会津の歴史
河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
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 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
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 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2012年08月31日(金) 軍都・若松(56)
 将兵一同、興奮に紅潮し、決死の覚悟を新たにした。聯隊は深いジャングルを進んだが、敵陣の位置は分らず、展開線に到達することもできず、苦しい事態に直面した。
 総攻撃は1日延期せざるを得ないのである。直ちに大本営に、連合艦隊に電報が飛んだ。連合艦隊は第8艦隊三川軍一中将を以て陸上の敵陣突入と同時にルンガ泊地に進入して砲撃を敢行する予定であった。第1航空艦隊もまた全出撃の作戦計画だった。
 攻撃延期は海軍を慌てさせた。海軍は直ちに北上した輸送船から燃料を補給し、トンボ返りでまた南下した。29聯隊も「総攻撃は1日延期し、23日に」との命令を受ける。
 しかれども、進めども進めども続くジャングルの樹海はいつ果てるとも知れず。23日も敵情不明のまま暮れていった。ここで連合艦隊の砲撃予定も混乱に混乱を重ねるのであった。
2012年08月30日(木) 軍都・若松(55)
 携帯した食糧4日分を切り詰めて9日分に引き延ばす以外、手立てはない。勿論、補給はなかった。弾丸もその通りであった。
 体当たり攻撃あるのみであった。陸戦でも「特攻」が行われた。途中の山林に白骨に成り果てた川口支隊の将兵の哀れな姿を見ながら、細い道を長蛇の列となって続いた。
 部隊の聯隊砲、速射砲はそれぞれ2日の工程が遅れていた。しかも砲は途中のジャングルに残してこなければならない状態だった。大密林の難行軍は続き、10月22日の総攻撃を目前に、最前線へと急ぐ第2師団長、丸山政男陸軍中将は22日午前零時30分、総攻撃を決行する命令を下した。
 わが29聯隊長古宮正次郎大佐もまた所要の命を各部隊に下した。旗手犬塚芳雄少尉の持つ軍旗の下で静かに、そして一呼吸ついて古宮聯隊長は「諸君の健闘必勝を祈る」と結んだ。
2012年08月29日(水) 軍都・若松(54)
 揚陸できたのは、砲80門のうち6門だけで、その他、小口径の砲32門と弾薬は各200発と食糧1週間分だけであった。砲は先に陸揚げした分を併せても46門であった。
 当時、米軍の砲兵力は180門で、しかも、1分間に1000発の発射能力を備えていたのである。これに対し友軍は5分間に1発が精一杯の能力であった。近代戦の主体である砲兵力に、このような大きな差があった。この間、海戦は絶え間なく続き、彼我の損害はましてゆくのである。
 国力の数百倍のアメリカに無闇に挑戦した日本の「敗戦」はこの時点で明らかだった。
 10月15日、命令を受けた29聯隊はアウステン山南側を経てルンガ河上流に転進を開始したのは16日正午であった。大密林の潜行作戦は35キロも続く難路であって、しかも配属工兵が切り開く道幅は一人がやっと通れる程度で、重火器部隊は分解して運ぶ、という有様。砲身は二人で担ぎ、車輌は背負って、弾薬は一人1箱しか運搬出来なかった。
 1日の進撃は時により、2キロしか進めない。勿論、地図もない進撃で、日本陸軍のデタラメさが明らかになってゆく。将兵の苦労は言語に絶した。
2012年08月28日(火) 軍都・若松(53)
 14日夜も巡洋艦がルンガ飛行場に艦砲を叩き込んだ。同夜10時過ぎ、月山丸、鬼怒川丸、九州丸がタサワロングに全速で岸に乗り上げ入泊した。爆撃されても沈まないようにとの配慮からだ。
 第16聯隊(広安大佐)、第230聯隊(東海林大佐)などの人員が上陸する。続いて砲弾、食糧、薬だが、南海の朝は早い。敵空母からの艦上機郡が殺到して来た。
 既に護衛艦隊は洋上に去り、孤立無援の3隻は大混乱になった。だが船は沈まない。1発の弾、1袋の米でも多くと、陽陸に必至の努力が続行される。船員は軍人だけでないが、火だるまの船から逃げる者はいなかった。
