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2012年06月30日(土) |
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閑話 |
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アメリカ政府は、垂直離着陸輸送機「オスプレイ」の日本への配置を29日、日本政府に正式通告した。配置予定の24機のうち12機は7月下旬に米軍岩国基地に海路輸送し、8月には沖縄の米軍普天間飛行場(宜野湾市)に配備する。
日米安保では核兵器などの搬入など重要な装備品の変更は事前協議の対象になるが、オスプレイを含む通常兵器の変更はアメリカ側の判断で実施できるーという、なんとも歯がゆい条項がある。
モロッコやフロリダなどで2度の墜落事故を起こしており、地元では「あんな危険なものは認められない」と猛烈な反対の姿勢を示している。
オスプレイは元々は普天間を辺野古に移転させてから配備する予定だったのが、あの鳩山の「トラスト・ミー」というチンプンカンプンな発言で計画が座礁した曰くつきの問題なのだ。
住宅が密集する普天間で「もし墜落したら〜」と考えると、ぞっとする。今からでも遅くはない、アメリカ側に日本政府として毅然とした態度をとるべきだ。墜落してからでは遅い!! |
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2012年06月29日(金) |
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江戸湾を守る(8) |
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遊撃隊、撒兵隊に請西藩主林忠崇らが加わった一行は200余名に膨れ上がり、士気は大いに上がった。富津陣屋を包囲して恫喝した結果、富津陣屋から加わって氏名が判明したのは、武士滝沢研三、織本新助、辰野常松、河野治助、長沢安次郎、松野喜三郎(箱根で戦死)、平野八造、小林幸吉ら23人。
一行は4月10日夕刻、館山湾を出港し、12日、真鶴港に上陸した。そして江の浦に滞陣し、これからの行動を相談して14日、吉浜、15日韮山、16日御殿場と進んだ。
18日には山岡鉄太郎が御殿場の陣に来て、「無茶はすべきにあらず」と説諭したが、到底聞き入れるはずがなく、説諭は失敗に終った。
翌19日、御殿場を出立して川口に一泊し、20日須走、21日は三坂峠を越えて黒駒に着き、30日まで滞陣した。
◇ ◇ ◇
民主党の小沢一郎は消費税増税で造反し、党を飛び出す構えを見せている。参議院で法案を可決したらーと云っているようだが、実は苦しい局面を迎えているのだ。
「3ない新党」になるという。「金がない」「顔がない」「味方がいない」のだ。政党交付金は「分党」が認められなければ受けられず、新党の代表になるべき顔がない。おまけに石原慎太郎には「大嫌い」といわれ、大坂の維新塾などからも「付き合いはお断り」を突き付けられている。
四面楚歌の中で、小沢新党の未来は真っ暗だ。要は「小沢は終った」のだ。 |
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2012年06月28日(木) |
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江戸湾を守る(7) |
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請西藩士70名を引き連れた、ということは、請西藩の藩士の三分の一だったようだ。普通、藩士は一万石につき200名と云われるからである。因に、隣の飯野藩(2万石)の藩士は170名であった。
途中、撒兵隊や佐貫藩の一隊が加わり、桜井を経て畑沢に至った。ここで二手に分かれ、請西藩と遊撃隊は山道を通り、高坂を越え、釜神駅、飯野を経て富津に達した。一方、撒兵隊と佐貫藩兵は海浜に出て人見山麓を回り、青木、西川を経て富津に至った。
4月4日、一行は富津陣屋を包囲し、江戸湾防備で二本松藩から引き継いだ前橋藩に対して小銃50挺、1000両と糧米の提供を求めた。
これに対して、前橋藩家老小河原左宮は切腹して陣屋を明け渡し、大砲6門、小銃50挺と1000両、糧米を差し出し、大砲を引くため足軽20余名を脱走の形にして参加させた。 |
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2012年06月27日(水) |
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江戸湾を守る(6) |
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一方、幕府遊撃隊長伊庭八郎は、京都所司代与力だった人見勝太郎と共に、隊士を率いて榎本武揚指揮の幕府軍艦開陽丸に乗船して木更津に上陸した。伊庭は請西藩主林忠崇を徳川に味方するよう、熱心に説いた結果、共に行動することとなった。
一行の作戦は海(江戸湾)を渡って箱根に出て、江戸と京都の連絡を断ち、徳川氏の回復を諮ることであった。
林昌之助忠崇は慶応3年(1867)家督を継ぎ、眉目秀麗、英姿颯爽、「将来、閣老になるべき人物」と評され、姿勢剛直、気骨のある21歳の青年藩主であった。
