会津の歴史
河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2013年04月29日(月) 北越戊辰戦争(67)
 先に敗走した西軍参謀山県狂介は、南方の妙見村に西軍の28個小隊を集めて反撃の機会を窺っていた。
 7月29日、新暦では9月15日朝、一帯に霧が発生した。その中を西軍は一斉に長岡城へ向って進撃を開始した。同時に、信濃川に待機していた西軍も渡河し、長岡城に向い、さらに東側の東山連邦にいた西軍も山を下って攻撃を開始した。
 三方からの攻撃に長岡城を守る東軍は、ひとたまりもなく敗れ、再び長岡城は落城した。
 この時、城内に野ざらしになっていた弾薬箱が次々と誘爆して長岡城は再び燃え落ちてしまった。
2013年04月28日(日) 北越戊辰戦争(66)
 新潟を攻略した西軍は、新発田や蒲原の各要所を次々と手中に収めたため、会津へ通じる津川口は西軍が支配することになった。このため、会津への通は八十里越えだけとなった。
 東軍は7月26日、会津・米沢藩兵らが長岡城入城を果たした。早速、城内で作戦会議が開かれた。がしかし、長岡藩家老継之助が不在とあって、積極的な東軍追撃戦の作戦案は出なかった。
 東軍の諸藩兵も連日の作戦の疲れから休息を望む者が多かった。そこに新潟港陥落の報が伝わると、一気に動揺が走った。
 折角、奪還した長岡城を防衛する兵力は乏しかった。長岡藩兵もその数は少なかったのだ。
2013年04月27日(土) 北越戊辰戦争(65)
 新潟を防備する東軍は、この事態に驚いたが、何分、兵力が少なく、戦が始まって間もなく米沢藩総督色部長門が戦死すると、敗走してしまった。
 一方、越後の中原ともいうべき長岡城付近や蒲原、与板、寺泊方面で戦っている東軍にとって背後の新潟陥落はもっとも憂慮すべき状況を引き起こした。特に、米沢藩などの奥羽諸藩は、退路を断たれることになり、浮き足立った。
 また自領に戦が及ぶとみて、帰国を急ごうとした。
     ◇   ◇   ◇
 先日、新しい国産のパソコンを購入した。持ち帰ってセットアップに成功したまでは、順調に進んだ、
 ところがである。翌日、起動しようとすると、名前がでた場面で、パスワードを入れることになったのだが、これが、セットアップで一杯だった脳には記憶されておらなかったのだ。
 さあ困った。購入したヨドバシに電話しても、「ダメです」。思い出そうと現在も苦戦している。
 これまで使ったマックは、20年以上もお世話になった。使い易いのはさすがだが、原稿をテキスト形式にしないと送れないーという互換性で問題があり、さらに最近のデジカメに対応しなくなったのだ。
2013年04月26日(金) 北越戊辰戦争(64)
 7月21日前後、越後口総督府本営が置かれた柏崎に、続々と西軍諸藩兵が集まってきた。休む間もなく同23日、待ち構えていた軍艦に乗って新潟へ向った。
 先導する軍曹に小千谷会談の際、継之助と交渉した岩村精一郎が任命された。指揮は長州藩の山田市之允(顕義)らがとった。
 途中、暴風の為、佐渡島の小木港に避難して碇泊した後に、7月25日、新潟の北方、太夫浜に上陸した。新発田藩は、藩を挙げて西軍先鉾に、または後援に務めた。
2013年04月25日(木) 北越戊辰戦争(63)
 西軍の北陸道先蜂総督府軍は、長岡城攻防戦に苦戦していた。その北陸道軍の上に会津征討越後口総督府軍が編成されるに及んで、鉾先を転じ、海軍を使って新潟に進軍し、戦局を大きく転回しようとしたのが、新潟攻略戦である。
      ◇   ◇   ◇
 先に「若松聯隊」を書き込んだが、その遺族らで作る「ガタルカナル友の会」が、昨年10月、現地で収集した歩兵銃や鉄兜などを会津若松市の小田山忠霊堂で今月17日から22日まで展示した。
