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2016年06月30日(木) |
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会津の間諜 神戸岩蔵(最終回) |
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里帰りがきっかけとなり、岩蔵の兄弟に曽祖父の姉妹が嫁いでいる河原田久雄さん一家が平成16年(2004)4月、山口県を訪れて墓参した。
河原田さんは
「敵のスパイだった岩蔵のために墓を建立して頂き、戒名まで付けてもらっていることがわかり、感激しました」
と当時を振り返る。
以来、毎年8月2日の岩蔵の命日に大龍寺を訪れて墓参している。會津と長州は、戊辰戦争を巡る怨念から敵同士という因縁が残る。鶴ヶ城での1か月に及ぶ籠城戦の末に會津藩は降伏するのだが、戦後、半年間にわたり長州藩の命令によって會津藩士の遺体が路上に放置されるという、残酷な仕打ちがなされた。
敗者への労りがあった武士道だが、長州藩には微塵もなかった。それに比べて支藩長府藩には、どっこい武士道は生きていた。(完)
◇ ◇ ◇
明日から、戊辰戦争で西軍に対抗するため奥羽越諸藩が「奥羽越列藩同盟」を結成して対抗したが、錦旗の力には対抗できず、次々、脱落ー降伏してしまう。その過程を日巡りしてみよう。 |
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2016年06月29日(水) |
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会津の間諜 神戸岩蔵(12) |
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時は流れて昭和62年(1987)11月、福島県原町市(現南相馬市)出身で下関市長府の郷土史家、斎藤純一さん(平成10年死去)が地元の史料から岩蔵の墓があることを知り、苦労の末、探し当てた。
そして地元民に呼びかけて
「神戸岩蔵慰霊祭実行委員会」
を立ち上げ、翌年9月、処刑以来134年目にして晴れて慰霊祭が行われた。
その後、「岩蔵を里帰りさせよう」
と翌月2日、斎藤さんと仲間の磯田進さん(85)が會津若松市を訪れ、竹筒に詰めた岩蔵の墓石の土を市内慶山の神戸家の菩提寺、大龍寺の墓地に御供えし、岩蔵は懐かしい會津に「帰った」。 |
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2016年06月28日(火) |
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栄川酒造が身売り |
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會津を代表する「栄川酒造」が政府系ファンドの支援を受けて経営危機から脱することになった。平成元年(1989)磐梯町に新工場を建設し、生産体制一本化を図ったが実現せず、近年の日本酒の落ち込みに加え、東日本大震災による影響も受けて経営がピンチになっていた。
食品関連事業を手掛ける「ヨシムラ・フード・ホールディングス」(本社・東京)が栄川酒造の全株式を取得して子会社化する。新会社発足は9月1日。
遂に不景気の波が會津を覆った。栄川酒造は明治2年(1869)創業。味がまろやかで、我が家では古くから愛していた。なのに〜。残念だ。
大吟醸酒「栄四郎」が全国新酒鑑評会で金賞を受賞するなど、いい酒だった。會津藩士慰霊祭では、會津からわざわざ「會州一」を取り寄せて献杯したのに〜。 |
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2016年06月27日(月) |
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比例選 |
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ラジオニッポン放送木曜日は楽しみにしていた。午後4時から「なんでもいう」タイトルで、元共同通信記者青山繁晴氏が舌鋒するどく時事問題を解説していたからだ。
ところが、最近出ないのはなぜだろう、と思っていた。が、25日の新聞で公示されている参議院選挙に自民党候補として比例選に出馬していたのだ。
それではラジオやテレビに出演するはずはない。彼は安倍政権に太いパイプを持っており、安倍首相も出演したことがある。
資源小国の我が国の”宝物”として秋田県沖の日本海地底にレアメタルが眠っていると度々指摘してきた。動きの遅い政府の尻をたたいてきた彼が国会議員になったら(なるだろう)きっと、この計画は動き出すだろう・大いに期待したい。 |
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2016年06月26日(日) |
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会津の間諜 神戸岩蔵(11) |
