会津の歴史
河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2014年02月28日(金) 幕末、木更津は会津藩領だった(9)
 4月28日から村々の巡見が行われた。一行は、富津陣屋の陣将一瀬傳兵衛以下、番頭兼軍事奉行黒河内十太夫、郡奉行石橋忠兵衛ら総勢100余名。長持ちや荷駄運搬のための人足が休息や小休止するごとに26人ずつ動員された。
 この巡見をもとに、翌嘉永4年(1851)6月、次の3か条のお触れが代官所から村々に通達された。
 @年貢諸役の上納の期日は、房総分領内すべて統一し、3分の一ずつ6月10日、9月10日、12月10日の3回に分けて収めること。
 A博打は禁止
 B出入り、祈願の取り扱いについて村役人は、村内を「教導」すること。
陣将
2014年02月27日(木) 幕末、木更津は会津藩領だった(8)
 さらに4月27日付けで、村内で新田の開墾などがあれば、反別、地味などを大至急、報告せよと、指示している。望陀郡高柳村から提出された上申書では、従来の耕作地を詳しく報告し、このほか、開田の予定はありませんーとなっている。
 これでわかるように、会津藩は村々の耕地を把握し、高外の年貢が可能かどうか、調べて年貢の増収を図っている。

      ◇   ◇   ◇
 本日、鶴ヶ城保存の大恩人、遠藤敬止翁のお孫さんにあってきた。千葉県市原市にお住まいで、79歳ながら元気で、たまには会社に出て面倒もみているとか。
 お会いしたのは、鶴ヶ城が明治新政府によって売却されそうになった際、多額な私財を投じて、内堀内の85000坪(約28万平方メートル)を一括して買い取り、旧藩主の松平家に寄付した恩人遠藤敬止なのに、一部ネットでは、「寄付を集めその代表だった」などという誤りが書き込んであるためだ。
 とんでみないことが、「まことしやかに」捻じ曲げられているのだ。どうしても真実の遠藤敬止の姿を訴えたい、とお孫さんに訴えた。
 近く、『會津人群像』で発表したい。乞うご期待!
2014年02月26日(水) 幕末、木更津は会津藩領だった(7)
 前記の通達とともに、会津藩代官所から村々へ村方支配に関して詳細な指示が出された。要約すれば、郡役所や代官所の役人が領内を回る際は、「不敬」のないようになどだ。
 1、各村の組頭は「地首」と改称する。
 2、家老、奉行と同名の者は改称する。
 3、名主は羽織、脇差、上下を許し、地首には、羽織、脇差を許す。
 4、五大力船、押送船、漁船を区別して村ごとに船数を報告する。
 いってみれば、会津藩が、藩独自の支配方式を強制し、村々の実態を把握しようとしたのある。今考えれば、かなり強引なやり方だ。
 次いで、近く、郡奉行や代官らが領内を巡検すると予告し、郡奉行が村々の名主を富津陣屋に招集した。
 「時節柄、猶予難ク相成り儀候(以下略)」
と、対外的な危機に緊張した情勢なので、非常時の論理で、新しく領地となった村々を一刻も早く防備の動員体制の末端に組み込もうとした。
2014年02月25日(火) 幕末、木更津は会津藩領だった(6)
 会津藩は、この村々に対して嘉永3年4月、外国船来航時の心得を通達した。江戸湾防備を優先させ、優れて働きの良い者は御家人にも取り立てるーとしている。
 富津市富津の長秀寺に眠る会津藩士のうち正面にみえる墓石1基には「會津家臣 水主頭安楽源助妻」の名前があるが、現地で徴用した水主頭を家臣として取り立てたことを示している。
 この通達は、郡役所を通して各村へ廻燵された。その第1条で、外国船来航時に、村々への連絡方法と、「寄せ船」(船の集合場所)、「寄人足」(人足の集合場所)を具体的に指示している。
 例えば、大堀村と人見村は富津台場へ、その他は木更津海岸へーなどと細かに定めている。その他、外国船来航は陣屋へ注進することも義務付けている。
2014年02月24日(月) 幕末、木更津は会津藩領だった(5)
 前記に対する幕府の回答があったのは、半年も後の12月28日だった。会津藩が増領を望む理由は分かるので、富津台場付近の6千石程度の領地を与えるーことが決まった。具体的な指示があったのは、年が明けて嘉永3年(1850)2月14日。
