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2015年12月31日(木) |
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大晦日 |
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今年も大晦日を迎えた。この1年間を振り返って出来事を振り返っては?
残念ながら、いい思いでは浮かばない。政治や国際関係など、あれこれ思い出そうとしても浮かばない。
江戸時代、庶民には「七味五悦三会」(しちみごえつさんえ)と呼ばれる風習があったそうだ。この1年間で体験した七つのおいしい味、五つの喜ばしい話、三つのいい出会いー。これがあったかどうか、大晦日の夜に家族で話し合ったそうだ。
江戸文化に詳しかった故・杉浦日向子さんが広めた研究だ。ともすれば苦い思い出だけかもしれないが、除夜の鐘をききながら、家族で心静かに話し合うのもいい。 |
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2015年12月30日(水) |
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真田丸 |
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来年のNHK大河ドラマ「真田丸」が1月10日スタートする。久しぶりに人気が沸くドラマと期待できる。日本人は真田幸村、源義経ら壮絶な最期を遂げた敗者に熱い想いを寄せる。
殊に、真田一族の末裔ともなれば格別な思いで期待しているに違いない。母校・義塾の理工学部の眞田幸俊教授にとってはスタートが待ちきれないようだ。
眞田教授は松代藩(長野市)真田家第14代当主なのだ。毎年真田10万石まつりで初代藩主信之に扮して登場している。
藩主たる心構えとして、湯に入る際、どのような湯加減でも「いい湯だ」と答えた信之の言葉を、胸に刻んでいる。湯がぬるいーなどといえば、係りの者は面目を失うからだという。
藩をまとめるには、日頃の積み重ねの賜物が現れるもので、見栄を張った”つけ”を領民に課して人望を失い、改易された藩もある。
翻って現代、学生の指導は、できるだけ説明を明快にして利を説き、納得させることに主眼を置いているそうだ。 |
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2015年12月29日(火) |
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今年、鬼籍に入った方々 |
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昨年暮れ、わが顕彰会会員で旧會津藩家老、梶原平馬の子孫景昭さんが亡くなられた。顕彰会発会式に参加してくれ、藩士子孫を代表する人物として先年没した木田孝雄君らと交流していた。
また5月には従兄弟の三輪田圭子さんの義父が101歳の長寿を全うした。
10月には、會津藩の江戸湾防備の調査で世話になった元千葉県中央博物館員の筑紫敏夫さんの父が86歳で永眠した。
9月に急逝した我が妹の年賀欠礼のお知らせに対して、顕彰会員伊東典子さんから「和子ちゃんが亡くなったの」と驚いたはがきが届いた。彼女とは、若松市立2中ー県立会女と同期で、親戚付き合いをしていただけに、妹の急逝はいつまでも心に響く。
また會津会副会長で、會津藩士慰霊祭に出席していただいている福田のぶ子さんから親切丁寧な手紙をいただいた。84歳の高齢ながら、元気で活躍中。「気を落とさないで」と逆に励まされた。會津人の激励に新しい年は胸を張って進もう! |
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2015年12月28日(月) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(31) |
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第2章 義和団事件(7)
「北清事変」で連合軍を組織したのはイギリス、ドイツ、フランス、イタリア、アメリカ、オーストリア、ロシアと日本の8カ国で、日露が主力だった。
6月20日から連合軍による解放まで56日間の籠城戦が始まった。交民港(公使館区域)は紫禁城の南側にあり、粛親王府の周りを各国公使館が取り囲むような形で、広さは約1キロ平方メートル。
ここに、11カ国の外交官、居留民が500名、8カ国の護衛兵が400名、逃れてきた支那人のキリスト教徒ら3000名、支那人召使400名併せて4300名が立て籠もった。 |
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2015年12月27日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(30) |
