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2013年05月31日(金) |
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北越戊辰戦争(92) |
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この頃には、越後平野は完全に西軍の手に落ちていたから、会津へ攻め込んでくるのは時間の問題であった。
8月12日の「三猿日記」には、
「越後表敵方大軍ユエ、万一峠防ゲネバ、入叶津ハ焼キ払イ、出戸叶津ト中ノ平ノ間二テ防グ」
とあり、八十里峠が敗れた場合は、入叶津と中ノ平を焼き払って、叶津との間で防戦する態勢をとっている。
このように切迫した情勢の中で八十里峠の増強が図られ、会津藩の山内大学隊、井深宅右衛門隊とともに、長岡藩兵は、
「未ダ千人モ只見二控居ラレテ、八十里峠ヘ交替二相成候」
とあるように、山本帯刀(山本五十六元帥の養祖父)隊を中心に千人の藩士を八十里峠の陣営へ送っていた。
◇ ◇ ◇
明後日6月2日の天気予報は、千葉県富津は雨模様だ。せっかく下準備も済んで会津や埼玉からの来賓を待つばかりーというのに。会津藩士の慰霊祭も7回目。
雨天なら欠席ーのご婦人もおり、初参加の方はどうなるか?我らの意気込みに免じて雨雲がどっかへ消えて行ってほしい。 |
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2013年05月30日(木) |
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北越戊辰戦争(91) |
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継之助は目明し清吉方に8月12日まで滞在している。前後して只見に逃れてきた長岡藩士は少なくとも1200〜1300人。家族が4000人前後とみて6000人近くが一時に只見地方に集結したのだ。
「三猿日記」には、「長岡藩ハ只見二着キ次第二、宿々ヲ改役ガ回リ売人別二姓名ヲ記シ、何組、何隊、何々誰トシテ、手負イ、怪我、病気等迄クワシク相尋ネ(以下略)」
とあり、第一に滞在者の実態調査をしている。
藩士らは、休む間もなく、隊の再編成を行い、西軍の追撃に備えるため、八十里の陣地と津川方面の守備に就いている。 |
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2013年05月29日(水) |
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北越戊辰戦争(90) |
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この朝、丹羽代官の突然の死を知った村人たちは、
「お代官さまは、それほど大変なご苦労をされておったのか」
と心を動かされた。
「そこまで追い詰めたおらたちにも責任はあるべ」
と相談がまとまり、村人はわずかに残っていた蓄えの食糧までを避難民に提供した。
こうした紆余曲折があって深刻な状態であった避難民の飢餓状態は、どうにか切り抜けることができた。一人の犠牲者も出さずに済んだのだ。
目明し清吉方の継之助の許にも、一連の騒ぎは報告され、自刃の前日に出迎えを受けて丹羽代官と話もした継之助は、
「ああ、われわれは会津の方々に多大のご迷惑をおかけしている。申し訳ないことだ」
と丹羽代官の死を悼み、迷惑をかけていることを深く詫びた。 |
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2013年05月28日(火) |
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北越戊辰戦争(89) |
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この窮状を打開するため、丹羽代官は、「只見代官」名で古町、和泉田、黒谷、大塩の各組に
「御蔵備の兵糧を残らず出すよう」
申し付け、
「地下の物持ちより出させるよう、もし異議に及ばば、打ち壊しても差出候様」
と触れを出すなど、自らも現場に足を運んで東奔西走し、力を尽くした。
「よろしく頼む」と頭を下げて百姓の家々を回った。しかし、寒村での地元調達には限界があった。
万策尽きた丹羽代官は、兵糧総督の役目が果たせず、その責任を取って、8月6日八つ半(午前3時)、部下に後事を託し、遺書をしたためて自刃した。 |
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2013年05月27日(月) |
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北越戊辰戦争(88) |
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このように村々では、避難民を積極的に受け入れて部屋と食事を提供し、救援に協力している。
旧伊南村宮沢、河原田家の文書「「三猿日記」(伊南村史第5巻)8月5日の条に、
「八十里より只見迄に一日の入用米が三斗入り百表宛を要し、間に合い申さず由」
とあり、毎日百表(1表60キロ)のコメを調達するのは容易なことではなかったろう。
この食料調達には、会津藩野尻代官の丹羽族が兵糧総督を兼ねて、その任にあたっていた。丹羽代官は、5月の着任早々、只見村に常駐して上町の鈴木兵六方を役宅として受け入れの指揮を執っていた。