 内容は、上総国周准郡、望陀郡のうち6千石を分領とするーとし、具体的な村々の名前、村高が明らかになった。望陀郡では、木更津村146石、吾妻村372石、中里村150石など高柳村まで、周准郡では大堀村から人見、大和田、畑沢、中富村まで併せて18か村6537石が新たに会津藩領となった。
 木更津村の北隣の吾妻村には出番所(主張所)と兵器小屋が建設された。現在の自衛隊木更津補給処あたりで、木更津は昔から「軍」との関係が強かったのだ。
2014年02月23日(日) 幕末、木更津は会津藩領だった(4)
 この訴えの中で、黒河内は、異国船が富津台場より内海に侵入した場合、海岸付近には西川村(富津市)しかなく、防備の後背地となる場所がない、と「木更津以南の村々を領地に含めてほしい」と要求した。
 この訴えは浦賀奉行所を通じて江戸城の老中阿部正弘に内々に伝えられたが、幕府からの反応はなかった。
 この間にも、嘉永元年(1848)4月に、イギリス船「マリナ―号」が浦賀に来航し、江戸湾を強引に測量し、深さなどを測った際に、会津藩だけでなく、安房国防備の忍藩(武蔵)や対岸の三浦半島防備の川越藩(武蔵)、彦根藩(近江)からも御用船が出動して水主を駆り出し大きな負担となったのである。
 この時、かかった費用(過去の賃銭など)が各藩へ渡されたのは8月になってからだった。予想を超える出費に会津藩では再度、木更津以南の村々を会津藩領とするよう要求した。今度は藩主松平容敬名で、海防掛老中阿部正弘宛だった。
2014年02月22日(土) 幕末、木更津は会津藩領だった(3)
 会津藩は弘化4年(1847)8月、領内の村々の名主らを呼び出し、村役人のうち「組頭」を「地頭」と、呼称を改めることを申し渡した。会津藩のご家風や支配方式にすることを押し付けて、領内支配を確立することに努めた。実際の支配は、郡役所(郡奉行)−代官所ー村役人という系統になった。
 家臣やその家族の移動や陣屋、台場(砲台)の設営などで、会津藩の出費は膨らみ、嘉永2年(1849)までに金8万5千両余、米2万8千余表もかかった。
 この前年の正月、浦賀奉行から会津藩へ郡奉行を出頭させてーとの要請で、富津陣屋の番頭兼軍事奉行、黒河内十太夫が浦賀に出向いた。
 黒河内は、軍事演習で荷物運搬に人足を集めるのに苦労しており、御用船の水主の動員にも不安が残るーなどと訴えた。
会津藩富津陣屋
2014年02月21日(金) 幕末、木更津は会津藩領だった(2)
 会津藩が上総国(富津市)の沿岸防備を担当したのは、弘化4年(1847)からペリーが来航した嘉永6年(1853)までの7年間だった。
 会津藩は富津と竹岡にそれぞれ陣屋と砲台を築き、富津陣屋には、家老、番頭以下船方まで111名が家族同伴で詰め、竹岡陣屋には、番頭以下101名を派遣した。
 富津陣屋には、鉄砲113丁、弓20張など、竹岡にも鉄砲100丁、弓20張を備えて外国船からの防備にあたった。
 これらの費用を賄うため、幕府は安房国平郡、上総国周准郡、天羽郡のうち15,000石を会津藩領地とした。領地を与える代わりに、会津藩領の既存の領地から、その分を召上げるーという、厳しい沙汰だった。
 このほか、費用として幕府から1万両が下付された。
2014年02月20日(木) 幕末、木更津は会津藩領だった(1)
 幕末の一時期、千葉県木更津市が会津藩領だったことをご存じか?會津の多くの人は知らないであろう。以下、当時の模様を交えて報告する。
 幕末、蝦夷地から長崎までの海岸線に外国船が次々来航し、薪や飲料水、食糧の補給を求めた。そして嘉永6年(1853)6月、アメリカ・東インド洋艦隊司令長官ペリー提督の来航による開国要求を迎えて異国船来航は最高潮に達した。
 その旅にトラブルが発生し、長崎奉行が切腹したり、蝦夷では、ロシア船が領民に危害を加えたりして、被害が広がった。
 このため幕府は、諸藩に対して海防に努めるようお触れを出した。特に徳川幕府の喉元である江戸湾を防備するため、文化7年(1810)から慶応年間まで三浦半島(相模国)と房総半島(上総、安房国)に、それぞれ担当の諸藩を決めて防備を命じた。
 会津藩は親藩であったため、蝦夷地防備から江戸湾防備、さらに品川台場防備まで約60年間にわたって幕府の藩屏となってきた。
2014年02月19日(水) 若松町役場の会津藩士(60)
 ◇屋敷町(下)