 ガタルカナル島の戦いで、若松聯隊(旧日本陸軍第2師団歩兵第29聯隊)は2200名の戦死者を出しており、同友の会では、昭和50年(1975)に第1回慰霊祭を行って以来、現地で遺骨や遺品の収集を続けている。
 今年は、同聯隊が昭和18年に玉砕してから70年目になることから「若松聯隊ガ島玉砕70年展」を企画した。最後の突撃命令を下した際に使用した聯隊時計や銃剣などが展示された。
2013年04月24日(水) 北越戊辰戦争(62)
 継之助は、雪に弱い西国兵を冬期に越後から追い落とすことを目標としていた。だから、冬を迎える前に一大攻勢をかけて、戦局を有利に導いておこうという企みがあった。
 その戦略は、継之助一人が支えていたようなものであったから、継之助の戦線からの離脱は、味方に重大な影響を与えた。
 当時、新潟港は東軍側の補給基地であった。米沢藩総督色部長門がその支配を担当していた。その新潟港を西軍が海路から衝く作戦を行った。
2013年04月23日(火) 北越戊辰戦争(61)
 慶応4年7月5日午後3時、継之助が道を横切ろうとした時、左膝下に銃弾が当たった。担架で長岡城下に運ばれてから、野戦病院となっていたお寺で治療することになった。
 夕方、長岡藩兵に継之助の負傷ーが伝わると、一時に応戦の気力が薄れた、という。
 継之助の脳裏には、この戦は泥沼化するだろうという観測があった。東・西両軍が拮抗して、戦国に近い時代様相になると考ええていたふしが見受けられた。継之助は、北越の戦に勝利すれば、各地で勃発している戦いの展開が変わると判断していたのだ。
      ◇   ◇   ◇
 本日、新しいパソコンが届く。NECのノートパソコンだ。デジカメも新たに購入し、我が机は一新する。といっても、長年、マックを使ってきたので当初は、ドギマギするだろう。苛々するだろうと思う。
 使いこなすようになるまで、時間がかかるだろう。 じっくり、時間をかけて馴染むよう、毎日が訓練だ。
2013年04月22日(月) 北越戊辰戦争(60)
 長岡城奪還後の勝敗の鍵は、応援の会津・米沢藩兵らの攻撃にかかっていた。長岡藩兵が八町沖を徒渉して長岡城下に突入すると同時に、本街道などに布陣する東軍諸藩兵が一斉に攻撃をかける手筈になっていた。
 挟撃された西軍は全滅するか、西側の信濃川へ追い落とされて惨敗するはずであった。
 ところが、応援の東軍は、西軍最前線にいた薩摩・長州藩兵の踏ん張りもあって、進軍出来ないでいた。精強な両部隊は挟撃されても両面に攻勢をかけたのである。
 継之助は長岡城を奪還したものの、なかなか本街道に現れない応援の東軍に苛立って、城下の入り口の新町村まで出かけた。
2013年04月21日(日) 北越戊辰戦争(59)
 継之助は逆襲してくる西軍の攻撃を心配して、現場を視察に赴こうとする途中、敵の攻撃を受けて負傷した。
 その後、西軍は長岡城を放棄して信濃川の対岸や榎峠付近に逃走した。継之助の作戦計画では、長岡城奪還後、西軍を柏崎方面まで駆逐することになっていた。
 西軍の敗走を追撃して、西軍の関原本営へ迫れば、雪崩を打ったように逃走するであろうと予測していた。事実、西軍幹部の中には、柏崎まで戻ろうと進言する者もいた。
 こうした状況の中で、総督継之助の負傷は士気を低下させ、その上、連日の軍事行動による疲労が兵士を襲った。
2013年04月20日(土) 北越戊辰戦争(58)
 7月24日午後10時頃、八町沖に達して、大きな沼を渡り始めた。八町沖は長岡の東北約1里(4キロ)、浦瀬・福島村の中間にあり、福井村の南方1里の大沼であった。
 一面葦が茂り、底無し沼や川があり、魔物が住んでいると怖れられていた。長岡藩兵は、難行の末、そこを渡渉して対岸に出た後、長岡城下に攻め込んだ。
 この奇襲戦は、数隊に分かれて城下の要所に攻め込み、大成功を収めた。だが、長岡城下に長岡反兵が深く攻め入ったため、本道の西軍の逆襲に遭い、苦戦した。
