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2014年10月31日(金) |
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會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(51) |
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◇片桐嘉保(1717〜90)
(天文暦学家)
片桐家4代目。勝平と称し、慶翁と号した。元文5年(1740)、江戸に遊学し、天文を渡辺官蔵に、歴術を森田豊仙に、易を一色左太夫に、韻鏡を天野丈右衛門にそれぞれ学び、すべてその秘訣を得て帰藩した。
安永4年(1775)から寛政2年(1790)10月に没するまで近臣に教授し、安藤有益以後、會津藩における算額の中興とされる。
長子嘉矜は5代目として父に続いて師範となった。 |
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2014年10月30日(木) |
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會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(50) |
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◇三宅親伯(1711〜86)
(用人)
三宅源右衛門親宗の次男。書を三井親和に学んで技を大いに磨いた。享保11年(1726)、4代藩主容貞の小姓に抜擢され、俸4口金8両を賜った。同19年、膳番となる。
元文2年(1737)年銀5枚を給せられ、同4年には給金1両が増し、5年には藩主に侍書、寛保3年(1743)、奥番に。延享元年(1744)、さらに100石を賜り、職料秩50石が加えられた。
寛延2年(1749)には班礼服格に進み、宝暦元年(1751)には御使番に。同5年、刀番へととんとん拍子に出世。明和2年(1765)には大目付、同4年用人となった。
その後、いったんは辞したが、安永4年(1775)小番頭となり、同9年、世子に引き継いだ。
◇ ◇ ◇
富津の鈴木さん、横須賀の山寺さん。諸君からのメールが来ないと、今後、メールのやり取りが不可能になります。ブログを読んでトップの画面からアドレスを確認して小生へメールしてください。 |
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2014年10月29日(水) |
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閑話 |
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元駐タイ大使で、保守派の論客として知られた岡崎久彦さんが死去した。退官後も外交評論家として多くのメディアに登場し、安倍首相の外交・安全保障のブレーンであった。
子会社の福島民友に出向時代、岡崎さんを講師に招いて中小企業の経営者相手の講座で講演していただいた。その他、政府税制調査会会長だった加藤寛氏や将棋の第18世名人米永邦雄さんら超一流の講師を招いたものだ。
地方紙ではなかなかできない顔ぶれをそろえ、民友では小生の人脈の広さに驚いていた。鬼籍に入られた方々も多く、今更ながらご冥福を祈る! |
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2014年10月28日(火) |
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會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(49) |
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◇伊藤光隆(1845〜64)
(戊辰殉難者)
慶応4年8月22日、猪苗代城が西軍の手に落ち、ついに西軍は戸ノ口に達した。會津軍は小池繁次郎率いる遊撃隊、辰野勇率いる敢死隊、坂内八三郎率いる第二奇勝隊約120〜30名に砲兵が防衛にあたっていた。
壮絶な戦闘が繰り返されたが、會津軍の武器は旧式のヤーゲル銃と槍で、新式銃で装備した西軍の攻撃に苦しんだ。戦闘は一昼夜におよび、西軍はその後、続々と増員されて會津軍は苦境に立たされた。
戦線は北は日橋川左岸から南は赤井村方面までわたり、辰野勇隊長に続いて小池繁次郎隊長、同組頭安藤物集馬らが次々、壮烈な戦死を遂げた。
戸ノ口原における一連の戦闘で會津軍の戦死者は6〜70名に及んだが、氏名が判明した者は半数にも満たない。光隆の墓碑銘には「慶応戊辰年8月23日」「此君戸ノ口原而戦死葬被彼地行年20歳」とある。が、戸ノ口原に光隆の墓は見当たらず、『校訂戊辰殉難名簿』の中にもその名はない。 |
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2014年10月27日(月) |
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會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(48) |
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◇入江兼央(1766〜1832)
(刀術真天流師範)
入江彦十郎兼能の三男、母は黒河内氏。文化元年(1804)正月、真天流芸者(師範)の致仕に伴って、その跡を継いだ。児島氏を娶り、2男6女があった。天保3年(1832)6月、67歳で没した。