平山 角吉(嘉永元年7月生まれ) 42歳
岩田 伝八(天保4年7月生まれ) 56歳
高橋 清次(文久3年12月生まれ) 26歳
鈴木 三郎(嘉永6年3月生まれ) 37歳
太田  巽(明治14年6月生まれ) 9歳
                以上16人
(南横町の北に並ぶ、長さ1町35間=170メートル、幅3間=5,4メートル。戸数39戸。蒲生氏郷の老母が居住した屋敷があったので地名に。寛永の頃=1624〜44=までは、この屋敷が残っていた。宮町に)

      ◇   ◇   ◇
 藩士名が長く続くので、ここらで一息いれる。明日から、幕末、千葉県木更津は会津藩領だったことを書き込む。会津藩が江戸湾防備で7年間、富津に駐留した際、役料として幕府から木更津を会津藩に与えられた。その頃の木更津は〜?
2014年02月18日(火) 若松町役場の会津藩士(59)
 ◇屋敷町(中)

赤塚惣太郎(天保4年4月生まれ) 57歳
丸山 丑彦(安政6年3月生まれ) 31歳
吉田辰之進(天保3年6月生まれ) 58歳
小山八之進(慶応元年2月生まれ) 25歳
木村寅之助(天保6年11月生まれ) 54歳
赤井亀五郎(安政4年正月生まれ) 33歳

      ◇   ◇   ◇
 自分の証明ー自分のことを区役所で証明することは不可能になる!!こんなことが世の中でまかり通っている。今年はパソコンを新しく購入したので、etaxで確定申告をしようとしたら、住基カードが必要ーというので千葉市稲毛区役所に電話した。本人が行けないので代理人をやるーと言ったら、本人でないとダメ。それも顔写真のある公的カードでないとダメ。
 こちらは脳溢血で倒れて以来、免許証は返上したし、健康保険証しかないーというと、委任状を持たせろ、本人が動けない、医師の診断書をつけろ、などまったく馬鹿馬鹿しい応答振り。
 高齢者が多くなり、顔写真つきカードなどない人が多いはず。犯罪予防と言いながら高齢者いじめの千葉市役所だ。熊谷市長の頭を殴ってやりたい。
2014年02月17日(月) 若松町役場の会津藩士(58)
 ◇屋敷町(上)

長野 重三(明治20年4月生まれ) 3歳
相田 重治(文政6年2月生まれ) 67歳
今井 三郎(天保7年12月生まれ) 53歳
松原又次郎(天保5年3月生まれ) 56歳
渡部 治郎(弘化元年3月生まれ) 46歳

