会津の歴史
河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2014年03月31日(月) 若松町役場の会津藩士(77)
 ◇桂林寺町(下)

和田伝三郎(天保10年10月生まれ) 50歳
中丸 新内(文政3年3月生まれ) 70歳
松本 定蔵(慶応2年正月生まれ) 24歳
山田宗太郎(天保11年2月生まれ) 50歳
渡部伊左衛門(文政4年2月生まれ) 69歳
渡部  泰(安政元年12月生まれ) 35歳
中島力之助(天保元年5月生まれ) 60歳
樋口留四郎(弘化4年11月生まれ) 45歳
                以上16人。
(赤井町東端から北に折れ、七日町に至る長さ53間=95メートル=。戸数182戸。昔、時宗の桂林寺という寺があり、地名に。維新前、旧家の早山藤蔵が。大町1丁目、中町、西栄町、本町などに分断変更。會津高校〜慶応の同期生中島君の実家中島薬局があった)
2014年03月30日(日) 若松町役場の会津藩士(76)
 桂林寺町(上)

竹田源次郎(天保14年10月生まれ) 46歳
相澤 重信(明治6年8月生まれ) 16歳
斎藤 喜市(慶応元年10月生まれ) 24歳
棚木勇之進(天保9年10月生まれ) 51歳
伊藤 栄作(嘉永4年12月生まれ) 38歳
山川栄四郎(明治7年正月生まれ) 16歳
森  虎次(明治4年正月生まれ) 19歳
元島幸次郎(文化2年8月生まれ) 84歳  最高齢

      ◇   ◇   ◇
 富津市内の潮干狩りが今年は全面的に中止に追い込まれるという。前述したが、一般向けには解放されていたが、18日、浦賀水道で起きた衝突事故で転覆した貨物船から重油が海岸に流れ着いているーためという。
 放射能汚染の風評被害で魚市場から入荷を拒否されており、今年の潮干狩りは全滅になる。楽しみにしていた家族もあろう。春休みの楽しみが一つ消える。地元への被害も大きい。
2014年03月29日(土) 若松町役場の会津藩士(75)
 ◇老(おとな)町

小荒井武次郎(文久元年7月生まれ) 29歳
佐藤 〇〇(安政3年6月生まれ) 34歳
                以上2人
(大町の南に折れて西は大和町に至る東西2町32間=280メートル=戸数40戸。昔、3階建ての楼があったので、楼之町ともいわれたが、韻が似ているので老(ろう)町と呼ぶようになった。旧家の林家があった。中町に)

       ◇   ◇   ◇
 明珍家について。七日町の明珍佐内で思い出したが、明珍家というのは、室町時代から続く甲冑師である。全国的に多くの史料にも載っているが、會津の明珍家については、『若松市史』下巻(昭和17年発行)の151ページに系図があり、江戸時代末期に今田安信という人物が制作にあたり、維新後は当麻中町に住すーとある。空小札の制作は會津の特有と記載されている。
 明治30年ごろ、安信没してその傳絶つーとあるが、明治23年の藩士名では、七日町に佐内がおり、当麻中町を探すと、「今田萬橋(文政10年3月生まれ)」があるだけ。
 安信は見当たらない。歴史の史料というのは、いい加減なものがあるのが分かる。

2014年03月28日(金) 若松町役場の会津藩士(74)
 ◇北小路町(下)

池上辰之助(明治元年7月生まれ) 22歳
小林 八郎(慶応2年正月生まれ) 24歳
小池 久冶(安政2年7月生まれ) 35歳
睦沢 〇〇(万延元年正月生まれ) 30歳
若林 重房(嘉永元年9月生まれ) 41歳
町野 良永(天保10年3月生まれ) 51歳
北村十郎右衛門(文政9年8月生まれ) 63歳
                以上14人。
(老町の北、長さ6町50間=740メートル=、幅4間=7,2メートル=田中稲荷神社、長福寺あり。維新前、検断=町の世話役=小池伝吾居住。子孫は朝鮮に渡る。中町、大町1丁目、七日町に分断変更)
2014年03月27日(木) 若松町役場の会津藩士(73)
 ◇北小路町(上)