 本道や山間部では、八町沖渡渉後、同時に攻撃をかけることになっていたが、なかなか共同作戦はうまくいかなかった。
2013年04月19日(金) 北越戊辰戦争(57)
 総督河井継之助は、長岡城奪還を期し、乾坤一擲の戦いを敢行した。
 則ち、会津・米沢藩兵を本街道の西軍にあたらせ、また一部を栃尾方面へ派兵して、敵を両方に牽制すると共に、継之助自ら決死の長岡藩兵を引き連れて八丁沖を渡って一直線に敵中に入り、長岡城を奪還した。この奪還戦は、7月24日の夜半から25日に行われた。
 継之助が指揮する長岡藩兵690余名は、見附の本営を出発し、軍容粛々として長岡城下へ向った。
      ◇   ◇   ◇
 今年の会津藩士慰霊祭は6月2日、千葉県富津市の長秀寺で行い、会津若松市と富津市の両市長や会津会関係者、対岸の横須賀市の会津藩士顕彰会の役員に、われらの顕彰会会員が参加する。
 ようやく7回を数えるまでになった。対岸で40回を超えている。いま準備を始めたところだが、現地へ運んでくれるドライバーが健康上から、運転不能となった。困った。何としても墓石清掃と慰霊祭を行うが、誰か、ドライバーを務めてくれる人はいないか。高齢者が多いのが会の弱点で、助っ人が手を挙げてくれんことを切に祈る。
2013年04月18日(木) 北越戊辰戦争(56)
 6月14日には、長岡・会津藩兵が大黒の西軍堡塁に奇襲をかけ、富山・高田藩の守備隊は敗れ、死傷者が相次ぎ、大きく撤退した。
 薩摩・長州藩兵が駆け付けて、ようやく失地を回復するという、激闘となった。要するに、薩摩・長州藩以外は、「おつき合い」程度で会津征討へ参加させられていたのである。 
 6月22日未明、長岡・会津・米沢藩兵は、夜来の暴風雨に乗じて八丁(町)沖の片隅を渡り、福島村を急襲した。同村を守っていた富山藩兵は簡単に敗れて長岡城下まで退却した。だが、余りにも東軍兵が突出してしまったので、側面から攻撃受けて、長岡藩兵は退いた。
 これ以後も、度々衝突が繰り返され、両軍とも一進一退の苦闘の連続であった。
2013年04月17日(水) 北越戊辰戦争(55)
 この今町攻略戦は、継之助の卓越した戦術によって東軍側の一方的な勝利に終った。
 攻略後、戦線は長岡城下近くの大黒、福井村、十二潟、大口斑まで下がり、長岡城が遠望できる地域まで迫った。
 西軍は増援を待って守勢であるのに対し、東軍が果敢に夜戦や奇襲戦を試みた?いうのが、6月から7月上旬の戦であった。
 継之助の指導で度々東軍は陣替えを行い、深田を渡って敵の堡塁に白兵戦を挑んでいる。6月7日、長岡藩兵は中之島村から大口村を急襲し、同時に米沢・村松藩兵が押切村に攻撃をかけた。このため、西軍は川を境にようやく東軍の渡河を防いだのである。
2013年04月16日(火) 北越戊辰戦争(54)
 継之助は委細構わず中央の要衝、今町の攻略を決した。作戦は、戦線の両翼を牽制した後に、正面を攻撃するものであった。
 5月24日から東山山麓で戦闘が開始された。間もなく、西山でも戦闘となり、本与板・島崎などで激闘となった。
 6月2日、東軍は今町攻撃の為に牽制、主力、別働の3部隊にわかれ、三条を進発した。まず、牽制隊は、街道の中央にあって陣容を大きく張り、戦線を拡大した。西軍はこれを主力と看做して多数の兵力を差し向けた。その間、主力は川沿いを遡上して今町を攻略し、別働隊も牽制隊の背後出た。
      ◇   ◇   ◇
 長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督と愛弟子の松井秀喜の国民栄誉賞の表賞式が5月5日、東京ドームで行われる。対広島戦の前に松井の引退式が併せて行われ、満員の観客の前で安倍首相から手渡される。
 これまでの首相官邸の表賞式と違って大観衆の前で行うのは最高の演出である。日本テレビが独占中継するが、全国の野球ファンのみならず、国民の多くが観るに違いない。待ち遠しい!
