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2013年06月30日(日) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(27) |
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◇中野竹子(5)
そこで神保修理の妻雪子や平田小蝶らとも遭うことができ、7人になった。照姫がすでに坂下に落ちられたーとの噂を聞いた竹子らは坂下に向かった。しかし、誤報だったことがわかり、再び、鶴ヶ城へ向かうことになった。
途中、高久を経て涙橋付近で、会津藩衝峰隊に出会い、合流することを申し出た。時に8月25日午前11時頃であった。隊長の古屋佐久左衛門は、婦女子を入隊させたとあっては会津武士の名折れとばかりに、いったんは断った。
が、しかし、「女といえども御国の大事に拱手(手をこまねく)してはおられませぬ。お許しがないなら、私どもは、この場で自決します」
と竹子らは口をそろえて入隊を迫った。
やむなく古屋は7人の入隊を許し、これに長岡藩兵を加えた400名ほどの部隊は、間もなく土佐、長州藩兵らと遭遇する。
◇ ◇ ◇
大河ドラマもいよいよ本日から、戊辰戦争のクライマックス、鶴ヶ城攻防戦に突入する。籠城戦を巡って4週連続で放映されるが、視聴率向上は必至だろう。期待したい。が、史実とは異なる場面もあるようで、どんな反響があるか?苦情がないドラマになることを祈る。 |
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2013年06月29日(土) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(26) |
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◇中野竹子(4)
8月23日の早朝、西軍が、会津側の予想より早く若松城下に迫った。「入城せよ」が合図の早鐘が打ち鳴らされた。中野家の婦女子は、かねての手筈通り、髪を結根から3寸(10センチ)ほどで切り落とし、袖丈1尺5寸(45センチ)ばかりの縮綿を着て、義経袴をはいて筋金入りの白鉢巻に白襷できりりと身なりを引き締めてから、大小を差し、薙刀を小脇に抱えて鶴ヶ城へ向かった。
しかし、お城の北門や西門は老幼婦女子が殺到していて城門は固く閉ざされており、竹子らは入城できなかった。
お城に入ったら、容保の義姉照姫の警護をーと思っていただけに、竹子は失望した。同じく入城できずにいた、薙刀の稽古仲間の依田まき子や、その妹菊子、岡村ます子らと一緒になり、河原町口の郭門外に集まった。 |
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2013年06月28日(金) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(25) |
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◇中野竹子(3)
赤岡が大坂御蔵奉行として赴任したのに伴って大坂に移った。赤岡は竹子を甥と結婚させようとしていたが、男勝りの竹子は天下の形勢やら会津藩の行く末など、男子顔負けの義憤に燃えていたので、縁談には目もくれなかった。このため、赤岡家から養子縁組を離縁してもらった。
その後、赤岡は会津に戻り、坂下にいる弟徳五郎の隣で道場を開き、武芸を教えていた。竹子の実父平内も慶応4年(1868)藩主松平容保に従って会津に戻ったが、中野家は会津に屋敷がないので、母娘は一足遅れで若松に帰国し、米代三之丁の田母神金吾(110石)の書院を借りて住んだ。
竹子だけは、赤岡の道場で薙刀の稽古を続け、母の許へ帰ったのは、西軍が城下に迫った8月23日の直前であった。
これより先、竹子は、鳥羽・伏見の敗戦の責めを負って切腹した家老神保修理の妻雪子や依田まき子、岡村ます子、平田小蝶らと薙刀のけいこに励んだが、藩では、家中の婦女子は敵が城下に侵入したら、城内に入るべしーと布令し、白虎隊と同様、前線には出さない方針だった。 |
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2013年06月27日(木) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(24) |
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◇中野竹子(2)
赤岡家には、書物が沢山あり、竹子は大学、中庸、論語などを読み下すまでになった。やがて漢詩や和歌に熱中するようになり、優れた作品が認められるようになった。こうした中で、赤岡は竹子が気に入ってしまい、平内に
「わしの養女に」
と申し入れるに至った。赤岡大助には子供がなかったのである。