      ◇   ◇   ◇
 今年の天候は、まさに異常だ。大雪を降らせた低気圧が水曜日から本州を襲うという。地球規模で温暖化が進んでいる証左であろう。
 脳溢血で不自由な体になった今、困るのは雨、雪だ。右手に杖で歩行し、左手では傘を持てないからだ。本当に不自由だ。片輪にならんと常人にはわからない。
2014年02月16日(日) 若松町役場の会津藩士(57)
 ◇南横町(下)

金成小次郎(明治元年4月生まれ) 22歳
貝尾 留吉(文久元年6月生まれ) 29歳
中川 子寿(明治16年正月生まれ) 7歳
島林伝之進(天保3年7月生まれ) 58歳
五島裕三郎(寛永4年12月生まれ) 30歳
平野権之助(文政12年11月生まれ) 60歳
                以上12人
(横三日町の南端から東に折れて台町に至る長さ2町=218メートル、幅4間=7,2メートル。戸数46戸。宮町に)

     ◇   ◇   ◇
 昨日15日の夕刊紙上で懐かしい文字が飛び込んできた。東急東横線の電車追突事故だ。発生場所が「川崎市中原区木月」、「元住吉駅」。塾に通っていた時、木月の下宿があった元住吉駅から隣の日吉駅まで乗っていた電車だ。
 当時はペギー葉山の「南国土佐を後にして」が大流行していた。近くの銭湯では法政の運動部員とたまに一緒になったが、「背中を流させていただきます」と後輩が先輩の背中を一生懸命、流していたなあ!
2014年02月15日(土) 若松町役場の会津藩士(56)
 ◇南横町(上)

山崎 主計(天保7年9月生まれ) 53歳
外井長五郎(安政6年2月生まれ) 31歳
山田 善八(天保3年9月生まれ) 57歳
徳力喜代治(文政10年11月生まれ) 62歳
竹下  登(弘化4年3月生まれ) 43歳
三澤 勇記(文政10年6月生まれ) 63歳
(元首相と同姓同名がいた)

      ◇   ◇   ◇
 昨日から降り始めた雪も未明から雨になり、気温の上昇とともに、溶け始めてる。が、依然として道路、列車などに不通箇所がでている。
 この雪が東北地方に移り、わが故郷・會津では、風雪が強まり、残っている雪にさらに降り積もっている。今年は異常気象が地球規模でやってきている。
 會津の皆さん、十分、気を付けて、まだ見えぬ春の訪れをお待ちあれ!
2014年02月14日(金) 若松町役場の会津藩士(55)
 ◇横三日町

大塚 市松(文政5年6月生まれ) 68歳
西東 義雄(安政5年12月生まれ) 31歳
上野伊之助(天保3年8月生まれ) 57歳
                以上3人
(六日町の東に並び、南は三日町、北は竪三日町に至る長さ2町34間=280メートル=、幅5間=9メートル。戸数10戸。維新前、3、13、23の日に市が立った故、町名に。行仁町、宮町に変更)
2014年02月13日(木) 若松町役場の会津藩士(54)
 ◇鳥居町

小沼 寅二(明治11年7月生まれ) 12歳
本木猪三巳(弘化4年11月生まれ) 42歳
岩田 清吉(弘化3年10月生まれ) 43歳
広川力四郎(元治元年12月生まれ) 25歳
                以上4人
(六日町の南端から東の方、横三日町に至る東西2町11間=237メートル、幅3間=5,4メートル。戸数20戸。昔、伊佐須美神社の境内に大きな鳥居があったので町名に。文禄年間=1592〜96=、この地に遊郭を営む時、社地を削って町を置いたが、鳥居は町中にあったので、残したという。この鳥居は慶長6年=1611=の地震で悉く砕け倒れた。現在は、その基礎石が残っている。何の意味もない宮町に)
2014年02月12日(水) 若松町役場の会津藩士(53)
 ◇槻木町

