河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2016年02月29日(月) 不撓不屈の武士・柴五郎(85)
      第5章 生い立ち(3)
 薩摩藩の場合、琉球(沖縄)を経由して中国との密貿易で飛躍的に財政が豊かになるなど、西国の雄藩との地政学的な違いはあるにせよ、奥州の「山国」だった會津藩の泣き所であった。
 ただ、會津藩でも江戸中期、特産の会津漆器や會津絹、會津蝋燭などの改良を行ったが、改革を主導するのは世襲の重臣であり、下士や町人を抜擢して「全権を委ねる」こともなく、相変わらずコメ中心の経済だった。
 幕末、東洋に対する欧米各国の侵略が激しくなり、我が国にもロシア、イギリス、フランス、アメリカの軍艦が相次いで来航し、開国を要求してきた。
2016年02月28日(日) 不撓不屈の武士・柴五郎(84)
      第5章 生い立ち(2)
 興味を引くのは金銭面である。年に1回、真夏の鎮守諏訪神社の祭礼の時だけ、お金を使うのを許されたが、支払いは、自ら勘定して渡すのではなく、必ず金が入った銭入れをそっくり商人に渡した、という徹底ぶり。
 江戸中期から、大坂を核に貨幣経済が発展し、経済は商人(カネ)が握るようになったが、會津藩では、旧態依然としてコメ中心の経済だったため武士は「貴穀賤金」として「カネは賤しいもの」と扱っていた。
 長州藩や薩摩藩が苦しい台所を改善するため、家禄の低い武士や町人を抜擢して藩の財政を一任し、やがて軍備拡張の資金まで積み上げたのに比べ、會津藩は経済的には大きく立ち遅れた。
2016年02月27日(土) 不撓不屈の武士・柴五郎(83)
      第5章 生い立ち(1)
 五郎は、會津藩士柴佐多蔵の五男として安政6年(1859)、鶴ヶ城郭内二之丁の屋敷で産声を上げた。長男太一郎、次男謙介、三男五三郎、四男四朗、姉妹は長女かよを頭に6人を数える大家族だった。
 佐多蔵は280石の御物頭(隊長)の上士で、厳格な性格ながら、子煩悩であった。母ふじは、躾に厳しい女性で、”賢婦人”として知られ、五郎の躾は母親から授けられた。
 後年、五郎は
「楠正成親子の話など、みな母から教えられ、今なお口にすれば、懐かしい母の膝の温かみを感じて思慕の情やるかたなし」
と述懐している。
 寒い時でも手は懐に入れず、夏の暑い時でも扇子は使わず、肌をむやみに見せないのが武士の嗜みであり、道を通る時は、目上の人に譲って左側により、家の出入りには門の敷居を踏まず、真ん中を通ってはいけないーなど、細かなことまで教えられた。
2016年02月26日(金) 不撓不屈の武士・柴五郎(82)
      第4章 「コロネル・シバ」世界へ打電(10)
 柴五郎は、都合3度、清国に駐在武官やスパイとして滞在し、「支那」という国を知り尽くしていた。 
 昭和になって変質した日本陸軍を見てはいられなかった。例えば、「馬賊」についてだが、
「馬賊の指導者は、日露戦争でも満州国建設でも日支事変でも、日本軍を信じて協力してくれたのに、挙句の果てに、報いるどころか、匪賊の名を冠して討伐してしまった」
と、日本軍の非を認めている。
 義和団事件では、柴らしい、生真面目なエピソードが残っている。紫禁城を包囲した義和団からの攻撃に応戦して居た時、遠巻きに傍観していた清国正規軍が籠城軍を牽制するため、射程内に近づくことがあった。
 ある時、籠城軍が誤って射撃し、正規軍に負傷者が出た。このような場合、正規軍の「不注意」で片づけるはずだったが、柴五郎は違っていた。
 白旗を掲げた軍使を派遣して正規軍に謝罪したのだ。いつも細かな配慮を忘れない柴五郎であった。常に冷静に判断して沈着に行動した。
2016年02月25日(木) 不撓不屈の武士・柴五郎(81)
      第4章 「コロネル・シバ」世界へ打電(9)
 柴五郎は太平洋戦争について、生前、厳しい批判をしていた。