竹子も師を尊敬しており、父の勧めもあって赤岡家の養女となることを決めた。竹子17歳であった。竹子は、その後、書の名人佐瀬得所に弟子入りし、みるみる書の腕を上げた。
このため、岡山2万石の藩主板倉摂津守の奥方の祐筆に迎えられ、得意の書を生かした。その一方で、薙刀を黒河内伝五郎に学び、免許皆伝の腕前に上達した。 |
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2013年06月26日(水) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(23) |
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◇中野竹子(1)
男勝りで、長州兵と渡り合い、壮烈な戦死を遂げた中野竹子らを指して「娘子隊」という、おかしな部隊名を付けている郷土史家もいるが、会津藩が女子供まで戦に狩り出した記録はない。会津藩の名誉の為断っておく。
中野竹子は、江戸常詰でお納戸役、11石中野平内と母幸子(こうこ)のもとに嘉永3年(1850)江戸・和田倉の会津藩邸で生まれた。平内は能書家で漢学にも造詣が深かった。母は下野足利藩士生沼喜内の娘。
容姿端麗で和歌をよくし、激しい性格であったが、父母の学問好きの影響を受けて幼児から異彩を発揮した。7,8歳には百人一首を諳んじた、という。
12,3歳の頃、赤岡大助という藩士に巡り合った。赤岡は容保の義姉照姫に薙刀を享受する傍ら、文人としても江戸で知られていた。竹子は赤岡のもとで文武の手ほどきを受け、夢にまで見た照姫との薙刀の稽古が実現した。 |
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2013年06月25日(火) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(22) |
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◇海老名りん(最終回)
夫海老名季昌が会津藩家老として会津の復興を心から願っていたことが、ようやく人々に分かってもらえる日が来たのは、明治30年(1897)若松町が市制施行を目指して結成した若松市制期成同盟会が立ち上がり、第4代町長に迎えられて2年後、彼の努力が多分に功を奏して、若松市の誕生をみたことであろう。
この頃、りんは周りの人々に感謝する日々を送っていた。戊辰戦争で西軍のため、焼け野原になった郭内がほとんど再整備され、家が建ち始めていた。
りんは、明治42年(1909)4月20日、すべてを成し遂げた感謝を神にささげながら神に召された。60歳であった。 |
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2013年06月24日(月) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(21) |
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◇海老名りん(7)
若松に戻ったりんは、教会に所属して慈善事業に活躍するとともに、婦人教育の必要性を説き、協力者を募った。そして明治26年(1893)若松幼稚園の建設にこぎつけた。現在の市役所分庁舎の場所だ。福島県で最初の幼稚園であった。
さらに、女学校の設立にも意欲を燃やし、幼稚園の一角に会津女学校を創立した。現在の県立葵高校である。
私事だが、この幼稚園に亡き母(大正7年生まれ)が通い、小生もまた通った。大正時代に幼稚園に通うことができたのは、一部の者であったろうし、母の自慢でもあった。造り酒屋の宮森家一族だった母の同期生とは、生涯友人であった。
その後、馬場幼稚園となり、現在は若松第1幼稚園である。 |
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2013年06月23日(日) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(20) |
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◇海老名りん(6)
難しい立場にあった夫の苦しみは、そのまま、りんの苦しみであり、彼女がその苦しみからキリスト教の愛の精神に救いを求めたのは頷ける。
後の女子学院長の矢嶋梶子や、熊本女学校を創立した徳富久子らと知り合い、キリスト教に深く関わったりんは、やがて社会活動家として活動することになる。
江戸時代は低かった婦人の地位向上が目下の急務として、教育事業に目を向けたりんは、親友の湯浅初子から譲られた東京・榎坂の幼稚園を芝・麻布に移して共立幼稚園として規模を拡大した。
さらに、保母の勉強をして資格を取ると、郷里・若松に幼稚園と女学校を設立することに余生を捧げる決心をする。明治20年代は、明治政府の教育行政は整っていなかった。殊に、「賊軍」会津への薩長政府の眼は冷たかった。
◇ ◇ ◇
