会津の歴史
河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2013年02月28日(木) 北越戊辰戦争(8)
 当時、新潟港には、鳥羽・伏見の戦で敗れ、江戸を脱走した衝鉾隊の隊士ら700名余がいて、付近の町人に乱暴狼藉を働いたりしていた。
 そうした新潟港の治安を巡り、北越諸藩が現地に集まって取り締まることになっていたのだ。
 河井継之助は長岡藩代表として出席し、衝鉾隊隊長の古屋佐久左衛門と渡り合い、越後6藩(村上、新発田、長岡、黒川、三根山、村松の各藩)が北越諸藩同盟を結んで新潟港一帯の治安を維持することとした。この北越諸藩同盟の実態はよく分らないが、6藩は後に、奥羽列藩同盟に加盟する。
 さて、衝鉾隊を扱った記録には、「(慶応4年)4月4日、衝鉾隊の檄により、越後各藩は新潟に終結、古屋佐久左衛門が議長となって北越同盟会議を指導し、長岡侯を盟主に推戴した。そのことは河井継之助も諒承した」とある。
2013年02月27日(水) 北越戊辰戦争(7)
 河井継之助一行は、3月23日、新潟港に着き、翌24日には長岡に帰着した。
 この当時、長岡藩論は、政庁幹部が佐幕を唱えるのに対し、門閥家老の稲垣平助らは勤王恭順を主張し、藩論は真っ二つに分かれていた。藩士らは、茶飲み話の最中でも、戦争か恭順かの是非を論じ、他の話をすることが出来なかった。
 継之助は帰城すると、4月1日、全藩士に総登城を命じた。本丸大広間で老公、藩主出座のもと、次のように演説した。
 「今、薩長の姦臣が天子を推戴して幕府を陥れ、政権を奪い取った。御譜代の諸侯も幕府に背いて、薩長に同調しているのは、実に嘆かわしい次第である。我が越後長岡藩は小藩ではあるが、大義を守る為には、たとえ孤立しても徳川家より受けた300年の恩顧に報いたい。それが藩義というものだ」
と熱っぽく雄弁を振るった。藩士は勇気を振るい立たせた。
 演説の後、継之助はすぐさま、新潟へ急行し、旧幕府脱走兵の衝鉾隊(しょうほうたい)隊長古屋佐久左衛門らと会う。
2013年02月26日(火) 北越戊辰戦争(6)
 長岡藩は、大坂城の玉津橋を警備していたが、大きなうねりの歯車は既に回っていた。
 翌慶応4年(1868)1月3日、突如、鳥羽・伏見で戦端が開かれた。1万5000名も擁しながら、寄り合い部隊であった幕府軍は、統制のとれた薩長連合軍と衝突したが、結果は見えていた。長岡藩も加わった幕府軍は脆くも敗れ去った。
 7日、長岡藩主・牧野忠訓と藩兵は、大和路より伊勢に入り、松坂に出て海路、参州(三河)吉田を経て同月23日、江戸へ戻ってきた。
 江戸は大混乱であった。すぐにでも薩長軍が押し寄せるというような気配があった、という。牧野忠訓らは、そんな状況をみて江戸を離れることになり、陸路、長岡へ帰っていった。
 河井継之助は、江戸に残って藩邸の什器や財宝を売り飛ばし、一門5000両もするガトリング砲二門を始め、多数の銃器を買った。
 そして3月3日、藩士50名と共に、品川沖から海路、青森を回って長岡へ帰ってきた。
2013年02月25日(月) 北越戊辰戦争(5)
 12月22日、藩主・忠訓は河井継之助に差料(さしりょう)の短刀を与えた。継之助は副使三間市之進、付添渋木成三郎を従えて、御所鶴乃間に於いて長谷三位、五辻小納言に謁し、建言書の趣意を陳述した。この時、継之助は道義を説き、臣が君を伐つ非道をなすべきでないと力説した。
 二人の公卿はただ継之助の建言を聞くのみで退席した。継之助は大胆な建言をしたので咎めがあるかと不安になったが、何もなかったので副使の三間と共に、朝廷では考慮して下さるーと判断し、互いに喜んだ。