 15日夜も巡洋艦が飛行場を砲撃した。しかし、他の輸送船3隻は連絡が悪く、ショートランド島に帰航してしまった。
 かくて連合艦隊が全力を挙げて支援した輸送は失敗した。
2012年08月27日(月) 軍都・若松(52)
 前記の各部隊の重砲や弾薬、食糧に兵力をが島に輸送できるかどうか、勝敗のカギはここにあった。第17軍司令官百武中将も乗り込んできた。山本五十六大将の連合艦隊も全力を挙げて援護のため出撃した。
 10月13日、友軍の爆撃機がルンガ飛行場に爆撃を始めた。敵機30機を完全に破壊した。そして夜11時30分、戦艦が敵飛行場のあるルンガ泊地に強行突入、1時間余にわたり35センチ特殊焼夷弾1000発を叩き込んだ。
 飛行場は翌朝まで燃え続けた。この機会に待望の輸送が開始され、吾妻丸、鬼怒川丸、埼戸丸、九州丸、佐渡丸、月山丸の6隻は突入輸送船団として決死の船出をした。だが、敵機の襲撃を受けて思うようにいかない。
     ◇   ◇   ◇
 昨夜テレビで久し振りにベートーベンの交響曲第5番「運命」を聞いた。世界最高のベルリンフィルハーモニーの演奏。指揮者がベネズエラ出身ーという色眼鏡でみると、若さがあるが、イマイチか?と思ったりもした。
 学生時代、帝王といわれたヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のベルリンフィルが来日した。勿論、演奏会に出かける金はなく、テレビで楽しんだが、白髪のカラヤンの見事な指揮ぶりにうっとりした思い出がある。
 クラシックはやはり先進国でないと、中南米では奇妙な感じ方がする。
2012年08月26日(日) 軍都・若松(51)
 一連の戦闘を通じて米軍は豊富な食糧と銃器を持ち、何と云っても空軍の力が大きかった。日本軍はどの部隊も数日間の食糧と定量の銃弾で補給は不可能であった。
 この年(昭和17年)6月には、太平洋のミッドウエー海戦でわが連合艦隊は米軍に徹底的な敗北を喫し、以後、敗戦への坂道を転げ落ちるのだが、大本営は「損害軽微」「転進」という発表でごまかし、新聞社も鵜呑みにして紙面に掲載していた。真実は国民に知らされていなかった。
 ガ島では、海軍の大胆不敵な飛行場への砲撃などの戦果はあったが、大局を好転させるまでにはいかなかった。しかも、米軍はガ島に飛行場を持ち、友軍の飛行場はラバウルである。第2師団の攻撃を成功させるには、食糧と砲のが島輸送が問題であった。
 当時、友軍にはほとんど砲らしきものがなかった。ラバウルには決戦用に準備された15センチ榴弾砲24門、15センチ加農砲、10センチ可農砲など80門に砲弾2万発だった。食糧は一か月分だけであった。他に新発田聯隊と佐野忠義中将の第230聯隊が待機していた。
2012年08月25日(土) 軍都・若松(50)
 6月18日、旭川第7師団の第28聯隊一木清直大佐の兵3000名が上陸、20日夜半、攻撃したが、強い反撃に遭い、軍旗もろとも全滅した。
 9月2日、川口清健少将の指揮する久留米第124聯隊基幹の混成旅団並青葉支隊仙台歩兵第4聯隊は同月12日夜半から攻撃を開始して数日間戦闘が繰り返されたが、効なく、1500の死体を残したまま密林へ無念の敗退。 
 豊富な兵力と兵器の差(米軍1万8千対日本軍6千6百)は如何ともなしえなかった。川口少将は敗軍をルンガ河上流に集め、青葉支隊の後続部隊はコカンボナーカミンポ間の海岸防御の態勢に入った。
 わずか5日分の食糧しか持たず上陸した将兵は連日の敵の空爆、飢えにマラリアと余りに過酷な環境の中で、次々死んでいった。
 一木支隊の全滅、川口支隊の作戦失敗ー負けてはならぬ戦いの敗戦。ここに第2師団の登場となった。
2012年08月24日(金) 軍都・若松(49)
 日本軍の南方進攻作戦は超スピードで進展し、ポートモレスビー攻略の第17軍(百武中将)が行動を起こすと同時に、海軍側もソロモン群島攻略に乗り出し、5月、独力でツラギ、ガ島を占領し、ルンガ河口に飛行場の建設を急いだ。 
 5月下旬になり、門前大佐の第13設営隊、岡村少佐の第1設営隊併せて2700人の労働者と守備兵240人が力を合わせシャベルと鶴嘴で飛行機の発着可能までにこぎつけたのは8月5日であった。
 一方、アメリカは7月下旬になって偵察機が日本軍の飛行場を発見した。8月7日、バンデグリフト中将の海兵第1師団1万8千が35隻の輸送船とターナー中将の護衛艦隊20隻、フレッチャー中将の機動部隊(空母以下50隻)の外囲援護のもと突如、ガ島に襲い掛かった。
