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2015年05月31日(日) |
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幕末の剣豪 森要蔵(92) |
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白河城を攻防戦の後、會津藩は鶴ヶ城に籠城して戦うが、會津に攻めてきた藩を上げると、長州、薩摩、土佐藩を主力に九州勢、中国勢など34藩にのぼる。
この中には、尾張、紀州両藩の御三家まであるのだ。まさに日本国中が敵なって會津へ攻めてきたことがわかる。にわか作りの錦旗の威力だ。
3万数千人の敵に囲まれながら1か月の間、持ちこたえた。1日に2千数百っ発の砲弾を撃ち込まれながら必死に戦ったのだ。
白河で果てた森要蔵の孫で、講談社の創始者野間清治は、一人息子のため大正14年(1925)東京・音羽の講談社内に「野間道場」を建設した。社員の人格形成のためであった。勿論,恒も汗を流した。
その由緒ある野間道場が同社の再開発で平成19年(2007)取り壊された。同社では要蔵所縁の建物の名残を残すため床板は再利用したが、”消滅”には違いない。
次回から、森要蔵の人となりについて書き込む。 |
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鶴ヶ城に押し寄せた西軍 |
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2015年05月30日(土) |
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幕末の剣豪 森要蔵(91) |
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前述した森要蔵の墓は福島県西郷村の曹洞宗東谷山大龍寺の他に千葉県富津市青木の浄信寺(浄土宗)にもある。要蔵らが飯野藩を脱藩して會津藩救援に向かった際、落ち合った、因縁浅からぬ寺だ。
戊辰戦争の嵐も収まった明治7年(1874)藩士の子弟らが建立した。飯野藩主2代正景の墓の傍に建っている。明治新政府の追及を畏れたか、墓碑名は[森景鎮之墓」と、他人には分からぬように苦心した様子が伺える。
地元frも知っている人は少ない。毎年、住職夫妻がお経を挙げ、献花して居る大龍寺とは、扱いが大きく違う。
無縁墓地同然だった墓を、わが會津藩士顕彰会が6月に富津地区で行う慰霊祭で會津藩士と同じに献花、焼香している。
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◇ ◇ ◇
会津史談会から6月7日の會津藩士慰霊祭の御供えとして金一封が送金されてきた。故三橋正雄さん以来、付き合いが続いている。「會津」とは、こうしたものだ。 |
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2015年05月29日(金) |
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幕末の剣豪 森要蔵(90) |
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野間寅雄はその後、アメリカのフェシング・チームのコーチとしてローマオリンピックに参加した。
後にロサンゼルスに剣道とフェシングの道場を開いて活躍し、日本にも時々帰国して、中央大学の剣道部の顧問などをして子弟を指導した。
寅雄の口癖が残っている
「フェシングは勝だけの時術である。しかし、剣道は己を鍛えるためのものだ」
「アメリカに来て日本人として孤独になることで、武士道を知った」
戦後は証券会社や保険会社のセールスマンとして生活の糧を得た。
しかし、昭和44年(1969)1月8日、ロスの道場で門弟に居合術の指導をしている最中、倒れた。剣を抜いたままの姿勢で亡くなった。54歳の波乱に満ちた人生だった。 |
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2015年05月28日(木) |
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幕末の剣豪 森要蔵(89) |
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早速、クラブの幹部と手合せをした。あっという間に負けた
「斬るのではない。突くのだ」
ダニエルに教えられた。
これがきっかけで寅雄はフエンシングに強い興味を覚えた。剣道の時術をフェンシングに応用して彼自身のフェンシングを磨いたのである。