 その後、この建言に対して何の沙汰もなかった。継之助は再三、参与所に出頭して陳情したが、要領を得ない為、12月29日、忠訓を擁して帰坂した。
2013年02月24日(日) 北越戊辰戦争(4)
 上洛の理由は、270年来の徳川家の恩顧に報いる時であり、政権を再び徳川家に帰すべきだという建言を行う為であった。 
 12月15日、牧野忠訓は徳川慶喜のいる大坂城へ昇り、老中板倉勝静(かつきよ)に会い、建言書を差し出した。翌16日、河井継之助、三間市之進を従え、再び板倉に会って、強く政権の返還を要求すべきと建言した。
 17日夜、河井継之助は大坂城に呼び出し受け、板倉老中から、暗に藩主忠訓に上洛し、新政府に建言するよう、慫慂(しょうよう=そばから誘いかけ勧める)された。
 継之助は長岡藩に重大な役割を与えられたと感奮し、翌日、三間らを従えて平山図書頭らと上京建言の儀につき諸般の打ち合わせを行った。
 12月19日、忠訓は大坂を出発、同日入京した。そこで忠訓は病となり、継之助が名代となって新政府の参与所に出頭して建言を行うことになった。
2013年02月23日(土) 北越戊辰戦争(3)
 長岡藩執政河井継之助が着々と藩政改革をすすめる中で、時代は急変する。慶応3年(1867)10月、徳川15代将軍慶喜は政権を朝廷
に返還し(大政奉還)、270年間続いた江戸幕府は終わりを告げた。
 翌慶応4年1月3日、鳥羽・伏見で薩摩・長州連合軍と旧幕府軍が衝突して戊辰戦争が始まった。
 この戦の勃発で300諸侯は、その去就を問われることになった。長岡藩も東西に分かれた勢力のどちらにつくか、言い換えれば、藩を擧げて開戦するかどうか、迷うことになった。
 鳥羽・伏見の戦より前の慶応3年7月、長岡藩11代藩主・牧野忠恭(ただゆき)は隠居し、養嗣子忠訓(ただくに)に家督を譲った。忠訓は24歳、忠義を第一とする主君であった。
 その牧野忠訓は、同年11月末、河井継之助、三間市之進、梛野嘉兵衛ら60余名を従えて江戸藩邸を発し、旧幕府軍艦順動丸に乗り組んで上洛した。29日、兵庫港に着き、30日、大坂・堂島の蔵屋敷に入った。
2013年02月22日(金) 北越戊辰戦争(2)
 時は幕末ー。越後平野に所在する藩を紹介しておく。譜代・高田藩15万石が筆頭で、次いで外様・新発田藩10万石、次が譜代・長岡藩7万4千石、同村上藩5万石、外様村松藩3万石、譜代・与板藩2万石からは城持ち大名ではなく、館程度の屋敷であろう。同三根山藩1万1千石、同三日市藩1万石、同黒川藩1万石、外様・椎谷藩1万石、御家門糸魚川藩1万石の11藩。
 この内、いわゆる東軍(会津軍味方)は長岡藩と村上藩の2藩のみ。後は、偽の錦旗に脅かされて西軍に寝返った裏切者。
 外様は新発田藩と村松藩だけで、越後平野には譜代大名を多く配置したのだが、時勢の前には無力であった。
2013年02月21日(木) 北越戊辰戦争(1)
 平成24年(2012)11月2日、アメリカ・ハワイのホノルルで、旧帝国海軍聯合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を指揮した山本五十六の故郷・新潟県長岡市とホノルル市の姉妹都市提携の調印式が行われた。
 両市の関係者らが出席し、「真珠湾攻撃は日米の不幸な歴史だが、70年経って友好関係を結ぶ事に意義がある」と、歴史への理解を通じて友好を深めていく事を誓った。
 開戦に反対しながらも海軍を指導する立場になった山本五十六。その故郷・長岡市には、幕末、大波にように押し寄せる西軍に対し、当初は非戦の立場をとった家老河井継之助がいた。
