天守閣の最上層部が、廻り縁の手すりをもつ形となっているのは、戦国末期の天守閣に多く見られるもので、明成の寛永改修の時、この古い形を残したのは、心ゆかしい限りだ。 本丸の東側に廻ると、鉢巻石垣ではない高石垣が見られる。石垣は南北に一直線上に延びていて、鶴ヶ城随一の大規模な積み方をしている。これは、「扇の勾配」といわれる、開いた扇のように石垣が緩い曲線を描いて、地上から約20メートルの高さに積み上げられている。 扇の勾配という積み方は、高石垣を堅固に積む時に用いられた技術で、重さのため、石垣の中央が孕み出るのを防ぐよう工夫された、独特の積み方であることは注目に値する。 ◇ ◇ ◇ 脳溢血の後遺症対策で、1月から千葉市内の「さかい」に週2回リハビリに通い始め、昨日で2か月になった。火、金曜日の2回、合計16回になった。理学療法士が、痺れが残る左足を中心に行うが、腰を伸ばして歩く、左足はかかとから降ろして、つま先から上げる、ことなどを学んでいる。まだ、ぎこちないが、「よくなりたい」という強い気持で取り組んでおり、それなりに効果がでている。少しずつ、少しずつ、である。
帯郭に入ると、目の前に白亜の天守閣が聳えているので、自然にそこに目を奪われるが、天守閣の建っている石垣に注目することである。 この城中で見られる石垣の多くは、「切り込みはぎ」といわれる石垣で、表面は幾分荒いが大体平らにはぎ、互いに組み合わせて積み上げられていて傾斜は少ないが、天守台の石垣は「野面(のづら)石」といわれる自然石そのままを、緩い傾斜で巧みに積み重ねている古い形である。 石垣の表面は隙間が多く、外観は一見乱雑のようであるが、内部は奥行きが深く、しっかり組み合わせてあるばかりでなく、基礎の四方は前方の地下4メートルも先まで、深く石を積み埋められているので、容易に崩れることはなく、最も警固な石積みで、「野面積み」といわれる。
北出丸に入る入り口に、城門でもあるべき所に、2.5mの低さであるが、大きな石積みがあり、裏側に廻ると、石段になっている。これは「大腰掛」といわれ、江戸時代初期に下ると、ここに第一門が建てられるようになってくる。 蒲生氏郷が本丸の入り口を守るために造った「馬出」(うまだし)の所にあったものを、加藤明成が寛永の増築で、馬出を拡張して馬出郭を造る時、壊さないで移転して残したものである。これは、城郭史上、過渡期の築城を物語る古い形で、元の形を残しているというのは、全国的にも珍しい。 ◇ ◇ ◇ 民主党の前原政調会長が記者会見から、産経新聞を閉め出している異常な事態が続いている。産経が、前原の発言を捉え、「言うだけ番長」の見出しをつけていることに対する制裁とか。群馬県の八ッ場ダム建設中止発言など前原が言葉だけというのを指摘した記事は、その通りだ。 松下政経塾出身は頭はいいのだろうが、実行力は? 要するに「頭デッカチ」なのだ。落ち目の民主党政権を象徴するような事態で、こんな些細なことに目くじらをたてる政治家が、何とも情けない。
鶴ヶ城の特色は、日本城郭史の上で、桃山時代から江戸時代初期にかけて、築城技術の過渡期にあたる施設を、多く残しているところにある。 いま文禄年代、蒲生氏郷が築城した時の遺構と、それから約50年後の寛永年代、加藤明成が増改築した時の遺構に分けて眺めてみる。 城内北出丸に入ろうとして、目を南方に向けると、幅の広い、深い濠を隔てて本丸と帯郭を囲む土塁(土居)の上の石垣が、一段高く聳えて、見る人に威圧を感じさせる。この築城の方法は、関西地方ではあまり見られない「鉢巻石垣」といわれるもので、丘上に建てられた平山城の中枢部を守るために築かれた古い形である。