忠崇は伊庭の申し出を受け入れて立つことを決意した。が、他に迷惑が及ぶことを避けるため、藩主自ら脱藩して4月3日、藩兵70名を率い、遊撃隊36名と共に、大砲一発を放って請西の真武根陣屋を出立した。 |
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2012年06月26日(火) |
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江戸湾を守る(5) |
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さて、舞台は幕末。慶応4年(1868)4月11日、江戸城は無血開城された。しかし、これに不満の幕臣は上野彰義隊をはじめ、関東各地に走った。中でも撒兵隊(さっぺいたい)頭福田八郎右衛門を将とする一隊2000人は4月11日に江戸湾を渡って木更津に上陸、付近一帯に布陣して「義軍」と称した。
近隣の諸藩に対して義軍への参加出兵と物資援助を強要した。飯野藩は米300俵、などを提供、久留里藩でも米1000表、鶴牧藩は、米500俵を与えた。
特に請西藩と富津台場防備の前橋藩、佐貫藩、久留里藩の四藩には、兵力を背景にして強力に働きかけたので、四藩は、その対応に苦慮した。分けても福田は、請西藩に対して強く決起を促した。
撒兵隊は第一大隊を中山の法華寺に、第二大隊を船橋に、第三大隊を姉ヶ崎に集結させ、第四、五大隊は福田隊長自ら率いて久留里城占拠を計画した。
◇ ◇ ◇
本日の衆議院本会議で、消費税増税法案が賛成多数で可決された。記名投票で行われたが、民主党からの反対は、小沢一郎系や鳩山由紀夫元首相ら57人だった。大方の予想に近い数字であったが、これが新党結成か、となると疑問だ。しかし党員の五分の一以上の反対者が出たことで、事実上の分裂状態になったことは確実だ。
「決められない」政治の野田政権が改革を後回しにして消費税増税を決めたことは狂気としかいいようがない。
参議院でも可決は確実で、われわれ国民に大きな負担を強いるものだ。年金生活者にとって、2年後に恐ろしい生活が待ち構える。 |
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2012年06月25日(月) |
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江戸湾を守る(4) |
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徳川家康は、上記のように房総半島に譜代大名を配置したが、それだけでは不安であった。半島の突端、安房地方には里見氏が強力な水軍を持っていたからである。「いつ江戸に浸入されるか分らない」と、船手頭を上総や相模の沿岸に配置した。
確認できるのは、小浜景隆(上総・相模に3000石)、間宮高則(上総望蛇、相模に1200石)、向井正綱(相模、上総に2000石)、小笠原信元この(上総富津など周准郡に2500石)、小笠原広勝(上総周准郡に知行地)、松平家信(上総五井に5000石)の直参旗本6人を置いた。
彼等が知行地の沿岸に陣屋を建設して江戸湾の日常的な防備にあたった。富津の小笠原家の菩提寺が、会津藩士も眠る正珊寺である。
その後、幕府が大船建造を禁止したことから、船手頭の軍事的な役割は薄れ、6人のうち、幕末まで役職を受け継いだのは、向井氏だけだった。
文化7年(1810)会津藩が江戸湾防備で相模国を担当した際、「海の泳ぎを覚えよ」と、藩士を現地の船手頭向井将監のもとに入門させ、武道泳法である向井流泳法を習得させた。
この成果が、嘉永元年(1848)会津藩士3人が富津湊から竹岡湊まで海路4里(16キロ)を泳いだのを祝った「遠泳の絵馬」である。 |
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2012年06月24日(日) |
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江戸湾を守る(3) |
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(5)鶴牧藩は、文政10年(1827)安房・北条藩主水野忠韻(ただてる)が市原郡椎津村(現市原市)に陣屋を構えて成立した1万5千石の譜代小藩。藩主水野忠韻は文化5年(1808)若年寄となり、爆風中枢で活躍し、文政8年(1825)家格を「陣屋持」から「城主格」に引き上げられ、椎津村に城地を与えられた。ここに陣屋を置き、同10年以降は鶴牧城と公称した。
子息忠実も若年寄となり、跡を次男忠順が継ぎ、戊辰戦争で新政府軍から旧幕府軍の鍖撫を命じられた。しかし、防御不行届きと不審の嫌疑がかけられ、謹慎を申し渡された。間もなく許された。
(6)請西藩は、文政8年(1825)若年寄に任じられた林忠英(ただふさ)が1万石で上総国望蛇郡貝淵村(現木更津市)に陣屋を構えて成立した譜代小藩。
藩主林氏は旗本に認められ、浦賀奉行を勤めた林忠篤の家督を忠英が寛政8年(1796)に継ぎ、3千石を相続した。後に千石、3千石と加増され、若年寄に任じられた際、1万石の大名となった。忠英は11代将軍家斉の寵臣として昇進と加増を重ね、後に家斉が将軍を退いて大御所として君臨した頃も、忠英は若年寄として権勢を誇り、天保10年(1839)には1万8千石に加増された。
家斉が天保12年に死去すると、若年寄を免職となり、8千石を取りあげられて1万石に戻った。4代後の忠崇(ただたか)は戊辰戦争で旧幕府軍に協力し、新政府軍には徹底抗戦し、藩主自ら脱藩して各地を転戦した。全国でただ一つ廃藩になった。(経緯は後述) |
