一体、蒲生家は先祖代々、誠実で義理堅い家なのである。蒲生家は先祖代々江州(滋賀県)蒲生郡を所領していたので、南江州の守護大名である佐々木六角家の被官となっていた。 単に被官というだけで、重役や老臣というような家柄ではなかった。戦国末期に至って、六角家の家臣後藤但馬守と言う者が主家を怨むことがあって、朋輩を誘い、土民を扇動して謀反を興した。 その勢いがなかなか強いので、六角承禎父子はどうすることも出来ず、危難に瀕したので、蒲生定秀に救いを求めた。この定秀が氏郷の祖父だ。 ◇ ◇ ◇ 今年は、年賀欠礼のハガキを11通もいただいた。年末通例のことであるが、今年は特に多い。亡くなったのは70〜90代の方々で、天寿を全うされた方もおられる。ご冥福を祈る。 しかし、46歳で急逝した二女の夫のような例はない。人生の半分、それもやりかけの多い教員生活だけに、口惜しさは身にしみる。49日法要も終った。静かに年末年始を迎えたい。
秀吉が天下統一の後、最初に会津の大守にしたのが蒲生氏郷であることは誰も知っている。会津が当時の奥州の要衝であったことは言うまでもない。 伊達政宗という油断もすきもない人物がいるので、この押さえのためにも、新しく関東に徳川家康が来たので、この掣肘のためにも、会津は秀吉のとっては最も重要な所となったのだ。よほどにしっかりした人物をここに置く必要があるというので、氏郷が選ばれたのである。 氏郷が大器であることは言うまでもない。戦も上手であれば、政治手腕も非凡であった。彼が会津の大守になったのは、数え34だ。いくら人間が早く大人になる時代といっても、この歳でこの大任を負わされたというのは、よほどの人物であった証拠になる。人物鑑識の天才であった秀吉の目金であるから、我々は信ぜざるを得ない。 しかし、秀吉は氏郷をその才能だけで選んだのではない。氏郷が最も誠実な人であった点も大いに考えたと思われる。
天皇の民に対し、略奪暴行をほしいままにしたのは、どういうわけか?官軍の味方をしなかったから、妻や娘を多勢で寝とったのも、当然というのであろうか。 鶴ヶ城城内は、既に兵糧に乏しく、玄米を炊いて握り飯にして、少しずつ食べるような状態になった。矢折れ、力尽きたのである。 しかし、藩兵は歌を唄い、笛を吹き、太鼓を鳴らしてお互いの気持をかき立てようとした。後の帝国海軍連合艦隊司令長官、出羽重遠は城内で会津唐人凧を空高く挙げて城外の味方を鼓舞した。 が、それも、それ以上は続かなかった。降伏の話になった時、 「われらが戦うのは、君側の肝を除くことにある。民の財宝を奪い、非戦闘員の民を殺し、婦女に乱暴を加え、残虐極まるのは、奸師であって王師ではない」。 場外で戦っていた佐川官兵衛がそう主張して、あくまで抗戦を続けようとしたのも、無理はなかった。(完)
若松城下の至る所に、「薩州分捕り」「長州分捕り」の札が立った。愛宕町の呉服店、森田七郎右衛門の土蔵は、薩摩と肥前の分捕り合戦となり、不利になった薩摩の兵は、土蔵に焼き玉を投げて、土蔵を爆破した。分捕り品は公然と売りに出された。略奪は町中でー。 西軍は、目についた婦女は手当たり次第に捕らえ、夜の陣屋での慰みものにした。妾にする者もいた。 「勿体なくも天皇には、その方共を子供のように思し召されている。この度、新しく官軍に従った村々には、年貢の半減をお命じになった。その方たちは、篤く天皇の御仁恩に感謝し、農事を努め、家業に励み、心得違いのないように致すべきだ。その方たちは、天皇の民なのだから賊徒の憎むべきことを知り、官軍のために力を尽くし、御奉公申し上げ、天皇に報いるべきである」(『復古記』)。 これは西軍の宣伝であった。
