将軍の資質としては充分であった秀忠だが、女房には弱かった。織田信長の妹お市の方の次女お江与が妻で、このお江与は強かった。 戦国武将が戦に出陣する際、側室を連れてゆくのが当たり前だった。何か月、いや何年も続くかもしれない戦。当然、女性が欲しくなる。 秀吉、家康も例外でなく、戦には側室を同行した。のんびりした時代ではあった。 関ヶ原の合戦や大坂冬の陣、夏の陣に行く際、家康は秀忠に言った。 「そちも側室を連れてゆくがよい」と。 ところが、秀忠は断った。理由は? そう、女房どのが怖かったのだ。お江与は嫉妬深い女性で、秀忠は頭が上がらなかったのだ。そんな堅物な将軍だから、名君といわれる會津藩祖保科正之が誕生したのだろう。 それから、秀忠は将軍職を継いで後、家康の側近政治はやめた。父が頼った重臣のうち、引退した立花守茂や丹羽長重、細川忠光らを城中に呼び、知恵を学んだ。「お側衆」といわれる彼等は知恵の宝庫であり、彼等から学んだ経験は大きかった。 これが合議制をとる老中制度へ発展する。(完) ◇ ◇ ◇ 明日から、明治時代末期の日露戦争の勝利の陰の立役者、柴五郎陸軍大将を連載する。 柴五郎は會津人初の陸軍大将で、清国で発生した義和団事件で大活躍し、世界の列強を感激させた會津人。戊辰戦争後に斗南に流されて途端の苦しみを味わった経験から「苦しさに耐える」ことを学んだ。
戦国武将の最終回は、徳川2代将軍秀忠。御存じ、わが會津藩祖保科正之の父である。家康の三男として遠江の浜松城で生まれた。 幼名は長丸だったが、誕生の5か月後、兄の信康が自刃させられたため、信康と家康の幼名である竹千代を名乗った。 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めを前に、先鋒を務めることになっていた家康は、北条氏と同盟関係にあり、秀吉の疑念を払拭するため12歳の竹千代を人質に差し出した。 秀吉は竹千代を元服させ、自分の名乗りの一字を与えて秀忠と名付け、すぐに家康に返した。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが初陣。秀忠は3万8千の徳川本隊を率いて中山道を上方に上り、信濃(長野県)上田城を攻めた。西軍石田三成方となった真田昌幸・幸村父子が守っており、秀忠の軍勢は城を落とすことができず、合戦には間に合わなかった。 その後のことを諸書では、家康が重臣を集め,秀忠が後継者として相応しいか、議論させたとあるが、家康は秀忠の資質を見ぬいており、豊臣政権の五大老として大坂にいることが多く、秀忠に関東の支配を任せている。 秀忠を凡庸な2代目と評することがある。自らを「我はただ先業を恪守せしといふ迄にて何の功徳もなし」(『台徳院殿御実記』と、恪守すなわち、家康のやったことを謹んで守っただけーと遜ったことからきている。 しかし、これは謙遜で、幕藩体制を軌道に乗せるため、家康のやれなかったことをやっている。例えば、家康は恩人ともいうべき福島正則ら外有力様大名を改易できなかったが、秀忠は、しがらみなく23家の外様大名、16家の徳川一門、譜代大名の改易処分を行い、将軍の権威を絶対的なものにした。 そして戦国時代に完全に終止符を打ったのが秀忠だった。
片倉景綱とともに伊達政宗股肱の臣といわれる。政宗の祖父晴宗の弟実元の子で、政宗の父輝宗とは従兄弟同士であった。 伊達家臣の中でも猛将として知られ、天正13年(1585)閏8月の陸奥・小出森城(福島県二本松)攻めでは、城内の男女800名を皆殺しに。 同年11月の人取橋(同県本宮市)の戦では、劣勢の伊達軍にあって、會津の葦名・岩城などの連合軍を相手に奮戦し、日没引き分けに持ち込んだ。この戦は政宗にとってのるかそるかの大事な戦いであり、成実がなんとか持ちこたえたことにより、翌日、連合軍のうち佐竹軍が兵を引き、政宗は命拾いをしたのだ。 その後、二本松城の城主となり、同17年の摺上原の戦でも、伊達軍の主力として葦名義弘を破り、葦名氏を滅亡させる原因をつくった。 