浦野卯三郎(天保9年12月生まれ)51歳
福田 〇〇(安政6年8月生まれ) 30歳
中條志之助(天保13年4月生まれ)48歳
小村 庄助(天保4年3月生まれ) 57歳
五十嵐清助(明治元年11月生まれ)21歳
遠山 直記(文久2年7月生まれ) 28歳
赤羽信三郎(嘉永元年2月生まれ) 42歳 (註)
 (註)赤羽庄三郎の間違いか?=御旗奉行、250石、幼少より学を好み、武芸もよくした。官奉者番。学生の訓育に努め、門下生は有為の士が多かった。善竜寺に眠る)
2014年03月26日(水) 閑話
 今年は警視庁創設140年だそうだ。5万人の警察官、職員に過去140年で最も記憶に残る事件を上げてもらったところ、平成7年(1995)のオウム真理教による地下鉄サリン事件だった。当然だ。
 2位は、復旧、復活が遅れ、福島原発の汚染水が問題視される東日本大震災、3位はあさま山荘事件(昭和47年)と、忌まわしくも懐かしい事件が上位を占めた。
 以下、4位ー昭和43年の3億円事件、5位ー平成元年の大喪の礼、即位の礼と続き、9位には明治10年(1877)の西南戦争。會津にとっては忘れられない事件だ。警視庁の川路利良大警視の懇請を受けた旧會津藩家老佐川官兵衛が藩士多数を率いて応援し、田原坂の戦いで壮絶な戦死を遂げた。
 會津人にとっては「戊辰戦争の仇」とばかりに西郷軍と戦い、薩摩示現流の抜刀術に怖れをなした新政府軍の兵隊を鼓舞したのである。
 以来、薩摩に対して恨みは消えて、今では友好関係を結ぶロータリークラブもある。が、しかし、長州に対しては、依然、恨みは消えない。
2014年03月25日(火) 若松町役場の会津藩士(72)
 ◇七日町(下)

大関 甚吉(文久3年3月生まれ) 27歳
明珍 佐内(明治元年3月生まれ) 20歳
大関松三郎(明治12年2月生まれ) 11歳
                以上8人。
(大町四つ角から越後に通じる街道。商店多く、旅籠も。市内屈指の繁華街。長さ7町16間=790メートル=、幅4間=7,2メートル。戸数260戸。
 維新前、七日ごとに市が立ったことから地名に。白木屋漆器店が筆頭で、若松座(映画館)、會津勧業無尽株式会社など。戊辰戦争殉難者数百人を葬る阿弥陀寺には墓参が絶えない。御三階は明治7年=1874=、鶴ヶ城取り壊しの際、ここに移された。外から見れば3階だが、中は4階。今は無住になった。
 現在、大東銀行会津支店の場所に高田藩の定宿清水屋旅館があった。幕末、長州の吉田松陰は奥州諸藩を回った際に宿泊し、戊辰戦争で負傷した新撰組副長土方歳三も治療のため泊まった。
 只今、商店街を通して町興しを実践しており、観光客の呼び込みに努力中)
2014年03月24日(月) 若松町役場の会津藩士(71)
 ◇七日町(上)

加藤 篤治(文久2年5月生まれ) 28歳
板橋 久三(文久3年10月生まれ)28歳
星野 次郎(安政5年8月生まれ) 31歳
大村 吉信(安政4年2月生まれ) 33歳
武内佐次郎(明治4年2月生まれ) 19歳

      ◇   ◇   ◇
 大相撲春場所でモンゴルの鶴竜が優勝した。横綱に昇格するという。横綱は白鳳らと3人になり、全員モンゴル人。日本人は〜といえば、大関の地位に汲汲としている稀勢の里ら。横綱など、見果てぬ夢となった。 期待の遠藤も前頭筆頭で負け越し、「まだまだ」。
 両国国技館を「モンゴル国技館」に改名したらいい。テレビは観たくない。
2014年03月23日(日) 若松町役場の会津藩士(70)
 ◇天寧寺町(下)