城跡はその後、民間に払い下げられたが、旧藩士の遠藤敬止(七十七銀行頭取)が私財を投げうって買い取り、松平家に贈り、その後、若松市が譲り受けたのは大正15年(1925)で、以後、市民の憩いの場として親しまれている。 筆者は小中学生の頃、鶴ヶ城が遊び場で、石垣を上ったり、降りたりして戦争ごっこをしたし、写生会で行った。いわば、会津若松の子供にとって庭であり、運動場であり、なにより故郷そのものであった。 さて買い取った遠藤敬止の子孫だが、同じ千葉県の市原市に在住している。以前、顕彰会を立ち上げる前、会津地方出身の人に呼び掛けようと、市原会津会で講演したことがあり、その際、名刺を交換して人柄を存じ上げた。 城跡には、昭和40年(1965)9月、明治戊辰百年を前に市民待望の天守閣が再建され、蒼空高く白亜の姿を見せ、会津観光の目玉になっている。前にも、野人市長横山武の項で書き込んだが、石垣は国の史跡なので、天守閣の重さは石垣にかかっていない設計なのである。 福島第一原発の事故以来、風評被害に観光客の落ち込む会津にとって、かすかな明るさをもたらすとしたら、それは鶴ヶ城だ。(完)
戊辰(1868)の戦に、天下の兵を引き受けて籠城一か月、城内に一歩も入れぬ堅城ぶりを示した鶴ヶ城は、勿論、城内の建物も焼けないで全部残ったのである。 戦後、城は陸軍省の所管となり、ここに若松県庁が置かれたが、明治7年(1874)政府の命で取り壊すことになった。市民(ではなく町民だ)の熱心な保存の嘆願も入れられないで、その年の7月までには、天守閣はじめ城内の建物は全部壊され、名城鶴ヶ城も石垣と濠に、数百年の喜びと悲しみを宿しながら、わずかに時の流れに耐えることが精一杯の「荒城」となってしまった。 土井晩翠が「天上影はかわらねど、栄枯は移る世の姿」と「荒城の月」を書いたのは明治20年代で、ここを訪れた時の感銘とともに、同様の運命を辿った郷里・仙台の青葉城に思いを馳せ、この詩を作ったと、鶴ヶ城本丸に建てられている荒城の月の碑に彼は述べている。
明成については一般的に、暗愚凶暴な領主といわれているが、幼年から明成に仕えた学者横田俊益(後に保科正之の侍講)は、教養のある寛容な領主であったことを『横田俊益年譜』で記している。 恐らく明成には反逆心などはなかったであろうが、自ら省みて鶴ヶ城の増改築は事実であり、陳謝の言葉もなかったであろう。 事件後、父の残した家臣を心服せしめ得なかった自分というものに、深く反省し、その責任の重大さを感じたためであったろうか。または、封土を奉還することが反って反逆心のないことを表明することになると考えた、ただ一筋の信念であったかは明らかでない。 加藤氏に代わって23万石で會津藩主となったのは、三代将軍家光の異母弟保科正之であった。保科家は三代正容の時、會津松平家となり、子孫は歴代會津の藩主として戊辰の役に至るのである。
寛永20年(1643)、明成は突然、會津40万石の封土を幕府に返上した。表面は病躯大藩を治める任に耐えないことを理由にしているが、これより前、父の代から重臣筆頭であった堀主水と不仲になり、主水ら兄弟一族は會津を出奔し、後、幕府に訴状を出しているが、そのうちに、幕府に断りなく、鶴ヶ城を増改築したことが述べられ、明成の幕府に対する反逆心を訴えている。 当時、幕府は三代将軍家光の時代で、揺るぎない幕府の基礎は出来上がり、一大名の反逆心などは問題ではなく、むしろ封建制下における主従の義を重くみて主水等の処刑が決定した寛永18年(1641)に落着している。 それより問題なのは、明成の治世、凶作や積年の誅求により、逃散(ちょうさん)する農民が多く、寛永19年には、領内南山の農民数十人が越後へ、また2千人が越後、仙台などへ逃散する騒ぎになったことだろう。
