河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2015年06月30日(火) 日本女帝物語(16)
      持統天皇(1)

 正式な天皇号が成立した40代天武天皇は、皇室の権威を高めることに力を注ぎ、国史の編纂を志し、律令の改正と整備に着手した。が、しかし、志半ばで686年8月、亡くなった。 
 死の直前、天皇は「天下のこと、大小を問わず、悉くに皇后、皇太子に啓(もう)せ」との勅を発し、皇后(持統天皇)が政権をとることになった。天武天皇の大喪は2年続き、690年、正式に持統天皇が即位する
 持統は天智天皇の皇女で、叔父にあたる大海人皇子の后になるが、それより先、姉の太田皇女も大海人皇子の宮に入ってる。しかし、太田皇女は早くに亡くなっているので、正妃は持統であったと思う。
 持統は皇女時代から「帝王の女たりと雖も、礼を好みて節倹、母儀の徳あり」といわれていた。壬申の乱では、自ら兵を率いて戦に参加した。天武2年(673)皇后にたてられたが、大臣を一人も置かない時だったので、皇后の存在は重きをなした。

2015年06月29日(月) 日本女帝物語(15)
      空白の8年間

 斉明が亡くなり、天智天皇が誕生するまでの8年間、歴史的には天皇不在である。唐・新羅連合軍襲来の恐れで天皇どころではなかったのだろう。中大兄皇子がしっかりしていたので、668年、天智天皇即位が実現する。
 天智は国内の仕組みを整えようと、中国の律令をモデルにした近江令を編み、全国的な戸籍「庚午年籍」(こうごねんじゅく)を作った。律は刑法、令は行政法である。
 天智の死後、息子大友皇子が39代弘文天皇になるが、一旦は出家した天智の弟大海人皇子との間で皇位継承を巡る内乱が起きた。「壬申の乱」(672年)である。
 大海人皇子は東国で多くの豪族を味方につけて大勝利を治めた。内乱を鎮めた大海人皇子は翌年、即位して40代天武天皇になる。
 この頃になると、中央の豪族の政治干渉を排除することに成功し、皇室の地位を高めることで、公地公民を目指す大化の改新の精神を推進できた。
 また「大王」(おおきみ)と呼ばれてきた君主の称号が「天皇」になったのも、「日本」という国号が成立したのも、この頃だ。

2015年06月28日(日) 日本女帝物語(14)
      皇極天皇=斉明天皇(完)

 唐・新羅連合軍の日本襲来を恐れた中大兄皇子らは、九州に防人を配置し、大宰府を守るため水城(みずき)を築いて、国を挙げて防衛体制を固めた。
 唐・新羅は百済を滅ぼしたが、朝鮮半島には高句麗が残っており、背後を襲われないようにするため、連合軍は日本に和睦を求めた上で、高句麗を滅ぼした。こうして新羅は676年、朝鮮半島を統一した。
 百済から王や貴族はじめ一般人まで1000人規模で日本に亡命し、近江(滋賀県)や東国に定住した。朝廷は手厚い優遇政策をとったので、亡命者は500〜600万人と推定される日本人の中に溶け込んで、中央の官僚制度の仕組みなどを日本に伝えた。帰化人である秦氏などが亡命者の代表の氏である。
 これより先、斉明天皇は660年、筑紫の朝倉宮(福岡県朝倉町)で亡くなった。唐の襲来を恐れた中大兄皇子は都を近江に移し、668年、即位して38代天智天皇となった。

2015年06月27日(土) 日本女帝物語(13)
      皇極天皇=斉明天皇(4)

 このため、再び女帝が皇位につくことになった。37代斉明天皇である。
 斉明朝の中で歴史上の問題は、白村江(はくすきえ)の敗戦である。朝鮮半島における日本の出先であった任那(みまな)が新羅に滅ぼされてから1世紀、半島は新羅、高句麗、百済の3国が攻防を繰り返していた。
