河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2015年01月31日(土) 會津藩士の蝦夷地移住(84)
 明治11年(1878)茂友、茂弘一家は故郷の會津へ帰った。若松の旧郭内にあった屋敷は西軍に焼かれて焼け野原に変わり果てたままで、仕方なく耶麻郡窪村(現会津坂下町)に落ち着いた。
 茂弘は自ら「遷喬庵」と名乗って世捨て人の生活を送っていたが、間もなく村人に頼まれて童らに勉学を指南した。
 茂友の次男虎次は『補修白虎隊十九士伝』の中で、
「明治111年、余?父ニ先立チテ北海道ヨリ會津二帰リ(以下略)」
と記しており、一家が引き揚げたのは明治11年か12年と思われる。
 不明なのは帰郷の理由だ。『明治五年畑開墾帳』によれば、宗川一家の開墾実績は抜群で、立派に総取締(隊長)の責任を果たしている。
2015年01月30日(金) 會津藩士の蝦夷地移住(83)
 余市で、茂弘は毎朝、近くの丘に登ってはるか南の方角會津に向かい、先君容敬の宗廟を遥拝し、容保の無事安泰を祈念していた。
 春夏秋冬、一日も休まなかったという。茂友もまた、容保が手元不如意と聞けば、自分の得た給与の中から時折、お見舞い金を送っていた。
 この茂友の篤い心に対し、容保は次の1首を送った。
『 志の篤かりきを喜びて
蝦夷といへは はるけきものを
遠しともなさて こころはこぶ嬉しさ 
              容保 』
 この短冊は宗川家の子孫が家宝として保管している。
2015年01月29日(木) 會津藩士の蝦夷地移住(82)
 小樽上陸から余市入植が決まるまでが、茂友の最も苦しかった時代だろう。兵部省と開拓使との対立、斗南藩へ返還するという新政府の方針に進退窮まり、広沢安任と共に黒田清隆に陳情して、余市移住が決定した経緯は前述の通りだ。
 この間、會津へ戻ったり、他へ転出する者も出る中で、藩士をまとめた功績は大きい。
 北海道開拓使は茂友を開拓使少主典に任命して重く用いようとしたが、茂友は
「自分は開墾者の一人である。官途にあるのは他の人にすまない」
と固辞した。
 父茂弘は儒者見習で8代藩主容敬と9代藩主容保2代の侍講であった。35年間勤め、安政4年(1857)61歳で致仕した。
2015年01月28日(水) 會津藩士の蝦夷地移住(81)
 宗川家の系譜をたどれば、父茂弘と祖父茂京は、いずれも藩主の侍講で、容敬(8代)と容保〈9代)に仕えた学者肌の家系である。
 茂友は茂弘の三男だが、兄二人が夭折したため家督を継いだ。茂友は武人で、藩校・日新館で宝蔵院流槍術を安藤市蔵に学び、高弟となった槍一筋であった。
 安政六年(1859)藩主・容保の御供番となり、身辺警護役として戊辰戦争を戦い抜いた。慶応4年3月、朱雀士中隊半隊頭を命じられ、9月には鉄砲隊頭、知行400石を仰せつかった。
 蝦夷地へ渡る藩士隊の中隊長(隊長を指す)となった。72歳の父茂弘、妻須美、次男虎次、長女、次女の5人家族がいた。(長男虎松は戊辰の役で戦死)この他、家来が3人いた。
2015年01月27日(火) 會津藩士の蝦夷地移住(80)
 茂友には老父茂弘がいた。鶴ヶ城開城後、茂弘が高齢だったので東京護送にはならず、河沼郡及川村(現湯川村)にお預けとなり、蝦夷地行きが決まった。
 明治3年、いよいよ蝦夷地へ渡る時、藩主松平容保は次の一首を餞として茂友に送った。
「蝦夷地へゆくと聞きて
我はまだ 蝦夷地知らねども 蝦夷ヶ嶋 
寒しときけば 心して住め」
 茂友の任務は藩士を引き連れて蝦夷地へ渡り、「蝦夷地開拓」の号令をかけた新政府兵部省の指揮に従うことであった。
2015年01月26日(月) 會津藩士の蝦夷地移住(79)
 旧會津藩士北海道移住団200戸、約700名の総隊長で、余市移住後は総取締に推された宗川茂友は、どのような人物だったのか?