文禄年間に氏郷が築城した時の鶴ヶ城は、氏郷の積極的な気性を表わして城の防御施設については、あまり重きを置いていなかったことが、この城の特色でもあり、また盲点でもあった。 明成は、この点に留意してプランを立てたが、勿論、江戸時代初期の進歩した諸家の築城理論や、技術を多分に採り入れている。即ち、天守台から東と南に走長屋を出して、新たに帯郭を造って本丸を固め、その北方に北出丸、西方に西出丸を増築し、その他防御施設を完備して、難攻不落の名城を築き上げたのが寛永16年(1639)で、やはり突貫工事であったが数年を要した。 その後、城の増改築は行われないで、約230年間、會津のシンボルとして、平和な佇まいをみせていた鶴ヶ城も、戊辰戦争を迎えて、初めて攻防戦の拠点となり、その真価を発揮するのは皮肉なことである。
八条宮智仁親王が桂離宮を造営される時、嘉明は領内の白川石を献上している。有名な松琴亭の東北に当たる石組の多い渚に架けられた、真直ぐな石橋がそれで、長さ、幅、厚みとも、ここの美を構成する大切な核心となっている(『桂御別業之記』) 嘉明の會津支配は短く、寛永6年(1629)江戸で波乱の多かった69年の一生を終えた。嘉明の後を継いだ長子明成は、鶴ヶ城の増築を断行した。明成は幕命によって七層の天守閣を五層にする時、鶴ヶ城の増改築を決意し、大組頭に4人の家老を任じ、普請奉行、作事奉行もそれぞれ任命した。勿論、領内役夫も多く動員され、一大工事が始まった。 ◇ ◇ ◇ 年内にも予想される総選挙。福島4区が面白くなりそうだ。渡部恒三(78)が引退を表明し民主党は後継者を探している。長男(49)や医師(56)らの名前が上がっている。 対して自民党は前会津若松市長の菅家一郎君を決定、準備を進めている。自民党が久し振りに議席を奪還するか、民主が守るか、激しい選挙戦になるのは必至だ。 恒三と故伊東正義系が自民党時代から激戦を展開して来た会津地方は、今回も続きそうだ。
秀行がビスカイノに地震はどうして起るのか、その理由を質したのに対し、ビスカイノは 「天にいます神が、天地と人類を造りたまい、神その必要を認めたもう時、地を震動せしめ、王侯その他地上の人々をして、神を思い出し、悪行をなせる者を改心せしめたもうのである」 と答えている。(ビスカイノ著『金銀島探検報告』) 慶長17年(1612)秀行は30歳で死去、わずか10歳の忠郷が蒲生家を継いだ。しかし、忠郷も寛永4年(1627)25歳の若さで死去し、會津蒲生家は断絶した。 同年2月、伊代・松山の城主加藤嘉明が40万石で會津の城主となった。嘉明は本来は三河の徳川氏の家臣であるが、永禄7年(1564)の一向一揆の後、国を去って秀吉に仕え、天正11年(1583)賎ヶ岳七本鎗の一人として武名を上げ、その後も度々武功を立て、秀吉の死後は家康に仕えて、関ヶ原合戦、大坂冬の陣、夏の陣の武功で松山20万石を拝領した戦国以来の古武士の一人であったが、反面、茶の道にも徹した風流人であった。
関ヶ原合戦後、景勝が和睦を決意し、家臣を遣わして家康に謝罪し、自らも上洛して伏見城にあった家康に謁見したのは、慶長6年(1601)8月であった。 この時、景勝は會津など90万石を削られ、30万石で米沢に封じられた。景勝が米沢に移ったのは同年11月下旬で、上杉氏による會津支配は満3カ年に過ぎなかった。上杉氏に代わって、関ヶ原合戦に岳父家康に味方した蒲生秀行(妻は家康の娘)が、60万石で再び會津入りした。時に秀行は弱冠19歳であった。 慶長16年(1611)8月21日、會津地方に大地震が起きた。領内の被害は大きく、古い由緒ある大きな社寺は、ほとんど倒壊した。 鶴ヶ城も石垣の一部が崩れ、天守閣も傾いて瓦が落ちた、ことが伝えられている。この直後、日本近海の金銀探索のため、日本に来ていたイスパニア人セバスチャン・ビスカイノが、伊達政宗の招きで仙台に行く途中、會津に立ち寄って秀行と鶴ヶ城で会見し、秀行から饗応を受けている。
