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2016年01月31日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(59) |
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第3章 北京略奪競争と敗者への労わり(4)
イギリスの新聞各紙には、さらに日本賛辞が展開する。スタンダード紙は8月18日、
「義和団鎮圧の名誉は日本兵に帰すべきと、誰もが認めている。軍紀の厳正さ、勇気は称賛に値し、他の追随を許さない」
と絶賛した。
こうした世論を受け、ヴィクトリア女王は、日本の貢献に感謝し、駐英公使林勲が国書捧呈のため拝謁した席上、
「自分は天皇に感謝している」
と伝えた。
柴五郎に率いられた日本兵は交民港守備の大黒柱となって働いたし、日本の義勇兵も負けてはいなかった。
銃など持ったこともない外交官、ジャーナリスト、学者、商社マンら全員が前線に立った。
その一人、東京帝国大学分科大学助教授、服部卯之吉は『北京籠城日記』で
「モシ身長1寸高カリシナかランニハ、マ額ヲ撃チヌカレテ即死スベカリシナリ」
と、身長1寸の差で死を免れた恐ろしさを記している。
籠城軍総司令官の大役を果たしたマクドナルドは、連合国援軍司令官たちへの経過報告会議の席上、
「籠城は日本人の偉大な働きのお蔭で持ち堪えた」
と日本兵の働きに心から感銘したと述べた。 |
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2016年01月30日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(58) |
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第3章 北京略奪競争と敗者への労わり(3)
ありのままの実態を世界へ発信し、日本喧伝の役を果たしてくれたのは、ロンドン・タイムスだった。
8月28日付けで
「列国の公使館が救われたのは、日本の力による、と全世界は日本に感謝している。列国が外交団の虐殺とか国旗の名誉汚染などの屈辱を免れたのは、偏に日本のお蔭である。日本は欧米列強の伴侶たるに相応しい国である」
と声を大にして喧伝してくれた。この事変を通じて日英の絆は強まり、やがて日英同盟へと発展すのである。
◇ ◇ ◇
本日、郵便受けの共産党支部の挨拶文が入っていた。7月の参議院選挙へ向けての候補者の決意などが載っている。
郵便ではなく、党員が足で回って配っているのだ。「頑張っている」と感じざるを得ない。若い千葉市長がなにもできず、期待外れなので共産党に頑張ってもらおうと思っているが、こうした地道なやり方で党員やシンパを増やしている。
どこかの党も見習うべきだ。 |
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2016年01月29日(金) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(57) |
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第3章 北京略奪競争と敗者への労わり(2)
日本の近代軍の国際舞台への初登場という北清戦争で、北京城の内と外にあって日本兵のあっぱれな武勇と正しい軍紀を世界に示し、旭日の国・日本の名を世界に轟かせた二人の勇者の固い握手。まさに歴史的瞬間であった。
国ごとに負傷者の手当て、犠牲者の埋葬、食糧の配給など、至急やらねばならぬことは山ほどあった。
交民港から数キロ離れたカトリックの清国総本部、北堂にいた3600人の聖職者と救民は15日は忘れられた。
食量、武器はとっくに底を突き、すでに120人以上の餓死者が出ていた。フランスのフライ将軍が16日朝に気付いて軍を差し向けたところ、意外にも日本兵300人がいた。援軍到着で柴は、すぐに北堂の籠城者のことを思い立ち、歩兵2個大隊、砲兵1中隊を率いて北堂へ一番乗りして解放していたのだ。 |
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2016年01月28日(木) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(56) |
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第3章 北京略奪競争と敗者への労わり(1)
やがて敵の攻撃は次第に衰え、昼過ぎには辺りが静かになった。柴が胸壁から顔を出して見渡すと、敵陣地は空っぽになっていた。
一番乗りで入城してきたのは頭にターバンを巻いたインドのベンガル兵だった。植民地のインド人など馬鹿にして見向きもしない、気位の高いイギリス外交官の婦人も、この時ばかりは感激してインド兵の汗臭い体に抱きついてキスの雨を降らせた。
次いでロシアとアメリカ兵が入城、日本軍は夕方まで敵の抵抗にあって、福島安正が日本公使館に辿り着いたのは、午後8時40分になっていた。
福島は西徳二郎に続いて柴とがっちり手を握った。感慨無量であったに違いない。交民港の運命を双肩に担い、援軍到着まで持ち堪えた英雄・柴五郎と、常に連合軍の先頭に立って北京へ一路猛進した福島安正との再会の一瞬だった。 |
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2016年01月27日(水) |
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ナリタ本届く |