小林 鉄冶(慶応元年3月生まれ) 25歳
黒井卯之吉(嘉永6年6月生まれ) 37歳
佐野 当吉(安政2年3月生まれ)  35歳
長谷川鶴次郎(天保3年2月生まれ)58歳
榎田 作次(天保3年3月生まれ)  58歳
                以上13人
(市の東外れで、長さ5町34間=600メートル=、幅3間=5,4メートル=。維新前は戸数140戸。天寧字があり地名に。大正6年(1917)には多くは田畑に変わった。天正時代(1573〜92)、冬坂(院内)を越えて白河に通じる街道があった。
 宝蔵院、宗英寺(葦名家16代盛氏の坐像がある)、極楽寺、浄光寺など寺院が多い。天寧寺には、戊辰戦争の責任を負って切腹した家老菅野権兵衛と子息郡長政親子や新撰組局長近藤勇の墓がある。町内に史跡「天寧寺町土塁」がある。
 花春町、宝町などに分断変更された。花春酒造が神指町に移転した今、花春町ではおかしいのである。筆者が主張した「歴史ある町名」に戻すべきだ)
2014年03月22日(土) 若松町役場の会津藩士(69)
 ◇天寧寺町(上)

駒井 新吾(文久3年8月生まれ) 26歳
西村捨三郎(嘉永3年4月生まれ) 40歳
小林又太郎(天保7年0月生まれ) 53歳
田中栄三郎(安政5年7月生まれ) 32歳
飯島 清助(明治5年2月生まれ) 18歳
相葉秀之進(安政2年12月生まれ) 31歳
樋口安次郎(文久2年正月生まれ) 28歳
伊予田猶記(明治12年正月生まれ) 11歳
2014年03月21日(金) 若松町役場の会津藩士(68)
 ◇徒之町(下)

鈴木 六彦(明治5年11月生まれ) 17歳
岩実由太郎(明治7年5月生まれ) 16歳
井形 辰馬(安政3年5月生まれ) 34歳
増田 元助(嘉永元年正月生まれ) 42歳
                以上13人
(天寧寺の北、維新前は藩士の屋敷が多かったが、後、桑畑になり、旧観がない。戸数57戸。蒲生時代、徒の者を置いたので地名に。藩主松平家の別荘「御薬園」がある。維新前は薬草を植えていた。側の田圃に念仏清水が湧き出ている。「心」字の池があり、茶室も。
 昔は井上浄光寺、明光寺の子院があったが、その跡すら残っていない。南千石町、宮町、花春町、宝町に弄り回されて分断、変更)
2014年03月20日(木) 若松町役場の会津藩士(67)
 ◇徒之町(上)

本名 要助(天保13年10月生まれ) 47歳
堀  英雄(明治11年12月生まれ) 11歳
山内 清見(弘化4年12月生まれ) 42歳
大森 完冶(文政11年11月生まれ) 61歳
永瀬栄太郎(安政5年6月生まれ) 32歳
山内清之助(文政9年正月生まれ) 64歳
弥津和多蔵(文政9年正月生まれ) 64歳
山内 治平(明治4年9月生まれ) 12歳
大塚勝之進(文政13年4月生まれ) 74歳
2014年03月19日(水) 若松町役場の会津藩士(66)
 ◇千石町(下)

岡  代吉(文政11年8月生まれ) 61歳
遠山 景守(嘉永5年8月生まれ) 37歳
樋口 光茂(安政3年11月生まれ) 35歳
渡辺初三郎(明治4年11月生まれ) 18歳
石黒喜和二郎(嘉永4年11月生まれ) 38歳
笹原 與八(天保4年5月生まれ) 56歳
平山常太郎(安政2年11月生まれ) 34歳
高山 忠房(嘉永4年7月生まれ) 39歳
高嶌八次郎(嘉永5年正月生まれ) 38歳
                以上19人。
(徒之町の北にあり、知行100石を禄する者が10人住んでいたので地名に。戸数64戸。千手院、専福寺あり。南千石町、宮町、千石町に分断、変更)
2014年03月18日(火) 若松町役場の会津藩士(65)
 ◇千石町(上)

角田織之進(慶応3年5月生まれ) 23歳
井関 冶八(安政元年正月生まれ) 36歳
高木善四郎(弘化2年9月生まれ) 44歳
片岡  惇(元治元年正月生まれ) 26歳
赤羽 伝吾(文政3年10月生まれ) 69歳
新井田良臣(弘化元年11月生まれ) 45歳
五十嵐 泰(文政元年6月生まれ) 72歳
堀兼清之助(天保2年12月生まれ) 58歳
龍造寺豊太郎(天保2年12月生まれ) 58歳
松田 順平(元治元年6月生まれ) 26歳