本日は沖縄で第2次世界大戦の慰霊の日。24万人が戦闘に巻き込まれて亡くなった。摩文仁ヶ丘では安倍首相も出席して厳かに戦没者追悼式が行われ、「ノーモア戦争」を誓い合った。
戊辰戦争の会津藩士の戦死者は3000人。しかし、その遺体の多くが路上に半年間も晒されるなど、長州藩への恨みは今も尽きない。 |
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2013年06月22日(土) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(19) |
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◇海老名りん(5)
三島は一躍、東京府参事となり、続いて酒田県令となった。以後、酒田県改め鶴岡県令、山形県令を歴任、明治15年(1882)には福島県令に昇進した。間もなく、悪名高い三方道路建設を強行し、自由民権運動を誘発する。
この三島が海老名季昌を利用したのは、多分に東北地方に根付いた反薩長政権を慰撫するのが目的であったからだろう。海老名一家にとって生活は楽になったが、精神的な苦痛を背負うことになった。
季昌は二等属となり、福島県では1等属に昇進し、郡長を歴任したが、三島の悪政に反抗する人々に冷遇視されるようになった。このため、季昌は職を辞して上京し、再び警視庁に奉職することになった。用途課長である。現在の庶務課長であろう。 |
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2013年06月21日(金) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(18) |
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◇海老名りん(4)
学識が豊かな季昌の出世は目に見えていた。それだけに周囲の羨望と嫉妬心が海老名家の家族を居づらくした。争いを好まない季昌とりんは相談し、三戸を離れることにした。わずか4か月後のことであった。
家族は東京へ移った。目当てもなく上京した一家は、都会での生活にやはり苦しまねばならなかった。季昌は近所の子供らに漢学を教え、りんは裁縫で生計を支えた。
しかし、弟留松の進学の費用や華族の病気治療費、父の手術費用と出費がかさんだ。そのため、季昌は警視庁に努めることにした。仇敵薩摩の支配下にある警視庁、「賊軍」呼ばわりされた屈辱に甘んじなければならなかった。
そうした中で、彼の才能に目をつけた男がいた。薩摩の過激派上がりの三島通庸である。鳥羽・伏見の戦では、小荷駄方を務めたに過ぎぬ男が、維新後、都城で地頭として道路の改修などで名を挙げ、中央に呼ばれたのだ。 |
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2013年06月20日(木) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(17) |
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◇海老名りん(3)
この戦の最中、海老名季昌は家老に抜擢された。会津藩にとって最後の家老だった。季昌は籠城戦で活躍するが、降伏後、責任者の一人として江戸へ送られ、細川家で幽閉された。
りんは再び、孤閨を守り、夫の赦免をひたすら待つしかなかった。若松城下は灰燼に帰し、その上、本州最北端の斗南へ挙藩流刑が決まった。見知らぬ最北の地への移住は筆舌に尽くしがたい、困難が待ち受けていた。
23万石から3万石へ。実質は6千石の収穫しか期待できない酷寒の窮乏生活。生計が成り立たず、多くの人が蝦夷(北海道)へ渡ったり、八戸、三戸など比較的気候のいい土地へ移住を余儀なくされた。
海老名家は三戸へ移ったが、生活は一向に楽にならず、馴れない手で鍬を持ち、土地を耕すことは、武士の家に生まれた婦女子には至難なことだった。
やがて一家に一条の光が射し込んだ。季昌が明治5年(1872)赦免されたのだ。23万石の家老であり、洋行も経験し、蝦夷地の知識もある季昌に、三戸支庁が飛びついた。職員としてすぐに採用された。 |
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2013年06月19日(水) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(16) |
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◇海老名りん(2)
これより前、りんは海老名季昌と結婚した。海老名家は代々重臣の家系で、上士に属して石高は300石。季昌の父季久が軍事奉行を務めて江戸に在勤していたため、若松城下に家はなく、江戸へ嫁いだ。
季昌は、父が北辺防備のため安政6年(1859)から5年間、蝦夷に駐留、その後、文久3年(1863)家督を継いだ。この間、江戸湾防備で上総国竹岡陣屋(現富津市竹岡)に駐留し、藩主松平容保の京都守護職就任で大番組頭となって上洛した。