 小銃だけの守備隊はなす術もなく全滅的な打撃を受けて、密林に逃げ込んだ。こうしてガ島はもろくも米軍の手に落ち、ツラギもまた陥落した。血みどろの攻防戦が始まった。
2012年08月23日(木) 軍都・若松(48)
 29聯隊には15日朝、下記の命令が下った。
1、第2師団は敵飛行場攻略のため、主力を以てアウステン山南側を経てルンガ河上流地区に向って移動。この進撃路を今後は丸山道と称する。
2、29聯隊は16日正午、現在地を出発し、丸山道をルンガ河上流に向い前進すべし。
 第2師団総力を挙げての決戦の命令が下り、29聯隊は先頭を進むのである。この作戦にも空軍の援護があるのは勿論だ。
 さて、ここで日米決戦の場となったガタルカナル島の戦闘の骨組みだけを記す。
     ◇   ◇   ◇
 来年の大河ドラマの主役、山本八重子の最初の夫、川崎尚之助の不明部分が判明した。出石藩士だった尚之助は会津藩士となり、鶴ヶ城開城後、斗南に流される。明治2年(1869)藩士の食糧難を救うため、デンマーク領事から米を買うことになったが、仲介した米沢某が藩の代金を持ち逃げしてしまう。藩に迷惑を及ぶのを恐れて柴太一郎と尚之助が「私の個人的な責任」と名乗り、函館で裁判に。太一郎は禁固7年の実刑判決を受けたが、尚之助の慢性肺炎のため執行を免れ、東京に出て、明治8年死去。
 とこういう訳だそうです。史料は北海道立公文書館に残っている。
2012年08月22日(水) 軍都・若松(47)
 各隊はそれぞれ途中、空爆を受けたが、損害は少なく、無血上陸できたのは幸いであった。ガタルカナルーとは、スペイン語でガタルはベット、カナルは海峡、つまりソロモンで死んだ人々の死の床、という意味である。餓島でもある。そのガ島で、凄惨な争奪を巡って死闘が繰り返されるのである。
 上陸した各隊は先ず、敵機の機銃掃射の洗礼を受け、移動は夜間だけという厳しい状態だった。 
 10月11日、29聯隊はガ島上陸地点の中央付近のコカンボナ付近に集結し、次の作戦準備に取りかかった。海岸線からの正面攻撃か?それとも迂回して敵を背後から攻撃するか?
 大本営参謀辻政信中佐を迎えての第17軍と第2師団の幕僚会議は紛糾を重ねた。最後に、辻参謀の腹案通り迂回作戦に決定した。
 この辻政信という男は、戦後、参議院議員になり、間もなく、インドネシア周辺に入国し、ジャングルに入ったまま行方不明になった。当時、大きなニュースになったのを記憶している。
2012年08月21日(火) 軍都・若松(46)
 訓辞はガリ版刷りで全将兵に手渡された。「生きて帰るな」であった。29聯隊の将兵全員が正装で甲板に並んだ。決死の命令を受けた聯隊は遥かな祖国の弥栄を念じ、決別の式をかね、皇居へ遥拝を行った。
 「捧げ銃っ」小宮大佐の軍刀一閃、軍刀兵の銃剣がキラリと光った。やがて午後5時、ラバウル港を静かに出港した。
 万感迫り、雲よ風よ、心あらば将兵の心情を故郷へ伝えと〜。船は先ずソロモン群島ショートランド島に向う。明けて10月3日午後3時30分、ショートランドに入った。
 同島はブーゲンビル島の南方の小島で、ガ島への中継基地である。当然、米軍の空爆は熾烈を極め、海軍の損害は少なくなかった。 
 これより先は船足の遅い輸送船ではダメで、駆逐艦の速力(36ノット)に頼る他はない。輸送のための駆逐艦が16隻、島影にひっそりと隠れている。ガ島はここから480キロ、36ノットで所要時間は5時間。
 その間、連合艦隊は主力が付近海域に出動し、敵艦隊を求めて海戦を強要し、駆逐艦に寄せつけない算段である。
 一方、空軍は、その数を倍に増やし(約200機)、輸送を援護する手筈である。聯隊は第1陣から第4陣に分かれ、ガ島に向って出撃を開始した。
2012年08月20日(月) 軍都・若松(45)
 全将兵に初めて命令が下達された。
将校全員直ちに第17軍司令部に集合せよーと。司令部は大きな建物だった。屋根が2か所、大きく破れているが、敵の空爆の跡か?大本営派遣の参謀杉田中佐が壇上に立った。
 「私はあらゆる世界戦史を繙いた。しかし、ガタルカナル島の戦闘ほど、すさまじい激戦の前例をみない。諸君は今、そのガ島へ行く。世界戦史を飾る手柄をたててくれ」
