会津の歴史
河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2011年03月31日(木) 福島原発
 福島第一原発から、依然として放射能が漏れ、空気、水、野菜、土壌が、どんどん汚染されている。一体なにが「落ちついた状態なのか」、政府、東電のいうことはデタラメだ。腹が立つ。
 東電会長は、1〜4号機を廃炉にする、というが、5、6号機も廃炉にすべきだ。半径30キロを自主避難地区としているが、過去の原発事故ー1979年のスリーマイル島(米)、1988年のチェルノブイリ(旧ソ連、現ウクライナ)ーを超える事故なのだから。
 過去最大の事故だったチェルノブイリでは、半径30キロを居住禁止区域とし13万人を強制避難させた。年寄が100人ほど戻っていると言うが、今は地図から消滅している。
 福島では、大熊、双葉、富岡町などの町民が埼玉県や会津若松市などへ避難している。「一時帰宅したい」と言っている町民も多いようだが、まるで現実を認識していない。あの町村は地図から消える運命なのだ。可哀想だが、仕方がない。原発を受け入れてきたのだからー。
2011年03月30日(水) 歴史小説鶴ヶ城物語(78)
     ◇蒲生二代(15)

 だからこそ、秀吉は自分をこの地に差し向けたのではないかーー。
「今度の伊達の振舞いの奇怪さ、その方たちの憤るのも、もっともだ。むしろ、今までよくこらえてくれたと思っている。礼を言うぞ」
「ーーー」
「が、こらえてくれたからこそ、ここまで無事にやってこられた。そしてまたーー」
 言葉を切って彼は一座を見回した。細身の刀に似た光芒が彼の瞳の中にはあった。
「これはすでに政宗に勝ったことでもある」
 その方たちが一分の隙もみせなかったからこそ、遂に政宗はおのが所領
の中にありながら、手も足も出なかったではないか。茶の招待など、せっぱ詰まっての嫌がらせだ。
ーーー来られるなら来てみろ1 どうだ。
 と大いに凄んだつもりなのだろうが、今まで手出しができなかったものに何ができるか、と氏郷は呟いた。

2011年03月29日(火) 歴史小説鶴ヶ城物語(77)
     ◇蒲生二代(14)

「お出なされてはなりませぬ!」
 並いる家臣たちが叫ぶように言った時、はじめて白せき(色白)の顔が人々を見詰めていた。
「案じるな」
 思いがけないほど静かな声色だった。
「行ってやろう」
「そ、それは、なりませぬ」
 左近将監は無意識に袖を捉えようとした。
「大事なお体でございますぞ」
「なればこそ行く」
 氏郷は短く答えた。
「政宗の謀反は、会津を発つ時から知れていた。いや、陸奥の地を与えられた時、すでに俺はこの日を覚悟している」

2011年03月28日(月) 歴史小説鶴ヶ城物語(76)
     ◇蒲生二代(13)

「憎いは政宗め!」
 氏郷の部将たちの眼は血走ってきた。
「彼奴の謀反は歴然、殿、何となされます」
 答えを聞くまでもない、と思いつめた顔の部将たちが、氏郷のまありに押並んだ折も折、政宗からの書状が届いた。
「ここまで領内を御先導申し上げたが、これより先は敵領。合戦に先立ってまず一席、茶なりと差し上げたい。明朝わが陣にお越し下さるまいか」
 側近はひとしく息を呑んだ。茶事にことよせて氏郷を殺してしまうつもりではないのか。
「よもやーー」
 日頃、沈着な町野左近将監の声もしわがれている。
「よもやお受けはなされますまいな」
 氏郷は黙って書状に見入っている。

2011年03月27日(日) 歴史小説鶴ヶ城物語(75)
     ◇蒲生二代(12)

ーーーおかしいぞ。
 早速、忍者が飛ばされた。帰って来た彼等の報告によると、たしかに表面は忠義顔をしているが、どうも怪しい、というのである。たとえば、大崎・葛西の旧臣たちにも氏郷の出陣を知らせ、一揆追討への協力を促してはいるのだが、これもとりようによっては、
「蒲生が行くから気をつけろ。一揆に乗じてうまくやれ!」
とそそのかしているようでもある。伊達としては秀吉にうわべは服従したものの、会津を取りあげられた恨みは忘れてはいないのだ。
 しかも、それを裏付けるように、伊達領の百姓たちまでが氏郷軍には全く非協力で、宿も貸さず、薪も提出しないという具合で、氏郷軍は、酷寒の陸奥で、しばしば露営をしなければならなかった。
 これでは油断もすきもならない。友軍とはいえ、いつ寝返るかもわからない伊達軍を先頭に、緊張した雪中行軍が始まった。しかも進めば進むほど、どうも伊達が一揆と連絡をとっているらしい疑いは濃厚になってくる。