その後、徳川昭武の欧米視察に同行するが、幕末の急変は彼を日本へ呼び戻し、鳥羽・伏見の戦に参戦したが、負傷して江戸へ引き上げてきた。
りんは、留守宅を守っていたが、容保が若松へ引き揚げるのに従って海老名家も若松へ。しかし、若松には家がないため、親類の家に寄宿するしかなかった。それも半年余りで慶応4年(18688)8月、西軍の若松城下への侵攻を迎えた。すでに、同年7月の白河城攻防戦で父季久は負傷、自刃して果てた。 |
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2013年06月18日(火) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(15) |
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◇海老名りん(1849〜1909)(1)
幼児教育と女子教育の母ーとして知られる女性。会津藩士日向新介の息女。慶応4年(1868)の戊辰戦争では20歳だった。
8月23日の朝、西軍城下に迫るーの早鐘で鶴ヶ城に入ろうとしたが、病気の父の看護のため入城できず、薙刀を抱え、襷袴姿で父を介護し、家族とともに高田へ落ちた。
城下での激戦から籠城戦という厳しい現実に直面して、藩士の子女は誰しも死を覚悟した。りんは辞世の句をしたためた。
「君の為 思う心は果たさねど
おくれず行かん 死出の山道」
悲壮感あふれる辞世は、代々藩士である家柄の伝統的忠誠心の現れであった。 |
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2013年06月17日(月) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(14) |
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◇山川捨松(最終回)
大山元帥夫人として捨松の奉仕活動は、日本赤十字婦人会の設立の発起人であり、日露戦争では、銃後の愛国婦人会理事としての活動など、枚挙にいとまがない。
また、親友津田梅子の英語塾経営にも援助を惜しまなかった。やがて、津田塾女子大の誕生につながる。
夫巌が亡くなったのは大正5年(1916)、それに遅れること3年、大正8年2月18日、捨松は、当時、世界中に蔓延したスペイン風邪を患って亡くなった。享年60。波乱に富んだ人生であった。
山川邸は郭内二之丁にあり、現在はわが母校市立二中の校門そばだ。古い赤門柱は、旧日本陸軍歩兵第六五連隊の名残だ。山川兄弟の案内板が立っている。
また近くには、憲兵隊が使用した大きな倉庫が遺物として残る。近代遺産として文化財になるのではないかーと故大塚実氏が語っていたのを思い出す。 |
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2013年06月16日(日) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(13) |
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◇山川捨松(5)
大山巌がある席で捨松を見初めた、というのだ。だが、兄健次郎は猛烈に反対した。
「会津にとって仇敵である薩摩に嫁にやれるか」と。
しかし、捨松にとってみれば、今を時めく大山の妻になることで、思い切ったことができるのではーと希望を抱いたに違いない。
因習の打破と女性の地位向上に尽くすことができるのだ。彼女は大山夫人になることを決意した。大山元帥夫人として捨松は、文明国への発展に少なからず寄与することになる。
欧米に追い付けーと建設された鹿鳴館での毎夜の舞踏会での華々しい活躍で「鹿鳴館の華」と謳われるのは、それから間もなくである。
◇ ◇ ◇
先頃、会津若松市の副市長へ「會」の旗をプレゼントした。「市長室へ飾って、盛り上がっている会津の雰囲気をさらに盛り上げて」との意味を込めた。
副市長から、「喜んで活用させてもらます」とお礼の手紙が来た。どうぞ、市民の方は、市長室を覗いてください。 |
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2013年06月15日(土) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(12) |
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◇山川捨松(4)
聡明な捨松は学業においても目覚ましかった。7年後、名門女子大ブァッサー・カレッジに入学するや、めきめきと才能を伸ばした。成績は常にトップで、2年生の時、クラス委員に選ばれた。
卒業式では、卒業生代表として堂々と英語でスピーチした。演題は「日本に対する英国の外交政策」であった。