 入植者の一人細谷伴助の子息道之助はいっている。
「もともと會津の団体は他の移住団体と違って引率者を持たない青壮年の集まりだった。宗川という人は総取締になったほどの人物で、よく指導的な役割を果たしたようです」(『余市農業発達史』
 引率者というのは、同じ北海道に渡った伊達亘藩や白石藩などのように、藩主もしくは家老職の引率を指している。宗川は400石の中級武士でしかなかった。隊長に選ばれた理由は不明だが、責任感が強かったから選ばれたのは間違いない。
2015年01月25日(日) 會津藩士の蝦夷地移住(78)
 藩士らは歓びの祝宴を開いた。席上、元戸長だった古沢孝三郎は和歌を詠んだ。
「人しれず はこにをさめし 剣太刀 とりいたすけふそ 嬉しかりける」
 古沢は山田、黒川両村の講武所で少年らに真砂流柔術を指導する一面、歌人でもあった。これに格調高い長歌
「天のした四方明らけく治れるみ代の初にもの(以下略)
がついており、士族復帰の喜びを詠じている。
     ◇   ◇   ◇
 イスラム国による日本人人質事件は新たな展開をみせている。人質の一人ジャーナリストの後藤さんが、湯川(千葉市花見川区)の写真を持って英語でスピーチしている動画が世界中に流れている。
 商売が見え隠れする湯川の犠牲は仕方ないにしても、後藤さんは、ヨルダンにつかまっている女性を解放すれば交換で解放されると訴えている。ヨルダンの出方が問題だが、果たして〜
2015年01月24日(土) 會津藩士の蝦夷地移住(77)
 明治26年(1893)9月、待望久しかった士族復帰が認められた。れっきとした會津藩士に戻ったのである。泪を流して藩士たちは喜んだ。
 會津藩士は入植当時の明治5年作成の『戸籍調帳』には、
「岩代国會津藩士族 藁谷三八」
というように士族と明記されていた。
 それがいつの頃からか、平民に格下げされていたのだ。属称認知は明治4年の廃藩置県の際の身分を根拠にした。余市入植の藩士らは既に斗南で農民になっており、武士ではなく農民にされていた。
 不合理を訴えて復帰運動を続け、天下晴れて士族復帰となったのだ。
2015年01月23日(金) 會津藩士の蝦夷地移住(76)
 明治29年(1896)には大阪府で全国大博覧会が開催され、山田村の百瀬清三郎の19号が銀杯を受賞し、大阪、神戸、横浜方面の問屋からの取引が急増し、同35年(1902)には購販組合を設立するまでに果樹産業として成長した。
 キング19号は「緋の衣」、ローズ49号は「国光」と命名された。
「赤羽源八は成功の感謝と神々への感謝でもぎ取る手が震えた。ずっしりとした手頃な重みと感触は永年政府に対して持っていた不満も拭い去る高貴さを感じた」
 余市リンゴの初収穫の感激を『余市小史』は記している。後年、北海道を代表する余市リンゴが初めて旧會津藩士の畑に実り、以後、1世紀を超えた。この間、盛衰、消長を繰り返して余市農業生産の主流を占め、遠くロシアのウラジオストクまで輸出した時代もあった。
2015年01月22日(木) 會津藩士の蝦夷地移住(75)
 この間の事情について、『炉辺夜話』に
「愈々、晩秋二至リ粒形肥大紅色鮮ナル数個ノ結実ヲ見ル(赤羽氏19号)又金子氏畑隅二アリシ樹二モ粒形中赤縞斑点アル堅キ実ヲ見ル二至レル之即チ49号ナリ。見ル人毎二珍シク両村ノ噂モ高ク慈二好奇心ヲ起コシヌ。其ノ年丁度札幌二本道初メテ共進会開催アリ参考品トシテ此ノ2点ヲ出品ス。依テ一般参観者ノ異驚スル者多ク 風評大イニ広マル。之本道否日本ニオケル嚆矢トス」
