河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2015年11月30日(月) 不撓不屈の武士・柴五郎(10)
      第1章 日英同盟と日露戦争(6)
 こうした側面からの応援もあって世界一の海洋国家大英帝国が、議会で「光栄ある孤立」政策を転換して日英同盟を結んだ。明治35年(1902)1月30日だった。
 この時、下院の1年生清議員だったウインストン・チャーチル(後の首相)はこの提案に賛成した。
 この夜、日本国中を提灯行列が練り歩き、国民は高揚した気分に包まれた。一流国の仲間入りが実現したのだ。
「ロシア、なにするものぞ」
「ロシアよ、いまにみておれ」
口々に大声で喚く男たち。国中が熱にうなされたようだった。
 当時、ロシアは日本の10倍の国家予算と軍事力を持ち、満州の兵力を続々増強して朝鮮半島北部に軍事施設を建設した。
2015年11月29日(日) 不撓不屈の武士・柴五郎(9)
      第1章 日英同盟と日露戦争(5)
 小村外相は論争に決着をつけるべく意見書を退出した。
1、一時的に東洋の平和を維持できるだろうか。ロシアの侵略主義は到底これを満足しないから長期的な保障にはならない。
2、清国人は上下ともに日本に対して友好的な感情を持ってきているが、ロシアと条約を結ぶと清国人の感情を害して清国における日本の利益を損する。
3、イギリスの海軍力に対抗しなければならなくなる。
という内容であった。
 要するに、アジアにおけるイギリスの目的は領土拡張ではなく、現状維持と通商利益であり、イギリスと条約を結べばロシアの野心を制して比較的長く東洋の平和を維持できる。従って日英条約は平和的、防衛的なものとして国際世論からも支持されるーというのだ。
 当時、駐日イギリス公使だったマクドナルドは
「イギリス政府は日本と攻守同盟を含む長期的な日英同盟を結ぶべきだ」
と論陣を張って本国に訴え続けた。
2015年11月28日(土) 不撓不屈の武士・柴五郎(8)
      第1章 日英同盟と日露戦争(4)
 アヘン戦争の時代を知っている伊藤博文らの元老(天皇の政治顧問で、昭和初期まで存続し、維新の功労者らが任命された)はロシアと条約を結ぶ親露政策を、片や、小村寿太郎ら外務省幹部と桂太郎首相はイギリスと条約を結ぶ親英政策を主張した。
 両者の焦点はロシアに対する見方であった。ロシアは明治33年(1900)、清国で起きた義和団事件(後述)を口実に、満州(中国東北部)に2万の兵力を送りこんでいた。
 ロシアが満州に留まって朝鮮半島に出てこないようにロシアと話し合いがつくか、ということが最大の焦点であった。
2015年11月27日(金) 不撓不屈の武士・柴五郎(7)
      第1章 日英同盟と日露戦争(3)
 維新後20数年で他国との戦争に勝利した日本は、清国と下関条約を結んだ。清国は朝鮮の独立を認めると共に、日本政府へ、財政収入の3倍にあたる賠償金3億円を支払い、遼東半島と台湾などを日本に割譲した。
 しかし、東アジアに野心を持つロシアはドイツ、フランスを誘って強力な軍事力を背景に、遼東半島を清国へ返還するよう日本に迫った。これが三国干渉である。
 清国を破ったとはいえ独力で3国に対抗する力を持たない日本は、一定額の賠償金と引き換えに遼東半島を手放さなければならなかった。
 日本は、中国の故事にある「臥薪嘗胆」を合言葉に、官民挙げてロシアに対抗するための国力の充実に努めるようになる。
     ◇   ◇   ◇
 ケースワーカの認定で、「要支援2」から1ランク上の「要介護1」になった。週3回施設に通えるが、施設は定員一杯で週2回のまま。
 それなのに、料金は1回ごとに計算され、1割ほど上がる計算だ。こんな不都合があるのか!利用者の声をまるで分っていない。おまけに理学療法士の先生恪の管理者が退職する。
 踏んだり蹴ったりの師走となった。
2015年11月26日(木) 不撓不屈の武士・柴五郎(6)
      第1章 日英同盟と日露戦争(2)
 この両大国のどちらが、日本の独立を確保するのに役立つかを見極めるのは容易なことではなかった。
 駐1)三国干渉ー明治27年(1894)朝鮮の南部に東学の乱(甲牛農民闘争)と呼ばれる農民暴動が起こった。東学党は、西洋のキリスト教(西学)に反対する宗教(東学)を信仰する集団だった。外国人と腐敗した役人の追放を目指して一時、首都漢城(現在のソウル)に迫る勢いをみせた。
 わずかな兵力しか持たなかった李氏朝鮮は鎮圧のための出兵を清国に求めた。だが、日本も自国民を保護するため、軍隊を派遣し、結局、日清戦争へと発展した。
 戦争は朝鮮の他、南満州にも広がり、陸でも海でも日本は清国に圧勝した。軍隊の調練、規律、新兵器の装備などで勝っていたのだ。
2015年11月25日(水) 不撓不屈の武士・柴五郎(5)
      第1章 日英同盟と日露戦争(1)
 明治35年(1902)1月30日、日本国中が熱狂的な国民の提灯行列で沸き返った。
「日本帝国 万歳!」
「ロシア何するものぞ」
口々に叫びながら、長い長い提灯行列が深夜まで続いた。この日、締結された「日英同盟」を祝っての国挙げての提灯行列であった。
 維新以来30年余、いまだ独立国としては看做されていない東洋の島国・日本が晴れて世界の一流国・大英帝国と友好関係を結んだのである。官民こぞって喜び合ったのは当然であろう。
 19世紀末から20世紀初頭にかけて日本は弱肉強食の過酷な世界の中にあった。極東の小さな島国である日本の国力では、単独で自国を防衛するのは不可能だった。
 力のある大国と同盟関係を結ぶ以外に、生き残る方法はなかった。三国干渉(駐1)の後、日本は同盟を結ぶのは、ロシアかイギリスかの選択を迫られた。
2015年11月24日(火) 不撓不屈の武士・柴五郎(4)
        序章(4)
 結果は〜。どうにか日本の勝利で終わるのだが、主因は、無敵といわれたロシアのバルチック艦隊を、我が国の聯合艦隊が日本海海戦で破ったからだ。
 この勝利の陰に、南アフリカ周りで日本海へ向かったバルチック艦隊の寄港を、陰に陽に拒んだ大英帝国の協力は見逃せない。
 日本が、真の独立をかけて同盟を結ぶべき国はイギリスかロシアか。桂太郎内閣は結局、イギリスと同盟を結ぶのだが、小村寿太郎外務大臣や桂首相の表向きの功績ではない。
 義和団事件における柴五郎の活躍、その後の適切な処置があったからこその同盟であった。この時、如実に示した「敗者への労わり」は會津武士道精神そのものであった。
     ◇   ◇   ◇
 読者の皆さん、残念な報告があります。年内発行を目指していた小説『幕末を駆け抜けた小天狗』が、印刷所の都合で、年明けになるー報告が舞い込みました。いまだに残る長州への會津人の怨念。
 少しでも和らげたい、と思い、大河ドラマ放映中にと思っていたのですが、極めて残念です。出版社を変えればよかった、と反省しています。東北で唯一、郷土史出版の会社が民事再生法で経営再建中であり、少しでも応援したい、と思ったのです。
2015年11月23日(月) 不撓不屈の武士・柴五郎(3)
        序章(3)
 戦闘中、各国駐在武官から惜しみない賛辞を受けた柴五郎の活躍は、世界へ打電され、やがて西洋諸国から最大の賛辞を受ける。皇帝や大統領から第一級の勲章を受けたのである。
 柴五郎の活躍によって極東の三流国家であった日本は明治35年(1902)1月、当時世界の海を制覇していた一流国家の大英帝国と同等の日英同盟を締結する。
 その結果、朝鮮半島を狙って南下政策をとっていたロシアと戦う準備は整い、明治37年(1904)の日露戦争へ突入する。
 我が国の国力の10倍はあるといわれたロシアと、維新後30数年しか経っていない日本の対立。
2015年11月22日(日) 不撓不屈の武士・柴五郎(2)
        序章(2)
 19世紀末から20世紀初頭にかけて西欧列強は弱肉強食の戦いを地球上で繰り広げていた。中でもアジアの「眠れる獅子」清国における列強の侵略は凄まじく、土地や鉄道、鉱山の利権雄を獲得し、例えば、ロシアは旅順、大連を強引に租借し、占領した。
 こうした西欧列強の侵略に対抗して清国民は「扶清滅洋」をスローガンに立ち上がった。いわゆる「義和団事件」(北清事変)である。
 義和団事件で、日本を含む8カ国の国民と兵士は北京城に50日余の籠城を余儀なくされた。
 飢えや病気に苦しみながら戦い抜いたのは、北京駐在日本公使館武官であった陸軍中佐柴五郎の沈着、冷静な指揮によるものであった。
2015年11月21日(土) 不撓不屈の武士・柴五郎(1)
        序章(1)
 日露戦争の日本海海戦で、我が国が勝利した陰に日英同盟の立役者、柴五郎・陸軍大将の知られざる大活躍があった。日露戦争から遡ること10年、清国で起きた「義和団事件」で活躍し、列強から絶大な祝福を受けた柴五郎。
 五郎は、家族と共に戊辰戦争後に北辺の斗南(青森県)に流刑され、犬の肉まで食べる、途端の苦しみを味わった。だが、會津人としての誇りは失わず。陸軍に入隊して、「賊軍だから大佐どまりであろう」といわれた逆境の中、大将まで上り詰めた。
 その柴五郎の一生を追う。
柴五郎
2015年11月20日(金) 戦国武将便覧(最終回)
      徳川秀忠(下)