「中国という国は、決して鉄砲だけで片付く国ではありません。中国人は信用と面子を尊びます。それなのに、日本は彼等の信用を幾たびも裏切ったし、面子も汚した。大東亜共栄圏の建設など、口で唱えても、彼等は付いてこない」
 これだけでは収まらない。
「中国は友として付き合う国で、決して敵に回してはいけません」
と、その後の日本の在り方まで教えている。だが、その後、中国が共産党独裁国家となり、海外から”嫌われる”海賊国家"となるとは想像できなかった。
     ◇   ◇   ◇
 本日、千葉市に初雪が降った。目の前の公園の木々が一面、真っ白に。数年ぶりか?それにしても、日の出と共に消えていった。まさに”淡雪”だった。
 今冬一番の寒さが2月下旬にくることは!寒さで散歩は中止。
2016年02月24日(水) 不撓不屈の武士・柴五郎(80)
      第4章 「コロネル・シバ」世界へ打電(8)
 柴五郎が生きた明治時代は、やがて大正、昭和へと移ったが、日本陸軍が武士道精神を失って堕落し、世界大戦へ突っ込んでいったかを、五郎は『ある明治人の記録』の中に記している。
 これについては、元お茶の水女子大教授の藤原正彦氏も
「日露戦争後、日本陸軍は高慢になり、大東亜戦争での将軍たちの品性は堕ち、武士道精神は衰退していった」
と指摘している。
 太平洋戦争緒戦の昭和J7年(1942)の秋、五郎は
「この戦争は負けです」
と確信をもって言い放った。
 「敗者への労り」さえもなくなった昭和の軍人らの堕落ぶりを見るに忍び難いものがあったに違いない。
2016年02月23日(火) 不撓不屈の武士・柴五郎(79)
      第4章 「コロネル・シバ」世界へ打電(7)
 昭和16年(1941)12月8日、帝国連合艦隊が真珠湾攻撃を挙行して太平洋戦争に突入した。この時、柴は「この戦争は負ける」と断言した。アメリカの強大な力を知っていたからだ。
 昭和20年(1945)8月15日、太平洋戦争終戦(敗戦)。9月15日、兄太一郎が旧會津藩主・松平容保から拝領した双州綱広の脇差で割腹自決を図ったが、一命をとりとめた。
 医師に「自決」は口止めし、公表されなかったが、9月25日の日記には
「毎日のラジオ、新聞に意気を同じうするとみられる陸海軍将官の自刃相次ぐを見、自己の老朽衰弱のためとは言いながら、気概なきを恥ず」
と記した。よほど、自決失敗が無念だったに違いない。
 同年12月13日、永眠。87歳の波乱に富んだ人生だった。
写真は恵林寺墓地にある柴五郎の墓
2016年02月22日(月) 不撓不屈の武士・柴五郎(78)
      第4章 「コロネル・シバ」世界へ打電(6)
 このような世界的に人気のある柴五郎が會津人初の陸軍大将に上り詰めるのも時間の問題だった。
 大正2年(1913)陸軍中将に昇進し、第12師団長として小倉に赴任、同6年5月、勲一等瑞宝章を受章した。
 翌7年、東京・衛戍総督に就任、「長の陸軍、薩の海軍」といわれた門閥時代にあって大正8年(1919)遂に陸軍大将に上り詰めた。
 11月には台湾軍司令官として赴任し、同10年軍事参議官に。61歳だった。そして同12年、63歳の定年で予備役を仰せつかった。
 この後は、明治45年(1912)に購入した東京・玉川村上野毛の邸宅で晩年を過ごした。毎年夏には、菩提寺である會津若松市御山の恵倫寺を別荘代わりに宿泊し、祖母や母、姉妹が眠る墓地を守った。
2016年02月21日(日) 不撓不屈の武士・柴五郎(77)
      第4章 「コロネル・シバ」世界へ打電(5)
 柴五郎はイスの暖まる間もなく、イギリスのエドワード7世の招待を受けてスコットランドのバルモラー離宮で5日間を過ごし、イギリス皇太子や首相らが国を挙げて柴を歓待した。
 北京籠城における「コロネル・シバ」への心からなる感謝の気持ちだった。帰国に際してエドワード7世は
「日本の皇帝陛下によろしく申し上げてほしい」
と伝言まで言づけた。一平民の身分でイギリス王室に、このようなもてなしを受けた日本人は空前絶後だった。
     ◇   ◇   ◇