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第2章 義和団事件(6)
欧米列強の本国は遠く、すぐには救援軍を送れなかった。
「日本が軍隊を出すべきである」
と主張したのは、日本とは協調的なイギリスだった。アメリカも同調した。
しかし、ドイツとロシアは難色を示した。大軍を派遣した国が戦後処理で大きな利権を掴むーという懸念からだった。
結局、隣国日本が連合軍の総兵力2万人のうち大部分を送ることになり、これが後に、日本が支那における列強の仲間入りをすることに繋がった。
日本は広島の第5旅団を派遣することを決めた。
◇ ◇ ◇
このブログに、會津藩士の子孫、若森さんからお尋ねが届いた。先祖を知ろうと苦戦した結果、小生のブログに行き着いたそうだ。
史料を調べたが該当はなく、會津図書館に転送して調査を依頼した。ネットの広がりを今更ながら実感した。若森さんの先祖が見つかりますように! |
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2015年12月26日(土) |
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同日選と消費税 |
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只今、中央政界では共産党が中核になって野党連合が実現しようとしている。来年7月の参議院選挙の熊本県と石川県で野党連合統一候補が立候補するという。「共産党はシロアリ」と発言した民主党の前原誠司元代表らをよそに、共産党が生活の党の小沢一郎らとタッグを組んで自民党に挑戦する。
しかし、待てよ。参議院選挙と同時に衆議院解散ー同日選挙の噂が永田町に流れている。安倍首相は「解散は考えていない」といっているが、衆議院解散では「うそ」が認められている。そうなれば、野党連合など吹き飛んでしまうだろう。
それから消費税だが、政府は再来年4月の10%値上げを前提に話しているが、今の経済状態では「とてもとても」だ。中国の経済状態が後退しているのも不安定な要素だ。恐らく(80%は)値上げはないーと宣言しておこう。 |
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2015年12月25日(金) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(29) |
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第2章 義和団事件(5)
凡そ30万人の義和団が首都で略奪や放火を繰り返し、仕舞いには清国政府も、これと手を結んだ。彼等は外国公使館員も殺した。
明治33年(1900)6月11日、日本公使館書記生杉山彬が殺され、20日にはドイツ公使ケトラーが殺害された。
外国側は手の下しようがなかった。北京に居座るのは義和団であり、それを応援しているのは清国の正規軍なのだ。諸外国の公使館は孤立した。
それだけではなかった。ドイツ公使が殺害された翌日、清国政府は自暴自棄のような行動に出た。
列国に対する宣戦布告の命令を政府軍と義和団に下したのである。北京在住の外国人は、それぞれの公使館に立て籠もった。 |
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2015年12月24日(木) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(28) |
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第2章 義和団事件(4)
彼等は ようやくナショナリズムに目覚めた。「扶清滅洋」という漢民族にしては珍しい国家的な、つまり清王朝を助けようというスローガンが義和団によって掲げられたのは、前述のような事情があったのである。
義和団が白蓮教という土俗的な迷信信仰で統一されたのも、また「洋痍」の宗教に反発する、そういう事情によるものであったろう。
天災も続いた。黄河や淮河(わいが)が氾氾濫して田畑が流され、農民は流動した。渦となって移動を始め、それが義和団になって外国人の土地や建物、施設を襲った。
義和団の騒乱は天地を覆うような勢いで広まり、至る所で政府軍を破り、遂には首都北京になだれ込んだ。 |
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2015年12月23日(水) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(27) |
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第2章 義和団事件(3)
この集団が各地で外国人を襲い、外国商社を焼き払い、さらに鉄道を破壊して、電信所まで壊した。
やがて流民だけでなく、小地主階級までが加わり、中央政府や地方官庁までが陰に陽に彼等を応援するようになった。
