嘉明は枕辺の主水に語ってから、、つと病み衰えた身体を起こして 「明成は一徹ものじゃ、そちらも仕えにくく思うこともあろう。なれど、明成をわしと思うて仕えてくれい、ついては、わしは朱印をそちに預けたい、一切の政令、朱印なくては触れい出すこと叶わぬは、そちも知るとおり、もし万が一、明成が政令にして過誤あらば、そちは朱印を捺してはならぬ」 といった。 朱印を主水に預けることは、9月9日、重陽の節句に、明成をはじめ江戸屋敷に集まった家臣たちが居並ぶ前で嘉明は主水に言い渡した。中2日おいて9月12日に嘉明は死んだ。 嘉明は、明成を一徹ものといったが、その言葉どおり明成は激しい気性を持っていた。もしかしたら、それは嘉明自身よりも激しいかもしれぬのであった。
長い戦乱の果てに大坂の役があった。徳川家の礎はもはや揺るぬことを嘉明は己の眼で確かめていた。今は、嘉明も、徳川家に臣従してこそ家の命脈を伝えることができるのである。 長曾我部との合戦から島津攻め、小田原囲み、文禄、慶長両度の朝鮮出陣と嘉明の戦うところ、必ず金の采配が日射しに閃いた。つまり大坂の役で天下のことが定まったとなれば、嘉明が徳川家に異心を抱くことなき限り、采配が嘉明の手にあっても無益である。 嘉明は、采配を明成にではなく主水に預けることによって、己ら父子が徳川家に異心を抱くことのないことを示したのであった。
4年がまたたく間に過ぎた。会津移封の沙汰を受けた時、嘉明は60の坂を半ば越えていたから、既に70の歳を眼の前に迎えようとしていた。 その寛永8年(1631)の9月12日、嘉明は江戸で死んだ。死の間際に嘉明は主水を江戸に呼び寄せて、かつて金の采配を主水に預けたように、己の朱印を主水に預けた。 嘉明の病があつく、江戸より嘉明のお召しが伝えられた時、主水は追腹を斬るほぞを固めて江戸に上った。しかし、枕辺に主水を呼んだ嘉明は、人払いして 「主水、そちに頼みがある」 と云った。 「そちにも申さなんだことじゃが、わしが大坂の役の後、金の采配をそちに預けたのは、仔細あったればじゃ」 嘉明は言葉を次いだ。
しかも会津に三春、二本松が属したから、それらを併せれば50万石の太守である。嘉明は会津に移ると、主水を出城猪苗代において、1万3千石を与えた。 根城若松城が美称を鶴ヶ城といったのに対し、猪苗代の城は亀ヶ城と呼ばれた。嘉明は滝沢坂に新道を開いて、江戸街道表口としたから、猪苗代は会津の咽喉を扼する地である。 又、若松と三春、二本松を結ぶ要の地でもある。嘉明は主水を猪苗代におくことによって、旧領に倍した新領の統治に遺漏なきことを期したのであった。
嘉明は家臣たちに総登城を命じ、居並ぶ家臣たちの前で、采配を主水に預け、 「今よりのち、采配あるところ、主水あるに非ずして、わしがあると心得い」 といった。 嘉明が会津転封を命じられたのは寛永4年(1627)であった。表向きは大坂の役における嘉明、明成父子の戦功に対する恩賞であった。会津は40万、嘉明は、松山に倍する大藩の主となったわけである。 ◇ ◇ ◇ 昨夜、NHKTVで「誰がために鐘がなる」を午前1時近くまで観た。アーネスト・ヘミングウェイの同名小説を映画化した作品で、往年のイングリッド・バーグマンの美しさを満喫した。スエーデンの女優だ。 ところでノルウエーの連続テロで90人が犠牲になったが、同国の法律では最高刑が懲役21年。死刑はない。32歳の犯人は、21年後には出所し、また同じ乱射事件を起こしても懲役21年。さらに3度目の事件も起こせる計算。中国の笑いもの事件といい、世の中、おかしなことが多過ぎる。