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2012年06月23日(土) |
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江戸湾を守る(2) |
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(3)佐貫藩は上総国天羽郡佐貫(現富津市佐貫)に居城を構えた譜代小藩。天正18年(1590)内藤家長が入封して成立し、藩主は松平(桜井)、松平(能見)と変わり、貞享元年(1684)廃藩となって城も破却された。
その後、宝永7年(1710)阿部正鎮(まさたね)が三河・刈谷から1万6千石で入封して立藩し、上総、長柄両郡を擁した。幕府要職に就くことはなかったが、戊辰戦争が始まるや、藩主正恒は新政府軍に恭順しようとしたが、家臣の多くが幕府擁護に回ったため、藩論が揺れ動く中で新政府軍への抗戦に踏み切った。が、圧倒的な軍事力の差に兵を引き居城引き渡しと寺院への謹慎を命じられた。
(4)佐倉藩は下総国佐倉に居城を持つ10万石の大名。歴代藩主が幕府の要職を勤めた名門。天正18年(1590)家康の家臣三浦義次が1万石で入封したのが始まりで、以後、武田信吉、松平忠輝、小笠原吉次、土井利勝、、石川忠総、松平(形原)氏、堀田氏(前期)、松平(大給)氏、大久保氏、戸田氏、稲葉氏、と目まぐるしく交代した。延享3年(1764)堀田正亮が出羽・山形から10万石で転封し、以後、廃藩置県まで存続した。正亮は9将軍家重時代、老中首座に就いて政権を支えた。4代後の正睦(まさよし)は開国後の老中首座としての活動と藩内での蘭学奨励に力を注いだ。「東の佐倉、西の長崎」として、順天堂発祥の地として名高い。 |
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2012年06月22日(金) |
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江戸湾を守る(1) |
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徳川家康は、のど元の江戸湾を守るため、房総の上総、下総国や対岸の三浦半島に譜代の小大名を配置した他、旗本を御船手頭として置き、防御体制を固めた。
房総半島では、@久留里藩が上総国望蛇郡久留里(現君津市久留里)に慶長7年(1602)、土屋忠直が2万石で入封した譜代で、以来、明治4年(1871)の廃藩置県に至るまで続いた。
A次は飯野藩。慶安元年(1648)保科正貞が上総国周准郡飯野村(現富津市下飯野)に陣屋を構え、1万7千石で入封した。これも転封されることなく明治まで続いた。御存知、2代将軍秀忠が側室に産ませた正之を当時、高遠藩主(長野県高遠町)だった保科正光の養子に出し、その後、その子正貞が2万石で入封した。正之は、この間、3代家光に見い出され、会津23万石の大守となる。会津藩と飯野藩は、いわば親子関係と言える。
藩主は代々、大坂定番(大坂城を守る)を就くことが多く、最後の藩主正益は慶応2年(1866)若年寄になり、第2次長州攻撃に参加したが、同4年、戊辰戦争が始まると、薩長軍は正益が会津藩に協力するのではと危ぶみ、正益が薩長軍に恭順の意を表明しても入京を許されず、謹慎させられた。 |
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2012年06月21日(木) |
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靖国神社と会津藩士(最終回) |
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この日の靖国参拝は、隣接の鎮霊社に別に祀られている白虎隊士や西郷隆盛らの御霊にお参りするのが目的であったが、生憎、開放されておらず、彼等に会うことは出来なかった。
境内の茶店でビールと焼そばの昼食をとり、念願だった皇居一周の散歩に挑戦した。二松学舎大学前ー千鳥が淵公園ー国会前ー警視庁と4分の3を廻り、一時間かけてのんびりと歩いた。お濠はさすがに大きく、「江戸城」の名残りを残していた、
この日の参拝で分かったことがある。靖国神社の宮司は神職ではなく、元華族(藩主)の家系の中から選ばれるという。その時の宮司は元南部藩主の末裔とか。宮司候補に上がった際、「考慮する」と返事を渋っていたが、天皇から「靖国を守って下さい」と声をかけられて就任を決意したそうである。(完) |
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2012年06月20日(水) |
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靖国神社と会津藩士(17) |
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政界からは、郵政民営化法案に反対して、総選挙で自民党から公認されなかった平沼赳夫・元経産大臣が「散る桜、残る桜も、散る桜」の特攻直前の兵士の詩を紹介しながら、「尊い御霊をお祀りしているのは靖国神社だけで、8月15日に参拝を公約した小泉首相が、今日参拝しないのは完全な公約違反だ」と厳しく追及した。
