関ヶ原の戦いは、會津から始まったのである。御存じだろうか。 秀吉死後、5大老5奉行の筆頭になった家康は、各地の大名と縁組を結び、身内を増やしていった。こうした強引なやり方に不満を持った5大老の一人、會津120万石の上杉景勝は、近い将来の戦に備え、領内の道普請をし、巨大な城を造り始めるなど、戦準備を進めた。 家康からの質問状に家老直江兼続は「武士が武備をはかるのは、商人が茶を楽しむようなもの」と、鮮やかに言い返した。 上洛要請も断った景勝に対して、家康は軍を興した。大名を動員し、大坂から江戸、さらに會津を目指して進軍した。 この好機を待っていた三成は大坂で挙兵した。家康は下野・小山で急遽引きかえし、大坂へ引き返した。この時、景勝は家康の軍勢を追うことをしなかった。「敵の背中は襲わない」という戦国武将の矜持を守ったのだ。 「もし〜」景勝が家康の軍勢を追撃していたら、歴史は大きく変わっていただろう。豊臣政権が続いたか?
近江国坂田郡石田郷の土豪石田正継の次男で、子供の頃、寺に預けられた。たまたま寺に立ち寄った秀吉が、その才能を見込み、小姓として採用された。3杯のお茶を、温度と量を変えて出した話は有名だ。 近江は商品流通経済が盛んな土地柄で、三成は、いわゆる「算勘の才」があったようだ。秀吉は、その才能をさらに引き出して発揮させた。軍事面とは別次元の内政面で成果を上げていった。 秀吉が始めた「太閤検地」を、最初の段階から検地奉行として携わった。戦では、動かす軍勢が10万以上にもなったが、その兵員を賄う兵糧の輸送などを大仕事を卒なくこなした。 つまり、三成は第一線で戦うのではなく、内政面で豊臣政権を支えていたといってよい。「政(まつりごと)の参謀」であった。秀吉の九州征討、朝鮮出兵でも兵站を担当した。秀吉の死後も秀頼を盛り立てて、豊臣政権を維持していく上で、”義”の人だった。 だが、世間的な評価はあまり芳しくない。慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の戦いで、家康に敗れ、京・六条河原で斬首されているからだ。三成は「勝つべくして」立ち上がったのだが、小早川秀秋らの寝返りがなければ「あるいは〜」だった。
尾張国(愛知県)の守護代2人の一人、岩倉織田氏の家老の一人が山内一豊の父盛豊で、清州織田氏の家老の一人が信長の父信秀だった。つまり、一豊と信長は同格だったのだ。 ところが、永禄2年(1559)信長によって岩倉織田氏は滅ぼされ、一豊は逃れて各地を転々とし、同11年ごろ、信長に仕えた。天正元年(1573)長浜城主となった秀吉の家臣となり、近江(滋賀県)の唐国で400石を与えられた。 一豊といえば、妻の千代が差し出した10両で名馬を買入れ、それが出世の糸口になった「内助の功」が知られているが、民政手腕はもっと評価されてよい。 秀吉のほとんどの戦に従軍して戦功をあげ、天正18年、遠江(静岡県)掛川城主となり、5万石が与えられた。一豊は城下町造りを行い、洪水に苦しめられた大井川のつけ掛け工事を行って水害から人々を守った。 豊臣恩顧の大名にも拘わらず、関ヶ原の戦では家康に従って戦った。戦後の論功行賞で土佐(高知県)1国20万2600石の大名に出世した。 土佐でも、高知城の築城や城下町造りを行い、幕末まで続く土佐藩の礎を築いた。