と記し、珍しい品種に見物に来る人が絶えなかった、という。我が国における初めてのリンゴが一般にお目見えしたのだ。
 これにより、村人も幾分栽培に興味を持つようになり、果樹栽培農家は増え、栽培技術も向上して耕作面積も急激に伸びた。
2015年01月21日(水) 會津藩士の蝦夷地移住(74)
 ところが、開拓使は一笑に付して熱心に取り組もうとはしなかった。それから数年経った明治12年(1879)の秋、山田村の赤羽源八の畑で「キング・オブ・トムソンアーワンデー」19号と、金子安蔵宅の「ローズゼネット」49号の木に花が咲いた。
 花が咲くのを見た人たちは、
「なにか実をつけるのかなあ」と話し合っていた。
 晩秋になり、赤羽方のキング19号は、粒の形が大きく、紅色の鮮やかな箕を6個つけ、金子方でも、ローズ49号が中くらいの赤縞斑点のある実を7つほどつけた。
2015年01月20日(火) 會津藩士の蝦夷地移住(73)
 明治6年(1873)、開拓使長官黒田清隆は先進国アメリカを視察し、開拓使の技術顧問として招聘したケプロンの進言を受けて気候風土が北海道に似ている果樹50余種の苗木を持ち帰ってきた。
 「キング・オブ・トムソンアーワンデー」19号と「ロースゼネット」49号のリンゴ、洋ナシ、桜桃などだった。
 黒田は、まず東京で試験的に植樹させて苗木を育てながら、翌年、黒川村の開墾会社へ苗木37本を交付し、畑に植えさせた。
 当時は、リンゴとはどんなものかわかる者がいないため、植えたままに放置された。翌8年、さらに500本の苗木を各戸に配り、9年にも交付を続けて産業発展のため畑作を奨励した。
2015年01月19日(月) 會津藩士の蝦夷地移住(72)
 開墾に見切りをつけて転出する者は、その後も続いた。目立つのは、開拓使の役人や戸長役場の吏員、警察官、監獄の看守、それに教師などであった。
 會津への帰郷もあった。明治14年(1881)1月1日の黒川村戸籍簿では5戸が帰郷している。
 『北海道史』の編集者、河野常吉が明治22年(1889)に記した『余市郡調査』によれば、
「黒川村に旧會津藩士177戸が入ったが、現在、24,5戸のみ」
となっている。
 明治14年1月現在の山田、黒川両村の在村者は、山田村が赤塚正太郎、赤羽栄、石山亀太郎ら30戸、黒川村は青木丑之助、石山石松、佐藤駒之進ら23戸。他に離農した渡部良蔵(質屋)、在竹四郎太(神主)らがいた。
2015年01月18日(日) 會津藩士の蝦夷地移住(71)
 間もなく辰野から
「生計のたたない家も多いが、一度開墾した土地はできるだけ継続すべきである。荒地になった所は中止せざるを得ないのではないか」
という調書が提出され、開拓使は同年2月、
「農業を生計の基本とせよ。莫大な扶助を受けているのだから、農業を勉励せよ」
との指示を出している。
 翌月には、実情をよく知っている余市出張所の吉田権大主典が
「生計が立たざる場合、農業の傍ら商業をしてもよいではないか。一家の大黒柱の父が亡くなり、家族が難渋して飢饉に倒れる状況もあり、詳細に調べたい」
と伺書を出した。これに該当する家は9戸あった。
2015年01月17日(土) 會津藩士の蝦夷地移住(70)
 しかし、すぐに収穫が見込まれるほど甘くはなかった。明治8年1月、黒川村の宗川茂友らは、モミがほしいと願い出て、開拓使民事局は37銭のモミ代を支給した。
 黒川村の東側の畑地は地味が不良で収穫ゼロだったので、翌年には荒地に変わっており、宗川らは失望した。