ニューヨーク・タイムス紙は、捨松のスピーチを絶賛し、次のように論評した。「彼女の論旨は的確に将来を予見した素晴らしいものだ。完璧なまでに英国の保守主義的政策を理解し、アメリカの自由と友愛の精神に惜しみない賛辞を贈っている」と。
捨松は梅子とともに明治15年(1882)11月、帰国した。実に11年ぶりの祖国だった。しかし、明治政府は、新しい知識を身に付けた彼女を遇することを知らなかった。捨松が仕事をする場所はなかった。
落ち込んでいた捨松のところへ、突如、大山巌との縁談が持ち上がった。 |
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2013年06月14日(金) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(11) |
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◇山川捨松(3)
コメもろくに穫れない、途端の苦しみが続く山川一家に、一条の光がともった。兄健次郎のアメリカ留学が決まったのだ。日本人初の理学博士の肩書を得て健次郎は、やがて東京帝国大学総長を務め、京都帝大、九州帝大の総長も務めるなど、日本の近代教育の草分け的な存在となった。
捨松はー。2年後の明治4年(1871)岩倉具視を全権大使とする欧米視察団が編成され、新日本の発展のため婦女子にも新しい教育を、ということで、全国から5人の少女が選ばれた。
11歳の捨松が選ばれた。最も若い津田梅子(津田塾大学の創始者)は9歳であった。出発直前、母艶(歌号唐衣)は咲子を捨松に名を変えた。万里の波濤を越えて渡米することは、危険度からいっても現代の比ではなく、1か月もかかるため、艶は咲子を「捨てたつもり」で捨松に決めたのだ。
5人のうち、2人は発病して半年後に帰国、残った3人は、捨松と梅子、それに静岡出身の永井繁子だった。
捨松は健次郎の紹介で、ニューヘブンのO・ベーコンという牧師の家にホームステイすることになった。愛らしく、利発な捨松はベーコン夫妻の実の子のように教育された。 |
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2013年06月13日(木) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(10) |
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◇山川捨松(2)
武装ー恭順という二律背反の士道は、錦旗をかざし、会津討伐を目指す薩長軍に通じるはずはなかった。武士の情けを知らぬ百姓、町人の部隊の私的報復は、会津藩主従を、会津の山河を血と砲煙で席巻せねば収まらなかった。
若き家老としての山川大蔵の日光口防衛総督としての活躍も、幕臣大鳥圭介の愚かさから拇成峠を破られては、如何ともする術はなかった。
鶴ヶ城は孤立した。1か月に及ぶ籠城戦で、捨松は母や姉らと弾薬を運んだり、負傷者の手当てに奔走した。城内に砲弾が落ち、天主閣にも命中して城内は阿修羅の様相を帯びた。
砲弾は1日、2千数百発も撃ち込まれた。城の東南、小田山の中腹から発射された。敵方の指揮官は薩摩藩の大山巌であった。後に、彼が自分の夫になろうとは、夢にも思わなかった。
会津藩降伏、開城そして本州最北端の斗南へ挙藩流刑され、山川一家も同道する。大蔵改め浩は、斗南藩参事となって藩士の先頭に立って再起に尽くす。 |
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2013年06月12日(水) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(9) |
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◇山川捨松(1)
ご存じ、鹿鳴館の華と謳われた明治時代を代表する女性の一人。本名は咲子。会津藩家老山川尚江の娘として万延元年(1860)、江戸の桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺される前月に生まれた。騒然とした時代の女性として、また近代日本の先駆的人物として運命づけられたのかもしれない。
生まれて間もなく、父が亡くなったため、祖父重英の教育を受け、長兄大蔵(後に浩ー陸軍少将)、長姉二葉(御茶ノ水女子高等師範学校の舎監)、すぐ上の健次郎(初代東京帝国大学総長)らすぐれた兄弟姉妹に囲まれて育った。
捨松が8歳の時、藩主松平容保は鳥羽・伏見の戦で敗れ、江戸へ引き上げてからは徳川慶喜の冷たい仕打ちを受け、悄然として若松へ戻ってきた。会津藩が朝敵として薩長軍の攻撃にさらされることを意味していた。 |
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2013年06月11日(火) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(8) |