 札幌市に住む元白虎隊士「狩野萩之進」のお孫さんから手紙をいただいた。お孫さん、といっても84歳の高齢者。萩之進はNHK大河ドラマ「獅子の時代」にも登場した他、小説でも活躍したー剣術の達人。
 ネットから小生に辿り着いたのではなく、地元新聞に歴史春秋社の広告が掲載されて分かったらしい。それにしても、思いがけない人からの手紙には驚かされる。
2016年02月20日(土) 不撓不屈の武士・柴五郎(76)
      第4章 「コロネル・シバ」世界へ打電(4)
 翌明治38年(1905)、五郎は日露戦争における支那の奉天会戦で頭部に敵弾を受けて負傷した。野戦砲兵第15連隊長だった。
 治療のため帰国し、翌年5月、イギリス大使館付駐在武官となり、勲2等金鵄勲章を授与された。大使は北京で一緒だった小村寿太郎だった。同40年、陸軍少将へ昇進した。イギリスには2年間駐在し、帰国後、重砲第2旅団長に就任した。
 「賊徒・會津」の出身だけに、せいぜい大佐どまりだろうといわれていたが、遂に将官に任じられた。望外の嬉しさだったに違いない。
 間もなく、第12師団長になり(大正2年)、中将へ昇進、そして東京衛戍総督になった。49歳になっていた。
2016年02月19日(金) 不撓不屈の武士・柴五郎(75)
      第4章 「コロネル・シバ」世界へ打電(3)
 逆賊・會津の子ではなく、日本帝国陸軍の栄光を担う高級士官の一員となった。
「父上、母上、これをご覧ください」
 その夜、五郎は一人静かに先祖の位牌に手を合わせて報告し、勲章を見せながら、今日の幸せに浸った。目に涙が光った。
 これより2年前の明治35年(1902)4月、柴五郎は連隊長のままイギリスのエドワード7世の戴冠式に出席する小松宮嘉彬親王の随員として渡欧した。イタリアでは、エマヌエル皇帝から北京籠城の勲章としてサンラサール3等勲章を授与されたのを始め、パリでは、ルペー大統領から金鎖の付いた金時計が贈られた。
 帰途、スペイン皇帝やベルギー皇帝から、それぞれ勲章が贈られ、五郎は、ヨーロッパにおける「顔」となった。
 ロシアでも、首都ペテルブルグで皇帝ニコライ2世からアンナニ2等勲章が授与された。晴れがましい晩餐会が各地で開かれ、華やかな舞踏会の真ん中に立った思いがした。
2016年02月18日(木) 不撓不屈の武士・柴五郎(74)
      第4章 「コロネル・シバ」世界へ打電(2)
 古巣の陸軍参謀本部に戻った柴五郎は、大山巌・参謀総長に伴われて明治天皇に拝謁し、紫禁城籠城戦の経過を奏上し、朝野各方面から望外の大歓迎を受けた。
 引き続き、皇太子や皇族方へ拝謁して歓迎会や講演会が次々、待ち構えていた。柴はすっかり有名人になっていた。ここに「朝敵會津」の汚名は払拭された。
 柴は日本のみならず、イギリスから勲章を受けたのを始め、フランス、ロシア、オーストリア、ドイツ、イタリア、ベルギー、スペインなど多くの国々から勲章を受章され、
「コロネル・シバ」
のニュースは全世界に流された。
 明治37年(1904)野戦砲兵第15連隊長になり、中佐としては異例の金鵄勲章第3等を受賞(2度目)し、て大佐に昇進した。
2016年02月17日(水) 不撓不屈の武士・柴五郎(73)
      第4章 「コロネル・シバ」世界へ打電(1)
 一連の会議で、日本は国際的な信用を獲得し、とりわけ英米の信頼をとりつけるのに成功した。
 明治34年(1901)9月7日、北京議定書の調印式が列国11カ国の公使らが出席して行われた。内容は、
第1条 ドイツ公使ケテラー殺害に対する謝罪特使の対独派遣。
第3条 日本公使館書記生杉山彬に対する謝罪使節の対日派遣。
第5条 清国側責任者の処罰。
などであった。
 これに先立って7月19日、柴五郎は北清事変の戦功によって勲3等を叙し、晴れの金鵄勲章を授与された。これより先の3月19日、柴は北京駐在の任を解かれて帰国していた。2年足らずの北京滞在だったが、
「日本軍は義軍である」
という印象を北京市民に矩ざ見込んだ功績は大きかった。
     ◇   ◇   ◇