米や味噌は当初、会津城下の坂下(ばんげ)あたりから供給していたが、悪天候が続いて城下からの運び込みが滞り、さらに避難民が急増したことも重なって、たちまち食糧危機に陥った。 |
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2013年05月26日(日) |
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会津藩士の墓掃除 |
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来月2日の第7回会津藩士慰霊祭に備えて、本日、役員数人に出ていただいて富津市富津地区の寺2か所で、会津藩士の墓を掃除してきた。1年ぶりに墓の周囲の雑草やごみを片付け、墓石に水をかけて清めてきた。
地元の顕彰会役員に市原市や習志野市からも会員が参加してくれ、「会津人」の礼、義を実践してきた。
この日に合わせたように、正珊寺の敷地から、会津藩士名が刻まれた墓石4基などが新たに発掘された。敷地内に埋もれていたのを偶然、発見したらしい。
名前が読めるのは、「会津家中 村田五郎」、側面に「嘉永六年 ○藩 同人六男」など。
同寺には、記録によれば、25基に32名が眠っているはずで、これまでに確認できた藩士の中には入っていない。じっくり調べたい。 |
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2013年05月25日(土) |
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北越戊辰戦争(87) |
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只見町熊倉の目黒家に残る「文政以来万覚帳」という史料によれば、
「味方は仙台、庄内、長岡。八十里へ引き上げに相成り、8月2日より6日頃まで2万5千与人引き上げ。叶津、只見、塩沢あたり残らず御泊まりに相成り(以下略)」
と、一週間ほどの間に2万5千余の人たちで只見周辺は溢れかえった様子がわかる。
一行の中には、長岡藩兵の他に、当然、婦女子も含まれていた。田子倉から塩沢村までの8か村の全戸数は292戸という寒村ばかりで、混乱ぶりは想像を絶するものがあったろう。
只見周辺だけでは収容できず、伊奈川筋の村々にも収容の要請をしており、遠く黒谷の町にも
「おらの家にも長岡藩士の家族が泊まった」
とう話が今も伝わっている。
楢戸の横山哲夫さん方には、「楢戸村二家内止宿人別取調帳」が残されており、31戸の楢戸村に、何と508人が泊まっていた。ぎっしり、というか、見じろぎも出来ない混雑ぶりが想像できよう。 |
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2013年05月24日(金) |
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北越戊辰戦争(86) |
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朝から降り続く雨の中、叶津に到着し、体を休めた継之助に代官丹羽族が
「これまで、誠にご苦労に存じる。河井殿には充分な接遇もできませぬが、お身体を大切になさいませ」
と重ね重ねの苦労を労り、接遇の充分でないことを詫びた。傷の痛みからか、継之助は、
「お世話をおかけ申す。良しなにお願い申す」
と礼を述べるのがやっとの様子だった。
暫く休んでから、丹羽らの案内で清吉方へ向かった。険しい山道で、戸板に乗った継之助の傷はさらに悪化したようだ。
同夜、継之助一行は、ようやく只見村の目明し清吉方に到着した。これまで2日間も険しい山道を戸板に乗せられた継之助はの容態は、「ますます悪化し、容易ならざる」ほどに悪化した。このため清吉方に暫く逗留して養生することになった。 |
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2013年05月23日(木) |
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北越戊辰戦争(85) |
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8月5日、継之助一行は国境を越えて会津に入った。木ノ根峠からの道は、稜線を通り、現在の浅草登山道の山神ノ杉に至る古道である。
会津藩の山内大学隊と井深隊が木ノ根峠の関門を中心に警備していた。継之助一行の通過を確認した関門守備隊から
「河井様ご一行が無事通過」
の急報が只見へ届けられた。
一行が叶津に到着したのは夕刻であった。これより先、只見では、会津藩代官丹羽族(やから)を中心に受け入れの準備に追われていた。
重傷を負った継之助の宿舎をどこにするか?民家という民家はすべて長岡からの人々であふれ、また街道沿いの民家では、人の出入りが激しいので安全が保証されない状態であった。
このため、丹羽代官は、少し離れた隣の只見村の目明し、清吉宅が静かで安全だとして宿舎に決めた。 |
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2013年05月22日(水) |
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北越戊辰戦争(84) |
