山中幸盛というより、「山中鹿之助」の方が有名だ。当時の史料では「鹿介」である。 出雲(島根県)の戦国大名尼子氏の家臣で、「尼子十勇士」の一人だ。しかし幸盛が生まれた頃は尼子氏は衰退期になっており、いわば幸盛は、尼子復興に生涯をかけるべく宿命づけられた形だ。 永禄9年(1566)11月、居城月山富田城(同県安来市)を毛利元就に攻められて尼子義久が降伏、毛利方に取り篭められてしまい、幸盛らは浪人となった。 『陰徳太平記』によれば、幸盛ら幾人かは尼子氏再興を誓い合い、各地に散らばってその地の戦国大名の戦法を学んだ。 3年後、幸盛らは、京都の東福寺で修行僧だった尼子一族の青年を見つけ出し、尼子氏再興の行動を共にした。修行僧は還俗して尼子勝久と名乗り、幸盛らの呼びかけで浪人中だった約300名の遺臣が集まった。 「出雲奪還」を旗印に京を出発し、月山富田城に迫った。出雲に入ると兵の数は3000名に膨れ上がった。百姓になっていた旧臣が戻ったのだ。 この時期、毛利元就は大軍を率いて九州にわたり、筑前(福岡県)の大友宗麟と戦っていた。 ところが、元就は幸盛らの動きを察知し、急遽兵をまとめて引き返したため幸盛らの尼子再興計画は失敗に終わった。 それでも諦めない幸盛は、織田信長の支援を受けて織田方の最前線、播磨上月城(兵庫県佐用町)に入った。しかし、そこでも天正6年(1578)毛利軍に攻められ、勝久は自刃、幸盛はさらに再起を図ろうと逃げるところを捕えれ、殺されてしまう。 一生涯を尼子氏再興にかけた生き方に共感する人は多い。かくいう小生も中学生の頃、本を読んで感激し「山中鹿之助」のファンになった。 今、中学生は本を読んでいるのだろうか?スマホに夢中になってはいないか、日本の将来が不安だ。
大内義隆の重臣筆頭で、周防(山口県)守護代を努め、義隆から名乗りの一字を与えられ、隆房と名乗ったが、下剋上によって晴賢と改名した。擁立した大友宗麟の弟晴栄から晴の一字をもらった。 下剋上を起こすきっかけは前述した。寵臣重視を諫言して遠ざけられ、「このままでは大内領国は滅びる」と危機感を持った言い分は『大内義隆記』に「天の与へをとらざれば、返って其の科をうく。時に至りてをこなはざれば、返って其の科をうく」と。 天文20年(1551)8月20日に挙兵し、義隆は長門(山口県)深川の大寧寺で自刃した。クーデターの翌年2月、晴賢は厳島の商業に関する7か条を出し、領内の安芸(広島県)厳島における商品流通経済の隆盛を図っている。例えば「警護米禁止」。海賊に警護名目で巻き上げられた金銭を禁止した。瀬戸内海を航行する商船の安全を確保したのだ。 ただ晴賢による新政権はわずか3年余で終わる。弘治元年(1555)10月1日の厳島の戦いで毛利元就に敗れ、島内の高安原で自刃してしまう。
周防(山口県)守護代だった家臣の陶晴賢による下剋上にあっているので義隆の戦国武将としての評価は低い。武を忘れ、文に溺れた戦国大名の典型といわれている。 陶晴賢が下剋上を起こす頃は政治から逃避していて、寵臣の相良武任を重用し、政治が乱れ始めていたが、一時は、周防・長門、備後・安芸(広島県)、岩見(島根県)だけでなく、九州の豊前、筑前(福岡県、大分県)を支配し、肥前(佐賀県)の龍蔵寺氏も服属を申し出るほどの大勢力を維持していた。 12代足利将軍義晴から幕政に参加することを要求されるほどの力をもっていた。大陸との貿易も推進する先進的な大名であった。 ところが、天文11年(1542)正月から翌年にかけての出雲(島根県)遠征で自ら総大将となり、養子晴持をはじめ譜代の重臣たちを率いて出陣し、尼子晴久の古城月山富田城(同県安来氏)を攻めた。 ところが1年以上攻めても落とすことができず、逆に家臣の中から尼子方に寝返る者が続出し、義隆方が敗走することに。途中、後継者晴持が死んでしまった。 尼子氏との戦いに敗れた義隆は心の拠り所を、根付いていた大内文化の学問や芸能に求めるようになった。山口を訪れたフランシスコ・ザビエルを引見し、キリスト教の布教を許している。 ただ義隆が学問や芸能にのめりこんだため、出費がかさみ、それを天役(臨時税)の形で賦課したことで領民の不満が膨らみ、不満を汲み取った形で陶晴賢の下剋上が決行された。
大友宗麟の軍師道雪は落雷で足を負傷し、身体不自由だったが、家臣たちに手輿をかつがせて出陣した。戦で「輿を敵の真ん中にいれよ。命の惜しい者は輿を捨てて逃げよ」と叫び、全軍を叱咤した。いつの場合も崩れかけた軍の勢いを取り戻した、といわれる。 キリシタン大名だった宗麟は名君であると同時に暴君でもあった。政治をほったらかしにして連歌酒宴に明け暮れた時があった。 諫言しようにも近づくことが不可能だったが、道雪は京から踊り子を呼び寄せ、踊らせていた。評判を聞いた宗麟が「踊り子を連れて登城せよ」との沙汰があり、道雪は見事、宗麟に諫言することができた。 道雪は家中統制にも気を配り、天正7年(1579)若い家臣たちに訓戒状を残している。「いったん折檻をこうむっても、ご意見を申し上げてこそ、家来といえる」と、諫言の重要性を指摘した。 注目すべきは、男女差別をしなかったことだ。娘一人だけだったが、主君宗麟に娘への家督相続の許可を得ている。娘が後に婿を迎えたのが立花宗成である。 ◇ ◇ ◇ 島津氏の系譜は完了し、次回は大内氏の系譜。 我が母校、會津高校が24日の第68回全日本合唱コンクールで見事金賞を獲得。日本一は2年連続だそうだ。後輩諸君、おめでとう! 後は大学入試。頑張れ!