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『ノーサイド 成田闘争』という本が届いた。元朝日のK君が著者だ。成田問題が浮上した昭和41年から現在までノンフィクション風に丁寧に記してある。
長い成田闘争の中で好敵手だったK君。彼は運動の前半から中途まで、小生は中途から2期工事まで、それぞれ農民に食い込んで信用を得た。農民から信頼されたのは二人以外にいないと断言できる。
本の中で懐かしい面々が登場する。「今更、成田なんて」と思う向きもあろうが、検問が続き、都心から世界で一番遠い、そして飛行制限時間という、本当におかしな空港は当時のままだ。
彼は農民派であると同時に、社会党のシンパらしい筆致が読み取れるが、小生は東大助教授のM氏をバックボーンに論陣を張り、社会党代議士だった小川邦彦氏を使って国会で成田の欠陥ぶりを指摘した。浜松支局でストになってから通産省のシンポジウムの講師で欠陥空港ぶりを発表したことも思い出だ。
また右翼の大物四元義隆氏とも会い、教授願ったこともあった。が、しかし、成田の本を出版することはできない。裏があるのだ。事実は墓場まで持ってゆく。 |
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2016年01月26日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(55) |
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第2章 義和団事件(31)
各国が受け持った攻撃区域は、ロシアが東直門、日本が朝暘門、アメリカが東便門などと決まった。13日夜は各国とも休息で、寛いだ気分で野営の床に就いた。
ところが、14日午前2時過ぎ、東直門のロシア兵は自ら言い出した攻撃開始時間を破って、しかも受け持ち区域と違う場所を攻撃した。
リネウイッチの一番乗りの功名と、「獅子の分け前」を狙って出し抜いたのだ。こうして北京城総攻撃は、ロシアに誘発されて1日早く始まった。籠城者は遠くから聞こえる砲撃を耳にして
「援軍がきた」
と飛び上がって喜んだ。 |
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2016年01月25日(月) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(54) |
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第2章 義和団事件(30)
戦闘は連日続き、各国の指揮官は
「兵が疲れている」
と休息を要求した。
しかし、日本軍は
「籠城者救出は急を要する故、このままのスピードで北進続行」
と主張して日、露、英、米の4カ国で出発した。
13日、連合軍は北京城壁から5キロ地点で野営の拠を構えた。14日は休養し、合流したフランスも含めた5カ国の北京城総攻撃は15日未明、同時に開始することを決めた。”日の出”が合図だった。 |
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2016年01月24日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(53) |
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第2章 義和団事件(29)
天津城落城後、列国軍は続々と天津に集結した。日本兵1万名、ロシア兵4千名、イギリス兵3千名、アメリカ兵2千名など併せて2万1千名に膨れ上がった。
7月21日、山口素臣陸軍中将は第5師団司令部を率いて到着、31日にはロシアのリネウイッチ中将も着いた。
リネウイッチは後日、日露戦争でクロパトキンの跡を継いでロシア極東軍総司令官として在満ロシア軍を率いて大山巌満州軍総司令官と対決した人物だ。
欧米諸国は、遠い本国からの派兵が間に合わず、イギリスはインド、香港から、フランスはフィリピンから、それぞれ植民地兵を急派した。
天津ー北京間30キロを炎天下の8月、徒歩で、しかも途中、待ち受けている敵と戦いながら進むのだから困難な行軍であった。
8月4日、行軍が始まった。北方8キロの北倉で初の戦闘があり、日本兵が独力で北倉を占領した。ロシアの指揮官は陸軍少将ステッセル。4年後、中将になり、日露戦争の旅順攻防戦で日本の第3軍司令官乃木希典に降伏した、あのステッセルだ。 |
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2016年01月23日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(52) |
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第2章 義和団事件(28)
13日の激しい戦闘で天津城南門爆破に成功して突入の先頭に立ったのは日本兵だった。
19歳で参戦した藤原俊太郎(広島第5連隊第2中隊下仕官)は手記『ある老兵の手記』で
「従来、日本兵を軽蔑していた感のあった彼等(外国人)はその後、先方が先に挙手敬礼するようになった」
と記している。
天津城陥落後、列国の軍隊は略奪、砲火、強姦の限りを尽くした。だが日本だけは
「軍紀において模範たるべし」
という桂太郎首相の訓令が行き届いており、乱暴を働くものは一人もいなかった。
天津市内外の支那人は日本兵に感謝し、
「大日本領民」
の文字を書き込んだ日章旗を掲げて好意を示した。 |
