歳三や旧幕臣らを乗せて仙台藩領を去り、風浪の中を蝦夷地で新しい天地を開くべく航海を始めた。歳三には旗艦開陽丸の次格の部屋というべき参謀長室が充てられた。
 開陽丸は当時世界的水準の大艦で、12センチ口径の大砲26門を供え、その戦闘力は、1艦で新政府軍の10艦に匹敵した。
 榎本は新選組に強い興味を持っており、好きだった。特に、仙台で一緒になった土方に魅かれた。戦うためにだけ生まれた男の面構えの土方に。
 土方が、江戸脱走以来、宇都宮城奪取、日光の籠城、会津の籠城戦での野外の戦闘など、土方がどんな戦をしてきたか、土方の部下から聞いて知っていた。
 幕臣であるから、旗本の脆弱ぶりはよく知っていた。ために「陸軍はこの男に任せよう」と心に決めた。
2013年09月08日(日) 2020東京五輪決定!
 今朝早く、ブエノスアイレスで開かれたIOC総会で、2020年オリンピックを東京で開催することが決まった。第1回投票は、東京が42票で1位、イスタンブールとマドリードが26票で同数となり、再投票でイスタンブールが勝ち上がり、決選投票の結果、東京が60票、イスタンブールが36票で、東京の圧勝だった。
 1964年以来56年ぶり2回目で、2020年7月24日から8月9日まで行われる。午前3時に起きてテレビを見ていたが、2時間待つのはくたびれた。でも、「開催都市は東京」とロゲ会長が読み上げた時は、涙がこぼれた。
 ロイター通信は、東京勝利の決め手は「安倍首相の演説だった」と解説。国家の指導者のなめらかな演説は、IOC委員が懸念する福島原発の不安を解消したーとも。またまた安倍株は上がりそうだ。
 夜中に起きた甲斐があったということ。最近、いやなニュースが多い中で、イライラを吹っ飛ばす出来事だ。
 これからは、福島原発問題が収束する方向へ向かうことを祈るばかり。
2013年09月07日(土) 箱館戦争(8)
 新選組副長だった土方は、鶴ヶ城開城後は隊士や幕臣らを率いて仙台に走った。2千名の兵士を仙台城下の宿所に駐留させ、青葉城での藩論決定に武力を背景にせまった。
 一方、品川沖を脱走し、北上していた榎本武揚は旗艦開陽丸以下回天丸など8隻で、日本最大の艦隊だった。榎本艦隊は江戸脱走の幕兵、幕府軍のフランス人教官ブリュネーや砲兵下士官らを同乗させていた。途中、風雨のため2隻を失ったが、依然として艦隊の実力はあった。
 これらが仙台藩領寒風沢港などに集結したのは慶応4年(1868)8月24日から9月18日にかけてである。
 榎本らは、土方歳三や幕府の歩兵頭大鳥圭介らが国分町に旧幕軍本部を置いていると聞き、そこで陸海両軍の協議を行った。しかし、仙台藩は間もなく、新政府軍に帰順してしまう。
2013年09月06日(金) 箱館戦争(7)
 榎本武揚は文久2年(1862)幕府の留学生としてオランダへ派遣され、慶応3年(1867)4月に帰国した。その後、開陽の艦長に就任し、海軍奉行に昇進した。
 大政奉還後、武揚は新政府への艦船の委譲を拒否し、8席の軍艦を率いて品川から脱走し、館山から仙台へ、さらに蝦夷地へ向かう。徳川家臣団の蝦夷地移住と、ロシアからの防衛という目的を持ったからである。
 当時蝦夷地は新政府の支配下にあった。新政府は蝦夷地を支配する箱館裁判所(箱館府)の総督をすでに決め、任命していた。また、後に箱館の名を嫌い、函館と改名した。
 旧幕府の函館奉行杉浦兵庫頭は、ロシアが北蝦夷地に侵攻する危険性があるとの理由で、新政府に支配権を引き渡すまでの間、引き続き箱館を支配した。
2013年09月05日(木) 箱館戦争(6)
 武田斐三郎が設計した日本初のヨーロッパの星型城郭は、16世紀ヨーロッパで考案された巨大な城郭都市とは異なり、単なる土塁であった。
 工事は安政年(1875)から着工された。五稜郭築城に先立って箱館湾弁天岬の台場建設が安政3年から始まり、同じく元治元年(1864)に完成した。この台場は、箱館戦争の際、新選組ら旧幕府軍五稜郭政府軍が立て籠もって新政府軍に激しく抵抗した場所である。新政府軍の猛攻に耐え、遂に陥落しなかった強固な砦だった。