中野こうを指揮者とした娘子隊(と、榊山潤は書いているが、まったくの誤りだ。会津藩の名誉のために言わねばならない。会津藩は婦女子まで駆り出して戦をしようとしたことは全くない。後世、中野竹子らが照姫を守って戦ったことが誤って伝わったのだ)は、20余人いずれも藩士の妻や娘であった。 黒髪を切り、白羽二重の鉢巻に襷十字、大小を腰に、薙刀を持って戦場に出た。家で自害する代わりに、死を戦場に求めた。一人でも敵を殺してから、主家に殉じようとしたのである。(従って、これらも誤りだ) 彼女らは、 「生け捕りになるな」 と味方を戒めながら戦った。その戒めは深刻であった。西軍は略奪、強姦をほしいままにした。特に、女性に対しては、会釈がなかった。伝承は、戦う婦女子の幾人かが捕えられ、惨憺たる目に遭わされたと、伝えている。
ところで、白虎隊の由来を知っているだろうか?古代中国で、天の四方を司る、と言われた神がある。東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武である。天上界と地上界とを対応させ、全国を支配する象徴としたのだ。 国内では、平成13年(2001)奈良県明日香村のキトラ古墳(国特別史跡)で、これらの守護神4神が極彩色豊かに描かれていたのが発見された。 会津藩では、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦で敗北し、会津へ引き揚げてから、それまでの長沼流軍学から近代編成に変え、部隊を4隊に編成した。 即ち、藩士18歳〜35歳の主力を朱雀隊に、36歳〜49歳を青龍隊として国境防備にあたらせ、50歳以上を玄武隊に、16、7歳を白虎隊として兵の不足を補った。 この他、農民兵、力士隊、漁師隊、修験隊などを義勇兵として臨時に組織し、会津藩ぐるみの防御体制を敷いた。
北追手門の戦いの時、70ばかりの老武士が槍を引っさげておどり出し、西軍の一人を刺し、返す石突で他の一人の腰を突いた。続いて、14、5歳の少年が同じく槍を持って現われた。少年は生け捕れ、と誰かが叫んだが、手強いので銃で射殺した。老人も銃弾にあたって死んだ。 その夜、西軍は民家に押し入って酒を出させ無遠慮な酒宴が始まった。一座の真ん中には、槍をとっておどり出た少年の首が、大皿に乗せてあった。 愉快極まるこの夜の酒宴 中にますらおの美少年 みな、思いつきの歌を唄い、酒興はいよいよ弾んだ。(『会津戊辰戦史』)
昨夕、握り飯を一つ食っただけだった。昨夜は岡の上で一睡もせず、今日は朝から戦い、雨に濡れながら間道を歩いた。腹は減り切って、疲れもひどい。 それに錯覚だったが、城は燃えている。疲労と絶望に、再び立つ気力を失ったのであろう。隊長篠田儀三郎始め19人が、差しちがえて、或いは喉を突いて死んだ。重傷を負いながら、助けられた飯沼貞吉はこの数の中に入っていない。 白虎隊の死体は、風雨に晒されたまま、捨てておかれた。滝沢村の吉田伊惣次が、腐敗した死体を集めて葬った。が、無断で死者を片付けた、というので西軍に捕えられ、牢に叩き込まれた。 西軍は白虎隊員を、どういう目で捉えていたのであろう。生け捕りにされた隊員の一人は耳を殺がれ、腕と足を折られ、睾丸を抜かれた。なぶり殺しにされたのである。 古代ローマ時代でさえ、捕虜をなぶり殺しにする悪逆非道はなかった。戊辰戦争における西軍の百姓兵の略奪、強姦、なぶり殺しは過去の歴史をひも解いても例がないほどの凄まじさであった。会津人の怨念はここから現在に至るまで引きずっているのだ。