肥前(佐賀・長崎県)の龍蔵寺氏は、本家の村中龍蔵寺と分家の水ヶ江龍蔵寺があり、隆信は分家の出であった。天文17年(1548)本家の当主胤栄が没した時、世継ぎがいなかったため、隆信が胤栄の正室と結婚して家督を継いだ。 永禄2年(1559)少弐冬尚を滅ぼし、同6年には有馬軍を破って肥前をほぼ平定した。さらに筑後(福岡県)に進出して、豊後(大分県)の大友宗麟と衝突することに。 隆信は元亀元年(1570)今山の戦いで大友軍を破り、筑前(福岡県)、豊前(福岡・大分県)、さらに肥後(熊本県)にまで版図を広げ、大友宗麟・島津義久とで九州を三分する勢いだった。 ところが、天正12年((1584)3月、現在の長崎県島原市であった沖田畷の戦で一転する。それまで味方だった安徳城(島原市)の安徳純俊と日野江城の有馬晴信が島津方に通じた。島津義久は、弟家久に命じ、島原半島の島津方部将の応援に向かわせた。 対して隆信は3万余の大軍を率い、森岳に布陣した島津勢の本陣に総攻撃を加えた。そこは湿地帯で、沖田畷と呼ばれ、2,3人がやっと通れる畦道しかない場所。 龍蔵寺軍はその畷に誘い込まれ、側面から鉄砲で攻撃された。乱戦の中、隆信は首を取られる思わぬ展開となり、龍蔵寺軍は完敗した。そして龍蔵寺氏の衰退が始まる。 隆信は鍋島直茂という補佐役を得て版図拡大に成功するが、その勢力拡張が驕りとなってしまった。沖田畷の敗北は、油断としかいいようがない。
大友・島津・龍蔵寺が”3強”だった九州で、大友宗麟の属将として目覚ましい活躍をした紹運は、宗麟の重臣吉弘鑑理の次男で、同じく宗麟の重臣だった高橋鑑種が毛利方になったため、宗麟の命で高橋の名跡を継ぎ、名も鎮種となった。 元亀元年(157)のことで、宝満山城と岩屋城(共に福岡県太宰府市)の守りについている。天正9年(1581)紹運の子統虎が宗麟配下の立花道雪の婿養子となり、立花宗成に。立花山城の道雪と共に、筑前(同県)の反大友氏勢力との戦で大活躍した。 同12年3月、肥前(長崎県)島原の沖田畷の戦で龍蔵寺隆信が島津軍に敗れ、隆信が敗死したのを知った紹運は龍蔵寺領への侵攻の好機とみて、道雪と図って猫尾城(福岡県八女市)を攻め落とし、さらに柳河城(同県柳川市)を攻めたが、その陣中で道雪が病死したため兵を引いた。 その頃になると、島津軍が筑後から筑前まで侵攻してきていた。島津軍が大宰府の観世音寺に着陣し、紹運の岩屋城を包囲したのは同14年(1586)7月初め。14日から総攻撃が始まった。撤退を勧める宗茂の説得を断り、岩屋城で籠城戦が展開された。大軍相手に猛攻を半月近く刎ねかえしたが、多勢に無勢で、7月27日、紹運以下、城兵763人が壮烈な討死をとげた。 城は落ちたが、注目すべきは、籠城兵に一人として脱落者がいなかったことだ。紹運がいかに家臣から慕われていたかが伺われる。 この後、島津軍は立花山城を攻めるが、8月に入って豊臣軍の先鋒として毛利・吉川・小早川の軍勢が九州に入り、流れが変わる。紹運の頑張りがなければ、九州は島津氏に席巻され、その後の秀吉の九州攻めは困難になっていただろう。
大友宗麟の重臣高橋鎮種(紹運)の子で、母も宗麟の重臣斎藤鎮実の娘だ。天正9年(1581)筑前(福岡県)立花山城の城督戸次鑑連(立花道雪)の娘婿に迎えられた。 同13年、道雪が陣中で死去したため、家督と立花山城城督の地位を継承し、実父紹運と共に大友氏の筑前支配を担当した。 翌14年、島津勢が紹運の籠る岩屋城を攻めた時、宗茂は父に立花山城への退却を勧めたが、紹運は籠城を続け、壮絶な最期を遂げた。 翌15年、秀吉の九州攻めでは攻守ところを変えた。宗茂が島津勢の守る高鳥居城を攻め落として秀吉から感状を与えられ、島津義久降伏後は、筑後(福岡県)で13万石を与えられ、柳川城主に。 以後、豊臣大名として朝鮮出兵に参陣した。慶長5年の関ヶ原の合戦では、西軍として京極高次の大津城攻めを任され、9月15日に開城させたが、合戦には間に合わず、西軍敗報を聞いて柳川に戻り、東軍の加藤清正らと戦っている。 最終的には降伏し、家臣たちを清正に預け、自ら浪人になった。その潔い生き方は家康の知るところとなり、慶長8年には改めて堪忍分として陸奥・棚倉(福島県棚倉町)で1万石を与えれ大名に復活した。 さらに同19年の大坂冬の陣、翌年の夏の陣にも参陣して、遂に元和6年(1620)旧領筑後で10万9600石を与えられ、柳川城主に返り咲いた。しかも、2徳川代将軍秀忠から信頼が篤く、秀忠の相伴衆に。 子がなく、弟直次の子忠成を養子にして寛永14年(1637)隠居し、家督を譲っているが、翌年の島原の乱には参陣しており、戦いに明け暮れた一生であった。