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◇新島八重(最終回)
八重が社会福祉活動の何たるかを身を以て示したことで、多くの後進が育ったのは紛れもない事実である。彼女が美しい人生の役目を終えたのは、昭和7年(1932)6月14日。新島八重は安らかな表情で天国に召された。86歳であった。
彼女は京都市左京区鹿ケ谷の同志社墓地に襄とともに眠っている。鳥羽・伏見の戦(1868)で亡くなった弟三郎、明治25年(1892)死去した兄覚馬、さらに両親も一緒だ。
会津若松市慶山の大龍寺には、山本家の先祖の墓があり、八重は亡くなる前年に点在していた墓地を1か所に集めて合葬した。墓石には。「昭和6年9月合葬 山本権八女、京都市 新島八重建立、87歳」と刻まれている。
最後に、大河ドラマのバックに登場する桜、「石部桜」を紹介する。会津5桜の一つで、会津若松市一箕町の旧滝沢街道沿いにある。会津の領主だった蘆名氏の重臣、石部治郎太夫の庭にあった遺愛の樹だ。樹齢推定6百数十年。種類は エドヒガン |
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2013年06月10日(月) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(7) |
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◇新島八重(7)
この勲功が日本赤十字の発展と、篤志看護婦たちの励みになったのは、いうまでもない。八重は勲功に甘んじることなく、看護学を学び、後進の指導にあたり、倦むことを知らなかった。
そして明治37年(1904)日露戦争が勃発するや再び看護活動に会員を率いて大阪の予備病院で負傷兵の看護にあたった。すでに59歳になっていたが、奉仕の精神は少しの衰えもなかった。
八重は社会奉仕のために余生を送ることで襄の精神を継承する歓びを得ていた。そして戦いに傷ついた人々を救護するたびに、若き日の鶴ヶ城の砲声と銃弾の日々を思い出したことだろう。 |
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2013年06月09日(日) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(6) |
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◇新島八重(6)
こうして現在の同志社大学の基礎は出来上がり、引き続き新島夫妻の涙ぐましい努力が続けられた。愛と信仰と理想に結ばれた夫妻は10年の後、襄の病気で暗い翳りを知り、その3年後の明治23年(1890)1月、襄の死を迎える。
亡くなったのは保養先の神奈川県湘南の大磯の宿で、襄は八重の左腕を枕にして天国に召された。結婚生活は13年で終わりを告げた。
その3か月後、八重は日本赤十字社の正社員となった。八重は、その前から、日赤篤志看護婦人会に入っていた。当時の貴婦人29名が発起人となって設立された組織であった。
明治27年(1894)日清戦争がはじまると、八重は篤志看護婦人会の20名を引き連れて広島の予備病院に駆けつけ、負傷兵の看護に尽くした。翌年、功績が認められて八重に日赤終身社員証が与えられた。さらに、29年12月には、勲七等宝冠章が授与された。
明治に叙勲制度ができて初めて補正に与えられた勲章だった。こうした献身的な看護活動は、戊辰戦争の籠城戦で続けた活動の延長であったのだ。 |
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2013年06月08日(土) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(5) |
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◇新島八重(5)
さて、八重の最初の夫、川崎尚之助だが、会津藩士に取り立てられた尚之助は、籠城戦を戦い抜いた後、本州最北端斗南へ流刑される。藩士の生活困窮を救おうと柴五郎(後の陸軍大将)の長兄太一郎とともに食料調達にあたるが、詐欺に遭い長く裁判沙汰になる。
明治4年(1871)廃藩置県により江戸(東京)へ出るが、明治8年(1875)3月、肺炎で死亡する。
再び舞台は京都。京都府知事槇村正直は、寺院側の同志社英学校排斥運動に呼応したかのように、襄と婚約した八重を府職員から解雇した。逆境にめげず、二人は明治9年、結婚する。
その前夜、八重は洗礼を受けた。キリスト教への異常な迫害が続く京都での八重の決断は、当時の日本女性としても注目されたに違いない。後に救世軍で知られる山室軍平は、八重の勇気と大いなる愛について話している。
「会津籠城中に発揮したと同じ女丈夫の精神なり」
と。 |