キリスト教の大掛かりな進出も、彼らの土俗的な信仰感情を逆なでした。漢民族は、清という異民族(満州族)の帝国に対しては例えば、日清戦争の時のように、無自覚なサボタージュをやって敗れたが、明治30年以降の列強の土地分捕り合戦に対しては別だった。
外国人の敷設する鉄道で農民が土地を奪われるだけでなく、外国企業によって手工業も奪われ、直に被害を受けたからである。 |
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2015年12月22日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(26) |
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第2章 義和団事件(2)
支那の古くからの経済社会を大混乱に陥れ、商品の流入は農民の副業を奪い、鉄道や汽船は船頭や飛脚を失業させた。
あぶれた農民が各地で暴動を起こし、次第に義和団に吸収されてゆくにつれて”蜂起”の範囲も広がっていった。日本では、「北清事変」と呼ばれた。
義和団が攘夷団体であることは「扶清滅洋」という、清国を助け、西洋を滅ぼすというスローガンによっても分かる。
一面では、宗教団体であり、武器として拳だけを用い、指揮官以外は刃物を使わず、拳法を修行することによって神霊が体に乗り移り、刀槍から身を守ることができるという考え方だった。 |
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2015年12月21日(月) |
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待望の會津の日本酒 |
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昨日、遂に會津の銘酒を手に入れた。南會津郡田島町の「国権」である。コクがあって、すっきりしていながら、深い味わいがある酒である。
酒処・會津では、全国的に有名な「花泉」があり、プレミアムがついて辛口は1升1万円もするほど。酒飲みでないと分からないが、そこまで金を払って飲みたい酒だ。
その次が国権だ。石数は小さな酒造だが、なかなかにうまい。3升注文してとったので、暫く楽しめそうだ。
初日は2合徳利で味わったが、スーパーで安売りしている酒と違ってコクが全く違う。お蔭で気持ち良くなり、入浴せずに就寝してしまった。 |
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2015年12月20日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(25) |
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第2章 義和団事件(1)
日露戦争から、時間を10年ほど巻き戻す。舞台は清国。
日清戦争に勝利して遼東半島などを清国から租借した日本は、ロシアなどの三国干渉によって遼東半島を返還した。
その後も清国に対するヨーロッパ列強の侵略はすさまじく、ロシアは旅順、大連を強引に租借し、ロシア艦隊が明治30年(1877)12月、突如、旅順港に入港した。支那人は仰天した。
翌31年3月、ロシアと清国で調印がなされ、遼東半島はロシアのものになった。この頃から、清国の領土が侵食されるのに堪り兼ねた民衆が蜂起した。
列強は支那の領土を奪うだけでなく、鉄道や鉱山の利権を得て西洋の商品が大量に流入してきた。 |
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2015年12月19日(土) |
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會津身不知柿(5) |
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身不知柿の献上は、旧會津藩主松平容保の4男松平恒雄(駐英大使)の息女節姫が昭和3年(1928)9月28日、昭和天皇の弟君秩父宮殿下と婚儀(写真)を上げられた際、お祝いに献上したのが始まりで、以来、毎年皇室に献上している。
秩父宮殿下と節姫の婚儀は會津地方に、かってない華やかさをもたらした。
戊辰戦争で薩長連合軍から「朝敵」の汚名を着せられて以来、過酷な運命をたどったが、お二人の婚儀で過去の恨みは晴れた。
この日、若松市では公会堂で祝賀会が開かれ、児童生徒による小旗行列、夜は市民の提灯行列が盛大に街中を練り歩き、東山院内の松平家御廟はじめ市内の各神社で婚儀奉告祭が行われて市内はお祝いムード一色になった。
翌日もお祝いは続き、全會津地方から集まった3万人が旧鶴ヶ城本丸で盛大な歓迎会が開かれた。(完) |
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2015年12月19日(土) |
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會津身不知柿(4) |