景勝の戦備に対して、家康は景勝の上洛を促したが、景勝は無視した。家康が會津征伐を決意して、関東の諸将に令を下して東下し、會津へ向かう途中、石田三成の挙兵を聞くと、小山から引き返したのは8月で、早くも9月15日には東西両軍が関ヶ原で対戦し、わずか1日で西軍が大敗し、天下分けめの合戦は終った。このため景勝は神指城の造営を未完成のまま中止した。 ◇ ◇ ◇ 北海道紋別郡在住の遠藤さんから先日「会津会会報に載っていた房総半島会津藩士顕彰会の慰霊祭の件でお尋ねしたい」と電話があった。以前、千葉市に住んでいたが、勤務の都合で北海道へ転勤し、定年を迎えたという。 きけば會津藩士の子孫で、筆者が新聞連載をきっかけに顕彰会を立ち上げ、毎年慰霊祭を行っていると説明すると、「有難い」と喜んでくれた。 早速、入会し、6月3日予定の第6回慰霊祭には出席してくれるそうだ。富津市内の墓地に眠る辰野氏の子孫や飯野藩士花沢氏の子孫の方に続いて3人目の子孫と連絡がつき、今回の慰霊祭は話題豊富な、賑やかな法要になりそうだ。 今更ながら、やりがいをしみじみ感じている。
氏郷の死去後、子の秀行が蒲生氏を継いだが、家臣団のうちでも城持衆といわれる上層部の不和が、抗争に発展して表面化し、解体に直面した。 秀吉は慶長3年(1598)1月、會津92万石を没収して、秀行を宇都宮18万石に移し、これに代わって越後の上杉景勝を、蒲生氏の旧領の他に、出羽三郡、佐渡三郡を加え、120万石で移した。景勝の會津入りは3月下旬だった。 同年8月、秀吉が死去した。この時の天下の形勢は、家康と、石田三成・景勝ら大坂方との緊張が次第に強まっていった。景勝は翌4年8月、會津へ帰ると、領内の軍備を固め、慶長5年(1600)2月から、鶴ヶ城の西北約3キロの地に、家老直江兼続を総奉行として神指(こうざし)城の築城を始めた。鶴ヶ城が南方の山から近く、攻撃に弱い、という弱点があったためだ。
文禄2年(1593)の朝鮮出兵「文禄の役」に、秀吉の本丸九州・名護屋に下って、秀吉の元にいた氏郷が、病気になって生きられるかと危ぶまれ、このことが毒殺ではないかとまで、言いふらされたりしたが、堺の医師宗叔の手当てで不思議にも快癒し、會津に帰ったのは同年11月であった。 その年6月には、鶴ヶ城は完成した。有名な「壮途豈敢えて悠々に附せんや 梗概酒酣にして玉甌をうつ 一夜城楼無限感 月明らかに五十四郡の秋」 は、氏郷が鶴ヶ城の七層の天守閣で、仲秋の名月に接し、近畿から遠く離れた會津にあっても何時かわと、奥州全ての総指揮を任じるという感慨を読んだものだ。 しかし、それから2年後の文禄4年2月7日、氏郷は45歳で亡くなった。 「限りあれば吹かねど花は散るものを 心短き春の山嵐」の辞世の句は、若年より禅門に入り、千利休門下の七哲として茶道の神髄に徹し、傍ら文学にも思いをひそめた氏郷であったればこそ、悽愴な死に直面しながらも、実に幽遠にして雅麗に述べ得られたことで道の深奥に達した心境を表わしている。
ここで、近世城郭の最も大切な石積みをする石垣師や、天守閣や居館などを造る城大工をどうしたのだろうかということだが、当時日本一の石垣師の多くは、江州(滋賀県)の穴太(あのう)か馬淵から出ていた。 氏郷は石垣師を、恐らく彼の郷里・江州の、これらの地方から呼び寄せたに違いない。本丸や、後に帯郭となる部分に現存する石垣は、他で見られないしっかりした石積みの技術が見られるのは、それを雄弁に裏書きしているからである。 城大工も技術的蓄積のあった近畿地方諸大寺の被官大工が、大きな役割を果たしたものであろう。 會津に残る唯一の史料として、当時會津の商人司であった簗田家に残る『簗田文書』に「御天守御普請に蠣灰(かきばい=白壁の材料)の御用を仰せつかったので配下である大町の掃部助(かもんのすけ)を他国に遣わした」ことが記されている。