明成もまた槍をよくして、家臣たちと槍をあわせることを好んだが、家臣たちがみな明成に勝ちを譲っても、主水一人は決して明成に勝ちを譲ろうとはしなかった。後に、明成は主水と槍をあわせることを避けるようになった。 嘉明は関ヶ原の戦功で、伊予に20万石を受け、松前から松山に城を移していたが、大坂の役が終って松山に帰ると、主水を家老に抜きんでた。 そして、嘉明が若年23歳で長曾我部を攻めた時から用いてきた金の采配を主水に預けた。その采配を預けるということは、いうまでもなく主水を加藤家の軍の司に任じることであった。 ◇ ◇ ◇ 今日も又、中国の呆れ果てた馬鹿ぶりを。高速列車追突事故で、追突した先頭車両を埋めてしまったが、世界中の笑い者にになったのを知ったようで、今度は掘り出して原因を調査するようだ。文明国ではあり得ないことを平気でやる国が国連の常任理事国など、それこそ世界の恥じだ。
主水は、曲事は、事の大小を問わず一切近付けようとしなかった。曲事でなくとも理にかなわぬことは近付けなかった。その時、主水は、20歳になっていなかった。嘉明はかえりみて 「小僧、いいおるのう。ざれごとよ」 と笑いすてたが、ずっと後になっても、時々、その時のことを口にした。 主水は槍をよくした。主水の槍は諸国の侍たちが伊予加藤の賀井槍と呼んで怖れた槍であった。嘉明の家中の中でも主水と槍をあわせて勝つことができる者はいなかった。 ◇ ◇ ◇ 中国の高速鉄道が追突事故を起こし、死者43人、負傷者200余人の大惨事となった。片方はカナダの、追突した列車は日本のコピーで、落雷で列車自動制御装置が働かなかったらしい。コピーの継ぎはぎは、木と竹を繋ぐようなもので危険は予想された。国威を優先し、国民の安全を無視する中国は報道管制を敷いているという。恐ろしい国だ。
囃子につれて小唄をうたいながらは華手やかな踊りをみせる阿国の桜の花よりも艶やかな姿は、長い戦乱に倦んだ諸国の侍たちの心を乱した。京に集まった諸侯のうちには、その阿国を宿舎に呼ぶ者もいた。 嘉明の家中にも阿国のうたう躍り唄を口ずさむ者が出るようになって、やがて嘉明の耳にも入り、嘉明が、ある日、 「その阿国とやらを呼べい」 と言い出した。その時、主水は、 「卑しい身分の者にございます。憚りもございましょう」 と嘉明を押しとどめた。 ◇ ◇ ◇ FIFAが22日、発表した最新の女子ランキングで日本は4位だった。W杯で優勝したのに前回と同じ。1位アメリカ、2位ドイツ、3位ブラジルも同じ顔ぶれ。おかしい、どうみてもおかしい。
主水は9歳で召し出されてから嘉明の寵を受けてきたが、その時、主水は30歳をこえていた。単に寵を賜わるというよりも、既に嘉明の厚い信任を受けていた。主水は剛勇の士であると同時に剛直の士であった。若年の頃でも、君侯の寵をほしいままにして、その寵に甘え驕ることなど露なかった。 関ヶ原から3年経った慶長8年(1603)に家康が将軍宣下を受けて、全国の諸侯が一時に京都に集まった。季節はちょうど葉桜の頃で、京都は諸侯に従って上洛した諸国の侍たちで沸き立つばかりに賑わっていた。 その賑わい目当てに諸国の商人や浮かれ女たちも京都に流れ込んでいたが、その中に、賀茂川原で京の賑わいを一人占めしている女がいた。ややこ躍りを興行していた出雲の阿国である。
その騎馬の槍が嘉明の面前一尺(30cm)ばかりに突き出された刹那、主水は、己の馬の脾腹を蹴って、その騎馬武者に組み付いた。そして、そのままもつれ合って堀に落ちた。堀は二人を呑んだが、やがて相手の首級を脇に抱えた主水が浮かび上がってきた。 その時の主水の働きは嘉明の生命を救ったばかりでなく、寄せ手督戦のため馬を進めていた徳川権中納言頼信の眼にとまり、主水の名は、その軍功帳に書き留められた。 戦いが終って、嘉明が家康に戦勝の賀嗣を言上した時、家康は秀忠同席の上で、嘉明の軍功を讃えた後、 「加藤殿はよい御家来を持たれたの」 と主水のことを褒めた。 主水が堀という姓を嘉明から与えられたのは、その時の功によってである。主水は三千石の加禄をも受けた。