ただ、時代を読む力はなかったようで、翌年の豊臣秀吉の小田原攻めの時、参陣を勧める片倉の意見に最後まで反対したため参陣が遅れた。政宗は出発した後、途中から拠点だった黒川城(同県會津若松市)に戻ったのも家臣団の中に不穏な空気があったためで、その中心が成実だった。 主君政宗との軋轢が少しずつ生まれ、文禄2年(1593)文禄の役には出陣したが、帰国後、出奔してしまう。 これを知った越後の上杉景勝が5万石で召し抱えようとしたが応じなかった。結局、慶長5年(1600)秋、片倉景綱らの説得で帰参し、同7年、亘里城(宮城県亘理町)の城主に返り咲いた。 元和元年(1615)大坂夏の陣にも、政宗と共に出陣し、その後も近世大名となった伊達家の重鎮となっていった。
「奥州の独眼竜」と畏れられた政宗の半生については、作家山岡荘八の『伊達政宗』や大河ドラマ「独眼竜政宗」で周知しているので省き、後半生について書き込む。 政宗の部隊は、他の部隊とは違って派手で絢爛な衣装を身にまとっていたので「伊達男」という言葉が流行した。今もって通用するだろう。 戦乱が治まり、徳川の世になった時代、仙台の青葉城を本拠地に定めた政宗は領国の開発に力を注いだ。貞山堀と呼ばれた運河を整備して北上川水系の流域を開拓し、現代まで続く穀倉地帯に生まれ変えた。表高2万石だが、内高は74万石余にも上った。 また文化面でも力を入れ、上方文化を導入して桃山文化に特徴的な荘厳・華麗な様式を生みだした。国宝の大崎八幡宮や瑞巌寺などの建造物を残した。3代将軍・家光まで仕えた。 家光が寛永12年(1635)城中で並み居る大名を前に、「参勤交代の制をはじめる」と宣言した際、政宗は真っ先に賛意を示した。他の大名も続いたーという。
天文12年(1543)種子島に漂着した支那の船に乗っていたポルトガル人が我が国に初めて鉄砲を伝えた。この鉄砲普及に一役買ったのが当時、18歳だった少年藩主・種子島時堯であった。 種子島南端に漂着した支那の船は、種子島氏の居城がある赤尾木まで曳航され、そこでポルトガル人を引見した時堯は、2挺の鉄砲に興味を示し、2挺とも買い上げた。 この時、1挺を分解させ、城下の鍛冶師八板金兵衛に「同じものを作れ」と命じた。実は、種子島の砂丘は砂鉄を多く、古くから製鉄業が盛んで、腕のいい鍛冶職人がいたのだ。 そのことを知っていた時堯は複製を作ることを命じたのである。そればかりか、家臣の篠川小四郎に火薬の調合法を学ばせたのである。複製品が完成し、実弾ができて鉄砲を撃つことができるまでになった。 注目されるのは、それから先。鉄砲の製造法や火薬の調合法など秘匿せず、オープンにしたこと。種子島氏は薩摩・島津家の庇護を受けていたので、まず島津氏に伝えられ、そのルートで足利将軍義晴まで伝授されたのだ。 また、鉄砲伝来の噂を聞きつけて紀州の根来から根来寺の杉の坊の津田監物がやってきて製法を学び、根来寺門前の鍛冶職人芝辻清右衛門に作らさせた。さらに境の商人橘屋又三郎が訪れて、やはり製法を学んで帰った。 根来や堺が我が国の鉄砲の主要山地になったのは種子島時堯が製法をオープンにしてくれたからである。
里見氏は清和源氏である新田氏の流れといわれるが、不詳。新田義重の三男義俊が上野国(群馬県)碓氷郡里見郷に住み、郷名を名字にした。(名字というのは本来、地名から始まる) その子孫が安房(千葉県)に移住し、安房里見氏になった。戦国時代は稲村城(館山市)を本拠に上総の一部まで勢力を伸ばしたが、一族内部の抗争が激しく、義堯・義弘の頃になって安定的な支配が行われた。 義弘ははじめ、義舜と名乗った。父義堯の「堯」と、「舜」の字だ。古代中国の理想の天主といわれる堯と舜を意識した命名で、義弘父子が、中国古代の名君を理想とする国造りに乗り出したことを物語る。 義弘で特筆されるのは、房総の海賊衆を掌握したことだ。水軍を組織する事に成功し、江戸湾の制海権を握ることができた。これにより、全く歯がたたないはずの相模の北条氏と敵対することもできた。 珍しいのは落首の奨励だった。