 将軍の資質としては充分であった秀忠だが、女房には弱かった。織田信長の妹お市の方の次女お江与が妻で、このお江与は強かった。
 戦国武将が戦に出陣する際、側室を連れてゆくのが当たり前だった。何か月、いや何年も続くかもしれない戦。当然、女性が欲しくなる。
 秀吉、家康も例外でなく、戦には側室を同行した。のんびりした時代ではあった。
 関ヶ原の合戦や大坂冬の陣、夏の陣に行く際、家康は秀忠に言った。
「そちも側室を連れてゆくがよい」と。
ところが、秀忠は断った。理由は?
 そう、女房どのが怖かったのだ。お江与は嫉妬深い女性で、秀忠は頭が上がらなかったのだ。そんな堅物な将軍だから、名君といわれる會津藩祖保科正之が誕生したのだろう。
 それから、秀忠は将軍職を継いで後、家康の側近政治はやめた。父が頼った重臣のうち、引退した立花守茂や丹羽長重、細川忠光らを城中に呼び、知恵を学んだ。「お側衆」といわれる彼等は知恵の宝庫であり、彼等から学んだ経験は大きかった。
 これが合議制をとる老中制度へ発展する。(完)
     ◇   ◇   ◇
 明日から、明治時代末期の日露戦争の勝利の陰の立役者、柴五郎陸軍大将を連載する。
 柴五郎は會津人初の陸軍大将で、清国で発生した義和団事件で大活躍し、世界の列強を感激させた會津人。戊辰戦争後に斗南に流されて途端の苦しみを味わった経験から「苦しさに耐える」ことを学んだ。