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長州藩と支藩長府藩の由来だが、中国一円を支配した毛利元就の孫輝元は慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で、西軍の総大将に推されながら戦わずして敗れ、防長2国に減封された。
その後、輝元は萩(山口県)を城下町とし、元就の四男元清に長府(同県下関市)を中心に3万6200石を与えて長府藩が誕生した。
ところで、岩蔵の墓石だが、長い間、無縁墓地となっていたのを大正8年(1919)桂弥一郎という地元の人が史料を参考に墓石を探し出した。墓石には、処刑された慶応元年(1865)8月2日の日付が刻まれ、「宝誉弥心居士零位」という戒名も残っていた。
しかし、以後は再び、墓石は寂しい、深い眠りにつく。 |
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2016年06月25日(土) |
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終わりの始まり |
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イギリスの国民投票の結果は世界経済に飛び火した。昨日の日本株は急高騰し、株価は大きく下落した。
本日のNYダウも急落し、その他諸外国でも同様の株価が下落した。2008年のリーマン・ショックを上回る大きな影響である。
世界中の経済が失速し、世界同時不況の恐れがある。我が国では、国民の年金基金を株に投資しており、株価下落で年金の支給額に影響が出るのは目に見えている。
国民投票に法的拘束力はない、というものの、安全保障や原発問題など国の基本政策を国民投票で決めることは、基本的に誤りなのだ。ポピュリズムに迎合することになるからだ。
イギリスでは、スコットランドが独立運動再開、オランダ、フランスではEUからの離脱運動が盛り上がる気配がある。
「EUの終わりの始まり」になったのでは? |
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2016年06月24日(金) |
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会津の間諜 神戸岩蔵(10) |
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この刀については、後日談がある。刀は長府藩士で、戊辰戦争で出陣した長府報国隊軍監、熊野直介(則之)(22歳)がもらい受けた。
越後方面での長岡藩との激しい戦闘で熊野は、長岡・會津藩連合軍の鉄砲の弾にあたって戦死した。會津藩士の刀で戦った長府藩士が會津側の銃弾で亡くなるーという皮肉な運命を辿った。
再び、刀は長府に戻り、豊浦郡代の豊永長吉に預けられ、死後、旧會津藩士石澤源四郎を通じて返却すべく手段がとられたが、岩蔵の子孫と連絡が取れず、再び長府へ。その後は行方不明となった。
◇ ◇ ◇
EU残留か離脱かのイギリスの国民投票で、離脱派が僅差で勝利した。株価は下落し、円高に拍車がかかる。大不況は目前だ。参院選挙どころではない。
大変な事態だ。世界規模の不況は来るだろう。不安だ。 |
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2016年06月23日(木) |
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会津の間諜 神戸岩蔵(9) |
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最後に岩蔵は、
「武士として切腹させてほしい」
と頼んだが、さすがに聞き入れられず、
「せめて自分の刀で斬ってほしい」
と頼み、岩蔵は処刑場である松小田の海岸松林で自分の刀で斬首された。
岩蔵の最期が立派であったため、
「會津藩の間諜・神戸岩蔵」の名前は長府藩に広く喧伝され、中でも青年武士に大きな影響を与えた。
「せめて腰のものなりとも得て、神戸殿にあやかりたい」
と刀を所望する者が多かった、という。
◇ ◇ ◇
男性コーラスグループ「ダークダックス」のまんがさんこと佐々木行さんが20日、84歳で亡くなった。ダークは慶應義塾のワグネルソサイアティ出身で、小生が塾生時代、會津若松市民会館で公演したことがあった。
つい誘われて舞台に上がって一緒に歌ったことを思い出す。度胸がよかったな、と今でも思う。その頃から人前で話すことに馴れてたのだ。 |
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2016年06月22日(水) |
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会津の間諜 神戸岩蔵(8) |
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当時の長州藩と支藩長府藩は、勤王討幕の震源地であったため、幕府や親藩は間諜を潜入させて両藩の内情を探ろうとしており、必然、両藩内はピリピリした雰囲気に包まれていた。
村人は代官所へ届け出て、岩蔵は捕縛された。長府で取り調べを受けた岩蔵は、観念し、會津藩の間諜であることを認めた上で、