 いわば長岡藩は中立の立場をとって東軍と西軍の仲立ちをしようとしたのだが、西軍の軍監岩村精一郎の若僧によって踏み付けられ、河井継之助の意見は無視されてしまう。
 そして慶応4年(1868)5月から3か月に及ぶ北越戦争に突入する。長岡城を巡る攻防は長岡城下を火の海にし、灰燼に帰してしまう。144年前にも同じような人物がいたのだ。
2013年02月20日(水) 閑話
 日本と韓国との関係で、「河野談話」なるものがあるのを御存知か?いわゆる従軍慰安婦問題に関して、平成5年(1993)河野洋平官房長官(当時)が発表した。
 これは、「日本軍が太平洋戦争中、慰安所の設置や従軍慰安婦の募集を監督、統制した記録が明らかになった」と朝日新聞が掲載し、これに対して日本政府は軍による強制連行などの裏付けとなる資料は見つからなかった、と調査結果を発表した。
 内容は慰安所の設置、管理や慰安婦の移送について軍の関与を認める一方、慰安婦募集は「軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、本人の意志に反して集められた事例が数多くあり、官憲等が加担した」とするものだ。
 しかし韓国内の日本批判は収まらず、日本政府は、政治決着を謀る狙いから「河野談話」を発表した。
 しかし、この談話は閣議決定されたものでなく、官房長官個人の談話であり、第一次安倍内閣で平成19年(2007)3月、「軍や官憲による強制連行を直接示す資料はなかった」と政府答弁書を閣議決定した。
 このような問題が起きるのは、歴史家や専門家が慰安婦問題で世界に向けた英訳書を書いていないせいだ、と現代史家の秦郁彦氏(元日大教授)は指摘する。中国との関係では、南京事件や現在紛争になっている領土問題などでも同じ事で、日本に不利な記述も含めて事実関係や論争史を客観的に記述することが大事、と言う。優秀な翻訳家を撰んで、上記に関する本をぜひとも出版して欲しい。
2013年02月19日(火) 論語(最終回)
 子在川上曰、「逝者如斯夫。不舎昼夜」
 読みは、子、川の上(ほとり)に在りて曰わく、「逝く者は斯(かく)の如(ごと)きか。昼夜を舎(お)かず」
 意味は、先生が川の岸辺に立って言われた。「過ぎ行く者は、この川の流れのようであろうか。昼も、夜も、一瞬も止まることなく、流れ続ける。この川のように、学問もまた、そうでなければならない」と。
      ◇   ◇   ◇
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」の書き出して始まる、鴨長明の『方丈記』は高校時代に勉強した。
 この本は鎌倉時代初期に書かれたもので、鴨長明は、上記の論語を学んだのであろう。それにしても、昔の支那には孔子、孟子を始め多くの先達を輩出した。平安時代から現在まで、わが国の教育に及ぼした影響はすこぶる大きい。
 特に江戸時代には会津藩士の子弟教育に多大な影響があった。改めて、昔の支那人(明治時代までの)に敬意を払う。
 それにしても、である。共産党一党独裁の現在の支那人は、微少粒子状物質PM2.5をまき散らして大気汚染を招き、わが国まで飛来して大気を汚染していて、平気なのだ。「ごめんなさい」の一言もない国が、国連の常任理事国であるなど、許し難い。孔子、孟子も黄泉で嘆いているに違いない。
2013年02月18日(月) 論語(49)
 子絶四。母意、母必、母固、母我。
 読みは、子四つを絶つ。意毋(な)く、必毋く、固(こ)毋く、我(が)毋し
 意味は、先生は四つの欠点を免れていた。第一、主観だけで憶測しない。第二、無理押しはしない。第三、一つの考えだけに固執しない。第四、自分の都合しか考えない。
      ◇   ◇   ◇