 このため宗川らは村の北側の谷地に目をつけ、ここを排水して水田にしたいので助成してほしい、と願い出た。が、これは許可にならなかった。
 開拓使の松本大判官は辰野宗城(旧會津藩士)を開墾地調査のため余市郡に派遣した。3年間扶助したにもかかわらず転出者が続出し、行方不明者まででている実情を調査するためだった。
2015年01月16日(金) 會津藩士の蝦夷地移住(69)
 この伺いに対して開拓使から
「開墾地を点検した上で地代上納を免除する」
という許可が降りている。その上で、窮状を察した開拓使から同年4月、各戸に米50石が配分された。
 このままでは増収は見込めないと判断した新政府は、同年10月、新しい西洋式の耕作機械を持参した農業技術者2名を現地入りさせた。
 さらに、翌月には農耕馬と農機具を年賦で貸し出した。馬は日高産の6〜8歳の牡5頭で、15年賦だった。値段は1頭6円50銭だった。
2015年01月15日(木) 會津藩士の蝦夷地移住(68)
 因みに、扶助の三分の一は合計83円56銭5厘(扶助金は26円59銭8厘、扶助米11石3斗9升2合で、代金に換算して56円96銭7厘)だった。
 松本は規定通り返納して帰郷することができたが、払えない者は逃亡するほかなかった。明治7年7月から9月までに行方不明者が両村から1名ずつ出た。
 実は、3か年の扶助期間中に行方不明者が7名出ている。23歳から26歳までの独身者である。将来に明るさを見出せずに絶望したのだ。
 その他、転籍、復籍を願い出た者が黒川村に4名いた。
 明治7年2月22日、余市郡主張所は明治7年度の地代上納について
「作物の収穫が少ないので地代を免除してはいかが」
と伺いを出した。
     ◇   ◇   ◇
 本日の読売新聞で久しぶりに會津藩士の子孫の名前が掲載された。1面の『編集手帳」の中で、ソニー創業者の井深大氏である。會津藩の名家9氏の一つが井深氏。
 高祖父の井深邦光は富津市竹岡の松翁院の會津藩士墓地に眠っている。江戸湾防備で幕末に7年間、現地に駐留し、會津に戻れぬまま亡くなった。
 大氏が生存中は、ソニーの社員が墓参に来ていたが、現在は我々會津藩士顕彰会が6月に慰霊祭を行っているだけ。黄泉の大氏は寂しがっているに違いない。
2015年01月14日(水) 會津藩士の蝦夷地移住(67)
 この結果、明治7年(1874)5月12日、黒川村93番屋敷居住の松本源之助は伍長佐瀬藤之助の連印と、戸長徳光喜多蔵と副戸長在竹四郎太の押印を得て若松へ転籍を願い出た。
 理由は持病の疝癪(せんしゃく=胸がさしこむ病気)と、家族が老幼だけで開墾不可能。若松には身元引受人もいる。規定通り、土地、扶助金、扶助米の三分の一を返納する、と記載している。
 事実、本人は42歳、妻32歳、母は69歳、子は8歳を頭に幼児、乳児3人であった。
     ◇   ◇   ◇
 2日ほど前のBSフジに出演した英国人は実にいいことを言っていた。政府は外国人の来日数を問題にしているが、基本的に間違ている、という。
 中国人やタイ人など発展途上国の人間がいくら来日しても100円ショップや秋葉原で「メードイン・タイ」「メイドイン・チャイナ」の安物を買うので効果はゼロ。それに比べてオーストラリア人や欧米人は使う金が違う、1人で20万円だという。
 入国者数はやめて質的に違う外人に狙いをつけ、例えば1泊100万円ーなど伯が付く観光施設を整備する必要がありそうだ。勉強になった!