「尊藩の掟通りの処分を」
ときっぱり言い切った。
調べにあたった奉行は
「まだ19歳と若いのに、覚悟は立派だ」
と感心し、
「なんとか助けたやりたい」
と心密かに声をかけた。
「我が藩に随身する気持ちはないか」
岩蔵は、
「これは意外なお尋ね。しかし、拙者は會津武士でござる。二君に仕える気持ちはございません。ことに會津と長州は敵同士、お情けは無用でござる」
と述べて処刑を望んだ。 |
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2016年06月21日(火) |
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会津の間諜 神戸岩蔵(7) |
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小生は、これら長府藩の史料を中心にまとめて平成21年(2009)5月9日付け福島民謡新聞に「会津の間諜 神戸岩蔵」を特別寄稿した。今回のブログは、この寄稿記事に、各種史料を参考に大幅に加筆、修正したものである。
物語は、岩蔵が長州入りした元治元年(1864)から始まる。岩蔵は萩城下から馬関に流れ込んで道玄堂山(現下関市松小田南町)の竹藪に掘っ立て小屋を建て、足腰が立たない乞食の真似をして隠れ住んでいた。
ある時、雨が降ってきたので、この乞食は辺りを見渡してから、突然、立ち上がって小屋に入った。しかし、これが村人に見つかってしまう。 |
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2016年06月20日(月) |
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一隅を照らす |
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本日の読売編集手帳で懐かしい言葉が登場した。
「一隅を照らす これすなわち国宝なり」だ。天台宗の開祖最澄(伝教大師)が説いた言葉である。これは実は中国の故事による言葉だ。
「守一隅 照千里」からとったものだ。中国・春秋時代(西暦前770〜403)(日本では縄文後期から弥生前記)、魏と斉の国王同士が会話の中で、魏王は「我が国には宝が一杯ある」と豪語した。1寸の玉をつけた馬車が2台もあり、夜道はとても明るいーと。
これに対し、斉王は「我が国の宝は4人の将軍で、それぞれが東西南北の一隅を守っているので安泰であると、自慢した。
本来は「守一遇 照千里」なのである。小生は、長野支局長時代、天台座主15世山田恵諦猊下から「照千一隅」の色紙を頂いた。
大事に保存していたが、若松ガスが大手業者に身売りした際、お世話になった故高木篤保社長の子息が社長だったが、「頑張れ!」と応援するつもりで子息にやってしまった。今考えると、ちょっぴり惜しい、気がする。 |
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2016年06月19日(日) |
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会津の間諜 神戸岩蔵(6) |
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その結果、山口県下関市長府で、長府藩の日記にあたる
『毛利家乗』に
「近日、姿を消し(以下略)」
などと記されていたことや、下関市立長府図書館の公式サイト
「城下町長府のサイト」
で処刑された岩蔵の潔い最期が若い長州藩士に喧伝されて墓が建立され、戒名までが付けられたエピソードを探し出した。
さらに下関市名池山の郷土史研究会が昭和12年(1937)に発行した『郷土物語』第22号を手に入れることができた。 |
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2016年06月18日(土) |
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会津の間諜 神戸岩蔵(5) |
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會津図書館にも岩蔵に関する史料は残っていない。まして個人のHPはいい加減なものが多い。さすがに郷土史家・故小島一男さんの「會津人物事典」には、以下が記載されている。
「弘化4年(1847)〜慶応4年(1868)。會津藩目付180石神戸盛義の次男。名を綱衛という。安政3年(1856)兄民治が、原田七郎(対馬)という美少年を巡って鶴ヶ城内で刃傷事件を起こした。高木豊三郎という者が切腹、民治は永代揚屋(筆者駐。武士が入る座敷牢)入りとなった。
弟岩蔵は家名回復のため、ひとかどの御役に立たねばと、藩庁へ長州潜入を申し出た。藩庁では、岩蔵の父が會津弁を使わないことに着目し、岩蔵を間者として長州へ潜入させることに。
岩蔵は文久3年(1863)6月23日、江戸を発って長州へ。家族は岩蔵が生きて帰らぬものと覚悟して6月23日を岩蔵の命日として法要した。時に岩蔵19歳。