2015年11月19日(木) 戦国武将便覧(90)
      徳川秀忠(1579〜1632)〈上)

 戦国武将の最終回は、徳川2代将軍秀忠。御存じ、わが會津藩祖保科正之の父である。家康の三男として遠江の浜松城で生まれた。
 幼名は長丸だったが、誕生の5か月後、兄の信康が自刃させられたため、信康と家康の幼名である竹千代を名乗った。
 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めを前に、先鋒を務めることになっていた家康は、北条氏と同盟関係にあり、秀吉の疑念を払拭するため12歳の竹千代を人質に差し出した。
 秀吉は竹千代を元服させ、自分の名乗りの一字を与えて秀忠と名付け、すぐに家康に返した。 
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが初陣。秀忠は3万8千の徳川本隊を率いて中山道を上方に上り、信濃(長野県)上田城を攻めた。西軍石田三成方となった真田昌幸・幸村父子が守っており、秀忠の軍勢は城を落とすことができず、合戦には間に合わなかった。
 その後のことを諸書では、家康が重臣を集め,秀忠が後継者として相応しいか、議論させたとあるが、家康は秀忠の資質を見ぬいており、豊臣政権の五大老として大坂にいることが多く、秀忠に関東の支配を任せている。
 秀忠を凡庸な2代目と評することがある。自らを「我はただ先業を恪守せしといふ迄にて何の功徳もなし」(『台徳院殿御実記』と、恪守すなわち、家康のやったことを謹んで守っただけーと遜ったことからきている。
 しかし、これは謙遜で、幕藩体制を軌道に乗せるため、家康のやれなかったことをやっている。例えば、家康は恩人ともいうべき福島正則ら外有力様大名を改易できなかったが、秀忠は、しがらみなく23家の外様大名、16家の徳川一門、譜代大名の改易処分を行い、将軍の権威を絶対的なものにした。
 そして戦国時代に完全に終止符を打ったのが秀忠だった。

2015年11月18日(水) 戦国武将便覧(89)
      伊達成実(1568〜1646)

 片倉景綱とともに伊達政宗股肱の臣といわれる。政宗の祖父晴宗の弟実元の子で、政宗の父輝宗とは従兄弟同士であった。
 伊達家臣の中でも猛将として知られ、天正13年(1585)閏8月の陸奥・小出森城(福島県二本松)攻めでは、城内の男女800名を皆殺しに。
 同年11月の人取橋(同県本宮市)の戦では、劣勢の伊達軍にあって、會津の葦名・岩城などの連合軍を相手に奮戦し、日没引き分けに持ち込んだ。この戦は政宗にとってのるかそるかの大事な戦いであり、成実がなんとか持ちこたえたことにより、翌日、連合軍のうち佐竹軍が兵を引き、政宗は命拾いをしたのだ。
 その後、二本松城の城主となり、同17年の摺上原の戦でも、伊達軍の主力として葦名義弘を破り、葦名氏を滅亡させる原因をつくった。
 ただ、時代を読む力はなかったようで、翌年の豊臣秀吉の小田原攻めの時、参陣を勧める片倉の意見に最後まで反対したため参陣が遅れた。政宗は出発した後、途中から拠点だった黒川城(同県會津若松市)に戻ったのも家臣団の中に不穏な空気があったためで、その中心が成実だった。
 主君政宗との軋轢が少しずつ生まれ、文禄2年(1593)文禄の役には出陣したが、帰国後、出奔してしまう。
 これを知った越後の上杉景勝が5万石で召し抱えようとしたが応じなかった。結局、慶長5年(1600)秋、片倉景綱らの説得で帰参し、同7年、亘里城(宮城県亘理町)の城主に返り咲いた。
 元和元年(1615)大坂夏の陣にも、政宗と共に出陣し、その後も近世大名となった伊達家の重鎮となっていった。