島津氏は、4人兄弟が結束して領国を大きくしたのは前述した。義久、義弘、歳久、家久が力を合わせて短期間に薩摩から大隅、日向に進出し、大友宗麟、龍蔵寺隆信と九州を3分するまでに成長した。 ところが天正15年(1587)に秀吉が九州を攻めた時、義久は降伏し、出家したため、家督は弟義弘が受け継いだ。以後、所領を薩摩・大隅と、日向の一部に減らされたものの、豊臣大名として秀吉の朝鮮出兵にも出陣している。 領国経営で特筆されるのは、私鋳銭を鋳造させたことだ。当時、中国からの輸入貨幣が一般的に流通する中にあっては異色の施策といってよい。 また、朝鮮出兵の際、朝鮮人陶工を連れ帰り、陶磁器生産に関わらせたことは、他の大名も行っているが、陶工だけでなく、養蜂家を連れてきて、我が国に養蜂の技術を導入したことで知られる。 さらに朝鮮の馬も連れ帰り、大隅半島の鹿屋に放ち、種馬として品種改良と増産にも取り組んだ。 殖産興業に成功した義弘は慶長5年(1600)関ヶ原の合戦では存亡の危機を迎えた。島津領内では謀反など不穏な動きがあって義弘は1500の兵しか動員できず、少ない軍勢で西軍の一翼を担った。 松尾山に布陣した小早川秀秋の寝返りにより、西軍・石田三成、小西行長ら主力が後方の伊吹山方面に敗走し始めた時、義弘は敗走せずに、正面に布陣した家康の本陣に突っ込んでいった。正面突破の試みである。 この結果、1500人いた島津軍は多くが討たれたが、義弘らわずか80名は生き残った。 このような思い切った戦法で義弘が本国薩摩に帰りついたことで、家康としては島津を攻めるかどうかの決断に迫られた。家康は、相当な犠牲がでることを考慮して島津討伐を諦め、島津の所領と家名は保たれた。
島津氏は鎌倉時代以来の名族で、初代忠久が元歴2年(1185)に源頼朝から島津荘の下司職(荘園の管理責任者)に任命されている。島津荘は、薩摩・大隅両国と日向国(宮崎県)にまたがる8000町歩を超す大きな荘園であった。 戦国期、傍系の伊作島津氏の忠良の活躍によって、その子貴久が宗家を継ぎ、貴久の子供4人が力を合わせて盛り上げた。戦国期、家督争いを防ぐため、武将は長男を残して次男以下は養子に出すのが普通だった。 長男義久は13代足利将軍義輝から義の一字を与えられ、永禄9年(1566)家督を継いだ。以後、4兄弟が日向の伊東氏と戦い、伊東氏を支援する大友宗麟を日向・耳川の戦いで破っているが、活躍したのは長男義久と次男義弘だった。 さらに天正12年(1584)肥前(長崎県)沖田畷の戦で龍蔵寺隆信を破ったのは四男家久であった。 4兄弟の結束で九州全土をほぼその支配下においた軍事力は、義久が、琉球貿易を一手に独占していたためだ。 当時、中国の明は海禁政策をとっていて、直接、日明貿易は不可能だった。一方、当時は独立国だった琉球は、明と朝貢貿易を行い、朝貢したお返しに、品物が明から下賜された。 このため琉球との貿易を独占することは、明との貿易による利益を得ることを意味していた。絹、砂糖、染料などの輸入を一手に引き受け、義久は儲けを独占したことが、戦国大名島津氏の財政基盤を固める決定的要因となった。
安芸(広島県)と伊予(愛媛県)の間には、大三島、大島、因島、来島など、大小の島々が点在し、芸予諸島と呼ばれている。現在は西瀬戸自動車道(しまなみ海道)で結ばれているが、古くから瀬戸内海を使った舟運の難所で、それぞれの島に海賊が割拠していた。 15世紀前半、村上義顕は3人の子供を来島、能島、因島の3島に置いた。吉房が来島、雅房が能島、吉豊が因島で、それぞれ来島村上氏、能島村上氏、因島村上氏と呼ばれ、総称して「三村上」とか「三島村上」といわれた。 この村上水軍の惣領が能島村上氏で、そこで起こった家督争いを勝ち抜いたのが武吉である。武吉の子元吉は小早川隆景の養女を妻にして、毛利元就の「元」の一字をもらい、水軍の将として元就に仕えた。 武吉は元就に仕える前は大内氏の警護衆で、内海通行の商人たちから通行税を徴収する権利をもあっており、財力と制海権はかなりのものだった。 天文24年(1555)陶晴賢との厳島の戦を前に、元就は武吉を味方につけたいと、小早川隆景を通じて交渉した。結果、武吉は毛利軍に加わり、戦の勝利を決定づけた。村上水軍は、天正4年(1576)の木津川河口の戦いで織田信長を悩ませている。 