だからこそ、秀吉は自分をこの地に差し向けたのではないかーー。 「今度の伊達の振舞いの奇怪さ、その方たちの憤るのも、もっともだ。むしろ、今までよくこらえてくれたと思っている。礼を言うぞ」 「ーーー」 「が、こらえてくれたからこそ、ここまで無事にやってこられた。そしてまたーー」 言葉を切って彼は一座を見回した。細身の刀に似た光芒が彼の瞳の中にはあった。 「これはすでに政宗に勝ったことでもある」 その方たちが一分の隙もみせなかったからこそ、遂に政宗はおのが所領 の中にありながら、手も足も出なかったではないか。茶の招待など、せっぱ詰まっての嫌がらせだ。 ーーー来られるなら来てみろ1 どうだ。 と大いに凄んだつもりなのだろうが、今まで手出しができなかったものに何ができるか、と氏郷は呟いた。
「お出なされてはなりませぬ!」 並いる家臣たちが叫ぶように言った時、はじめて白せき(色白)の顔が人々を見詰めていた。 「案じるな」 思いがけないほど静かな声色だった。 「行ってやろう」 「そ、それは、なりませぬ」 左近将監は無意識に袖を捉えようとした。 「大事なお体でございますぞ」 「なればこそ行く」 氏郷は短く答えた。 「政宗の謀反は、会津を発つ時から知れていた。いや、陸奥の地を与えられた時、すでに俺はこの日を覚悟している」
「憎いは政宗め!」 氏郷の部将たちの眼は血走ってきた。 「彼奴の謀反は歴然、殿、何となされます」 答えを聞くまでもない、と思いつめた顔の部将たちが、氏郷のまありに押並んだ折も折、政宗からの書状が届いた。 「ここまで領内を御先導申し上げたが、これより先は敵領。合戦に先立ってまず一席、茶なりと差し上げたい。明朝わが陣にお越し下さるまいか」 側近はひとしく息を呑んだ。茶事にことよせて氏郷を殺してしまうつもりではないのか。 「よもやーー」 日頃、沈着な町野左近将監の声もしわがれている。 「よもやお受けはなされますまいな」 氏郷は黙って書状に見入っている。
ーーーおかしいぞ。 早速、忍者が飛ばされた。帰って来た彼等の報告によると、たしかに表面は忠義顔をしているが、どうも怪しい、というのである。たとえば、大崎・葛西の旧臣たちにも氏郷の出陣を知らせ、一揆追討への協力を促してはいるのだが、これもとりようによっては、 「蒲生が行くから気をつけろ。一揆に乗じてうまくやれ!」 とそそのかしているようでもある。伊達としては秀吉にうわべは服従したものの、会津を取りあげられた恨みは忘れてはいないのだ。 しかも、それを裏付けるように、伊達領の百姓たちまでが氏郷軍には全く非協力で、宿も貸さず、薪も提出しないという具合で、氏郷軍は、酷寒の陸奥で、しばしば露営をしなければならなかった。 これでは油断もすきもならない。友軍とはいえ、いつ寝返るかもわからない伊達軍を先頭に、緊張した雪中行軍が始まった。しかも進めば進むほど、どうも伊達が一揆と連絡をとっているらしい疑いは濃厚になってくる。
折から、会津にはすでに雪だった。 「この雪ではーー」 町野左近将監はしきりに気遣っている。 「われらは雪に馴れませぬ。いかがでございましょう。冬籠りをして春をお待ちになっては」 言い間も雪は降りやまず、遂に馬の胸に達するほどの積雪になった。が、氏郷はこの献言を受け入れなかった。 「待てぬ。木村父子を見殺しにはできぬ」 静かだが、決意のこもった口調でそう言い、ただちに出発した。馴れぬ者にとっては恐ろしいまでの尺余の雪を踏み固めて行軍すること数日、出陣してきた伊達政宗と落ち合ったのは11月12日のことである。 ここから伊達軍を先頭にその領地を通って一揆の本拠へ迫るわけだが、肝心の案内役の伊達軍は、のらりくらりとしていて、さっぱり先を急ぐ気配はない。