七層の天守閣のある本丸を中心に、二の丸、三の丸と、平面的には、いわゆる悌郭式と言われるもので、これらが濠をもって囲まれた壮大なプランは、関東以北では見られないものである。 大きな城郭を短期間に造るには、組織が必要であった。それには土木工事である「普請」(縄張)と建築工事である「作事」に分けられる。土木工事は石垣、濠、土居(土塁)、桝形、仕切石塁などをつくり、建築工事は居館や天守閣、角櫓、土塀などを造った。 これらのことを早急に実施するには、多勢の労働者を集めて、その労働力を組織化するために、「割普請」の方法が採り入れられ、大勢の人夫は各丁場に散在し、担当責任者が監督して作業能率を高めたに違いない。 また、これに要する資材としては、多くの石材と木材が必要だが、石材は城から近い慶山(市内東山町)から切り出され、石垣の裏積みにする栗石は、近くの湯川や大川から運ばれたし、木材も會津盆地周辺の山から切り出された。
氏郷の築城に関する詳しい記録は殆ど残っていない。わずかに、氏郷の家臣でもと武田信玄の武将であった曾根内匠を、普請奉行に命じたことが伝えられている。(『新編會津風土記』) 普請奉行はまた縄張奉行とも言われたが、縄張は単なる地割ではなく、全体的な土地利用計画を立てることで、後には軍学者によって色々な理論が生まれて来る。 氏郷が曾根を普請奉行に命じたとはいえ、信長、秀吉に仕えて幾多の経験を持つ武将氏郷は、恐らく彼自らプランを立て、そのプランを実行するに当たって、監督させる位の立場ではなかったかと思われる。 氏郷が友人浅野長政宛の手紙(『浅野文書』)に、築城に関して長政の意見を聞いて改め、「ご意見によっていよいよ見事に出来上がったから、是非見に来てくれ」と言っているのを読むと、そんことが伺える。
氏郷にとって、會津の領主になることは不満もあったろうが、今日の会津若松市にとってはプラスの面が多かった。氏郷が黒川城に入城したのはこの年(天正18年)9月である。 氏郷は35歳という若さであったが、會津の情勢を正しくは把握して諸政策を実施し、巧みに処理した才能は、戦国武将としては希に見る進歩的な人物であった。 即ち、わずか一カ年の短期間に、城の一大改築を行うと共に、鶴ヶ城と命名したこの城を中心に、広大な家臣団の居住地域と町民の住む城下町の建設を断行して黒川という地名を若松と改名し、ここを政治的、経済的拠点とし、今日の市の基盤を造ったことである。 先にも触れたように、氏郷の黒川城改築は、天正20年(文禄元年=1592)から翌年まで、一カ年という短期間に行われた突貫工事であった。このことは、城というものが、戦陣の最中に築かれる軍事施設という、城の持つ性質からいって当然のことである。しかも、天正・文禄という時代は、社会的転換期であったと同時に、近世的な城郭の技術的基盤の形成される時期でもあったので、城郭の規模は飛躍的に増大していくばかりでなく、質的にも新しい発展が要請されたのである。
秀吉の命によって、政宗が會津攻略で得た會津、岩瀬、安積の地は没収され、黒川城を去って米沢城(山形)に移ったのは天正18年(1590)7月13日で、伊達氏の會津支配は満一カ年余で終った。 同月、小田原城が墜ちると、秀吉は奥羽の仕置きのため會津に下向し、8月9日、黒川に到着し、興徳寺(栄町に現存)を本陣として矢継ぎ早に奥羽一切の措置をとった。秀吉が通った背炙山の頂上を「関白平」と呼んでいる。 秀吉が黒川城に入らなかった理由は、城中で敵に襲われるのを警戒したためで、興徳寺は今より何倍も敷地があり、一種の館であった。 そして13日には、もう黒川を後にして、南通り五十里(いかり)ー高原越えで(南会津地方〜栃木県)京都に帰るという、秀吉らしい電光石火の仕置きぶりであった。 政宗の去った後の會津は蒲生氏郷に与えられた。