 7世紀半ばになると、唐が新羅と組んで水陸13万人の軍勢を半島に送りこんだ。我が国は危機感に包まれた。300年に及ぶ交流のある百済を始め半島全体が唐に侵略されるのを見過ごすことはできなかった。中大兄皇子は百済に大軍と援助物資を送った。
 唐・新羅連合軍との決戦は、663年、朝鮮半島南西の白村江で戦端が開かれた。日本の軍船400隻は燃え上がり、天と地を紅蓮の炎が真っ赤に焼いた。
 2日間の戦闘で日本軍は大敗を喫した。百済は滅亡した。

2015年06月26日(金) 日本女帝物語(12)
      皇極天皇=斉明天皇(3)

 このため、中臣鎌足(後の藤原鎌足)と中大兄皇子(皇極の子)らを中心に蘇我氏排斥の動きが起こり、645年、朝鮮から使者を迎えた宮廷で、中大兄皇子は参内した蘇我入鹿を天皇の御前で斬った。入鹿の遺体は庭に放り出され、蝦夷は屋敷に火を放って自害した。
 朝廷は初めて年号を大化とし、土地を国家が統治することを決めた(公地公民)。いわゆる大化の改新であった。
 宮廷クーデターの2日後、皇極天皇は退位し、弟の軽皇子が36代孝徳天皇となった。中大兄皇子は皇太子となり、一時は安定したが、白雉4年(653年)天皇と皇太子の間にすきまができ、皇太子は難波宮を去って飛鳥の故宮に移ってしまった。
 先帝と間人皇后も皇太子と行動を共にしたので、孝徳は孤立し、翌654年、憂悶のうちに世を去った。

2015年06月25日(木) 日本女帝物語(11)
      皇極天皇=斉明天皇(2)

 即位の年の6月、雨が降らず「大(おお)いに旱(ひでり)す」状態だったので、大掛かりな祈雨の行事が行われた。が、効果はなかった。
 最後に皇極が南淵(4現奈良県明日香村坂田付近)の川で「跪きて四方を拝し、天を仰ぎて祈うた」ところ、たちどころに雷雨があり、5日間続いて天下を潤した。天下の百姓は、「至徳天皇(いきおいまします)と称えたという。
 天皇は続いて先朝以来の百済太寺(後の大宮大寺)の工事を興すと共に、新たに飛鳥板葺宮の造営に取り掛かった。
 一方、豪族の頭目、曽我氏は祖廟を葛城の高宮に建てて天子の舞を行い、墓陵を造るため挙国の民を動員するなど、天皇を凌ぐ動きを見せていた。
     ◇   ◇   ◇
 太平洋戦争での沖縄地上戦は昭和20年6月23日で終結したーを書き込んだが、続報があった。陸軍大尉伊東幸一さん(94)は軍司令官自決の23日以降も戦い続けた。
 壕の奥深くに潜って抗戦を続け、1000人の部下は100人だけになった。8月22日に終戦を知り、降伏するかどうか迷ったそうだが、連隊長が武装機序を受け入れて降伏した。
 「最期の一兵まで出血を敵に強要せよ」「一緒に死ぬぞ」と部下に命じながら、「生き残ったのは恥ずかしい」と沖縄戦のことはしゃべらずにすごしてきたという。軍は県民に多大な迷惑をかけたーことばかりが喧伝されているが、上官雨宮巽士団長は地元民に迷惑をかけないよう民家を兵舎にせず、かわぶき小屋作らせたーことなどは忘れ去られている。

2015年06月24日(水) 日本女帝物語(10)
      皇極天皇=斉明天皇(1)

 皇極は用明天皇の皇太子だった彦人大兄の子茅野(ちぬ)王の娘で母は吉備姫王(きびのおおかみ)といい、推古天皇の弟桜井皇子の娘。
 初めは用明天皇の孫高向(たかむこ)王に嫁し、一子漢王をもうけたが、後に(630)田村皇子(後の用明天皇)の宮に入り、皇子が舒明天皇に即位した翌年、皇后になった。
 641年、舒明天皇が亡くなると、宝皇后が産んだ中大兄皇子がいて16歳、皇位継承の地位にあり、他方、蘇我法堤郎媛との間に生まれた古人大兄がいた。古人は中大兄より年上であり、さらには、聖徳太子の遺子山背大兄の存在は一部、抜き難い声望になっていて、無視するわけにはいかなかった。
 こうした事情から、宝皇后が35代皇極天皇に即位する。前述したように、蘇我蝦夷、入鹿親子の専横が横行し、二人は天皇気取りで砦のような屋敷を構え、大勢の兵士に身辺を守らせていた。