一応退却した。もう一度突っ込んで死のう、という者もあったが兎も角、城に戻って主君を守る、ということに決まった。間道を通って(とあるのは間違いで、猪苗代湖から若松城下へ水を引く随道を潜って飯盛山まで続いている)滝沢の白糸神社の上に出て、本道から城下に入ろうとした。 続々、滝沢坂を下って来る兵があり、よく見ると敵であった。その時、隊員の永瀬雄治が腰部に敵弾を受け、歩けなくなった。代わる代わる永瀬を助けて、飯盛山に出た。 遥かに見える城下は火の海であった。その時は、城は焼けていなかったが、一同の目には鶴ヶ城も猛火に包まれているように見えた。 ◇ ◇ ◇ 東海大の菅野智之投手が、日ハム入団を拒否し、1年浪人を決めた。伯父原辰徳が監督の巨人を目指すが、1年間の浪人は体力的にきつい。筋力やゲーム感覚が衰えないか心配だ。 浪人してまで憧れの巨人を目指すのは”くせ者”元木大介以来だ。それにしても日ハムは、ドラフトで強行指名するという馬鹿なことをしてくれた。
飯盛山で自害したのは白虎隊士中二番隊である。隊長は日向内記。容保の命を受けて戸ノ口に応援に行ったが、戸ノ口村が見える辺りで日が暮れた。敢死隊が火を炊き、夕食の支度をしていたので、食糧を持参していなかった白虎隊は、にぎり飯一つずつ貰って、飢えを凌いだ。雨が降っていた。白虎隊は松林に被われた岡に登って休んだ。 夜が明けた。隊長日向は昨夜、食糧を都合してくると言って出かけたまま、帰って来ない。教導の篠田儀三郎が日向に代わって隊長となり、戸ノ口村に進んだ。 既に敢死隊は退却していたのに、少年たちはそれを知らなかった。敵は多勢で、銃も優秀であった。小勢にヤーゲル銃では、ひとたまりもない。 ◇ ◇ ◇ 想い出(番外)成田時代、楽しい想い出もあった。巨人の監督だったミスターが地元佐倉市を訪問したのだ。ミスターの父親は旧臼井村の助役で、ミスターは佐倉高校から立教大に進み、巨人に入団した。 取材は若い記者が担当したので、冷やかしだった。長島を最前列で見たが、なにより瞳が輝いていた。キラキラと。見たことがない眼であった。超一流の人間はこういう眼をしているのだと、しみじみ思ったものだ。 今は、脳硬塞で倒れ、右半身不随の長島。瞳の輝きはないだろう。ナベツネの側のミスターは似合わない。
西郷頼母の妹細布子(たいこ)16歳は死に切れず、苦しんでいた。そこへ入った土佐藩の中島信行に、細布子は苦しい息の中で、敵か味方か、と訊ねた。中島が味方だ、と答えると、細布子はにっこり笑って、介錯を、と言って倒れた。 中島は介錯して、そこを立ち去った。これは数少ない美談の一つである。後年、中島は衆議院議長になった。 このように、多くの藩士の家族が自害した。が、頼母は16歳の長男吉十郎を連れて鶴ヶ城を脱出し、越後口から退却した者に主命を伝えた。頼母は主命を達してから、吉十郎を知り合いに預け、福島に出て、そこから仙台に抜け榎本の軍に投じた。(とあるが、全くのデタラメ。頼母が恭順を説くため藩士から斬られそうになった。このため容保が逃がしたのだ。一族23人が自害したのにー) ◇ ◇ ◇ 想い出(最終回)昭和53年5月、成田空港は開港した。席上、運輸大臣は「難産の子は育つ」と語った。その通りだろうか、否である。最近、政府は羽田空港の拡張を行い、かなりの便数を飛ばしている。都心から近いのだから当然だ。17日のボージョレヌーボー解禁のニュースも羽田だった。多くの血を流し、強行された成田の位置は低下している。 巨人の清武代表が解任された。ナベツネに叛旗を翻した、たった一人の反乱はあっけなく終った。「イエスマン」だらけの読売に反乱を起こした一石は小さかったが、大きくなる予兆はある。85歳のナベツネの天下は間もなく幕を閉じる。