ーーー白亜の天守に、お冬を迎えたら、あいつめ、何というだろうかーー 先刻の暗い翳りはもうその瞳にはなかった。次の瞬間、青い森と褐色の平野めがけて身を躍らせるように、彼は馬に鞭をあて、一気に峠を駆け降りた。 しかし氏郷が、この会津の地に城を構えるまでには、その後、数年の年月を要した。会津に入ってまだ数カ月も経たないうちに、氏郷ともども、奥州の大崎、葛西氏の旧領に入った木村吉清・清久が一揆に囲まれ、佐沼城に閉じ込められてしまった。 大崎、葛西氏は小田原への不参を咎められて秀吉から領地を没収されたもので、それを不満とする領民が木村父子に反抗して一揆を起こしたのだ。 木村氏は非力な武将だった。秀吉は彼等を奥州へ送り込む時、何かの場合には氏郷を頼れ、と言い含めておいたのである。 こうなっては捨ててはおかれず、氏郷は京都の秀吉に急を報じ、江戸の徳川家康に加勢を頼む一方、隣国伊達政宗にも出陣して案内に立つよう申し送った。
峠に立っていま見下ろしている会津の山野は、やさしく、やわらかな故郷のそれとはおよそ違う。きびしく、荒削りで粗野でさえある。が、それだけに、何か未知数の生命力がそこに感じられはしないだろうか。 ーーーこの新天地で俺は王者になる。 氏郷の品のよい優しい面差しが、ふと、銀鯰の兜をかぶった時の精悍さに変わった。 ーーー城をーー と思ったのは、この瞬間である。陸奥(みちのく)の王者になった時、俺はこの地に新しい城を築くのだ。今ここにある黒川城は葦名時代の、中世ふうな城砦にすぎない。ここに信長や秀吉がいま西国に築いているような、壮大な天守をもった城を造ろう。 この山を背に、いま銀色に光っている川を堀にー構想はみるまに膨らんでゆく。
ーーーさらに、秀吉はもう一つ、俺に抜き難い劣等感を感じているー と知っていながら、氏郷はそれを冬姫に語ることをためらった。なぜなら、それは冬姫自身にかかわることだったからーーー 秀吉はどういうわけか貴婦人ごのみである。コンプレックスの裏返しかもしれない。信長の死後、その姪にあたる淀君を迎えて、やっと満足したものの、淀君よりも一段格の高い信長の息女をもらっている氏郷には、なにか微妙な心のつかえを感じているらしい。 もちろん、優れた武人であり、政治家である秀吉は、氏郷の武将としての器量は充分みとめ、存分に働かせ、功名のつど過分の加増も与えている。それでいて、なお、理屈で割り切れないもやもやしたものを棄てきれないーそんな秀吉の俗物性を氏郷は知っていた。 が、そんなことを口に出して何になろう。少なくとも冬姫に聞かせるべきではないーと思っていた彼にとって、彼女が、ぐずぐずと未練がましいことを言わずに松坂を発つ気になったらしい事は有難かった。
彼がなぜ秀吉の言葉を拒まなかったのか? 語り出せば語り尽くせないもののあることを氏郷は知っている。左近将監に語ったことは勿論うそではないが、それがすべてともいえないのだ。 もとはと言えば彼と秀吉は同輩だ。少年時代から信長に近接していたし、蒲生家は近江の小領主だから、家柄からいえば、氏郷のほうが数段まさっている。 しかも彼は若い。これは最近とみに老け込んで来た秀吉が、いくら嫉妬してもどうにもならない隔たりだ。 しかも垢抜けた美男子でもあり、何代も続いた小領主の血筋をひいているだけに、自然と身についた教養がある。茶道のたしなみひとつとっても、利休門下の十哲に数えられているくらいだ。これは秀吉がどう逆立ちしてもかなわないところで、利休を顧問にしていっぱしの茶人面をしてはいるが氏郷の品格には及ぶべくもない。
「ただそれ行け、かかれ、と下知するだけでは兵は動かぬ。かかれと思う所へ大将が真っ先に行けば、誰が見殺しにするものか」 まず、自分を死地に置くーこの潔よさは彼の戦術ではなく、人生観だったのだ。左近将監はそのことを思い出したのだろう。それきり、何も言わなかった。 そして、それを誰からか聞き伝えたのだろうか、冬姫もまた、あえて会津行きを止めようとはしなかった。 「私をいつ連れていって頂けますの」 色白の、瓜実顔をまっすぐ彼に向けて、言った。細いきれいな声で、はきはきしたもの言いをするのは、父織田信長譲りである。彼女は天下の覇者だった信長の二女で、十二の時、父に見込まれた氏郷の妻となった。 「やがて迎えに来るぞ」 言いながら、氏郷は妻にあれこれと秀吉の申し出を拒まなかった理由を語らずに済んだことに、ほっとしていた。