そして2年後、全米フェンシング大会で優勝する。司馬遼太郎の『余話として』(文春文庫)の中でタイガー・モリ」と綽名された寅雄はやがてアメリカのフェンシング界では知らぬ者がいない人物となり、第2次政界大戦を挟んで収容所暮らしも体験したが、戦後、アメリカ剣道連盟を結成して会長として剣道の普及に努めた。 |
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2015年05月27日(水) |
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幕末の剣豪 森要蔵(88) |
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野間恒は名人と呼ばれたが、この時、恒より強いのでは、といわれたのが従兄弟の野間寅雄であった。
先に戊辰戦争で亡くなった大叔父と同名だが、実は、ふゆが2度目の結婚で産んだ子供だ。本来は森姓だが、野間家に引き取られていたのだ。従兄弟同士で常に剣術の稽古を続けており、お互いの手の内を知り尽くしている間柄だった。
ところが、以外にも寅雄は東京府予選決勝で恒に敗れ、「勝ちを譲ったのでは?」ともいわれた。
その後、寅雄は森姓に戻り、翌昭和9年(1934)アメリカに渡った。サンフランシスコ落ち着いてから、寅雄は師匠も稽古相手もいないまま、独り棒を削って木刀を作り、原っぱで稽古を続けた。
やがて彼の前に親切なアメリカ人が現れた。ダニエル・ソーンという友人が「アメリカにも剣術に似たような剣使いがある。フェンシングというものだ。
市内にあったフェシング道場に連れて行ってくれた。見物するうちに寅雄はやってみたくなった。サーベルを手に取り、振ってみた。釣竿のようにしなう。 |
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2015年05月26日(火) |
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幕末の剣豪 森要蔵(87) |
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森要蔵に続く家系は広く、話題性に富んだ人物が多い。要蔵には三男に女がおり、長女ふゆは、父親譲りの女丈夫だった。3度目の結婚相手飯野藩士野間好雄(前述)との間に生まれた子供が、講談社の創立者野間清治である。
その一人息子野間恒(ひさし)は剣道の名手で、昭和8年(1933)の天覧試合で予選から一本も取られることなく勝ち進み、決勝戦で、香川県代表の藤本選手と立ち会った。
藤本は二刀流で、恒は立ち上がりざまに逆同で一本取られた。恒は騒がず、正攻法で攻め、面を二本連取して価値を収め、晴れの日本一に輝いた。
◇ ◇ ◇
千葉家富津市に陣屋があった飯野藩(2万石)藩主の13代保科正興氏へ6月7日の會津藩士慰霊祭への参加案内を出していたが、昨日、所要あり、欠席ーのハガキが届いた。
會津藩の子藩にあたり、今回は保科藩主2代正景の墓もお参りする。會津と富津の縁結びの礎にしたい、と思っていたが残念だ。何でも思うようにはいかないものである。 |
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2015年05月25日(月) |
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幕末の剣豪 森要蔵(86) |
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さて會津藩救援に向かった飯野藩士のうち、生還したのは勝俣音吉、小野光好、小野悦三郎、野間好雄らである。
會津軍の白河城奪還作戦は、後方を攪乱されたことによって失敗に終わった。この作戦は7月15日にも行われたが、不首尾に終わり、戦場は二本松城攻防へ移る。同盟軍だった三春藩の敵前寝返りで二本松藩は少年隊の悲劇を生みながら全滅し、鶴ヶ城攻防の最終局面を迎える。
明日から、森要蔵の家系について書き込む。話題性のある人物が登場する。
乞う ご期待だ!! |
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2015年05月24日(日) |
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幕末の剣豪 森要蔵(85) |
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川久保は数年後、
「その古跡について、森氏の遺族か門弟らに知らせてやろうと思っていたが、如何せん、職務が忙しく暇がなかった」
と哀しそうに語り、筆を執って
「ちる花の梢はあおれとしかれども にほひはおなじ大和もののふ」
と詠じた。
このような武士の心を持ち合わせていた兵士が官軍の中にもいたが、この後、鶴ヶ城の籠城戦が始まる8月末からの若松城下では、官軍による凄まじい略奪、強姦、殺戮が公然と展開された。