      ◇   ◇   ◇
 本日は春の彼岸の入り。春一番が吹き、強い南風で洗濯物が飛んでいきそう。気象庁は、高松でソメイヨシノが全国のトップを切って開花したーと発表。寒かった今年の冬ともようやくお別れのようだ。
 今年は本当に寒かった。地球規模でいうなら、大洪水や異常寒波などが世界中で発生した。温暖化のせい?とも思われるが、原因は不明。
 不明、といえばマレーシア航空機は不可思議だ。パイロットらが疑われているそうだ。230人も乗せたまま、どこへ消えたのか。
2014年03月17日(月) 若松町役場の会津藩士(64)
 ◇浄光寺町

鈴木庄次郎(文政10年10月生まれ) 62歳
高畑作右衛門(文政6年12月生まれ) 66歳
伴野 治助(天保8年5月生まれ) 53歳
山口 友弥(天保11年2月生まれ) 50歳
佐藤 智信(嘉永4年3月生まれ) 39歳
真鍋吉三郎(安政元年正月生まれ) 36歳
佐藤留五郎(天保11年2月生まれ) 50歳
                以上7人
(屋敷町の北で、戸数23戸。昔、井上浄光寺があったので地名に。何の関係もない宮町に変更)
2014年03月16日(日) 閑話
 東京湾のアサリ採りのトップを切って15日、富津市の富津漁協でスタートした。千葉県内からの家族連れが、ちょっぴり寒い気温の中、バケツや熊手を持ってアサリ採りに挑んだ。
 漁協によれば、今年のアサリの生育は順調で、豊富とか。9月までの期間中、15万人の入りを見込んでいる。
 ところで、東京湾のアサリは、3年前の福島第1原発事故以来、風評被害で以前の17万人から10万人に落ち込んでおり、漁協では、回復にやっきだ。
 放射能の異常もないので家族連れはOKなのだが、しかし、漁市場で千葉産のアサリは取引されていない。千葉産のアサリは家庭には出回っていないのだ。新鮮なアサリが食べたいーと思っても不可能だ。
 アサリに限ったことではない。利根川産のシジミも取引されていない。アサリは熊本産、シジミは青森産である。富津では風評被害で民宿をやめたところもある。いつまで原発の被害が続くのか。住民の不安は続く。
2014年03月15日(土) 若松町役場の会津藩士(63)
 ◇台之町

冨田八重次(弘化4年2月生まれ) 43歳
林 辰五郎(天保13年5月生まれ) 48歳
石塚喜三郎(安政5年4月生まれ) 32歳
目黒 繁記(天保3年正月生まれ) 58歳
浦野千賀良(明治16年11月生まれ) 6歳
                以上5人。
(南は徒之町願成就寺前通りの末、北は阿弥陀町の角に至る長さ1町24間=150メートル=、幅3間=5,4メートル=。戸数13戸、土地高い故に町名に。薬師堂があった。東にあった延寿院は廃寺に。宮町に変更)
2014年03月14日(金) 若松町役場の会津藩士(62)
 ◇阿弥陀町

佐原幸次郎(明治8年8月生まれ) 14歳
三橋 三蔵(文政12年12月生まれ) 60歳
飯岡竹三郎(明治12年3月生まれ) 11歳
村沢 五郎(文久2年3月生まれ) 28歳
古川 義助(天保14年11月生まれ) 46歳
                以上5人
(愛宕町の東の続き、千石町の専福寺前通りに至る長さ54間=105メートル、幅3間=5,4メートル、戸数228戸。昔、阿弥陀堂があったことから地名に。日本組合基督教会、若松教会及び付属博愛幼稚園があった。明治の翻訳家で、『小公子』を著した若松賤子はこの町で生まれた。バイオリスト巌本真理は孫にあたる。現在は民家の庭先に若松賤子の碑がある。宮町、千石町に変更)
2014年03月13日(木) 若松町役場の会津藩士(61)
 ◇愛宕町

佐藤 供吉(文久2年6月生まれ) 28歳
                以上1人
(屋敷町の北、長さ1町39間=180メートル=、幅3間=5,4メートル=戸数45戸。この町から北会津郡東山村大字慶山に通じる道なので有名に。一説に、愛宕山の別当冷蔵院がいたことから地名にとも。行仁町、宮町、千石町に分断変更)