 大河ドラマ「八重の桜」の視聴率はまあまあの線をいっているようだ。熊本県の佐川官兵衛顕彰会の興梠二雄会長は、「佐川官兵衛が登場している」と喜んでいる。しかし、現地では、西南戦争における佐川官兵衛の大活躍を知る人は多くはないーと嘆いている。一旦、明治の薩長藩閥政治によって歴史上から抹殺された会津藩だけに、全国的に見直しが進むのは時間がかかるだろう。
 ところで、大河ドラマに合わせて3月12日から5月6日まで両国の江戸東京博物館で特別展「八重の桜」が開かれる。逆境の中に咲いた桜に因んだ新島八重の生涯をゆかりの品々で紹介する。
 新島襄と暮らした部屋を再現し、結婚間もない二人の写真、会津藩の武術鍛練のための「追鳥狩之図屏風」などが展示される。
2013年02月17日(日) 論語(48)
 子曰、「学如不及、猶恐失之」
 読みは、子曰わく、「学は及ばざるが如くとするも、猶之を失わんことを恐る」
 意味は、先生が言った。「学問というものは、自分より先を行くものを懸命に追い掛けるようなものだ。それでもなお、追い掛ける目標を見失うのではないかと心配でたまらない程のものだ」と。
2013年02月16日(土) 論語(47)
 子曰、「不在其位、不謀其政」
 読みは、子曰わく、「其の位に在(あ)らざれば、其の政(まつりごと)を謀らず」
 意味は、先生が言った。「その地位につかなければ、妄りに他人の職務に口出しをしない」と。
      ◇   ◇   ◇
 昨日、ロシア中央部に隕石が落下し、1200人が負傷した。宇宙からの思いもしない落とし物に驚かされる。密集地でなかったのが不幸中の幸いだ。
 ロシアでなく、もっと東方の北朝鮮にでも落ちてくれればよかったのにー。朝鮮半島のならず者国家は、性懲りもなく第3回の核実験を行い、世界の批判を浴びている。近くのあるこの国を、どうすればいいのか。
 世界との仲立ちの役目を持つ中国の警告も効果がなかった。気違い集団を黙らせ、真っ当な相手にさせるのは、どうすればいいのか。
 答えは、中国しかあるまい。燃料、食糧などを援助している中国がもっと強い態度に出れば〜である。しかし、この国の新しい指導者の考えはまだ伝わって来ない。
2013年02月15日(金) 論語(46)
 子曰、「里仁為美。撰不處仁、焉得知」
 読みは、子曰わく、「仁に里(お)るを美と為す。撰びて仁に處(お)らずんば焉(いずく)んぞ知(ち)なるを得ん」
 意味は、先生が言った。「仁者として仁に居るのは立派だが、進んで仁に身を置こうとしないようでは、どうして知者といえようか」と。
      ◇   ◇   ◇
 御存知のように会津藩士の子弟は11歳から18歳まで藩校・日新館で勉学と武芸を励んだ。天文学から山国なのに、広い池を造って水練も教条するなど、多岐に渡った。刀、槍など武芸18番の兵が輩出した。
 学問は朱子学を中心に四書五経を学んだ。論語に孟子、大学、中庸の4つの本と易経、詩経、書経、礼記(らいき)、春秋の五経を柱に勉学に勤しみ、会津武士としての矜持を身に付けた。
 明治初期、薩長藩閥政治の世であり、冷遇された会津藩士だったが、山川浩、山川健次郎、柴五郎、出羽重ら一流の知識人、軍人を輩出した。270藩で、最高の学識を身に付けた会津藩士は誇りだ。
2013年02月14日(木) 論語(45)
 有子曰、「其為人也孝弟而好犯上者鮮矣。不好犯上而好作乱者未之有也。君子務本、本立而道生。孝弟也者、其為仁之本與」
 読みは、有子曰わく、「其の人と為(な)りや、孝弟(こうてい)にして上(かみ)を犯すを好む者は鮮(すく)なし。上を犯すを好まずして乱を作(な)すを好む者は未だ之に有らざるなり。君子は本(もと)を務む。本立ちて道生(しょう)ず。孝弟なる者は其れ仁を為すの本か」