墓碑銘は、天保9年1838)門人の野村恵が、兼央の略歴を刻んだ。それによると、寛政10年(1798)藩校・日新館の剣法教員となり、文化元年(1804)代官、その後、芸者となり、文政12年(1829)、可職捧2口その他銀や綿を賜り、67歳で没。
◇ ◇ ◇
ここで會津藩士が学んだ刀術をあげると、一刀流溝口派、真天流、安光流、太子流、神道精武流の5派。神道精武流には小太刀の名手で、土佐の坂本龍馬を暗殺した京都見回り組与頭佐々木只三郎が有名だ。
元會津藩士で、只三郎も一家で江戸湾防備のため上総国に10年間駐在した経験がある。 |
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2014年10月26日(日) |
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陸軍大将柴五郎 |
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本日の読売新聞日曜版「名言巡礼」で會津藩士の子息で陸軍大将だった柴五郎の記憶回想録「ある明治人の記録」からの名言「ここは戦場なるぞ、會津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」が紹介されている。
戊辰戦争の敗戦後、本州最北端の斗南に挙藩流刑され、途端の苦しみの中、野良犬の肉がのどを通らない少年五郎に父柴佐太蔵が叱責する涙のシーンだ。
五郎は成長して陸軍軍人となり、義和団事件での大活躍が世界に喧伝されて大将に上り詰める。この物語は『會津人群像』(歴史春秋社)20,21号で連載したので、ぜひともお読みいただきたい。
この中で、会津藩が幕末に江戸湾防備のため、上総国飯野に10年間駐留した時、柴佐太蔵一家が参加していたのを史料から発見し、世に出した。佐太蔵は250石の物頭で会津藩の上士である。
◇ ◇ ◇
このブログを読んでくださっている読者の皆さん、小生のアドレスが変わったのをご存知ですか?ブログトップの左側に書いてあるので、アドレスの変更手続きをしてください。特に會津藩士子孫の片桐さん、長崎さん、よろしく。 |
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2014年10月25日(土) |
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會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(47) |
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◇鈴木恭豊(生年不詳〜1749)
(郡奉行)
庄左エ門と称し、居合景流の名手として知られた。享保2年(1717)正月、秩貢小普請料を継いだ。翌年正月、外隊士となり、同20年(1735)正月、目付に出世、寛保2年(1742)2月、郡奉行となった。法名は「義容了忠居士」。菩提寺は興徳寺。 |
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2014年10月24日(金) |
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會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(46) |
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◇佐藤孝徴(1754〜1832)
(神学師範)
平蔵と称し、隠山と号した。神道を木本成善に従って学んだ。寛政7年(1795)、成善が激職であるため、成善に代わって書生に教授するよう藩命があり、同9年、さらに孝徴や杉本則恒、野口成意ら4人は二人宛てに輪年で教授するよう命じられた。
享和元年(1801)、神道の秘薀(ひうん=極秘の教え)を受けたことにより、神学師となった。文化8年(1811)、垂加派の神道が廃せられて職を免ぜられたが、それまでの格勤が賞されて錦一把を賜った。 |
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2014年10月23日(木) |
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會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(45) |
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◇吉村寛泰(17609〜1853)
(儒学者)
三河国岡崎の人で、福島正則の臣吉村又右衛門と同じ出。5代目貞右衛門の嫡子として若松城下に生まれる。幼名八十の助、後に嘉右衛門、また新兵衛と改め、隠居してから千年と号した。
天明4年(1784)16歳で軍事方平役として出仕、寛政3年(1781)江戸詰めとなり、古屋昔陽に師事して古学を学ぶ。同9年江戸屋敷内学館の助教を拝命。同年9月、寛泰ら子供の願いを受け、父が藩庁に1000両を献金。翌月名を嘉右衛門に改めた。
同11年開版方に転じ、同僚の中条徳一郎と共に製本の事を司る。翌年、医学館都講に抜擢され、文化2年(1805)、職務精励により賞を受け、同8年北学館の建設にあたり300両を献金した。同11年、『日新館志』撰述の命を受ける。同13年江戸に上って資料を集め林述斎や古賀精理に序文の執筆を依頼、文政6年(1823)『日新館志』30巻(現存25巻)が完成した。
藩校・日新館を中心に會津の学術、技芸に関する系統や伝記等を網羅した10年がかりの労作だった。同年12月その努力を賞して銀子2枚を賜った。
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PCを新しくしたら散々な目に逢った。スタートまで10日余り、しかし、原稿を書く段階には至っていない。困ったものである。少しづつ少しづつ前進するとしよう。 |