2013年04月15日(月) 北越戊辰戦争(53)
 また、榎峠、朝日山に布陣していた東軍兵も退却し、加茂に集結した。一気に長岡城を攻略した西軍は、戦線を蒲原平野にまで進めた。
 一方、加茂に集結した東軍諸藩兵は、新たに応援に駆け付けた米沢・新発田藩兵などを併せて3000人を数え?撃の機を窺っていた。
 東軍諸将は軍議を開き、広大な平野と左右の山間部に展開する西軍陣営に果敢な攻撃をかけることになった。軍議は、継之助が主導したため、奥羽越列藩同盟軍の越後口の総指揮を担当しようとする米沢藩との間で齟齬をきたす結果が度々発生した。
2013年04月14日(日) 北越戊辰戦争(52)
 継之助も長岡城の側面にある信濃川河畔の防衛戦の弱さを知っていた。そこで、5月20日、上流の前島村から渡河し、西軍の背後を衝く作戦に移そうとしていた。
 しかし、その前日の19日早朝、西軍軍艦三好軍太郎が指揮する長州藩奇兵隊の渡河作戦が先行し、先制攻撃は功を奏さなかった。
 返って朝霧を利用して渡河した長州・薩摩・高田藩兵は、少数の兵力ながら奇襲となり、城下はたちまち破られ、長岡城は炎上、落城してしまった。
 藩主と藩兵、その家族は城東の森立峠を越え、会津へ落ちのびて行った。だが、継之助の必死の掌握によって、長岡藩兵の一部は蒲原の加茂に集結し、長岡城奪還戦を挑むことになった。
2013年04月13日(土) 北越戊辰戦争(51)
 海岸部を北上してきた西軍の北陸道先鉾総督府軍(海道軍)は、5月16日、長岡城の信濃川河畔の対岸に達した。加賀・長州・薩摩藩の砲門が開き、対岸の長岡城下に砲弾の雨が降った。信濃川右岸の長岡藩陣地は、主力が榎峠方面に行ったこともあって手薄であった。しかも、警備するのは老兵が多く、折からの大雨で増水した信濃川が、辛うじて西軍の渡河を防いでいる、といった状態であった。
2013年04月12日(金) 北越戊辰戦争(50)
 しかし、山地を楯にした東軍は踏ん張り、膠着状態となった。夕刻には、戦線の横に聳える朝日山の争奪戦となり、山頂を征服したのは東軍であった。
 この事態を憂慮した西軍参謀山県狂介は13日早朝に、朝日山を総攻撃する作戦を立てた。13日朝は、霧が出て、これを利用した長州藩の仮参謀時山直八に率いられた奇兵隊が山頂に突撃を開始した。
 山頂陣地にいた立見鑑三郎指揮の東軍は、西軍を充分に引き付けて反撃し、隊長時山直八が戦死するに及んで、西軍の敗戦となった。
 この朝日山の戦は、久し振りに薩摩・長州藩が先陣で戦ったが、その連携の不手際は、後に遺恨を残すことになった、といわれる。その後、榎峠、朝日山の戦いは、砲撃戦となった。
2013年04月11日(木) 北越戊辰戦争(49)
 緒戦にはやる本道の長岡藩兵は遮二無二に進撃したが、榎峠のそばを流れる信濃川対岸からの松代藩兵の狙撃に悩まされ、進撃が止まった。
 榎峠に籠る上田・尾張藩兵は必至に防戦に務めた。が、夕刻になって搦手から回った東軍の一隊が山間から現れて、緒戦は東軍の勝利になり、西軍兵は信濃川を渡り、対岸に遁走した。
 翌11日早朝、西軍は陣容を立て直し、薩摩・長州兵を先頭に、東軍陣営前で渡河攻撃をかけてきた。会津・桑名藩兵が籠る榎峠の陣地に縦列隊形を組みながら突撃する様は、会津藩兵らを驚愕させた。
 突撃を傍観していた東軍兵はバタバタと撃ち倒された。薩摩・長州兵の持つ新式銃の威力を計りかねたためであった。
2013年04月10日(水) 北越戊辰戦争(48)
 慶応4年(1868)5月10日午前10時、長岡城下の東軍兵と摂田屋本陣にいた長岡藩兵は、西軍を撃破すべく、南境の榎峠へ向って出陣した。