またルバング島で戦後30年、ゲリラ活動で堪え忍んで来た小野田寛郎さんは「心ならずも死んでいった〜」という、いつもの小泉談話を取り上げ、「心ならずも死んでいったら、国を守れたか。国の為、家族を守るため命を捧げたのだ」と、馬鹿のひとつ覚えの小泉談話を鋭く追及していた。
筆者は、この日からちょうど2か月後に脳溢血で倒れたのだ。思い返せば元気なものであった。全国地名保存連盟の役員もしており、太平洋市問題では一人現地に乗り込んで抗議文を突き付け、マスコミを利用して撤回させたのも自分であった。 |
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2012年06月19日(火) |
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靖国神社と会津藩士(16) |
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平成17年(2005)8月15日、太平洋戦争敗戦60周年にあたる記念すべき「終戦60周年国民の集い」が、靖国神社で開かれ、初めて参加した。 印象的だったのは、60年前と同じような暑い日であった。生まれた日本一本店(会津若松市甲賀町)のすぐ側まで、類焼防止のため家屋の取り壊しが迫っていた。玉音放送により、間一髪で救われたのだ。
靖国の会場では、60年前と同じ「玉音放送」が流れ、初めて聞くことになった。当時は意味は分らなかったが、「忍び難くを忍び〜」の言葉は、日本人の心に訴える内容だった。
出席者から発言が続いた。ドイツ駐在の作家、クライン・孝子さんは、同じ敗戦国ながら西ドイツのアデナウアー首相は、ソ連に抑留されていた捕虜9600人を引き取るため、ソビエト式のレールの幅の列車を作り、ソビエト首脳と直談判して勝ち取った英雄として知られることを紹介し、日本の指導者でそこまでやった人物がいたかーと鋭く指摘したのが、強い印象として残った。 |
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2012年06月18日(月) |
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靖国神社と会津藩士(15) |
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昭和54年(1979)、A級戦犯合祀が明らかになるよ、「分祀せよ」という批判が沸き起こった。国内だけでなく、侵略と占領に逢った中国、朝鮮から猛烈な反対運動が起きた。
これに対して神社本庁は平成17年(2005)6月9日、「A級戦犯の分祀は教学上、不可能である」とする基本見解を初めて公表した。この基本見解はA級戦犯分祀論について、「祭神の分離という意味の分祀は神社祭祀の本義からあり得ない」とし、「A級戦犯の分祀は不可能」とする靖国神社の立場への支持を表明したものであった。
◇ ◇ ◇
読者からの要望があったので、この連載が終了後、江戸時代、上総と下総両国、いわゆる房総半島に配置された小大名、中でも幕末、藩主自ら脱藩して薩長軍に反抗した請西藩を取り上げてみたい。箱根で薩長軍を迎え討とうとする計画であったが、幕府軍の残兵ともども夢敗れて四散し、行方不明となった者が多かった。
勤王ー佐幕の間で揺れ続けた小大名の厳しい一面が浮かび上がって来る。 |
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2012年06月17日(日) |
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靖国神社と会津藩士(14) |
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ここでA級戦犯の合祀問題を考えてみよう。昭和27年(1952)4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、戦犯の赦免、減刑などが行われ、A級戦犯は昭和31年(1956)、BC級戦犯は33年(1958)までに釈放された。
A級戦犯のうち、重光葵は鳩山内閣の副総理兼外相に、賀屋興宣は池田内閣の法相に起用され、復権した。岸信介首相はA級戦犯容疑者だった。靖国神社は昭和34年(1959)厚生省から届いた祭神名簿を基に「昭和殉難者」としてBC級戦犯の合祀を始めた。A級戦犯の祭神名簿は昭和41年(1966)に届き、崇敬者総代会は同45年(1970)に合祀する方針を決めたが、その時期は宮司一任となった。
昭和53年(1978)に宮司に就任した松平永芳(元越前藩主松平春嶽の孫)は改めて総代会に諮り、確認した上で、東京裁判で絞首刑になったり、獄死したA級戦犯14人の合祀に踏み切った。 |
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2012年06月16日(土) |
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靖国神社と会津藩士(13) |
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昭和53年(1978)10月17日、靖国神社は東条英機らA級戦犯14人を極秘のうちに合祀した。これが明らかになったのは翌年の4月19日だった。このため政教分離の観点から、政府関係者の参拝が問題視され、「戦争責任者は合祀すべきにあらず」という声が大きくなった。