その後、武吉は毛利輝元に違反した来島村上氏と戦って破り、所領を与えられた。 ところが、同16年(1588)7月、豊臣秀吉が海賊停止令を出したため、経済基盤を奪われ、小早川隆景配下の将として筑前(福岡県)に移り、文禄の役でも隆景に従って朝鮮に渡った。 子の元吉は慶長5年(1600)関ヶ原の戦で西軍に呼応し、故地である伊予の奪回を目指して、東軍加藤嘉明領に攻め込んだが、敢え無く討死してしまい、子孫は毛利氏の船手方としてかろうじて家を存続させた。村上氏の盛衰は、我が河野家の先祖と同じで戦国の水軍の歴史を象徴している。 ◇ ◇ ◇ 毛利氏の系譜は今回で終了。一旦、中国の経済問題に触れてから島津氏の系譜に移る。
羽柴秀吉の働きによって織田信長の勢力圏が西に延びていった天正10年(1582)4月の段階で、毛利輝元領との境界は備前と備中(共に岡山県)の国境線あたりだった。 そこに毛利方は「境目七城」と呼ばれた七つの城を築き、その中心的役割を担っていたのが備中・高松城(岡山市)で、城主が宗治だった。 宗治は、地域の小戦国大名で、高松城主の石川久孝の家臣だったが、久孝と嗣子が相次いで死去したため、自力で城主に。勢力を伸ばしてきた輝元の傘下に入り、小早川隆景の幕下に属していた。 秀吉は「味方になれば、備中・備後2国を与える」と調略を試みたが、宗治は拒絶した。秀吉の水攻めが始まり、6月3日を迎えた。本能寺の変で信長の死を知った秀吉は、毛利方に知られる前に講和交渉を急ぐ必要に迫られた(便覧65参照)。 秀吉は毛利方の使者安国寺恵瓊を呼び、講和を急がせた。輝元側は宗治の実力を高く評価していたので、切腹させるわけにはいかないと、強い態度をとり続けた。 秀吉はそれまで示した領土割譲の条件を緩和すると共に、「宗治の切腹で城兵の命は助ける」と申し出て、宗治も条件を飲み、自刃を決断した。 翌4日正午過ぎ、宗治は城を取り巻く秀吉の陣所近くまで舟を出し、舟の上で切腹した。城兵の命は救われた。この間の事情は小説の最高の見せ場だ。
戦国武将の意式は、「名を上げる」よりは、一門の名を上げるのに力を注ぐ。経家は典型的な後者であった。 石見(島根県)の福光城主吉川経安の子。一族の吉川元春の要請を受け、織田方の羽柴秀吉との戦いで、毛利方の最前線になるのが予想されれる鳥取城(鳥取県)に送りこまれた。 天正9年(1581)3月18日、400人ほどの家臣を従えて入城した経家は35歳であった。城には千人ほどの兵がいたが、秀吉軍が村々の百姓に乱暴を働き、百姓が城に逃げ込むよう仕組んだこともあって、非戦闘員の女、子供が多数いた。 経家にとっては誤算で、冬まで籠城戦を戦い抜くはずの兵糧がみるみる減った。秀吉軍2万が城を包囲し、兵糧補給の道が絶たれると、穀類は食べ尽くし、木の実や木の皮など食べられるものは食べ、かろうじて命をつなぐ状況になった。 毛利輝元から後詰の援軍の動きもなく、遂に経家は降伏を決意し、自らの切腹と引き換えに城兵の命を助けるよう秀吉側に伝えた。 切腹の前日10月24日、吉川元春の三男に宛てた遺書で「日本弐つの御弓矢の堺において忰腹(かせばら)に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と記している。織田と毛利の二大勢力の波佐間で戦い、切腹に至った名誉を自負している。 また切腹当日、子供たちに「我ら一人御ようにたち、各々を助け申す、一もんの名を上げ候」と、一門の武名を上げた満足感溢れる遺書を残した。
毛利元就が安芸1国(広島県)の国人一揆から頭一つ抜け出して戦国大名に成長したのは、我が子を同じレベルの国人領主の家に養子として送りこんだからである。 長男隆元が毛利家を継ぎ、次男元春が吉川家を、三男隆景が小早川家を継いだ。隆元の死後、子の輝元を、この二人の弟が補佐し、「毛利両川」体制が生まれた。 両川と言いながら二人の力量は違う。元春の初陣は天文10年(1541)の郡山合戦で、12歳で手柄をたてている。母の実家だった吉川家を継いだのは同19年で、その後も父元就に従軍し、弘治元年(1555)の厳島の戦いを始め、山陰、山陽、さらに九州各地で戦功を上げている。 永禄12年(1569)の筑前(福岡県)立花城の戦がよく知られている。この城は大友宗麟方の城だったが、元春らの攻撃で毛利方になった。この時、元就の後方を攪乱する動きが出た。山中幸盛らが擁立した尼子勝久が信長の支援を受けて動き出し、大内氏の遺臣も大内輝弘を擁立した。 