白河で武士道を垣間見せた土佐藩斉武隊も町家の土蔵に「土佐斉武隊分捕り」と略奪を宣言しており、官軍同士で略奪合戦が行われていた。
この土蔵は維新後100年を経た昭和40年代まで残っており、維新時の傷跡は市内各所で見られた。 |
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2015年05月23日(土) |
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幕末の剣豪 森要蔵(84) |
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わが兵士は森要蔵らの首級を射ち、少年の首も討たんとした。しかし、8番隊の隊長は、その少年の勇敢さを褒めて、命があるなら助けてやれ、と命じた。が、如何せん、銃弾は腰部を貫通し、到底助からぬ状態だったので、不便ではあったが首を討った。少年は老人の孫と思わられると説明した。
静かに聞いていた川久保は
「保科氏は、會津藩と本家、郡家の間柄で、森氏は同士を募り脱藩して本家を応援しようと、ここに至ったのでしょう。武士の末路、真に憐れむべきなり」
と呻くように話した。
本陣を辞した川久保は陣営に戻り、森道場の門弟がいたので、これらの経過を話し、
「君たち、子弟の間とはいえ戦で出会えば、之を討たざるを得ない。森らの首は捨てられるだろうから、君らはそれを持って僧侶に頼んで埋葬してもらえ。子弟の道である」
涙ながらに聞いていた兵士らは
「隊長、ありがとうございます」
と感激して首を持ち去り、白河寺町の某住職に金子若干を贈り、森親子と花沢氏らの首級を墓地に埋葬した。 |
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2015年05月22日(金) |
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幕末の剣豪 森要蔵(83) |
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この時、本陣から出頭命令が届き、出向いたところ、、参謀と大監察、小監察らがい並んでいた。その場で、大監察は
「本日の戦闘で8番隊が討ち取った賊徒3名は、将校か、あるいは有名な武士と思う。彼らの言葉は奥州人にあらず、江戸人という報告がある。君は各藩の事情に詳しいので呼んだ」
と川久保に伝えた。
その首級をみた川久保は、旧知の森要蔵の変わり果てた姿に驚いた。
「一人は森要蔵、二人目は次男寅雄。その他は森と同藩の花沢某であります」
と答えた。
監察は、その時の様子を、この老人は日の丸の軍扇で指揮し、賊徒壊敗の時、山間に10数名の兵を集めていたのを我が8番隊が取り囲んで銃撃した。
老人は防戦したが兵は悉く倒れ、老人の傍にいた少年が抜刀して
「おじいさん、斬りこみますよ」
と一声発して、刀を振るって突撃してきた。わが軍が狙撃して少年は倒れた。
老人と、補佐と思しき兵士も突っ込んできたが、わが銃弾で倒れた。 |
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2015年05月21日(木) |
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幕末の剣豪 森要蔵(82) |
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このため森要蔵とは面識があったが、維新の乱が起こり、わしは、東山道先鋒官軍土佐斉武隊司令として戦に従軍し、連戦の後、奥州・白河に在陣した。特に慶応4年7月1日払暁、會津軍が我が藩兵の守備していた城を奪うという情報があった。
わしは、速やかに命令して隊伍を整えて、これを率いて戦場に至った。兵の数は少なし、といえども川を隔てて遠距離から盛んに砲撃してきて進むことができなかった。
しかし、わが軍は頑として退かず、左方の山に吶喊(とっかん)して平地の敵を上から射撃した。
勢いを得たわが軍は川を越えて進撃したので敵は隊伍を乱して敗走した。わしは、隊を率いて追撃して敵の根拠地に到達し、弾薬を若干と兵器を分捕って白河に凱旋した。 |
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2015年05月20日(水) |
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幕末の剣豪 森要蔵(81) |
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昭和12年(1937)の飯野藩士74回忌記念法要には、保科家旧臣の遺族が参加してしめやかに行われた。
森要蔵の孫にあたる講談社社長野間清治氏から欠礼の詫び状が届いた。内藤住職は現在も大切に保管している.