2015年01月13日(火) 會津藩士の蝦夷地移住(66)
 明治6年で3か年の扶助期間が過ぎた。開拓使から50石の賞与米を受けたものの、開墾地には、なお家族の生計を支えるに足る収入がない一家が少なくなかった。
 生きる為、會津武士の誇りを捨てて日雇いや小商いに頼らなければならない状態が続いた。藩士の妻が山一つ越えて浜の町まで手作りの品々を売り歩く屈辱の思いが忍ばれる。
 このような状況下で、継続か中断かの岐路に立った者が続出した。このため開拓使は「召募移住略則」を適用して
「第3条 3カ年ノ御扶助満限之後翌4カ年ヨリ以後ハ除籍スル者ハ
前条之通地所奉還之上御扶助代金ノ三分ノ一返納可致事
 但本人ヨリ返納致兼候ハハ償却可致事
本条二前条ノ通云ウ者ハ第2条中復籍(故郷會津へ帰ること)等相願候節ハ
開墾地奉還トアルヲ言ウ」
とした。
 開墾を諦めて會津へ帰ったり、他所へ転出する者は、3か年の扶助金と扶助米の三分の一と土地を返納しろーというのだ。
2015年01月12日(月) 會津藩士の蝦夷地移住(65)
 會津藩士は大いに刺激を受けた。明治12年(1879)、開拓使から配布されたリンゴの苗木に、たまたま実がなった。余市に西洋リンゴが成るーと知って開墾の前途に燭光を見出したのだ。
 明治7年(1874)4月13日付けで下記の記録が残っている。
「黒川、山田両村移民送籍之儀付伺書
 両村移民ノ内ヨリ官員在勤先或ハ商法二便ナル地二送還志願ノ者
有之自然願出候節ハ家作農具畑地共返上聞届可然哉尤家作農具
畑地之儀ハ追而御所分可奉伺送還之儀一応奉伺候也
   7年4月13日 開拓権大主典 吉田弘
開拓大判官松本十郎殿」
2015年01月11日(日) 會津藩士の蝦夷地移住(64)
 余市郡の山田、黒川村のように1戸1町2反を完全に開墾しても、生きてゆくこのは不可能だった。開拓使が確かな見通しを持っていなかったのだ。
 まして刀を鍬に替えたにわか農民だ。1日20坪の試験掘り、1戸1町2反の開墾は重荷だったに違いない。3年間の補助期間が終わると、重荷に耐えきれずに転出者が出始め、その後を引き受けることにより、残留者は耕地を広げていった。
 明治11年(1878)に開墾地が付与され、一段落したので総取締の宗川茂友は故郷會津へ引き揚げる。翌年には隣村の徳島県人、仁木竹吉率いる阿波藩の士族が入植し、山田村の奥には、秋田・亀田藩士高山源蔵らが入った。
2015年01月10日(土) 會津藩士の蝦夷地移住(63)
 北海道庁は予定入植地をあらかじめ測量して5町(545平方メートル)ごとに縦横に道路用地を設けて碁盤の目のように区切り、1つの目をさらに6つに分けて一つに1戸ずつ開拓者を入れることにした。
 1戸の割当面積は5町歩(5万平方メートル)になる。明治23年(1890)に空知管内に入植した新十津川村は、1戸5町歩の区画の最初であった。これ以前は、隣村の仁木村(当時は大江村)のように1万坪(3万3千平方メートル)だった。
 寒冷地北海道の農業は本州のように小面積集約的経営では生活が成り立たないーことが次第に分かってきたのだ。
     ◇   ◇   ◇
 今日、故郷・会津若松市では伝統行事の「十日市」が開かれている。大町通りから神明通りを中心に数百店の出店が威勢よく掛け声を上げながら、近郷近在から繰り出した正月客を出迎える。
 十日市は康暦元年(1379)鎌倉から會津へ下向した葦名直盛が「町おこし」にと市を開いたのが始まり、630年余続く。蒲生氏郷が秀吉の命を受けて會津入りした後は、大町が10日と20日、4日と24日は桂林寺町、6日は六日町、3日は三日町などで市が開かれた。
2015年01月09日(金) 會津藩士の蝦夷地移住(62)
 成果はすぐに出た。3年間で220町歩を開墾することができたのだ。明治7年(1874)、開拓使から杉本弥三郎ほか177名に褒章として米50石が与えられた。(北海道立文書館所蔵の『開拓使公文禄』)