と訓辞があり、更にガ島の米軍状況について説明があった。
 作戦計画では、ガ島へは上陸そのものさえ困難との情報から馬匹車両は山下獣医大尉以下200名の監視の下に残置することになった。
 10月2日、第2師団長丸山政男陸軍中将から訓辞があった。
「ガタルカナル作戦は大東亜戦の関ヶ原である。帝国の興亡この一戦にあり。攻略ならずんば、一兵たりとも生還を期すべからず」
     ◇   ◇   ◇
 本日、ロンドン五輪のメリストたちの銀座パレードがあった。沿道の観衆は85万人とか。晴れやかな選手たちが手を振って応えていた。38個のメダルは史上最多というが、しかし、男子柔道の惨敗ぶりは話題にさえならない。
 金メダルゼロなのだ。昔、レスリングが惨敗した時、協会会長の八田某以下が丸坊主になったことがあった。対して今回の男子柔道の篠原とかいうボケッとした監督は反省の弁もない。お家芸が泣く、というものだ。
2012年08月19日(日) 軍都・若松(44)
 わが29聯隊は暫くジャワ本島で訓練を重ねて鋭気を養っていた。時に昭和17年(1942)9月17日、聯隊主力は九州丸(8660屯)に乗船した。勿論、一般将兵にはどこの戦場へ向うのか知らされなかった。
 大海原を東進しているうち、やがて25日、パラオ入港を変更してラバウルへ転進し、29日午前10時半、ニューブリテン島ラバウルに入港した。
 古市正次郎聯隊長はランチで上陸、百武晴吉中将の第17軍司令部に赴き、指示を受けて戻ってきた。聯隊長の顔には、なにか悲愴な決意が伺えた。
 敵は緒戦における打撃から立ち直り、優勢な艦隊や飛行機で、先にわが海軍が占領したガタルカナル島奪回を企図して、海兵師団約2万人がルンガ河口のわが飛行場建設地点に上陸し、堅固な橋頭堡を確保するに及び、再三、攻撃を続行するも、遂に成功せず、このため、わが第2師団が出動することになった。
2012年08月18日(土) 軍都・若松(43)
 敵軍はイギリス、オーストラリア、オランダ軍併せて8万5千名である。これも、日本軍の猛進撃の前になす術なく戦闘らしき戦闘を交えることなく、最後の防衛陣地であるバンドンに退却してしまった。
 そのバンドンも第2師団、エレタンに上陸した東海林支隊の電撃的な攻略速度の前に、3月9日、戦闘を交えることなく全面無条件降伏したのである。
 それから後、29聯隊は西部ジャワ各地に分散して警備に任じ、軍政の援助と次期作戦のための猛訓練に精進するのである。
 やがて9月17日、ガタルカナル島出撃のため出発するまで、ジャワの楽園で過ごすことに。地獄の激戦地ガタルカナル島が次の作戦地とは知らずに?。
 連合軍8万5千の大軍はなす所なく敗れ去った。その原因は
@寄せ集めの軍の通例としての内部分裂
A上陸した日本軍を20万の大軍と誤算した(実際は4万人)
Bジャワ現地人が民族解放軍として日本軍に協力したことが連合軍に戦意を失わしめたーこと等であった。
2012年08月17日(金) 軍都・若松(42)
 午前2時半頃になって、ようやく後方海上に2条のサーチライトを照らして敵艦を白く浮き上がらせることができた。間髪を入れず、我等の各艦から集中砲火が始まり、敵艦は次々に火柱を吹き上げた。
 右往左往する敵水兵の姿がよく見えた。やがて海中に姿を消していった。それは上陸する将兵にとって戦場を忘れさせる程の火祭であった。
 かくして上陸が完了したのが午前4時過ぎであった。今村軍司令官は重油の海中に約3時間泳ぐことになり、わが29聯隊砲の舟艇が救い上げた。が、誰も真っ黒な軍司令官に気付く者はいなかった。
 上陸部隊、特に29聯隊に損害はなく、午前5時、終結後、直ちに首都バタビアに向って進撃を開始した。
2012年08月16日(木) 軍都・若松(41)
 開戦時の29聯隊の編成は、聯隊長佐藤半七大佐、第一大隊長遠藤重助中佐、第二大隊長渡辺勝利中佐、第三大隊長吉井忠雄少佐で、佐藤大佐は26代目の聯隊長であった。
 ジャワでの空前の大渡洋作戦は開始された。当時、ジャワ湾には米英豪蘭の連合艦隊、巡洋艦2隻、軽巡洋艦5隻、駆逐艦8隻、潜水艦6隻が健在だった。
 これに対して、日本の輸送船団は97隻、護衛艦25隻で大海原を圧し、ジャワ海を侵攻した。第2師団は西部ジャワを目指し、29聯隊はバンナム湾上陸が決定、上陸地点にはアメリカの重巡洋艦ヒューストン、オランダの軽巡洋艦パースが島影に待ち構えていた。 