森要蔵尾綾子の戦の闘いぶりは、土佐藩斉武隊司令川久保南皚が後年、妻に語っている。それによると、
━上総国飯野藩主保科弾正忠の臣下に森要蔵という人がいた。千葉周作の門人で、江戸・麻布永坂に道場を構え、撃剣の師範たること十数年、その門弟千余人に及んだという。
森はその流の兵法を極め、人柄は篤実温厚にして、よく人を愛した。武術の師範として尊敬された人物だった。
当時、わしは専ら撃剣の修業をしており、森氏の道場に出向いて試合を申し込んだこともあった。 |
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2015年05月19日(火) |
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幕末の剣豪 森要蔵(80) |
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戊辰戦争から30年後の明治30年(1897)旧熊倉村の村民100人が浄財を出しあって墓石を建立した。
正面に「戦死墓」と刻まれ、右側に「慶応4戌申年7月1日中御代」、左側に「保科旧臣森要蔵 同寅雄、花沢金八郎、小林寅之助、多胡宗三郎」の他、會津藩士斎藤久太郎ら15人の名も刻まれている。
発起人として飯野藩士山崎伊織の名も見える他、會津藩士中村弥九良ら3人、それに旧熊倉村民の酒井鑑之助ら2人の名も。
戊辰戦争のほとぼりが冷めた頃合に飯野藩、會津藩、地元民が協力して建立した。
内藤信光住職と妻秀子さんが季節ごとに花を供えて供養しているが、時折、花を供える村民もおり、内藤住職は
「森要蔵親子が、今もって村民に慕われている証左です。悪くいう人など一人もいませんよ」
と親子の人柄を偲ぶ。 |
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大龍寺墓石 |
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2015年05月18日(月) |
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幕末の剣豪 森要蔵(79) |
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森要蔵の部隊は先頭前の数日間、下羽太の農家橘屋など数か所に宿営したが、農民は會津びいきで、
「おらがのために闘っているんだ」
と、握り飯を出してくれたり、なにくれと身の回りのことを世話してくれた。
数日間での滞在ではあったが、要蔵は村人から慕われた。要蔵は肝に銘じて
「わしの分身と思ってくれ」
と、出撃前夜、橘屋の主人に愛用の脇差を記念に与えた。
官軍の兵士は粗野で、婦女子への乱暴狼藉のし放題だったため各地で畏れられていた。
今日、森要蔵らは福島県西郷村羽太の大竜寺の墓地に保科家家臣3人とともに眠っている。
◇ ◇ ◇
橋下大阪市長が訴え続けた大阪都構想の賛否を問う住民投票で反対が多数を決めた。維新の会最高顧問の橋下市長は政界引退を表明した。江田代表も辞任する。
国会では野党再編が進むだろうし、維新の会の行く末が注目だ。所属議員はヤキモキしているに違いない。 |
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2015年05月17日(日) |
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幕末の剣豪 森要蔵(78) |
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「残念、こんなことで戦に勝てるか!」
歯軋りして悔しがる要蔵。作戦は完全な失敗だった。敵に夜襲をかけるどころか、敵の真ん中に出てしまったのだ。
この戦に臨むにあたって要蔵は、門弟らに話していた。
「どうせ死ぬなら、土佐の間宮の隊へ斬りこんで死にたいものだ」
間宮というのは、森道場の門弟だった。
「わが首を門弟の手柄に」
と思ったのだろう。
その土佐軍の中に要蔵の門弟が2,3人おり、
「あの丘で指揮しているのは、森先生だ」
と気がついた。
「どうしたものか、先生には刃を向けられぬ」
土佐藩兵も悩んでいた。
要蔵親子は敵弾に倒れたが、二人の遺骸は白河城下の墓地に懇ろに葬られた。
◇ ◇ ◇
會津藩士顕彰会の会員石井誠一さんが15日、大動脈解離で急逝された。富津市下飯野の富津陣屋を整備していた「エコトピア保科」のメンバーで、来月7日の會津藩士慰霊祭に参加予定だった。
目標途中で、さぞ残念であったろう。ご冥福を祈る。合掌 |
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2015年05月16日(土) |
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幕末の剣豪 森要蔵(77) |
