正式な天皇号が成立した40代天武天皇は、皇室の権威を高めることに力を注ぎ、国史の編纂を志し、律令の改正と整備に着手した。が、しかし、志半ばで686年8月、亡くなった。 死の直前、天皇は「天下のこと、大小を問わず、悉くに皇后、皇太子に啓(もう)せ」との勅を発し、皇后(持統天皇)が政権をとることになった。天武天皇の大喪は2年続き、690年、正式に持統天皇が即位する 持統は天智天皇の皇女で、叔父にあたる大海人皇子の后になるが、それより先、姉の太田皇女も大海人皇子の宮に入ってる。しかし、太田皇女は早くに亡くなっているので、正妃は持統であったと思う。 持統は皇女時代から「帝王の女たりと雖も、礼を好みて節倹、母儀の徳あり」といわれていた。壬申の乱では、自ら兵を率いて戦に参加した。天武2年(673)皇后にたてられたが、大臣を一人も置かない時だったので、皇后の存在は重きをなした。
斉明が亡くなり、天智天皇が誕生するまでの8年間、歴史的には天皇不在である。唐・新羅連合軍襲来の恐れで天皇どころではなかったのだろう。中大兄皇子がしっかりしていたので、668年、天智天皇即位が実現する。 天智は国内の仕組みを整えようと、中国の律令をモデルにした近江令を編み、全国的な戸籍「庚午年籍」(こうごねんじゅく)を作った。律は刑法、令は行政法である。 天智の死後、息子大友皇子が39代弘文天皇になるが、一旦は出家した天智の弟大海人皇子との間で皇位継承を巡る内乱が起きた。「壬申の乱」(672年)である。 大海人皇子は東国で多くの豪族を味方につけて大勝利を治めた。内乱を鎮めた大海人皇子は翌年、即位して40代天武天皇になる。 この頃になると、中央の豪族の政治干渉を排除することに成功し、皇室の地位を高めることで、公地公民を目指す大化の改新の精神を推進できた。 また「大王」(おおきみ)と呼ばれてきた君主の称号が「天皇」になったのも、「日本」という国号が成立したのも、この頃だ。
唐・新羅連合軍の日本襲来を恐れた中大兄皇子らは、九州に防人を配置し、大宰府を守るため水城(みずき)を築いて、国を挙げて防衛体制を固めた。 唐・新羅は百済を滅ぼしたが、朝鮮半島には高句麗が残っており、背後を襲われないようにするため、連合軍は日本に和睦を求めた上で、高句麗を滅ぼした。こうして新羅は676年、朝鮮半島を統一した。 百済から王や貴族はじめ一般人まで1000人規模で日本に亡命し、近江(滋賀県)や東国に定住した。朝廷は手厚い優遇政策をとったので、亡命者は500〜600万人と推定される日本人の中に溶け込んで、中央の官僚制度の仕組みなどを日本に伝えた。帰化人である秦氏などが亡命者の代表の氏である。 これより先、斉明天皇は660年、筑紫の朝倉宮(福岡県朝倉町)で亡くなった。唐の襲来を恐れた中大兄皇子は都を近江に移し、668年、即位して38代天智天皇となった。
このため、再び女帝が皇位につくことになった。37代斉明天皇である。 斉明朝の中で歴史上の問題は、白村江(はくすきえ)の敗戦である。朝鮮半島における日本の出先であった任那(みまな)が新羅に滅ぼされてから1世紀、半島は新羅、高句麗、百済の3国が攻防を繰り返していた。 7世紀半ばになると、唐が新羅と組んで水陸13万人の軍勢を半島に送りこんだ。我が国は危機感に包まれた。300年に及ぶ交流のある百済を始め半島全体が唐に侵略されるのを見過ごすことはできなかった。中大兄皇子は百済に大軍と援助物資を送った。 唐・新羅連合軍との決戦は、663年、朝鮮半島南西の白村江で戦端が開かれた。日本の軍船400隻は燃え上がり、天と地を紅蓮の炎が真っ赤に焼いた。 2日間の戦闘で日本軍は大敗を喫した。百済は滅亡した。