2011年03月26日(土) 歴史小説鶴ヶ城物語(74)
     ◇蒲生二代(11)

 折から、会津にはすでに雪だった。
「この雪ではーー」
 町野左近将監はしきりに気遣っている。
「われらは雪に馴れませぬ。いかがでございましょう。冬籠りをして春をお待ちになっては」
 言い間も雪は降りやまず、遂に馬の胸に達するほどの積雪になった。が、氏郷はこの献言を受け入れなかった。
「待てぬ。木村父子を見殺しにはできぬ」
 静かだが、決意のこもった口調でそう言い、ただちに出発した。馴れぬ者にとっては恐ろしいまでの尺余の雪を踏み固めて行軍すること数日、出陣してきた伊達政宗と落ち合ったのは11月12日のことである。
 ここから伊達軍を先頭にその領地を通って一揆の本拠へ迫るわけだが、肝心の案内役の伊達軍は、のらりくらりとしていて、さっぱり先を急ぐ気配はない。

2011年03月25日(金) 歴史小説鶴ヶ城物語(73)
     ◇蒲生二代(10)

ーーー白亜の天守に、お冬を迎えたら、あいつめ、何というだろうかーー
 先刻の暗い翳りはもうその瞳にはなかった。次の瞬間、青い森と褐色の平野めがけて身を躍らせるように、彼は馬に鞭をあて、一気に峠を駆け降りた。
 しかし氏郷が、この会津の地に城を構えるまでには、その後、数年の年月を要した。会津に入ってまだ数カ月も経たないうちに、氏郷ともども、奥州の大崎、葛西氏の旧領に入った木村吉清・清久が一揆に囲まれ、佐沼城に閉じ込められてしまった。
 大崎、葛西氏は小田原への不参を咎められて秀吉から領地を没収されたもので、それを不満とする領民が木村父子に反抗して一揆を起こしたのだ。
 木村氏は非力な武将だった。秀吉は彼等を奥州へ送り込む時、何かの場合には氏郷を頼れ、と言い含めておいたのである。
 こうなっては捨ててはおかれず、氏郷は京都の秀吉に急を報じ、江戸の徳川家康に加勢を頼む一方、隣国伊達政宗にも出陣して案内に立つよう申し送った。

2011年03月24日(木) 歴史小説鶴ヶ城物語(72)
     ◇蒲生二代(9)

 峠に立っていま見下ろしている会津の山野は、やさしく、やわらかな故郷のそれとはおよそ違う。きびしく、荒削りで粗野でさえある。が、それだけに、何か未知数の生命力がそこに感じられはしないだろうか。
ーーーこの新天地で俺は王者になる。
 氏郷の品のよい優しい面差しが、ふと、銀鯰の兜をかぶった時の精悍さに変わった。
ーーー城をーー
と思ったのは、この瞬間である。陸奥(みちのく)の王者になった時、俺はこの地に新しい城を築くのだ。今ここにある黒川城は葦名時代の、中世ふうな城砦にすぎない。ここに信長や秀吉がいま西国に築いているような、壮大な天守をもった城を造ろう。
 この山を背に、いま銀色に光っている川を堀にー構想はみるまに膨らんでゆく。

2011年03月23日(水) 閑話
 今日は哀しい書き込みになる。読売新聞の後輩、遠藤実君が今回の大震災で被災して亡くなった。がっくりしている。彼は宮城県名取市出身で、福島支局時代には、ネクタイを締めることなく堂々と知事と会見した兵(つわもの)。
 筆者が千葉支局デスク時代、四席として千葉に。以来の付き合いで、豪快な人間だった。当日の11日、奥さんは仙台へ買い物に出かけ、彼は留守番していて被災した。奥さんが帰ると、自宅はなくなり、彼は行方不明。遺体安置所を探し回って20日にようやく確認した、という。御冥福を祈る。
 今回の大震災では東電原発事故が大きく報道されるが、福島県内でも中通りの郡山市で被害が大きい。JR郡山駅周辺の市街地はほぼ全滅、市内で最も古い料亭「辰柳」が建物被害で廃業届けを出した。元自民党代議士菅家喜六の自宅を改装した料亭で、この代議士の名前は忘れられない。中学3年生の時、若松を地盤の菅家は大きな選挙違反事件を起こし、若松市議20人ほどが逮捕された。その買収資金が、筆者の料亭で配られ、勿論、議員だった亡父も逮捕された。苦い想い出だ。
2011年03月22日(火) 歴史小説鶴ヶ城物語(71)
     ◇蒲生二代(8)