「いや、お断り申さなかったのだ、俺はー」 「そ、それはまた何故にー」 「もう言ってくれるな、じいー」 幼い日から馴れた呼び方で左近将監をよび、静かに微笑んだ。 「20年間、俺はいつもそなた達の先頭を駆けて来た。俺の銀鯰の兜が、一度でもおくれをとった事があったかー」 左近将監は静かに首をふり、氏郷の心情を理解したようだった。 たしかに彼はいつの戦にも陣頭にいた。蒲生の銀鯰ーといえば知らない者はないくらいで、人を召し抱える時、氏郷自身よく言ったものだ。 「当家では銀鯰の兜がいつも真っ先を駆ける。それに先陣をとられぬように工夫をすることだな」 こうした氏郷を、猪武者とか、大将の器量がない、と言う人もいる。が彼はそうは思わない。
西国育ちの武士には全く不馴れな陸奥(みちのく)、しかも一筋縄では行かぬ伊達が隣に控えていては二の足を踏むのも無理はない。 「何と言っても奥州は辺境。都のそばに居りませんことにはー」 ーーーが、とうとう俺は、このすすめを聞かなかったーーー 峠に立って、氏郷はその日のことを思い出していた。 「やはり会津へ参ることになった」 と言い切った時の左近将監の驚きの色。 「秀吉公はお聞き入れ遊ばされなかったので?」 声をひそめる老いた眉に氏郷は静かにいったのだ。 ◇ ◇ ◇ 民主党には大馬鹿がいる。日本に対して、竹島の領有権を主張するのを中止せよ、という韓国側の宣言文に署名したのは土肥某という衆議院議員。わが国固有の領土であることはブログで明記しているが、こんな馬鹿が国政にいるなんて、呆れるばかり。亡国の政党、民主党よ、国会から去れ!
誰もがとめた。今度の御出世は御出世ではない、と言うのである。というのは会津はついこの間まで伊達領だった。しかも伊達が宿敵葦名氏を滅ぼしてやっと手に入れたという、いわば伊達の執念の地だったのである。 当時、伊達は秀吉の力を見くびっていた。自らが奥州の秀吉のつもりだったから、小田原の陣への出陣を催促されてもなかなか出かけて来ない。それでも小田原北條の敗色が次第に濃くなったので、やっと当主の政宗が挨拶にやって来たが、秀吉はその遅参を責めて会津の地を取り上げてしまった。 だから会津の地には伊達の恨みがこもっている。そんなところへ東国の事情も知らずにのこのこ出かけていけば、取り返しのつかない事になろう。というのが町野左近将監の言い分だった。 「げんに細川越中守殿は、お断り申したそうではございませんか」 と町野左近将監は言った。細川越中守ー忠興はその仕にあらずと辞退した。言ってみれば貧乏くじを引くのがいやだったのだろう。
広いー。 濃い青緑の森と、褐色の大地、それらを縫って、ゆるいうねりをみせて流れる銀色の河ーーー。これまでの伊勢松坂12万石に比べれば、40万石の新領地は広すぎるほど広い。が、それほどの抜擢を受けたにしては、新領地を見下ろす彼の瞳は必ずしも明るくなかった。そしてそれは、あながち、このみちのくの平野を覆う空の色の濃さのためばかりではなかった。 ーーーおよしなさいませ。会津をお受けになるのはーー いまも彼の耳には、やわらかい、細い声が聞こえてくる。美しい彼の妻の冬姫だ。 ーーーお断り遊ばされたほうが御身のためではございませぬか。 野太い声は町野左近将監だ。彼の乳母の夫で、少年時代から深くなじみ、今でも「じい」と呼びたいような老将だ。
小田原城を攻略した豊臣秀吉が、その余勢を駆って会津へやって来たのは天正18年(1590)8月のことである。 会津野を眼の下に見下ろす背炙峠に立った時、俄に空の青さが変わった。みちのくの青ーとでも言ったらいいのだろうか。その冷え冷えとした青さを映して、眼路の果ての山並にいだかれた会津野の森の緑も深々と青い。そしてその青さは、軍陣の中にあった一人の武将の瞳にも、ふと、深い翳(かげ)を落としたようだった。 年のころは30代なかば、色白の細面、それでいて決して弱々しくない。鋭い細刀の刃物に似た俊敏な感じの武将、彼こそ蒲生氏郷ー豊臣秀吉から選ばれて、今からこの会津野の大守たろうとしているその人だった。 ◇ ◇ ◇ 時ならぬ雪である。目の前の公園もうっすらと雪化粧。車もすっかり白くなった。不自由な体に極端な寒さはこたえる。