榎本  清(嘉永3年12月生まれ) 39歳
高橋 祐助(文政3年12月生まれ) 69歳
高橋裕次郎(嘉永3年11月生まれ) 39歳
                以上3人
(鳥居町の北で、長さ1町53間余=240メートル、幅3間=5,4メートル。戸数35戸。昔、この地に大きな槻の木があったことから町名に。上町、行仁町、宮町に変更)

      ◇   ◇   ◇
 戊辰戦争後に鶴ヶ城が破壊され、跡地が売りに出された時、私財をなげうって買い取り、旧藩主松平家に取り戻した主役遠藤敬止翁を演劇に書きたいとブログを通じて訴えてきた會津の高校教諭の要望に応えて敬止翁のお孫さんに電話した。
 表に出ることを極端に嫌った方で、公表されることを嫌がった、そうだ。
 「己こそ〜」という今の世の中で、こんな人物は稀有だ。それに慶応義塾の大先輩というのも嬉しい。
 お孫さんに、近日中にお会いすることになりそうだ。
2014年02月11日(火) 若松町役場の会津藩士(52)
 ◇竪三日町(下)

小沼 力衛(弘化3年7月生まれ) 44歳
羽生 鎌譲(天保4年6月生まれ) 57歳
八島 守衛(安政元年7月生まれ) 36歳
相原幾之助(文政11年4月生まれ) 62歳
須田 三郎(明治21年4月生まれ) 2歳
高木勝太郎(慶応2年2月生まれ) 24歳
遠藤豊三郎(弘化3年3月生まれ) 44歳
長谷川熊八(文政6年11月生まれ) 66歳
                以上18人
(槻木町の北に並び、東は千石町より西は上一之町に至る長さ4町41間=510メートル、幅4間=7,2メートル。戸数99戸。昔、3,13,23の日に日市がたって町名に。町中に鶴清水あり。俳優故・佐藤慶さんの奥さんが住んでいた。上町、行仁町に変更)
2014年02月10日(月) お粗末な読売新聞
 今朝の読売新聞を開いて首を傾げた。東京都知事選の候補者別の得票が載っていないーからだ。隅々まで調べたが、遂に出てこなかった。確定でなくとも途中経過「何時現在」で掲載するのが常識である。
 頭にきて読売新聞本社の読者センターに電話したら、なんと「制作の都合で載せませんでした」という、トンチンカンな答え。
 「途中経過まで載せないのは、知りたい読者を愚弄する」というと、前言を繰り返すだけ。
 ネットで舛添が211万票、宇都宮が半分以下の98万票、小泉が推した細川はなんと3位で95万表、田母神が61万票。細川が原発ノーのワンイシュー(単一争点)選挙に持ち込もうとした運動は有権者から拒否された。
 それにしても、こんな無様な紙面を作っていては、ナベツネがいう「1000万部回復」など夢物語。部数もどんどん落ち込んでいるという。当然だ。
2014年02月09日(日) 若松町役場の会津藩士(51)
 ◇竪三日町(上)

渡部源四郎(弘化3年10月生まれ) 43歳
三善 満吉(嘉永4年9月生まれ) 38歳
渡部 四郎(安政5年9月生まれ) 31歳
鈴木 武蔵(安政5年12月生まれ) 31歳
安東 周蔵(嘉永3年9月生まれ) 39歳
五島記夫男(明治20年8月生まれ) 2歳
村上千代吉(天保8年2月生まれ) 59歳
渡部勝四郎(明治元年7月生まれ) 22歳
武藤 常彦(明治元年2月生まれ) 22歳
高橋 大吾(安政3年12月生まれ) 33歳