同じく慶応4年8月23日、五郎は避難していた山荘を出て若松に向かった。祖母や母のことが心配になったからであるが、80歳の祖母、50歳の母、19歳の姉、それに兄嫁、みな自害していたことを、五郎は知らなかった。 同じく23日、西郷頼母の祖母、母、妻、娘二人が、水盃にこの世の別れをして自害した。妻の千恵子は4人の子を刺し殺して死んだのである。他に、親族の小森一貫斉の家族5人、西郷鉄之助夫婦など、すべて23人が同邸で自害した。 ◇ ◇ ◇ 想い出(6)成田空港は、都心から65キロも放れ、アクセス不便、陸空港で騒音のため午後11時から翌朝6時まで飛行禁止は世界に例がない、着陸料が世界一高い、などの不合理性を紙面で訴え、ある時は、東大助教授だったM氏と組んで通産省のシンポで講演もした。当然ながら、他社には、こういう記者はいなかった。 しかし、ナベツネが論説委員長ー副社長と階段を昇りつめて行くに揺れ、読売の紙面は右傾化し、一日も早い開港を、と社説で訴え続けた。社論との乖離に苦悩したものだ。こちらは間違っていないーという確信はあったが。
「堤沢村の北口に至れば、大雨に煙りたる彼方より、老若男女の大群、ずぶ濡れとなり、裸足のまま道を埋めて逃れ来るに合う。若松の方角より、銃声しきりなり。 老いを助け、幼を背負い、槍薙刀をとりて、白き鉢巻せる婦人の一隊もあり、中には二刀、四刀を帯にさし、裸足のままの婦人もありて、物々しき形相なり。町家の者もまた荷を背負い、家族手を取り合って逃れ来る。 悉く南に向かって逃れ行き、北に向かう者、余と留吉の二人だけなり。いずれの小旦那なりや、城下は火焔に包まれ、郭内になど入るべくもあらず、引き返えされよと、口々に諌む」(『会津藩流亡始末記』) 前に書いた10歳の柴五郎の日記の一節である。 ◇ ◇ ◇ 想い出(5)成田空港は「金食う虫」でもあった。航空燃料を千葉港から運ぶパイプラインの完成が遅れ、茨城県の鹿島港から貨車で輸送する計画に対して、沿線市町村から空前の条件が出された。代表的な例が千葉市の都市モノレール。当初から赤字が予想されたのに、ゴリ推しされた。現在も千葉市の「お荷物」だ。 こんな条件が2000項目だして来た、と思う。すべて税金の無駄遣いだ。
「此所において町民大いに驚き、朝食を喫するひまもなく、食膳を並べたるまま、老いを扶け子を抱え、四方の山野に逃げる。数万の町民一時に七日町、柳原町、材木町口に出て、先を争いたるを以て、川原町、烏橋、柳橋の如くは人の山を築き、死傷する者多し。路傍には財貨、珍器什捨てられ、町民の弾丸に当たり、街上に呻吟する者、絶息する者、その数を知らず」 「町外西方大川は川幅広く、水勢急にして架橋するあたわず、小舟似て往来す。その日、暴風雨篠をつくが如し、濁流漲り、水勢増す。町内を逃れたる婦女子、先を争って小舟に乗り、幾叟の小舟は、重量に堪えず、川の中央にて転覆〜(『会津戊辰戦史』) これは、8月23日、滝沢口敗れて、西軍が若松城下に雪崩れ込んだ時の、町民の姿である。 ◇ ◇ ◇ (想い出4)反対派農民について、公表されなかった裏はいくつもある。その頃、酒酔い運転は今ほど煩くなかったが、農民が検問で引っ掛かっても逮捕されることはなかった。しない代わりに以後は、「警察のスパイ」になることだった。何人かを覚えている。 それに反対同盟幹部の家の電話は盗聴されていた。通話中に雑音が入るので判るが、成田空港建設の特徴は、警察組織が政府空港公団と一体になって進めたことである。警察庁から公団へ理事が送り込まれ公団をコントロールしていた。
榎本武揚も初めは、 「奥羽の地たるや、日本全国の六分の一を占め、軍人の数は殆ど5万を算す、この土地とこの兵を以て、何ぞ上国の軍を恐れん」 と、奥羽同盟に期待をかけたが、脱落しきりで、期待も失われた。 会津は孤立し、収拾のつかない悲劇に、まっしぐらに突入することになった。日本の戦争記録の中で、戦争の残虐さを最も伝えているのは、「後三年の役」の記録であろう。この時(戊辰戦争)の会津の一部の記録、伝説には、「後三年の役」の記録以上のものがある。(後三年の役は、奥州清原氏が反乱を起こし、鎮守府将軍に任命された源義家が1083年、鎮圧のため奥州で始めた戦。87年に清原氏は滅んだ。奥州の反乱は1051年の「前九年の役」で始まり、62年に終るが、再び、立ち上がった。義家は二つの戦の際、会津地方で戦勝祈願し各地で祠を勧請している) ◇ ◇ ◇ 思い出(3)農民の信用を得て取材源は増えていった。衝撃的な紙面(他社に)が次々生まれた。反対同盟のS副委員長がとうに土地を公団に売り渡し、平気な顔で運動を指導していた。見事な(自分でいうのもおこがましいが)特ダネだった。特ダネは数え切れず、忘れた。社会党の代議士O氏と連係し、国会で爆弾質問もしてもらった。わが記者人生で最高の時であった。