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人々はみな無口、ただ、足を進めるだけだった。この日は山中に野宿することになった。
「八十里こし抜け武士の越す峠」
と詠んだ句は、沓掛峠を過ぎて越後の山々が目の前に広がる小松横手付近といわれている。すでに日は暮れており、句には最も相応しい場所だ。
一行が越えた八十里越えは、越後から会津へ逃れる長岡藩士とその家族であふれ、混乱を極めた。会津側の要所要所には負傷兵や病人、婦女子の共済のため前線基地が置かれていた。只見地方の村々からは、15歳から60歳までの男全員が動員され、救助や受け入れ準備にあたっていた。
◇ ◇ ◇
昨日、古いパソコンを開いたら、メール4通を受信していた。が、機能が送受信しないので開けない。いろいろ挑戦したが、だめ。、
各位へ通告!! 21日までに小生にメールを送った方は、重要な用件なら再送してください。 |
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2013年05月21日(火) |
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北越戊辰戦争(83) |
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「会津へ行ったとて、何のよいことがあるか、俺は行かない。置いて行け」
と言って継之助は吉ヶ平を発とうとしなかった。
その2日前、葎(むぐら)谷から、若松滞在中の義兄あてに手紙をしたためている。
「汚名を後世に残すより、義理を守る」ことを第一に奉公してきたが、拙者は、最早ご奉公の道も絶え、剣山を越えるわけにも参らず」
と越後の地で最期を迎えたい心の内を伝えている。
頑として聞こうとしなかった継之助をようやく説得して8月4日、一行は吉ヶ平を発ち、八十里越えの剣山に向かった。暗く、低い雲に覆われた雨の峠道は、ぬかるんでおり、会津に落ちてゆく人々の群れで遅々として進まなかった。 |
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2013年05月20日(月) |
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北越戊辰戦争(82) |
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最後は、継之助が長岡から会津へ落ち延び、目を閉じる12日間を書き述べる。長岡藩家老河井継之助は藩内をまとめ最新鋭のガトリング銃を最大の武器にして越後平野を舞台に3か月に及ぶ戦を仕掛けた。
11代藩主牧野忠恭(ただゆき)、12代忠訓(ただくに)親子が会津へ落ち延びた後、継之助は八十里越えで会津へ向かうが、左の脛に受けた傷がもとで只見村で42歳の波乱に富んだ人生を終える。
歴史家の中には、継之助を戊辰戦争における東西の陣営にあって最も優秀な軍事指揮者の一人、または英傑に挙げている。
さて継之助一行は、慶応4年8月3日、八十里越えから会津を目指すべく、越後の峠、吉ヶ平に到着した。戦で負傷してから8日経っていた。継之助は死を覚悟していたようだ。 |
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2013年05月19日(日) |
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北越戊辰戦争(81) |
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継之助は方谷の教えを聞いて開眼した。これから自分がやるべきことをしっかりと把握したのである。方谷との別れの日、対岸で見送る方谷に対して継之助は道に跪き、何度も何度も頭を下げた。
これには、単なる別離の礼だけでなく、方谷の教えに対して、心の底から湧き出た感謝の念が強く込められていたのである。
慶応4年(1868)8月16日、継之助は会津領塩沢の地で亡くなるのだが、死の間際、長岡藩の御用商人松屋吉兵衛に対して、自分は最期まで先生の教えを守ってきたことを方谷先生に伝えてくれるよう依頼して静かに目を閉じたという。 |
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2013年05月18日(土) |
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北越戊辰戦争(80) |
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山田方谷のいう陽明学の道とは何か。
「それ綱紀を整え、政令を明らかにするは義なり。飢寒死亡を免れんと欲するは利なり。君子はその義を明らかにして、その利を計らず」(理財論)
結果的に飢えや寒さや死に至っても、それは天が決めたことであって、人はそれを如何ともし難い。
施政者はただ綱紀を整え、政令を明確にするだけだ。それが義の政治だ。飢えや寒さや死を免れることばかり考えて対処療法的な施策をとるやり方は利の政治であって、君子の浴するところではない。神伐破滅の患を免れようとするのも同じだーと方谷はいう。 |
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2013年05月17日(金) |
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北越戊辰戦争(79) |