 意味は、有(孔子の門人で、孔子より43歳若い)先生が言った。「父母に孝行を尽し、兄や年長者に従順であって、目上の人に逆らいたがるような人は殆どいない。目上の人に逆らうことを好まないのに、社会の秩序を乱したがるような人は、未だかつていなかった。教養のある人は根本の事に努力する。根本さえしっかりしていれば、道は自然に開けてくる。結局、孝弟こそ仁(孔子が修養の窮極目標と考えていた境地)の基礎なのではあるまいか」
2013年02月13日(水) 論語(44)
 子曰、「君子求諸己。小人求諸人」
読みは、子曰わく、「君子は諸(これ)を己に求む。小人は諸を
    人に求む」
意味は、先生が言った。学徳共に優れた君子と言われる人物は、
    すべてを自分に求め、責任を自覚しているが、器小なる
    小人は、すべてを他人に転嫁するものである」と。
2013年02月12日(火) 論語(43)
 子曰、「見賢思齋焉、見不賢而内自省也」
 読みは、子曰わく、「賢(けん)を見ては齋(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みるなり」
 意味は、先生が言った。「優れた人物に出会ったら、自分も、その人物と同じようにありたいと思い、手本として見習うが良い。下らない人物を見たら、自分にもその人と同じようなところはないか、自己反省のよすがとすれば良い」と。
      ◇   ◇   ◇
 本日の衆議院予算委員会で自民党青年局長の小泉進次郎議員が福島原発問題で質問した。開口一番、「原発の安全神話に基づいて原発を推進してきた自民党には、大きな責任がある」と責任の所在を指摘した。
 まことにその通りで、自民党の安全神話に「騙された」浜通りの住民を救うのは自民党なのだ。当時の経緯については、以前のブログでも書き込んだ。
 事故が起きた平成23年3月11日が民主党政権であったことが傷口を広げたのだ。自民党の諸君には、厳しく反省してもらい、復旧、復興に全力を擧げて欲しい。
 大河ドラマだけで風評被害を払拭することは不可能なのだ。
2013年02月11日(月) 論語(42)
 子曰、「不患無位、患所以立。不患莫己知、求為可知也」
 読みは、子曰わく、「位(くらい)無きを患(うれ)えず、立つ所以を患う。己を知る莫(な)きを患えず、知らるべきを為すを 求むなり」
 意味は、先生が言った。「自分には社会的地位の無い事を気に病む必要は無い。それよりも、地位に立つための人間性が無いからである事を悩む事だ。また、世間の人が自分の真価を認めてくれない事を気に病む必要は無い。それよりも、認めてもらるような仕事をする事が先決だ」と。
      ◇   ◇   ◇
 本日は「建国記念の日」で休日。戦前は紀元節であった。明治5年(1872)、神武天皇即位の日を2月11日と設定した。敗戦後は進駐軍の意向で廃れたが、昭和41年(1965)に「建国記念の日」という名で復活した。
 天皇家は今上天皇の125代に及ぶが、初代神武天皇から14代仲哀天皇までは実在せず、神話の世界の天皇だ。戦前は神武から昭和天皇までを子供から暗記させられた。
 神武ー綏靖(すいぜい)ー安寧ー懿徳(いとく)ー孝昭ー孝安ー孝霊ー孝元ー開花ー崇神ー垂仁ー景行ー成務と続き、仲哀となる。(以下略)同じ名前はない。
 たまに、天皇家を繙いてみるのも面白い。
2013年02月10日(日) 論語(41)
 子曰、「苟志於仁矣、無悪也」
 読みは、子曰わく、「苟(いやしく)も仁に志せば、悪(にく)むこと無きなり」