「3、4日前より越後口、南口(南会津地方)も敗れ、戦争四面に起り、城下の戦いも勝利なく、上下の人心騷擾し、寝食を安んぜざる有様なり。兵隊も弾薬は尽き、兵糧も充分に行き届かず、手負いになりたりとも療養すべき地なきが故、奮進して力戦するの勇気もなく、いったいの兵気崩潰して、如何ともすべき様なし」 大島は後に当時を回想して、このように書いている。(『幕末実戦史』)このままでいては、袋の鼠になって犬死にする他ない。せめて二本松を取返して、会津の囲みの一部を解く、というのが彼の目的だった。 福島に出たが、仙台も「国論一変」して二本松を取返すどころか、福島にいるのも危なくなって来た。かくて大島も蝦夷地に向かうことになる。 ◇ ◇ ◇ 思い出(2)成田の前任者は運輸省、空港公団のいいなりの「御用記者」だったため、反対派の真意を聞いてくれ、というのが千葉支局の要請だった。まず、反対同盟の農家を回り、茶碗酒を飲みながら、じっくり話を聞くことから始めた。帰りは、当然ながら酒気帯び運転であった。 話を聞けば聞くほど、農家の言い分が理解できた。「外国エアラインからの乗り入れ要望に応えられない」という運輸省の主張は、開港後、緩和されないことで嘘が証明された。 農家の信用を得たことで、滑走路南側の岩山大鉄塔に報道陣で初めて上った。大鉄塔から見る無人の滑走路はいかにも寂びしそうだった。今も記憶に残る。
二本松藩主丹羽長国は米沢に逃れ、米沢の勧めで降服した。各地に応援にいっていた藩士は、帰ってみると城はなく、二本松の町は西軍が充満していた。 既に米沢藩も降伏と聞いて、藩士の一部は会津に入った。そこを死所としたかったのである。初めから頼りにならなかった仙台藩も脱落して、会津は孤立した。 輪王寺宮は6月18日、いちばん早く若松を去って白石に赴いた。幕府閣僚の小笠原長行、桑名藩主松平定敬、長岡藩主牧野忠訓、それに板倉勝静(伊賀守)も若松を去った。大鳥圭介もまた、伝習隊を率いて若松を去った。 ◇ ◇ ◇ 思い出(1)読売新聞記者生活30数年のうち、ほぼ三分の一の10年を成田で過ごしたが、この記録は破られていない。昭和46年の強制代執行、岩山大鉄塔の強制撤去、53年の開港と直前の管制塔占拠事件、2期工事着工と節目節目で担当した。 いまなお成田問題は完結していないが、勉強すればするほど、政府の間違いが指摘されるのである。第一に用地決定の経緯だ。用地の三分の一を占める300ヘクタールの宮内庁三里塚御料牧場があるーという理由だった。地元になんの説明もなかった。「農民に大儀あり」と確信した。
三春藩も脱落して、秘かに西軍を迎え入れた。このため、三春藩の応援として小野新町に派遣されていた二本松藩兵は、背後から不意に銃を浴びて潰走した。 29日、西軍は三春藩を道案内として二本松城に迫った。藩兵の多くは他に応援に出かけていたので、城は2時間で落ちた。老人隊、少年隊の奮戦も、城を支える力にはならなかった。少年隊の全滅は、会津の白虎隊と同様だが、世間には、あまり知られていないのが残念だ。 西軍と連絡をとった三春の勤王党のうち、後年、名を残したのは河野広中である。河野は名を残したが、三春藩は西軍の食糧を賄うため、莫大な借金をした。 