2015年11月17日(火) 戦国武将便覧(88)
      伊達政宗(1567〜1636)

 「奥州の独眼竜」と畏れられた政宗の半生については、作家山岡荘八の『伊達政宗』や大河ドラマ「独眼竜政宗」で周知しているので省き、後半生について書き込む。
 政宗の部隊は、他の部隊とは違って派手で絢爛な衣装を身にまとっていたので「伊達男」という言葉が流行した。今もって通用するだろう。
 戦乱が治まり、徳川の世になった時代、仙台の青葉城を本拠地に定めた政宗は領国の開発に力を注いだ。貞山堀と呼ばれた運河を整備して北上川水系の流域を開拓し、現代まで続く穀倉地帯に生まれ変えた。表高2万石だが、内高は74万石余にも上った。
 また文化面でも力を入れ、上方文化を導入して桃山文化に特徴的な荘厳・華麗な様式を生みだした。国宝の大崎八幡宮や瑞巌寺などの建造物を残した。3代将軍・家光まで仕えた。
 家光が寛永12年(1635)城中で並み居る大名を前に、「参勤交代の制をはじめる」と宣言した際、政宗は真っ先に賛意を示した。他の大名も続いたーという。

2015年11月16日(月) 戦国武将便覧(87)
      種子島時堯(1528〜79)

 天文12年(1543)種子島に漂着した支那の船に乗っていたポルトガル人が我が国に初めて鉄砲を伝えた。この鉄砲普及に一役買ったのが当時、18歳だった少年藩主・種子島時堯であった。
 種子島南端に漂着した支那の船は、種子島氏の居城がある赤尾木まで曳航され、そこでポルトガル人を引見した時堯は、2挺の鉄砲に興味を示し、2挺とも買い上げた。
 この時、1挺を分解させ、城下の鍛冶師八板金兵衛に「同じものを作れ」と命じた。実は、種子島の砂丘は砂鉄を多く、古くから製鉄業が盛んで、腕のいい鍛冶職人がいたのだ。
 そのことを知っていた時堯は複製を作ることを命じたのである。そればかりか、家臣の篠川小四郎に火薬の調合法を学ばせたのである。複製品が完成し、実弾ができて鉄砲を撃つことができるまでになった。
 注目されるのは、それから先。鉄砲の製造法や火薬の調合法など秘匿せず、オープンにしたこと。種子島氏は薩摩・島津家の庇護を受けていたので、まず島津氏に伝えられ、そのルートで足利将軍義晴まで伝授されたのだ。
 また、鉄砲伝来の噂を聞きつけて紀州の根来から根来寺の杉の坊の津田監物がやってきて製法を学び、根来寺門前の鍛冶職人芝辻清右衛門に作らさせた。さらに境の商人橘屋又三郎が訪れて、やはり製法を学んで帰った。
 根来や堺が我が国の鉄砲の主要山地になったのは種子島時堯が製法をオープンにしてくれたからである。

2015年11月15日(日) 戦国武将便覧(86)
      里見義弘(1525〜78)

 里見氏は清和源氏である新田氏の流れといわれるが、不詳。新田義重の三男義俊が上野国(群馬県)碓氷郡里見郷に住み、郷名を名字にした。(名字というのは本来、地名から始まる)
 その子孫が安房(千葉県)に移住し、安房里見氏になった。戦国時代は稲村城(館山市)を本拠に上総の一部まで勢力を伸ばしたが、一族内部の抗争が激しく、義堯・義弘の頃になって安定的な支配が行われた。
 義弘ははじめ、義舜と名乗った。父義堯の「堯」と、「舜」の字だ。古代中国の理想の天主といわれる堯と舜を意識した命名で、義弘父子が、中国古代の名君を理想とする国造りに乗り出したことを物語る。
 義弘で特筆されるのは、房総の海賊衆を掌握したことだ。水軍を組織する事に成功し、江戸湾の制海権を握ることができた。これにより、全く歯がたたないはずの相模の北条氏と敵対することもできた。
 珍しいのは落首の奨励だった。義弘が領内を巡検した際、
「福原の都人とは聞きつれど、年貢につけて信濃あしさよ」
という狂歌を見つけた。調査の結果、役人の不正が明るみなった。福原信濃守という代官が、実際は下田なのに上田として年貢を余計に徴収しようとした不正が分かった。「信濃」で「品の」にひっかけている。
 水軍掌握がやがて改易に繋がる。義弘の子義頼は安房・上総全域と下総南部の支配を秀吉から安堵され、徳川政権になってからも家康から安房の支配を安堵されたた。
 しかし、3代後の忠義になった慶長9年(1614)、2代将軍秀忠から改易されてしまう。江戸城を守るため、江戸湾の先端で勢力を張る里見氏は邪魔だった。
 以後、幕府は江戸湾沿いに「御舟手奉行」7人の旗本を配置した。