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2016年01月22日(金) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(51) |
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第2章 義和団事件(27)
援軍の到着が13日か14日という段階になった8月11日、12日は、清国軍の攻撃はかつてないほど激しくなり、各国公使館で次々と犠牲者が出た。
アメリカ公使館では、犠牲者が出るたびに、遺体に星条旗を掛けて葬ったが、旗が足りなくなって、旗を掛けずに弔おうとした。
指揮官は激怒し、
「最後の一兵になっても掛けよ」
と怒鳴った。
一方、救援軍の動きはというと、陸軍少将福島安正率いる混成第1師団が大沽に到着したのは7月初め。直ちに沖合に停泊していた聯合艦隊と合流して大沽砲台を攻撃、続いて天津城を攻め落とした。7月14日だった。 |
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2016年01月21日(木) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(50) |
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第2章 義和団事件(26)
籠城戦は大きく分けると、
第1期 6月20日から7月17日まで連日戦闘
第2期 7月17日から8月6日まで殆ど休戦
第3機 8月6日から13日まで一面外交、一面戦闘
となる。
さて、籠城戦もいよいよ第3期、大詰めに入る。連合軍が北京に近づいたので北京城内の空気はいやが上にも緊張した。
西太后は山西省から募った部隊を続々と北京へ集結させ、連合軍を迎撃する態勢に入った。北京城の囲いは幾重にも増強された。
8月10日、柴が福島宛に出した密使が戻って、緊迫した籠城者の雰囲気は一変した。陸軍少将福島安正の8月8日付けの親書で、援軍はすでに北京の東方72キロの地点まで来ているという。
「援軍が来るぞう!」
籠城者たちは肩をたたき合って喜び合った。 |
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2016年01月20日(水) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(49) |
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第2章 義和団事件(25)
張という支那人がいた。籠城戦第2期の休戦状態の時、夜陰に紛れて日本の前線に物を売りくる支那人が大勢いた。その中に金儲けに走る貪欲な男に柴が
「密使をしてくれたら1000ドルやる」
と誘った。すぐに乗ってきたので、福島少将宛の密書を持たせた。
男は本当に届けた。清国軍の制服だったので途中、陣地では誰も怪しまなかった。
福島が200ドルを渡そうとすると、男は
「そんなものはいらない。返書は1週間以内に届ける」
と現金を受け取らずに姿を消した。
8月1日、福島からの返書が届き、籠城者一同は援軍の動向を知ることができた。
柴は約束の100ドルに50ドルを上乗せして渡そうとしたが、男はやはり受け取らない。
平和が回復した後、張は柴のもとへやってきて言った。
「日本を見習って祖国を再建しなければ〜」
と命をかけて日本軍に協力したことがわかった。
柴は
「学問こそないが、今日の支那人には見たこともない義侠憂国の士(もののふ)である」
と絶賛した。
この男は本名張徳盛(32)。天津で八百屋をしていて軍隊に応募し、北京で清国軍の交民港攻撃に参加した、という。 |
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2016年01月19日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(48) |
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第2章 義和団事件(24)
悲観論者のフランス公使ピションは早々と機密文書を焼き捨にかかり、ロシア公使ギールズもこれに倣った。日本の西公使も公文書を焼き捨て、
「当館の書類移一切を焼き捨て候」
と、後日、青木外務大臣に報告している。
各国公使館は知恵を絞って変装した密使を次々送りだしたが、成功率は低かった。柴の出した28通の密書のうち援軍に届いたのは、僅か4通、援軍からの返書が届いたのは3通だった。
下水の水門を潜ったり、暗号で書いた密書を下着に縫い込んだり、靴底を剥いで密書を忍ばせた。
北京外交団の間に「柴の密使」として伝説的に伝えられたエピソードがある。 |
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2016年01月18日(月) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(47) |
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第2章 義和団事件(23)
西も柴も飛びつく思いで書簡の封を開けた。密書には福島軍を主力とする連合軍が天津城を落とし、7月30日までに日本の第5師団が全員天津に入城、これを主力とする連合軍が北京に向かうーと書いてあった。
この時の籠城者一同の歓びは大変なものであった。柴は
「蘇生した気持ちで、感情の深い外国兵は歓び窮まって、舞い踊る者もおりました」