この三春藩の裏切りは、以降、「三春狐」と呼ばれ、恨みを長く残し、会津では三春の者とは結婚させない、因縁が未だ強い。 ◇ ◇ ◇ 巨人の清武代表が、来季のコーチ人事で、ナベツネこと渡辺会長が独断で決めたーと記者会見。”ツルの一声”が続く読売新聞ー巨人に勇気を持って一石を投じたことに「よくぞ」と拍手を送る。読売には先代正力ー務台と長期政権が続き、今も85歳のナベツネが支配している。自民、民主の大連立を画策したり、やりたい放題の男だ。 これまで楯突いた男は一人もいない。イエスマンだけが出世する会社である。明日以降、現役時代の思い出(苦いのが多いが)を書き込んでみよう。
7月29日は、東軍にとっては大きな打撃を受けた一日であった。越後の長岡城は一度落ちたが、家老河井継之助は、会津、桑名の兵の援けをかりて、長岡城を奪い返した。 が、新発田藩が西軍に降り、誘導したので、29日、長岡城は再び西軍の手に渡った。新潟が西軍の手に落ちたのも29日である。会津はオランダ商人スネルを通じて、武器弾薬を買い込んでいた。スネルはイギリス商船2隻を雇って、新潟港に陸揚げして、そこから会津に運んだ。新潟が西軍の手に渡って、会津の武器弾薬の補給路は断たれた。 ◇ ◇ ◇ 紅葉の季節だ。会津では、何処でも見られる風景だが、特に裏磐梯の中津川渓谷は素晴らしい。側の駐車場から下に降りて川床に至る。上を見上げると、川の両側の崖上から紅葉が目の前に迫る。 また会津鉄道では、大内宿近くの大川ラインを通過する際、列車を鉄橋の上に停めて乗客に川の両側に広がる絶景を堪能させてくれる。これはお勧めだ。 しかし、全村が紅葉に包まれる長野県栄村が全国一ではなかろうか。まさに全村、全山紅葉だ。長野側から行くのに、一度新潟県に出てからという辺境だが、都会の喧騒を逃れて移住した人たちがペンションを経営して待ち受ける。岩風呂もあり、楽しい一夜を過ごしたのが思い出だ。
西軍の肉迫は急であった。板垣退助の言葉がある。 「会津を討って根元を断てば、枝葉は自然に枯れる。枝葉のためにあくせく時を過ごすと、冬になってしまう。冬になれば雪深い土地だから、わが軍は進退に窮する。来春まで待って会津に時をかせば、武具糧食も充実した上に、意外な味方が現われるかもしれない」 奥羽同盟など、物の数ではなかった。中心は会津で、会津が崩れたら、同盟など四散するであろう。若しまた、会津を孤立させる必要があるとすれば、甘い誘いの手を各藩にさし伸ばす。会津、二本松を除く各藩は、容易く誘いに乗って、ぼろぼろと脱け落ちるだろう。西軍は、そういう計算に立って、兵を進めた。 会津は白河口、日光口、越後口にそれぞれ兵を送って半年を戦い続けたが、戦局は次第に利を失って来た。白河城を西軍に奪われたのは5月1日である。6月24日には棚倉が落ち、7月13日には平城が落ちた。
瓦となって完うするより、玉となって碎けよか。それもよし、ただ、それだけの覚悟のない領民たちはどうか。頼母は容保の前を辞したが、藩主に反撥は感じなかった。容保がこれまでも、出来うる限りの努力をして来たことが、よく判っていたからだ。 帰国の時も、容保は30人の藩士を江戸に残した。情報の収集、武器の購入、和平の運動と、残った藩士はそれぞれの任務に従った。 その中の広沢富次郎は、勝海舟、大久保一翁の紹介で、西郷吉之助に遭った。が、広沢は西軍に捕えられて、和平は実を結ばなかった。 それから、奥羽同盟ができるまでの、何回かの謝罪嘆願、その一枚の中には、 「弊藩の儀は、山谷の間に僻居まかりあり、風気陋劣、人心頑愚にして、一に古習に馴染み、世変に暗く」 などという必要以上に謙った文句もある。既に容保は、武門の体面を自ら泥土に委ねた。 容保はもう遅いと言った。その言葉が頼母の胸に沁みる。もはや、退くに退けない事態に追い込まれている。それは判るが、それにしても徹底抗戦が、さらに無意味な多くの悲劇を生むことを、頼母は考えずにはいられなかった。