     ◇   ◇   ◇
 本日から「若松町役場の会津藩士」を復活させる。やはり會津は歴史の町である。蒲生氏郷以来、黒川の里と呼ばれていたのを「若松」に変え、以来、幾多の変遷を受け継いできた會津。地名、町名は、まさに「文化遺産」なのである。
 歴史的な町名復活を求めて活動した時代の意義を伝えるのも、もう少し書き込めば理解してもらえるはずだ。
2014年03月12日(水) 木更津異聞(最終回)
 自慢話の最後は、富津市の高宕山(標高315メートル)であったサル騒動。周辺は東大の演習林が広がる山岳地帯。ニホンザルが増えすぎて周辺の農家の作物を荒らして困っているーと聞き込んで、”猿害”を特集した。
 農家の人が空気銃で脅しても効果ゼロ。猟銃を向けると、手を合わせてSOS。
「とても射殺などできない」
と困り果てていた。
 思案の挙句、考え付いたのが、大きな捕獲網を作り、中に餌を入れて誘い込む作戦。ある朝、見事、サルの集団が網の中に。勿論、独財で他紙をリード。捕獲した時は、さすがに付き合いの長い毎日新聞記者だけは同行した。サルはどこかの動物園に移っていった。

       ◇   ◇   ◇
 昨日は、東日本大震災の3周年追悼式が各地で行われ、午後2時46分には、1分間の黙祷を捧げた。
 あの震災では読売の後輩遠藤実君が宮城県名取市で津波に巻き込まれて亡くなった。定年間もなくで、夫人は買い物で仙台へ、自分は家で留守番していて犠牲になった。
 3年たった今でも、名取市閖上地区は、更地のままだ。遠藤君の元気な頃、千葉支局で一緒だった時のことを思い出し、深く首を垂れた。
2014年03月11日(火) 木更津異聞(7)
 美空ひばりと結婚した俳優小林旭が”強制離婚”されたことが全国的なニュースになった昭和40年代後半、裏でひばりの興行権を握っていたのが広域暴力団山口組3代目組長田岡一雄だった。
 田岡が小林旭に引導を渡し、泣く泣く離婚させたのだ。西日本一帯のひばりの興行権をフルに活用して大金を稼いでいた時期である。
 ある時、木更津市公民館でひばりの歌謡ショーがある、と大きな宣伝が新聞その他であった。ひばりの人気は絶大で、当然、大入り満員が予想された。
 その時、暴力団がらみの興行に公共施設を利用させていいのかーと思い至った。断っておくが、別に小林旭に同情したわけではない。
 「木更津でひばり興行、公共施設貸切に市民から疑問の声」
という記事が、読売千葉版のトップで大きく掲載された
 勿論、独財。他社はなんとも思わなかったのだ。反響を呼んだ。木更津市は、
「そういう団体が後ろに付いているというのでは、貸すのはまずい」
と、市民会館貸出を断ったのだ。全国的にみても、美空ひばりの興行をつぶしたのは、筆者だけだろうーと胸を張ったものだ。
 後年、ひばりの歌声は胸に響き、長野市では、スナックのママの歌う「愛燦燦」に聞き入ったのを思い出す。
2014年03月10日(月) 木更津異聞(6)
 木更津は、現役時代、3年半ほど駐在したことがあり、懐かしい思い出がかなりある。そのうちから”自慢話”を二つ三つ。
 木更津市の南隣君津市には、御存じのとおり新日鉄君津制定所が広大な敷地に頑張っている。岩手県の釜石製鉄所から移転した部分も含めて新日鉄では国内最大規模のはずだ。 
 ここから出る煤煙が木更津市内の水田に異常な現象を起こしたことがあった。現場はアサリ掘りで有名な金田海岸一帯の水田で、稲が変色し、黒ずんだのだ。
 千葉県の農業試験場に問い合わせた。「土曜日なので〜」と嫌がる職員を現場に出向かせ、調べさせた。
 「新日鉄からの影響らしい」
との結論になった。
 君津製鉄所は当初、「わが社からの影響などないはず。公害施設はしっかりしている」との話だったが、煙突から出る煤煙によっての影響ーと結論付けられた。
 勿論、特ダネで、他社は手をこまねくだけ。
 結局、君津製鉄所で煙突に新たな煤煙防止装置をつけることになって決着がついた。「河野さんのお蔭で数億円の損失です」と製鉄所幹部はこぼすこと。
2014年03月09日(日) 木更津異聞(5)
 会津藩主松平容敬が撰擇寺を本陣に充てたのは偶然ではなかった。藩祖保科正之の叔父にあたる保科正重の墓があったのだ。
 徳川2代将軍秀忠の側室の子である正之幼名幸松は、秀忠の正室小江与の方の嫉妬を怖れて元和3年(1617)7歳の時、信州・高遠藩主保科正光の養子に出された。
 正光は幸松を後継にし、異腹の弟正貞を勘当するが、正之が義兄の3代将軍家光に見出された寛永13年(1636)山形・最上藩20万石の大名になった際、保科家宗家に代々伝わる家康の感状や太刀などを正貞に譲り、正貞は晴れて1万7千石の初代飯野藩主(後に加増されて2万石に)になった。保科家は幕末まで10代続くが、撰擇寺に眠る正重は、正光の異母弟で、後に再興した保科藩初代藩主正貞の兄という。