蒲生氏は、近江国の蒲生郡を名字とする古代以来の名族で、戦国時代は、この地の戦国大名六角氏の重臣だった。永禄11年(1568)織田信長が攻め込んできた時、当主蒲生賢秀は信長に属し、子の鶴千代を人質として差し出した。後の氏郷である。 氏郷は信長に気に入られ、信長の娘冬姫と結婚し、信長の一門武将として将来を嘱望されたが、天正10年(1582)の本能寺の変で事態は大きく変わる。 結局、氏郷は急速に台頭してきた秀吉の家臣となり、同12年の小牧・長久手の戦の論功行賞で伊勢・松ヶ島城12万石の大名となった。 生まれが近江、育った場所が伊勢、ということが、その後の氏郷の諸政策に現れている。近江も伊勢も、古来、商業の盛んな土地柄で、近江商人、伊勢商人を輩出した所だったからだ。 天正18年(1590)の小田原攻めの論功行賞で氏郷は会津92万石の大大名となる。俗説では、秀吉が将来のライバルになりそうな氏郷を遠くに追いやった、といわれるが、実際は、去就のはっきりしない伊達政宗、さらには滅ぼされた葛西氏、大崎氏の遺臣一揆に対する抑えとして大物を配したのである。 氏郷は、葦名義広、それを追いだした伊達政宗が居城とした黒川城に入り、名を若松城と改め、地名も若松に。そして大掛かりな町造りに着手した。それまでは武士と商人・職人が同じ所に住んでいたが、これを「士庶別居住区分」という形に直し、武士と商人の住む街を分けた。 近世城下町のスタートで、江戸時代の城下町造りの基礎となった。先駆的な施策に取り組んだ氏郷だったが、領国経営が軌道に乗り始めた文禄4年、40歳の若さで亡くなった。 氏郷の墓は会津若松市栄町の興徳寺境内にあり、辞世「限りあれば吹かねど 花は散るものを心短かき春の山かぜ」が墓の傍にある。 また氏郷は、秀吉に切腹させられた千利休の子千少庵を匿い、保護した、少庵が作った茶室「麟閣」は」戊辰の戦火を逃れて城下の薬種問屋森善兵衛方に移築され、平成になってから鶴ヶ城に移され、今も茶室として機能している。會津の”歴史の深さ”である。 因みに小生の家は、近くの馬場町にあった。市内の中心部である。江戸時代、馬場があった処で、町の中心にある。
「利休七哲」の一人に数えられる茶人であり、最後まで信仰を貫いたキリシタン大名として有名だ。洗礼を受け、洗礼名をドン・ジュストといった。 信長から摂津一国を任された荒木村重の与力大名として高槻城(大阪府高槻市)の城主だった天正6年(1578)村重が信長に反旗を翻し、右近も同調した。 信長は村重の与力大名の切り崩しにかかり、右近が熱心なキリシタンであることに注目。宣教師のオルガンティーノを使い、右近を説得させた。「抵抗をやめれば布教を許可するが、抵抗するなら弾圧する」との脅しに屈した右近は、村重の有岡城(兵庫県伊丹市)に火人質を出していたが、信仰の方を取り、改めて信長の家臣として有岡城攻めに加わった。 その後、信長から優遇され、高槻には教会・セミナリオ(神学校)が建ち、人口2万5千人のうち1万8千人が信者になったという。 信長死後は秀吉に従い、天正13年には播磨・明石城(兵庫県明石市)6万石が与えられ、同じ秀吉家臣の蒲生氏郷らを改宗させた。 ところが、2年後、秀吉は「伴天連追放令」を出して事態は一変。禁教令が出た以上、大名としての地位を守るか、信仰をとるか「二者択一」を迫られた。ほとんどの大名は信仰をすてたが、右近は信仰を捨てずに所領を奪われ、浪人に。 その後、小西行長、前田利家らに招かれ、客分ながら重臣の扱いを受けていたが、慶長9年(1614)国外追放処分を受け、長崎からフィリピンに送られ、翌年、マニラで病死した。