「それなら余も、大樹の進退を真似て、領内の山にでも籠って、謹慎の姿勢を整えるか、そうしたら頼母、汝が後を引き受けるか」 「恐れながら、私に万事の計らいをお任せ下さいましたら、一命に代えてできる限りのことを致します」(会津に生まれ、育った者にとって、西郷頼母は卑怯者の代名詞だ。妻子など一族23人が自害したのに、自分は城を脱出して斗南に逃げ、明治35年まで生きながらえたのである。頼母の屋敷跡の店は潰れるのが通例だ。) 容保は笑って、 「もう遅い」 と言った。 「今さら山に隠れても、余を隠れさせておくまい。汝が余の許にきて、こういう話をしたということが判ってみろ。汝は無事に屋敷には帰れまい。藩全体が、もはや炎に変わっている。無頼の公家や有志に土下座して武士の恥辱を晒すより、潔い死を、すべての者が望んでいる」
そういう京都からの情報を、頼母は得ている。そんなところに飛び込んで行って、苦労をするのは意味がない。骨折が徒労に終るのはまだしも、思わぬ泥を投げ付けられないものでもない。 それに、京都守護職の役料は5万石だが、京都にいる間の費用は莫大で、そのくらいの役料は何の足しにもならない。苦しい藩の財政を、一層苦しくするだけである。 幕府は、越前の松平慶永、会津の容保、この二人のうちどちらかを、京都守護職に推そうとした。慶永は現に政治総裁職にあるので、容保ということになった。他に適当な人材がないのである。頼母の諌めはよく判ったが、そういう経緯で、容保も台命を辞するわけにはいかなくなった。 今、容保はその時の自分と頼母を思い出した。頼母の諌めを聞いて、強いて拝辞していたら、今日これほどに追い詰められることもなかったろう。まかり間違えば宗家と共に死ぬ、という覚悟をあの時、決めたが、その状態が、現実に来た。 ◇ ◇ ◇ 郷里から、会津の味と匂いが相次いで到着した。市内高野のリンゴ農家から「北斗」と門田の農家から見知らず柿が。リンゴは会員の渡部さん(松戸市)からの贈り物。子供の頭ほどもある大きさ。真っ赤で美味しそう。柿は娘二人にも毎年注文している。郷里を思い出しながら味わって食べよう。 観光客はガタ減りで、原発からの避難者5500人が幾分、補っているが、本来の姿にはほど遠い。町中はガラガラ、寂しい会津から立ち直るのはいつだろう?
容保が京都守護職に命じられた時、西郷頼母は急ぎ会津から江戸に出て来た。頼母は情勢を説き、かかる時に京都守護職を引き受けるは薪を背負うて火に近づくようなものと諌めた。 京都には関西の諸藩士が集まり、藩の周旋役と称し、堂上に出入りして、頻りに時局を論じている。それらの中には、脱藩して自ら浪士と称する者もあり、農商の子が無頼のため郷土を追われ、京都に出て有志の仲間入りをした者もある。 これらの徒は、鎖港を云えば正義であり?港を説けば直ちに俗論とする。公家にも思わしくないのがいて、彼らを扇動して反幕の気勢をあげる。時には、彼らの空論が、公家の扱いによって綸命(りんめい=天皇の命)になることもある。 ◇ ◇ ◇ 東海大の菅野投手が1年間、浪人することになりそうだ。日ハムが馬鹿な指名をしたばかりに、球速150キロを超す逸材のスタートが遅れる。この間、体調を維持するのは難しいだろう。 しかし、来年のドラフトでは、「巨人以外は指名するな」と宣言して思いを遂げて欲しい。