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すぐにこと切れた。激しい戦闘が続く中で、そこだけが宙に浮いたような静けさだ。森要蔵、享年60であった。
立派な白い顎鬚を蓄えた要蔵の死に際は壮烈だった。要蔵親子の他、花沢金八郎、多古宗三郎、小林寅之助らを失った飯野藩部隊は、その後、脱走する者もあり、8月23日からの鶴ヶ城籠城戦に加わって9月22日の降伏ー開城を迎え、猪苗代へ幽囚の身となった者は、6名だった。
7月1日の戦いで要蔵は
「本日の一戦にて會津の勝敗が決まる。だから夜討ちをかけて先ず、敵の胆を挫け」
と見方を励ました。戦いの重要性を知っていたのだ。
そして夜明け前に案内人をたてて山道を白河へ向かった。が、しかし、案内人が道を間違えてしまい、夜討ちをかける前に夜が明けてしまった。 |
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2015年05月15日(金) |
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幕末の剣豪 森要蔵(76) |
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土佐藩の乾退助(後の板垣退助)は
「名人の二人舞いを見るようであった」
と後々まで語った。
要蔵は土佐藩兵3人を斬り倒したが、味方の損害も大きく、みるみる敵弾に倒れていった。
寅雄は、
「おじいさん、斬りこみますよ」
一言叫ぶと、群がる敵陣の中へ刀をかざして突進していった。たちまち集中砲火を浴びて倒れた。
寅雄は要蔵が高齢になってからの子供だったので、平素から要蔵を
「おじいさん」
と呼んでいた。 門弟大出小一郎も傷ついた。
「もはやこれまで」
覚悟を決めた要蔵は
「森要蔵、これにあり!」
と叫ぶと、残った飯野藩士や門弟らと共に敵陣へ突入していった。
要蔵の前に立ち、要蔵を庇う形になった花沢金八郎が倒れた。
「金八郎っ」
助け上げようと叫んだ要蔵に一発の銃弾が命中した。どっと倒れる要蔵。
「先生!」
「師範!」
門体たちが駆け寄った。
『無念じゃ、後を頼むぞ」
苦しい息の中から絞り出すように必死に叫ぶ。 |
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2015年05月14日(木) |
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幕末の剣豪 森要蔵(75) |
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要蔵の部隊は、大平口を出立し、下羽太から粕野村に進撃して小高い丘に布陣して攻め寄せる土佐軍の攻撃に備えた。
多勢を誇る官軍は、鉄砲を撃ちかけながら攻めてきた。要蔵らは多勢な土佐軍にひるまず応戦した。鉄砲の餌食になって見方が倒れる。
「引くなっ!」
「土佐っぽに後れを取るな」
要蔵は日の丸の軍扇をかざしながら見方を鼓舞する。60歳の老齢とは思えぬ身のこなしだ。
次男寅雄は16歳。白い陣羽織に義経袴をはき、常に先頭に立って戦った。父が危なくなると寅雄が駆けつけ、寅雄が敵に包囲されると要蔵が囲みを破り、親子の連携した闘いぶりは
「まさに蝶が舞うような」
といわれた。
◇ ◇ ◇
巨人軍の原辰徳監督が「政界出馬?」の噂が流れている。11日夜、首相公邸の会食に出席したからだ。甘利経産相も同席したため、神奈川県内の選挙区から次期衆院選での出馬ーの噂が流れた。
後釜は、いきなり松井秀喜か、ワンクッションおいてか。面白い。 |
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2015年05月13日(水) |
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幕末の剣豪 森要蔵(74) |
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會津藩士を先頭に、仙台藩、二本松藩、棚倉藩士が根拠地の大平口を出立して下羽太から粕野(西郷村粕野)に進んで白河城の西に迫り、金勝寺山に野戦砲を据えて砲撃を開始した。砲弾は城内に落ちて大混乱となった。
これに呼応して會津、仙台兵が雷神山から進んで城を攻撃した。
「引け〜」
付近に展開していた官軍はたちまち敗走して立石山に退却した。二本松藩士も追走し、敵味方入り乱れての激戦となった。
この主力の戦闘とは別に、白河城から1里半(6キロ)ほどの羽太村では、官軍の土佐8番隊が會津軍の背後に回って後方攪乱を企てて集落に火をかけたため下羽太を守っていた森要蔵率いる部隊と激突した。
◇ ◇ ◇
注目の大阪都構想を巡る住民投票が17日に迫った。各新聞社の世論調査では反対が賛成を上回っている。どちらも過半数には届いておらず、どうなるか?