その主水の父は、文禄2年(1593)2月、嘉明が舟軍を率いて政韓の軍に加わった時、熊川の激戦に嘉明と共に敵船に先陣し、嘉明の眼前で死んだ。 それで、嘉明は凱旋の後、当時まだ9歳であった主水を召し出し、やがて児小姓として用いた。 慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦に主水は16歳で初陣して、敵の首級三つをあげた。嘉明の寵は加わったが、主水もまた全身をもってその寵に応えた。 主水はいつか嘉明のためならば己の一命を捧げても悔いはないと思い定めるようになっていたが、その時が元和3年(1617)3月、大坂の再度の戦いの時にきた。 大坂落城の前日、5月7日、嘉明は大和口から大坂城に迫った。牛の刻(午前1時)乱戦になって、一度ひいた大坂方から、不意に騎馬武者一騎が嘉明の馬標目掛けて一気に突き進んできた。
三人の騎馬は、主水と、主水の二人の弟、多賀井又八郎、真鍋小兵衛であった。 明重は登城した家臣たちに命じて、直ちに堀一族を追わせた。だが、堀一族は、日光街道が山間に入ると、道を鹿柴(ろくさい=鹿の角のように木や竹を組んで浸入を防ぐ柵)で防ぎ、橋を焼いて、明重の放った追手を阻んだ。追手は小者一人を捕らえることさえ出来ずに虚しく城に帰った。 一族郎党を引き連れて若松城下を退出した堀主水は、もと多賀井主水といって、伊予の国の生まれである。天正13年(1585)7月、加藤左馬介嘉明が長曾我部元親を降して、伊予国松前に封を受けた時、主水の父が嘉明の家来になった。
再び隊伍を整えた陣列が中野の村を十町ばかりも進んだ頃、若松城の鐘楼から乱打する鐘の音が聞こえ始めた。家臣たちの総登城を命じる非常の報らせである。 時の若松城主は加藤式部少輔明成であった。賎ヶ岳七本槍の一人として勇名を馳せた加藤左馬介嘉明の長子である。 この時、明成は江戸に在府して、留守は明成の末弟献物明重が預かっていた。三段構えに鉄砲を放って城下を退去したのは、家老、堀主水とその一族郎党300余人であった。 ◇ ◇ ◇ 福島県から出荷された、セシウム汚染の牛肉が全国に出回っている。これで前知事が県挙げて取り組んだ「福島牛」のブランドもはかなく消えるだろう。 それだけではない。秋に収穫される米、皇室に献上される名産「会津身不知柿」も多分、放射能に汚染されているだろう。福島県が地図から消えようとしている。 民主党政権、東電の無能者どもは、この責任をとれるのか?
やがて暁闇はうすれていき、松明が捨てられた時、先登の騎馬としんがりの騎馬の間に人数凡そ300人とわかる陣列が続いていることが分かった。薙刀を持つ女たちも混じる陣列であった。 陣列は若松城の南一里半あまりの中野の村を過ぎると、村のはずれの高みに鉄砲を担いだ者を集めた。振り返った北に若松城の天守が見えた。もう暁であった。 鉄砲隊は暁の色に染まり始めた天守に向かって、三段構えで鉄砲をはなった。 ◇ ◇ ◇ 今日未明のサッカー女子W杯決勝戦でナデシコJAPANが強豪アメリカをPKの末、破って初優勝した。先取点を取られたら追いつく展開となり、2点目は主将沢穂希が執念のヘッドで押し込んで追いついた。PK戦でGK海堀が2度止める殊勲で、一度も勝ったことがないアメリカを破り、世界の頂点に。 諦めないナデシコに感動した。夜中に起きて観戦した苦労が報われた。 ありがとう、ナデシコ!!