      ◇   ◇   ◇
 一夜明けた本日は一面銀世界。目線の公園の木々も雪をかぶって枝が重そうに垂れている。折れそうな枝もある。こんなに雪が積もったのは30年ぶりだとか。記憶にないなあ!
 子供たちは雪だるまを作って大喜び。元気な声が聞こえてくるのは久しぶりだ。
2014年02月08日(土) 若松町役場の会津藩士(50)
 ◇本郷町

沖田 弥一(文政3年11月生まれ) 69歳
池上勝太郎(弘化2年11月生まれ) 44歳
古山 直吉(文政11年3月生まれ) 62歳
佐藤磯之助(文政3年3月生まれ) 70歳
鈴木亀太郎(明治8年4月生まれ) 15歳
川柳伊佐之助(天保元年4月生まれ) 60歳
新藤  庸(万延元年5月生まれ) 30歳
只木 丈八(嘉永2年5月生まれ) 30歳
松川栄次郎(元治元年12月生まれ) 25歳
十倉儀三郎(天保14年6月生まれ) 47歳
                以上10人
(堅三日町の北、東は行人町から西は中六日町に至る長さ59間=106メートル、幅4間=7,2メートル。蒲生氏郷時代、向羽黒山の麓、本郷町から移住させた人が多く住んでいた。上町と行仁町に変更)

      ◇   ◇   ◇
 今朝未明から雪が降り続いている。目線の公園の木々が真っ白だ。何年振りだろう。郷里・會津を思い出す。會津では、お茶やお花の稽古に来るお弟子さんのため、表通りまでの20メートルの雪片付けに追われた。
 下着まで汗だくになりながらの作業が懐かしい。今は、買い物に行く妻に「滑らないように気を付けて」と言葉をかけるだけ。
2014年02月07日(金) 若松町役場の会津藩士(49)
 ◇寺町(下)

 竪三日町の北で、千石町の末から西は行人町に至る、長さ1町38間=175メートル、幅4間=7メートル。戸数32戸。『若松風俗帳』には「此町旧北町寺院多し、故に寺町と名附」とある。
 この町に属する寺院は、浄土宗本覚寺、一向宗真龍寺がる。河井某という者菩提心を起こして大坂の石山本願寺で得度を果たし、天正3年(1575)春に開基したが、寺では第10世善順を以て中興としている。
 元治元年(1864)京都・蛤御門の戦で、長州の敗兵が西本願寺に逃げ込み、會津兵が追ってきて寺の焼き討ちを図ろうとした際、修行中の善順が身を捨てて會津兵を説得して本山の危機を救った。
 4年後の戊辰戦争で会津藩が敗れ、猪苗代に謹慎していた山川健次郎と小川亮の二人を寺男に紛争させて越後に脱出させ、長州藩士、奥平謙輔に二人の将来を託した。健次郎は後の東京、京都両帝国大学総長などを歴任したわが国初の理学博士である。

2014年02月06日(木) 若松町役場の会津藩士(48)
 ◇寺町(中)

白岩 嘉吉(明治8年7月生まれ) 15歳
内藤善悪衛(万延元年9月生まれ) 29歳(註)
柴山鎌次郎(天保9年12月生まれ) 50歳
佐川 涓所(明治2年3月生まれ) 21歳
磯上 庫吉(安政4年10月生まれ) 32歳
添島 武治(安政元年7月生まれ) 36歳
                以上16人
(註)内藤は、名前に「善」と「悪」が一緒についている。
2014年02月05日(水) 若松町役場の会津藩士(47)
 ◇寺町(上)

秋葉 恒喜(元治元年10月生まれ) 25歳
小池 助作(弘化4年12月生まれ) 42歳
結城 平治(明治12年8月生まれ) 11歳
三橋弥太夫(天保6年10月生まれ) 54歳
平野九郎右衛門(文政8年8月生まれ) 64歳
有坂竹之助(慶応3年正月生まれ) 24歳
船田 円治(天保10年2月生まれ) 51歳
相沢 尚秀(明治19年11月生まれ) 3歳
佐野貞之進(天保11年11月生まれ) 49歳
佐野吉三郎(元治元年3月生まれ) 26歳
2014年02月04日(火) 若松町役場の会津藩士(46)
 ◇東名子屋町(下)