 ところで、開拓使が1戸割当を1町2反と定めた根拠はどこにあるのだろう。北海道の未開地開拓の方法が確立したのは、明治29年(1896)から始めた植民地区画選定が実施されるようになってからである。
2015年01月08日(木) 會津藩士の蝦夷地移住(61)
 戊辰戦争で一時期、奥羽越列藩同盟の宗主藩に選ばれながら、薩長軍に対してろくに抵抗もせず降伏した仙台藩と、最後まで戦い抜き、「賊軍」の烙印を押された會津藩との違いだ。戊辰の役からまだ数年しか経っておらず、「戊辰の影」が會津藩に付きまとっていた。
 実際、黒川村、山田村の開墾実績は芳しいーとは言えなかった。明治6年には、政府の扶助も切れるため開拓使は
「規則通り」
を命じた。
 男は1日20坪(66平方メートル)、女は7坪(23平方メートル)を開墾せよーというのだ。1反歩(千平方メートル)開墾すれば奨励金2円が支給された。
     ◇   ◇   ◇
 昨夜は七草粥を食した。春の七草ーセリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、仏の座、スズナ、スズシロの7種の野草を指すのだが、これも分からない若者が多い。
 親が教えない(わからない)ためだろう。日本古来の伝統は廃れる一方だ。正月は酒を飲む機会が多く、胃の調子も悪くなる7日ごろに、胃に優しい御粥を食べるのだ。昔の人は考えたものだ。
2015年01月07日(水) 會津藩士の蝦夷地移住(60)
 これに対して、土地の状態や家族構成、使用器具その他によって差異はあるが、明治3年春、胆振国有珠郡に入植した伊達藩士団の記録では、
 明治3年 113戸 27町1反5畝20歩
 明治4年 292戸 167町5畝8歩
 明治5年 351戸 128町4反5畝25歩
となっており、1戸平均では明治3年が24畝、明治4年が57畝、明治5年36畝となる。
 5年末には323町にも増え、1戸平均では9反2畝(9200平方メートル)と會津藩の1,5倍の面積である。
2015年01月06日(火) 會津藩士の蝦夷地移住(59)
 しかし、この法律は不都合があったので、明治19年(41886)北海道土地払下規定に改正された。
 さて、開墾実績だが、黒川一番村、二番村55戸の総面積は、
明治4年度 2町5畝7歩(1戸平均3畝1歩)1000平方メートル
明治5年度 3町3反9畝1歩(同8畝)2600平方メートル
となっている。
 55戸のうち総取締宗川茂友だけは抜群の成績で、1年目5反歩、2年目6反6畝で目標を達成している。 
 宗川の他に1年目に1反以上開墾したのは、佐藤徳磨の2反だけ。2年目は佐藤駒之進、杉本弥三郎、赤塚志賀古、本名休吾の4人に過ぎない。
     ◇   ◇   ◇
 NHK大河ドラマがスタートしたらしい。長州ものなので、当初から観るつもりはない。
 嬉しい記事が出た。昨年の黒田官兵衛の初回より2.2ポイント低い16,7%とか。
 歴代でもワースト3位。故郷・會津では勿論観ないだろう。いまだ會津と長州は戊辰戦争の怨念を引きづっているのだ。
2015年01月05日(月) 會津藩士の蝦夷地移住(58)
 各戸の開墾面積は、着手して数年経っても1町2反(1万2千平方メートル)だったことがわかる。
 開拓使は明治5年、ようやく土地売買規則と地所規則を定めた。土地は1人10万坪(33万平方メートル)を限度として上中下の3段階に分け、千坪(3300平方メートル)について、上は1円50銭、中は1円、下は50銭で払い下げ、売り下げ後10年間は免税。上は12か月、中は15か月、下は27か月過ぎても「着手しない者」は土地を申し受けるーとされた。
 つまり、払い下げ後、一定期間内に開墾しない者は土地を取り上げるーというのである。
 また、土地代金を支払って私有化した土地は売買自由で、その坪数は制限がなかったので、資本のある者は土地を次々と買い占めることができた。