 ーーーさらに、秀吉はもう一つ、俺に抜き難い劣等感を感じているー
と知っていながら、氏郷はそれを冬姫に語ることをためらった。なぜなら、それは冬姫自身にかかわることだったからーーー
 秀吉はどういうわけか貴婦人ごのみである。コンプレックスの裏返しかもしれない。信長の死後、その姪にあたる淀君を迎えて、やっと満足したものの、淀君よりも一段格の高い信長の息女をもらっている氏郷には、なにか微妙な心のつかえを感じているらしい。
 もちろん、優れた武人であり、政治家である秀吉は、氏郷の武将としての器量は充分みとめ、存分に働かせ、功名のつど過分の加増も与えている。それでいて、なお、理屈で割り切れないもやもやしたものを棄てきれないーそんな秀吉の俗物性を氏郷は知っていた。
 が、そんなことを口に出して何になろう。少なくとも冬姫に聞かせるべきではないーと思っていた彼にとって、彼女が、ぐずぐずと未練がましいことを言わずに松坂を発つ気になったらしい事は有難かった。

2011年03月21日(月) 歴史小説鶴ヶ城物語(70)
     ◇蒲生二代(7)

 彼がなぜ秀吉の言葉を拒まなかったのか?
 語り出せば語り尽くせないもののあることを氏郷は知っている。左近将監に語ったことは勿論うそではないが、それがすべてともいえないのだ。
 もとはと言えば彼と秀吉は同輩だ。少年時代から信長に近接していたし、蒲生家は近江の小領主だから、家柄からいえば、氏郷のほうが数段まさっている。
 しかも彼は若い。これは最近とみに老け込んで来た秀吉が、いくら嫉妬してもどうにもならない隔たりだ。
 しかも垢抜けた美男子でもあり、何代も続いた小領主の血筋をひいているだけに、自然と身についた教養がある。茶道のたしなみひとつとっても、利休門下の十哲に数えられているくらいだ。これは秀吉がどう逆立ちしてもかなわないところで、利休を顧問にしていっぱしの茶人面をしてはいるが氏郷の品格には及ぶべくもない。

2011年03月20日(日) 歴史小説鶴ヶ城物語(69)
     ◇蒲生二代(6)

 「ただそれ行け、かかれ、と下知するだけでは兵は動かぬ。かかれと思う所へ大将が真っ先に行けば、誰が見殺しにするものか」
 まず、自分を死地に置くーこの潔よさは彼の戦術ではなく、人生観だったのだ。左近将監はそのことを思い出したのだろう。それきり、何も言わなかった。
 そして、それを誰からか聞き伝えたのだろうか、冬姫もまた、あえて会津行きを止めようとはしなかった。
 「私をいつ連れていって頂けますの」
 色白の、瓜実顔をまっすぐ彼に向けて、言った。細いきれいな声で、はきはきしたもの言いをするのは、父織田信長譲りである。彼女は天下の覇者だった信長の二女で、十二の時、父に見込まれた氏郷の妻となった。
 「やがて迎えに来るぞ」
言いながら、氏郷は妻にあれこれと秀吉の申し出を拒まなかった理由を語らずに済んだことに、ほっとしていた。