 このため、女帝は時として、最高の巫女としての役割を果たすことになる。

2015年06月23日(火) 日本女帝物語(9)
 推古32年(624)蘇我馬子は葛城県(あがた)を「封県」として自分に下賜してほしいと求めたのに対して推古天皇は拒否した。天皇は71歳、馬子は74歳。馬子は2年後に亡くなるが、その子蝦夷は10数年前から四大夫の一人として女帝の前に現れていた。このような緊迫した情勢の下で新たに女帝は、皇継の決定に頭を悩ませていた。
 皇子は二人。用明天皇の太子だった彦人大兄の子田村皇子と、聖徳太子の子山背大兄(やましろのおおえ)王である。女帝は娘田眼(ため)を田村皇子に娶らせた。
 その当時、蝦夷は天皇の墓にしか使わない「陵」(みささぎ)という言葉を自らの墓に用い、子をすべて「皇子」と呼ばせるなど瀬能を極め、蝦夷の子入鹿は山背大兄王はじめ太子の一族を皆殺しにした。
 この結果、田村皇子が34代舒明天皇に即位した。
 推古天皇は今回で終了し、次回から35代皇極天皇を取り上げる。
     ◇   ◇   ◇
 本日23日は、太平洋戦争で地上戦があった沖縄で、地上戦が終了し、多くの中学生や女子高生はじめ民衆が犠牲になった。沖縄の「慰霊の日」で、糸満市の平和祈念公園で戦没者の追悼式が行われる。
 翁長知事は、米軍普天間基地の名護市辺野古への移設問題で安倍政権を強く批判し、両者は視線も合わせぬ、異例な式典になった。こじれた糸を恢復するのは容易ではない。
2015年06月22日(月) 日本女帝物語(8)
 聖徳太子は蘇我馬子と協力しながら政治を進めた。仏教の信仰を基本に置いた政治であり、また、優れた人物を評価する「冠位十二階」の制度を取り入れて役人を冠の色で区別した。豪族の専横を抑え、天皇中心の体制を作るためだった。
 さらに、「和を持って貴しとなし、さかふる(逆らい、背く)ことなきを宗とせよ」で始まる「十七条の憲法」を定めた。
 一方、7世紀になると、中国大陸と朝鮮半島に新しい動きが始まった。隋は黄河と長江を結ぶ大運河を造り、高句麗に大軍を派遣したため、30年ほどで滅んでしまう。
 618年、唐が中国を統一、朝鮮半島では、新羅が力をつけ、唐と友好関係を結んだ。 
 推古天皇、聖徳太子と蘇我氏の関係が円満のうちは、飛鳥の宮廷は安泰であったが、622年、太子の死と共に関係は変わる。蘇我馬子、蝦夷親子の専横ぶりが顕著になったのだ。
2015年06月21日(日) 日本女帝物語(7)
 推古天皇即位の翌年・推古元年(593)用明天皇の第2皇子厩戸(うまやど)皇子を皇太子に立て、「政(まつりごと)を摂(かわ)らしめ(代行させ)、万機(よろずの政)を以て悉くこれに委ね」た。歴史上、有名な摂政、聖徳太子による「大化の改新」が行われる。
 この結果、天皇は自ら政務を離れ、祭祀の大権だけを持って国政上の責任を逃れたから、「神聖不可侵」の地位を保つことができた。
 聖徳太子は、それまでの朝鮮外交から中国外交へ大きく舵を切った。607年、小野妹子を遣隋使として派遣し、隋の皇帝にあてた国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」。
 隋から見れば、朝貢使だったが、、太子はあくまで”対等”という立場を国書に記したのである。隋の皇帝煬帝(ようだい)は激怒したが、朝鮮の高句麗と交戦中だったため忍耐した、という。我が国は中国から文明は謙虚に学ぶが、決して隷属はしないーことが、以後の古代日本史の基本姿勢となった。
2015年06月20日(土) 日本女帝物語(6)
 騒ぎは収まったが、用明天皇は即位2年足らずで世を去り、宮廷は再び、騒然とした空気に包まれた。