義弘が領内を巡検した際、 「福原の都人とは聞きつれど、年貢につけて信濃あしさよ」 という狂歌を見つけた。調査の結果、役人の不正が明るみなった。福原信濃守という代官が、実際は下田なのに上田として年貢を余計に徴収しようとした不正が分かった。「信濃」で「品の」にひっかけている。 水軍掌握がやがて改易に繋がる。義弘の子義頼は安房・上総全域と下総南部の支配を秀吉から安堵され、徳川政権になってからも家康から安房の支配を安堵されたた。 しかし、3代後の忠義になった慶長9年(1614)、2代将軍秀忠から改易されてしまう。江戸城を守るため、江戸湾の先端で勢力を張る里見氏は邪魔だった。 以後、幕府は江戸湾沿いに「御舟手奉行」7人の旗本を配置した。
若狭(福井県)の守護大名だったが、享徳3年(1454)蝦夷地に渡り、アイヌのコシャマインの乱鎮圧に軍功を上げ、蠣崎季繁の婿養子となった。 蝦夷地南部、松前の大館に本拠を移し、蝦夷地の中に、いわゆる「和人地」を確保し、光広を経て3代目の慶廣に至る間に、在地領主として急速に力をつけた。 慶広は4代目季広の三男だったが、長男、次男が相次いで亡くなり、永禄5年(1562)家督を継いだ。姉妹たちを有力な豪族のもとに輿入れさせ、同族結合を築き上げていった。 蝦夷地支配に乗り出した時が、秀吉による全国統一の総仕上げの段階にあたっていて機を見るに敏な慶広は豊臣政権に接近した。天正19年(1591)陸奥国(岩手県)で起きた九戸政実の乱の際、九戸城攻めに参陣し、慶広軍の中に、戦闘要員としてアイヌが動員された。アイヌの軍勢は毒矢を使ったことで知られる。 総大将の秀吉にアイヌを多数引き連れた姿を見せることでアイヌの頭目であること、即ち蝦夷地の領主であると印象付けたのである。 2年後の文禄2年正月、秀吉から蝦夷地一円の知行を安堵された。秀吉の死後は家康に接近し、慶長4年(1599)家康に『蝦夷地図』を献上し、姓を家康の元の姓松平の「松」と、前田利家の「前」から松前氏に改名した。 慶長9年には、家康からアイヌ交易の独占権を公認され、松前藩初代藩主となった。
江戸時代、陸奥国(青森県)では、津軽藩主・津軽氏と南部藩主・南部氏の仲が非常に悪かったが、隣り合う藩同士で仲が悪かったのではなく、津軽氏が南部氏の内紛のどさくさに紛れて自立したーことに由来する。 津軽氏は南部氏一族の大浦氏で、大浦城(弘前市)に拠り、鼻和郡一帯に勢力を伸ばし始めたのが隆盛のもとになった。 『津軽氏系図』などでは、大浦政信の嫡子為則の娘と結婚した為信が、為則の死後、大浦氏を継いだ。 そして為信が、本家南部氏における内紛の間隙をぬって巧みに津軽全域の支配に成功した。天正6年(1578)浪岡城(青森市)の北畠顕村を攻め滅ぼしている。北畠氏は南北朝時代以来の名家で、南朝方北畠顕家の後裔である。一時は、大浦氏、北畠氏、大光寺氏の3家が津軽を三分していた。 次いで同13年(1585)千徳征武を田舎館城(同県田舎館村)に攻め落と、為信は南部氏の一族武将から一代で津軽地方を代表する勢力にのし上がった。 その過程で悪辣な手段を使ったであろう。「奥州の梟雄」などといわれている。津軽全域の支配に成功した頃に名字を大浦から津軽に改めた。 同18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して津軽征服地を安堵され、翌年の九戸政実の鎮圧にも従軍した。因みに、この時の軍令状に初めて「津軽右京亮との(殿)へ」とみえる。中央政権から「津軽」の名が公認された。 この乱の時、為信と対立していた南部言直は、會津の蒲生氏郷に働きかけて為信を征伐しようとしたが、浅野長政が反対し、命拾いをした。このことは津軽氏もキャッチしていたはずで、両家の仲の悪さに拍車がかかった。 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で為信は東軍に味方し、美濃(岐阜県)大垣城を牽制する働きをした。その後、城を弘前城に移し、近世大名として生き残った。 花見シーズンでは弘前城の桜が有名だ。