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2014年10月10日(金) |
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休載のお知らせ |
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小生のPCが不具合のため暫く休載します。できるだけ早く回復するよう務めます。宜しくお願いします。
本日は嬉しい便りの紹介だけ。千葉県富津市竹岡の三柱神社再建の一助にと今年6月の会津藩士慰霊祭の席上、会員皆さんの浄財を寄付したが、昨日、神社総代会長の永井松司さんから便りが届いた。崩れた土砂の撤去や修復工事が11月から始まると、千葉県から連絡がきたという。
来年3月に終わり、そこから神社再建が始まるのに備え、再建委員会が結成したという。一日も早い再建をお祈りしたい。 |
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2014年10月09日(木) |
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會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(44) |
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◇町田光忠(1729〜1805)
(唯一神道家)
江戸で生まれた。直太夫と称し、木本成理について唯一神道を修めた。元文元年(1736)11月、小姓次に召し出されて3口金5両を賜った。同4年、小姓となり、俸給も4口5両に改められた。
宝暦9年(1759)家禄200石を継いで外隊士となった。明和元年(1764)目付に出世し、次いで同6年、山奉行、同9年公事奉行となり、安永3年(1774)には郡奉行、同7年には再び公事奉行となった。
同9年(1780)には用人に出世して、職料扶持50石を賜るなど、要職を歴任した。寛政2年(1790)3月、病を得て一旦、職を辞したが、同7年には再び出仕して組頭となり、大老北原内膳三保に属した。同10年、改めて致仕し、文化2年。70歳で没した。 |
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2014年10月08日(水) |
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會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(43) |
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◇松本爲美(1722〜1800)
(儒者)
藩の儒者松本重文(200石)の嗣子。はじめ弥次郎、後に和平と称し、西湖と号した。清廉潔白な人物で、長じて父重友の跡を継ぐ。
天明元年(1781)在位5か月で急逝した6代藩主容住の事績を編述して献上し、唐様系の能書家として知られた。
江戸に遊学して益々学問に精励した。寛政3年(1791)職を辞し、子息重堅が引き続いて儒者になった。 |
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2014年10月07日(火) |
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會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(42) |
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◇町田高義(1640〜95)
(長柄頭)
町田高伸の嫡男。幼くして武を好み、丸山俊胤について居合景流の奥義を極めた。安西政慶の娘を娶り、寛文2年(1662)家禄200石を継いだ。
貞享3年(1690)には長柄頭を勤めた。門下に弥津椎章、林直盛、佐瀬常置、白土隆好らがいる。 |
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2014年10月06日(月) |
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會津藩大窪山墓地に眠る藩士たち(41) |
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◇安西平吉(1652〜78)
(家老友松氏興義弟)
安西政慶の子。政慶は寛永14年(1637)の島原の乱で、黒田氏の部下として朱甲を着て島原城に突入し、朱甲勇士の異名をとった。藩祖正之は、この武勲を聞いて銃手隊頭として召し出した。
姉が家老友松(9月5日)に嫁し、政慶は間もなく、4歳になったばかりの平吉を残して急逝。死の間際に友松に後事を託した。友松は平吉を親代わりとなって養い、平吉もまた、友松を実父のように仕えた。
ある時、友松は「これは使うでないぞ」といって銭を与えたところ、平吉は言いつけを守らずに使ってしまった。友松が厳しく叱ると平吉は「合わせる顔がありません」と自刃しようとした。友松は脇差を取り上げようとして指を切ったことがあった。
平吉18歳の時、友松は藩に仕官させたが健康がすぐれず、27歳で死去した。
◇ ◇ ◇
従軍慰安婦と原発事故の朝日新聞の捏造、誤報記事は結局のところ、新聞全体の社会的信用を失墜させた。これが最も大きな影響であろう。マスコミの第1位である新聞は全マスコミに”にらみ”を利かせる立場にあったが、それも危うくなってしまった。
読売は1000万部をとっくに切り、朝日は10万部単位で減少していると聞く。毎日に至っては土台も危ない、ような気配とか。 |