岩蔵の長州における行動は不明だが、長州藩の支藩長府藩内の馬関(下関)や長府城下の内情を探って京都の會津藩邸に送っているうち、慶応元年(1865)5月、身元が発覚して捕えられ、道玄堂山で打ち首になった。
兄民治はその後、赦され、戊辰戦争では青龍隊士中3番隊半隊頭として活躍、慶応4年9月17日、鶴ヶ城南東の門田一之堰村で戦死した」
とかなり詳しく載っている。
だが、岩蔵の最期をもっと詳しく知りたくなり、山口県下関市に電話して郷土史に詳しい人物を紹介してもらった。 |
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2016年06月17日(金) |
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会津の間諜 神戸岩蔵(4) |
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會津若松市の最初の歴史書である『若松史』(昭和17年発行)
下巻には、
「神戸岩蔵綱衛 年16、7の頃、既に他日の偉器を以て目せらる。藩、有為の子、節を選みて中国地方の見学を命ぜられしに、綱衛其の一人に選ばるる。時に、忠誠(筆者駐ー9代藩主松平容保の霊号)公、京都守護職、藩の為に長州の事情を諜知して貢献なる所あらんと欲し、虎穴に入らずんば虎児を得ずとして同行と袂を分かち、弧剣潜行長州に入り、遂に帰らず。時に年若干、当時、或は事露はれて斬首せらるると云う、或は病で死せりという」
と簡単に記述されている。 |
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2016年06月16日(木) |
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会津の間諜 神戸岩蔵(3) |
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小生が神戸岩蔵の名前を知ったのは、かねて親交のあった河原田さんから、
「実は、祖先にあたる會津藩士の墓参をしてきました。その墓は山口県にあります」
といわれたことだった。
「何?會津藩士の墓が長州に〜」
初めは信じられなかったが、話を聞いているうちに面白い内容にわくわくした。記者魂が動かされた。
早速、會津若松市の知人に問い合わせ。會津図書館にも尋ねたが要領を得なかった。會津には岩蔵に関する史料がほとんどなかったのだ。
「それなら長州へ」
と山口県下関市の郷土史家らを探し、ようやく材料を得ることができた。岩蔵は長州藩に捕えられて斬首されたため、會津では知る人が少なく、最期の状況さえ分かっていなかった、それだけに史料がなかったのだ。 |
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2016年06月15日(水) |
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会津の間諜 神戸岩蔵(2) |
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岩蔵は単身、長州藩に潜入し、その動静を京の會津藩邸に報告していた。まもなく、身元が発覚して長州藩に捕らわれた時、
「我が藩に仕えないか」
と誘われたが、岩蔵は
「二君に仕えず」
と断って斬首され、長州の露と消え去った。
長州藩では、岩蔵の最期が潔い、立派な態度であったことから岩蔵のための墓を建立、その後、地元民が細々と慰霊を続けてきた。
たまたま、福島県原町市(現南相馬市)出身の郷土史家が、この史実を発掘し、
「郷里に戻してやりたい」
と昭和62年(1987)10月、岩蔵の墓の土を郷里・會津若松市慶山の大龍寺にある神戸家の墓地に移し、刑死から123年ぶりに岩蔵は里帰りすることができた。
◇ ◇ ◇
”遂に”、というべきか”やっと”というべきか、舛添・東京都知事が辞職願を提出した。21日付という。都議会与党の自民、公明までが不信任案提出に廻り、逃れられないと悟ったのだ。
既に次期都知事候補選定が始まっており、元妻の片山さつきや小池百合子らの名前が上がっているが、一部には”秘密兵器”として小泉進次郎の名が。2期都知事をやらせてから国会に戻し、総理を狙わせるーという構想だ。面白いと思うが〜。 |
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2016年06月14日(火) |
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会津の間諜 神戸岩蔵(1) |
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毎年8月2日、會津若松市慶山の大龍寺にある會津藩士神戸家の墓前で、子孫にあたる同市宮町、河原田久雄さんは花を手向け焼香する。
この墓は、幕末、會津藩の間諜ースパイとして長州藩に潜入し、諜報活動の後に身元が発覚して斬首された神戸岩蔵が静かに眠っている。
岩蔵は単身で長州藩に潜入し、同藩の動静を京の會津藩邸に報告していた武士である。慶応元年(1865)斬首されてから151年。黄泉の岩蔵はなにを語っているのか。 |