 軍議によって三国街道の本道を進むのは、長岡藩4個小隊と砲2門。それに会津藩朱雀四番士中隊と砲兵隊が加わった。もう一隊は東山山中に入り、榎峠の西軍兵を横撃しようというもので、長岡藩4個小隊、会津・桑名藩兵、衝鉾隊、新遊撃隊であった。
2013年04月09日(火) 北越戊辰戦争(47)
 まず、山間部を縫って進軍した東山道軍と衝鉾隊が雪峠で戦ったのが4月26日。衝鉾隊を破った西軍はそのまま追撃し、小出島で会津藩兵と戦うのが、翌27日。
 一方、海岸部を北上した北陸道軍が桑名藩兵と柏崎の南方、鯨波で衝突したのが同じ27日であった。
 いずれも兵力、火力で落ちる東軍の敗戦となり、西軍はこれを追撃して山道、海道から長岡城に迫った。
2013年04月08日(月) 北越戊辰戦争(46)
 また、越後には幕府領も多いことから、幕府脱走兵の衝鉾隊に新遊撃隊や水戸藩諸生隊などが入り込み、猖獗していた。
 当然、高田城下から北上する西軍と各地で衝突することになった。長岡藩兵を中心とした7000名の兵は、凡そ4倍の3万名の西軍を相手に、以後、越後平野を舞台に3か月に及ぶ激闘を展開するのだ。
 特に、長岡城を巡る攻防で、奪ったり、奪われたりして城下は灰燼に帰したこともあって、後年、河井継之助の評価は半々であった。
2013年04月07日(日) 北越戊辰戦争(45)
 越後には、高田藩(榊原氏15万石)、新発田藩(溝口氏10万石)、長岡藩(牧野氏7万4000石)、村上藩(内藤氏5万9000石)、村松藩(堀氏3万石)などの小さな藩が点在しており、その間に、幕府天領、旗本領、会津藩領、桑名藩領などが入り組んでいた。
 鳥羽・伏見の戦いの後、会津藩は越後に派兵し、水原、新潟、小千谷、小出島などの要所の警備を怠らなかった。また桑名藩も藩主松平定敬(さだあき)が領地柏崎に手兵を連れてきて、西軍に抵抗する構えを見せていた。定敬は、会津藩主松平容保の実弟であった。
2013年04月06日(土) 北越戊辰戦争(44)
 開戦前の状況はー。西軍参謀に山県狂介(有朋)、黒田了介(清隆)が任命され、圧倒的な兵力が越後に投入されると、北越戊辰戦争は長岡城攻防戦を中心に一進一退の様相を見せることになる。
 西軍戦闘部隊の越後浸入は、東山道軍の一部が信州・飯山で衝鉾隊を破って頸城、川浦で追撃戦に移ったことに始まる。その後、上州から三国峠を越えて会津藩の町野隊と衝突した原保太郎隊などの小競り合いもあった。
 越後・高田城下に続々と西軍が集結し、会津征討令のもとに、越後の11藩を服従させようとしたのが、慶応4年4月ごろであった。
2013年04月05日(金) 北越戊辰戦争(43)
 開戦の決意が継之助から告げられ、俄かに戦争ムードが高まった。
 会津・桑名藩兵に衝鉾隊士らが続々と長岡城下に入った。
 早速、城内で会津藩士佐川官兵衛、桑名藩士立見鑑三郎、衝鉾隊古屋佐久左衛門らに長岡藩の諸将が集まって綿密な作戦が練られた。
 継之助の主張は、長岡藩領南境の妙見村や榎峠を守備する西軍を討とうとするものだった。榎峠の西軍を駆逐して小千谷へ遁走させ、日をおかず、信濃川を渡河し、小千谷の西軍本営を壊滅させれば、西軍の進攻は止まる、というものであった。
 この作戦が成功し、西軍の敗戦となれば、西軍に帰した譜代の藩や親藩が次々と寝返り旧幕府軍が最終的に勝利するーという目論見だった。
2013年04月04日(木) 北越戊辰戦争(42)
 世に云う「小千谷談判」の決裂は北越戊辰戦争の行方を大きく左右するものとなった。長岡藩は東軍の陣営に入ることを決め、7000名の長岡藩兵は会津藩兵などの味方の援軍を受けて、30000名の西軍を相手に、以後、3か月に渡って越後平野を血に染めた戦をするのである。