初めは信長に仕え、羽柴秀吉の属将とされた。武将として頭角を現すのは天正9年(1581)9月、秀吉が信長の命を受けて四国・淡路攻略に乗り出した時。 秀久が中心になって淡路島北端の岩屋城と郡家城(共に兵庫県淡路市)を落とし、さらに淡路水軍の大将安宅清康の由良城(同県洲本市)も落とした。 同13年、秀吉による四国攻めでも活躍し、戦功で讃岐(香川県)一国を与えられ、居城を高松城としたが、淡路支配もそのままで、豊臣政権による四国支配では最重要人物だった。 よころが、翌年の豊後(大分県)戸次川(へつぎがわ)の戦で大失態を演じる。秀久が大将になり、前年降伏したばかりの長曾我部元親。十河存保らと共に島津家久と戦った。 秀久は島津軍の作戦に引っ掛かり、元親の子信親と十河が討ち死にし、秀久は逃げてしまった。怒った秀吉は秀久の所領を没収し、謹慎処分とした。 謹慎処分中の秀久は同18年(1590)の秀吉の小田原攻めの時、徳川家康の軍に加わって戦った。秀吉は、それを知って秀久の積極性を高く評価し、信濃(長野県)小諸城主5万石に復活させた。後に家康にも優遇され、仙石氏は近世大名として存続した。
備前(岡山県)の守護は赤松氏で守護代が浦上氏。守護代浦上村宗が大永元年(1521)守護大名赤松儀村を下剋上で破り、主家乗っ取りに成功。その村宗の子宗景が家臣の宇喜多直家の下剋上で倒された。 この「下剋上の連鎖」の現象は直家の謀略的手段によってもたらされたもので、永禄2年(1559)に舅の中山信正と島村観阿弥を謀殺したことに始まっている。 二人は浦上宗景の重臣であったが、信正に招待された直家が、酒に酔った信正を殺した上、城外に待機させていた家臣と共に信正の城を奪って、救援に駆けつけた観阿弥も討ち取ったという。 この後、直家は隣国備中(岡山県)で勢力を伸ばした三村家親も謀殺し、家親の跡を継いだ子の元親とは永禄10年(1567)に戦って破り、備前を代表する勢力にのし上がった。 この時点で直家はまだ浦上宗景の家臣だったが、2年後には、宗景に対して公然と反旗を翻し、備前、備中だけでなく、美作まで勢力を広げ、毛利輝元との同盟に踏み切った。既に三村元親は毛利と同盟関係にあったが、輝元としては勢いのある直家と結ぶ方が有利と考えて「遠交近攻同盟」を結んだのだ。 直家は天正3年(1575)輝元の助けで元親を討って領国を備中・美作まで拡大し、2年後には宗景まで打倒した。守護代の一家臣から下剋上で戦国大名になった典型的な人物だ。
鎌倉御家人だった関東の宇都宮信房の末裔で、豊前国築城郡(福岡県)の城井谷に居住し、大友宗麟の家臣だったが、薩摩の島津氏の勢力が強くなると、島津氏の家臣となった。 天正14年(1586)秀吉の軍師黒田官兵衛の勧降工作で、翌年の秀吉の九州攻めで、島津氏の戦いに、子の朝房を従軍させた。 島津氏が降伏した後、秀吉の九州仕置で、鎮房に伊予(愛媛県)への転封命令が出されたが、鎮房は「約束が違う」と、近隣の国人や土豪と共に拒否の動きに出た。「豊前一揆」という大規模な抵抗運動になり、鎮房の後釜に指名されたのが官兵衛だったことも、彼等を奮い立たせた。 官兵衛の子長政が天正15年10月、鎮圧に動いたが、反対に敗れてしまった。失敗の責任を問われて秀吉から召喚されることを畏れた官兵衛は翌年、鎮房と和睦を結び、4月20日、鎮房を中津城に招き、酒を飲ませて謀殺した。 近くに合元寺に待機していた鎮房の家臣も討たれ、寺の壁は返り血で赤くなった。現在も、「赤壁寺」の別名で知られている。 その後、官兵衛の軍勢は城井谷を攻め、鎌倉以来の宇都宮氏は滅亡した。「軍師官兵衛」もだまし討ちしたのである。