その後、昭和54年(1979)4月21日、大平正芳首相が参拝したのを始め、計3回、鈴木善幸首相も計8回、中曽根康弘首相は10回、「私的」に参拝した。
特に中曽根首相は昭和60年(1985)8月15日、終戦記念日に公式に参拝して中国などから強い反撥を受けた。このため、翌年の参拝は取り止めとなった。
その後、平成8年(1996)7月29日、橋本龍太郎首相が誕生日に参拝し次の小泉純一郎首相は平成13年(2001)8月13日から計4回参拝したが、いずれも終戦記念日は外した。平成18年(2006)8月15日、最後の参拝を行った。 |
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2012年06月15日(金) |
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靖国神社と会津藩士(12) |
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昭和26年(1951)10月18日、吉田茂首相が秋季例大祭に参拝した。初めての首相参拝で、以後、岸、池田、佐藤、田中各首相も複数回参拝した。翌27年10月16日には、昭和天皇も靖国を参拝され、戦後処理への一歩を踏み出した。
同28年(1953)8月3日、衆議院本会議で、「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」。翌年には、恩給法を改正し、戦犯への援護措置を講じた。戦犯も「公務死」と位置付け、国内法上、A級戦犯の公務復帰を妨げるような欠格事由規定などは設けなかった。A級戦犯も恩給が支給されるようになった。
同34年(1959)3月28日、千鳥が淵墓苑が完成し、一般戦没者が葬られた。同40年(1965)8月15日、日本武道館で政府主催の全国戦没者追悼式が行われ、以後、毎年開かれている。
昭和50年(1975)8月15日、三木首相が終戦記念日に参拝、「私的参拝」と表明した。翌年4月21日、福田首相が参拝し、以後、計4回参拝。ここまでは、何の問題も指摘されなかった。 |
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2012年06月14日(木) |
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靖国神社と会津藩士(11) |
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前記15人の会津藩士(うち平民2人)が靖国神社に合祀され、大平洋戦争敗戦を迎えた。それまで、帝国陸海軍の将兵は「靖国で合おう」を合い言葉に散っていった。
昭和20年(1945)11月20日、戦後第一回の臨時大祭が行われ、弊原首相が参拝した。12月15日には、連合国軍総司令部(GHQ)が「神道指令」を通達し、神社神道への政府の保護を禁止した。これにより、靖国神社は別格官弊社ではなくなった。
これ以後、靖国神社の戦後の歴史を振り返る。昭和22年(1947)5月3日、アメリカ軍押し付けの日本国憲法が施行された。翌23年11月12日、極東国際軍事裁判(東京裁判)で、戦犯25被告に有罪判決が出た。A級戦犯として28人が起訴されたが、判決前に2人死亡、精神障害で免訴1人。絞首刑は東條英樹、広田弘毅、板垣征四郎ら7人、終身刑木戸幸一、小磯国昭ら16人)。
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BSフジで「三国志」を放映している。西暦3世紀の中国(というより支那だ)には忠孝仁義という教えが守られていた。魏、呉、蜀の三国鼎立時代に、孔子、孟子の教えが戦国時代を支配していた。これが守られてきたのは、第2次世界大戦の蒋介石までであろう。
共産党独裁になった中国は、立派な教えを捨て、3.11の被害に苦しむ日本の尖閣諸島周辺に船を出して権益拡大を狙うなど、海賊まがいの動きを展開した。もっての他である。共産党に毒された中国人民は無知にされたのか、無知なのか。哀れというしかない。 |
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2012年06月13日(水) |
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靖国神社と会津藩士(10) |
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(11)森満七=警視局四等巡査心得、豊後口警視徴募三番小隊、兵士。10年5月27日、豊後国直入郡鏡村で戦死、19歳。士族。森昌長四男。
(12)黒岡十一郎=警視局四等巡査心得、豊後口警視徴募四番小隊、伍長勤務。平民、10年7月13日、日向国臼杵郡後山で戦死。43歳。
(13)岸 重久=警視局四等巡査、豊後口警視徴募四番小隊、伍長勤務、士族。10年6月6日、豊後国海部郡市浜村之役で負傷、同月21日、大分病院で死去、18歳。
(14)大谷力=警視局四等巡査心得、豊後口警視徴募六番小隊、伍長勤務、士族。10年6月9日、豊後国海部郡水ヶ城で戦死、35歳。
(15)佐藤熊三郎=警視局四等巡査心得、豊後口警視徴募九番小隊、兵士、平民。10年8月4日、日向国臼杵郡三角山之役で負傷、同月20日、豊後国鶴崎病院で死去、23歳ーと記録にあるが、六石、朱雀足軽二番隊士で、河沼郡会津坂下町から参戦。れっきとした士族である。
(以上、佐川官兵衛顕彰会会報第14号参照)