2011年03月19日(土) 外国人、続々日本脱出、成田は脱出組の列
 福島第一原発3号機への放水は本日も行われるが、危険度は下がらず、不安を感じた外国人は日本脱出の動き。
 米はチャーター便で自国民100人を退避させ、東京、横浜、名古屋の外交官600人の日本からの退避を許可。
 英、仏、ベルギー、ロシア、ドイツなど輸送機で避難、あるいは東京から大阪へ機能移転を検討。成田空港では、臨時便で脱出する外国人が長い列。
 外国人は原発の危険度を厳しい目で見ている。しかし、われわれ日本人は逃げ場がないのだ。
     ◇  ◇  ◇
 本日、読者からメールが届いた。昨年10月5月8、9日で取り上げた、大窪山共同墓地に眠る会津藩士の天文暦学家片桐嘉矜と嘉保親子の子孫といわれる方。初代から数えて嘉矜が4代、嘉矜は5代で、ご当人は12代、という。会津藩士の学者の系列は長く続いている。嬉しい頼りだ。
 東日本大震災もここいらで一旦、止めて本来の歴史ワールドに戻そう。蝦夷地移住の名簿や明治23年の若松町士族名簿など、貴重な史料がある。
2011年03月18日(金) 東日本大震災に対して世界のマスコミは?
 巨大地震と津波に続く福島第一原発の爆発から一週間、世界が日本を注視している。
 ドイツでは、「チェルノブイリの再来」と過激な報道が目立つ。「死の恐怖にある東京」の見出しの新聞(ウェルト)や「意図的な情報操作は日本の伝統」(フランクフルター・アルゲマイネ)と手厳しい。
 フランスのメディアも「東電は事態の掌握に問題がある」(ル・モンド紙)と批判、ニューヨーク・タイムズ(米)も「リーダーシップが求められる時に、弱体で方向性の失われている統治システム」と危機対応を批判している。
 一方、韓国の主要メディアは、被災地で食料や水不足でも先を争うこともない住民の姿に「日本人が示した配慮と市民意識に世界が感嘆している」(朝鮮日報)と称賛し、李明博大統領も「日本の品格を高めている」と述べた。
 ウォールストリート・ジャーナル(米)も「300年に一度の大混乱のなか、日本人は平静を保ち、大規模な救助、復旧活動を展開し、世界の尊厳を集めている」。EUの欧州議会議長も「尊厳と冷静さを維持し、復旧作業に取り組んでいる人や一般市民に敬意を払いたい」と述べている。
2011年03月17日(木) 福島原発3号機、空と地上から放水も失敗
 福島第一原発3号機に午前中、自衛隊ヘリ2機で上空から4回30トン放水。放射線汚染のためホバリングできず、通過しながらの放水だが、北風が強く吹いており、テレビを見る限り、命中率は低い。夕方から警視庁の高圧放水車が地上から放水したが、使用済み核燃料を納めるタンクに届かず、失敗。
 2号機は煙を上げ続け、明日からの不安がますますー。日本はどうなる。
 世界は、原発への放水という、異例の出来事を注視、テレビで実況を中継。
 一方、今日は寒いため電力消費量が増え、大規模停電の怖れありーと夕方、経産省は国民へ一段の節電を、国交省は鉄道各社へ電車本数削減要請。
 国民生活を維持するための「救いの神」が、他方で国を破壊する悪魔の一面を持つことを如実に映し出している。
 警視庁の高圧放水車の失敗の後、自衛隊が放水したが、成果は?
 地震苦、津波苦、原発苦の3重苦の日本列島である。
2011年03月16日(水) 福島原発で放射能漏れ続く、被災地に涙雪
 福島原発からの放射能洩れは依然続き、首都圏を越えて長野まで異常値が測定され、拡散が広がっている。これまでは無事な5、6号機は大丈夫だろうか?それにつけても東電の作業の悪さには頭に来る。
 かつて木川田という大社長がいた時、お客様の身になってーと公共事業を担っている、という自負心が社員にあった気がする。今は、あたふた、するばかり。
 被災地では、今日、明日と被災地は氷点下の寒さに包まれる。毛布一枚で寒さに耐える被災者、発見されない行方不明者ー。心からの哀悼とお見舞いを申し上げる。
 昨夜は静岡県東部を震源地とする震度6強の地震発生。御前崎にある中部電力浜岡原発は無事だった、という。この原発は、以前、浜松支局デスク時代、予想される東海地震に備えて見学した。原子炉に入るのに、パンツ一つになって白い防護服に着替えた。 