母が信長の乳母だったことから、信長とは乳兄弟の間柄で信長に仕えた。信長と武田信玄・勝頼親子との戦が本格化すると、両者の国境線の美濃(岐阜県)東部の守りについたが、天正6年(1578)11月、摂津・有岡城(兵庫県伊丹市)の荒木村重の謀反に際し、有岡城攻めを命じられた。 翌年、有岡城は開城するが、村重は尼崎城(同県尼崎市)に脱出。恒興は、村重の重臣荒木志摩守が籠った花隈城(神戸市)を落とし、一連の戦功で村重の旧領のかなりを与えられ、有岡城を居城に。 天正10年(1582)6月2日、本能寺の変の後、明智光秀と秀吉の双方から誘いを受けるが、5000の兵を率いて秀吉軍に加わり、右翼部隊の主力で戦う。 結果、秀吉は、信長の後継を決める清州会議を開き、柴田勝家、丹羽長秀に加え、恒興が4人目として加わる。信長家臣団中、ランクは低かったが、光秀を討った山崎の合戦での活躍と信長の乳兄弟が認められたようだ。 秀吉側についた恒興は翌年の賤ヶ岳の戦の後、摂津から美濃へ国替えとなり、自身は大垣城へ、長男の許助は岐阜城に入った。 天正12年、秀吉と家康・織田信雄連合軍との小牧・長久手の幾で秀吉に味方したが、4月9日、家康軍の攻撃を受けて元助と共に戦死した。 秀吉は多大な貢献をしてくれた恒興の死を悼み、次男輝政に池田家の家督を継がせた。輝政は、はじめ大垣城、後に岐阜城主となり、近世大名池田家の礎を築く。
別所氏は播磨(兵庫県)の名族赤松氏の分かれで、戦国時代に赤松氏が衰退したのに代わり東播磨8郡を領し、三木城を居城とした。 若くして家督を継ぎ、2人の叔父の補佐を受けていた。信長の勢力が播磨まで伸びてきて、「中国方面司令官」だった秀吉に協力していた。 ところが叔父の一人吉親は秀吉を快く思っておらず、天正6年(1578)2月、長治に謀反を勧め、毛利方と誼を通じて三木城に籠城した。城中に留まっていただけでなく、城外へ打って出て勇敢に戦った。 長治への家臣たちの信頼は篤く、籠城は1年10か月にも及んだ。しかし、期待した毛利の援軍は到着せず、支城も次々と落とされ、結局、天正8年正月17日、自身の切腹と引き換えに城兵の助命を条件に降伏し、切腹した。23歳とも26歳ともいわれる。辞世に「今は只恨みもあらず諸人の命にかはる我が身とおもへば」。 命にかはるわが身とおもへば」は最期の事情を物語っている。
成政には隼人正と孫介という兄弟がいたが、弘治2年(1556)の尾張・稲生の戦で孫介が、永禄3年(1560)の桶狭間の戦で隼人正が討ち死にし、成政一人が生き残った。 やがて信長の親衛隊の一つ、黒母衣衆の一員となり、同時期に前田利家が赤母衣衆となってライバル関係となった。 天正3年(1575)8月の信長による越前(福井県)の一向一揆鎮定後、利家、不破光治と一緒に越前2郡を与えられた。3人で10万石といわれ、共に柴田勝家の与力となり、その後、加賀(石川県)、越中(富山県)侵攻の戦で大活躍して信長の北陸平定に貢献した。 同11年の賤ヶ岳の戦いで、上杉景勝の抑えとして越中にいたので戦には加わらず、勝家死後は金沢で秀吉に謁見し、越中支配を任された。ところが、翌12年、小牧・長久手の戦いでは、家康・織田信雄陣営に与し、秀吉陣営の利勝と戦っている。 戦の終盤、成政はわずかな供を連れて厳冬の立山連邦を越えて浜松城の家康に、戦いの継続を訴えた。「成政のザラ峠越え」である。しかし、家康は秀吉と講和を結んでいたため、むなしく富山城に戻った。 翌13年、秀吉の大軍に攻められて降伏。越中のうち、新川郡1郡のみに押し込まれたが、同15年の九州攻めでは戦功をあげ、九州平定後、肥後1国を与えられた。 ところが、直後、肥後の国人、土豪らによる検地反対一揆が蜂起し、これを押さえられなかったため、秀吉は領地を没収。謝罪のため大坂へ向かう途中、尼崎で止められ、切腹させられた。 勝家の与力だった時代が長く、秀吉を見る目がなかった故だ。
