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2016年03月31日(木) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(113) |
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第5章 生い立ち(31)
辛く、寒かった冬をようやく生き延び、生き抜いて明治4年(1871)の春を迎えた。柴家は釜伏山の裾野に広がる原野を流れる荒川辺りを永住の地と定め、佐多蔵、五郎と兄嫁の3人で開墾を始めた。
霊媒で有名な恐山の裾野は起伏が激しく、松林や雑木林が入り混じって田圃は数えるほどしかなかった。
この土地では、男子は北海道に漁業の出稼ぎに行って冬に帰ってくるのが常だった。
それらのことがわかるにつれても、冬を越す準備を急がなければならず、3人は毎日、開墾に汗を流して蕨を採った跡地に畑をつくり、野菜や豆の種を蒔いたが、虫に食われて失敗した。わずかな水田も完成しなかった。
大家である初五郎の作業を見習ってやってみたが、痩せた大根と小さな馬鈴薯が少し採れただけだった。常食は相変わらず「オシメ粥」だった。 |
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2016年03月30日(水) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(112) |
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第5章 生い立ち(30)
斗南藩庁は「官所」と呼んだ旧南部藩代官役所に置き、山川大蔵が大参事として統括した。
子供たちのため円通寺本堂に学校を設け、従来の孝経、論語などに代わって福沢諭吉の『世界国尽』や『西洋事情』などを学ぶようになった。
思えば、安永5年(1708)孔孟程の他の講義は禁止する、との禁令が出て以降、朱子学を中心にして古学さえ排した會津藩の子弟教育が、約160年ぶりに解放されたわけで、五郎は毎日登校して漢籍の素読を習った。
午後は、子供たち30人が神社に集まって遊んだ。大方は、會津では郭外に住む軽輩のため敬称をつけずに姓を呼ぶ日新館の風趣を知らず、五郎らが軽輩を侮辱したーとして、いつも虐められた。 |
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2016年03月29日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(111) |
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第5章 生い立ち(29)
その日から毎日、犬の肉を食べるようになり、初めのうちは旨いと思ったが、塩で煮るだけなので、呑み込むのが辛くなってきた。
五郎は、すぐに喉につかえるようになり、吐き気を催すようになってしまった。この有様を見て父佐多蔵は
「武士の子であるのを忘れたか!」
「ここは戦場なるぞ。會津の国辱を雪ぐまでは戦場なるぞ!」
語気鋭く五郎を叱った。
凡そ2か月間、毎日、犬の肉を食べ続けた。そのためか、あるいは、栄養不足のためか、春になると、頭髪が抜け始め、ついに坊主頭のように剥げ頭になってしまった。
この年、藩主・容大公は、わずか3歳、田名部の円通寺に住まい、父容保公は「お預け」の形で同居していた。
佐多蔵は時折、薇や蕨、釣った川魚を持参して参上し、蕨くずを練ったものに黄な粉をまぶした物を賜ってきた。 |
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2016年03月28日(月) |
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巨人3連勝のスタート |
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プロ野球が開幕した。高校選抜と併せて球春到来である。
巨人は昨年、セリーグ最低打率に終わった打撃部門の向上が課題であった。二人の外人を入れた打線は、3試合で見る限り好調だ。このまま突っ走って”ぶっちぎり”で優勝にむかってほしい
作家ねじめ正一さんは大の長嶋ファンである。先日も読売新聞夕刊に「どんな時でも長嶋茂雄」のコラムを書いていた。
「野球は人生そのものだ」がミスターの座右の銘だが、ねじめさんのは
「長嶋茂雄は私の人生そのものだ」という。
ミスターが輝いている時だけが長嶋茂雄ではなく、病気に倒れ、人生のピンチになった時も長嶋であり、希望を与えてくれる真のスーパースターであるーと力説している。ヘビーな長嶋ファンである。
気分よく今朝を迎えたに違いない。同感1! |
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2016年03月27日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(110) |
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第5章 生い立ち(28)