と7月18日の日記に記している。
援軍からの密書第2報は8月1日、柴五郎に届いた。7月22日に出した密使が天津から福島の書簡を持ち帰った。
「連合軍は弾薬、食量が輸送困難で出発が遅れているが、柴の手紙で北京の危急がよくわかったので、是非とも急進したいと各国軍間で協議中」
とあった。援軍がまだ天津を出発していなかったのだ。
食量も弾薬も底をついており、末期状態だった。 |
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2016年01月17日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(46) |
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第2章 義和団事件(22)
籠城者にとっては、外部との通信手段がないだけに不安感は強くなるばかりであった。各国公使館では、それぞれ密使を天津に送り出したが、真偽入り混じりの返事が多くて、どれを信じていいのか、分からなかった。
ロシア公使館員のポコティロフは
「級援軍に手紙を届け、返事を持ち帰った者には1万ドルの賞金を与える」
と、金にものを言わせて密使を募ったが、応募する者はいなかった。
その点、柴五郎は対照的に人望があった。軍事面だけでなく、情報面でも彼に協力する救民がいた。
包囲軍には義和団だけでなく薫福祥の兵も栄禄の兵もいるーと報告してきた。それらは清国の有力皇族だったり、西太后の少女時代の初恋の相手であった。
正確な情報が入ったのは7月18日。6月29日に楢原の出した密使が天津から無事に戻ってきた。
密使は鄭永昌領事と森義太郎海軍少佐からの7月14日付け西徳次郎公使宛て書簡と福島安正陸軍少将からの柴五郎宛ての書簡を持ち帰った。 |
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2016年01月16日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(45) |
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第2章 義和団事件(21)
症状は次第に悪化する。7月23日、重体となり、意識がなくなった。
24日、若い妻と幼い2人の子供の身を案じながら苦悩の内に死亡した。38歳だった。楢原は将来を嘱望された学究肌の外交官だった。
明治28年(1895)4月、下関で行われた日清戦争講和条約会議で、首相・伊藤博文の特使として日清間を何度も往復し、伊藤の信頼は特に篤かった。
モリソンは回顧録で
「彼は西郷従道陸軍中将の娘と結婚し、清国通の第一人者であった」
と記している。 |
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2016年01月15日(金) |
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寄稿 |
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日本脳卒中協会が募集した「脳卒中体験記」に応募した。新聞でみてから2,3日後に応募したので「1番目かな?」と思っていたら、14日午後届いた受付表では18番目だった。
2,3日で原稿を書くのは素人には困難なはずだ。が、それほどの応募があったということは、脳卒中患者がいかに多いかということの裏返しだ。
入選作は小冊子に印刷し、応募者全員に送ってくれるという。入選はともかく、この病には罹らないことが大事なのだ。「後悔 先にたたず」である。 |
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2016年01月14日(木) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(44) |
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第2章 義和団事件(20)
服部卯之吉は東京帝国大学文科大助教授で、23歳。文部省留学生として北京に留学中だった。福島県二本松出身で、戊辰戦争では西軍の攻撃を受けて父親は戦死、当時2歳の卯之吉は養母に抱えられて農家に隠れて危機を脱した経験があり、今回が2度目の危機であった。
英語、支那語に堪能な彼は、柴の伝令となって王府やイギリス公使館、イタリア軍守備部署などを1日に数回、弾丸驟雨と降る中を駆け巡った。
楢原は日本公使館2等書記官だった。イギリス留学の経験があり、モリソンと友人だった。その楢原が7月11日午後の作戦中、破裂弾を左足に受けて重傷を負い、イギリス公使館内の仮設病院に担ぎ込まれた。
死人が使った寝具にそのまま寝かされて、脱脂綿代わりに古い布団の綿と古襦袢の切れ端で手当てを受けたため、破傷風に罹ってしまった。
19日、楢原は苦しい息の下から
「日本軍は輸送設備も騎兵隊も全面完備でやってくる」
と望みを捨てず、ひたすら日本軍の到着を待った。 |
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2016年01月13日(水) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(43) |
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第2章 義和団事件(19)