通称茂助といい、性格は温和で、容貌も女子にように優しかったから「仏の茂助」と呼ばれたが、いざ合戦となれば、勇壮な働きをした。 尾張の出身で、信長に仕え、木下藤吉郎の与力(加勢)に漬けられた。元亀元年(1570)の近江・横山城攻めから正式に秀吉の家臣となり、秀吉が天正元年(1573)9月、北近江の大名となった段階で150石の家臣に。以後、秀吉の戦にほとんど出陣、石高を増やしている。 同13年、近江・佐和山城主となって4万石を与えられ、近くの領主となった豊臣秀次の家老となった。同18年の小田原攻めの後、遠江(静岡県)・浜松城12万石に移封され、城をそれまでの土から石垣に替えた。 築城名人として加藤清正、藤堂高虎の名が知られているが、吉晴も「堀尾普請」といわれ、自然の地形を最大限に利用した特徴がある。 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、出雲・隠岐(島根県)24万石に加増された時、尼子氏の居城だった月山富田城の改築をし、その後、「堀尾普請」の集大成ともいうべき松江城の築城に取り掛かった。城だけでなく、城下町造りもやった。 この松江城天守は今年5月、国宝に指定された。黄泉の堀尾は喜んでいるに違いない。
黒田官兵衛(如水)の子で、父が信長に属することになった天正5年(1577)10歳の長政は人質として信長の元へ送られて羽柴秀吉に預けられ、秀吉の居城だった近江の長浜城で成長した。 同10年の備中(岡山県)冠山城攻めに15歳で出陣したのが初陣。以後、秀吉の主な戦に父と共に出陣し、戦功を挙げている。 同15年の九州攻めの後の「九州国分け」で、如水に豊前(福岡県・大分県)6郡12万石が与えられ、中津城を居城とした。この時、城井谷(福岡県築上町)の宇都宮鎮房(しげふさ)が転封を拒否して一揆を起こしたため、長政が謀略的手段を以て鎮圧した。その直後、家督を継いだ。 文禄・慶長の役では2度とも渡海してるが、その頃、次期政権は徳川家康と考え、家康に急接近した。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦では東軍勝利の立役者は長政であった。 長政軍が西軍の現場の大将だった石田三成の本陣笹尾山を攻めたたてたこと、さらに松尾山に布陣する小早川秀秋を西軍から寝返らせる工作を中心になって進めたのが長政だった。 家康は長政の戦功を賞し、筑前1国52万石を与えた。長政は初め、小早川秀秋の居城だった名島城(福岡市)に入ったが、城下町の発展を考えて、古くから港町として栄えていた博多に隣接する福崎に城を築いた。 黒田家の祖ともいうべき黒田高政が備前(岡山)の福岡から家を興した故事に因み、福岡と改名した。福岡城である。城中に普段使わない部屋を一つ用意させ、月のうち3日、朝から夕まで過ごし、家臣なら誰でも途中を介さず直接、部屋を訪ねて自由に意見を述べる機会を与えた。「釈迦の間の異見会」といった。
黒田官兵衛と共に秀吉の軍師として「二兵衛」などといわれる。永禄7年(1564)2月、難攻不落といわれた、その頃の主君・斎藤竜興の美濃(岐阜県)の稲葉山城を、わずかな手勢で乗っ取ってしまった。下剋上ではなく、竜興を諌める為だったという。 城はすぐに返し、半兵衛も追放されなかったことをみると、斎藤家の家臣団はかなり弛緩していたようだ。 こうした状況を知った織田信長は木下藤吉郎を使って半兵衛を家臣に招こうとした。「藤吉郎の三顧の礼」のエピソードとして知られる。『三国志』にあやかったものだ。 半兵衛が軍師として発揮するのは、信長が美濃を奪た後、近江(滋賀県)の浅井長政と敵対する頃だ。信長の家臣で秀吉の与力という立場の半兵衛が浅井家家臣の切り崩しを始め、寝返り工作を成功させた。 天正元年(1573)9月、浅井氏を滅ぼし、秀吉が信長から浅井氏の遺領12万石を与えられ、大名になった時、半兵衛は秀吉の家臣となった。秀吉が同5年10月、信長から播磨(兵庫県)平定を命じられ、姫路に乗りこんだ時、秀吉・半兵衛は、姫路城主の小寺政織(まさもと)の家老だった黒田官兵衛を頼りにした。半兵衛は官兵衛と相談しながら、説得で味方にする方法をとった。 しかし、三木城(兵庫県三木市)攻めの最中の同7年(579)6月23日、平出山の陣所で病死した。半兵衛は、官兵衛と違って実際の戦闘場面での指揮はとっておらず、もう少し長生きせ、実戦の指揮ぶりをみたかった。