護法山慈眼寺は山内に温泉が湧いて、君侯や大身のものが湯治に出かけて行く。だが、慈眼寺は北方八里の熱塩村にあった。大橋を渡れば南の方、日光街道に出る他ない。小者の心に深い不審の念がきざした刹那、陣列の去ったあたりに小さな火の塊が燃え立った。 それは忽ち五つ六つと数を増した。松明であった。松明に囲まれた陣列はいつか、えい、おうとかけ声を掛け合って走り始めていた。 ◇ ◇ ◇ 昨夜のNHKで京都・祇園祭宵山を生中継した。祇園祭は貞観11年(869年)5月6日、陸奥国で発生した大振動と大津波の犠牲者の御霊を弔うために始まった御霊会が始まりとされる。この時の大津波は『日本記略』にも「陸奥国の地、大振動す、流光は昼のごとし」と記されている。1200余年も前に、京の町衆が奥州の民のために慰霊してくれたのである。興味深く祇園祭を観た。
番所で人影が動いた。その人影に、先登の騎馬が馬上のまま、 「堀主水一族、かねて御老職にお届け通り、湯治のため、護法山慈眼寺に罷り通る、開門せられい」 と呼ばわった。 番所から小者が走り出て郭門を開いた。陣列は門を出ると、早足になり、駆けるように湯川に架けられた大橋をおし渡った。 「湯治に鎗、鉄砲とは・・・」 郭門を開いた小者がつぶやいた。小者の耳には、最後の騎馬が、 「御苦労、門を閉められい」 といった声がまだ耳に残っていた。小者は闇にのまれた陣列を見送っていたが、陣列が大橋を渡っていったことも、小者には不審であった。
一騎が静かに先に立った。その後に駕篭が続いた。。暗い暁闇の中に、しかとは見分けられなかったが、駕篭の前後左右を徒士のものが固めている。 長屋門の中から次々繰り出して来る者の他に、それまで闇に身を潜めていた人影が築地の陰から黒い固まりのように加わって、やがて、三人の騎馬と五挺の駕篭、十頭ばかりの駄碼を囲んだ行列が百足の這うような足音ともいえない足音を道におとして進み始めた。 その人数は百で数えねばならぬ数であった。先登の一騎、それから徒士のもの三、四十人、五挺の塗駕篭、徒士のもの、騎馬一騎、ぎっしりと荷を積んだ駄馬また徒士のもの。徒士たちは腹当をつけた者もいる。みな鎗、鉄砲を持っていた。 そして最後に一騎。行列というより陣列である。陣列は河原町口の郭門まで進んだ。若松城外郭の、城外へ出る郭門の一つである。
寛永16年(1639)4月16日、寅の刻(午前4時)にもまだ少し間のある暁闇の会津若松城(と書いてあるのは間違い、正確には若松城)郭内の侍屋敷の一軒からひそかなざわめきが漏れ聞こえ、やがて長屋門が静かなきしみの音を地に這わせて開いた。 仄かな灯りが、暗い穴の中のような屋敷内でゆらぎ、塗り駕篭が次々五挺、表に出た。続いて馬が三頭引き出された。馬には鞍がおいてあった。同じようにがっしりと恰幅のよい侍が三人、すぐ鐙に足をかけて、軽々とその馬に跨がった。 「叉八郎、先にたて」 その一人がいった。低い押し殺した声であったが、聞くものの耳にはずっしりと錘のように重たく沈み込む声であった。
(みごと、斬った。ーーーお家の再出発になくてはならぬ補佐の臣、正真正銘の良宰相がいまこそ誕生した。彼の、これからの治政が見ものだな) ・・・ところで、いよいよ明日は、米沢へ発つという日の暮れ方、若松城中の大広間を横切りかけた杉原は、入側の廊にたった一人、佇んでいる景勝をみとめたのである。 「あれを見ろ、じい」 杉原を、小声で景勝は差し招いた。上段の間を指差している。景勝がいつも坐る場所に、丸い、小さな影がうずくまっていた。飼い猿らしい。手を組み、うなずき、しきりに広間じゅうを見回している・・・。 「おれの真似をしているのだ。巧者なやつではないか。はははは」 景勝は笑った。杉原が、初めて耳にする笑い声であった。暗い、どこか空ろな響きを持つ声ではあるが景勝は笑った。まさしく笑ったのだ。 「まこと、ちょこざいな猿めでございますな、ふふ」 低く、その笑い声に声を合わせながら、こみ上げてくる熱いものを、老いの瞼に、杉原はじっとこらえていた。