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皇室へ献上する會津身不知柿の箱詰めが會津若松市門田町の北御山集荷所で行われた(写真)。北御山生柿出荷組合の9戸の農家が栽培し、焼酎で1週間ほど渋抜きした3Lサイズ270個を、手袋をした福島県志津地方振興局の職員が1個ずつ丁寧に身磨き和紙でくるんで箱詰めした。
今年の夏は暑かったため例年より糖度が高く、よい甘さにそだったという。
小生宅でも会津にいた頃から、御山の遠藤農園から身不知柿を1箱撮っている。今年の柿は甘かった。おまけに義妹からも1箱届いた。亭主が渋柿を箱詰めしたそうだ。
2箱は食べがいがあった。 |
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2015年12月18日(金) |
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會津身不知柿(3) |
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『若松市史』下巻によれば、500年ほど前(15世紀中頃=室町時代=の會津は葦名時代の第J6代盛氏の時代)、安達郡安達町小浜町(現在の二本松市小浜)の西念寺の住職が修業のため諸国を行脚して支那に渡って帰国した時、種子を持ち帰った。これを捲き、栽培したことに始まる。
その苗木を會津に移植したところ、地味が適していたので結実。非常に良好で殊に甘味、水分の含むこと、品質の優秀なること他に類をみない。
当時の領主葦名氏より将軍(足利将軍J2代義晴である)に献上したところ、「未だかかる美味の柿を知らず」と大いに賞味した。
以来、「味不知」と命名。一説に、枝の折れる程、実るので「身不知」と名付けた。北會津郡門田村が品質良好とされ、俗に「御山柿」という。
◇ ◇ ◇
昨日、夫婦のマイナンバー登録をパソコンで済ませた。12ケタの数字を打ちこむのに手間取ったが、あとは楽だった。小生もデジタル派であることを証明した。 |
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2015年12月17日(木) |
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會津身不知柿(2) |
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會津若松市と二本松市が両交流を促進する機会にしようと、430年ぶりに里帰りが決まった。
植樹式には大内氏が治めていた二本松市の宮森城の家臣・宮森一族の末裔で宮森顕彰会の宮森泰介・花春酒造社長らも出席した。
11月22日、二本松市小浜の西念寺へ電話した。前住職大嶋浄照さん(平成26年8月死去)は、生前から
「柿をもとに會津と交流したい」
と語っていたという。
同寺には『西念寺柿』(渋柿)の木が3本残っており、実は身不知柿より小粒。ほとんど手入れはしていないという。
400年ぶりの里帰りに先代住職の奥さんは
「今後は手入れして會津との交流のシンボルになるよう育てたい」
と話している。 |
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2015年12月16日(水) |
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會津身不知柿(1) |
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會津身不知柿のルーツ、西念寺へ里帰り.
會津身不知柿のルーツとされる渋柿・西念寺柿がある二本松市小浜の西念寺(大嶋憲彰住職)に11月21日、里帰りした會津身不知柿の苗木が植樹された。
西念寺柿は戦国時代の天正年間に小浜城主だった大内定綱が西念寺住職の 夕安(せきあん)上人を中国に留学させ、帰国する際に苗木数本を持ち帰り、育てたといわれる。
その後、伊達政宗に攻められ、天正13年(1585)に會津へ退却した大内一族が持ちこんだ柿の木を大切に育てて品種改良後に現在の會津身不知柿になったとされる。西念寺柿より一回り大きく、甘みが強い。 |
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2015年12月15日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(24) |
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第1章 日英同盟と日露戦争(20)
近代国家として生まれて間もない有色人種の国・日本が、当時世界最大の陸軍大国であった白人帝国・ロシアに勝ったことは、世界中の抑圧された民族に独立への限りない希望を与えた。
中国革命の父、孫文はいった。
「日本がロシアに勝った結果、アジア民族が独立に対する大いなる希望を懐くことになったのです」
エジプトの民族運動の指導者ムスタファ―・カミールは
「日本人こそ、ヨーロッパに身の程を弁えさせてやった唯一の東洋人である」
と絶賛した。