 わが軍は、3月1日午前2時、湾内に侵入し、上陸を開始した。湾内は静かだった。第一上陸隊が陸地に到着する頃に猛烈な砲弾が落下してきた。敵艦の上陸阻止砲撃であった。輸送船の周辺は友軍の無数の上陸用舟艇が慌ただしく走り回る。オランダの魚雷艇が進入し、友軍の舟艇と見わけがつかなかったが、アッと云う間に見事な魚雷攻撃を敢行。今村軍司令官の乗船竜城丸が真っ先にやられ、次々、6隻が被害を受け、船団は大混乱した。それを尻目に魚雷艇は湾外に逃走した。
2012年08月15日(水) 軍都・若松(40)
 昭和16年(1941)12月1日、29聯隊は若松の兵営を立ち、愛知県豊橋の陸軍厩舎に移って次期作戦準備のため、更に訓練を重ねていた。
 時に、12月8日午前7時、「帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英と戦闘状態に入れり」と緊急放送が流れた。
 海軍機動部隊が真珠湾を奇襲攻撃し、「トラ、トラ、トラ」の大戦果が報告された。アメリカに宣戦布告、同時に、マレー半島、フィリピンに敵前上陸を敢行し、敵を圧迫、制空、制海権を一瞬にして奪った。
 29聯隊は南方のジャワに海路遠征した。空前の渡洋上陸作戦”勇第2師団”は10隻の輸送船に分乗し、宇品港を出発。兵には行き先が知らせず、ただ、マレー語の教育が船上で始まった。台湾に一時、寄港し、カムラン湾に翌年2月10日に到着した。そこで第2師団は56隻の大船団を組んでジャワ攻略の命令を受け、2月18日、ジャワ本島を目指し進路をとった。
     ◇   ◇   ◇
 今日は67回目の敗戦記念日だ。政府主催の慰霊祭が行われ、野田が弔辞を述べた。毎年のことながら、言葉使いも知らない馬鹿さが目立つ。「心ならずも死んでいった〜」という決まり文句は謝りなのだ。大平洋戦争で亡くなった230万人の将兵は「御国のため」死んでいったのだ。「心ならず、いやいや死んでいった」のではない。戦後生まれの男にいって無駄か。
2012年08月14日(火) 軍都・若松(39)
 日本も対米戦を念頭におきながら、アメリカとの交渉は続けたが、昭和16年(1941)11月、アメリカのハル国務長官は、日本側にハル・ノートと呼ばれる強硬な提案を突き付けた。この中で、日本が中国から無条件で即時撤退することを要求していた。この要求に応じることが対米屈服を意味すると考えた日本政府は、最終的に対米開戦を決意した。
 遂に12月8日午前7時、人々は日本軍が米英軍と戦闘状態に入ったことを臨時ニュースで知った。
 日本帝国海軍機動部隊が、ハワイの真珠湾に碇泊する米太平洋艦隊を空襲した。艦は次々に沈没し、飛行機も片端から炎上して大きな戦果を挙げた。
 国力が日本の数百倍という巨大国家に挑戦した戦争責任者は誰なのか?無謀な戦争は止めることが出来なかったのか。当時のマスコミは戦争回避に動いたか?その後、大本営発表を垂れ流したマスコミ。戦争末期、戦艦大和の悲劇的な出撃。3332人の乗組員のうち生存者は276人も放送された。
 明日は67回目の敗戦記念日。昭和史のお浚いは本日で終り、明日から若松聯隊の動きを追う。
2012年08月13日(月) アオバズク
 今年も、近くの公園にアオバズクがやってきて巣を作り、ヒナ5羽を産んだ。残念ながら牡の親は亡くなったが、母親が一羽、ヒナの世話に追われ、せっせと餌のセミなどを捉まえている。
  毎年、忘れずにやって来る。フクロウ目の鳥で、大きさは鳩ぐらい。夜間に「ホーホー」と鳴き続ける。可愛いヒナを狙って、アマチュア・カメラマンがデジタルで狙っている。隣の習志野市からやってきた人は「可愛いいですね」とシャッターを押していた。
 南の国からやって来る渡り鳥らしい。中には、100万円もする望遠レンズを付けているカメラマンも。展覧会に出すのですか?のという問に、
「自分で楽しむだけ」。
 定年後の楽しみというが、古木の下、涼しい風が吹きわたる中での撮影は人生をちょっぴり豊かにするかもしれない。
2012年08月12日(日) 軍都・若松(38)
 昭和16年(1941)春、悪化した日米関係を打開するための日米交渉がワシントンで始まった。日本はアメリカとの戦争を避けるため、この交渉に大きな期待を寄せたが、この頃から、アメリカは日本側の秘密電報を傍受、解読し、日本の手の内を掴んだ上で、日本との交渉を自国に有利になるよう、誘導した。