元就は撤退を決めたが、元春は異を唱えた。「折角奪った城を捨てるのか」と。 こうした一面が如実に現れたのが天正10年(1582)6月の羽柴秀吉による「中国大返し」の時。秀吉が清水宗治の守る備中・高松城を水攻めした時、元春は小早川隆景と共に宗治の後詰めとして高松城近くに布陣していた。 同月3日夜、突如、秀吉からの和平交渉の話があり、翌4日、宗治の切腹によって両軍は兵を引くことに。 その直後、毛利方は信長の死を知り、元春は秀吉を追撃すると主張したが、追撃を押しとどめたのが隆景だった。「誓詞の墨が乾かないのに、それを反故にするわけにはゆかぬ」という理由だった。隆景は秀吉の力量を評価していたようだ。 結局、後の豊臣政権下で隆景は優遇され、元春は冷遇された。
毛利隆元の子で、元就の嫡孫にあたる。父が永禄6年(1563)急死したためわずか11歳で家督を継いだ。その時点では、祖父元就も健在で、後見を受けていたが、その2年後、元服にあたり、足利将軍義輝から名前の一字をもらう偏諱を受け、輝元と名乗った。 元亀2年(1571)元就が没すると、2人の叔父、吉川元春と小早川隆景の補佐を受けている。伯父たちが毛利本家を守る形で、「毛利両川体制」と呼んでいる。輝元は2人のお蔭で元就の全盛期以上に版図を広げた。 その輝元に対抗する戦力が出現する。織田信長である。輝元が備前・美作(共に岡山県)の宇喜多直家を味方につけ、播磨(兵庫県)まで侵攻したところ、東から信長が進出し、信長の家臣秀吉との戦が続いた。 輝元は、播磨・三木城(兵庫県三木市)の別所長治や摂津・有岡城(同県伊丹市)の荒木村重を寝返らせ、石山本願寺とも組んで、信長を苦しめた。が、宇喜多直家が信長方になってから守勢に回り、天正10年(1582)5月から8月にかけて備中・高松城(岡山市)で秀吉軍と対峙した。 だが、本能寺の変を受けての講和交渉を経て秀吉の天下取りをアシストする。信長急死の使者が毛利方に届くのを途中で捕え、講和に臨んだ秀吉の幸運を指摘すべきであろう。 この後、秀吉の四国、九州攻めに従軍し、豊臣大名の一員に。秀吉の力量を認めた先見の明があったといえるが、秀吉びいきの小早川隆景や安国寺恵瓊に引きずられた印象も否めない。 豊臣政権下で112万石の大大名として、また5大老の一人として重きをなしたが、秀吉の死後、自己主張のなさが裏目に出た。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で、石田三成や大谷吉継らの要請で、西軍大将として大坂城に入った。が、三成の再三の督促にもかかわらず、城を出なかった。 西軍敗北の責任で、7か国を没収され、周防・長門(山口県)2カ国へ減封された。後に徳川家はこの処置が大きな過ちだったことを知ることになる。幕末、討幕の中心勢力だった長州藩を取り潰していれば〜。悔やんでも悔やみきれない処置だった。
さて武田氏の家臣となった河野氏は、跡部大炊助勝資の同心となる。山梨県塩山市にある恵林寺所蔵にある信玄公宝物館所蔵の『信玄流陣立図』には、跡部大炊助が300騎を従えて陣取った図と、後に天正の起請文に出てくる跡部大炊助同心,(河)野三右衛門とを結びつけると、我が先祖は屈強な武田軍団の跡部勢の一員として戦ったであろうと、夢は膨らむ。 この陣立図は総大将の座を中央に旗本衆が前面、両脇を固めている。跡部勢300騎は前衛3列目の左から2番目で、右は武田24将の一人、穴山梅雪勢200騎の部隊だ。 跡部大炊助は、元々は甲斐国の守護代だった。が、武田氏に攻められて没落し、以後、信玄ー勝頼時代を通じて側近となり、家中では、山県昌景、春日虎綱らと並んで侍大将クラスだった。武田家臣中、300騎を動員できる最大級の家臣であった。 だが、『甲陽軍艦』によれば、天正3年(1575)長篠の戦いで跡部は古参の家臣と対立して主戦論を展開し、武田氏滅亡を招いた人物として、「武田24将」に入っていない。 2度目の不幸で、我が先祖は、武士に見切りをつけて甲斐国で農民(名主)として生き延び今日に至っている。 甲斐国から父和夫が會津に来た経緯は省くが、河野家は、堂々とした武家出身であり、全国の河野氏、越智氏などと共通する由緒ある家紋であり、誇りに生きようと思う。 一族には、時宗を興した一遍上人がいる。時宗のお寺、神奈川県の遊行寺は、箱根駅伝のコース脇にあり、坂下りで有名な「遊行寺の坂」として日テレでも紹介している。来年正月の箱根駅伝で確認されたい。 ◇ ◇ ◇ 河野氏の子孫は毎年、発祥の旧北条市(現松山市)に集い、”同窓会”を開いて友好を深めている。今年は今月25日、松山市の高輪山山頂付近など3か所で「河野氏関係交流会」を開催する。全国から約200名の河野氏の子孫が集い、講演を聞き、「われら河野一族」の一族ソングを合唱する。 ♪蒙古襲来 国難救う われら道有 日本の誉れ(以下略) 声を張り上げて歌いたい気分だ。