 日本政府は16日(現地時間)、ニューヨークの国連本部で開かれた「女子差別撤廃委員会」の対日審議で、外務省の杉山晋晋輔・外務審議官が
「慰安婦の強制連行を裏付ける資料はなかった」
と強調した。
 強制連行があったと捏造した吉田清治(故人)の本を大きく扱った朝日新聞の記事が国際社会に大きく影響したーと説明した。産経新聞が大きく扱っている。が、朝日も毎日もなし。こんな新聞で日本の名誉は守れるのだろうか。
2016年02月16日(火) 不撓不屈の武士・柴五郎(72)
      第3章 北京略奪競争と敗者への労わり(17)
 日本にとっては初の国際会議という晴れの舞台であり、有能な45歳の外交官小村寿太郎が抜擢された。小村はロシアの首都ペテルブルグで駐露公使として活躍していた手腕を買った山形有朋・前首相と伊藤博文首相が推した。
 賠償金の設定、清側責任者の処罰、謝罪使節の派遣、通商条約の改正などを討議した結果、12か条の講和条約案が改定された。
 総理衛門の廃止も要求し、唯一の外交武門として外務部が新設された。慶親王が初代外務部総裁に任命された。
 列国の対清賠償要求額は、ロシア1億8千万円、ドイツ1億3千万円、フランス1億6百万円、イギリス6千5百万円、日本5千万円、アメリカ4千5百万円、イタリア3千万円、総額は6億2千4百万円に上った。
 ロシアは籠城者救援には日本の4割の人数しか出さなかったのに、賠償金は日本の3倍強も要求した。ドイツに至っては、実際には弾は一発も撃っていないのに日本の2倍、ほとんど役に立たなかったフランスさえ日本の2倍だった。
 ただアメリカは良心的で、4千5百万円の賠償金は自国へは送らず、北京図書館や燕京大学建設などの形で清国へ戻し、清国の文化の向上に貢献した。
 列国の要求額を、すべて清国が受け入れ、重税となって清国民の肩にかかった。既に貧しかった清国民の生活はますます苦しくなった。
 清国は日本の寛大な態度に感謝し、科挙廃止の反応もあって清国学生の日本留学が大幅に伸びて、その数は1万、3,4千人にも達した。
2016年02月15日(月) 不撓不屈の武士・柴五郎(71)
      第3章 北京略奪競争と敗者への労わり(16)
 列国と清廷の関係は軍事行動から和平交渉へと舞台は転向した。清廷は講和全権を李鴻章に委任すると発表したが、彼は親露派であることから、慶親王と二人が交渉にあたった。
 李は明治27年(1895)の日清講和条約(下関条約)を清国に不利な条件で締結したーと西太后の怒りを買い、失脚して広東に左遷されていた。しかし、外交交渉では依然として第一人者であった。
 慶親王は明治J7年(1884)から総理衛門の主席大臣として外交面を担当してきた皇族であり、連合軍の北京占領以来、北京郊外に住んでいた。
 9月3日、柴五郎が騎兵1中隊を率いて郊外から北京の邸内に護送し、日本軍が護衛した。
 親露派の李鴻章にはロシアの護衛が付き、両陣営の後押しぶりが露骨に出た。対清講和交渉会議に入るに先立って列国公使会議が11月5日から北京で始まり、8カ国の他、公使館のあったベルギーなど3カ国が加わった。
2016年02月14日(日) おかしいぞ!建国記念日(下)
 しかし、ちょっと立ち止まって考えてみよう。日本はいつ建国したのだろう?歴史上、卑弥呼の時代から日本は植民地だったことは断じてない、世界でも唯一といっていい。”建国”はおかしくないか?
 例えば、アメリカ合衆国。1620年、イギリスからキリスト教徒102人が信仰の自由を求めてメイフラワー号で出航、アメリカのプリマス港に到着して以来、イギリスの植民地だった。その後、安永5年(1776)に独立戦争を勝ち取って独立した。7月4日が建独立念日である。我が国は江戸時代、10代将軍家治時代(老中田沼意次)である。
 とりわけ陸続きのヨーロッパは衰退と隆盛の連続であり、古代ローマ帝国以来、独立国など存在しなかった。それらが独立の国家をなすのは中世からだ。
 世界に誇れる、日本独自の歴史を呼び戻すべきである。賢明な読者の賛同を募るものである。紀元節 復活!