◇ ◇ ◇
本日で「柴五郎」は一時中断し、會津身不知柿に移る。
昭和3年、昭和天皇の弟君秩父宮と、最後の會津藩主松平容保の孫の勢都子姫が婚礼した際、會津名物の身不知柿が献上され、以来、毎年秋に皇室に献上されている。
逆賊とされた會津藩の汚名は晴れたー會津の人々は提灯行列でお祝いした。そうした由来のある柿の歴史を紹介したい。 |
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2015年12月14日(月) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(23) |
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第1章 日英同盟と日露戦争(19)
日本海海戦で日本の大勝利、さらに旅順陥落という有利な場面を捉えて日露講和交渉が始まった。アメリカが仲介してくれたのだ。日本に有利な条件を引き出そうとー。
同年9月、アメリカ・ポーツマスで開かれた講和会議でポーツマス条約が結ばれた。日本は朝鮮の支配権をロシアに認めさせ、遼東半島南部の租借権をロシアから譲り受け、南樺太の領有を確認させた。
ところが、賠償金を得ることができなかったことで、国民の一部に不満が高まった。戦争を続けようにも、国力が限界だった事情を知らない国民が多かったのだ。
この条約締結を不満として暴動が起き、日比谷公会堂などが焼き討ちされた。日露戦争は、日本の生き残りをかけた壮大な国民戦争だった。勝利した日本は自国の安全保障を確立したのである。 |
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2015年12月13日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(22) |
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第1章 日英同盟と日露戦争(18)
この海戦で秋山真之中佐が考案した「T字戦法」が披瀝された。敵前で強引にUターンする作戦だった。
二本の矢のように北上する敵に対して横一文字に遮断して敵の頭を抑えようとしたのである。
「三笠」以下の各艦が次々と回転している間、味方にとっては射撃が不可能で、敵にとっては、極端に言えば静止目標を射撃するほどにたやすい危険な、いわば”賭け”の行動であった。
だが結果からみれば、この作戦は見事に当たった。バ艦隊38隻中撃沈19隻、捕獲、自爆、抑留など全滅に近い状態だった。
ロジェストウエンスキー中将は旗艦から脱出し、洋上で捕獲され捕虜となった。 |
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2015年12月12日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(21) |
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第1章 日英同盟と日露戦争(17)
日露戦争は陸上では決着がつかず、明治38年(1905)5月27日の日本海海戦によって一挙に決まった。
柴五郎と共に米西戦争(アメリカとスペイン)を観戦した海軍の秋山真之中佐が作戦参謀として旗艦「三笠」に乗組んだ。
先祖である伊予松山の河野水軍(小生の先祖)の戦術から編み出した「T字戦法」でバルチック艦隊を全滅させたのは、有史以来の勝利であった。以下の記述は司馬遼太郎著『坂の上の雲』に詳しい。
日本海で我が聯合艦隊とバルチック艦隊が激突したのは5月27日午後2時。旗艦「三笠」で作戦の指揮を執っていた秋山真之中佐は大本営に打電した・
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃滅セントス」の後に
「本日天気晴朗ナレド波高シ」
という、あの有名な電文を書き加えた。
聯合艦隊司令長官東郷平八郎率いる50隻の大艦隊が敵を待ち構えた。 |
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2015年12月11日(金) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(20) |
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第1章 日英同盟と日露戦争(16)
乃木は倒されても倒されても、同じ戦法で真正面から攻めた。犠牲者は2万数千人にも上った。
たまりかねた陸軍参謀次長児玉源太郎が乃木に変わって指揮を執り、本国の沿岸防備用の巨砲を据えて203高地を攻撃し、ようやく陥落させた。
中国本土でも日露両国の戦いが展開された。奉天のロシア総司令官はクロパトキン大将だった。
明治38年(1905)の奉天作戦で、會津出身の陸軍大佐柴五郎は野戦砲兵第15連隊長だったが、この戦いで頭部に銃弾を受けて負傷した。
柴五郎は一時帰国し、手当てを受けていた時に戦争は終わりを告げた。翌年5月、イギリス大使館付駐在武官になり、勲2等金鵄勲章が授与された。大使は北京で一緒だった小村寿太郎だった。