甲斐の武田氏を取り上げた以上、わが河野家の先祖を取り上げないわけにはいかない。というのは伊予(愛媛県)の水軍だった河野氏は、全国制覇を目指す豊臣秀吉に滅ぼされ、一族は全国に逃散した。そのなかで、我が家の先祖は、甲斐の武田氏を頼って甲府に落ち延びた。 武田24将に次ぐ重臣跡部大炊助勝資の同心として活躍したが、信玄の子勝頼が、織田・徳川連合によって敗れ、滅びるという2度の不幸に見舞われ、伊予の守護大名であった河野氏は武士を捨て、農民(名主)として生き延びる。 鎌倉時代、2度にわたって蒙古が我が国に攻めて来た元寇の際、参陣した当主は氏神である大三島の大山祇神社に戦勝祈願し、奉納した鎧や刀は現在、国宝に指定されている。まさに由緒正しい大名であったが、豊臣秀吉によって滅亡し古く南良時代から続いた河野氏は19代で幕を閉じた。 一族に、時宗を興した一遍上人がおり、神奈川県の遊行寺の家紋は同じである。箱根駅伝のコースになっている遊行寺の坂は有名だ。家紋「隅切り折敷に三」は、伊予国大三島に鎮座する大山祇神社の三からとった。河野家と同族の越智氏も大三島神社を氏神としており、同じ家紋である。 因みに家紋は本来は武士が戦いの際に、腰につける旗指物で、いわば目印である。町人や農民に家紋などあるはずもなく、現在使用している庶民の家紋は明治になって勝手に使ったものなのだ。意味はまったくない。 ◇ ◇ ◇ 故伊東正義代議士の妻輝子さんが2日、100歳で亡くなった。ご長寿であった。 伊東代議士は「會津っぽ」そのもので、首相の座に推されながら、「器を変えてもダメ」と断った頑固者だ。 父親は伊東さんを熱心に指示し、福島4区(当時は中選挙区制)で、渡辺恒三と激しくトップ争いをしたものだ。懐かしい方の名前がまた一つ消えた。
信玄の四男だった。母は信玄に滅ぼされた諏訪頼重の娘である。武田家は家督は信玄の長男義信が継ぐことになっていたので、諏訪家の人間として信濃の高遠城で成長した。 が、義信が信玄によって廃嫡された上、自刃し、次男龍宝は盲目、三男信之が夭折したため、元亀2年(1571)信玄の後継者として甲斐の躑躅ヶ埼館に迎えられる。 翌年の三方ヶ原の戦で徳川家康の居城浜松城の支城二俣城を落とし、武田軍勝利に貢献したが、翌天正元年(1573)信玄の死に際しての遺言は勝頼にとって意外だった。 「勝頼の嫡男信勝が16歳になったら、信勝に家督を譲れ」という内容だった。勝頼はあくまで中継ぎだというのだ。武田家家臣団の求心力が低下するのは目に見えていた。 このため、勝頼は譜代の重臣を見返そうと、戦いでは信玄以上の戦果を上げようと必死になり、天正2年、信玄が落とせなかった遠江の高天神城を落とした。 が、これが自信過剰になり、翌年の三河・長篠城攻めに繋がる。城主奥平信昌が家康に救援要請し、さらに家康が織田信長に要請、連合軍が3万の軍勢を率いて駆けつけ史上有名な長篠・設楽ヶ原の戦になる。 武田軍の大敗で、武田氏は急速に衰退し、天目山で勝頼一族は滅亡」。普通なら、「勝頼は猪突猛進型の武将だった」と酷評されるが、信長は「日本(ひのもと)にかくれなき弓取り」と最大限の賛辞を送った。 名将・信玄の陰に隠れがちだが、武田領国を維持した点は評価されるべきだ。 (武田信玄の系譜は今回で終了。次回から毛利輝元の系譜になる)
武田信虎の次男で、晴信(信玄)の4つ下の弟だ。信虎は晴信を嫌い、信繁に家督を譲りたかったらしい。しかし、信繁は兄晴信を盛り立てており、他家でみられた兄弟間の家督争にはならなかった。信繁なりに兄の力量を評価して自らはナンバー2として生きる方を選択したのだ。 晴信が家督を継いだ後は、その補佐役に徹し、村上義清との戦で先鋒として出陣したり、晴信の命令を家臣に伝える役をこなした。 また、晴信が京の公家を躑躅ヶ埼館に迎えた際には、同席して一緒に和歌を詠んだりもした。 兄晴信の分身といった感がするが、極めつきともいうべきものが、「古典厩より子息長老江異見九十九箇条之事」と題された家訓を書き遺している。晴信には「甲州法度之次第」という分国法があった。