白いご飯や白粥などは思いもよらず、馬鈴薯などがない場合は、海岸に流れ着いた昆布やワカメを拾って干し、これを棒で叩いて木屑のように細かくして粥にした。
色は茶褐色で、嫌な匂いがして非常にまずかった。この地方の方言で、「オシメ」というのだが、これでどうにか飢えを凌ぐしかなかった。
田名部川の水が少し緩み始めた時、一人の猟師が訪れた、円通寺裏の川に張った氷で遊んでいた犬を射殺したが、氷が薄くて渡ることができず、諦めて帰ってきた、という。
父は暫く考えた末、五郎に犬の死骸を貰ってくるよう命じた。五郎はいわれるまま、犬を飼っていた鍛冶屋と交渉した。犬の死骸は、川を渡ってとってきた藩士と半分ずつ分けて貰ってきた。 |
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2016年03月26日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(109) |
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第5章 生い立ち(27)
藩からは、1日大人玄米3合、子供2合と銭200文が支給され、これで衣食住の一切を賄う他なく、たちまち家賃も支払えなくなり、斗南が丘や原野に3,4坪の掘っ立て小屋を建て、開墾を始めるしかなかった。
柴家は働き手の太一郎がいないため、翌年の春まで工藤林蔵の空き家を借りるしかなかった。10畳の台所兼板の間、それに6畳の2階の部屋があった。
畳はなく、障子はあるものの、貼るべき紙はなし、板の間に蓆を敷き、障子には米俵を荒縄で括りつけて代用した。
炉に火を焚いて寒気を凌ごうとしたが、陸奥湾から吹きつける北風は部屋を吹き抜けて炉端にても氷点下10度、15度の寒さだった。
このため、炊きたての粥も、たちまち石のように凍ってしまった。 |
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2016年03月25日(金) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(108) |
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第5章 生い立ち(26)
9月、野辺地から田名部に移ることになり、父佐多蔵、太一郎夫婦と五郎の4人は、わずかな荷物を駄馬2頭に積んで出発した。2日後に到着、工藤林蔵という人の空き家を借りて自炊を始めた。
このようなわけで斗南藩はたちまちのうちに食べるコメに事欠く有様で3万石は名ばかりだったことが明らかになった。
このため、藩で協議の末、函館のデンマーク領事から食量米を買うことになり、太一郎と元出石藩士の川崎尚之助が協力し、函館に渡って米を購入した。
ところが、仲介者だった貿易商人米倉某がコメ代金を持ち逃げしてしまった。二人は、迷惑が藩に及ぶのを畏れて
「我らの責任である」
と主張した。
斗南藩は二人の儀挙によって賠償金を免れ、司法当局も二人の心情にいたく同情して禁固7年という寛大な処罰になった。 |
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2016年03月24日(木) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(107) |
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第5章 生い立ち(25)
目的地、野辺地に到着したのは6月半ばを過ぎていた。先に到着していた人々は、田名部(現むつ市)と野辺地に分かれて宿泊し、田名部に斗南藩庁を置いて山川大蔵が統括し、野辺地には倉澤右兵衛が支庁長として政務を始めていた。
五郎たちは、呉服屋の一室に泊まることになったが、地元民は新しい藩の一統を迎えて、極めて丁重に扱ってくれた。
日々の食膳には山海の珍味が並び、會津以来のご馳走だった。
太一郎は、この地に永住する心を固め、母方の親族日向新六の妹すみ子と結婚し、倉澤支庁長を補佐して働いた。
父佐多蔵は會津墓参をしてから7月の末に着いたが、ますます寡黙になり、もっぱら付近の川で釣り糸を垂れるのみ。 |
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2016年03月23日(水) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(106) |
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第5章 生い立ち(24)
太一郎と五郎は、200名の藩士と共に汐留(新橋)から800トンほどのアメリカの蒸気船に乗船した。
この船は左右の舷側に大きな水車を付け、これを回転させて進む外輪船で、速力は早かったが、船室は暗くて狭く、乗客はすし詰めの状態だった。
山国育ちのため、始めのうちは、海上が珍しくてはしゃいでいたが、沖に出るに従って言葉も少なくなり、顔は青ざめ、横になって水も飲めないほどだった。