 ここで話を本筋に戻す。会津藩は慶応4年(1868)9月、新政府軍に降伏し、土方歳三ら新選組の残党は、旧幕府海軍奉行榎本武揚率いる蝦夷地へ向かう。
 武揚は名主の家に生まれ、幕臣榎本家の株を1000両で買い取り、武士に。昌平黌で学んだ後、長崎の海軍伝習所で操船の技術や海軍知識を学んだ。
2013年09月04日(水) 箱館戦争(5)
 五稜郭は、幕府の通訳で蘭学者だった武田斐三郎が設計したヨーロッパの星型城郭である。武田はヨーロッパの築城書を片手に、箱館にきたフランス人の助言を得ながら設計した。
 当時、ヨーロッパはクリミア戦争の最中で、フランスはイギリスと共にロシアと交戦中であった。オホーツク海から日本海にかけても海戦が行われ、フランス軍艦も蝦夷地近海を航行していた。
 箱館にフランス軍艦コンスタンチーン号が来航した。幕府はフランスと和親条約を結んでいなかったが、和親条約の締約国イギリスの友軍であり、多数の病人を乗せていたため、人道的配慮から箱館奉行は同船の入港と病人の上陸を認めた。
 五稜郭は、コンスタンチーン号の艦長らの協力で造られたフランス式の城郭だった。
2013年09月03日(火) 高木さん 逝く
 昨夜、会津からの電話で、元若松ガス社長の高木厚保さんが8月19日に亡くなったーと知らされた。驚いた。高木さんとは浅からぬ縁があり、随分、お世話になった。
 高木さんは昭和2年(1927)生まれ。会津中学(現会津高校)から陸軍士官学校を卒業。福島県庁入庁の後、会津若松市長の故横山武市長に請われて東山温泉の旅館を引き継ぎ、次いで若松ガスを設立して、地元経済を引っ張り、商工会議所会頭も務めた。
 小生が地元へ帰り、町名復活運動を提唱した際、会長を引き受けられ、運動の先頭に立って頂いた。観光施設「会津武家屋敷」を造り、藩校日新館を再生させたのも高木さんだった。
 その後、日新館の経営悪化から若松ガスなどすべてを手放したが、日中友好協会会長や山川健次郎顕彰会会長などを肩書に広く活躍された。
 何といっても「士魂は何処へ」を新聞連載するにあたり、会津松平家13代の故松平保定さんと霞が関ビルでお会いする算段をとってくれた。本当に惜しい人物がまた一人、姿を消した。
 ご冥福をお祈りする。
高木厚保氏(左)と松平保定氏
2013年09月02日(月) 箱館戦争(4)
 日露和親条約で、国境についての取り決めで、択捉島より南が日本領で、得撫島より北をロシア領とした。樺太については境界を定めず、雑居の地とし両国人が自由に居住してよいと定めた。
 条約締結によって箱館の防備が緊急の課題となった。幕府は、安政元年(1854)箱館を幕府の直轄地とし、箱館奉行を置き、五稜郭と台場造成を行うことにした。
 翌年、ペリー艦隊のうち3隻が箱館に姿を見せ、測量を開始した。さらに、蒸気船が2隻、直接港内へ入り込んで上陸した。主として捕鯨船の寄港が目的だった。
 幕府が国防上、最も力を入れざるを得なかったのはロシアの南下政策への対抗措置であった。このため、築城を急いだのが五稜郭だった。
2013年09月01日(日) 箱館戦争(3)
 だが、結局、幕府は開国の道へと進む。嘉永6年(1853)のアメリカ東インド洋艦隊司令官ペリー率いる黒船4隻が浦賀沖に現れ、開港を求めた。
 翌年、ペリーは再び2隻を率いて現れ、日米和親条約を締結し、鎖国体制は崩壊した。この条約により、下田と箱館2港がアメリカに解放された。和親条約はイギリス、ロシア、オランダとの間でも結ばれるのである。
      ◇   ◇   ◇
 はや9月である。騒がしい季節だ。アメリカのオバマ大統領がシリヤ空爆を決意し、議会に諮るという。国内では、消費税値上げ問題で揺れている。それ以上の問題なのが、福島第1原発からの海への汚染水漏れだ。全世界から強く非難されているが、国内のマスコミ、特に読売の論調は「原発賛成」なので紙面には汚染水漏れは、あまり登場しない。こんなことでいいのか!東電に任せておけないと国が前面に出るようだが、判断が遅すぎる。
 世界中につながっている海を汚染しているー事実に目をそむけるのか。けしからん!消費税うんぬんではないぞ。
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