2015年11月14日(土) 舞い込むハガキや手紙
 年末になると、年賀欠礼のハガキが届くのは前日にも書き込んだが、急逝した2歳年下の妹和子へのお悔やみの丁寧なはがきが届いた。
 妹とは若松市立第2中学校〜福島県立会津女子高で同期だった横浜在住の伊東典子さんから。
 平成19年6月3日、千葉県富津市で開催した第1回會津藩士慰霊祭に出席してくれた典子さんと妹が数十年ぶりに再会した時の感激ぶりや、中学〜高校時代に共に歩いた馬場通りの思い出などを認めてくれた。
 典子さんは、「會津っぽ」代議士で首相の座を断った、あの伊東正義代議士の姪である。お互い親戚付き合いの親しい間柄だった。今更ながら妹の急逝に心が痛む。
 さらに横浜に住む従兄弟から、妻が今年6月にがんで亡くなったのを知らされた。彼は東大卒、建設省キャリア。一人になって食事や洗濯など「手に負えない」と嘆く。女房のあり難さが今更実感しているそうだ。
 こちとら左半身しびれで杖歩行の不自由な体だが、生きているだけあり難い。だが、今年もまた、寂しい年末になりそうだ。
2015年11月13日(金) 五省(下)
 五省の意味は次の通り。
1、真心に反する点はなかったか
1、言行不一致な点はなかったか
1、精神力は十分であったか
1、十分に努力したか
1、最後まで十分に取り組んだか
 これらの言葉はじっくりかみしめる必要があろう。”至誠に悖る”ことが多かったように思う。”言行に恥じる”のもあったように思う。
 日本人、一人一人が毎朝、起きてすぐに昌和するのもいいだろう。きっと清々しい一日を迎えられそうな気がする。
     ◇   ◇   ◇
 年末が近づくと年賀欠礼のハガキが舞い込む。こちらからハガキを出したが、もらってみると、「あの人が〜」と考え込む。成田市の元助役の訃報だ。空港が開港前で、お互い腹を割って話したものだ。茹でたザリガニを頭からバリバリたべるのには驚かされた。楽しい思い出がまた一つ〜。
2015年11月12日(木) 五省(上)
 五省という言葉を知ってますか?
 旧帝国海軍兵学校で使われていた五つの訓戒です。
1、至誠に悖(もと)る勿かりしか
1、言行に恥づる勿かりしか
1、気力に缺(か)くる勿かりしか
1、努力に憾み勿かりしか
1、不精に亘る勿かりしか
 この五つの訓戒は帝国海軍の士官学校である海軍兵学校で用いられた標語。昭和7年(1932)兵学校の校長だった松下元少将が考えた。
 文語調箇条書きの五省を生徒に昌和させることについて、「(リベラルと柔軟性を重んじた)帝国海軍になじまない」と不快感を示す武官もいたが、太平洋戦争後に日本を占領したアメリカ海軍の幹部は五省の精神に感銘を受け、英文にしてアナポリス海軍兵学校に掲示したり、我が国でも、海上自衛隊幹部候補生学校(広島県江田島)で、旧海軍の伝統として継承されている。
2015年11月11日(水) 戦国武将便覧(85)
      蠣崎慶広(1548〜1616)

 若狭(福井県)の守護大名だったが、享徳3年(1454)蝦夷地に渡り、アイヌのコシャマインの乱鎮圧に軍功を上げ、蠣崎季繁の婿養子となった。
 蝦夷地南部、松前の大館に本拠を移し、蝦夷地の中に、いわゆる「和人地」を確保し、光広を経て3代目の慶廣に至る間に、在地領主として急速に力をつけた。
 慶広は4代目季広の三男だったが、長男、次男が相次いで亡くなり、永禄5年(1562)家督を継いだ。姉妹たちを有力な豪族のもとに輿入れさせ、同族結合を築き上げていった。
 蝦夷地支配に乗り出した時が、秀吉による全国統一の総仕上げの段階にあたっていて機を見るに敏な慶広は豊臣政権に接近した。天正19年(1591)陸奥国(岩手県)で起きた九戸政実の乱の際、九戸城攻めに参陣し、慶広軍の中に、戦闘要員としてアイヌが動員された。アイヌの軍勢は毒矢を使ったことで知られる。
 総大将の秀吉にアイヌを多数引き連れた姿を見せることでアイヌの頭目であること、即ち蝦夷地の領主であると印象付けたのである。
 2年後の文禄2年正月、秀吉から蝦夷地一円の知行を安堵された。秀吉の死後は家康に接近し、慶長4年(1599)家康に『蝦夷地図』を献上し、姓を家康の元の姓松平の「松」と、前田利家の「前」から松前氏に改名した。
 慶長9年には、家康からアイヌ交易の独占権を公認され、松前藩初代藩主となった。

2015年11月10日(火) 戦国武将便覧(84)
      津軽為信(1550〜1607)