五郎も船酔いのため死人のようになり、周りの者から笑られるほど。波が高い日は沿岸の漁港に避難し、風が吹けば島影に入りながら、船は黒煙を上げてゆっくり北上した。
遙か下北半島を迂回して、風が荒い陸奥湾に入った。 |
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2016年03月22日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(105) |
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第5章 生い立ち(23)
五郎は、土佐藩邸の屋敷長屋に毛利宅を訪ねた。他藩の者と言葉を交わすのは、この日が初めてだった。
「学僕として召し抱える身であるから、主人の命に従って働くように」
といわれた。この屋敷で明治3年を迎え、五郎は12歳になった。学僕というのは名ばかりで、家の掃除や来客の取次など、下僕と同じだった。
明治3年5月半ばになり、出発準備が整って、いよいよ、新領地への移住が始まった。南部藩から陸奥国二戸、三戸などを割譲して會津藩に与えるもので、「斗南藩」と名付けられた。
父佐多蔵は、北上する前に、自刃した肉親の墓を弔うため、一人、會津に向かい、陸路斗南に行くことになった。
五三郎、四朗(茂四郎から改名)は東京に残って勉学することになった。 |
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2016年03月21日(月) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(104) |
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第5章 生い立ち(22)
陸奥国の旧南部藩の一部を割いて下北半島の火山灰地に移封され、わずか3万石を賜るのは、真に厳しい処遇ではあるが、藩士一同、将来に夢を託して喜んで受けた。
しかし、新しい領地は半年間は雪に覆われる痩せた土地で、実収は7千石に過ぎず、到底、藩士と家族を養うのには足りないーことなど、この時には誰も知らなかった。
その年(明治2年)の暮れ、太一郎の願いが届き、土佐藩の公用人毛利恭助が五郎を学僕として預かることになった。
太一郎は五郎に説諭した。
「土佐藩は會津にとって仇敵だ。鶴ヶ城の包囲戦の参謀は、土佐の板垣退助だった。断じて恥ずべきことはするでないぞ」
◇ ◇ ◇
今日は春のお彼岸の中日。仏壇に眠る祖父母、両親はじめ先祖の御霊に花を供えて迎えた。會津の菩提寺の墓は倒れて以来、行っておらず、毎日、仏壇に般若心経を読み上げ、祖父母、両親と昨年9月に急逝した妹の名前も読み上げて成仏を願った。無常迅速である。 |
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2016年03月20日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(103) |
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第5章 生い立ち(21)
難行苦行の旅も10日余で東京に着いた。7月初旬で、蒸し暑さが堪らなかった。一橋門内の「御搗屋」(おつきや)という幕府の食糧倉庫に着いた時は、疲労困憊だった。ここが謹慎所だった。
東京に送られた會津藩士は音羽の護国寺、小川町の講武所、麻布の幸田邸の4か所に収容され、後に芝。増上寺も収容所になった。どこも監視兵が目を光らせた。
9月27日、會津藩主松平容保に対して陸奥・南部の地を割いて3万石を与えるーという恩赦があった。さらに将軍徳川慶喜と容保の罪を赦すー詔勅が下った。
容保は実子慶三郎に家名を譲り、慶三郎改め容大と名乗って11月4日、華族(子爵)に列せられた。
藩士一同感泣し、賊軍の汚名が晴れたことを喜び合った。 |
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2016年03月19日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(102) |
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第5章 生い立ち(20)
五郎は10歳だったので、柴家の家族として一緒に行くことは許されなかったが、留吉という下男の名前を使って願い出て同行が許された。
6月は梅雨が長引いて陽の目を見ることがなく、道はぬかるんでおり、負傷している太一郎を運ぶため、一枚の板輿が与えられた。御山を出発して、その日は本陣があった滝沢村で宿泊したが、翌日雨の中を”乞食”のような行列が続いた。
首から腕を吊った者、両杖に足を引きずる者、次第に列から遠ざかる者たち。それぞれ運命を背負って言葉もなく、歩き続けた。五郎たちは、家老梁瀬三左衛門(2500石)の長子力之助らと一緒だった。
1日に歩ける距離は5,6里(20〜24キロ)で、沿道の百姓や町人は戦いに慣れたのか、無関心な様子だった。 |