 談判決裂後、押し寄せる西軍を前に、窮地に陥った継之助は、宿に引き揚げても、夜通し酒をのみ、思案した。
 慶応4年(1868)5月3日夕刻、長岡藩本陣に各隊長を集合させ、継之助は開戦やむを得ざるものとして
 「戦い、遂にやむを得ざる。我が藩領を犯し、我が民を駆り、我が農事を妨げし者は奸賊なり」
と継之助は面上、怒りをあらわにして言い放った。越後の”蒼き龍”がついに起った。
2013年04月03日(水) 閑話
 大河ドラマ「八重の桜」の視聴率は依然として低い。放送開始の1月から5回は18%以上を維持していたが、以後は15%前後に低迷。
 以下、順を追って視聴率を挙げると、
2月17日 17.5% (5位)
2月24日 15.6% (12位)
3月3日 15.1% (11位)
10日 12.6% (ランク外)
17日 14.3% (16位)
24日 13.9% (ランク外)
31日 14.3% (18位)
 上記のように、2度も20位以下に落ちている。この中で、3月10日はワールドベースボールクラシック日本ラウンドが行われ、1〜3位を占めたためと思われる。新聞の番組蘭では、幕末の重要な転換点となった蛤御門の変で込み入った政治状況の描写が、視聴者に敬遠されたのでは?」と解説していた。
 しかし、根は深いのだ。幕末に朝敵とされた会津藩は、薩長藩閥政治によって歴史の表舞台から消され、現在に至るまで忘れられた存在だったからなのだ。
 柴五郎といい、山川健次郎といい、八重と同じように、全国的に知られた人物はいない。まして「凛とした」会津武士の礎となった「家訓15か条」を定めた会津藩祖保科正之など誰も知らない。
 会津といえば「白虎隊」だけなのである。実に嘆かわしいではないか!
2013年04月02日(火) 北越戊辰戦争(41)
 継之助は門前を追われた。彼は十数歩下がり、なお踏み止まろうと思案したが、しかし、官軍の態度から察して、これ以上の陳情に希望を失った。
(去るか)
 この男は、初めて背を返した。やがて闇の中に溶けていったが、それを見送っている官兵たちは、この瞬間からあの凄惨極まりない北越戦争の幕が切って落とされようとは、無論実感として、なんの思うところもなかった。
(NO.14からここまでは司馬遼太郎著『峠』参照)
      ◇   ◇   ◇ 
 長嶋茂雄と松井秀喜が国民栄誉賞を受賞する。長嶋にとっては遅いくらいだが、心からおめでとうと云いたい。「ミスター」と呼ばれ、プロ野球そして巨人を代表する英雄であった。
 長嶋が巨人の監督を解任された後、郷里千葉県佐倉市に帰った時のこと。記者会見が開かれた。記者が出席したので書く必要はないのだが、止むに止まれず出かけた。最前列に坐って長嶋を観察したのだが、目の輝きは違っていた。
 今にも飛び出しそうに目が輝いていた。何をしゃべったかは記憶にない。しかし、超一流の運動選手とは、こういう男を指すのだ、と妙に納得した。
2013年04月01日(月) 北越戊辰戦争(40)
 「銃剣で追い払え」
 「何度かおどしたのでございますが〜」
と、報告者は下がった。 
 この時刻、官軍の指揮権を握る長の山県狂介(後に有朋)、薩の黒田了介は柏崎にいたが、この様子を知り、すぐ伝令を発した。  
 「河井を捕らえよ」
という命令であった。山県にすれば河井をそのまま藩に帰すことは野に虎を放つようなものであり、河井さえ手元に抑留してしまえば長岡藩の腰も弱くなり、例え戦になっても指揮者がいないためにその抵抗もたいしたものではなくなるであろうとみたのである。
 が、この伝令は朝までに小千谷に達することができず、命令は無効になった。
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