柴は医者を呼びに走った。モリソンはストラウツの太腿をハンカチで縛ってから止血用に使う小枝を探した。折れた骨が飛び出し、ズボンから突きでていた。
急を聞いて駆けつけたのは日本公使館付き1等軍医中川十全だった。モリソンと二人でストラウツの腸骨の外部を圧迫して止血しようとした。
ストラウツは全身血まみれだったが、気を失ってはおらず、モリソンに
「君はどこをやられた?」
と尋ねてきた。モリソンは
「何でもないよ」
と答えながら失神してしまった。
苦痛のむせび泣きが漏れた。それから静かになり、死の淵へと沈んでいった。日本人と生死を共にして籠城戦を戦っているいるうち、モリソンの心はいつしか計算なしに友情が芽生えてきた。
モリソンは好きになったのは、柴五郎の他、服部卯之吉、楢原陳政(のぶまさ)らであった。 |
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2016年01月12日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(42) |
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第2章 義和団事件(18)
ストラウツ(イギリス軍指揮官、海軍大尉)が
「王府の模様を見て来よう」
と誘ったので2人は雨の中、深い霧と石のバリケードを横切ってイギリス公使館の前に出た。
王府に入ってから壁に沿って身を庇いながら前哨に近づいた。壁は銃弾や破裂弾で穴だらけだった。柴中佐が案内してくれ、日本兵の前線守備体制を見て回った。その間、近距離から絶えず弾が飛んできた。
視察を終えて帰ろうとして目の前のバリケード目がけて数歩走った時、3発の銃声がした。モリソンが右足に痛みを感じると同時にストラウツが
「あっ」
と叫んで左側にいた柴中佐の胸の中に倒れた。柴と二人でストラウツを安全地帯まで運び入れた。銃弾は頭上を
「ヒュー、ヒュー」
飛んでゆく。 |
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2016年01月11日(月) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(41) |
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第2章 義和団事件(17)
維新直後に會津藩士は本州最北端の斗南(青森県)に流され、犬の肉まで食べて飢えを凌いだことを思えば、
「これしきのこと、なにするものぞ」
であった。
極限状態にあっても平然として活躍する柴中佐を、周りの人は
「彼は病気だ」
と心配して、時折集まっては柴の様子を見るほどだった。
毎日睡眠時間は4,4時間、自分以外は食事もろくにとれず、負傷しても休めない状態に、さすがの柴中佐もイギリス公使マグドナルドに応援を要請した。マグドナルドは直ちにイギリスやフランスの兵士と銃弾を送ってきた。
7月16日、ロンドン・タイムスの記者モリソンが負傷した。 |
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2016年01月10日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(40) |
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第2章 義和団事件(16)
籠城が始まって1か月。籠城側は末期的な症状を呈し始めた。
7月16日のウィールの日記では、
「敵のバリケードはますます強固になり、我々のすぐそばまで迫ってきた。柴中佐は少数の部下を率いて2度ほど必死の偵察を実行した。2回ともわが軍の負傷は多かった。激務と緊張はもう限界だ」
と、張りつめた精神はプッツンしそうで、極限状態であると訴えている。
食事や環境も最悪だった。ウィールは
「食事ときたら馬肉だ。毎日、見るたびに吐き気をもようした。腐敗した屍と糞尿の臭気で既に弱っている僕の胃袋は喉を通さない」
だが、柴中佐にとっては、何もなかったかのようだった。
◇ ◇ ◇
本日、会津若松では恒例の「十日市」が開かれている。蒲生忠郷が若松入府以来、3日、6日、7日、10日と日にちごとに市を開かせたことに由来する。
神明通りから大町通りまで出店が数百店並び、近郷近在から買い物客が押し寄せる。
昔は馬場町まで出店が広がり、我が馬場町角には、商売繁盛の神様を祀ったものだ。 |
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2016年01月09日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(39) |
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第2章 義和団事件(15)
7月6日、清国軍は門の外に大砲を置きっぱなしにして逃げたので分捕り作戦を実行した。
ヴィオ・カエタニ(イタリア公使館2等書記官)は手持ちのイタリア兵、フランス兵の他イギリスの義勇兵を率いて敵の北側に廻りこんで敵の注意を引きつける一方、その間に安藤辰五郎大尉率いる日本兵、イギリス兵が突進して大砲に縄をかけて引っ張る作戦だった。
ところが、陽動作戦は失敗し、安藤大尉は胸を射抜かれて戦死、大砲分捕り作戦は失敗に終わった。
この作戦はカエタニの陽動作戦がうまくいかなかったのが原因だが、柴は、
「責任はすべて自分にある」
と皆に頭を下げた。柴中佐の潔い態度は籠城者全員の心に深く刻みこまれた。 |