 物部守屋は、天皇の死を目前にして兵を集め、穴穂部皇子を皇位につけようと皇太子彦人大兄らの像を作って「厭(まじな)う」に至った。
 対して蘇我馬子らは、炊屋姫を報じて穴穂部皇子誅殺の詔を発し、遂に皇子を除くことに成功した。馬子は、さらに諸皇子や群臣を集めて守屋追放の軍を起こした。両軍は激しい戦いを展開し、ようやくにして馬子軍が守屋を討ち取り、騒乱は一段落した。
 乱後、炊屋姫は群臣らと泊瀬部(はつせべ)皇子を皇位につけたのである。これが32代崇峻天皇である。ここに至り、「姿色淡麗、進止軌制あり」といわれた炊屋姫の声望が一段と高くなってきた。名実ともに当代代一級の貴婦人として崇めらられるようになってきた。
 一方、崇峻天皇は在位5年の間に馬子と不和になり、殺されてしまう。皇太子彦人大兄もまた、この前後に世をさったものと考えられる。宮廷が、新たな危機に直面したことは確かで、ここに炊屋姫が自らたって皇位についた。33代推古天皇である。この時西暦では592年、39歳だった。
2015年06月19日(金) 日本女帝物語(5)
 この時、間人皇女の弟穴穂部皇子が炊屋姫に懸想し、思いを遂げるため無理矢理、殯宮(もがりのみや=敏達天皇の大喪を行うた造られた御殿)に入ろうとした事件が起きた。
 これを遮った先帝の寵臣三輪逆(みわのさかし)の言辞が無礼だと、大臣蘇我馬子と大連物部守屋に告発した。裏には、皇子が皇位につく意志があり、逆討伐は、その口実に過ぎなかったのだが、逆は守屋の兵に殺されてしまう。
 馬子は「天下の乱、久しからず」と嘆くが、守屋は「汝、小臣が識かざるところない」とうそぶいたという。
     ◇   ◇   ◇
 強敵出現で面白くなった會津若松市長選(7月26日投開票)だが、17日になって元県会議長平出孝朗君が出馬を取りやめた。脳梗塞の疑いで選挙戦を戦えないーという理由。
 同じ自民党系で、故伊東正義代議士の系譜だ。停滞気味の市政が活気づく、と期待したのだが〜。
2015年06月18日(木) 日本女帝物語(4)
 最初の女帝は33代推古天皇である。29代欽明天皇の皇女で、18歳で異母兄の30代敏達(びたつ)天皇の後宮に入り、広姫皇后の死後、23歳で立后、32歳の時、夫帝が亡くなった。
 炊屋姫(かしきやひめ)皇后の同母兄用明天皇が31台に即位した。そして先帝の子息彦人大兄(ひこひとおおえ)を皇太子に、皇后には異母妹穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女がたてられた。
     ◇   ◇   ◇
 顕彰会会員の辰野一郎さん、花沢毅さん、このブログを見られたら、、メールしてください。連絡先が住所だけなので、不便です。宜しくお願いします。
2015年06月17日(水) 日本女帝物語(3)
 我が国の女帝の先駆けになったのは、邪馬台国の女王卑弥呼である。2世紀後半の弥生時代後期、日本各地で豪族同士の大きな争いが続いた。それまで用いられた石器に代わって鉄器が登場したことから、他の集団とのいざこざも先鋭的になってきた。
 やがて長い間続いた争いも終わり、そこに登場したのが卑弥呼である。卑弥呼の名は3世紀、中国人陳壽が書いた『魏志』の中の倭人(日本人を指す)の条に登場する。
 もともとは王がいたが、とどまること7〜80年にして和人の国に内乱が起こり、国が乱れた。結果的に一人の巫女が王に擁立されたーというのだ。
 だが、卑弥呼はベールに包まれている。夫はなく、紙神祀り、民衆をよく治めた、という。邪馬台国から役人が他の倭国(対馬など)へ派遣され、28か国が女王の勢力件であった。
 邪馬台国の存在は、畿内(奈良)か北九州かで論争が続いている。『魏志倭人伝』では、「海を渡り、(中略)水行10日、陸行1月」とあるだけだ。
2015年06月16日(火) 日本女帝物語(2)