否決されたら橋下大阪市長は政界から”引退”を表明している。地盤沈下が続く大坂を盛り上げるには、それなりに”光”を発する准物が必要なのだが〜。 |
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2015年05月12日(火) |
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幕末の剣豪 森要蔵(73) |
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慶応4年6月25日、會津軍は第5次白河城奪還作戦を行った。しかし、銃器の新、旧式の差は大きく、またも作戦は失敗する。會津軍は白河城奪回を捨てたわけではなかった。
「どうしても奪い返すのだ」
を合言葉に6月27日、作戦会議を開いた。
「各対がバラバラではだめだ!」
「われ等こそ、先陣を切って突入する」
意見はまとまらなかった。指揮官がいなかったからだ。そうして7月1日の朝を迎えた。
◇ ◇ ◇
元会津史談会会会長の鈴木邦意さんが10日、86歳で亡くなった。邦意さんは、小生が新聞連載「士魂は何処へ」で富津市内の4か寺に眠る會津藩士の墓が無縁墓地になっているのを知って平成19年に会員60人を引き連れてバス2台で慰霊に来てくれ、旧交を温めた。
第1回慰霊祭にも夫妻で参加してくれた「會津人」だ。
お世話になりました。ご冥福をお祈りします。合掌 |
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2015年05月11日(月) |
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幕末の剣豪 森要蔵(72) |
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會津軍の中にあって森要蔵の部隊の損害は少なくなかったが、會津軍の損害はかなりのもので、次第に消耗戦の様相になってゆく。さらに、戦線が拡大するするにつれて會津軍は不利になってゆく。
6月24日、官軍の土佐藩乾退助(後の板垣退助)の部隊は、會津軍のすきをついて棚倉城を攻撃した。
守っていた仙台藩、相馬藩、棚倉藩、會津藩の兵士は突然の攻撃に大慌て。自ら城に火をかけて退却した。”烏合の衆”であった。
◇ ◇ ◇
7月19日告示の會津若松市長選は面白くなりそうだ。県会議長の平出孝郎君(58)(自民)が出馬を固めた。現職室井照平君(59)との自民党系の一騎打ちか?
平出君は前回、出馬を見送り、県議会議長になったが、今回は議長のイスを捨てて室井君に挑む。期待した室井君は3月議会で、水道敷設問題で職員の言いなりで「20億円はかかりすぎ」と難色を示したが、市議会の試算で7億円で済むことが判明して5カ年継続で事業が始まるそうだ。今や自主性、独自性が重んじられる地方自治。他町村からの”出稼ぎ”職員の多い市役所で、先見性、独自性を打ち出す市長を期待したい。 |
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2015年05月10日(日) |
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幕末の剣豪 森要蔵(71) |
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仙台兵は、飛距離が短く、100メートルしか飛ばない和銃や丸弾のヤーゲル銃で遠くから発砲し、近づいていっては官軍のミニエー銃などの射程距離の中に入り、バタバタ倒れた。
森要蔵は前夜、羽太村(現福島県西郷村)を夜陰に紛れて出発し、明け方には、白河城外に野営していた黒羽藩兵を急襲して大きな損害を与えた。幸先のいい緒戦であった。
しかし、間もなく急を聞いて駆けつけた大垣藩兵との間で乱戦となった。
「飯野藩士の生き様をみせよ!」
「引くなっ!、進むのじゃ」
声を限りに藩士や門弟を叱咤激励する要蔵。右手に持った軍扇を大きく振った。
腕に自慢の門弟らは敵兵の中に斬りこんで、次々と血祭に挙げた。怯む大垣藩兵や黒羽藩兵。一進一退の戦いが続いた。
戦いは数刻二及び、官軍にかなりの損害を与えた會津同盟軍は関屋村(西郷村羽太字関屋)に引き揚げた。 |
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2015年05月09日(土) |
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幕末の剣豪 森要蔵(70) |
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一進一退の攻防戦を展開していた白河城を巡る攻防。森要蔵率いる飯野藩士と門弟たち26名は、6月12日になってようやく戦闘に参陣することになった。