戦国時代を生きた武将だが、室町幕府最後の実力者といった方がいいかもしれない。三好氏は阿波(徳島県)の守護細川氏の家宰で、細川氏と共に畿内に進出した。 父元長は初めは細川晴元を擁していたが、晴元が一族の三好政長と結んで元長を殺したため、長慶は不遇な時代を送った。 天文11年(1542)畿内に勢力を誇った木澤長政を倒し、18年には政長をも殺して細川晴元を近江に追放した。さらに21年、流浪していた足利義輝を京に迎えて細川氏綱を傀儡として管領に据え、幕府の実権を握った。 長慶の快進撃を支えたのは3人の弟だった。3人は阿波・讃岐(香川県)、淡路(兵庫県)といった国々を固め、長慶の中央政界の活躍を支えた。 長慶は茶の湯の隆盛に一役買い、連歌にも熱中した。永禄5年(1562)次男之康が敗死した時、長慶は飯盛山城(大阪府四条畷市)で連歌会の最中で、使者が戦死を伝えても連歌を続けたという。 しかし、実子義興の死後は気落ちして次第に家臣の松永久秀に実権を奪われていった。 ◇ ◇ ◇ 昨日の読売新聞に、わが故郷・猪苗代湖にハクチョウ飛来の写真が載っていた。いよいよ冬到来である。Uターンしていた時、訪れた孫たちを連れてゆき、手の平からエサを起用にとるハクチョウに感激したものだ。
駿河国(静岡県)の守護大名今川義忠の嫡男で、龍王丸だった6歳の時、父が不慮の事故で死を遂げ、幼い龍王丸に代わって一族の小鹿範満が今川家を牛耳っていた。 叔父の北条早雲(伊勢新九郎)の急襲で範満を倒し、家督を龍王丸が取り戻したのが長享元年(1487)。17歳だった龍王丸は元服して氏親を名乗った。 早雲の補佐を受けながら遠江国(同県)への進出に全力を挙げ、制圧に成功して2カ国の大名となり、それまでの守護大名から戦国大名へ脱皮を果たしている。 一つは領内で検地を行ったこと。荘園制的土地支配から氏親による一元的な土地支配への転換がはかられた。 もう一つは分国法「今川仮名目録」の制定である。戦国家法とも呼ばれ、室町時代、足利将軍が制定した全国法「建武式目」に対して、氏親は独自の法を制定した。 荘園制の否定と室町幕府からの自立という形で戦国大名化したわけだが、それを可能にしたのは経済力だった。財源は、金山からの収入で、それまでの「追堀」(おっぽり)といっていた安倍川・大井川の河岸段丘に堆積した砂金を採取する方法から、坑道を掘って採掘する「問堀」(といぼり)へと進歩させた。 金山経営の大規模化で氏親は財源を確保し、領国経営を軌道にのせることに成功した。
越後坂戸城主だった長尾政景の家臣樋口兼豊の子で、与六と称した。5歳の時、政景の子景勝の近習に加えられ、城下の曹洞宗の古刹・雲洞庵でともに北高全祝の薫陶を受けた。 景勝が叔父にあたる謙信の養子に迎えられ、兼続も春日山城(新潟県上越市)に入って謙信の影響を受け、上に立つ者の心構えなど学んだ。 ところが謙信が天正6年(1578)3月13日に急死し、跡目争いが起こった。景勝ともう一人の養子景虎との「御舘の乱」である。国内を二分する戦いに勝った景勝は、若い兼続を側近トップの執政に登用した。 兼続は名門の直江家を継いで直江兼続と名乗った。政治的なことだけでなく、新発田重家攻略など軍事面でも活躍し、同11年の賤ヶ岳の戦の後、羽柴秀吉の側近石田三成と接触して上杉家存続に貢献した。 慶長3年(1598)正月、秀吉の命で景勝が越後から會津に転封された時、懇意だった三成と一緒に領内の庶政にあたり、無難に乗り切った。新領地に転封されると、一揆が起きたり地元の抵抗が起きる例が多っかた。 その後、兼続が中心になって神指城築築城に取り掛かり、武具を調達するなど武備を強化して家康に糾弾されたのに対し「直江状」を送りつけたのは有名な話。 関ヶ原の戦は會津から始まったのだが、戦後、米沢へ30万石に厳封されて移封された時、家臣をリストラせずに引き連れ、農民などに変じるなど民政にも手腕を発揮した。 上杉家は、後に15万石に減らされたが、幕末に至るまで存続した。