 明治以降、男系を皇位継承者にすると皇室典範で決められた。平成になってから男子誕生がなく、一時、皇位継承制度の改正が政府部内で真剣に検討された。
 しかし、平成18年(2006)9月、秋篠宮紀子さんに男子が誕生した。悠仁(ひさひと)親王は健やかに生育され、皇位継承順位は皇太子、秋篠宮に次いで3番目、国民は安堵している。
 紀子さんは、大正時代、大阪市長を勤めた會津藩士、池上四郎の子孫だ。四郎の六女が川島家に嫁ぎ、その孫が紀子さんだ。四郎の墓は会津若松市栄町の興徳寺にある。
 戊辰戦争で「朝敵」とされ、「賊軍」と蔑まされてきた會津藩士の家系から三代後には天皇が誕生するのだ。會津の人間にとって、こんなに晴れがましいことはない。が、それまで生きてていないのが残念だ。
2015年06月15日(月) 日本女帝物語(1)
 我が国には、神話の時代から現在まで数えて125代の天皇がいる。初代神武天皇から14代仲哀までは確認できず、15代から以後が歴史上に存在するーという。大和朝廷がいつ頃成立したのか?謎だらけだ。
 古代ローマ帝国と比較すると、我が国の古代史はまことにあやふやなのである。突然、大和朝廷が、歴史上現れたのが西暦350年頃。ローマでは年月日まで記録が詳しく残っている。青銅や石器に刻まれたので保存できたのだが、我が国は木に刻んだため、残っていないのだ。
 『古事記』や『日本書紀』の神話に基づくもので、あやふやなものばかり。宮内庁が天皇陵墓(例えば仁徳天皇陵)の発掘を拒んでいるのも古代史解明の大きな壁となっている。
 闇の向こうの天皇家の中で、古代にあって女性天皇、いわゆる女帝は多かった。推古(33代)、皇極(35代)、元朝(43代)、元正(44代)、孝謙(46代)の6人に、皇極は斉明、孝謙は称徳として再度天皇に即位している。
 この6人の他、江戸時代の明正(109代)、後桜町(117代)を加えて8人、10代の女帝が存在した。
2015年06月14日(日) 幕末の剣豪 森要蔵(最終回)
 幕末、江戸で勇名を馳せた剣客森要蔵の物語も最終回となった。剣術にとどまらず、武芸18番に秀でていた武術家で、2万石の小さな大名保科家に剣術指南として仕官していたが、幕末に大きな花を広げた。
 親藩である會津藩救援で白河城攻防戦に参加、息子寅雄らと共に壮烈な戦死を遂げるのだが、その子孫たちの活躍に興味を持っていただいたに違いない。日米を股にかけた物語も面白い。
 福島県西郷村と富津市にある要蔵の墓に額づいた時を思い出す。特に富津の墓には献花する人もなく、知らない地元民も多かった。顕彰会を設立以来、富津地区と竹岡地区で隔年に慰霊祭を行い、富津地区での慰霊祭で要蔵の墓参も行ってきた。
 特に、要蔵に付き従い、戦死した飯野藩士花沢金八郎の子孫花沢毅さん(国立市)が小生のブログを知って顕彰会会員に参加してくれた。
 これからも會津藩と飯野藩の絆を強くし、會津若松市と富津市が友好都市の縁組ができるよう頑張りたい。(完)
     ▽  ▽   ▽
 明日から、歴代天皇の中で女性天皇(女帝)を取り上げる。
2015年06月13日(土) 幕末の剣豪 森要蔵(102)
 暴れ牛を手で抑えたことも有名な話だ。ある時、飯野村で暴れ牛に出会った。要蔵は、向かってきた牛の角を掴んで2度、大地へ投げつけた。一度目は立ち上がって再度向かってきた牛も2度目でおとなしくなった。
 要蔵は
「目録の腕前があれば誰でもできる」
といって、藩士に牛をおとなしくさせる極意を教えた。
 牛が向かってきたら、大声を上げて立ちはだかれ。牛が一瞬、戸惑い、居直ってから角を向けて突っ込んでくる。
 その時、両手で双方の角を掴め。さすれば、牛は振り放そうとする。左右どちらかへ頭を振ったら、振ったなりに、にじり倒せば、牛は自らの重みでゴロリと倒れる。