「しかし、わが領地は既に、取りあげられている。頭を下げたところで、余と藩士、その家族は、明日から路頭に迷わねばならぬ。それは兎も角として、相手は余が頭を下げることさえ、許すまいとしている。われらは、絶対絶命のところに追い詰められている。 彼等は余と会津を、完膚なきまでに叩き付けようとしている。考え直せと汝は云うが、今のわれらに、今のやり方以外の、どんなやり方があるというのか」 「武門の対面と、意地をお捨てになることでございます。下世話にも、長いものには巻かれろと申します。恥も外聞も忘れること。無念ではありますが、今は、それ以外に方法はございませぬ。その点、大樹(将軍)はうまい進退をなさいました」 ◇ ◇ ◇ 『会津人群像』20号に掲載する「柴五郎物語」前編の校閲が終った。柴五郎は会津人初の陸軍大将。維新後、一家は本州最北端の斗南に流されて塗炭の苦しみを体験。現在、NHKで再放送の「坂の上の雲」の主人公秋山好古と士官学校同期で、日露戦争勝利に貢献した日英同盟締結の影の主人公だ。明治末期、支那で起きた「義和団事件」で北京城籠城戦を指揮して戦い抜いた主役であった。 会津の誉である柴五郎を活動的に描きたい。歴史春秋社は現在、経営再建中であり、今月中には出版する予定で、是非ともお買い上げ戴きたい。東北地方で唯一の郷土史関係の出版の光を守って行きたい。
仙台は世良を斬って先頭に立ったが、軍事局はふらふら腰で、頼みにはならない。秋田、米沢も同様である。恐らく奥羽同盟は、近く崩潰するであろう。崩潰すれば、わが会津藩ひとり、西軍の矢面に立たなければならない。 加勢に来てくれている人たちの好意は感謝の他ないが、しかし、わが藩としても、あの人たちを最期の道連れにするわけにはゆくまい。もし榎本が全艦隊を率いてわが藩に加勢してくれるなら、それは心強い。 しかし、榎本は、奥羽同盟が固い団結を続けるとは思っていない。それに榎本には、蝦夷地の夢がある。広漠たる蝦夷の原野に、幕臣の新しい生活を建て直そうとする、大きな夢がある。榎本を頼むことはできないーー。 容保は暫く考えて、汝のいうことはよく判る、と頷いた。
5月下旬には、会津の城下は加勢の兵で溢れるばかりであった。幕府の歩兵隊、衛縫隊、桑名藩の雷神隊に新選組、水戸脱走隊、彰義隊など、その数4000を超えた。 輪王寺宮も榎本艦隊の「長鯨」で会津に入った。日光東照宮の別当大楽院は、神体と宝器を鶴ヶ城に運んだ。 「都見たくば此所までござれ、今に会津が江戸になる」 という俗謡が、その頃流行した。(筆者は読売新聞入社後に宴席で「戊辰戦争に勝っていたら会津が江戸だった」と真顔でいったのを覚えている) 加勢の兵も唄い、町の子供達も肩を怒らして唄った。腕を拱いたまま崩壊した幕府に代わって今や、はっきり、会津が新しい拠点になったのである。 家老の西郷頼母は、そういう状態を心配した。 「これでは、ご当家がひとり、朝敵を背負って立ったような形になりかねませぬ。何とか、お考え直し願いませんと」 頼母はそんな風に切り出して、周囲の動きを分析した。
「時に仙台の春たけなわにして、桜花満開なりしかば、奥羽鎮撫副総督、醍醐(忠敬)参謀、世良(修蔵)参謀(長州藩士)ら、梅林亭において盛宴を張る。然るに一行酔いに乗じて醜態を極め、淫猥の状衆目を憚らず」 という有様であった。 また、 「薩長兵入仙以来、公然、藩士を侮辱し、甚だしきは良家の婦女を辱め、以て誇りとする者」 があった。(『会津戊辰戦争』) そのような状態が積み重なって、仙台藩士は遂に、 「横暴にして、傲慢、藩士を奴隷の如く扱う」 上に、謝罪嘆願には目もくれない世良修蔵を斬ることになる。閏4月19日の夜、世良は福島の妓楼金沢屋に入り、酔って娼婦の若葉と素っ裸で寝ていた。 仙台、福島両藩士がそこを襲い、世良は捕えられて阿武隈川の下河原で首を討たれた。そうして奥羽同盟は成立した。 ◇ ◇ ◇ 巨人はラミレスを放出するという。彼は現役続行を希望し、他球団に移る。だから、CSでは好機に打たなかったのだ。10年連続20本塁打の強打者だ。代わりの補充は?ドラフトで失敗し、ラミレスを放出して来年の成算はあるのか?それにつけても2番打者はクビだ。断固、実行せよ!