2015年01月04日(日) 會津藩士の蝦夷地移住(57)
 『明治4,5年黒川畑開墾調帳』には、
「明治5年壬申年8月8日改5冊ノ内余市郡黒川村畑開墾調帳 第一番屋敷ヨリ第五番屋敷二至ル」
として個々の内訳は次のようになっている。

 ◇黒川村第一番屋敷居住  佐藤駒之進 壬申年37
     畑1町2反
    内J畝1歩未年          父佐膳 67
                        継母与志60
                        妻佐多 32
                        二男久吾 7
               厄介      垣内早美 26 
       合6人
 ◇第二番屋敷居住       杉本弥三郎 30
     畑1町2反
    内J畝15歩未           妻登良 17
       合3人             女比伝 3
 ◇第三番屋敷居住       宗川茂友  43
     畑1町2反             父茂弘   76
     内5反未              妻須美  40
   6反6畝18歩
       合3人
      (以下略)
2015年01月03日(土) 會津藩士の蝦夷地移住(56)
 こんな原始的な開墾方法をとるようになったのも、実は後のことで、開拓してみて初めて分かった体験の結果だった。
 間口2間(3.6M)、奥行き100間(180M)の短冊型の儂地のため黒川村、山田村の藩士たちは前記のような広く焼き払う方法がとらなかったのだ。
 「馴れざる農事に堪え難き感、一層深い」作業は困難を極めた。
     ◇   ◇   ◇
 新年早々驚いた!読売新聞現役時代、佐原市(現香取市)駐在の後任、秋山君からメールが届いた。ネット上からブログを捜したそうで、44年ぶりだ。
 秋山君はその後、和歌山県の通信部へ転勤したと思うが、小生は成田闘争に明け暮れる時代を過ごした。行政代執行ー東山事件ー3警官殺害事件、挙句の果ては開港直前の管制塔襲撃事件と忌まわしい事件が続いた。
 現在も検問が続き、飛行制限が行われる世界で唯一の国際空港・成田。考えさせられる昔を思い出すメールであった。
2015年01月02日(金) 會津藩士の蝦夷地移住(55)
 この間の開墾実績はどうだったであろうか。
 当初、1戸に割り当てられた面積は、わずかに200坪(660平方メートル)。ほんの野菜畑程度だった。
 それも幾千年も鍬も入らぬ原野であった。開墾するためには、まず立木を切り倒し、手ごろな長さに切って株元に寄せかけ、次に笹を刈って乾くのを待って木もろとも焼き払う。
 さらに、笹の根株が残っている焼け跡に菜種の種をばらまき、翌年夏に収穫して唯一の販売作物とした。
 その他、自家食用としてトウモロコシ、馬鈴薯、カボチャなどを「坪蒔き」した。整地が不十分なため畝が切れず、所々に穴を掘って種子を蒔くやり方である。
2015年01月01日(木) 謹賀新年
 新春、あけましておめでとうございます。今年もブログは続きます。今年で5年目だが、「サルサル日記」時代から数えれば8年は続いている。
 うれしいこと、悔しいことなど、その年を素直に表すブログにしたい。今年はわが故郷、会津若松市の鶴ヶ城天守閣が再建50年だそうだ。
 再建で思い出すのは、横山武市長と反横山派が激しく対立し、市議会は1票差で可決したのだ。当時、副議長だった小生の父が画策して成立させたーと自慢げに話していた。
 天守閣は会津観光の目玉だ。再建に反対した高瀬喜左衛門元市長は漆器店の白木屋という旧家の出で、京大出身。だが社会党推薦で、横山市長には何でも反対した。天守閣のない鶴ヶ城なんて、今では考えられない。
 地元では、再建50年を記念してロゴを作って、PRするそうだ。
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