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継之助は、中国のケ小平ではないが、「白い猫も黒い猫も、鼠をとる猫は良い猫だ」式の実利第一主義に凝り固まっていたのである。そのため、物事の利害をはっきりさせる性向があった。それが「事に区画を為す」の意である。
「独り密に夫の読者(継之助)、公(王陽明)の道を為す所以を知らず、徒にその利を求め、反ってその害を招かんことを懼るるなり」
継之助は王陽明の行った事業ばかりに目を奪われて、陽明学の神髄を学ぶべきことを忘れていたのである。 |
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2013年05月16日(木) |
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北越戊辰戦争(78) |
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河井継之助は、17歳にして鳥を割きいて王陽明を祀ったほど若くして陽明学に熱中した。だが後年、生涯の師とあがめる陽明学者山田方谷を備中松山藩に訪ね、教えを乞うた際、方谷から彼の皮相的な学問態度を批判される。
「生(継之助)の此処に来る、すでに半歳、志は経済に鋭く、口に事功を絶えず、頗る事に区画を為すを喜ぶ者の類(ごと)し」と。
当時の継之助は長岡藩のリストラを自分の手で何とか成功させたいという大望をもっていた。
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昨日、これまでのブログのコピーを整理したら、世話になったり、協力していただいた方々の訃報掲載にぶつかった。
2008年6月28日、元参議院議長井上裕さん、同年12月23日、作家早乙女貢さん、そして同年11月14日、三浦半島会津藩士顕彰会事務局長の星正夫さんのお三方。
井上さんには次女の結婚式で当時文部科学大臣として主賓で出席して頂いた。早乙女さんは「会津士魂」が代表作で、町名復活運動で協力してもらった。星さんは三浦半島と房総半島の会津藩士顕彰会立ち上げの主役であったり、協力者であった。
去りゆく人は日に日に遠くなる。しかし、記憶は鮮明に残っている。井上さんが代議士だったころ、総選挙の最後の票読みを二人でやったことが思い出される。そんな付き合いのできる新聞記者はいま、どれほどいるだろう。ぶん屋もサツ官も政治家もサラリーマン化し小粒になった。 |
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2013年05月15日(水) |
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北越戊辰戦争(77) |
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この時、王陽明は悟境に達した。その時の心境を詠んだ詩が、「海に泛ぶ」である。
険夷もと胸中に滞らず
何んぞ異ならん
浮雲の大空を過ぐるに
夜静かなり海濤三万里
月明かり錫を飛ばして天風に下る
険は山脈が険しい、夷とは平坦なこと。つまり逆境と順境をいう。死線を潜り抜け、悟りの境地に達した陽明は、こののち、自分の一生が逆境になろうが、順境になろうが、そんなことは意に介さない。
自分が掴んだ「良知」の命じるところに従って、まっしぐらに進む(致良知)だけだというのである。 |
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2013年05月14日(火) |
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北越戊辰戦争(76) |
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これに対して陽明学は、より直截的に天理を掴む方法をとる。天理とは王陽明にいわせれば「良知」である。宇宙の根源に感応する心の状態とでもいおうか。禅でいう悟りである。
ただし、禅ではひたすら座禅することによって悟りを開く方法をとるが、王陽明は事情練磨、すなわち人間の生き様を通して「良知」を掴むことを提唱する。
王陽明は、時の権力者であった宦官劉瑾の迫害を受け、山奥の地竜場に流される。竜場に赴く途中、銭塘江で劉瑾の放った刺客に追いつかれるが、河に身を投じて九死に一生を得る。 |
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2013年05月13日(月) |
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北越戊辰戦争(75) |
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さて、河井継之助についてである。継之助のバックボーンは陽明学によって貫かれていた。陽明学は朱子学と並ぶ儒学の一大学派である。朱子学が、窮理を目指した学問であるのに対して、陽明学は窮心、つまり心の奥底を探究する学問といえよう。
「およそ一物上に一理あり。須らく是れその理を窮致すべし」(「近思録」)とは朱子の言である。事物には、すべて理がある。鳥は飛び、魚は泳ぐ、そこには、それぞれ理があるはずである。その理をひとつひとつ極めていくならば、いつの日か、天理に行き着くというのである。