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2016年03月18日(金) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(101) |
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第5章 生い立ち(19)
明治2年(1869)6月、御山の野戦病院に収容されていた負傷者の治療も殆ど終わったので、藩士たちは、江戸改め東京へ護送されることになった。
「兄上、われらを俘虜として江戸に連れて行き、晒し者として町中を歩かせ、薩長の威を天下に誇らんとするのでしょうか」
五郎が太一郎に訴えると、太一郎はにわかに気色ばんで語気荒く叱った。
「薩長の者どもが何をなすか見届けよ。もし辱めを受けたら、斬り死にするか、腹を掻っ捌いて會津魂を見せてくれよう」
もはや會津に戻ることはあるまいと、山荘の田畑山林は、永年の忠節に対する礼として下男留吉に与え、杉林は兵火に荒らされた主川村の復興のため村に寄贈した。
いよいよ出発に際して新政府軍と交渉して五郎も一緒に行くことになった。 |
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2016年03月17日(木) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(100) |
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第5章 生い立ち(18)
その後、一族間の連絡が次第に可能になって、その消息が明らかになってきた。
▽木村家に嫁いだかよ姉は負傷して動けない夫君はじめ一家9人、悉く自刃。
▽叔母中沢家も同様で、従兄弟武之助の夫人も自刃。
▽叔父守三は城中から仙台へ使いとして行き、その後、
蝦夷・函館に走って幕府の榎本武揚軍に参加。
▽叔父日向左衛門、従兄弟新太郎は戦死。
この頃から御山に病院が開設された。我が国初の野戦病院である。敵味方の区別なく診察にあたり、長兄太一郎も留吉が曳く馬に乗って御山の病院に通って手当てを受けた。 |
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2016年03月16日(水) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(99) |
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第5章 生い立ち(17)
赤く焼け爛れた瓦礫だけで、庭木も殆どなくなり、火勢の凄まじさを見せつけていた。五郎は焼け跡に呆然と立ち尽くすのみ。
見渡す限り郭内の屋敷は悉く灰燼瓦礫と化して目を遮るものはなにもない。仰ぎ見れば白亜の鶴ヶ城もまた砲撃、銃弾の傷跡生々しく、白亜は剥げ、瓦は崩れ落ちて、”やっと立っている”戦傷者のようだった。
痛々しく、情けなく、
「戦に敗れるということは、こういうことなのだ」
五郎は涙も出ず、両足の力が抜けて瓦礫の山に両手をついて打ち伏してしまった。 |
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2016年03月15日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(98) |
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第5章 生い立ち(16)
鶴ヶ城開城から1か月経った10月末になった。武士以外の者は若松に入ることを許された。負傷し、身を隠していた太一郎は留吉に命じて柴家の焼け跡に行かせて自刃した家族の骨を拾わせようとした。
留吉は捕らわれるのを畏れて真夜中に密かに焼け跡に侵入し、自刃した居室と思われる場所で、灰燼の中から手探りで大きい骨だけを拾って急いで持ち去った。
柴家の菩提寺である青木の恵林寺まで行く余裕がなく、仕方なく、馬場口の興徳寺境内に潜み、他人の墓所に仮埋葬して目印の木片を立てて帰ってきた。
11月になって少し落ち着いてきた様子になったので、五郎が農家の息子の姿で叔母のきさらに伴われて二之丁の柴家の焼け跡に行った。
◇ ◇ ◇
民主と維新が合流した新党名が「民進党」だと。ふざけるな!台湾の政党があるではないか。おかしな名前にしたもんだ。
恐れ入った! 民度の低さよ! |
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2016年03月14日(月) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(97) |
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第5章 生い立ち(15)
五郎は早速、
「家の者は?」
と尋ねたが、
「のちほどに」
と低い声で言って奥に入っていった。清助は奥の間から難民たちを退出させてから五郎を招きいれ、正座して言った。
「今朝方、敵が城下に侵入した。柴家の婦女子一同は屋敷を退去せず、家に火をかけて5人は潔く自刃した。わしが頼まれて介錯し、家に火を放ってきた」
と低い声で話し始めた。さらに