 この年の7月、日本の陸海軍は南部仏印(ベトナム)進駐を断行、サイゴンに入城した。サイゴンは、アメリカ領フィリピン、イギリス領シンガポール、オランダ領インドネシアのすべてを攻撃できる軍事上の重要拠点だった。
 危機感を募らせたアメリカは、在米日本資本の凍結と、対日石油輸出の全面禁止で対抗した。さらに、米英両国は大西洋上で会談を開き、両国の戦争目的をうたった大西洋憲章を発表して結束を固めると共に、対日戦を2、3か月引き延ばすことを決めた。
2012年08月11日(土) 軍都・若松(37)
 昭和16年(1941)4月、日本はソ連との間にも日ソ中立条約を結んだ。二つの条約をまとめた外務大臣松岡洋右は、これらを4カ国条約に発展させ、その圧力でアメリカとの交渉を有利に進めようとしていた。
 しかし、同年6月、ドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が始まって、松岡の構想は破綻した。
 この事態を予想しなかった日本は、北進してソ連を撃ってドイツを助けるか、それともソ連と戦わずに南進するかの選択を迫られた。7月の御前会議は南進を決定した。
 それに基づき、日本は石油の輸入先を求めて、インドネシアを領有するオランダと交渉したが、当然のごとく断られた。
 こうしてアメリカ(AMERIKA)、イギリス(BRITAIN)、中国(CHINA)、オランダ(DUTCH)の諸国が共同で日本を経済的に追い詰めるABCD包囲網が形成された。
     ◇   ◇   ◇
 昨日、韓国の李明搏大統領が日本領土の竹島に強行上陸した。任期が半年後で支持率が低い人気の回復を狙ったらしいが、とんでもない事だ。民主党政権の弱体化を読み、弱腰外交を見透かしての訪問だ。
 歴史的にも国際的にも竹島は日本の領土であることは、以前もブログに書き込んだ。こうした韓国の無礼の仕打ちに、野田は、韓国大使召還だけで済まそうとしているが、とても我慢できる話でない。
 と、拳を振り上げてみたが、長い間のわが国の植民地だったことを考えると、すこし穏やかな手段で済ます方法は?とも思う。近くて遠い国にならないように。
2012年08月10日(金) 軍都・若松(36)
 一方、ヨーロッパでは、第一次世界大戦の敗戦国ドイツが、ベルサイユ条約で領土を削減され、過酷な賠償を要求されて苦しんでいた。また、世界恐慌の余波でアメリカ資本がドイツから引き揚げ、経済が破綻した。
 昭和8年(1933)に政権の座に就いたナチス党のヒトラーは、ユダヤ人を迫害し、武力による領土回復を進めた。
 ドイツはソ連との秘密協定を結んだ上で、昭和14年(1939)9月、ポーランドに電撃的に侵攻し、ポーランド全土をソ連と分割した。
 これに対し、ポーランドと同盟を結んでいたイギリスとフランスは、ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。同15年(1940)、ドイツ軍は電撃作戦で西ヨーロッパを攻略、パリに入城し、フランスを降服させた。
 日本はヨーロッパにおけるドイツの勝利に目を奪われた。フランスを打ち破ったドイツがイギリスにも勝つことを期待して、イタリアを加えた日独伊三国同盟を締結した。これによって日本は孤立感を和らげることができたが、遠いヨーロッパの2国との軍事同盟には実質的には効用はなかった。しかも、イギリスを支援するアメリカとの対立を決定的に深める要因となったことに気付く指導者は少なかった。
2012年08月09日(木) 軍都・若松(35)
 アメリカは、門戸開放、機会均等を唱えて、日本が独自の経済圏をつくることは認めなかった。日中戦争でも中立を守っていたが、近衛声明に強く反発し、中国の蒋介石を公然と支援するようになった。
 昭和14年(1939)、アメリカはさらに日米通商航海条約を延長しないと通告してきた。多くの物資をアメリカとの貿易に依存していた日本は、次第に経済的に苦しくなっていった。
 陸軍には、明治以来、北方のロシアの脅威に対する北進論が伝統的に強かったが、この頃から東南アジアに進出して資源を確保しようとする南進論が強まってきた。
 しかし、日本が東南アジアに進出すれば、そこに植民地を持つイギリス、フランス、オランダ、アメリカと衝突するのは必死であった。