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2016年06月13日(月) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(最終回) |
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最終章 寂しく眠る墓石(最終回)
柴五郎の墓から10メートル離れた所に兄「柴四朗」の墓がある。明治時代の政治小説家で『佳人の奇遇』を発表した。四朗は「東海散士」の名で活躍した。彼は千葉県富津市の富津陣屋で生まれた。
五郎は薩長藩閥政治の時代、「陸軍は長州、海軍は薩摩」といわれた中にあって陸軍大将にまで上り詰めた。
同じ會津出身で東京帝国大学総長などを歴任した山川健次郎は、銅像が建立され、各方面から顕彰されているが、柴五郎の名はあまり知られていない。
ましてや墓は子孫が永代供養して清掃はされているが、墓参に訪れる人はいない。寂しい限りだ。いつの日か、柴五郎の名前が顕彰されるよう期待して筆を置く。(完)
明日から、幕末、會津藩の間諜として長州へ潜入したが、見破られて斬首された神戸岩蔵を連載する。會津にも史料が少ない人物で、立派な最期は長州藩内でも評判になった神戸岩蔵。乞うご期待! |
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2016年06月12日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(170) |
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最終章 寂しく眠る墓石(2)
恵倫寺を訪れたのは、セミの鳴き声が煩いほどの平成19年8月の旧盆前だった。出迎えてくれた佐藤憲晃住職の奥さんは、先代住職の娘さんだ。気さくな女性で、本堂に案内してくれ、位牌が並ぶ中央に軍服姿の柴五郎陸軍大将の写真と位牌があった。
會津人初の陸軍大将は、穏やかな表情で、目はどこまでも涼しそうだ。會津の「古武士」を思わせる凛とした、たたずまいである。
「会いたかった」人物に逢えた思いだった。奥さんに墓地を尋ねて小田山の承応から車で上がった。途中、道路左に中世、會津を400年間統治した葦名氏の墓所がある。小田山を車でくるくる回りながら昇り、暫くすると「柴家の墓所」という案内板があった。草が伸び放題の道を進むと、柴一族の墓がひっそりとあった。
子孫が永代供養しており、墓所の周りは清掃されているが、訪れる人とてなく、寂しい限りだ。
戊辰戦争で、屋敷で自刃した祖母や母姉妹の墓に囲まれるように五郎の墓がある。おもわず、「只今、お参りにきました」とつぶやいて深々と首を垂れ、献花、焼香した。 |
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2016年06月11日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(169) |
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最終章 寂しく眠る墓石(1)
金剛山恵倫寺(曹洞宗)は會津若松市の市街地から南西2キロの小田山西側斜面にひっそりとたたずんでいる。
この寺は安土桃山時代後期、豊臣秀吉の命で會津の領主となった蒲生氏郷が會津入りした際(1590年)、亡父蒲生賢秀の菩提を弔うため、下総国結城郡(茨城県)の名刹・安穏寺第10世、存鶴禅師に依頼して會津に同行し、開山させた由緒ある寺だ。
氏郷は恵倫寺を領内の僧録司(禅宗の管轄寺)として寺領100石を寄進した。末寺は32か寺あったが、現在は28か寺。
恵倫寺周辺の地名は元々は、小田山の裾野にあることから、「小田垣」だったが、現在は宅地開発が進み、「花見が丘」という意味のない、妙な地名になっている。
近くには、戊辰戦争で犠牲になった會津藩の女性233名の名前を刻んだ「奈与竹の碑」がある善龍寺や會津藩士4000名の墓が眠る會津藩大窪山共同墓地がある。
會津藩祖保科正之が神道にのっとり、藩士の共同墓地と定めて以来、260年にわたって藩士の遺骸が葬られている。 |
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2016年06月10日(金) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(168) |
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第9章 支那へ潜入(6)
日清戦争は欧米流の近代国家として再出発した日本と中華帝国との対決であった。
「中華」とは、周辺の国は朝貢する立場にある、という自分中心の考え方である。「眠れる獅子」として底力をれれていた清が、新興国日本にもろくも敗れ、古代から続いていた東アジアの中華思想は崩壊した。
それを機に、列強は清に群がり、租借地を獲得して中国進出の足がかりを築いた。
以下、清に対する列強の傍若無人な割譲ぶりを時系列に列記すると、ドイツは明治31年(1898)青島を租借、ロシアは旅順・大連地区を、イギリスは威海衛・九龍半島を、フランスは翌年、広州湾をそれぞれ租借した。
そうして明治30年、山東省でドイツ人宣教師が殺害されたのが発端となり、義和団事件(日本では北清事変)に発展するのだ。 |