 意味は、先生が言った。「仮にも人間愛を心に持つ事を志したなら、その人は悪事を行う恐れはない」と。
     ◇   ◇   ◇
 昨今テレビで会津ものが大流行りだ。昨夜の民放の「上意討ち」は舞台が会津藩だったし、今日の昼には「八重の桜」ツアーで御薬園が登場し、会津藩の家宝「家訓15か条」や孝明天皇から最後の会津藩主松平容保に下された御宸翰が披露された。容保の曾孫14代(NH職員が出演したが、本当は13代松平保定氏に出演して欲しかった。
 千葉県と福島県の地元紙で「士魂は何処へ」を連載するにあたり、13代に題字を揮毫して頂いた。それも、旧華族の集まる霞ヶ関ビルの屋上階の会員制レストランで。お殿様の風貌を残した方で、親切丁寧に幕末の事情も教えて頂いた。
 本日のNHKテレビに懐かしい慶山の松平御廟も出たが、涙もろくなったせいか、瞼が霞んだ。故郷を離れて10年余、会津を思う心は強くなるばかり。数年前に亡くなられた保定氏が今回のドラマを観たら、どんなにか感激されたことか!!
2013年02月09日(土) 論語(40)
 子曰、「奢則不遜、倹則固。與其不遜也寧固」
 読みは、子曰わく。「奢れば則ち不孫、倹なれば則ち固(いや)し。其の不遜ならんよりは寧(むし)ろ固しかれ」
 意味は、先生が言った。「人は贅沢に過ぎると、尊大になり謙遜する事を忘れる。また、倹約に過ぎると、ともすれば頑固になる。しかし、どちらかといえば、思いあがって謙遜することを忘れるよりも頑固になる方が良い」と。
      ◇   ◇   ◇
 安倍首相が昨夜、BSフジテレビに出演し、中国軍艦による火器管制レーダー照射事件で国会での質議模様を説明していた。首相の民放出演は日本テレビなどに続いて度々ある。首相自ら世論を喚起しようと出演したのだろう。
 しかし、である。一国の首相が民放に度々登場するのはいかがなものか。外国ではあり得ない事ではないか。アメリカのオバマ大統領は大統領守執務室からゴールデンタイムに会見している。
 それが一国の責任者ではないか。前政権の民主党とも、第一次安倍内閣とも違うーことを意識する余りの行動ではなかろうか。親しみを抱く、のは理解できるが、軽過ぎるのは考えものだ。
2013年02月08日(金) 論語(39)
 子曰、「三人行、必得我師焉。擇其善者而従之、其不善者而改之」
 読みは、子曰わく。「三人行えば、必ず我が師有り。其の善き者を擇(えら)びて之に従い、其の善(よ)からざる者にして之を改む」
 意味は、先生が言った。「自分を含めて三人で行動すると、他の二人のする事の中に必ず自分にとって教えられる事があるはずだ。二人の言動のよい点があればそれを見習えば良いし、良くない点は、それを自らの反省する材料とする事ができるからだ」と。
2013年02月07日(木) 論語(38)
 子曰、「飯疏食、飲水、曲肱而枕之。楽亦在其中矣。不義而富且貴、於我如浮雲」
 読みは、子曰わく。「疏食(そし)を飯(くら)い水を飲み、肱(ひじ)を曲げて之を枕とす。楽しみも亦(また)其の中に在り。不義にして富み且つ貴(たっと)きは、我に於いて浮雲(ふうん)の如(ごと)し」。
 意味は、先生が言った。「食べ物は粗末なもの、飲むものは水、そして肘枕で寝るような極貧の生活の中にも楽しみはある。反対に人道に外れた事をして不正な手段で得た財産と地位は、身につくものではなく、私には浮雲のようなものである」と。

 この名言は現在の中国の政治家、というより共産党政権の中枢部の連中に与えたい。政権交代期になると、地位を利用した首相の親族が2千億円という、途方もない金銭を不法に手に入れ、私腹を肥やしている。