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2013年06月07日(金) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(4) |
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◇新島八重(4)
襄は覚馬に対してキリスト教英学校設立について熱心に、熱く説得した。その熱意に打たれた覚馬は、6000坪(1万8千平方メートル)の敷地をそっくり提供することにした。
ところが意外なところから反対運動が起きた。何しろ京都は千年王城の地。天台宗叡山はじめとする大小の寺院で構成されている仏都であり、殊に隣接地は広大な相国寺であったのである。これらが団結して猛烈な反対運動を展開した。
が、しかし、覚馬は宣教師ディブヒィスとともに「同志社」を結成して襄に協力した。むろん、八重も兄に賛同して協力を申し出た。
信仰心と洋行帰りの新しい知識を身に付けた蕘は、まさに先駆的な男性であり、八重の心を動かしたのだろう。
一方で、スペンサー銃を担いで西軍と戦った八重の勇気や、籠城戦の悪臭の中で負傷者を手当てして奮戦した「愛と犠牲的精神」は、蕘が求める女性そのものであった。二人の魂は、運命的必然で相寄り、結ばれてゆく。 |
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2013年06月06日(木) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(3) |
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◇新島八重(3)
覚馬は、新生日本の政治、経済、教育、外交などあらゆる分野について示唆した論文を提出した。含蓄の深さと的確な指針は、江戸時代260藩のうちで最も高かった会津藩の教育水準と覚馬の英才ぶりを物語っている。
論文は、覚馬が盲目となっていた時のものであったことに驚かされる。覚馬が口述し、八重が筆記して手伝ったと思われ、これが八重に、当時の女性としては飛びぬけた学問を身に付けさせた。
間もなく、八重は京都府の職員として採用され、女紅場の出頭女(教師)として勤務する。女紅場とは、紅という字で象徴される女性の教養を身に付ける場所で、後の府立第一高女の前進である。当時は、華族や士族の婦女子が学生であった。
この頃、10年間のアメリカ留学から帰国した新島襄がキリスト教による英学校設立の理念に燃えて土地を探していた。かつて薩摩藩邸だった敷地に目を付けた新島は、その管理者だった覚馬のもとへやってきた。 |
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2013年06月05日(水) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(2) |
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◇新島八重(2)
八重が鶴ヶ城の籠城戦で鉄砲を担いで戦ったのは、一つには兄覚馬になり代わってのことと思われる。覚馬は鳥羽・伏見の戦で負傷して西軍に捕まり、牢に押し込められていた。さらに弟三郎は戦死し、敵討ちの覚悟もあった。
会津藩は9月22日、降伏、開城し、越後高田や松代などに捕虜として送られたのちに、明治4年(1871)、本州最北端の斗南(現在はむつ市)に挙藩流刑される。八重の最初の夫川崎尚之助も藩士らと行動を共にするが、女性である八重は兄覚馬を頼って京へ出る。
そのころ、失明寸前の覚馬は牢内にありながら、旺盛な知識欲をみせて、内外の書を読破し、蘭学、医学までに及んだ。
その学殖と経世の才は府知事の認めるところとなった。釈放後、乞われて府議会に出て副議長として活躍するのである。 |
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2013年06月04日(火) |
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幕末維新に燃えた会津の女たち(1) |
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◇新島八重(1)
本日から、戊辰戦争前後に活躍した会津の女性を取り上げる。トップは只今、大河ドラマで活躍中の山本(新島)八重だ。テレビを追いかけて、急ピッチで進める。
武田信玄の子孫といわれる会津藩砲術指南、山本権八の三女として生まれ、幼い時から男勝りの性格で13歳の頃には、四斗俵(60キロ)を何度も持ち上げる力自慢であった。
戊辰戦争時は23歳で、美貌ながら兄覚馬について砲術を稽古し、白虎隊の少年らに鉄砲の扱い方を教えていた。
板垣退助率いる西軍が鶴ヶ城城下に攻め入った時、会津藩の主力は国境防備のため不在で、八重はスペンサー銃を担いで入場した。
籠城戦では、腕にものを言わせて西軍を撃ちまくり、一方で負傷者の介護や老人の世話にかいがいしく立ち振る舞った。