敵対した諸大名があるいは斬られ、あるいは改易させられたなかで、わずか四分の一に過ぎない領土ではあっても、ともかく家名を持続しえたのは、杉原、本庄はじめ上杉家重臣の、徳川氏要路への必死の働きかけがあったからである。 直江の活動も涙ぐましかった。屈辱に耐え知謀の限りをつくし、 「このたびの挙兵はまったく私一個の、身のほど知らぬ思い上がりから起ったことです。主人景勝への処遇をいくぶんなりとお緩め頂けるならば、私と私の妻子眷族、なぶり殺しの刑に処せられてもお恨みには存じません」 とまで、家康の膝下に歎願しぬいたのだ。 (憑きものを、自らの手で彼は斬ったな) 杉原はうなずいた。
「あなたの勝ちです杉原さま。聞かぬふりをなさりながら、結局、土壇場で殿はあなたの諌めに従われたのです」 「お気がすんだのだ」 ゆっくり、杉原はかぶりをふった。 「終始、殿は、ご自身の意気地にだけ従って行動された。何びとの掣肘も、支配をも、受け付ける方ではない。・・・殿に、おぬしは負けた。そして、わしも負けたのだよ城州」 小山から江戸へ、とって返した家康は、西上して関ヶ原に、石田三成の西軍を撃破した。一日の交戦で、天下の帰趨は決したのである。 上杉氏は120万石の封地を失い、領内の米沢に、新たに30万石を与えられて引き移ることになった。
その銀河が消え、かがり火もあらかた灰になった暁ちかく、だが、なぜか、憔悴しきった表情で直江は帰陣してきた。 まっすぐ幕屋へ入り、脇差を抜いて杉原の縄目を切ると、 「あなたに、負けました」 崩れるように土にもろ手をついた。 「いかにか口説き、勧め参らせても、殿はついに出撃を承引あそばしませんでした。ーーー機会は去ったのです」 さしそめた曙光が、直江の秀麗な相貌を浮き上がらせた。その右腕には、刃物で裂きでもしたような無惨なミミズバレが一筋、まっすぐ縦に走っていた。 「お手の革鞭で、殿は私を打たれました。そして、あなたがおっしゃったと同じ言葉を叫ばれたのです。『ここまでだ、ここまででよいのだ、追い討ちは赦さぬ』と・・・」 「殿が・・・そう仰せられたか」
「待ちに待った今こそ天与の好機!長途に疲れた上、後背に敵を受けた関東勢は、妻子を石田方に人質にとられて人心地もありますまい。佐竹、相馬の軍兵と一つになって一挙に江戸へ攻め入るべきです。東海、東山両道からは甲斐、信濃の大軍を率いて真田昌幸、幸村父子も江戸へ攻めかかる手筈になっています。追撃の令をいただきに、私は本営へ行ってきましょう」 「まてッ、ならぬぞ城州、ここまでだ。ここまででやめよッ」 「三たび申します。矢はすでに弦を放れているのです。どうぞ、しばらくご辛抱下さい」 直江の背へ飛びかかろうとし、縄にひかれて杉原は転倒した。露びっしょりの枯草に半身を浸したなりで、彼は視線を夜空に放った。淡い銀河が、頭上をななめに流れていた。
「お主は死ぬのだ。・・・死なねばならぬ」 杉原は声を絞った。 「自らの手で、おのれの中の執念を殺さなければならぬ」 「私の中には先君が生きています」 「その、謙信公を斬れ、斬れっ、斬れ城州」 「繰り返して申します。矢は弦をはなれました」 懐から、直江は一通の書状を出した。 「ご老台のお越しに一歩遅れて、長沼の本営から使いがこれを届けてまいりました。小山に結集していた関東勢が江戸への引き揚げを開始し出したとの急報でございます」 「な、なに、まことか、それは・・・」 「石田治部少輔が、反徳川勢力をかたらって兵を挙げたのです。しかし、彼等と私との間に、密約めいたものは何一つありませんでした。私が抱いていたのは、恐らくこうなるであろうとの”予測”だけです」 「・・・・」