まだ長尾喜平治といっていた10歳の時、永禄7年(1564)7月5日、不慮の事故で父政景を失った。後に母が謙信の姉だったことから、子がいない謙信の養子に。 景勝一人が養子なら問題はなかったが、謙信には景虎と政繁という二人の養子がいた。景虎は北条氏康の七男で、「越相同盟」が結ばれた時、人質として送りこまれ、同盟が破綻した後も越後(新潟県)に留まっていた。 政景は能登(石川県)の畠山氏からの人質で、上杉一族の上条上杉家を継いでいたので家督争い(大河ドラマで紹介)には関係なかった。 織田信長とは敵対し続けた謙信だったが、豊臣秀吉の時は、一転して臣従の道を選び、秀吉の天下統一事業に協力して小早川隆景の死後、五大老にもなった。 慶長3年(1598)秀吉の命で越後の春日山城から若松城(福島県)に120万石で移ったが、実は、この史実が関ヶ原合戦の一因になっている。80万石からの加増だったので、浪人を雇い入れ、武具を調達、さらに新しい神指城を新築するなど軍備強化を図った。 近隣の大名にとっては脅威であった。不安の声に対し家康は景勝に上洛を命じた。謙信はこれを無視、執政だった直江兼統が上洛命令を批判する返書「直江状」を送りつけている。 その結果、家康による上杉攻めになり、家康が豊臣大名らを率いて東国下り、下野・小山(栃木県)に来たところで石田三成が挙兵、関ヶ原合戦になる。 この大戦は予想に反して1日で終わり、三成に呼応した景勝は30万石に減封され、米沢へ移封された。 執政に抜擢した直江兼統に任せるものは任せ、「ここぞ」という時だけ口を出すリーダーらしきリーダーだった。
尼子氏に仕えていた湯永綱の子で、後に尼子氏重臣亀井氏を継いだ。山中鹿之助と共に尼子氏再興に尽力した。妻は鹿之助の娘であった。 天正6年(1578)尼子勝久が守っていた播磨(兵庫県)の上月城が落ちて、鹿之助も殺されてしまい、尼子再興も摘まれた。■矩は織田信長に従い、「中国方面軍司令官」だった羽柴秀吉に属して、同9年の因幡(鳥取県)鳥取城攻めなど、主に山陰方面で活躍する。 鳥取城落城後、近くの鹿野城主となり、本能寺の変の時も、賤ヶ岳の戦の時も、鹿野城に残り、毛利勢に備えていた。 その頃のエピソードが伝わっている。秀吉から「官途受領名は何がいい」と聞かれ「いずれ琉球攻めの大将を勤めたいので、琉球守をお願いしたい」と返答し、琉球守という受領名をもらった。 豊臣政権下、1万3500石で因幡国の小名ではあったが、領国経営に関しては非情に積極的で日光池や湖山池の干拓に着手し、千代川の左岸に総延長22キロに及ぶ大井出用水を設けた。 また文禄年間(1592〜96)に伯耆国日野郡の銀山を発掘し、石見銀山に匹敵する銀山とした。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦では東軍に参陣し、功によって2万4200石を加増された。シャム(タイ)との交易のため、朱印船貿易にも乗り出すなど、海外進出の夢を持ち続けた。 ◇ ◇ ◇ 大氏氏の系譜は終了。次回から上杉氏、その後はアトランダムに紹介する。
「我に七難八苦を与えたまえ」。悲劇の戦国武将山中幸盛(鹿之助)の有名なセリフは多くの人に共感を呼び、尼子氏再興を願った鹿之助の居城・月山富田城の名を永遠にした。 戦前は尋常小学校の国語の教科書に載っており、有名になった。鹿之助の波乱万丈の人生は真実で、月山富田城は190メートルの月山の上に築かれ、南東以外の三方を急峻な崖に囲まれ、飯梨川を外濠とした難攻不落の要塞だ。 慶長16年(1611)徳川幕府のよる1国1城令による廃城まで、山陰の拠点となった戦国屈指の名城であった。 中段にある山中御殿跡は国の史跡として整備されている。そこから本丸跡まで「七曲り」と呼ばれる曲がりくねった山道の途中、二の丸跡から眼下に中海や旧城下町が望める。 最近の城ブームに、戦国ゲームに登場する鹿之助人気が加わり、若い女性の姿が多いそうだ。自ら選んで苦難の道を歩んだ鹿之助も泉下で驚いているだろう。