秀吉の姉の子で、肉親の少ない秀吉に都合よく使われ、結局は悲劇的な結末を迎えた。 秀吉が近江(滋賀県)の浅井長政を攻めた時、重臣の一人だった宮部継潤の養子として秀次を差しだした。後に解消され、秀吉の阿波(徳島県)の三好康長を取り込む時に養子に。 文化大名だった三好の影響で、古典籍の保存や芸能の育成など見るべき功績はあるが、武将としては秀長らに比べ劣っていた。 天正12年(1584)秀吉と家康が戦った小牧・長久手の戦では、1万6千の兵を率いる大将として出陣しながら大敗北を喫した、さらに四国攻め、小田原攻めにも大将として出陣させ、天正19年(1591)には養子に迎え、関白も譲った。 しかし、秀吉と淀殿との間に秀頼が誕生すると秀次の運命は大きく変わる。謀反を企てたーという濡れ衣で切腹させ、妻子は侍女を含め京の三条河原で斬首された。秀吉は「摂政関白」ならぬ「殺生関白」などといわれた。 イエスズ会宣教師ルイス・フロイスは『日本史』の中で秀次を「万人から愛される性格の持ち主だった」と評している。 実際、秀次が築いた近江八幡の城下町(滋賀県近江八幡市)では、現在でも秀次を名君と讃えている。琵琶湖から水を引く運河をつくったり、「背割り下水」と呼ばれる下水道を敷設した。この時代、上下水道完備の町は近江八幡だけだ。
『絵本太閤記』に描かれる秀吉との最初の出会いが有名なため、夜盗の頭のように言われるが、尾張国(愛知県)の海東郡蜂須賀村が苗字の地で、土豪だった。 母の出身地、尾張の丹羽郡宮後村に移住し、木曽川船運に関わる川筋衆として活躍、美濃の斎藤道三、尾張の犬山織田氏、岩倉織田氏などの傭兵として戦に出ていた。 三河の矢作川での出合いは創作で、実際は、織田信長の力が尾張から美濃に伸びてゆく過程で、信長に仕えていた秀吉が川筋衆と接触し、その軍事力と機動力を織田陣営に取り込んだ時と思われる。 有名な墨俣の一夜城も、各種太閤ものの創作とする説もあるが、信長が美濃に侵攻してゆく過程で、何らかの橋頭堡が築かれた中で小六が一役買った可能性はある。 夜盗のイメージが強く、粗野な武士といった印象があるが、外交的交渉能力を持ち合わせていた。信長死後の、中国地方の毛利氏との交渉で発揮された。 天正11年(1583)賤ヶ岳の戦で、秀吉が勝家を破った後、秀吉の喫緊の課題は毛利輝元と戦わずに屈服させたい―ことであった。その重要な任務を任されたのが、小六と黒田官兵衛だった。城明け渡しを拒む毛利方の武将を説得し、見事成し遂げた。 小六は同13年(1585)の四国攻めでは病をおして出陣、その後、病床について翌年5月、大坂で没した。論功行賞の結果、阿波一国は、子の家政が拝領した。
「秀吉は、織田信秀の鉄砲足軽だった木下弥吉衛門の子」などの記述は間違いだ。信長の父信秀時代に織田家には鉄砲足軽は存在しない。 秀吉が永禄4年(1561)お禰と結婚するまで苗字はなかった。百姓だったからだ。 秀吉が確かな史料に登場するのは同8年(1565)、美濃(岐阜県)の斎藤竜興の家臣たちに対する寝返り工作を行った頃だ。信長が秀吉の話術の才に目をつけ、勧降工作に専念させたのである。要するに「口八丁」だったのだ。 槍働きに代表される武功だけでない評価基準を持っていた信長だからこそ、秀吉を抜擢したのである。