真に合理的な思想であり、近代の西欧思想に通じるものがある。事実、今や人類は物質の元たる素粒子の謎を極めつつあるし、また生き物の源である遺伝子の構造にも迫りつつある。これぞ朱子学的合理性の成果ではなかろうか。 |
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2013年05月12日(日) |
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北越戊辰戦争(74) |
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次は河井継之助の人物像に移るが、その前に長岡藩と会津藩との深い結びつきをを示す史実を紹介する。
長岡城陥落後、会津救援に駆けつけた山本帯刀一隊は、鶴ヶ城での籠城戦を戦い抜いていた慶応4年9月8日、会津城下の飯寺地内で西軍と激戦となった。
この日、高田に陣した東軍は、城南の糧道が西軍に遮断されるーという話を聞きつけて飯寺にいた西軍を一掃して糧道を開こうと大川を渡り、西軍を追い払った。糧道は確保されたが、この戦いで帯刀隊31名は濃霧のため誤って西軍の中に取り残され、捕縛されて処断されてしまった。
山本帯刀は、太平洋戦争で有名な山本五十六元帥の養祖父にあたる。後に、昭和31年(1956)10月1日、会津史談会が一般から寄付を募って飯寺町の本光寺の荒れた墓地を改装して立派な墓碑を建立した。表面に、町野武馬の筆による「明治戊申乃役長岡藩士殉節乃碑」と刻まれ、裏面には長岡藩士44名の氏名が刻まれている。 |
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2013年05月12日(日) |
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講演 |
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11日は上野の精養軒で、東京若商会役員会で「戊辰戦争と八重」の題で講演した。会津若松市の県立若松商業の在京同窓会東京支部である。
まず、八重が生まれた山本家は家禄は15石の微禄ながら代々、会津藩の砲術指南役の家柄で、特に、長男撹馬は幼少より秀才の誉れが高く、藩きっての切れ者であった。
会津藩は幕末の25年間で蝦夷地や江戸湾防備などで4か所20年に及ぶ防衛の担当をさせられ、23万石の収入に対して9年以上に相当する借財を抱えて尚、京都守護職を引き受けざるを得ない立場に追い込まれたのは、藩祖保科正之が定めた「家訓15か条」にあったと解説。これを福井藩主松平春嶽に持ち出され、「士津公なら引き受けるでしょう」と口説かれ、滅びへの道をたどった経緯を明らかにした。
また、藩祖正之は、徳川2代将軍秀忠の側室の子で、嫉妬深い秀忠夫人お江与の目を盗んで生涯ただ一度の浮気で側室お静との間に出来た子供、3代家光に見いだされて会津藩主になった正之は将軍家大事が会津藩の憲法と定めたことも述べた。
このほか、16世紀末に会津の領主になった蒲生氏郷が黒川の里といわれたのを郷里長浜の地名から若松と命名し、鶴ヶ城を中心とする城下町造りをしたことなどを講演した。 |
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2013年05月10日(金) |
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北越戊辰戦争(73) |
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継之助は負傷して担架に乗せられ、八十里越えをしたが、その自嘲の句に継之助の心情が偲ばれる。継之助は会津・只見塩沢の矢沢宗益宅で42歳の生涯を終える。
その死にあたって、従僕松蔵を枕頭に呼び寄せ、
「敵にわしの首級を渡さぬよう」
言づけた。そして松蔵に自らを火葬にするための火を矢沢家の庭に灯させた。
その火を見つめる継之助。攻防戦の末に古城を焼き、己を焼き尽くす火に向かって何を語りかけていたのだろう。 |
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2013年05月09日(木) |
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北越戊辰戦争(72) |
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継之助は、藩領が浸食され、西軍幹部の横暴を知り、敢然と開戦を決意した。風雲を利用して、天下に真の道義を示そうとしたのだ。電光石火に敵の要衝を奪い、その肝胆を寒からしめた。
ただ、時は西軍に味方し、大量の兵力と近代的な武火器が越後に入り、戦線は継之助の指揮の範囲を超えた。凡そ1500名余の長岡藩兵のみを掌握している継之助にとって、戦術面は有利に展開することはできても、天下を回天させるという戦略を実行することは出来なかった。継之助の無念は、まさにそこにあった。
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最近の読売新聞は抜かれ続けている。朝日新聞が好調だ。昨日は朝鮮総連の建物を落札して注目された鹿児島県の坊主が、納入期日までに購入資金の調達が不可能、本日は、東日本大震災の復興費1.5兆円が無関係な方面に組み入れられたと2日連続のスクープ。
読売はips細胞関係で世紀の誤報をやっただけに、ひっそり静まり返ってしまい、抜かれっぱなし。ひどいもんだ。ネットで読む読者が増え、新聞読者が減少している時期に、実に歯がゆい。嘆かわしい。 |