これは戦国家法で武田領国の公的な側面についての規定だ。 それに対して信繁の記した家訓は、家中統制などの私的な側面が中心だ。いわば、兄晴信が表の世界を、弟信繁が裏の世界を担当した、といってもよい。家訓は随所に論語や史記など中国の古典が引用され、わかり易い文章である。 例えば、「武勇専ら嗜むべき事。三略に云う。強将の下に弱卒無し」という項目もあれば、「兄弟に対し、聊かも疎略すべからざる事。後漢書に云う。兄弟は左右の手也と」もあり、信繁自身も、わが身に置き換えてとらえていた。 しかし、残念ながら、信繁は家訓を書き終えた3年後、上杉謙信との第4次川中島の戦いで戦死した。家訓の文末に「往生の書ならずということ無し」(最後の書になるかもしれない)と書いたのが現実となった。
「武田24将」の中から智謀に優れた名将を「武田の4名臣」よ呼んでいる。板垣信方、内藤昌秀(昌豊)、春日虎綱、そして馬場信房である。 武田の戦には、ほとんど出陣し、生涯に一人の活躍で勝利に導いた戦いが21回もあったという。しかも、身に1か所の手傷も負わなかった。 軍事面だけでなく、主君信玄に直言できた数少ない武将でもあった。 永禄11年(1568)12月、信玄が駿河の今川氏直を攻めた時、信玄は今川館に義元以来収集してきた財宝があることを知っていたので、「財宝は焼くな」と命じていた。 ところが、今川館攻めの先鋒をつとめた信房は、信玄の命を無視して館に焼き討ちをかけてしまった。信玄から叱責された信房は「もし、財宝を奪い取れば後世、信玄は今川の財宝欲しさに攻めたといわれる」と諫言した。 また信房は築城も得意だった。山本勘助から築城術を教えられたからである。信濃の深志城(長野県松本市)や牧之島城(長野市)はいずれも信房が曲輪や防御施設の配置を決める「縄張り」を行っており、武田流築城術といわれる勘助流の縄張りだ。 元亀3年(1572)12月の遠江の三方ヶ原の戦いでも大活躍したが、翌年、信玄が亡くなり、跡を継いだ勝頼にも仕えた。 その勝頼が織田・徳川連合軍に敗れた三河(愛知県)の長篠・設楽ヶ原の戦いが信房の最期の舞台となった。信房は勝頼に「ひとまず兵を引き、時機到来を待つのが得策」と主張したが決戦となり、信房は「ここが死に場所」と考え、敗走する味方の殿を努め、勝頼の旗が安全圏に入ったのを見届け、単騎、馬首をかえして敵陣に突入し、壮絶な最期を遂げた。
一般的には、高坂弾正昌信のことである。高坂という苗字は武田家の軍績を記した軍学書『甲陽軍艦』に見えるが、当時の確かな文書では香坂と署名している。が、それも短期間で、元の春日姓に戻っている。そのため、最近の人名辞典では春日虎綱としている。 甲斐の石和(笛吹市)の豪農だった春日大隈の子で、天文11年(1542)武田信玄の近習となった。その頃の名は源助で、信玄の男色の相手として知られる。 同21年の信濃・小岩岳城の戦で虎綱が陣頭に立って城内に攻め込み、その功によって足軽大将に抜擢され、100騎を預けられた。その後も雨飾城(長野市)攻めでも活躍、信玄が海津城を築いた時、城の大将に起用された。 信玄の北信濃侵攻の戦で最も活躍したのが虎綱で、上杉謙信との数次におよぶ川中島の戦でも重要な役割を果たし、「武田24将」の中でも特筆される存在だった。 いわゆる信玄の軍事行動の担い手であり、天正元年(1573)4月、信玄が信濃で亡くなった際、殉死を願い出るほど、信玄を信奉していた。 信玄への追憶の思いが『甲陽軍艦』を生み出す原動力となったようだ。軍艦では、主要な部分を虎綱が書き、あとを甥の春日惣次郎らが、虎綱の話した内容を書き記するという口述筆記の形をとっている。信玄一代記として貴重な文献である。 虎綱は海津城代の立場で越後の上杉氏と対峙しており、越後の情勢には敏感で、天正6年(1578)謙信が亡くなると、上杉氏との和睦交渉に乗り出したが、その途中の6月、没してしまった。