それまでは、”控え”部隊として後方に留め置かれ、藩士らはヤキモキする日々を過ごしていた。
「森道場の名を汚すまいぞ」
「保科藩の名誉のためぞ」
藩士たちは、それぞれの胸に固く秘めた想いを改めて誓った。いやが上にも戦闘意欲は高まった。
この日の戦に参加した會津同盟軍は、會津藩大平口総督原田対馬以下、力士隊、農民兵も加わり、それに仙台兵だった。第4次攻撃となったが、仙台兵の稚拙さが目立った。 |
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2015年05月08日(金) |
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幕末の剣豪 森要蔵(69) |
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5月1日の戦闘で仙台藩81名、棚倉藩19名、會津藩300名の戦死者が出た。これに記録に残っていない旧幕兵がおり、同盟軍の戦死者は700名に達した。
一日の戦闘でこれだけの犠牲者が出たのは、戊辰戦争で最大であった。対して官軍の戦死は、わずかに10名、負傷者38名。同盟軍の完敗だった。
火器の差が出た。同盟軍の多くが火縄銃だったのに比べ、官軍の連発銃が威力を発揮した。さらに同盟軍は”寄せ集め”で統一がとれていなかった。
官軍鳥羽・伏見の戦以来、実戦を経験して統一がとれていた。
明日から、森要蔵の動きを追う。 |
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2015年05月07日(木) |
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幕末の剣豪 森要蔵(68) |
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頼母は、
「もはや、これまで」
と死を決して単騎敵中に斬りこもうとした。傍にいた朱雀一番士中隊小隊頭飯沼時衛(白虎隊士生き残り貞吉の父)が轡をとって叫んだ。
「お待ちください。ここは総督の死ぬ場所ではありません。何卒、退いて後図をお図りください」
「離せ、留め立て無用。離すのだ」
実戦経験のなかった頼母は、副総督以下の多くの藩士を失った責任を感じていたのだ。時衛は咄嗟に馬首を北に向けて鞭をくれた。
馬は驚いて戦場を駆け抜けた。頼母が敗兵をまとめて勢至堂峠に退いた時、集まった者は、わずか3小隊に過ぎなかった。 |
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2015年05月06日(水) |
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幕末の剣豪 森要蔵(67) |
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主税は文武両道に非凡さを発揮した逸材で、慶応2年(1866)フランス皇帝ナポレオン3世がパリ万博に日本の参加を求めてくると、幕府は特別使節団として徳川慶喜の弟昭武を代表に送ったが、會津藩から横山主税と海老名季昌の2名を随行させた。
使節団は翌年1月11日、フランス船アルファ号で横山港を出港、二人はフランス、イギリス、オランダ、ドイツ、ロシアなど欧州諸国を視察して同年11月、帰国した。主税は會津藩を代表する人物であった。
會津同盟軍は各方面で潰え、白河城下も混乱に陥って収集し難い有様となった。會津の寄合組頭一柳四郎左衛門、軍事奉行海老名衛門、軍事方小松十太夫、士中組半頭鈴木覚弥といった将兵たちが相前後して戦死し、死傷者は甚だ多かった。
家老西郷頼母は、官軍が白河城下に乱入すると、馬を馳せて衆を叱咤激励した。が、とても壊乱状態を回復するまでにはいかなかった。 |
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2015年05月05日(火) |
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幕末の剣豪 森要蔵(66) |
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「會津の横山、ここにあり!」
大きく叫んで劣勢な味方を鼓舞し、斜面を駆け上ったが、忽ち一弾が横山に命中した。横山は馬からドッと落ちた。やや無謀といわざるを得ない突撃だった。
横山は立ち上がることなく、息を引き取った。敵弾が飛来して遺骸を収める余裕などなく、従者板倉和泉が腹ばいで主君の首を掻き切って退くのがやっとだった。主税22歳であった。
横山家は藩祖保科正之公以来家老職として仕える名家で、主税は江戸詰めだった6代常徳(1300石)の嫡男として生まれ、文久2年(1862)藩主松平容保が京都守護職の台命を受けて上洛した際、父と共に京へ上った。