 倒れた牛を足で蹴って大喝せよ、牛が再び向かってきたら、また大喝して気勢を削ぎ、角を掴んで倒した方によじれ、牛はまた、倒されると思うから、自然、逆らって反対側に首を曲げる。そこを狙ってよじり倒すのだ。2度倒された牛は3度は向かってこないーと。
2015年06月12日(金) 幕末の剣豪 森要蔵(101)
 森要蔵の噂は江戸だけにとどまらず、関東一円に広まっていった。それは剣術だけでなく、武芸18番すべてに優れていたからだ。
 常陸の笠間で槍の達人を自称していた36人の剣士を負かしたことがあった。当時の槍の名人は會津藩の志賀小太郎(宝蔵院流)といわれていたが、要蔵は志賀に次ぐ名人と謳われた。
 要蔵は又、弓でも名人の域に達していた。ある時、飯野藩士鈴木兵左衛門が弓術の稽古をしているところに寄り、
「ちょっと貸してみよ」
といい、一矢で的の真ん中を射た。二の矢は射なかった。
2015年06月11日(木) 幕末の剣豪 森要蔵(100)
 石井は
「参りました」
と一言。面を脱いだ石井は恭しく
「この石井、今まで得意の手を封じられたことがござらぬ。胴を打たれたこともありませぬ。本日、初めて森先生に敗れました」
と兜を脱いだ。
 これより先、石井は森道場の客分として他流試合には、要蔵を煩わすことなく、片づけた、という。
 森道場は日増しに繁盛し、住み込み門弟も交えて順風満帆な日々が続いた。そんな弘化2年(1845)赤坂御門外の飯野藩邸近くで火事が起きた。要蔵は門弟一同と駆けつけて火消しや道具運び出しにあたったが、折からの風にあおられて火の回りは早く、藩邸は全焼してしまった。
 このため、三田にあった親藩であある會津藩の下屋敷を一時拝借したが、これらの移転にも勿論、森道場の面々が手伝った。
2015年06月10日(水) 幕末の剣豪 森要蔵(99)
 ある日、有馬藩士の石井治吉と名乗る大兵が他流試合を申し込んできた。6尺豊かな剣士で、早速、門弟が立ち会うと、一番弟子の旗本関啓次郎以下次々と敗れてしまった。
 石井が得意とするのは、足癖と敵の胴を打ってくるのを竹刀の先3,4寸で受け流し、直ちに敵の面を打つことだった。この手で大抵の門弟が悩まされた。
 最後に要蔵が立ち会うことになった。予め門弟たちの敗れた手合いを見ていた要蔵は悠然と立ち会った。
 正眼のゆったりした構えで、数合の後、要蔵は敵の得意とする胴の返しに自ら入りこんでいった。
 石井は
「得たり!」
とばかりに竹刀を倒立して切っ先で受け流し、面に返さんとした。
 しかし、ここが要蔵の狙ったところだった。要蔵の胴狙いは虚であった。虚の胴を打つと見せて敵を誘ったのだ。これに嵌った石井が面へ返そうとした時にはすでに要蔵の二の太刀が下から斜め上に石井の胴を斬りあげていた。
 要蔵の20貫(90キロ)の体は飛鳥の如く石井の斜めへ2,3間飛んでいた。
2015年06月09日(火) 幕末の剣豪 森要蔵(98)
 保科正丕は、森要蔵が江戸で一番の剣術使いであることを知っていた。
「但し、月に何日かは、わしにも指南してくれ。もっとも藩士にもじゃ」
こう伝えるのも忘れなかった。
 こうして仕官翌年には、麻布・永坂で北辰一刀流の森道場を開くことが決まった。永年の夢が叶った。
 道場開きの日、藩主・正丕も招いてささやかなお祝い事が行われた。要蔵の高名はすぐさま江戸市中に広まった。門弟がすぐに集まってきた。大名家の藩士や直参旗本の子弟らが駆けつけた。
 朝まだきから竹刀を打ち合う元気な音が近状に響き、その音に吸い寄せられるように門弟が集まった。指導ぶりも天下一品で、童が
「麻布永坂 目の下なるに なぜか保科さん 森のかげ」
と謳ったほど、森要蔵の評判は上がった。
2015年06月08日(月) 幕末の剣豪 森要蔵(97)
 殿の出立の刻限になっても現れぬ要蔵に,殿は怒った。訳を聞けば酒、だという。