1か月の籠城の末、会津藩は降伏、開城するが、退去するに際して八重は
「明日の夜は何国(いずれ)の誰かながむらん、なれし御城に残す月影」
という句を白壁に刻み込んで、忠君愛国の精神を胸に秘めた。
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長岡藩家老河井継之助の物語はしばらく休載する。 |
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2013年06月03日(月) |
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閑話 |
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昨日の会津藩士慰霊祭は天気にも恵まれ、成功裏に終わることができた。関係者に感謝申し上げる。これからは、荒れ放題、放置され放題の正珊寺の墓地をどのようにして改葬にもっていくかだ。
ところで、大河ドラマで、歴史の彼方へ追いやられてきた会津藩が真正面から取り上げられている。これから戊辰戦争の中心へ突き進み、会津藩が降伏、開城するのは7月末だという。
この戊辰の役を偲んで会津若松市では、これまでに「戊辰50年祭」を大正6年(1917)8月23日に、「戊辰90年祭」を昭和32年(1957)9月22日、「戊辰百年祭」を昭和40年(1965)9月23日に行ってきた。
百年祭では、市民会館に秩父宮妃殿下をお招きして盛大に式典を行い、会津関係者だけでなく、鹿児島、山口両県の関係者、例えば西郷隆盛の子孫などの話「過去を引きずらず、将来を見据えて」などを掲載した小冊子を発行した。戊辰戦争の簡単な経緯も載せており、今でも貴重な史料である。
次の節目「戊辰150年祭」は平成29年(2017)である。小生はいろいろ考えているが、はたして会津若松市では、先のことを見通して考えるご仁がいるか? |
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2013年06月02日(日) |
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慰霊祭 |
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本日は、千葉県富津市の長秀寺で第7回会津藩士の慰霊祭を行った。会津若松市から田辺賢行副市長、会津弔霊義会の大橋寛一監事、地元富津市の佐久間清治市長、会津会の福田のぶ子副会長、三浦半島会津藩士顕彰会の柳沼国守幹事ら来賓のほか房総半島会津藩士顕彰会の河野十四生会長ら会員併せて30人が出席。法要の後、本堂前の無縁塔に眠る会津藩士11名の墓前に献花、焼香した。
続いて、近くの正珊寺も回り、25基に眠る32名の会津藩士の墓石の多くが倒れた状態の墓地で献花した。中でも、初参加した東京都江東区の辰野一郎さんは先祖の辰野央信の墓石が倒れたままの姿に「言葉もありません。これほどとは〜」と絶句していた。
この後、近くの富津岬荘で「斎」を行い、田辺副市長が「大河ドラマの放映以来、市内は観光客であふれています」とうれしい報告に拍手が起きた。
最後に大河ドラマの各場面で踊る「會」の旗が河野会長から希望者にプレゼントされた。 |
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「會」の旗をプレゼントする河野会長(右) |
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2013年06月01日(土) |
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北越戊辰戦争(93) |
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一方、家族の動向だが、只見から黒谷辺りまでの農家に分宿していた4000人の老人と婦女子は数日後には、若松へ向かうことになる。家族の中には、滞在中に命を落とす人もいたようだ。
楢戸村の記録によると、508人が分散宿泊しているが、名簿の末尾に「2人死去」とあり、しかも名前も墓も不明だ。哀れを誘う。
また子供連れの逃避行に、前途の望み失って、泣く泣く、子供を預けてゆく者もいた。松谷峰太郎は当時8歳で、黒谷字沖の吉津家(現在は吉津栄氏)に預けられた。
峰太郎は長岡城下中間町53番地、士族松谷満蔵の次男で、万延元年(1860)生まれ。楢戸村の記録に「松谷満蔵 家族3人」と記されている。
その後、峰太郎は吉津家で育てられ、後年、養子縁組して吉津姓を名乗り、「只見の人」になった。船木増蔵の長女きちと結婚、黒谷字白沢に分家して一家をなし、7人の子供に恵まれたという。昭和8年(1933)73歳で亡くなった。 |
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