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2016年01月08日(金) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(38) |
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第2章 義和団事件(14)
籠城中、柴中佐らは古いイタリア製の大砲の予備車輪などを再利用した「列国砲」を作って応戦した。7月5日、モリソンの日記。
「柴は、20人の信用できる清国人を選んで清国軍から奪った小銃や弾丸で武装させ、兵力を増強した。柴は弾丸が尽きた時、お手製の弾薬や弾丸を作った。燭台やら花瓶やらの錫の器を溶かして弾丸を作り、イタリアの大砲の空薬莢と拳銃用の爆管を利用して補給の弾薬70発作った。
どこからか1860年製のかび腐った鉄砲を見つけ、イタリアの大砲の予備車輪と木板と縄で砲架を急造して敵から奪ってきた円弾を撃ち返した。フランスかイギリスで製造したもので、それにイタリアの車輪をつけ、支那兵が撃ってきた弾を込め、日本人の指先でしかひねられない紙縒りの口火でアメリカ兵が射撃した。『列国砲インテンショナル』と名付けた」
国際職豊かな応戦ぶりである。 |
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2016年01月07日(木) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(37) |
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第2章 義和団事件(13)
また籠城者の一人、イギリス公使館付通訳兼書記生ランスロット・ジャイルズの日記『北京公使館籠城戦ーランスロット・ジャイルズの日記』の6月24日。
「王府の指揮にあたる柴中佐は最も優秀だ。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきだ」
と記している。
この日記は明治45年(1912)西オーストラリア大学の中国史教授マーチャントが共同で発表した。6月27日、
「柴中佐は、清国兵は王府に攻め込みたいのだから一旦入れて皆殺しにしたい、と提案した。事実、清国兵は王府の壁を大砲で破って突入したが、待ち構えていた日本兵の凄まじい一斉射撃で叩き潰された」
この事件は、たちまち籠城者一同に知れ渡り、義勇兵の一人として戦った大坂朝日新聞社の北京駐在記者村井啓太郎は
「6月27日、清国兵が壁を突き破って侵入すると、予知していた柴中佐の見事な作戦は籠城者全員に知れ渡った。この報、広く外人間に伝わるや、イギリス公使が柴中佐に書簡を送り、日本人の今日の成功を喜ぶ旨、伝えてきた」
と記した。
柴五郎の作戦の素晴らしさが、籠城者全員に希望と明るい見通しを伝えることになった、と喜んでいる。
◇ ◇ ◇
本日は七草。夜は七草粥でゆっくり暖まろう。會津の銘酒で胃がお疲れなのできっぱり断酒。それにしても今年の正月は暖かい日が続く。そのうち”冷や酒”でも飲むことにならぬか? |
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2016年01月06日(水) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(36) |
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第2章 義和団事件(12)
粛親王府についてピーター・フレミングは『北京籠城』の中で
「戦略上の最重要地王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。柴中佐は籠城中、どこの国の、どの士官よりも有能で、経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された」
と記している。
清国の海関勤めのイギリス人、23歳のレノックス・シンプソンは義勇兵として柴中佐のもとに派遣されて戦った。
当時の日記を明治40年(1907)、『素直な北京頼り』で発表した。その6月21日の日記に、
「数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢日本軍は、王府の高い壁の守備にあたった。日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれた。公使館付武官、柴中佐はいつの間にか、混乱を秩序へまとめ上げた」
と絶賛し、さらに、6月23日に続く。
「小柄な男は緑、赤、青の点をつけた地図を持って刻々変わる敵兵力の部署や戦闘能力を常に監視している。各国の持ち場がごった返し大混乱なのに、日本の部署だけは籠城から3日目にして防衛体制を整えた」 |
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2016年01月05日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(35) |
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第2章 義和団事件(11)
兵力が最小の日本だけでは無理なので、マクドナルドはドイツ公使館に居候していたイタリア兵を柴の指揮下に入れることを決めた。
粛親王府は清朝八世世襲王家のひとつで、この事件当時の粛親王・善は「男装の麗人」「東洋のマタハリ」といわれ、第2次世界大戦中、日本に協力した女スパイ川島芳子の実父である。芳子は日本に協力した中国スパイとして蒋介石の国民党に銃殺された。