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2013年05月08日(水) |
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北越戊辰戦争(71) |
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しかし、一方では勤皇を掲げ、西軍に味方した草莽の方義隊、北辰隊、金草隊などの志願兵もいた。越後全野を飲み込んだ戦いが、北越戊辰戦争であった。
長岡藩総督河井継之助は、幕末の政治情勢を熟知し、会津藩に同情しながらも、長岡藩の中立を守ろうと画策していた。
陽明学を学んだ継之助は、戦争の回避こそが長岡藩とその領民を守る最大の課題だと考えていた。
しかし一方では、新政府が幼い天皇を擁した薩摩・長州の野望の巣窟だと喝破していた。
今こそ天下に、真の忠義を知らしめる時であるとも考えていたのである。 |
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2013年05月07日(火) |
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北越戊辰戦争(70) |
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北越の戦いは、長岡城攻防戦を中心に越後各地で行われた。東軍8000名が約4倍の30000名の西軍を相手に3か月にわたって衝突を繰り返した。
山間では、峠や峰の争奪戦が、深田地区では一本道を確保するための突撃戦が、また、海岸部では小舟を使って敵の背後に出る上陸戦が展開されるなど、その戦法は多彩を極めた。
異色な戦闘としては、東軍に属した越後の博徒隊が、女装して田植え作業を行い、西軍をやり過ごして背後から襲撃したという戦もあった。
越後平野の戦いは春から秋の長期間にわたり、しかも広い平野に兵站線も伸びた。農民は両軍の軍扶として徴用され、死傷者も少なくなかった。おまけに気候不順で作物が採れ獲れず、農作業ができないとあって、戦場で銃弾を拾って生活する者まで出た。その上、家を焼かれて山中で暮らす者も多かった。 |
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2013年05月06日(月) |
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北越戊辰戦争(69) |
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継之助も特製の担架に乗せられ、その周りには数人の侍と従僕、医師を従えただけで、八十里越えをした。負傷したため高熱を出しながらも、継之助は北越戦争の敗戦に未練を残し、
八十里こし抜け武士の越す峠
と詠んだ。
この八十里越えにおいて8月1日から6日ごろまで、東軍諸藩兵の山越えで俄かに喧噪になった後、西軍諸藩兵が追撃するという様相を見せた。山越えには長岡藩の婦女子も数多く従い、悲劇を生んだという。 |
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2013年05月05日(日) |
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国民栄誉賞 |
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5月5日(日)、本日は、長嶋茂雄と松井秀喜の国民栄誉賞の授賞式が東京ドームで華やかに行なわれた。二人の受賞を祝うような日本晴れ。
超満員のスタンドに朝早くから陣取った熱心なファンが見守る中、安倍首相から表彰状と記念の黄金のバットが贈られ、長嶋に手渡される際、松井が自然と手を添える、熱い師弟愛が見られたのも、予想外の出来事だった。
徳光元アナウンサーと同じく涙、涙のテレビ観戦。試合よりも、何よりも感動的であった。こんな舞台演出は他にはないであろう。
良かった、感動した、そして涙した!! |
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2013年05月04日(土) |
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北越戊辰戦争(68) |
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八十里越えは、越後と南会津地方を結ぶ物資の交流路であった。越後側の吉ケ平から、会津側の入り口叶津までの街道が、一里が八里に相当するくらい険しいので八十里越えと名づけられたという。その道を多くの東軍諸藩兵が会津目指して落ちて行った。
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先月、使っていたマックがデジカメに対応しなくなったので、NECのパソコンを購入した。ところが、使い方がまったく分からず、虚しく2週間が過ぎた。
先日、諸先輩から指導を受けて、どうやらメールはできるようになった。しかし、受信したメールをアドレス帳に入れる作業が分からずアッパトッパ。脳溢血で倒れた頭脳には、新機種は理解不能なのだ。只今苦戦中。 |
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