以上のように、戊辰戦争の仇、とばかりに旧会津藩士だけでなく平民も西南戦争に参戦したことが分る。これにより、薩摩への恨みは薄れた。しかし、長州への恨みは今日に至るまで会津人の心の中に渦巻いている。 |
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2012年06月12日(火) |
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靖国神社と会津藩士(9) |
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(7)石山綱江=警視局四等巡査、豊後口警視第一号一番小隊。兵士、士族。10年3月18日、肥後国阿蘇郡黒川村で戦死。33歳。青森県から出陣ーと記録されており、戊辰戦争後に斗南に流され、現地に落ち着いていたと思われる。
(8)山室五郎=警視局四等巡査、豊後口警視第二号二番小隊、兵士、士族。10年6月1日、豊後国海部郡臼杵町で戦死、20歳。
(9)酒井新太郎=警視局四等巡査心得、豊後口警視徴募四番小隊、兵士、平民。10年8月2日、日向国臼杵郡三角山之役で負傷、同月20日、豊後国鶴崎病院で死去、15歳。平民2人が西南戦争に参戦、戦死したが、わずか15歳で戦死とは、白虎隊並である。
(10)印東重應=警視局四等巡査心得、豊後口警視徴募四番小隊、伍長勤務、士族。10年6月9日、豊後国海部郡水ヶ城で戦死、31歳。 |
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2012年06月11日(月) |
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靖国神社と会津藩士(8) |
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(4)篠原逓之助=士族、警視局一等巡査。豊後口警視第一号二番小隊、伍長勤務。明治10年4月13日、肥後国阿蘇郡坂梨嶺之役で負傷、14日、豊後国直入郡今市駅で没す。22歳。白虎隊士中二番隊の生き残り、篠沢虎之助と同一人物と思われる。この士中二番隊は19名の自刃者を出し、飯盛山に葬られた。
(5)杉浦編徳=士族、警視局、二等巡査。豊後口警視第一号四番小隊。兵士。10年7月14日、肥後国阿蘇郡笹倉村病院で病没。32歳。
(6)大竹主計=士族、警視局、四等巡査。豊後口警視第二号二番小隊、兵士。10年6月1日、豊後国海部郡臼杵町で戦死、24歳。450石大組物頭、軍事奉行、遊撃隊隊頭、大竹主計の子。父は慶応4年9月5日の戦闘で戦死。 |
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2012年06月10日(日) |
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靖国神社と会津藩士(7) |
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新政府軍の戦死者は大分市の護国神社の「西南役警察官墓地」に埋葬された。警視局員98名、軍夫5名など105名。会津藩関係者は、
@一等大警部佐川官兵衛、次いで肩書き、戦死した場所などを記述する。
A田原重文=士族、警部補、豊後口警視第一号二番小隊、軍曹勤務、明治10年3月18日、肥後国阿蘇郡二重嶺で戦死。岩手県出身、22歳9か月=と墓石に刻まれているが、史料から会津藩士田原左近と同一人物で、白虎隊士中一番隊士であった。
B横山忠=士族、警部補心得、豊後口警視徴募四番小隊、軍曹勤務、10年6月9日豊後国海部郡臼杵水ヶ城之役で負傷、8月5日没す。28歳3か月。
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郡山市の知人から、林平蔵さんが亡くなったことを知らされた。会津高校ー慶応の大先輩で、現役時代、福島民友に出向した時、福島日野自動車の社長で、親しくおつき合いして頂いた。最近は「幸楽苑」の監査を手伝っていたはず。
この数年、新聞連載をした頃から友人先輩が次々鬼籍に入られた。三浦半島、房総半島に眠る会津藩士の発掘に功績があった星正夫さん(横須賀市)、作家早乙女貢さん、会津松平13代松平保定さん、俳優佐藤慶さん。それに会津若松市の「末広」酒造の先代新城猪之吉さんも。これだけの人物と個人的に付き合いのあった人間は会津にはいないだろう。寂しい、寂しい。 |
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2012年06月09日(土) |
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靖国神社と会津藩士(6) |
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佐川官兵衛ら会津藩士は「戊辰の仇」とばかりに参戦し、豊後口警視隊として進軍、官兵衛は副隊長で、阿蘇は、熊本県旧阿曽郡黒川村で薩摩軍と遭遇する。時に明治10年(1877)3月18日。指揮官檜垣直枝権少警視の優柔不断な判断ミスから部隊は窮地に追い込まれた。
官兵衛は自ら敵の隊長鎌田雄一郎と一騎討ちを挑む。数合渡り合ううち、突然、後ろから薩摩軍に狙撃され、壮烈な最期を遂げた。47歳だった。この戦いで政府軍は105人が戦死し、うち旧会津藩士の戦死者は14人だった。