「お前の母は、臨終に際してお前の保護養育をわしに頼んだ。これは武家の常である。幼い妹まで潔く自刃し果てたるぞ」
と家族の最期を話して聞かせた。床にひれ伏して泣きじゃくる五郎。 |
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2016年03月13日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(96) |
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第5章 生い立ち(14)
8月22日は夜半から続く雨で、前日に拾ったクリや筍を籠に下げて友吉と共に別荘を出発したが、途中で引き返した。
堤沢村の北口に至った時、大勢のずぶ濡れになった避難民が街道(會津西街道、日光街道ともいう)を埋めるように歩いてきた。老人の腕を抱え、幼な子や病人を背負っている者、槍や薙刀を小脇にした婦人、中には、女性ながら3,4本の太刀を背にした者ー。みんな、裸足のままで傘もなく、豪雨の中、無言で続々と歩いた。
こんな状況では、一旦別荘に戻るしかない、と考えたのだ。八つ(午後2時)過ぎ、面川村在住の」叔父、柴清助が妻と共に疲れ切った表情で別荘にやってきた。
◇ ◇ ◇
昨夜のNHK歌謡ショーは、わが會津の會津風雅堂からの生中継だった。
懐かしい風雅堂に行った思い出は、総選挙の立会演説会。民主の渡部恒三と自民の元市長・山内日出夫君の戦いだった。
山内君は演説が下手で、「こんな程度で市長か」と驚いた記憶がある。
首相の安倍晋三が応援にきたが、長州人のため票にはならなかった。 |
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2016年03月12日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(95) |
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第5章 生い立ち(13)
この日までに、祖母や母たちは話し合って、男子は一人でも生きながらえて柴家を相続させて會津藩の汚名を天下に雪ぐこと、戦いの役に立たない婦女子は、いたずらに食量を浪費しないよう、籠城を拒み、敵侵入と共に自害して辱めを受けないよう、覚悟を決めていた。わずか7歳の末娘さつまでが−。
8月21日、五郎は面川沢の別荘に一泊し、翌22日、きさに伴われて松茸などを採ったり、クリの実を拾い集めて楽しく過ごし、夕刻、別荘へ戻った。
下男留吉の子供たちと遊んでいたところに城下から帰ってきた近くの炭焼き農夫が、城下は敵に囲まれて騒動になっているーと知らせてくれた。
五郎は直ちに出発して母の元へ駆けつけたかったが、
「敵軍の潜む夜は危ない」
と止められ、やむなく床に就いたが、とても眠られなかった。 |
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2016年03月11日(金) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(94) |
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第5章 生い立ち(12)
そして運命の8月21日の朝を迎える。鶴ヶ城の西2キロにあった柴家の別荘の留守番をして住み込んでいた大叔父の未亡人きさが訪ねてきた。
付近の山には、松茸や初茸などが生え、栗の実も大きくなったので泊りがけで採りにきたらーと五郎を誘いに来たのだ。
母はすぐさま
「日新館もすでに閉鎖されて、男子はすべて城中にあり、(幼い)五郎は叔母様と共に行きなさい」
と促して、上等な洋服を取り出して着せ、小刀を帯に手挟み、手拭いなどと竹籠を五郎に手渡した。
これが永遠の別離になろうとはー。門前に送りだしてくれた祖母や母に一礼して五郎は、いそいそと出かけた。
◇ ◇ ◇
東日本大震災5年目の今日、全国各地で追悼式が行われた。
読売新聞の後輩、遠藤実君が宮城県名取市閖上の自宅で津波に流されて、後日発見された。
遠藤君の御霊に改めて追悼の意を表して黙祷した。 |
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2016年03月10日(木) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(93) |
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第5章 生い立ち(11)
このような状態の中で、母は病床の茂四郎を無理矢理起こして衣服を整えさせ、その手を引いて家の玄関まで連れて行った。茂四郎は家族に一礼し、おぼつかない足取りで去っていった。
間もなく、城中から布告が出て
「危急が迫ったら警鐘を連打する。郭内の者はすべて三の丸に馳せ参ずべし」
と告げられた。
翌日の早朝、下僕の一人が
「お知らせ申します」
と大声を上げながら家に駆けこんできた。
薩摩軍の斥候が近くに出没したので用心してくださいーということだった。 |