2016年02月13日(土) おかしいぞ!建国記念日(上)
 11日は建国記念日だった。日本はいつ”建国”したのだろう。我が国は古より独立国で、属国や植民地だったことは一度もない。
 この日は、元々は「紀元節」という立派な名前が付いていたのだ。明治新政府は明治5年(1872)、2月11日を神武天皇の即位日として紀元節とし、祝日とした。その他、節句の1月7日を人日の節句、3月3日を上巳の節句、5月5日を端午の節句、7月7日を七夕の節句、9月9日を重陽の節句と決めた。これを5大節句という。
 ところが、第2次大戦の敗戦で、GHQの命令で節句は廃止された。このうち紀元節は「建国記念日」として昭和41年(1966)に復活し、今では、何の意義も感じずに国民の祝日として定着している。
2016年02月12日(金) 不撓不屈の武士・柴五郎(70)
      第3章 北京略奪競争と敗者への労わり(15)
 李鴻章は
「連合軍がきたのは、北京公使館の救助が目的であり、奥地に懲罰遠征軍をを送るためではない」
と抗議する文書を再三、各国公使に送った。
 モリソンも12月27日付けタイムス紙宛て電報で
「ドイツのいわゆる掃討軍は治安を回復するどころか、平和な地域も混乱に陥れるものだった」
と筆法鋭く非難した。
 ヴァルダーゼーの”活躍”は日本でも非難された。明治34年(1901)2月22日付けの時事新報。
「ヴァ元帥が軍事的行動開始の命令を下したる事甚だしく唐突で(中略)列国軍隊の感情を害する事甚だ少なからず(以下略)」
と手厳しい。
2016年02月11日(木) 不撓不屈の武士・柴五郎(69)
      第3章 北京略奪競争と敗者への労わり(14)
 鎮圧は終わっており、ドイツの大軍が命じられた仕事は
「義和団の残党狩り」
を名目に北京周辺を荒し廻ることだった。略奪の限りを尽くし、清国政府所有の財産一切を押さえた。
 モリソンは、ドイツ兵の野蛮行為をタイムス紙の11月23日付けで暴露した。
「ドイツ軍は北京周辺を繰り返し襲っては住民を苦しめている。略奪が目的である。これらの行為はドイツ勲文書では、『軍事行動』と誤った呼び方をしている」
 ヴァルダーゼーは北京周辺の残党狩りでは飽き足らず、遠征軍まで組織して山海地方の村々まで襲撃したため、北清は再び戦闘状態に入った。
     ◇   ◇   ◇
 昨日の衆議院予算委員会で、福島4区選出の小熊慎司議員(結集)が安倍首相を追求した。5年経っても原発の風評被害はなくならず、観光や農産物への被害は大きくなっているーと。
 最後に、會津の銘酒がコンクールで世界一になったことを示し、
「首相がトップセールスで會津の銘酒を世界に売り込め」
と迫った。
 小熊君は會津高校の後輩で、市議時代、歴史的町名復活運動で協力を求めた。トントン拍子で代議士に駆けあがり、国会での活躍もテレビで拝見している。後輩、頑張れ!