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2016年06月09日(木) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(167) |
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第9章 支那へ潜入(5)
こうした情勢に、東アジアに野心を持ていたロシアはドイツ、フランスと共に、いわゆる「三国干渉」を行って日本に圧力をかけ、遼東半島を返還させた。この頃、支那の革命家孫文が密かに来日した。
ところで、現在の中国を「中国」と呼ぶようになったのは戦後からだ。戦前は「支那」だった。日本人だけが、そう呼んだのではない。高島敏男氏の著『本が好き、悪口いうのはもっと好き』の中で、明治時代、日本に留学した魯迅は日本語で話す時は、自分の国を「支那」といい、自分を支那人といったそうである。
「支那」という言葉は1500年以上前のインドで、現在の中国辺りを「シナスタン」と呼んだのが始まりである。「スタン」は土地・地域の意である。パキスタン、アフガニスタンというように。
「シナ」は中国最初の統一国家「秦」に由来すると多くの学者が考えている。日本に「支那語」が入ってきたのは平安時代で、遣唐使の一人として渡った空海の詩にも「支那」が使われている。
決して侮蔑の呼び方でないことを断っておきたい。 |
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2016年06月08日(水) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(166) |
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第9章 支那へ潜入(4)
明治J7年(1884)に勃発した甲申の乱で、隣国清が軍隊を派遣して朝貢国を守ろうとし、さらに同19年には、清が国威高揚を日本に見せつけるため北洋艦隊を長崎に派遣するなど、東アジアでは各国の思惑を秘めた活発な軍事行動が展開された。
同年、朝鮮はフランスとも修好通商条約を結んだ。こうした目まぐるしい情勢の中、同27年(1894)東学党の乱が起きると、清と日本は、ともに朝鮮へ出兵し、そして日清戦争へと発展するのである。
この戦は日本の勝利に終わり翌年、下関条約で清は朝鮮の独立を認め、遼東半島と台湾を日本に割譲した。 |
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2016年06月07日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(165) |
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第9章 支那へ潜入(3)
一方、日本は大陸と結ぶ形の朝鮮半島が、敵対的な大国の支配のままでは、後背地を持たない自国の防衛が脅かされる恐れがあった。
このため、日本は朝鮮を中立国とする条約を各国に締結させ、日本の軍備を増強する必要に迫られた。
日本は朝鮮の近代化を手伝ったが、明治15年(1882)軍政改革に取り残された一部の朝鮮軍人による暴動が発生し(壬午の変)、京城(現在のソウル)の日本公使館が襲撃される事件が起きた。
室町時代中期の1392年から続く李氏朝鮮(1919年滅亡)は、列強から開国を求める圧力に負けて明治13年(1880)元山を開港、同15年にはアメリカ、イギリスと修好通商条約を結ばざるを得なかった。日本の幕末に似ていた。 |
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2016年06月06日(月) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(164) |
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第9章 支那へ潜入(2)
以後、勢力は下降線をたどり、洪水や飢饉などの天災に加え、中央と地方それぞれに権力闘争や官吏の政治的腐敗など人災もあって衰退した。主な動乱、戦争、革命などを述べてみよう。
「清」王朝は1912年(大正元年)まで北京を首都に第12代の皇帝が続いた。日本が絡んだ事件では、朝鮮半島を巡って日清が対立した。
明治12年(1879)長い間、清に朝貢してきた琉球が沖縄県となり、日本の領土になった。さらに、同J7年、清とフランスとの間で清仏戦争となり、清が敗れて、ベトナムがフランスの支配下になた。このため清は最後の有力な朝貢国朝鮮だけは失うまいと、日本を仮想敵国としてみるようになった。 |
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2016年06月05日(日) |
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第10回会津藩士慰霊祭 |