官兵衛の部隊は出撃する前、旧白水村に5日間滞在した。その間、官兵衛は部隊に厳しい規律を申し渡し、略奪などは一度もなかった。官兵衛は村人と同じ池の水で顔を洗い、子供らには「敵の首をみやげにもってくるぞ」と頭を撫でてやる優しさを示した。戊辰戦争の時、薩長軍の略奪、強姦などを目にしていた官兵衛は、あの時の苦しさ、口惜しさを覚えていたのだろう。
村人は官兵衛を「鬼さま」「鬼さま」と親しみを込めて呼んでいたと云う。出立に先立って「君が為 都の空を討ちいでて 阿曽山麓に身は露となる」という辞世の句を喚んだ。 |
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2012年06月08日(金) |
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靖国神社と会津藩士(5) |
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不平士族の反乱は、その後も、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱(明治9年)と相次ぎ、鹿児島の西郷隆盛も部下に圧されて明治10年(1877)、遂に立った。西南戦争である。「新政府にもの申す」と、薩摩軍は熊本城に向けて進撃を開始した。
政府軍の兵士は百姓や町人が殆どで、薩摩藩に伝わる示現流の抜刀術を恐れて尻込みする者が多かった。
このため、警視庁は佐川官兵衛を中心とする会津藩士の部隊を出動させることになった。会津藩士は「戊辰の仇討ち」と勇躍、熊本に乗り込む。会津藩士では、官兵衛だけでなく、家老山川大蔵(浩)率いる別動隊も熊本城攻防に参戦した。指揮官の一人だった柴四朗(後の政治小説家、東海散士)は、「今日、薩摩人に一矢を放たれば、泉下に対して面目なし」と弟の五郎(後に会津人初の陸軍大将)に意気込みを語っている。 |
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2012年06月07日(木) |
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靖国神社と会津藩士(4) |
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西郷隆盛を慕って、旧薩摩藩士は軍人や警視庁など公職を捨てて鹿児島へ続々帰郷するなど、世情は極めて不穏な情勢になった。不平士族はこれに乗じて先鋭化し、遂に明治7年(1874)2月、江藤新平が佐賀の乱を起こした。
世情騒然となり、新政府は、続々と兵力を九州に送り込む一方、治安維持の為、警察力の教化を図る必要に迫られた警視庁の川路利良警視長は、旧会津藩の家老佐川官兵衛に対して警視庁への奉職を要請した。
会津で世捨て人同然に暮らしていた官兵衛は「明治政府などに協力するか」と拒否する。しかし、川路からの再三再四の要請と、極貧に喘ぐ旧会津藩士の「職が欲しい」という訴えを目の当たりにして警視庁勤めを決意。藩士300名を引き連れて奉職し、一等大警部となる。 |
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2012年06月06日(水) |
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靖国神社と会津藩士(3) |
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この問題に触れるに当たり、西南戦争が発端となったことを書かねばばらない。明治新政府は明治2年(1869)、中央集権化を急ぎ、全国260藩の土地と人民を朝廷に返す版籍奉還、次いで廃藩置県を相次いで強行した。
国民は市民平等に生まれ変わり、武士は士族になったものの家禄は廃止され、さらに徴兵制度の実施で武士の特権も奪われてしまった。
封建社会から近代国家への過渡期であり、隣国の朝鮮に対して、明治政府は同じように開国を要求した。しかし、朝鮮は「余計なお世話」と日本の要求を拒否した。「無礼だ」、「朝鮮を討つべし」という征韓論が沸き起こったのである。西郷隆盛や江藤新平らが中心だった。
だが、欧米視察を終えて帰国した岩倉具視や大久保利通、木戸孝允らは「戦争をやる時期ではない。富国が先だ」と反対したため、征韓論は敗れ、西郷らは下野した。 |
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2012年06月05日(火) |
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靖国神社と会津藩士(2) |
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まずは、靖国神社の生い立ちから。明治2年(1869)、戊辰戦争の犠牲者を弔うため東京招魂社として建立されたのは述べた。
その後明治12年(1879)6月、靖国神社と改称し、国家への功労者を祀る別格官弊社になり、陸、海軍両省の共同管理となった。一般の神社は内務省管理であった。「靖国」の典拠は、『春秋左氏伝』にある「靖国=国を靖んじる」によっている。
そして明治27年(1894)日清戦争が勃発、翌年12月16日には、日清戦争の戦没者を合祀するため臨時大祭を挙行した。これ以降、日露、日中、太平洋戦争などの戦没者を随時合祀して来た。