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2016年03月09日(水) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(92) |
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第5章 生い立ち(10)
藩校・日新館は閉鎖され病院になった。連日、運び込まれる死傷者を収容できず、郭内の屋敷に頼む者も多かった。城下は既に「戦場」となっていた。
柴家ではー。長兄太一郎は軍事奉行として越後方面に向かった。次兄健介は大砲隊に入って家老山川大蔵に率いられて日光・宇都宮方面に出撃したが、偵察に出かけたまま行方不明になった、との報告が入った。
三男五三郎は家老佐川官兵衛隊に配属され、後に農兵隊長として越後方面に向かった。四男茂四郎(四朗)は白虎隊に編入されたが、長く熱病にかかって床に伏せっていた。
一方、女性は祖母つね(81歳)、母ふじ(50歳)、太一郎妻とく(20歳)姉そい(19歳)、妹さつ(7歳)の5人で、それぞれ
「去るもよし」
「籠城するもよし」
と決めていた。 |
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2016年03月08日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(91) |
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第5章 生い立ち(9)
柴家にとって悲報が届いたのは、それから間もなくだった。
長女そいは18歳で江戸に上って土屋敬治という藩士に嫁いだ。敬治が鳥羽・伏見の戦で負傷し、間もなく帰郷したが、その数日後に亡くなった、というのだ。
夏が近づく。敵軍の攻撃の知らせが続々届き、城下の周辺遠くでは雷鳴が四方の山々に木霊するように、大筒の砲声が天地を覆うように轟き、會津盆地はいよいよ騒がしくなってきた。
五郎にも、戦況不利の様子が徐々に伝わってきた。薩長浪士が江戸を始め各地で砲火、殺人を行って世情不安に陥れているのは徳川家の威信を傷つけて討會の気勢を高めようとしている謀であうと伝えられた。 |
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2016年03月07日(月) |
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東海散士 |
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福島県郡山市の千葉さんからメールをいただいた。ブログで柴五郎を扱っているので、兄四朗(東海散士)の漢詩の書をお持ちだ。
内容は
「風吹霜髪血衣腥 脱落封侯萬里名 南冥今夜無邊月 又杖宝刀賦遠征」
だ。「髪が霜に濡れて衣服は血腥い、諸侯は脱落して萬里にあり、大切な刀を草刈代わりに遠征を推し進む」とでもいう意味か。
戊辰戦争で敗れた會津藩が挙藩流刑された斗南(青森県むつ市)で途端の苦しみを味わう生活を述べたものらしい。
ブログでは間もなく、斗南の生活にも触れるが、犬の肉を食らう生活に
父佐多蔵は「ここは戦場なるぞ! 會津の汚名を雪ぐまでは死んではならぬ」
と一家を励ます言葉が『ある明治人の記憶』に記されている。
まさに凄まじい生活の中で、薩長新政府に対する憎しみで生きている。 |
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東海散士の書 |
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2016年03月06日(日) |
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党名公募? |
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民主、維新両党は合流に伴う新たな党名を一般公募できめるという。
政治家たる集団は、国民を一歩リードして、どのような国をつくるのか、綱領と併せて党名などは、自分たちで決めて国民に示すべきだ。
こんな、訳の分からない連中が、なんのために合流するのかも国民に提示しないで、よく政治をやっていられるものだ。
単に数合わせといわれても仕方がない。まったくお粗末な合流で、自民党と戦える政党ができるわけがない。
高邁な精神をもつ政治家が望まれる! |
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2016年03月05日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(90) |
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第5章 生い立ち(8)
過酷な運命がひたひたと、そこまで押し寄せているとも知らない柴家では、いつもの年と同じように雛段を飾った。内裏様や五人囃子などが華やかに並び、小さな雪洞に火が灯された。
五郎は
「母上、内裏様は天子様なりと聞く。真也や」
と尋ねると、母は五郎の目を見ながら悲しそうに、頷くだけ。