「平にご容赦を」
と頭を下げる要蔵。その要蔵を厚遇していただけに細川公の怒りは収まらない。
「容赦せぬぞ」
殿の一声で要蔵は藩を追われてしまった。天保6年(1835)森要蔵26歳の時だった。
 こうして世蔵は次男寅雄を連れて浪々の身となり、関東周辺の諸藩を訪ね歩いて仕官の口を求めた。剣術指南の道はほとんど閉ざされていた。戦乱の世は200年以上も前に終わり、この時代はまだまだ平和な時代であった。思うような仕官の道もなく、数年が過ぎた。
 天保11年(1840)、ようやく飯野藩保科家に仕官することになった。石高は60石。藩主保科家9代正丕と対面した要蔵は
「此度、真にあり難き仕合せにござりまする。力の限り努めまする」
と恭しく言上した。正丕も
「よきに計らえ。立派な藩士を育ててくれ」
と要蔵に温かい目を向けた。正丕はさらに、
「森要蔵は保科如き小藩に仕える人物ではない。飼い殺しにしては気の毒である」
と、江戸で道場を開くことを許したのである。
2015年06月07日(日) 會津藩士慰霊祭しめやかに
 房総半島會津藩士顕彰会主催の第9回会津藩士慰霊祭を本日、富津市西川の正珊寺で行った。會津若松市と地元富津市の市長、副市長らに會津弔霊義会理事らが出席してくれ、しめやかに、厳かに行われた。
 きれいに改葬された墓地をみた参加者は
「よかった」
「これで一人前ですね」
などと話し合っていた。
 続いて近くの浄信寺で、戊辰戦争で會津藩を救援し、白河城攻防戦で戦死した飯野藩剣術指南、森要蔵の墓でも献花、焼香した。
 正珊寺本堂の「斎」では、田辺賢行・會津若松市副市長や鈴木清章理事らの挨拶の後、會津の銘酒「會州一」で献杯し、會津藩士の活躍ぶりを話し合った。
2015年06月06日(土) 明日は会津藩士慰霊祭
 明日7日は、房総半島會津藩士顕彰会主催の第9回会津藩士慰霊祭を千葉県富津市西川の正珊寺で行う。心配された雨も避けてくれた。藩士の「義」の心に遠慮したのだろう。まずはご同慶の至り。
 今回は出席者が少ないが、それぞれ事情を抱えており、仕方あるまい。正珊寺墓地は地元民がきれいに改葬してくれたし、会員の鈴木登美子さんが浄財をだして市内4か寺と地元飯野藩剣術指南、森要蔵の墓がある市内の浄信寺の併せて5か所に案内板を立ててくれた。 
 3廻り目になって、参加者を胸を張って出迎えることができる。少しずつ前進だ。
2015年06月05日(金) 幕末の剣豪 森要蔵(96)
 その龍馬は薩長同盟を成し遂げた後の慶応3年(1867)11月15日京都で、元會津藩士の佐々木忠三郎率いる京都見廻組に襲われて同士中岡慎太郎と共に命を落とす。33歳の若さだった。
 さて、森要蔵は立派な剣客として熊本藩内で出世し、細川公の御側に仕える御供番になる。常に殿の側に仕え、精勤に励んだ。
 ところが、ある日、殿の御供で江戸市中に出かけた際、訪れた先で要蔵は、ついつい出された酒に手を出してしまった。これがいけなかった。「酒は強い」という評判だったので、勧められるままに飲み始めた。が、陽が高い刻限であったため、場所も弁えず、酔って眠ってしまったのだ。
2015年06月04日(木) 閑話
 中国・長江の大型客船転覆事故は400人以上が不明のままで現地で支那人の家族がわめいている映像がテレビで流れている。
 が、ちっとも同情する気持ちになれない。観光船だというが、長江上流の白帝城という、歴史遺産を三峡ダム建設で没落させて平気な国民だ。
 紀元3世紀の魏・呉・蜀という三国時代に活躍した劉備玄徳が籠った由緒ある白帝城。それをあっさり、否定する共産党独裁政権だ。
 先祖が築いた歴史遺産を潰すだけにとどまらず、南シナ海ではスプラトリー諸島の岩礁を埋め立てて自分たちの海を主張するあつかましさ。周辺国から嫌われている共産党独裁政権。地球上からなくならないかしら?