天正5年(1577)から毛利輝元を相手にする「中国方面軍司令官」となり、播磨(兵庫県)の姫路に移り、さらに兵を西へすすめている最中の同10年6月2日、本能寺の変起こり、有名な「中国大返し」を刊行して、明智光秀を射ち、信長後継者として名乗りを上げ、さらに翌年、の賤ヶ岳の戦で柴田勝家を倒し、信長の子供らを押しのけて織田政権を簒奪した。 秀吉の凄さは、軍事的に敵を倒すだけでなく、太閤検地や刀狩りなど様々な施策を推進したことである。秀吉自身の資質だけでなく、弟秀長や参謀格の黒田如水らの活躍があったからこそだ。 その秀吉も秀長を失ってからは精彩を欠き、千利休や養子秀次を切腹させる不祥事が続き、晩年は寂しく、不安な気持の中で亡くなった。
織田信長系列の最後は明智光秀である。光秀は実際の実力が正当に評価されていない。天正10年(1582)本能寺の変で主君信長を殺し、”主殺し”のレッテルを貼られたのと、功績が秀吉に横取りされた形になっているからだ。 元亀元年(1570)4月、信長が朝倉義景を攻めるため越前へ侵攻した時、浅井長政が反旗を翻し、退路を断たれる形になった。秀吉が殿として金ヶ埼城に残り、朝倉軍を食い止め「藤吉郎金ヶ崎の退き口」として武名を挙げた。 が、実はこの時、光秀も亀ヶ崎処城に留まって活躍したのだ。光秀は本能寺の変の後、山崎の戦いで秀吉に敗れ、死んだので手柄は秀吉が一人占めしたのだ。歴史は勝者によって都合よく書かれることを如実に示している。 光秀は秀吉と同じく織田家臣としては「中途採用組」だが、信長の実力本位の抜擢で頭角を現した。「一国一城」の主になったのは信長譜代の柴田勝家より早かった。近江・坂本城主になった光秀が第1号。同じく近江・長浜城主になった秀吉が第2号だ。 そんな光秀が何故、謀反をおこしたのか? 怨恨説、天下取り説、朝廷黒幕説など様々な説があり、いまだ真相は明らかでない。だが、謀反・反逆・下剋上などは悪いことと、糾弾されるのは江戸時代、儒教的な武士道徳が一般化してからである。
前述藤孝の長男。若い頃から藤孝が信長についたため、信長に可愛がられて成長した。天正5年(1577)大和・片岡城攻めで勲功を挙げた時、信長から直筆の感状をうけている。 翌年、明智光秀の娘・玉(ガラシャ)との結婚は信長の御声掛りであった。そのため、同10年、光秀が本能寺で信長を討った時は、光秀の誘いを断り、玉を丹後の三戸野に幽閉し、信長への弔意を表している。 秀吉が柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦では、秀吉に与し、丹後から船を出して海上から勝家の本拠地である越前に攻撃を仕掛けた。 以後も秀吉の天下統一に参画し、豊臣大名の一員として活躍した。先を見る目があり、秀吉死後は徳川家康に接近している。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは家康片につき、家康、忠興らが関ヶ原前哨戦の會津の上杉討伐に向かった時、石田三成が大名の奥方を人質に取ろうとしたのに対し、玉はそれを拒否して命を絶ったため、三成の人質収監は中止に追い込まれた。 9月15日の関ヶ原の戦では、東軍主力の一員として活躍し、論功行賞で豊前一国と豊後国の一部を与えられ、39万石余で中津城に入り、間もなく、小倉に城を移した。 武将として華々しい活躍をしたが、同時に文化人としても知られる。9歳で既に能楽に出演し、茶の湯は千利休に習い、「利休7哲」の一人に数えられる。元総理の細川護熙氏の先祖である。