天正18年(1590)5月、政宗は秀吉の小田原参陣のため黒川を出発するが、これより前、家臣たちが黒川城の修築を進言すると、政宗は言下に「修築はまかりならぬ。ここは鬱々として久しくおるべきところではない」と言ったと伝えられている。 勿論、戦後間もない時、土民の疲れを招くような築城を差し控えようとして、わざとそんな風に言ったか、または古い城によどむ空気を嫌ったからか、いずれとも判らないが、も一つ隠された事件があった。 それは小田原参陣を前に、政宗毒殺の陰謀が暴露し、政宗は自ら弟小次郎を斬り、母は実家最上氏に走るという不祥事件である。 ともあれ、彼の一生を通じ、忘れることの出来ない強い印象を残した黒川城は鬱々として久しくおるべき城ではなかったであろう。
葦名氏の存亡は盛隆の一女に配する、葦名氏後継者の選定にかけられ、衆議は常陸の佐竹氏から義広を迎えることに決定した。しかし、間もなく旧葦名氏の老臣らと、佐竹から義広と共に會津入りした家臣らの間に争いが起って来る。 かねて虎視眈々として、機会を狙っていた伊達政宗の浸入に対し、天正17年(1589)6月5日、磐梯山麓摺上原の一戦に、葦名軍は脆くも潰え去った。鎌倉以来400年の名族葦名氏を滅亡へと導いた悲劇と葛藤は運命とはいえ一抹の儚さを感じさせる。 伊達政宗が黒川城に入城したのは、摺上原合戦の6日後の天正17年6月11日。伊達家の『治家記録』には、この日昼過ぎから會津地方は雨であったと記している。 政宗は母と夫人を黒川城内の西館に迎え入れ、政宗もここにいて徹底した領内の政治と、まだ抵抗を続けていた一部葦名氏の旧臣や、仙道方面の戦が続けられていった。
16世紀後半から17世紀前半に至る約50年間は、時代別にすると、安土桃山時代から江戸時代初期に至る期間で、會津地方は戦国動乱の影響が払拭されないで、何となく殺伐な気風と社会不安が存していた。 この50年間に、葦名氏の滅亡、伊達氏、蒲生氏(前期)、上杉氏、蒲生氏(後期)、加藤氏と目まぐるしいまでに、大領主たる諸家の転退が繰り返されたことも大きな原因であろう。しかし、この間に中世の黒川城が、次第に近世の名城鶴ヶ城へと変わって行くのである。 祖先の悲願を達成する偉業を成し遂げた盛氏歿後の葦名氏は、二階堂氏からの養嗣子盛隆が、家臣に殺される事件が起り、盛隆の遺子亀王丸が生まれて間もなく葦名氏を継いだが、わずか3歳で亡くなるという重ね重ねの非運に逢着した。
盛氏晩年の座像が会津若松市内の宗英寺に残っているが、盛氏が天正8年(1580)に没した後、その恩顧を受けた僧宥繁が造立したもので、像の高さ28.8センチ、当時の風俗、衣服の文様などを見ることが出来る。 若くして父の跡を継ぎ黒川城築城後の、一日も平和の日もない征戦の連続ともいうほどの彼の一生を思えば、意志の強い人であったことを、この像もよく表現している。 しかし、彼も人の子である。彼の只一人の後継者盛興が若くして亡くなった時は、葦名氏の将来を思って、凋落の涙を洗った夜もあった、という。 ◇ ◇ ◇ 眠り薬として佐伯泰英の『鎌倉河岸捕物控』を読んでいて巻十三「独り祝言」にわが会津藩が登場した。5代松平容頌の治世、窮乏した藩政を改革する家老田中玄宰の方針に反対する勢力との内紛を取り上げている。日新館建設など会津藩中興の祖、ともいうべき玄宰や藩主容頌も登場する。『会津若松史』を読んで勉強したらしい。 軽い読み物として扱って来たが、NHKでも放送している評判の作家だけに、まったくの作り話は書かないようだ。