 正之は最上藩を経て会津藩主になるのだが、いってみれば、藩祖が幼少時に世話になった保科家の一族に対して、会津藩主松平容敬が、そのお礼と感謝を込めて本陣にしたに違いない。會津武士の本懐といえる藩主の想いがみてとれる。
2014年03月08日(土) 木更津異聞(4)
 容敬一行は、この後、姉ヶ崎で小休止、海岸の狭い道を南下して奈良輪で再び小休止。8丁(880メートル)先の市場川を渡り、ここからは乗馬して七つ半(午後五時ごろ)木更津に到着した。鶏頭山撰擇寺に本陣を構えた。
 2月4日明け七つ半、木更津を発ち、浜通りの狭き路を歩き、山道を抜け、中野村で小休止。飯野陣屋(飯野藩)の前を通り、富津町を抜けて會津藩富津陣屋に到着した。陣屋詰めの家老一瀬伝兵衛や番頭黒河内十太夫らの出迎えを受ける。
 5日、陣屋を出立し、小久保村の名主宅ー竹岡名主宅ー竹岡陣屋到着。翌日は竹岡陣屋から萩生村ー金谷村ー日本寺(鋸山)−本郷村というコースで巡見し、江戸に戻ったのは2月14日であった。
 問題は、木更津で本陣に構えた撰擇寺である。
2014年03月07日(金) 木更津異聞(3)
 容敬は寒川で一首詠んでいる。
「明けわたる浪静なる朝なきに 遙かにしろきふし(富士のこと)の嶺」
 武人の嗜みとして当然といえばそれまでだが、いい歌ではないか。朝明けの中で波静かな江戸湾の遙か向こうに霊峰富士山がくっきりと見えている。すっきりと風景が浮かんでくる、素直な和歌である。
 やがて五井を過ぎ、養老川を渡る際にも、
「たらちねの為にや汲ん老いらくを やしなふ川の流れ也けり」
 周囲の風景を満喫しながら房総巡見は続く。
2014年03月06日(木) 木更津異聞(2)
 嘉永2年(1849)2月、松平容敬の房総巡見の一行は500名で、それ以外に物持ち、駕篭人足が加わる大行列であった。
 2月2日明け六つ(午前6時ごろ)、江戸を発ち、千住で小休止。中川を渡り、新宿で再び小休止、その後、小岩ー八幡まで進み、途中、容敬は馬に乗って、この日は検見川で宿泊。
 3日は快晴、昼前に風が吹く、夕刻小雨。七つ半(午前5時ごろというから夜明け前)出立。磯辺を過ぎる頃、夜は白々と明け行く。寒川で小休止。春霞が棚引き、漁舟が数多く見ゆる。 赤貝を採る舟だとか。
 富士山がはるかに見え、見渡す限り海は静かだーとなかなか描写が詳しく、とても23万石の大藩主の記録とは思えない。
2014年03月05日(水) 木更津異聞(1)
 前記の「幕末、木更津〜」は木更津市の地域紙「房総時事新聞」(廃刊)に5回連載したものを要約したが、この連載で意外なところから反響が来た。
 木更津市にある選擇寺というお寺から、
「會津藩主松平容敬が房総巡見の時、うちにお泊りになったという話を先代から聞いています」
と電話が舞い込んだ。
 調べてみると、會津と木更津は、意外なところで深い縁に結ばれていたのだ。會津藩が江戸湾防備で駐留していた嘉永2年(1849)2月、8代藩主容敬は富津陣屋などの藩士を励ますため房総半島を巡見した。
 2月2日、江戸・會津藩上屋敷を出発して、陸路、江戸湾沿いに南下し、富津、竹岡の両陣屋と台場を中心に巡見し、14日、江戸に帰着した。
 この巡見をもとに、3月4日、浦賀奉行に会い、さらに5月3日には、老中阿部正弘と江戸湾防備全般にわたって相談している。
2014年03月04日(火) 幕末、木更津は会津藩領だった(最終回)
 會津藩は嘉永6年(1853)11月、江戸湾防備の任を解かれ、品川台場(砲台)防備につき、後を備前・岡山藩に引き継ぐが、高柳村から
「領主が代わらないようにお願いしたい」
との願いが幕府に出された。善政を慕ったわけではなく、領主が代わるたびに支配形態が違っては入用が増えるのは困るーというのが本音だ。
 これに対して安政元年(1854)、幕府の答えは、會津藩の後は、筑後・柳川藩にするーだけであった。
 因みに、高柳村は會津藩領となるまでは、3人の畑本(柴田日向守康直、松浦溜之丞、松浦伝之丞)の支配だった。(完)
 参考文献 『江戸湾警衛 會津藩の増領について』(筑紫敏夫著)他
2014年03月03日(月) 幕末、木更津は会津藩領だった(12)
 嘉永6年(1853)6月3日、アメリカ東インド洋艦隊司令官ペリーが浦賀に来航した。碇をおろした4隻の黒船の周囲を取り囲み、藩旗を掲げた會津藩や忍藩(武蔵国)などの小舟が警戒している絵図があるが、この時、異国船を怖れた高柳村の漁民が別の者と交代する一幕があった。
 高柳村の地首、名主らが連名で
「どうぞ、この者をお咎めないように」
と會津藩役人に嘆願書を出している。
 このことからも分かるように、動員された漁民に使命感など全くなく、仕方なくーという程度の認識だったことが伺える。