◇ ◇ ◇
昨夜のBSフジで石原慎太郎、堺屋太一、渡部昇一が登場。中国問題や戦後70年などで面白い話題を紹介した。連合国軍最高司令官マッカーサーが昭和26年ごろ、米上院で「日本は自衛のための戦争だった」証言した、というのだ。
さすがに堺屋は「昭和12年ごろまでは自衛のための戦争だった」と話していたが、マッカーサー証言が生かされるなら、東京裁判は何であったのか?全員無罪にすべきだったのではないかーという疑問が生まれる。歴史は正しく学ぶべきだ。 |
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2015年12月10日(木) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(19) |
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第1章 日英同盟と日露戦争(15)
日本陸軍はバルチック艦隊が到着しないうちに旅順港にいる太平洋艦隊をたたくべく、旅順攻略にかかった。203高地を巡る攻防が最大の激戦となった。
遼東半島の先っぽにある大連に上陸した乃木大将率いる第3軍が旅順攻略を分担した。
旅順の町の後方にある203高地を攻略しなければ旅順は落とせない。旅順を守るロシア側はステッセル中将麾下将校800名、下士官など2万7千人併せて3万5千人。物資は2か月分以上も用意しており、長期の籠城に耐え得る態勢で迎え撃った。
第3軍は最新式の銃器で迎え撃つロシア軍を、下から這い上がって攻撃した。上から狙い撃ちできるためロシア側は断然有利だった。第3軍の兵士はバタバタ倒れた。
◇ ◇ ◇
焼け跡闇市派といわれた作家野坂昭如が9日夜、亡くなった。85歳であった。TBSラジオの永六輔の番組(月擁)で、「野坂昭如からの手紙」を毎週堤高し、戦中、戦後の話題などを描いていた。多分、病床にあって奥さんに口述筆記させていたのだろう。
小沢昭一に続いて六輔の友人が去ってゆく。多分、14日夕の放送で、六輔は大泣きするだろう。六輔もパーキンソン病なので日々衰えている。 |
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2015年12月09日(水) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(18) |
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第1章 日英同盟と日露戦争(14)
同時にイギリス政府は本国艦隊のみならず、海峡艦隊と地中海艦隊に対して臨戦準備を命じた。日英同盟が効いてきたのである。
イギリスの新聞はバルチック艦隊を
「海賊」
と呼び、ロシアの蛮行を世界中に打電した。
バルチック艦隊が最初に寄港したのはスペインのヴィゴ港だった。石炭を積もうとしたところ、スペインの官憲が乗り出してきて、
「わがスペインは局外中立国である。その中立港で石炭を積むのは困る」
ということになり、この港での石炭積み込みに5日間足止めを食った。 |
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2015年12月08日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(17) |
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第1章 日英同盟と日露戦争(13)
バルチック艦隊の正式名は第2太平洋艦隊だ。最大最新鋭の戦艦4隻を含む戦艦7隻、巡洋艦8隻、駆逐艦9隻、これに第3太平洋艦隊の戦艦1隻などが加わり、総数40隻となった。世界最大最強の艦隊であった。
途中、北海を通過中、この艦隊は異常な、あるいは「狂った」としか思えない行動をとり、世界中の非難を浴びた。
夜間、イギリスの漁船の一本煙突を日本の水雷艇と誤認して、すべての軍艦が探照灯をつけ、大砲を撃ちだした。
幸い、砲弾は漁船に命中せず、小さな漁船の乗組員は帰港後、
「ロシア人たちが狂犬病のように砲弾を撃ち込んできた」
と語ったから、噂は瞬く間に世界中に広まった。
イギリス政府は、自国民に加えられた侮辱と残虐に鋭く対応した。
「問題が解決するまでバルチック艦隊の航海を停止せよ。無視して航海を続けるなら1週間以内にイギリスは、ロシアと交戦状態に入ることを覚悟せよ」
という厳しいものだった。 |
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2015年12月07日(月) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(16) |
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第1章 日英同盟と日露戦争(12)
こうして日露戦争が始まった。陸軍は司令長官に大山巌元帥を指名した。
第J軍 司令官黒木為驕iためとも)大将