2015年06月03日(水) 幕末の剣豪 森要蔵(95)
 こうして江戸でも森要蔵の名は
「お玉が池に森要蔵あり」
と日に日に評判になっていった。時折、周作の弟定吉が開いた桶町の千葉道場でも、門弟らに出稽古をつけていた。
 要蔵22歳の頃、桶町道場に一日おきに通い稽古をつけていた。この桶町道場で後年、塾頭として剣術修業に明け暮れたのが土佐藩士の坂本龍馬である。
 龍馬が土佐藩の許しを得て江戸へ剣術修業に上るのは嘉永6年(1853)4月である。土佐では、既に小栗流の目録を伝授されていた龍馬は19歳。この後、一時帰国したが、再び江戸に戻って桶町道場に通い、北辰一刀流の目録を受け、幕末の剣客の一人だった。
 要蔵と龍馬の年齢差は25歳、千葉道場で修行した時間差は30年もあるので、二人が顔を合わせたことはない。
 が、「もし」二人が同時代に生きていたら、要蔵が龍馬に稽古をつけていただろう。歴史の面白さ、ではある。
2015年06月02日(火) 幕末の剣豪 森要蔵(94)
 20歳の頃には、千葉道場の四天王の一人に数えられるまでに上達した。第1次四天王は天保水滸伝で有名な平手造酒、岡田金平、海保帆平に要蔵だった。
 後に酒で身を持ち崩した平手造酒が破門されると、稲垣文次郎が加わった。間もなく、海保、岡田、要蔵の3人が去り、第2次四天王の時代になると、稲垣が第一を誇った。
 稲垣は後年、要蔵が開いた永坂の森道場を訪れて要蔵と立ち会ったが、一本も取れなかった。 
 悔しい思いが稲垣を長い間、苦しめた。ある時、稲垣は
「剛力者は上段に限る」
といって、暗に自己の強力を自負したことがあった。
 これを聞いた要蔵は
「上段なぞ実戦では役に立たぬ」
といい、
「何故なら太刀が降りる前に、こちらは如何にでもなるものだ。頭上3寸(10センチ)で受けて見せる」
と断言した。
 そこで二人は立ち会うことになった。岡部の上段から降ろす太刀は18本、すべて要蔵の頭上3寸で受け止められた。稲垣は歯ぎしりして悔しがった。
「森先生は、相変わらず不器用にてお強い」
2015年06月01日(月) 幕末の剣豪 森要蔵(93)
 森要蔵は文化7年(1810)江戸は芝白金台の肥後藩細川家の中屋敷で呱々の声を上げた。幼少から体は人一倍大きく、俊敏だった。
 その一方で、学問にも励み、論語や四書五経にも取り組んだ文武両道の武士に育った。両親は要蔵の行く末に大きな期待をかけた。
「とりもなおさず武芸を学ばねば」
と、当時、江戸で一番と評判だった神田・お玉が池の北辰一刀流・千葉周作の玄武館道場に通い始めた。
 選んで理訳は、北辰一刀流の極意が守勢の剣法であり、「護身」をその旨としていたことであった。
「剣は人を殺すものではなく、正しい剣の理と、求道によって真の武士を育てるものだ」
と説く千葉周作の教えに共鳴したのだ。
 日々の鍛練で要蔵はメキメキ腕を上げ、天凛を開花させてゆく。18歳で免許皆伝に昇り、並み居る門弟たちの先頭に立って激しい稽古に没頭した。
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