 江戸時代、陸奥国(青森県)では、津軽藩主・津軽氏と南部藩主・南部氏の仲が非常に悪かったが、隣り合う藩同士で仲が悪かったのではなく、津軽氏が南部氏の内紛のどさくさに紛れて自立したーことに由来する。
 津軽氏は南部氏一族の大浦氏で、大浦城(弘前市)に拠り、鼻和郡一帯に勢力を伸ばし始めたのが隆盛のもとになった。
 『津軽氏系図』などでは、大浦政信の嫡子為則の娘と結婚した為信が、為則の死後、大浦氏を継いだ。
 そして為信が、本家南部氏における内紛の間隙をぬって巧みに津軽全域の支配に成功した。天正6年(1578)浪岡城(青森市)の北畠顕村を攻め滅ぼしている。北畠氏は南北朝時代以来の名家で、南朝方北畠顕家の後裔である。一時は、大浦氏、北畠氏、大光寺氏の3家が津軽を三分していた。
 次いで同13年(1585)千徳征武を田舎館城(同県田舎館村)に攻め落と、為信は南部氏の一族武将から一代で津軽地方を代表する勢力にのし上がった。
 その過程で悪辣な手段を使ったであろう。「奥州の梟雄」などといわれている。津軽全域の支配に成功した頃に名字を大浦から津軽に改めた。
 同18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して津軽征服地を安堵され、翌年の九戸政実の鎮圧にも従軍した。因みに、この時の軍令状に初めて「津軽右京亮との(殿)へ」とみえる。中央政権から「津軽」の名が公認された。
 この乱の時、為信と対立していた南部言直は、會津の蒲生氏郷に働きかけて為信を征伐しようとしたが、浅野長政が反対し、命拾いをした。このことは津軽氏もキャッチしていたはずで、両家の仲の悪さに拍車がかかった。
 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で為信は東軍に味方し、美濃(岐阜県)大垣城を牽制する働きをした。その後、城を弘前城に移し、近世大名として生き残った。
 花見シーズンでは弘前城の桜が有名だ。

2015年11月09日(月) 戦国武将便覧(83)
      三好長慶(1522〜6)

 戦国時代を生きた武将だが、室町幕府最後の実力者といった方がいいかもしれない。三好氏は阿波(徳島県)の守護細川氏の家宰で、細川氏と共に畿内に進出した。
 父元長は初めは細川晴元を擁していたが、晴元が一族の三好政長と結んで元長を殺したため、長慶は不遇な時代を送った。
 天文11年(1542)畿内に勢力を誇った木澤長政を倒し、18年には政長をも殺して細川晴元を近江に追放した。さらに21年、流浪していた足利義輝を京に迎えて細川氏綱を傀儡として管領に据え、幕府の実権を握った。
 長慶の快進撃を支えたのは3人の弟だった。3人は阿波・讃岐(香川県)、淡路(兵庫県)といった国々を固め、長慶の中央政界の活躍を支えた。
 長慶は茶の湯の隆盛に一役買い、連歌にも熱中した。永禄5年(1562)次男之康が敗死した時、長慶は飯盛山城(大阪府四条畷市)で連歌会の最中で、使者が戦死を伝えても連歌を続けたという。
 しかし、実子義興の死後は気落ちして次第に家臣の松永久秀に実権を奪われていった。
     ◇   ◇   ◇
 昨日の読売新聞に、わが故郷・猪苗代湖にハクチョウ飛来の写真が載っていた。いよいよ冬到来である。Uターンしていた時、訪れた孫たちを連れてゆき、手の平からエサを起用にとるハクチョウに感激したものだ。

2015年11月08日(日) 河野氏関係交流会
 伊予国の守護大名だった河野氏関係交流会が10月25日、愛媛県松山市の北条ふるさと館で行われた。25回目で、愛媛大学教授川岡勉氏が「伊予河野氏と戦国領主」と題して講演され、古く飛鳥時代から続いた河野氏の隆盛の時代や豊臣秀吉に滅ぼされるまでの歴史を詳しく述べられた。
 また江戸時代の寛永年間(1624〜44)に家康の異父弟にあたる久松定行が伊勢の桑名から松山に移封された際、知多の尾張万歳太夫を招いたのが始まりとされる「伊予万歳」が上演され、参加者を慰めた。
 交流会を主宰する風早歴史文化研究会の会長越智仁さんは、河野一族の末裔。だが、河野氏は広島県の竹原で滅亡した後、子孫は四散したため、地元には不在らしい。
 交流会の資料を送っていただいた事務局の河原さん、今後、メールを交換するため、小生のブログ「河野十四生の歴史ワールド」の左肩にアドレスが載っています。それをコピーしてメールをください。
 河野氏といい會津藩といい、今もって慰霊祭、交流会が続くのが共通してる。何故だろう? それは「滅びの美学」が共通しているせいではないか。
2015年11月07日(土) 戦国武将便覧(82)
      今川氏親(1471〜1526)