2012年08月08日(水) 軍都・若松(34)
 日本は、戦争が長引くと、国を挙げて戦争を遂行する体制をつくるため、として昭和13年(1938)国家総動員法を成立させた。これによって政府は、議会の同意なしに物資や労働力を動員できる権限を与えられた。
 中国大陸での戦争は泥沼化し、いつ終るとも知れなかった。昭和15年(1940)民政党の齋藤隆夫代議士は、「この戦争の目的は何か」と質問したが、政府は充分に答えることは出来なかった。
 同年10月には、政党が解散して大政翼賛会にまとまった。ドイツやソ連の一国一党制度を模倣したものであった。
 これより前の昭和13年(1938)、近衛文磨首相は東亜新秩序の建議を声明し、日本・満州・中国を統合した経済圏をつくることを示唆した。後に大東亜共栄圏というスローガンに発展した。
2012年08月07日(火) 軍都・若松(33)
 関東軍は、満州国を維持し、ブロック経済圏を建設するために、隣接する華北地域に蒋介石政権の支配の及ばない親日政権をつくったため、中国との緊張が高まって来た。
 昭和12年(1937)7月7日夜、北京郊外の廬溝橋で演習していた日本軍に向けて何物かが発砲する事件が起った。翌朝には、中国の国民党軍との間で戦闘状態になった(廬溝橋事件)。
 現地解決が図られたが、やがて日本側も大規模な派兵を命令し、国民党政府も直ちに動員令を発した。以後、8年間にわたって日中戦争に突入する。
 同年8月、外国の権益が集中する上海で、二人の日本人将兵が射殺された。これをきっかけに日中間の全面戦争が始まった。日本軍は国民党政府の首都南京を落とせば蒋介石は降服すると考え、12月、南京を占領した。この時、日本軍によって多数の民衆の死傷者がでた(南京事件)。現在、中国共産党政権は死者30万人というが、実際には数万人であろうと思われる。
 しかし、蒋介石は重慶に首都を移して抗戦を続けた。
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 愛すべきハマコーさんが去る5日に83歳で亡くなった。彼との付き合いは現役の木更津通信部時代だから、30年も前だ。中選挙区の千葉3区で社会党の金瀬俊雄とトップ当選を目指して激しく戦っていた。投票が終り選挙事務所で予想得票を尋ねたところ、10票単位まで細かく票を読み切ったのには驚いた。
 親父が亡くなった平成5年9月の葬儀には弔電を打ってきてくれた。朔日、富津市のお宅に弔電を打った。また、親しい知人の一人が亡くなった。
2012年08月06日(月) 閑話
 『会津人群像』21号がようやく出版となった。20号から2回にわけて日露戦争勝利の影の立役者であった柴五郎を取り上げた。
 会津人初の陸軍大将で、西洋列国の餌食となっていた清国に、日本公使館の駐在武官として勤務中に起きた義和団事件で大活躍し、各国公使館から絶大な信頼を寄せられ、後に、日露戦争勃発にあたって締結された日英同盟の影の主役となった。日露戦争の勝利は柴五郎の活躍のお陰ーといっていい。
 そうした柴五郎の活躍、しかし、今は会津若松市の恵倫寺の墓地にひっそりとしている。忘れられようとしている光と影を描いたつもりだ。
 21号では、他に「海の会津藩」と題して元札幌市職員が、トップで江戸湾や樺太沿岸防備の史実を書いているが、江戸湾防備の史料はミスだらけで、原稿もおかしい内容。筆者に問い合わせたら、20年前の取材という。
 それにしても会津藩士の眠るお寺が3か所、それも合っているのは1か所だけというお粗末さ(実際に4か寺)
 こんな原稿をチェックする社員もいないのが原因だ。ブログの読者や房総半島会津藩士顕彰会のメンバーに買って戴きたいと、お願いしたのだがー。
2012年08月05日(日) 軍都・若松(32)
 世界恐慌後、イギリスやフランスは、本国と植民地間の関税を下げて物資を流通させる一方、他国の商品には高い関税をかけて、排除するブロック経済を採用した。
 このため、日本の安価な工業製品は、世界各地で閉め出されていった。このため、日本でも、満州や中国の一部を対象にブロック経済圏を建設しようという考えが強くなって来た。
 その後、政治に介入する軍部の動きは益々激しくなり、昭和11年(1936)2月26日、陸軍の青年将校の一派が1400名の兵士を率いて蹶起し、首相官邸や警視庁を襲撃した。彼等は大臣を殺害し、永田町周辺を占拠した(2・26事件)。