盛氏が若くして館の焼亡にあい、黒川城築城後、間もなく父を失って城主となったのは天文12年(1553)、33歳の時であった。この年、鎌倉以来の豪族河原田氏や山内氏を降し、約百年にわたって會津地方で争った争乱に終止符を打ち、古代的な体制を破って自らを確立し、戦国大名領主として絶大な権力者としての色彩を濃厚にしてくる。 盛氏は葦名20代の義広が伊達政宗に滅ぼされるまで約400年続いた葦名時代の中興の祖と呼ばれ、息子盛興に家督を譲って隠居所として築城したのが會津本郷町の向羽黒山城だ。永禄4年(1561)から7年かけて標高400Mの岩崎山に一曲輪、いわゆる本丸や土塁、空濠など山城を築いた。平成13年(2001)国の史跡に指定された。會津盆地を一望に見渡せる場所で、盛氏は天下とりを夢みていたに違いない。 ◇ ◇ ◇ 第6回會津藩士慰霊祭を6月3日、富津市竹岡の松翁院で行う予定で、本日予約を済ませた。今年は亡くなった會津藩士の子孫や飯野藩士の子孫の方も参加される、ということで、話題豊富な慰霊祭になりそうだ。 会員以外でも参加自由なので、一人でも多くの参加を希望する。詳細は近くなったら書き込む予定だ。
黒川東館の復興は容易ではなかった。盛舜父子は黒川東館の地が、東山温泉渓谷を流れる湯川の、氾濫原の中に残された古い沖積丘陵の末端で、會津盆地に臨むため、その展望といい、清冽な飲料水が得易いことなど、攻防の拠点となるよい立地条件を生かし、また戦国争乱の時でもあったので多くの郭と土塁よる、後世の「城」といわれる形で復興し、面目を一新させたのは、天文12年(1543)で、これに満5年を費やしている。 その後は、所在地の黒川の小字名による小高木(小田垣)城、または大字名による黒川城と称するようになった。
その後、応仁の乱の余波は、會津にも押し寄せてそれに拍車をかけ、葦名氏の中にも下克上の風潮がしばらく続き、一時、家臣に黒川東館が占拠されるという、不祥事もあり、それに天災地変がこの地方にもみられ、庶民の苦痛のほどが察せられる。 このような時、會津の生んだ連歌師猪苗代兼載が、京都から會津へ下って葦名父子(13代盛高と14代盛滋)の不和のために、『違乱祈祷百韻』をつくって和解させたり、また黒川東館において家臣らに連歌を指導して京文化を伝えたことは、たとえ暗黒の中の小さな灯のようであっても尊く思われる。 葦名15代盛舜(もりきよ)の天文7年(1538)3月15日、黒川は大火となって、東館をはじめ針生氏、松本氏、富田氏、その他葦名の重臣の邸宅や黒川の民家も「残るところなく、悉く焼け申候」と『塔寺長帳』(国の重文)は記しており、また「御屋形様(盛舜)はしばらく佐瀬大和守殿に御座候」とも記している。 (筆者註 佐瀬大和守の名に因んで、「大和町」が会津若松市に存在していたが、住居表示法施行で由緒ある町名が消滅し、「日新町」という馬鹿げた町名に)
このように、黒川東館の創始は明らかではないが、直盛の頃には、會津門田荘黒川東方の丘陵地、現在の鶴ヶ城の地に、既に館が作られていて、黒川東館と称したことが伺われる。その後は変わりなく、ここが葦名氏代々の館となっていた。 鎌倉時代の守護は、軍事指揮者としての他に、地方官吏としての性格も求められて、その方面でも行動していた。室町幕府もこの方針を受け継いでいることは、先学の建武式目やその追加法の研究成果によって明らかである。 南北朝末期頃(1380年代)になると、中央における守護の力が、次第に幕府の政局を支配するような傾向が強くなって来る。 当時の會津の守護葦名氏も、領国体制を確立するためには、支配体制を強力に作り上げる必要があったのではあるまいか。それにはまず、葦名氏の一族で各地に地頭となって勢力あるものや、国人層といわれる地方の豪族や、慧日寺のような大きな寺の荘園の庄官や、有力な開拓名主(みょうしゅ)層などを、自分の組織に組み入れることであったろうが、地頭の中には、守護と同じく鎌倉御家人としての身分意識を捨てて守護に臣事することには、相当強い抵抗感が働いて、遂には一族間の戦にまで発展し、次第に葦名氏の有力な一族新宮氏、北田氏、加納氏など、応永(1390年代)以後、黒川東館に本拠を持つ會津葦名家に滅ぼされて行く過程が、それを物語っているのではあるまいか。