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本日は会津藩士慰霊祭が、記念すべき10回目を迎えた。どうにか”一人前”になった気がする。千葉県富津市竹岡の松翁院で行った慰霊祭には、會津から會津弔霊義会理事長や副市長、東京から會津会副会長に列席して頂き、会員の他、初参加の人も多かった。
千葉県八千代市在住の石神さんは、先祖が會津藩士に嫁いだーと思っていたが、調べたら白河藩士と判明したし、木更津市在住で、福島県喜多方市出身の馬場さんも初参加だ。
何より、會津藩の”武威を讃えて会員の小池さんが「浅山一伝流」の拳法を墓前で奉納してくれたことが参加者の胸を打った。弓術や火術の師範ら猛者ぞろいが静かに眠る墓石の下で、藩士らも感激したに違いない。
本当に記念すべき慰霊祭となった。参加者に多謝! |
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▲本堂前で古武道を奉納する小池さんとお弟子さん |
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2016年06月04日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(163) |
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第9章 支那へ潜入(1)
米西戦争の翌年、明治32年(1899)柴五郎は北京公使館駐在武官として支那へ渡った。3度目の清国勤務である。42歳だった。
翌年、五郎が世界の歴史の舞台に登場するとは、勿論、知る由もなかった。地球は列強の陰謀と戦争の舞台になっており、謀略だけが他国に対する意志であり、侵略だけが国家の欲望だった。
まさに帝国主義の時代であった。その列強は、ここ数十年、清国という死亡寸前の巨象「眠れる獅子」に対して凄まじい食欲を持ち続けた。満州族である女真族が漢民族「明」を制圧して1636年(江戸時代の3代将軍家光時代)に清帝国をつくった。ヌルハチが初代皇帝太祖となり、6代乾隆帝までが最盛期であった。 |
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2016年06月03日(金) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(162) |
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第8章 米西戦争を観戦(11)
このような米西戦争におけるアメリカ陸軍の弱さについては、柴少佐によって日本の陸軍参謀本部に詳しく報告されたーのはいうまでもない。
しかし、奇妙なことに、この19世紀末の報告が、日本軍人のアメリカ陸軍に対する固定観念になり、その後も殆ど修正されることなく続いた。
その後、40年経った20世紀も半ばになって、このアメリカ陸軍を相手に戦争を始めようとした日本軍部は、アメリカ陸軍の知識についてその程度しかなかったのだ。 |
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2016年06月02日(木) |
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第10回会津藩士慰霊祭 |
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平成19年6月に千葉県富津市西川の正珊寺からスタートした會津藩士慰霊祭も今年で10回目となった。5日午後1時半、富津市竹岡の松翁院で法要を行うが、記念として、会員で古武術「浅山一伝流」師範の小池一行さんが、弟子と二人で拳法などを墓前に奉納する。
武術に優れた會津藩士は幕末、樺太防備から始まって江戸湾防備、最終的には京都守護職になって徳川幕府の藩屏になり、破滅への道を歩むのだが、會津の武威を讃えて小池さんが古武術を奉納することに。
これまでにない法要になりそうで、黄泉の藩士もさぞや喜んでくれるに違いない。 |
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2016年06月01日(水) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(161) |
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第8章 米西戦争を観戦(10)
一方、迎え撃つスペイン陸軍の動きも、また不活発だった。時々、勇敢な小部隊の抵抗は試みたが、統一した作戦上の意志は見られず、アメリカ陸軍は敵のそうした弱さによっていくつかの幸運を得た。日露戦争における旅順のロシア軍とは大違いだった。
戦闘が本格的に始まったのは7月1日早朝、アメリカ軍のサンティアゴ進撃開始からだった。
スペイン軍は要塞とは言い難いほど旧式な砲を持っていたが、それでも火砲が少ないアメリカ軍にとっては、途方もなく巨大な敵であり、攻撃の試みは次々と消えた。
小銃と肉弾だけが武器では到底、要塞を陥落させることは不可能だった。アメリカ軍は砲弾が落ちるたびに逃げ惑い、将校は兵をまとめるのに苦労した。 |
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