第2軍 司令官奥保鞏(やすかた)大将
第3郡 司令官乃木希典大将
第4軍 司令官野沢道貫大将
の各部隊編成を終えた。
乃木は、後に旅順の203高地攻略作戦で、陸軍が空前絶後の甚大な被害をうけることになる。第2回総攻撃に失敗し、死者は2万数千人に上った。
「乃木を更迭せよ」
という声が陸軍のみならず、国民の間からも起こった。
一方、ロシアはー。バルチック艦隊がバルト海のリバウ港を10月15日に出航。はるか極東の果てまで1万8千哩(約3万3千300`メートル)の征旅についた。
旗艦スワロフに乗ったロジェストウエンスキー中将が堂々たる姿で周囲を威圧する。 |
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2015年12月06日(日) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(15) |
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第1章 日英同盟と日露戦争(11)
こうした両国の事情を背景に、の本は明治37年(1904)2月4日の御前会議でロシアとの開戦を決定した。続いて2月6日、ロシアに対して国交断絶を宣言した。
東京で同日、外相小村寿太郎がロシア公使ローゼンを外務省に招き、国交断絶を通告した。
ロシアは9日に、日本は10日にそれぞれ宣戦布告した。制海権の争奪戦が直面する問題であった。旅順港にいるロシアの極東艦隊、正しくは太平洋艦隊と、本国にいるバルチック艦隊を合体させない。
そのために、まず、極東艦隊を沈め、次いでバルチック艦隊を迎え撃つという二段構えの作戦が、いわば日本の生命線であった。
一方、ロシアは外交交渉中の明治36年10月24日、極東における皇帝の代行者アレクセ―エフが対日作戦を本国に提出し、同月31日、皇帝の採決を得た。
11月8日、詳細な案が出来上がり、翌年1月1日、陸軍大臣クロパトキンのもとで成案ができ、皇帝は裁可した。
◇ ◇ ◇
本日の読売新聞日曜版で江戸時初期の「島原の乱」を取り上げている。徳川幕府が成立してまだ220数年の寛永14年(1637)秋。領主松倉勝家の過酷な年貢取り立てに耐えかねて島原半島南部の37000人の農民が他立ち上がった。天草四郎を盟主に頂き、キリスト教信者が終結した。
松倉は反乱を抑えきれず、改易されるが、この時、江戸城にあった會津藩主保科正之は直ちに會津へ戻る。反乱鎮圧の大将にー望む家臣たちに正之は諭す。
「西に乱あれば、東に備えよ」
が神君家康公の遺言であると。奥州では仙台の伊達政宗ら外様大名も多く、不安に備えたのである。 |
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2015年12月05日(土) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(14) |
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第1章 日英同盟と日露戦争(10)
日本では、国民感情はまさに好戦的だった。7人の帝大教授が桂太郎首相に面会を求め、
「速やかにロシアとの開戦を決意されたし」
と迫る場面もあった。
着々と迫るロシアとの開戦気分に陸軍参謀次長の児玉源太郎は、如何にロシアに勝つかーの作戦を練る日々が続いた。
児玉の考えはこうだ。
ー陸軍を朝鮮のしかるべき拠点に上陸させ、北朝鮮にいるロシア軍を鴨緑江以北に駆逐する。
これが第1期作戦。これに勝つため、ロシアの兵力の2倍の兵を送りこむ必要がある。
海軍大臣山本権兵衛は海軍の方針を決定していた。
「日本の軍艦の半分は沈める。人も半分殺す。残る半分でロシアの軍艦を全滅する」
という大胆なものだった。
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本日の読売新聞「昭和時代」第5部で昭和天皇崩御を扱っている。昭和62年(1987)4月から体調を崩されたが、皇室は「がん」だとは公表しなかった。「下血」状態が続き、マスコミ各社は長期戦となった。皇居の各門、東宮御所などに記者、カメラマンを張りつけたが、本社では間に合わず、全国から記者を駆り出した。
当時、長野支局長で、若い記者、それも都内に自宅のある記者を1週間交代で応援に出したことを思い出す。「下血」が日々の紙面をにぎわした。昭和から平成への節目の時間だった。 |
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2015年12月04日(金) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(13) |
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第1章 日英同盟と日露戦争(9)
強大国ロシアは、弱小国日本が
「気が狂わない限り、我が国と戦いなど決意するはずがない」
と思いこんでいた。
この方針に従ってロシアは旅順の要塞を強化し、シベリア鉄道で兵力をどんどん満州に送りこんでいた。「銃剣外交」の威力を高めるためだった。