さらに五郎は
「天子様を毎年祀っているのに、朝敵よ、賊軍よと、征伐を受ける理由はどこにあるあるのですか?」
と母に訴えようとしたが、母の固い表情をみて、思いとどまった。
この年、10歳になった五郎は、藩校・日新館に入学した。 |
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2016年03月04日(金) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(89) |
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第5章 生い立ち(7)
慶応3年12月、王政復古の大号令が発布され、會津藩は朝敵となった。
「理不尽な!」
と切歯扼腕し、怒る者、悲嘆する者が多く、城下に動揺が走った。
「薩摩の芋侍め!」
五郎は木刀で庭木の小枝を手当たり次第に叩き折ったが、心は静まらなかった。
五郎は討幕、討會の軍の主力だった薩摩藩兵を当面の敵とみなした。
この日から、(藩士の住む)郭内の様子は一変した。世の中は急に騒がしくなってきたが、翌年3月ともなれば、會津にも春の兆しが訪れ、雪解け水が清流となって流れ、いつもと変わらない陽光が光輝く季節になった。
3月3日の雛の節句、これが柴家最後の節句となる。 |
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2016年03月03日(木) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(88) |
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第5章 生い立ち(6)
會津藩が京都守護職につき、新撰組らによる長州藩士や浪士たちへの弾圧で斬られた人数は夥しく、會津藩への恨みを買った。守護職は幕末における「非常警備軍」として、幕府当初から置いた京都所司代の上に設けた職制である。
會津藩家老だった山川浩(大蔵)は著『京都守護職始末』で
「新撰組、規律厳粛、志気勇敢、水火といえでも辞せず(中略)守護職の用をなせる事、甚だ多し」
と述べている。
長州人の恨みは會津藩へ向けられ、會津攻めに繋がってゆく。
山川は
「京でのことは、新撰組がやったこと」
とは1行も書いていない。愚直なまでの會津人であった。 |
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2016年03月02日(水) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(87) |
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第5章 生い立ち(5)
文久2年(1862)、會津藩主・松平容保が京都守護職に任命されて以降の幕末の世情は崩壊への一途を辿る。
主な動きを列挙する。
▽元治元年(1864)7月、蛤御門の戦い(會津と薩摩藩が長州藩と戦う)
▽慶応3年(1867)10月、15代将軍徳川慶喜、大政奉還。
政権を朝廷に返上。薩摩、長州藩に「討幕の密勅」下る。
▽同年12月、王政復古の大号令。
▽慶応4年1月、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争の始まり)
▽同月 徳川慶喜と松平容保ら大坂城を脱出、軍艦「開陽」で江戸へ向かう。
▽2月、容保、會津に戻り、謹慎。
▽3月、奥羽鎮撫総督九条道隆ら仙台に入り、會津征討を命じる。
▽4月、會津藩恭順嘆願が九条総督に拒否される。
▽5月、奥羽越列藩同盟成立。
▽7月、二本松城、越後・長岡城陥落。
▽8月、會津藩白虎隊、飯盛山で自刃ー鶴ヶ城籠城始まる。米沢藩、
仙台藩など相次いで西軍に下る。
▽9月、鶴ヶ城開城。 |
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2016年03月01日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(86) |
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第5章 生い立ち(4)
一連の開国要求は、嘉永6年(1853)アメリカの東インド洋艦隊司令官ぺりーの浦賀来航でピークを迎える。
外部からの圧力に負けた江戸幕府は260年余の鎖国令を解き、安政4年(1858)日米修好通商条約を締結し、次いでオランダ、ロシア、イギリス、フランスと同じ条約を結んだ。
騒然とした幕末に、會津藩は親藩の雄として文化5年(1808)蝦夷・樺太防備に出動(1年間)したのを始め、同7年(1810)江戸湾防備のため相模国(三浦半島)に10年間駐留、さらに弘化4年(1847)上総国(房総半島)に7年間、嘉永6年(1853)品川第2砲台防備に6年間と続き、最終的には文久2年(1862)の京都守護職を幕末まで引き受ける羽目になった。
會津藩は幕府に「いいように」利用されたといえよう。 |
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