野田 一甫(天保8年4月生まれ) 53歳
笠原倉次郎(嘉永2年11月生まれ) 40歳
窪田里右衛門(文化5年11月生まれ) 81歳 高齢者番付3位
千葉 粂蔵(文政12年6月生まれ) 61歳
伊関 常弥(明治5年5月生まれ) 18歳
井深  浩(天保8年2月生まれ) 53歳
富森 伝次(明治11年12月生まれ) 11歳
                以上14人
(寺町の中程より北の田圃に至る通り。長さ59間=106メートル。戸数15戸。妙音寺あり。昔、名子と呼ばれた農民より下位のクラスで主家に隷属して賦役を提供した農民が住んでいた。行仁町、旭町に)
2014年02月03日(月) 若松町役場の会津藩士(45)
 ◇東名子屋町(上)

能見武次郎(天保10年3月生まれ) 51歳
林部 伝與(天保3年5月生まれ) 58歳
石井 勝守(天保3年5月生まれ) 58歳
諏訪 伊助(天保元年5月生まれ) 60歳(註)
西郷鉄次郎(弁生8年10月生まれ) 64歳
原田八太郎(弘化元年10月生まれ) 45歳
遠藤重三郎(天保4年9月生まれ) 56歳
(註)諏訪伊助は家禄1700石、家老。屋敷は本一ノ丁にあった。戊辰の役で陣将を命じられ、土湯方面で戦う。敗戦後、斗南に流され、間もなく会津に戻る。戦死者の遺骨が炉端に放置されたのを集めて七日町の阿弥陀寺や長命寺に埋葬するのに努力する。明治15年(1882)、藩校日新館再興にあたり、先頭に立って功あり。明治17年(1884)高等官五等になり、北会津郡長に任じられる。明治32年(1899)没す。
2014年02月02日(日) 三角縁神獣鏡
 邪馬台国の女王・卑弥呼の鏡ともいわれる三角縁神獣鏡が、鏡面に光を反射させると背面の文様が壁に映し出される「魔鏡」の特性を持つことが京都国立博物館の調査で判明した。
 太陽を崇める祭祀で光を操り、権威を高める役割があったとみられ、古代鏡の用途などを解く糸口となるという。
 既にブログで紹介した通り、会津若松市の大塚山から昭和39年(1964)出土した三角縁神獣鏡は東北地方で唯一のものであり、会津地方を治めていた豪族が中央政権と繋がっていたことを示すものだ。
 「景初3年」など中国の魏の年号を持つものがあったため、中国製の鏡だ、とする説と、同じ鋳型で作った同范鏡が多数あることから大和政権が各地の豪族に配布した説がある。
 会津の鏡は岡山県鶴山丸古墳出土の鏡と同じ三神二獣鏡だが、残念ながら国の史跡に指定されながら「二神二獣鏡」とした調査ミスが現在も続いている。お粗末の極みだ。
会津若松市の大塚山から出土した三角縁神獣鏡
2014年02月01日(土) 若松町役場の会津藩士(44)
 ◇上野伏町

服部儀三郎(嘉永6年2月生まれ) 37歳
穴澤 幸作(天保9年8月生まれ) 51歳
鈴木秀之助(文政10年8月生まれ) 62歳
武田 立計(天保7年正月生まれ) 54歳
山之内八之進(安政5年8月生まれ) 31歳
遠藤  一(弘化4年11月生まれ) 42歳
                以上6人
(東行人町から中六日町に至る東西48間=87メートル=。戸数27戸。文禄2年=1593=蒲生氏郷時代、向羽黒山城の城下から野伏を移住させた。円満寺あり。行仁町に変更)

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