 青白い水をたたえた格納容器には、燃料棒が数本ずつまっすぐ縦に並んでいて、物音ひとつない、無気味な静けさ。上から覗く際、眼鏡は不可。「地震は起きないように」祈ったものだ。
2011年03月15日(火) 福島原発2号機の圧力抑制室で爆発、4号機で火災
 とうとう不安が現実のものとなった。福島第一原発2号機で今朝早く爆発があり、核納容器が損傷した。半径30キロ以内の住民は家屋に退避指示。
 茨城県で放射能が測定され、放射能は首都圏へ向かっている。最悪のシナリオで、自然の尊厳を傷つけた人間に警鐘を鳴らしている。
 2号機は核納容器の最下部にある圧力抑制室で爆発があり、放射線に汚染された水が漏れ出している、とみられる。
 東電は作業員を退避させた。1、2号機の水素爆発と違い、燃料棒が、昨夜遅く2時間にわたって露出しており、現在も長さ4メートルの燃料棒の半分が露出している。
 4号機で火災発生。使用済み核燃料の高熱で炎上し、建物屋屋の屋根が破損して放射能物資地が煙りとなって屋外に輩出した。周辺で高濃度の放射能検出。チュリノブイリ原発事故クラスの大災害となってきた。
2011年03月14日(月) 福島原発3号機で爆発、11人負傷。2号機も故障
 いよいよ、東日本大震災の影響が市民生活を襲って来た。停電に備え、昨日、懐中電灯を購入のため、近くの店に行ったら、棚が空っぽ。仕方なく、高くで小さな電灯を買って来た。食糧も同じで、団地のスーパーは閉店、もう1店でかろうじて少し買い入れる。
 本日も午前10時すぎに余震があり、一時、津波の情報が。午後も余震続く。
 福島第1原発3号機で爆発。午後には、2号機で冷却装置故障。そしたら、東北電力原町火力発電所で火災ーと目まぐるしい騒ぎに、ついてゆけない。
 原発、火力を含め、福島県内の発電所は最悪の状態だ。福島第1原発の残る4、5号(点検中)も爆発の影響を受けるのでは?不安はますます強くなる。
 これで収まるとは思えない。輪番停電は茨城県などの一部で実施した。マンションでは、停電でトイレ、電話、水道が不能になる。明日、千葉は?
2011年03月13日(日) 東日本大震災、不明1万人超、22人被爆
 東日本の青森、岩手、宮城、福島で発生した巨大地震は東日本大震災と命名され、マグニチュードも観測史上最大の9に訂正された。余震も依然、続く。
 最も心配された福島原発1号機で起きた爆発事故で放射能汚染が起きてしまった。本日までに22人が被爆した、という。周辺住民20万人以上が非難している。
 それなのに官房長官、原子力安全・保安院の記者会見は一体なんだ。「爆発的事象」なんてごまかしの言葉で、少しでも小さく見せようとしている。住民の不安だけでなく、日本全体の、いや世界中の最大関心事なのに、である。
 読売、日テレ系列の福島中央テレビの爆発の瞬間をとらえた大スクープ映像があり、政府のいい加減な記者会見は否定された。 
 さらに、昨日も指摘したように、行方不明者が1万人を越えそうだ。最悪の予想が適中した。
2011年03月12日(土) 過去最大の巨大地震
 三陸沖を震源地としたM8,8、震度7という巨大地震が発生し、余震が続いて北海道から鹿児島まで列島は大津波に見舞われた。
 宮城、福島両県の太平洋岸で地盤沈下が起き、津波の水が引かない、という致命的な状態。死者、行方不明者は恐らく1万人に達するのではないか。不安だ。この瞬間(12日頬10分過ぎ)も余震が起きている。
 列島沈没という本があったが、テレビで生の映像をみるとはー。この世の終わりを感じさせる。
 福島の原発1号機で炉心棒が溶ける「メルトダウン」が午後2時から始まった。最悪の結果も予想される。水を炉心へ注入する緊急炉心冷却装置が故障して燃料棒が溶け出し、施設周辺でセシウムが検出された、という。
 おまけに余震は続いている。早く余震が収束し、原発の修理が済むように祈るばかりだ。
 それにしても、首都圏の電力事情を補うのに、金に眼が暗んで原発を誘致した福島県の県政担当者、周辺住民の責任は大きい、といわざるをえない。
2011年03月11日(金) 歴史小説鶴ヶ城物語(68)
     ◇蒲生二代(5)