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今年の慰霊祭に一般参加の読者から、「遠くから出席する方がおり、感激した」との書き込みがあった。戊辰戦争後、140年以上も経過しているのに慰霊祭、これこそが「會津」なのである。むしろ、この間、無縁墓地になってきた藩士の御霊に申し訳ない、とさえ思う。
要望もあるようなので、近々、木更津にあった請西藩の幕末についても研究して書き込みたいと思っている。人間、何歳になっても勉強だ。 |
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2012年06月04日(月) |
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慰霊祭(続き) |
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昨日の第6回会津藩士慰霊祭は、初参加の方々の熱い発言、会津を思う心が発揮された。
飯野藩士花沢金八郎の子孫、花沢毅さん(東京・国立市)は、「祖母たちから先祖は会津藩士だと聞かされて来たが、花沢をネットで調べるうちに河野さんのブログを突き止め、飯野藩士であることが分り、家族一同大きな喜びを感じた。盆と正月が一緒にきた、というが、それにお彼岸が加わったようだ」。
また北海道湧別町から空路出席した会津藩士の子孫、遠藤功さんは「薩長政府は蝦夷地や樺太防備のため出陣した会津藩士の記録を悉く抹殺した。貴重な史料はまったく残っていない。まさに勝者の歴史で、敗者への労りなど微塵もない。今もって憤りを感じている」と、強調した。
「日本の武士階級の法要を体験したい」と参加したウズベキスタン人は「維新が過ぎて140年以上経つのに、今もって、このように集まって儀式を行うなど、考えられなかった。これが日本の伝統なのか」と不思議そうに話していたのが印象的だった。 |
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2012年06月03日(日) |
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第6回會津藩士慰霊祭 |
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本日は第6回會津藩士慰霊祭を千葉県富津市竹岡の松翁院で行った。福島県会津若松市から田辺賢行、富津市の平野和夫両副市長はじめ会津会副会長の福田のぶ子さん、戊辰戦争で会津藩救援に向い、戦死した飯野藩士花沢金八郎の子孫が初参加し、同寺の墓地に眠る会津藩士36名の墓前に献花、焼香した。また近くの延命寺にも廻り、会津藩士4名の墓前にも焼香した。
この後、近くの清藍荘での「斎」では、対岸の横浜から出席した新選組隊士斉藤一の子孫と花沢氏の子孫が、144年ぶりに堅い握手を交わし、戊辰戦争を戦い抜いた先祖同士の堅い契りを確認し合った。 |
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2012年06月02日(土) |
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靖国神社と会津藩士(1) |
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靖国神社は御存知の通り、戊辰戦争の戦死者、但し新政府軍兵士を祀るため明治2年(1869)長州藩士大村益次郎の提唱によって「東京招魂社」として建立された。だから会津藩士は祀られていないし、勿論あの白虎隊士19名も同じである。
だれも祀られていないか、というとそうでもないのである。実は明治10年(1877)の西南戦争で政府軍に参戦して戦死した旧会津藩士たちは祀られている。だから反乱を起こした薩摩の西郷隆盛は当然、祀られていない。
第2次世界大戦で日本を敗戦に追いやった東条英機らA級戦犯を合祀したことから、近隣諸国の強い批判を浴び、首相の靖国参拝は実現したり、中止したりと紆余曲折を辿ってきている。靖国神社の歴史を振り返ると共に、祀られた会津藩士の戊辰後の活躍を述べてみたい。 |
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2012年06月01日(金) |
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「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(最終回) |
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会津藩は男子子弟だけに教育を施したのではなかった。女子に対しては専ら家庭が舞台であった。一家の婦人は幼小な子女に対して素読と習字を教える傍ら、純愛にもとづいて将来の心得となるべきことをなにくれとなく教訓した。
毎日の素読が終ると、神棚あるいは仏壇のある部屋で、切腹の稽古をさせたのである。一死を意念して生きる姿と同時に、会津武士の母として凛然たる覚悟を示したのだ。これが終らないうちは子供は袴を脱いで寛ぐことは出来なかった。
また、娘が嫁ぐ時は懐刀を渡したが、身を守ることだけでなく、何事かあれば「家名を汚すことなく、自刃せよ」との暗黙の教えであった。
こうした厳しい躾は幕末に至るまで会津藩の藩風となり、謹厳の風が代々養われた。(完)
(参考文献 会津若松史第3、4巻) |
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