騎馬の兵5、6騎を連れただけの軽装で革籠原に駆け付けた杉原は、しかし幕屋に入った途端、左右の腕を直江の郎従たちに掴まれた。 「なにをするっ」 ふりもぎろうとする全身へ遮二無二縄がかけられ、庄几(しょうぎ)に押し据えられた。けたたましい絶叫が幕外ではじけ、打ち物の音がしてすぐ止んだのは、連れてきた兵どもが討たれたに違いない。・・・やがて出てきた直江へ 「どういうことだ、これは・・・。謀反か、乱心か城州」 杉原は詰め寄った。直江は低頭した。 「お許し下さい。この他に手段を考えつかなかったのです。ご老台がなにを意図してここへ来られたか、私には分かっています。しかし、矢は弦をはなれました。今暫く、私に時をお貸し下さい」
「何処へゆく?」 本庄がとがめた。 「直江に逢う」 「あいつには憑きものがついている。知っているか杉原」 「知っている。その、憑きものを俺は斬る!」 同じ夜、直江山城は革籠原の野寺に、野陣のかがり火を焚かせていた。 敵を誘導するため、林を切り払い、岡を崩して、原の西側に広大な空き地を開いた。その空き地の一方に逢隈川の水を引く工事が、急遽いま進められている。敵の退路を遮断するためである。作業のはかどり具合を直江は見にきていたのだった。
「聞いている。しかし信じられん」 「ともあれ、越後に残留している上杉の旧臣どもに、直江は早速、この密命を伝えて、新領主堀秀治のひざ元を撹乱しにかかったとも、取りざたされている」 「薩摩の島津侯からは毛利、宇喜多らと連合して、上杉の挙兵に呼応するとの申し入れがあったそうではないか」 「うむ」 「とすると、さほど悲観的に感がえんでもよいわけか?こたびの挙兵を・・・」 「いや、だめだ」 本庄は肩を落とした。 「たとえば西国の諸勢力と直江との間に、どのような黙契が交わされているにせよ、その勢力の中心が石田三成である限り、家康と伯仲の渡り合いは望めない。賭ける相手を直江は過ったのだ。残念ながら、お家の運もこれまでだろうな」 具足を鳴らして杉原は立った。
「去年、奥羽一帯をおそった飢餓が、いよいよ今年は上杉領までを侵しそうだ。直江の計算には、この民力の疲弊がはいっていない。緒戦で事を決するつもりだろうが、そうはいかぬ。関東勢の底力の前に、わが方はやがては屈服を余儀なくされるだろう」 「直江は裏で、反徳川勢力となにごとか密約でも交わしているのではないか?」 「その想像は俺もしている。あいつならやりかねない。あの、直江ならな」 青黒い苦渋の色が、草汁さながら本庄の顔に滲み出た。 「例えば石田治部だ。チラと耳にした噂だが、大坂におわす秀頼公から三成を通じて殿に越後の旧領を安堵する旨、密命が下ったということだぞ」
連絡を断ち切られて、家康の主力は動揺する。そこへ殺到するのが景勝の指揮する本隊だ。会戦の場所は那須野の原である。天下取りの雌雄は領外で決しようというのが、直江の肚であった。 上杉全軍の士気は上がっていた。雪解けの大河が流氷を押す勢いに似ている。杉原一人の努力では、もう何とも支え切れなくなった。 そんな部将たちの中で、本庄越前守繁長だけがやみくもな開戦を危ぶんでいた。物陰へ本庄を呼んで、杉原は訊ねた。 「つまるところ、お主はどう結論する?」 「敗れるだろう」 言下に、本庄は答えた。
南から会津へ攻め入る場合、最短距離を選べば南山口、背炙り峠の二口しかない。どちらも天険の隘路だから、大軍を率いた家康は正攻法をとって、少しぐらい迂回はしても白河表にかかるに違いない。 直江は箕沢口の街道を切り開き、敵を革籠原へ誘き寄せる作戦をとった。いつわって退くと見せ掛け、敵を荒野から林中へ誘い込む・・・。背炙り山中の要所々に埋伏させておいた別働隊が大砲、鉄砲でこれを猛射する・・・。矢田川の急流に転落するか西走して南山口にとりつくか、二つに一つの逃げ道しか敵には残されていない。しかし南山口にも上杉精が待機している。ここで完全に先鋒隊は叩き潰される。 ◇ ◇ ◇ 夏場の消費電力を節電するため今日から、電力制限令が東電、東北電力管内で発令された。庶民は既に節電している。問題はテレビだ。低俗な民放は再放送している午後1時から5時まで放映を中止させればよい。