2016年02月10日(水) 不撓不屈の武士・柴五郎(68)
      第3章 北京略奪競争と敗者への労わり(13)
 ドイツの割り込み状態について述べる。
 ドイツは支那から遠いため、皇帝カイザー・ウイルヘルム二世がフォン・ヴァルダーゼー伯爵元帥を総指揮官に大軍を派遣したのは籠城が解決した後だった。
 皇帝が、出発前、将兵に与えた訓示は文明国の君主とは思えない激烈な内容だった。
「我等が受けた非道に対して報復せよ。敵を容赦するな。一人として捕虜にせず、ドイツ皇帝の鉄拳を示してやれ」
 ヴァルダーゼーが2万4千名という大軍を率いて北京に到着したのは、北京城開放後、6週間後の7月17日だった。
2016年02月09日(火) 不撓不屈の武士・柴五郎(67)
      第3章 北京略奪競争と敗者への労わり(12)
 柴五郎は一方で、清国の巡査育成にも一肌脱いだ。清国の学生39人を対象に40日間、教科(学科と実技)を行い、修了証書を与えて巡査部門に採用した。
 翌年、柴が帰国してからは、500人を訓練する「警務練習所」が日本軍の指導で、日本の憲兵、将校、下士官らが教官になって開校した。
 明治33年(1900)9月7日、ドイツ公使ケテラー殺しの犯人が捕まった。杉幾多の御手柄だった。犯人がケテラーのイニシャルが入った金時計を着けていたのを目撃し、一緒にいた日本人2人と協力して逮捕したのだ。
 杉は時事新報の初代北京駐在特派員で、籠城中、「張」という支那人と仲良くなり、柴に紹介した。この張が柴の密使として活躍したのは前述した。
2016年02月08日(月) 不撓不屈の武士・柴五郎(66)
      第3章 北京略奪競争と敗者への労わり(11)
 日本軍に略奪や放火などを厳に戒めた柴の教訓は、30年前の戊辰戦争にあった。祖母や母ら一族5人が自決した挙句、家は焼かれ、家財道具は全て山のように積んで奪っていった西軍の百姓兵士らの蛮行を、柴少年は自己の目に焼き付けていた。
 戦闘後の略奪については、古代ローマ帝国の皇帝アウレリアヌス(在位紀元270〜75)は、ドナウ川防衛戦で、前線の兵士に向かって
「ローマ軍の兵士ならば、一般の人々から家畜を奪ったり、いかなる持ち物も強奪してはならない」
と言い残している。
 この教訓の目的は、金目の物を身につけると戦闘が不自由になる、ということではあったのだがー。
2016年02月07日(日) シャープ身売り
 経営再建中のシャープが台湾の鴻海精密工業の傘下に入ることに。国は先端技術が海外に流出するのを畏れ、政府系ファンド・産業革新機構が支援を表明していた。
 しかし、”浪速商人”は7000億円の支援に目がくらんで台湾の企業を選んだ。澎湃は工場の大半が中国国内にあり、会長は中国寄りで有名な人物。
 シャープは液晶テレビなどで一時期、世界をリードしてきたが、韓国の安物に食われて苦戦中。
 先端技術の流出は防ぐーことなどが支援を受け入れる条件だが、子会社にしてしまえば、そんなことは無視だろう。我が国の誇る技術が、海賊国家・支那に流出するのは時間の問題だ。実に嘆かわしい。朝日も読売も、その点を指摘しない。最近の記者の不勉強は嘆かわしい。
2016年02月06日(土) 不撓不屈の武士・柴五郎(65)
      第3章 北京略奪競争と敗者への労わり(10)
 ロシア地区は、どうなっていただろうか。
 ロシア兵は暴徒と化して強姦、略奪の限りを尽くし、虐殺や放火など血腥い事件が頻発した。
 たまりかねた北京市長は8月19日、イギリス公使マクドナルドに
「ロシア兵に男は殺され、女は強姦されている。1日も早く日本軍に受け以てほしい」
と哀願している。
 8月末、柴中佐は、日本軍占領区を二つに分け、それぞれに自治総弁事務公所を置いて、名望家に委嘱して取り締まりや事務にあたらせ、後ろ盾として日本軍憲兵3名を常駐させた。
 この組織作りは、支那の実情を知り尽くし、支那語も堪能な柴ならではの手腕だった。
2016年02月05日(金) 不撓不屈の武士・柴五郎(64)
      第3章 北京略奪競争と敗者への労わり(9)
 日本軍は慶親王の留守宅や他の高官の邸宅も警護した。これに感謝した大臣らは、北京郊外に住む慶親王に密使を送り、日本兵護衛のもとに北京へ戻るよう説得した。
 また日本地区では、義和団員も匿った。兵士と一緒であり、
「降伏した以上、丁寧に扱うべきだ」
とする柴中佐の軍紀が行き届いていた。
 キリスト教徒が大量虐殺されたにも拘わらず、日本人の清国人に対する寛容さが、平和を回復させた原因であったらしく、正義派モリソンを感激させた。