信玄の軍師として有名な勘助だが、生年・出身地が諸説ある。最も有力視されているのが、明応9年(1500)であるが、出身地は三河の加茂(豊橋市)、牛久保(豊川市)と、駿河(静岡県)の山本(富士市)の3説がある。 小説や映画、テレビに信玄の軍師として紹介されてきたが、研究者の間では、「架空の軍師」として疑問符がつけられていた。史料に登場しないためだった。 ところが、昭和44年(1969)北海道釧路市で発見された信玄の文書に初めて「山本管助」の名が出て、現在では勘助実在説が主流となっている。 信玄に仕えたのは天文13年(1544)で、どちらかといえば呪術者型軍師の範疇に入り、占筮(せんぜい)という易や占いに通じた軍師であった。 もう一つ、勘助が実力を発揮したのが築城だった。武田氏が築いた城は、他の大名と違って虎口という城への出入り口に特徴がある。丸馬出といって堀や土塁が三日月状になっている。どこから攻められても死角がない、という築城だ。この方法で信濃の海津城を築いた。 『甲陽軍艦』は、永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いの時、別動隊に上杉謙信の本陣妻女山の後方から攻めさせる「きつつきの戦法」を信玄に進言したのが勘助だったとしている。 事実とすれば、占いや築城を本分とした勘助が、自分の持ち分を超えた領域に踏み込んだわけで、この作戦失敗の責任を取る形で討死したと見ることができる。
上杉謙信の好敵手として川中島の戦いばかりが語られるが、本国・甲斐から信濃、さらに西上野や駿河も版図に組み込み、領国の経営手腕は見るべきものが多い。 代表的な功績として後世まで影響を与えたものとして「信玄堤」が挙げられる。甲斐には笛吹川と釜無川が流れ、合流して富士川となるが、源流から甲府盆地まで距離が短いこともあって、少しの雨でも洪水を引き起こした。 父信虎を駿河に逐い、自らの手で家督をもぎ取った信玄が真っ先に手掛けたのは洪水を防ぐための治水工事だった。現在でも「信玄堤」の名で知られ、特に釜無川の龍王堤は有名だ。インフラ整備が国造りの基本であることを信玄は認識していた。 また、忘れてはならないのが、金山の開発だ。山梨県の地図を見ると、「金成沢」「金山沢」といった金の地名が多いことに気付く。甲斐が産金国であった証明で、黒川金山、湯之奥金山など、我が国を代表する金山がいくつもあった。 これらは信玄の軍資金になったわけで、信玄は金を碁石金に鋳造し、出陣する際、碁石金を袋に入れて持参し、手柄のあった家臣に手柄に応じて与えたという。 治水にしても金山開発にしても、信玄がテクノラートともいえる土木技術者を積極的に登用し、育成したからだろう。 元亀3年(1572)足利将軍義昭の信長追討令に呼応して京に上り始め、翌4年、三方ヶ原の戦いで徳川家康を破り、三河へ攻め入ろうとしたが、発病。甲斐へ帰る途中の同4年4月12日、信州・長篠城で死去した。「わしの死亡は3年間、公にするな」と遺言を残し、家臣は固く秘匿した。 ◇ ◇ ◇ その信玄の棺だが、諏訪湖に沈めたのでは?という伝承があり、読売新聞が事業局の業務として、筆者が長野支局長時代、諏訪湖の湖底を探査したことがある。 夢実現か?と関係者もワクワクしたが、結局、夢に終わった。古くから湖底に箱のようなものがあるーといわれてきたのだが、夢は夢のままそっとしておく方がいいのだ。
国宝、そして世界遺産となっている姫路城を築いたのが輝政である。池田恒興の次男で、信長の近習として各地を転戦し、天正6年(1578)からの荒木村重の謀反鎮圧に大活躍した。 同12年の小牧・長久手の戦で恒興と兄元助が戦死したため、池田家の家督を継ぎ、美濃(岐阜県)大垣城主、ついで岐阜城主となった。秀吉家臣団の中堅として豊臣の姓も賜った。小田原攻めの論功行賞で三河・吉田城(愛知県豊橋市)に移り、15万2千石を領した。 転機は家康の娘督姫との結婚だった。篤姫は北条氏直の正室だったが、北条氏滅亡後、家康のもとへ戻っていた。秀吉の斡旋で文禄3年(1594)輝政と結婚。家康の養女を娶った武将はいるが、実の娘を娶ったのは輝政ら少数で、豊臣恩顧の大名だったが、関ヶ原の合戦では、迷うことなく徳川方についた。 関ヶ原の合戦の前哨戦、岐阜城攻めで、細川忠興らが惣門大手口から攻めたのに対し、輝政は裏側の水の手口から攻め入り、二の丸に一番乗りした。合戦の論功行賞で播磨1国52万石が与えられ、姫路城を居城とした。 この姫路城は一時、秀吉や弟秀長らが居城とするなど豊臣系の城だった。輝政は同6年から城郭の大拡張工事に取り掛かり、西国の守りをつとめるに相応しい城とした。 輝政自身は52万石だったが、弟長吉や子忠継らにも所領が与えられ、一族の全領土は92万石に上り、輝政は「西国将軍」と呼ばれた。 ◇ ◇ ◇ 徳川家康の系列は今回で終わり、明日からは武田信玄系列を特集する。 訃報で読売新聞の先輩梶田金志さんが載っていた。成田闘争からの古い付き合いで原稿の書き方を教わった。あれ以来、自信がついた。長野支局長に抜擢してくれた恩人だった。安らかにお眠り下さい。合掌