 駿河国(静岡県)の守護大名今川義忠の嫡男で、龍王丸だった6歳の時、父が不慮の事故で死を遂げ、幼い龍王丸に代わって一族の小鹿範満が今川家を牛耳っていた。
 叔父の北条早雲(伊勢新九郎)の急襲で範満を倒し、家督を龍王丸が取り戻したのが長享元年(1487)。17歳だった龍王丸は元服して氏親を名乗った。
 早雲の補佐を受けながら遠江国(同県)への進出に全力を挙げ、制圧に成功して2カ国の大名となり、それまでの守護大名から戦国大名へ脱皮を果たしている。
 一つは領内で検地を行ったこと。荘園制的土地支配から氏親による一元的な土地支配への転換がはかられた。
 もう一つは分国法「今川仮名目録」の制定である。戦国家法とも呼ばれ、室町時代、足利将軍が制定した全国法「建武式目」に対して、氏親は独自の法を制定した。
 荘園制の否定と室町幕府からの自立という形で戦国大名化したわけだが、それを可能にしたのは経済力だった。財源は、金山からの収入で、それまでの「追堀」(おっぽり)といっていた安倍川・大井川の河岸段丘に堆積した砂金を採取する方法から、坑道を掘って採掘する「問堀」(といぼり)へと進歩させた。
 金山経営の大規模化で氏親は財源を確保し、領国経営を軌道にのせることに成功した。

2015年11月06日(金) 小説、間もなく出版!
 幕末、會津藩と長州藩の蜜月ぶりを、會津藩宝蔵院流槍術師範、志賀小太郎重則が長州藩主の招きで萩城下を訪れて長州藩士に槍術を指南した史実を通して明らかにした小説『幕末を駆け抜けた天馬』が年内に出版の見込みになった。
 今年春から史料を集め、読み解いて作成に取り組んで以来、かなり努力をした。
 これまで種々の論文などは、それぞれの雑誌で発表してきたが、小説のようにまとまったものは初めてである。尤も、紀行文は『のんびり行く会津鉄道の旅』(歴史春秋社)として発表している。
 會津は戊辰戦争で徹底的に長州藩に痛めつけられたため、今もって長州への怨念が残る。かくいう小生もである。
 しかし、戊辰から150年近くが経った。少しだけ仲直りができないものか。怨念が少し減らないだろうか。そんな気持ちで書いた。
 出版をこう御期待!
2015年11月05日(木) 戦国武将便覧(81)
      直江兼続(1560〜1619)

 越後坂戸城主だった長尾政景の家臣樋口兼豊の子で、与六と称した。5歳の時、政景の子景勝の近習に加えられ、城下の曹洞宗の古刹・雲洞庵でともに北高全祝の薫陶を受けた。
 景勝が叔父にあたる謙信の養子に迎えられ、兼続も春日山城(新潟県上越市)に入って謙信の影響を受け、上に立つ者の心構えなど学んだ。 
 ところが謙信が天正6年(1578)3月13日に急死し、跡目争いが起こった。景勝ともう一人の養子景虎との「御舘の乱」である。国内を二分する戦いに勝った景勝は、若い兼続を側近トップの執政に登用した。
 兼続は名門の直江家を継いで直江兼続と名乗った。政治的なことだけでなく、新発田重家攻略など軍事面でも活躍し、同11年の賤ヶ岳の戦の後、羽柴秀吉の側近石田三成と接触して上杉家存続に貢献した。
 慶長3年(1598)正月、秀吉の命で景勝が越後から會津に転封された時、懇意だった三成と一緒に領内の庶政にあたり、無難に乗り切った。新領地に転封されると、一揆が起きたり地元の抵抗が起きる例が多っかた。
 その後、兼続が中心になって神指城築築城に取り掛かり、武具を調達するなど武備を強化して家康に糾弾されたのに対し「直江状」を送りつけたのは有名な話。
 関ヶ原の戦は會津から始まったのだが、戦後、米沢へ30万石に厳封されて移封された時、家臣をリストラせずに引き連れ、農民などに変じるなど民政にも手腕を発揮した。
 上杉家は、後に15万石に減らされたが、幕末に至るまで存続した。

2015年11月04日(水) 戦国武将便覧(80)
      上杉景勝(1555〜1623)

 まだ長尾喜平治といっていた10歳の時、永禄7年(1564)7月5日、不慮の事故で父政景を失った。後に母が謙信の姉だったことから、子がいない謙信の養子に。
 景勝一人が養子なら問題はなかったが、謙信には景虎と政繁という二人の養子がいた。景虎は北条氏康の七男で、「越相同盟」が結ばれた時、人質として送りこまれ、同盟が破綻した後も越後(新潟県)に留まっていた。
 政景は能登(石川県)の畠山氏からの人質で、上杉一族の上条上杉家を継いでいたので家督争い(大河ドラマで紹介)には関係なかった。
 織田信長とは敵対し続けた謙信だったが、豊臣秀吉の時は、一転して臣従の道を選び、秀吉の天下統一事業に協力して小早川隆景の死後、五大老にもなった。
 慶長3年(1598)秀吉の命で越後の春日山城から若松城(福島県)に120万石で移ったが、実は、この史実が関ヶ原合戦の一因になっている。80万石からの加増だったので、浪人を雇い入れ、武具を調達、さらに新しい神指城を新築するなど軍備強化を図った。
 近隣の大名にとっては脅威であった。不安の声に対し家康は景勝に上洛を命じた。謙信はこれを無視、執政だった直江兼統が上洛命令を批判する返書「直江状」を送りつけている。
 その結果、家康による上杉攻めになり、家康が豊臣大名らを率いて東国下り、下野・小山(栃木県)に来たところで石田三成が挙兵、関ヶ原合戦になる。
 この大戦は予想に反して1日で終わり、三成に呼応した景勝は30万石に減封され、米沢へ移封された。
 執政に抜擢した直江兼統に任せるものは任せ、「ここぞ」という時だけ口を出すリーダーらしきリーダーだった。