 事件の首謀者は、天皇のもと軍部を中心にした政府を組織し、政党、財閥、重臣を打倒して昭和維新を断行することを要求した。しかし、昭和天皇は「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当たらん」と断固たる決意を示して、反乱は3日間で鎮圧された。
2012年08月04日(土) 軍都・若松(31)
 アメリカはじめ各国は、満州事変を起こした日本を非難し、国際連盟は満州にリットン調査団を派遣した。調査団の報告書は、満州に於ける不法行為によって日本の安全が脅かされていることは認めたが、満州に於ける日本軍の行動を自衛行動とは認めず、日本軍の撤兵と満州の国際管理を勧告した。
 日本政府はこれを拒否して満州国を承認し、昭和8年(1933)、国際連盟を脱退した。
 満州事変は日中間の対立を深めたが、その後、停戦協定が結ばれ、両国の関係はやや改善された。満州国は、「五族協和」、「王道楽土」建設をスローガンに日本の重工業の進出などによって経済成長を遂げ、中国人の著しい人口の流入があった。しかし、実際には、満州国の実権は、関東軍が握っており、抗日運動が起ったのは当然の帰結であった。
2012年08月03日(金) 軍都・若松(30)
 満州事変は、日本政府の方針とは無関係に、帝国陸軍の出先の部隊である関東軍がおかした戦争であった。政府と軍部中央は不拡大方針をとったが、関東軍はこれを無視して戦線を拡大し、全満州を占領した。国家の秩序を破壊する行動だった。
 しかし、政党政治への不信を強め、政府の弱腰外交に不満を募らせていた国民の中からは関東軍の行動を熱烈に支持する者も現われ、陸軍に220万円もの支援金が寄せられる程であった。
 昭和7年(1932)、関東軍は満州国を宣言し、後に清朝最後の皇帝であった溥儀を満州国皇帝の地位につけた。
 同年5月15日、満州国の承認に消極的であった犬養毅首相は、海軍将校の一団によって暗殺された(5・15事件)。ここに8年間続いた政党内閣の時代は終わりを告げ、その後は世論の支持のもと、軍人や役人を中心とした内閣が任命されるようになった。
2012年08月02日(木) 軍都・若松(29)
 満州在留の日本人保護と満鉄を警備するため、日本陸軍は1万人の陸軍部隊を派遣していた(関東軍)。関東軍が、満州の軍閥・張作霖を爆殺するなど、満州への支配を強めようとすると、中国人による排日運動が激しくなり、列車妨害事件などが頻発した。
 さらに、日本にとって、北にはソ連の脅威があり、南には国民党の力も及んで来た。こうした中で石原莞爾ら関東軍の一部将校は、全満州を占領して問題を解決する計画を練り始めた。
 昭和6年(1931)9月18日午後10時20分頃、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で、満鉄の路線が爆破された。関東軍は、これを中国側の仕業だとして、直ちに満鉄沿線の都市を占領した。
 しかし、実際は関東軍が自ら爆破したものであった。これが満州事変の始まりだった。
2012年08月01日(水) 軍都・若松(28)
 昭和5年(1930)、ロンドンで補助艦の制限を議題とする海軍軍縮会議が開催された(ロンドン軍縮会議)。日本の海軍は英米10に対して7の補助艦比率を強く望んだが、政府は英米との協調に努めて、結局、10対6.975の比率を受け入れた。
 これに対して一部の軍人や政治家は、比率が要求を下回ったため、明治憲法に定められた天皇の統帥権を犯したとし、政府を激しく攻撃した。浜口雄幸首相は暴漢に襲われて重傷を負ったほどであった。
 軍人が政治に介入することは明治憲法に違反し、軍人勅諭でも戒められていた。しかし、経済不況による社会不安を背景に、中国に於ける排日運動と満州権益への脅威に対処出来ない政党政治に対する強い不満から、軍部の政治的発言を強めようとする動きも出て、国民も次第に軍部に期待を寄せるようになった。
 日露戦争の勝利によって、日本は満州南部の関東州を租借し、ロシアから南満州鉄道(満鉄)の営業権を譲り受け、既に20万人以上の日本人が住んでいた。
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