父常徳は孝明天皇の御前で有名な「天覧の馬揃い」を指揮して會津藩長沼流の調練を2度にわたって披瀝した苦労が残り、元治元年(1864)の蛤御門の変(禁門の変)の後に亡くなり、主税が家督を継いだ。 |
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2015年05月04日(月) |
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幕末の剣豪 森要蔵(65) |
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瀬上らは米村の堤防によって戦い、暫くは五分五分の形勢だったが、次第に火器の差が現れてきた。と、見る間に大砲手ら10数人がバタバタ倒れた。 瀬上らは後退を余儀なくされ、味方の死骸を担いで退いた。
一方、白坂口と天神橋方面でも官軍が優勢な戦いを進めていた。砲撃しながら、皮籠村から進撃してきた。
會津藩の一柳四郎左衛門、新撰組の山口次郎らは稲荷山に登って官軍の来襲を待った。棚倉口、原方方面の砲戦が激しくなり、間道の樹陰伝いに潜航してきた官軍が突如、稲荷山の正面に現れ、大砲や小銃を乱射しながら戦いを挑んできた。
一柳は
「敵兵はわずかぞ、後れをとるな」
盛んに兵を鼓舞し、踏みとどまった。この時、副総督横山主税は自ら采配を振るって兵を励まし、味方を救おうと、先陣を切って稲荷山に駆け登った。 |
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2015年05月03日(日) |
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幕末の剣豪 森要蔵(64) |
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暫く坂本の傍に伏せて機会を伺っていたが、やがて従者を招き、3人で坂本を抱えながら田圃の中を歩き、ようやく阿武隈川へ飛び込んで弾丸の集中砲火を逃れることができた。
川から上がって本天神の山麓に出て、ようやく坂本の家の者へ身柄を引き渡した。が、既に坂本の呼吸は止まっていた。
参謀の坂本大炊が戦死した今は、副参謀の今村鷲之助に指揮が委ねられた。今村は兵を励まし、再び戦線に駆け戻った。
瀬上主膳も
「仙台武士の闘いぶりをみせよ」
と声を限りに兵士を鼓舞して奮戦したが、會津藩の日向茂太郎が敵弾にあたって倒れたこともあり、同盟軍の兵は浮足立った。 |
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2015年05月02日(土) |
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幕末の剣豪 森要蔵(63) |
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原方方面からの官軍は、日向茂次郎、井深右近らが、よく戦ってこれを撃退した。一時、敗走した兵は反転して三方から攻めてきた。敵味方入り乱れての乱戦となった。
これをみた仙台藩の参謀佐藤宮内、坂本大炊、今村鷲之助らが援軍として赴いたが、戦況は思うように恢復せず、たまりかねた坂本は兵6,7人を率いて阿武隈川を渡って攻め行った。
坂本は西に進むこと数丁、飛来した敵弾に頭を貫通されて倒れた。
「殿様!」
脇にいた坂本の従者が悲痛な叫び声を上げた。従者はすぐさま、駆け出してこの状態を今村に報告した。今村は単身、阿武隈川を渡って坂本の倒れた場所に駆けつけ、首に手を当てた。
まだ息があった。同朋と坂本を介抱して退こうとしたが、敵弾が飛来して立つこともできない。 |
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2015年05月01日(金) |
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幕末の剣豪 森要蔵(62) |
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白河城を巡る攻防は5月1日早暁から火蓋が切られた。寅の上刻(午前4時ごろ)、官軍は3方面から白河を襲った。
薩州5番隊、長州3番中隊大砲2門、大垣1中隊大砲1門、忍藩1小隊は、奥州街道皮籠村から侵攻、薩州2番隊、4番隊大砲1門は白河城東間道から、大垣1中隊は皮籠村の東山の間道から一斉に来襲した。
守っていた會津軍の純義隊はたちまち危機に瀕した。そこで鈴木作右衛門と平田弾右衛門は兵を左右に分け、官軍を包囲しようと善戦した。
やがて官軍は街道上に大砲を引きだして撃ってきた。仙台藩の大砲隊長沼沢与三郎が進んでこれを好目標として大砲を撃ちこむと、官軍は多数の死傷者を出して退却した。 |
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