北京城は外城と内城に分かれており、内城は紫禁城を中央に粛親王府があり、交民港は内城の東南部に固まっていた。
約1キロ平方メートルに各国公使館、銀行、商社などがあり、治外法権だった。壁は4キロ平方メートルにも及び、厚さは16メートル以上もあった。 |
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2016年01月04日(月) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(34) |
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第2章 義和団事件(10)
オーストリア公使館の指揮官トーマスは何と、イタリア公使館員にも勧めてフランス公使館へ一緒に逃げ込んだ。その上、ドイツも誘ってイギリス公使館へ退却した。
トーマスは自ら籠城軍総指揮官を名乗っていたが、この大いなる失態で各国公使の総意で総指揮官は、在北京イギリス公使のクロード・マクドナルドに代わった。マクドナルドは元軍人で、戦の経験もあった。
交民港の東北端にあるオーストリア公使館はすでに焼失し、オーストリア兵はフランス公使館へ移っていた。
ところが、一同が退却している間に島南端にあるイタリア公使館も敵の砲火で焼失し、イタリア兵はドイツ公使館へ逃げ込んだ。
防衛はドミノ倒しのように東側から崩れ、最後のイギリス公使館を守るには、粛親王府の防衛が絶対必要であった。柴五郎は各国公使に、その重要性を説き、王府は日本軍が守ることになった。
◇ ◇ ◇
正月3が日はのんびりした。喪中のため年賀はがきも少なかった。
親父が勲五等双光旭日章受賞した際、皇室から下賜された菊の紋章いりの金杯で會津から取り寄せた銘酒「国権」を楽しんだ。気分がよかった。 |
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2016年01月03日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(33) |
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第2章 義和団事件(9)
大砲はイタリア水兵が軍艦から運んできた37ミリ水雷砲一門だけで、それに小さな口径のイギリスの速射砲と機関砲が一門ずつ。オーストリア、アメリカ、イタリアの機関砲が一門ずつ、弾丸は多くて一門300発だった。
交民港とは別に北京城内の西北角に通称「北堂」と呼ばれたフランス・カトリック教総本部があった。そこにフランス人牧師や尼僧、清国人女学生ら850人を含む救民3400人が避難してきた。北堂を防衛するのはフランス兵1人とイタリア兵11人だった。
6月20日午後4時、最後通牒の予告切れと同時に義和団と清国軍の砲撃が始まり、翌朝まで休みなく続いた。
オーストリア公使館は1日ももたなかった。海軍中佐フォン・トーマスはさっさとフランス公使館へ逃げ込んだ。
ロンドン・タイムスの記者モリソンは日記に、
「6月21日(木)オーストリア館の早期放棄を正当化する十分な説明はなかった」
と記している。 |
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2016年01月02日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(32) |
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第2章 義和団事件(8)
各国がそれぞれの公使館で防戦し、支えきれない時はフランス公使館に退く。オーストリア、ドイツは日本と一緒に粛親王府で応戦することになった。これもダメならイギリス公使館へ、ここが最後の砦になった。
この防衛計画は6月21日、各国の公使、駐在武官会議で決まった。義和団の兵力は清国正規軍と併せて3万から4万人といわれた。
日本公使館の兵士は27人で、民間人31人が義勇軍を編成し、歩兵大尉安藤辰五郎の指揮下に入った。柴五郎陸軍中佐は日本軍全体の指揮を執ることになった。
外国の義勇兵は全部で44人しかおらず、日本人が一番多かった。公使館員や東京帝国大学助教授の服部卯之吉、横浜正金銀行の小貫慶治に朝日新聞特派員、留学生、理髪師、植木屋など老いも若きも義勇兵に応募した。 |
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2016年01月01日(金) |
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新年 |
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新しい年が明けた。妹の不幸があり、おめでとうはいわない。
さて、あの東日本大震災から5年目を迎えた。「3.11」がまたやってくる。
被災地では復興が進み、岩手、宮城県では、高台移転も実現して、”復興”が着実に進んでいるようだ。
だが福島県はいまだ、先の見えない状態が続く。原発事故があるからだ。
地震は施設を破壊し、津波は過去を奪った。そして原発事故は未来を奪った。
津波は思い出が詰まった写真や仏壇を奪い、住民から過去を奪い去った。
一番ひどいには、原発事故だ。住民から未来を奪ったのだから。廃炉事業は数十年かかるといわれ、放射能は永久に残る。
20年東京オリンピックの事業も復興事業から労務者を奪い、妨げる。
住民は、未来のない新年を迎えた。 |
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