 はたまた、わが国の自衛艦への中国海軍軍艦のレーダー照射は、まさに、ならず者が刀の鯉口を切って「いつでも抜けるぞ」と脅しをかけた騒ぎもある。軍事衝突を招く危機一髪の火遊びだ。政府は「知らなかった」。
 こんな危険な、ならず者国家が二つもあるのだ。気が抜けない。
2013年02月06日(水) 論語(37)
 子曰、「仁遠乎哉。我欲仁、斯仁至矣」
 読みは、子曰わく、「仁遠からんや、我仁を欲すれば、斯(ここ)に仁至る」
 意味は、先生が言った。「人間愛の道は我々の手の届かないところにあるものではない。自分が仁の道を求めさえすれば、いつでも身近にあるものなのだ」と。
      ◇   ◇   ◇
 我が母校慶応義塾大学から、今年の入学式に卒業50年の節目を迎えた塾員を招いてくれる招待状が届いた。4月1日、横浜市港北区日吉の日吉キャンパスの日吉記念館で挙行される。終了後、塾員招待会もあるそうだ。日吉には下宿した。
 懐かしい面々と会えると思うとワクワクする。が、残念ながら身体が言う事を聞いてくれない。矢崎ゼミ2回生だったが、矢崎先生は10年ほど前、亡くなられ、都内の教会で行われた葬儀に出席した。
 このゼミからは主にマスコミ界出身者が多く、石原環境大臣(元NTV記者)などを輩出している。同期からは、テレ朝、東京タイムス、読売新聞などの出身者が。
 他の大学でも、このような招待をやっているだろうか。わが国最古の歴史を誇るわが義塾ならではのことではないだろうか。自慢話で終始した。
2013年02月05日(火) 論語(36)
 子曰、「我非生而知之者。好古敏以求之者也」
 子不語怪・力・乱・神。
読みは、子曰わく、「我は生まれながらにして之を知る者にあらず。
    古(いにしえ)を好み、敏にして之を求めたる者なり。」
    子、怪・力(りょく)・乱・神(しん)を語らず。
意味は、先生が言った。「私は生まれながらにして全てを理解している
    というのではない。昔の事柄を好み、怠らず勉学して求め
    知ったのである」と。
    先生は、現実の世界では起こり得ない事、力で悪事を働く事、
    権威に反抗して社会の秩序を乱したりする事、人知では理解
    出来ない神秘については、口にされなかった。
2013年02月04日(月) 論語(35)
 子曰、「不憤不啓、不非不発。擧一隅、不以三隅反、則不復也」
 読みは、子曰わく、「憤せずんば啓せず、非せずんば発せず。一隅を擧げて三隅を以て反(かえ)らざれば則ち復(また)せざるなり」。
 意味は、先生が言った。「学問に対して、まず自分で考え理解に苦しんで、もどかしくなる程にならなければ指導しない。また、分かっていながら、それを口に出せないでもどかしく思うほど積極性を示さない者にも、教えることはしない。
 例えて言えば、四角の一隅について教えてやった場合、それを基にして、それを自分なりに押しひろめた他の三つの隅についてまで、自分から進んで答えるという程度でないと、重ねて教えることはしないだろう」と。
      ◇   ◇   ◇
 昨日、大河ドラマ「八重の桜」のPR番組で、会津若松市河東町の日新館が登場した。この施設は、元若松ガス社長の高木厚保さんが私財を投じて、当時のまま再現した。
 「会津魂」を後世に残そうとしたのであるが、残念ながら場所が市内から遠くて観光客の入りが悪いため赤字になり、市外の業者が肩代わりした。黒字だったガス会社も大手業者に買い取られてしまった。
 構想はよかったのだが、場所が悪かったのだ。当時、高木社長に提案した。施設そっくりを福島県に委譲して、鶴ヶ城そばの若女(会津学鳳高校)跡地に移転すれば会津観光の目玉になると。現在の市長室井君に教えたことを思い出す。
2013年02月03日(日) 論語(34)