      ◇   ◇   ◇
 現在、幕末〜明治初期の會津の代表的な人物遠藤敬止について調べているが、鶴ヶ城跡地の払下げを受けた際、私財をなげうって買い取った単独説と、募金し代表として買い取った代表説の二通りがある。
 今日まで解決しておらず、會津にとって「戊辰戦争」は、まだ終わってはいないことを実感している。
右上の小舟集団が會津藩
2014年03月02日(日) 幕末、木更津は会津藩領だった(11)
 勿論、前記の負担には会津藩から、それなりの褒賞があったが、ここに興味深い会津藩からのお達しがある。
 嘉永5年(1852)2月、8代藩主容敬が死去したため、各村に「普請停止」20日間が出された。さらに、嗣子(9代容保)が「若狭守」であるので、領民は生まれてくる子に「若」の字をつけてはいけないーと通達された。
 このような厳しい締め付けで江戸湾の防備体制の動員を徹底したかったのだろう。
 しかし、同年4月29日、代官所のお触書では、
「26日に異国船が来航した時、真っ先に富津台場に駆けつけるべき富津村の小舟は逃げてしまった」
という、笑えない実情があった。
2014年03月01日(土) 幕末、木更津は会津藩領だった(10)
 会津藩は増収を図ろうとしたようだが、思惑通りにはいかず、その後、「御改訂」が出され、年貢諸役は現状維持のままに戻った。
 会津藩領となった村々の農民たちには、通常の年貢のほか、防備に伴う負担があった。
 まず、人足役として、近海で異国船が発見された際には陣屋からの指示で陣屋や台場に駆けつけて武器や食糧などの運搬や炊き出しなどを行う。動員の対象は15,6歳以上60歳以下の男子全員だが、実際には、村高または戸数に応じて人数が割り当てられた。
 また、水夫および役船として5大力船、魚類運搬の押送船が多数徴用され、水夫が動員された。役船は異国船の偵察などにあたり、この間、湾内の漁業は一切禁止された。異国船を発見して注進を怠ったら罰則もあった。
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