このため、中臣鎌足(後の藤原鎌足)と中大兄皇子(皇極の子)らを中心に蘇我氏排斥の動きが起こり、645年、朝鮮から使者を迎えた宮廷で、中大兄皇子は参内した蘇我入鹿を天皇の御前で斬った。入鹿の遺体は庭に放り出され、蝦夷は屋敷に火を放って自害した。 朝廷は初めて年号を大化とし、土地を国家が統治することを決めた(公地公民)。いわゆる大化の改新であった。 宮廷クーデターの2日後、皇極天皇は退位し、弟の軽皇子が36代孝徳天皇となった。中大兄皇子は皇太子となり、一時は安定したが、白雉4年(653年)天皇と皇太子の間にすきまができ、皇太子は難波宮を去って飛鳥の故宮に移ってしまった。 先帝と間人皇后も皇太子と行動を共にしたので、孝徳は孤立し、翌654年、憂悶のうちに世を去った。
即位の年の6月、雨が降らず「大(おお)いに旱(ひでり)す」状態だったので、大掛かりな祈雨の行事が行われた。が、効果はなかった。 最後に皇極が南淵(4現奈良県明日香村坂田付近)の川で「跪きて四方を拝し、天を仰ぎて祈うた」ところ、たちどころに雷雨があり、5日間続いて天下を潤した。天下の百姓は、「至徳天皇(いきおいまします)と称えたという。 天皇は続いて先朝以来の百済太寺(後の大宮大寺)の工事を興すと共に、新たに飛鳥板葺宮の造営に取り掛かった。 一方、豪族の頭目、曽我氏は祖廟を葛城の高宮に建てて天子の舞を行い、墓陵を造るため挙国の民を動員するなど、天皇を凌ぐ動きを見せていた。 ◇ ◇ ◇ 太平洋戦争での沖縄地上戦は昭和20年6月23日で終結したーを書き込んだが、続報があった。陸軍大尉伊東幸一さん(94)は軍司令官自決の23日以降も戦い続けた。 壕の奥深くに潜って抗戦を続け、1000人の部下は100人だけになった。8月22日に終戦を知り、降伏するかどうか迷ったそうだが、連隊長が武装機序を受け入れて降伏した。 「最期の一兵まで出血を敵に強要せよ」「一緒に死ぬぞ」と部下に命じながら、「生き残ったのは恥ずかしい」と沖縄戦のことはしゃべらずにすごしてきたという。軍は県民に多大な迷惑をかけたーことばかりが喧伝されているが、上官雨宮巽士団長は地元民に迷惑をかけないよう民家を兵舎にせず、かわぶき小屋作らせたーことなどは忘れ去られている。
皇極は用明天皇の皇太子だった彦人大兄の子茅野(ちぬ)王の娘で母は吉備姫王(きびのおおかみ)といい、推古天皇の弟桜井皇子の娘。 初めは用明天皇の孫高向(たかむこ)王に嫁し、一子漢王をもうけたが、後に(630)田村皇子(後の用明天皇)の宮に入り、皇子が舒明天皇に即位した翌年、皇后になった。 641年、舒明天皇が亡くなると、宝皇后が産んだ中大兄皇子がいて16歳、皇位継承の地位にあり、他方、蘇我法堤郎媛との間に生まれた古人大兄がいた。古人は中大兄より年上であり、さらには、聖徳太子の遺子山背大兄の存在は一部、抜き難い声望になっていて、無視するわけにはいかなかった。 こうした事情から、宝皇后が35代皇極天皇に即位する。前述したように、蘇我蝦夷、入鹿親子の専横が横行し、二人は天皇気取りで砦のような屋敷を構え、大勢の兵士に身辺を守らせていた。 このため、女帝は時として、最高の巫女としての役割を果たすことになる。