 子曰、「中庸之為徳也、其至矣乎。民鮮久矣」
 読みは、子曰わく、「中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民鮮(すくな)きこと久し」
 意味は、先生が言った。「常に公平で、過不足や上下左右の片寄りの無い徳性こそ人格としていかにも最高である。だが、人々の心の中から、この徳性が乏しくなってから既に久しい」と。
      ◇   ◇   ◇
 昨日2日、福島市に「福島復興再生総局」が本格的に始動した。根本匠復興相を先頭に、大震災、原発事故からの復興、再生を加速させて欲しい。
 幸いにも(当然、安倍首相は地元代議士であり、仲間である根本氏を指名した)根本氏は事情を熟知しており、最適の人選と指摘したい。根本氏とは子会社に出向中、なんと内閣の中枢内調から「当選に協力してほしいと」、極秘に連絡が入り、以来、(親戚の有力者の急死に伴って身替わりになった感じの)根本氏に協力してきた。
 同志ともいえる根本氏を始め総局の職員には、中庸の徳の精神で疲弊した福島県の復興と再生に取り組んで欲しい。強くお願いしたい。
2013年02月02日(土) 論語(33)
 子曰、「質勝文則野。文勝質則史。文質彬彬、然後君子」
 読みは、子曰わく、「質、文に勝てば則ち野(や)。文、質に勝てば則ち史。文質彬彬(ひんぴん)として、然る後に君子なり」
 意味は、先生が言った。「内面だけが立派でも外面が整っていなければ粗野になる。逆に、外面だけが優れていても内面が伴わなければ、空疎になる。内面と外面が並び備わって始めて、立派な人物と言えるのだ」と。
      ◇   ◇   ◇
 塾の大先輩である慶応義塾名誉教授の加藤寛さんが先月30日、86歳で亡くなった。81年発足の第2次臨時行政調査会で第4部会長として国鉄、電々公社、専売公社の民営化に腕を振るい、政府の税制調査会部会長、会長として消費税導入、3%から5%への引き揚げに下地を作った。
 「社会の役に立たない学問は学問ではない」が信念で、アカデミズムと現実の政策の世界との間を行き来した。
 筆者が子会社へ出向時代、地元郡山の企業経営者向けの講演会にお招きした。身軽な服装で、秘書もつれずに新幹線から降りて来られた。分りやすい言葉で出席者に講演して頂いた。
 わが人脈の広さを少し吹聴したことを覚えている。現在では、こんな大物を招くことは無理だろう。懐かしい。ご冥福をお祈りする、合掌。
2013年02月01日(金) 論語(32)
 子曰、「徳不孤。必有隣。」
 読みは、子曰わく、「徳は孤ならず、必ず隣有り」
 意味は、先生が言った。「仁徳のある人、または其の行為は一人ぽっちではない。人には隣人が有り、家には隣家があるように、必ずその人格にひかれ、それに共鳴する人が現れるものである」と。
      ◇   ◇   ◇
 本日はわが国でテレビ放送が始まって60年だそうだ。NHKと日テレで始まった。当時は、わが家の前にあった公会堂に備えられた公開テレビの前に集まってプロレスの力道山の大活躍やボクシングの白井義男の試合に歓声を送ったのを覚えている。
 わが家には、市内で最も早い時期にテレビが入り、食堂で食券を配って見せた。偶然にも、日テレの電波を、10メートル以上高い竹を立てて、其の上にアンテナを立て捉えたのである。
 ジャイアト馬場の巨人での投球フォームを知っている。入れない人は隣家の屋根に昇って観戦していた。親父は新しい物好きで車(スバル350CC)購入も早かった。懐かしい時代を思い出す。
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