2016年02月04日(木) 不撓不屈の武士・柴五郎(63)
      第3章 北京略奪競争と敗者への労わり(8)
 こうした中にあって紫禁城は破壊と略奪を免れた。北京陥落後の翌8月15日、柴五郎が宮城の3門を押さえ、他の1門をアメリカ軍が押さえたことが幸いした。
 清廷が脱出した後、城内にいた2000名の清国兵が白旗を掲げて降伏した。降伏するよう説得した川島浪速の手柄とされている。
 彼は無血開城後の功績で粛親王と義兄弟の約束を交わし、親王の第14王女(後の川島芳子)を養女として託された。
 さて、列国は大混乱を整理し、秩序を回復するため、紫禁城を除く北京城内を各国受け持ち区域に分割した。日本は東西四脾楼以北で、柴中佐が行政警察担当者に任命された。
 柴は順天府衛門内に軍事警務部門を設けて清国人の協力も受け、秩序回復に努めた。
 この結果、日本の受け持ち区域は北京で最も早く治安が行き渡るようになった。日本軍は、清国大蔵大臣の那桐を始め保護を求めてきた大臣らを匿った。
2016年02月03日(水) 不撓不屈の武士・柴五郎(62)
      第3章 北京略奪競争と敗者への労わり(7)
 豪華絢爛たる宝物を日本軍がいち早く発見し、日章旗を掲げて日本軍占領の表示をして引き揚げたが、その後にやってきたロシア軍が日章旗を無視して宝物を略奪し始めた。
 日本軍の中にはロシアの横暴に
「無視できない」
と主張する者もいたが、
「日章旗には触っていない」
として我慢するしかなかった。
 モリソンは後日、
「ロシアは夏宮殿の組織的略奪を完了した」
と紙面で皮肉った。
 連合軍、清国軍、義和団が入り混じって略奪、放火、殺人、強姦が公然と行われた。
     ◇   ◇   ◇
 昨日、アメリカ・サクラメントの天台宗の住職さんからメールが届いた。明治初めに日本女性として初めてアメリカに渡った「おけい」についてだ。彼女の墓をお参りしたいが、どれか不明ーという内容。墓石に刻まれた名前などを返送したが、ネットは世界を廻るーを実感した!!
 わが會津もまた世界へ、世界へーだ。近く、おけいの足跡をまとめてみたい。
2016年02月02日(火) 不撓不屈の武士・柴五郎(61)
      第3章 北京略奪競争と敗者への労わり(6)
 一方、連合軍の北京到着で紫禁城が危うくなったと判断した西太后と光緒帝は重臣に伴われて西安へ逃走した。
 この西太后だが、満州官吏の娘で、清朝第9代感豊帝の第4側室となり、息子・同治帝をもうけて西太后となった。
 感豊帝没後、清廷の実権を握った。同治帝が急死すると実妹の子を第J1代光緒帝に嫁がせて依然として摂政の地位を継承していた。
 2人の逃亡で北京は無政府状態になった。連合国8か国の軍政が敷かれた中で凄まじい略奪競争が繰り広げられた。解放後、日本軍は直ちに柴中佐の指示で北京城内の清国大蔵省の金庫や米蔵、兵器庫などを、いち早く接収した。
 押収したのは馬蹄金250万両と玄米2万石だった。特に、西太后の夏宮殿を巡って日露のライバル意識がむき出しになった。
2016年02月01日(月) 不撓不屈の武士・柴五郎(60)
      第3章 北京略奪競争と敗者への労わり(5)
 これらの報告を聞きながら、柴五郎は溢れる涙を抑えることができなかった。
 ロンドン・タイムスの特派員モリソンは7月16日の負傷以来、にわか作りのベッドに横たわりながら、苦痛も顧みず、籠城の状況をひたすら書き続けた。108枚、3万語の報告書は籠城が解かれた翌日、タイムス社に郵送され、10月14日と15日のモリソン・レポートになって世界に報道された。
 東京とベルリンで医学を学んだ中川十全が、身の危険も顧みず負傷者の手当てに尽くした事、皆に敬愛された楢原書記官の戦死、臆病なフランス公使など、勿論、柴中佐と部下たちの武勇と軍紀の正しさ、柴の密使のことなども大きく報道された。
 モリソンの生き生きとした記事は欧州人の興味を引きつけた。東の果ての小国・日本のことなど全く知らなかった彼等を”開眼”させたのだ。
 モリソンの記事に呼応して同紙は
「各国を代表する北京駐在外国人で、日本人ほど男らしく奮闘し、任務を全うした国民は他にいない。日本兵が輝かしい武勇と戦術で籠城を持ち堪えたことが、籠城事件として一大特徴だ」
とイギリス世論を親日へ導いた。
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