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2014年10月05日(日) |
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森要蔵が繋ぐ絆 |
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富津市商工会の一行11人は9月の連休を利用して福島県西郷村の大龍寺にある森要蔵の墓を訪れ、献花、焼香した。
要蔵は上総国飯野藩2万5千石の剣術指南だった。戊辰戦争で「親藩である會津藩を救援すべし」と藩士の子弟や門弟ら20数人を引き連れて會津へ救援に。慶応4年(1868)5月、奥州の玄関口白河城をめぐる西軍との激闘で戦死した。
富津市と西郷村の商工会は、小生の新聞連載「士魂は何処へ」をめぐる縁で、友好団体になり、今月11日の西郷村の商工祭りに富津市からも出店するという。
墓参は昨年についで2度目。戦死した要蔵親子や飯野藩士名が刻まれた墓石に水をかけ、献花、焼香して弔った。 |
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2014年10月04日(土) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(40) |
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◇横山常尹(1702〜66)
(若年寄)
主税と称した。転役するうちに奉行から若年寄に進んだ。世にも稀な誠実な人物として、下記の話が伝えられている。
ある時、同僚の前で、「私の妻は出羽・庄内よりきたが、妻の話では庄内の海辺で馬を繋いでおいたところ、海から蛸が出てきて馬に乗り、いきなり血を吸い始めた。馬は大騒ぎして綱を引きちぎって一目散に庄内の街で駆け出して行った」話をした。
町の人々は「蛸が馬に乗る」とびっくりして棒でこれを打ち殺した、という。蛸は1丈(約3メートル)もあったとか。
一同は偽りだーとして大笑いになった。常尹は立腹して妻の生国庄内へ飛脚を立て、「金子はいかほどで懸ってもいいから出羽中で一番大きな蛸を所望したい」と要望した。
間もなく、先に話した蛸よりも一倍も大きな蛸が常尹の元にもたらされた。家来3,4人に持たせて同僚の家を周り、「先日の話が偽りでないことを悟ってくだされ」とみせた、という。
通称主税とあるので、9月26日の「家老 横山常徳」と姻戚関係を調べたが、分からなかった。 |
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2014年10月03日(金) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(39) |
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◇小原光聰(1773〜1808)
(新夢想流兵学家)
内記と称した。新夢想流の居合術をよくし、印可を小原俊常から受けた。天明8年(1788)9月、家禄1200石を継いで側衆に列し、寛政4年(1792)庶務に練達していることから姑兼奏者番となった。
翌5年、小姓頭、7年番頭に進んだ。同年10月、駕篭に乗ることを許され、しばしば時服や真綿を賜った。 |
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2014年10月02日(木) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(38) |
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◇有賀満辰(生年不詳〜1707)
(神道家)
有賀満家の四男。初め山崎闇斎に学び、万治年間(1658〜61)江戸遊学を命じられた。後に京都に上り、1年余で帰国した。
寛文5年(1665)2月、山崎闇斎が江戸に赴き、病を得たため4月に會津に戻ることになった。この時、満辰は藩主保科正之の命を受けて山崎を護送して無事帰国した。
山崎は病間に『洪範全書』を修していたが、正之に請い、その業を満辰に手伝わせた。これにより同署の編纂は同年9月、無事成就した。
同12年(1672)正之は没し、葬送に際し満辰は計葬事を務めた。元禄元年(1688)大目付に出世し、併せて100石が加増された。
同15年(1702)長井定宗の建議で藩札を発行して物価が急騰したため、藩に不利益をもたらしたと切腹を仰せつかった際、満辰も定宗に加担したーということで家禄没収となり、僅か5口俸が給された。 |
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2014年10月01日(水) |
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會津蕃大窪山墓地に眠る藩士たち(番外) |
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◇吉田松陰
来年の大河ドラマは「吉田松陰」だとか。ドラマ放映の先陣を切って、松陰と會津のエピソードを一つ。 長州藩を脱藩した吉田松陰は嘉永5年(1852)1月、宮部悌蔵を伴ってロシア船が出没していた蝦夷地を見ようと旅に出た。
途中、會津に立ち寄り、2月5日まで数日間滞在した。この時、接待した會津藩士は井深茂松、高津平蔵、志賀重方、黒河内義信らである。彼らは藩内を案内して友好を温めた。この時期までは、會津藩と長州藩はお互いを信頼していたのである。
吉田松陰は、津軽海峡を通過する外国船を見てから江戸に戻るが、脱藩の罪を問われて士籍を剥奪され、俸禄没収の沙汰を受け、やがて刑死する。
接待した會津藩士のうち、高津は9月6日、志賀は8月28日で紹介している。 |
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