2015年11月03日(火) 日韓首脳会談
 昨日、ソウルで3年半ぶりに日韓首脳会談が開かれた。告げ口ばあさんが大統領になって初めてだ。
 その”歓迎”ぶりに驚かされた。支那の首相(どうでもいい男)には歓迎式から晩餐会まで開き、対して安倍首相には昼食もなし。勿論、歓迎式もなし。これだけの落差がある”歓迎”ぶりは空前絶後だ。いかにも3等国らしい。
 慰安婦問題がネックになっているが、これは昭和40年(1965)の日韓基本条約締結で解決済みである。我が国は韓国へ5億ドルの経済協力を行った。韓国国家予算の2年分だ。
 さらに協定に基づき、平成7年には「アジア女性基金」を設立し、御詫び状と共に元慰安婦へ償い金200万円を支給している。
 翻って韓国は、1964年から73年まで、ベトナム戦争で延べ32万人の韓国兵を送り、この間、サイゴン(現ホーチミン)に慰安所を設けベトナム女性を慰安婦にしているではないか。この間の事情について今年4月30日のブログで詳細に報告している。
 自分たちもやっているのに、開き直るのか!呆れてものが言えない。
2015年11月02日(月) 戦国武将便覧(79)
      亀井■矩(1557〜1612)
※ ■は玄をふたつ並べた漢字。 ( 玄玄 ← 1文字にしたもの )

 尼子氏に仕えていた湯永綱の子で、後に尼子氏重臣亀井氏を継いだ。山中鹿之助と共に尼子氏再興に尽力した。妻は鹿之助の娘であった。
 天正6年(1578)尼子勝久が守っていた播磨(兵庫県)の上月城が落ちて、鹿之助も殺されてしまい、尼子再興も摘まれた。■矩は織田信長に従い、「中国方面軍司令官」だった羽柴秀吉に属して、同9年の因幡(鳥取県)鳥取城攻めなど、主に山陰方面で活躍する。
 鳥取城落城後、近くの鹿野城主となり、本能寺の変の時も、賤ヶ岳の戦の時も、鹿野城に残り、毛利勢に備えていた。
 その頃のエピソードが伝わっている。秀吉から「官途受領名は何がいい」と聞かれ「いずれ琉球攻めの大将を勤めたいので、琉球守をお願いしたい」と返答し、琉球守という受領名をもらった。
 豊臣政権下、1万3500石で因幡国の小名ではあったが、領国経営に関しては非情に積極的で日光池や湖山池の干拓に着手し、千代川の左岸に総延長22キロに及ぶ大井出用水を設けた。
 また文禄年間(1592〜96)に伯耆国日野郡の銀山を発掘し、石見銀山に匹敵する銀山とした。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦では東軍に参陣し、功によって2万4200石を加増された。シャム(タイ)との交易のため、朱印船貿易にも乗り出すなど、海外進出の夢を持ち続けた。
     ◇   ◇   ◇
 大氏氏の系譜は終了。次回から上杉氏、その後はアトランダムに紹介する。

2015年11月01日(日) 戦国武将便覧(78)
      山中幸盛(続き)

 「我に七難八苦を与えたまえ」。悲劇の戦国武将山中幸盛(鹿之助)の有名なセリフは多くの人に共感を呼び、尼子氏再興を願った鹿之助の居城・月山富田城の名を永遠にした。
 戦前は尋常小学校の国語の教科書に載っており、有名になった。鹿之助の波乱万丈の人生は真実で、月山富田城は190メートルの月山の上に築かれ、南東以外の三方を急峻な崖に囲まれ、飯梨川を外濠とした難攻不落の要塞だ。
 慶長16年(1611)徳川幕府のよる1国1城令による廃城まで、山陰の拠点となった戦国屈指の名城であった。
 中段にある山中御殿跡は国の史跡として整備されている。そこから本丸跡まで「七曲り」と呼ばれる曲がりくねった山道の途中、二の丸跡から眼下に中海や旧城下町が望める。
 最近の城ブームに、戦国ゲームに登場する鹿之助人気が加わり、若い女性の姿が多いそうだ。自ら選んで苦難の道を歩んだ鹿之助も泉下で驚いているだろう。

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