極東総督アレクセ―エフは、ロシア廷臣の中でも侵略の急先鋒の一人で、日本の妥協案を皇帝ニコライ2世に送る際、
「日本は小国である。兵も少なく、財政も貧困である。その小国がロシアのような大国に対して虚勢を張っているのは、英米、とりわけ英国の扇動によるものである。当の英国は、万一、開戦の場合、日本に助勢して立ち上がる決心はない」
という意見書を添えた。
こうしロシア国内の事情から12月11日の回答は
「にべもない」
内容となった。
ロシアが占拠している満州には触れもしないばかりか、朝鮮の半分を寄越せーを繰り返していた。交渉は絶望的だった。 |
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2015年12月03日(木) |
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辺野古代執行訴訟初弁論 |
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沖縄県の米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古への新基地建設を巡り、翁長知事が埋め立て承認を取り消したことに対し政府が取り消しの撤回を求めた訴訟の第1回口頭弁論で2日、翁長知事は「銃剣とブルドーザー」による強制的な埋め立てが行われている、と、沖縄の基地負担の歴史を訴え、「日本には本当に地方分権や民主主義が存在するのか」と問うた。
この訴訟は国と地方との争いだけではなく、日米関係を含む外交問題にも関連しており、司法の場で決める性質のものではないと思う。
仮に沖縄県が敗訴した場合、翁長知事夫妻はキャンプシュワブ前に座りこむ決意を表明しており、数万人も参加したら流血の惨事が予想される。
その時、政府はどう対応するのか?不安だ。 |
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2015年12月02日(水) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(12) |
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第1章 日英同盟と日露戦争(8)
これに対してロシア側は
「本国政府はは取り扱わない。極東外交は、すべて旅順にいる極東総督エレクセーエフに権限を与えている」
と、頭から問題に取り上げない姿勢であった。
10月6日から小村寿太郎外相が駐日ロシア公使ローゼンに談判したが、ロシア側は日本案を黙殺した。
「朝鮮の北緯39度以北を中立地帯にしたい」
という返事。要するに平壌から以北をロシアの勢力下におくーという内容で、
「朝鮮の半分はロシアのものだ」
と言ってきたのだ。
この頃、ロシアのニコライ2世の宮廷を牛耳っていたのは侵略主義者らであった。穏健派と見られていた内務大臣プレーヴェですら
「極東問題の如きは、よろしく外交官のペン先よりも軍人の銃剣で解決すべきだ」
と発言していた。
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東京新聞は存在するのか?
答えはノーだ。東京新聞は20数年前に倒産し、名古屋の中日新聞が買収したのだ。題字を「中日新聞」にすると警視庁記者クラブなどに入会拒否されるため東京新聞のままなのだ。
商法上は存在しない新聞を名乗っているのはおかしな話だ。「中日新聞」として堂々と論陣を張ればいい。 |
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2015年12月01日(火) |
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不撓不屈の武士・柴五郎(11) |
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第1章 日英同盟と日露戦争(7)
このまま黙視すれば極東におけるロシアの軍事力は、日本が到底、太刀打ちできないほど増強されるのは明らかだった。
桂太郎首相は手遅れになるのを畏れてロシアとの戦争を始める決意を固めた。強力な軍事力をもつイギリスと同盟を結んだことが大きな後ろ盾となった。
日本政府がロシアに対して開戦の肚を固めて最終的な交渉を始めたのは明治36年(1903)の夏であった。
ロシアとの協議策を6月23日の御前会議で決定し、8月12日、ロシアの首都ぺテルスブルグにいる粟野公使を経てロシア政府に提出した。
「清・韓両帝国の独立及び領土保全を尊重すること」
「ロシアは朝鮮における日本の優勢な利益を承認すること。その代りに日本は、ロシアの満州における鉄道経営の特殊利益を承認する」
ことなであった。
日本は歴史的段階として朝鮮に固執しなければならず、これを見捨てれば日本そのものがロシアに併合されるーことを畏れたのだ。 |
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