「いや、お断り申さなかったのだ、俺はー」
「そ、それはまた何故にー」
「もう言ってくれるな、じいー」
 幼い日から馴れた呼び方で左近将監をよび、静かに微笑んだ。
「20年間、俺はいつもそなた達の先頭を駆けて来た。俺の銀鯰の兜が、一度でもおくれをとった事があったかー」
 左近将監は静かに首をふり、氏郷の心情を理解したようだった。
 たしかに彼はいつの戦にも陣頭にいた。蒲生の銀鯰ーといえば知らない者はないくらいで、人を召し抱える時、氏郷自身よく言ったものだ。
「当家では銀鯰の兜がいつも真っ先を駆ける。それに先陣をとられぬように工夫をすることだな」
 こうした氏郷を、猪武者とか、大将の器量がない、と言う人もいる。が彼はそうは思わない。

2011年03月10日(木) 歴史小説鶴ヶ城物語(67)
     ◇蒲生二代(4)

 西国育ちの武士には全く不馴れな陸奥(みちのく)、しかも一筋縄では行かぬ伊達が隣に控えていては二の足を踏むのも無理はない。
「何と言っても奥州は辺境。都のそばに居りませんことにはー」
ーーーが、とうとう俺は、このすすめを聞かなかったーーー
 峠に立って、氏郷はその日のことを思い出していた。
「やはり会津へ参ることになった」
と言い切った時の左近将監の驚きの色。
「秀吉公はお聞き入れ遊ばされなかったので?」
声をひそめる老いた眉に氏郷は静かにいったのだ。
     ◇   ◇   ◇
 民主党には大馬鹿がいる。日本に対して、竹島の領有権を主張するのを中止せよ、という韓国側の宣言文に署名したのは土肥某という衆議院議員。わが国固有の領土であることはブログで明記しているが、こんな馬鹿が国政にいるなんて、呆れるばかり。亡国の政党、民主党よ、国会から去れ!

2011年03月09日(水) 歴史小説鶴ヶ城物語(66)
     ◇蒲生二代(3)

 誰もがとめた。今度の御出世は御出世ではない、と言うのである。というのは会津はついこの間まで伊達領だった。しかも伊達が宿敵葦名氏を滅ぼしてやっと手に入れたという、いわば伊達の執念の地だったのである。
 当時、伊達は秀吉の力を見くびっていた。自らが奥州の秀吉のつもりだったから、小田原の陣への出陣を催促されてもなかなか出かけて来ない。それでも小田原北條の敗色が次第に濃くなったので、やっと当主の政宗が挨拶にやって来たが、秀吉はその遅参を責めて会津の地を取り上げてしまった。
 だから会津の地には伊達の恨みがこもっている。そんなところへ東国の事情も知らずにのこのこ出かけていけば、取り返しのつかない事になろう。というのが町野左近将監の言い分だった。
 「げんに細川越中守殿は、お断り申したそうではございませんか」
と町野左近将監は言った。細川越中守ー忠興はその仕にあらずと辞退した。言ってみれば貧乏くじを引くのがいやだったのだろう。

2011年03月08日(火) 歴史小説鶴ヶ城物語(65)
     ◇蒲生二代(2)

 広いー。
 濃い青緑の森と、褐色の大地、それらを縫って、ゆるいうねりをみせて流れる銀色の河ーーー。これまでの伊勢松坂12万石に比べれば、40万石の新領地は広すぎるほど広い。が、それほどの抜擢を受けたにしては、新領地を見下ろす彼の瞳は必ずしも明るくなかった。そしてそれは、あながち、このみちのくの平野を覆う空の色の濃さのためばかりではなかった。
ーーーおよしなさいませ。会津をお受けになるのはーー
 いまも彼の耳には、やわらかい、細い声が聞こえてくる。美しい彼の妻の冬姫だ。
ーーーお断り遊ばされたほうが御身のためではございませぬか。
 野太い声は町野左近将監だ。彼の乳母の夫で、少年時代から深くなじみ、今でも「じい」と呼びたいような老将だ。

2011年03月07日(月) 歴史小説鶴ヶ城物語(64)
     ◇蒲生二代(永井路子)(1)

 小田原城を攻略した豊臣秀吉が、その余勢を駆って会津へやって来たのは天正18年(1590)8月のことである。
 会津野を眼の下に見下ろす背炙峠に立った時、俄に空の青さが変わった。みちのくの青ーとでも言ったらいいのだろうか。その冷え冷えとした青さを映して、眼路の果ての山並にいだかれた会津野の森の緑も深々と青い。そしてその青さは、軍陣の中にあった一人の武将の瞳にも、ふと、深い翳(かげ)を落としたようだった。
 年のころは30代なかば、色白の細面、それでいて決して弱々しくない。鋭い細刀の刃物に似た俊敏な感じの武将、彼こそ蒲生氏郷ー豊臣秀吉から選ばれて、今からこの会津野の大守たろうとしているその人だった。
     ◇   ◇   ◇
 時ならぬ雪である。目の前の公園もうっすらと雪化粧。車もすっかり白くなった。不自由な体に極端な寒さはこたえる。

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