藤孝は文化人大名として有名で、歌道の秘伝を受け継いだほか、茶の湯、料理、刀剣鑑定さらには音曲などに通じていた。 室町幕府の奉公衆三渕晴員の子で、和泉(大阪府)半国守護細川元常の養子となる。元服の時、12代将軍義晴の嫡子義藤から諱を与えられて藤孝を名乗り、義藤、すなわち後の13代将軍義輝の御供衆となって近侍。 永禄8年(1565)5月、義輝が松永久秀や三好3人衆に襲われて非業の最期を遂げ、藤孝は義輝の弟一乗院覚慶(後の15代将軍義昭)を奈良から脱出させ、各地を転々とした後に織田信長を頼った。 信長に擁された義昭は同11年10月、将軍となり、藤孝は幕府奉公衆として義昭に供奉した。信長と義昭が対立すると、藤孝は信長につき、山城勝龍寺城(京都府長岡京市)の城主となった。 以後、信長軍団の一員として各地で転戦し,戦功があった。天正8年(1580)丹羽(京都府)に所領を与えられ、隣国丹波(京都府・兵庫県)を領した明智光秀と行動を共にすることが多かった。 しかし、同10年の本能寺の変では、藤孝は光秀からの誘いをきっぱり拒絶、出家して幽斎玄旨と称した。光秀の謀反に大義を感じなかったのである。 その後は、子の忠興の時代となるが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦では歴史に残る戦いをしている。忠興が家康方について細川軍の主力を率いたため、居城の田邊城(京都府舞鶴市)には藤孝とわずかな留守部隊しかいなかった。 そこへ西軍の小野木重次ら1万5千の大軍で攻め寄せた。が、何と60日間も籠城戦を戦い抜いたのである。最終的には、歌道が絶えるのを惜しんだ後陽成天皇の勅命で和睦し、開城したが、西軍の大軍を関ヶ原に向かわせず、田邊城に引きつけた功績は大きかった。
浅井氏は、長政の祖父の時、北近江の独立大名だったが、父久政の時は南近江の六角承驍フ家臣扱いだった。長政はこれに我慢できず父を隠居させ、自立を図った。永禄2年(1595)長政15歳の時である。 翌年、承驍ヘ長政の支城を攻めるが、これを撃退し自立に成功した。といっても祖父の時代から誼がある越前の朝倉義景を後ろ盾にした。 ところが永禄10年、織田信長から同盟の話が持ち上がり、信長の妹お市の方と縁組する。信長の義弟として一時期は「天下布武」の戦に協力するが、元亀元年(1570)信長が越前・朝倉攻めを開始した時、急に反旗を翻した。退路を断たれるのを畏れた信長は朝倉攻めを中断し、京逃げ帰った。 信長は、改めて浅井責めに向かう。姉川(滋賀県長浜市)の戦いである。長政は足利義昭主導の「反信長統一戦線」に加わり、一時は石山本願寺の協力もあって優勢だった。やがて勢力を盛り返した信長に小谷城(長浜市)を包囲され、妻お市と二人自害して果て、娘3人(茶々、お初、お江)は助け出された。
南近江の戦国大名。信長と何度となく戦って敗れ、没落したため評価を下げたが、戦国武将として先進的な施策をすすめたことで知られる。 六角氏は本来、佐々木氏といった。鎌倉時代の初め、佐々木信綱の時に4家に分かれ、3男泰綱が六角氏を名乗り、六角氏が嫡流とされた。因みに六角という名字は泰綱の京都屋敷が六角東洞院にあったことによる。 父にあたる定頼と承驍フ代に観音寺城を本拠地に、京を追われた足利12代将軍義晴と13代義輝を庇護した。 近江は、この時代の最大の消費地京に隣接しており、商品流通が盛んだった。これに目をつけ、天文18年(1549)城下町に楽市を開いた。商品の自由往来を認めたのは、信長が永禄10年(1567)岐阜城下に開いた楽市楽座よりも18年前のことだ。 一時、北近江の浅井氏を凌駕し、近江1国を平定する勢いだったが、浅井長政の登場で勢いは止まり、信長とは幾度となく交戦したが、やがて敗れ、後年は秀吉の御側衆となった。