直盛の事跡については明らかではないが、『異本塔寺長帳』によると、康暦元年(1379)より30年前の貞和5年(1349)に、「今年、葦名直盛と新宮明継合戦有り、これを小松の合戦と言う。新宮村(現喜多方市慶徳)は小松原村という」ことが記されている。 新宮明継は、新宮の熊野神社に存する銅鐘(国の重文)の銘に、「大旦那地頭平朝臣明継、貞和5年7月21日」とあって、当時、この地方に大きな勢力を張っていた葦名氏一族であった。 このように、至徳元年、直盛の黒川東館創始に対しては、多くの疑問がもたれる。『會津旧事雑考』はこれに対して、文治5年(1189)會津葦名氏の祖三浦義連が、源頼朝の命で會津の守護として土地を領してから、康暦元年(1379)に至まで、6代約200年の間に歴代の領主は何回か鎌倉から會津へ下り、次第に館も変わっていったものであろうと断じ、そして葦名氏には色々な記録が存したであろうが、、天文7年(1538)の黒川東館の全焼でそれらは焼失してしまったため、後人が誤って記したものであろうと記している。
葦名氏6代の領主盛員(もりかず)が、建武2年(1335)中先代の乱に、北条時行に属して8月、鎌倉の片瀬で戦死し、その長子高盛も父と共に戦死したので、次子直盛が葦名氏を継ぎ、鎌倉に在したが、「康暦元年(1379)、葦名氏としては初めて會津に下って、幕内(まくのうち)に3年、小館(西館)に2年、至徳元年(1384)小高木(おだぎ)(小田垣)に移って町を黒川と号した」と『葦名家譜』は記している。 その後、この説が民間に流布し、直盛は小高木に館を作って東黒川館といったと、まことらしくいわれるようになった。 しかし、『會津旧事雑考』では、直盛の子詮盛(あきもり)が至徳元年より15年前の応安2年(1369)に、黒川の実相寺に領主として寄進状を出していることや、黒川の諏方神社、当麻寺、実相寺などの寺社はみな康暦以前の開創であり、殊に当麻寺の鐘銘には「応安8年(1375)、大會津黒川東明寺」とあって、黒川の地名は至徳元年以前から存することなど例証を上げ、また、2、3年のうちに府を移すことの煩多で不見識なことを述べ、『葦名家譜』の信ずるに足らないことを喝破している。
この増水国は黒人の女と家を持ち、この近くの部落に住んでいて、鮭を捕って生活していたと言うが、その晩年は判っていない。おけいの墓の文字を書いたと言われている桜井松之助は何を業としていたかよく判らないが、時折、刀を差して歩いたり、酒を呑むと人に絡んだり、奇矯な言動があったらしく、その墓はコロナ付近の共同墓地にあると言われている。おけいの他では、この大工増水と藩士桜井の消息がこの程度に判っているだけである。 シュネールの集団移民の失敗は先述したように資金が欠乏したことが直接の原因であり、その他にも準備不足、調査不足等、色々の原因は考えられるが、最も本質的な問題は少しだけ彼等の移民計画が早過ぎたということであろうと思われる。 先駆者というものが、例外なく荷なわなければならぬ非運を、彼等もまた荷なったのである。「ワカマツ・コロニー」の出発が若し10年遅かったらー10年でもまだ充分とは言えないが、それにしても事情は全く異なったものになっていた筈である。 サンフランシスコ日本人会が成立したのは1892年(明治24年)で、「ワカマツ・コロニー」が解散した年から18年後である。(完)
背後に廻ってみると、全くの廃園であった。大きなねむの木が四方に枝を広げ、桃色の花が散り残っている。庭の隅に桔梗に似た紫の花が美しく咲いている。 すっかりレモン化した密柑とくねんぼの木がある。これらは移民団が日本から持って来たものと思われた。またこれも日本から持って来たと思われる欅が堂々たる大樹に成長していた。 シュネールはベラカンプ家の前の平地を600エーカー(24万3600hm)借りたが、その土地の一角に一行の一員である大工の増水国が作ったと言う家が残っていた。 今は半ば壊れているが、建てたばかリの時でも犬小屋を少し大きくしたくらいの大きさで極めて粗末なものであったろう。
おけいの墓を辞して、移民団の一行が親しく付き合っていた地主のオランダ人ベラカンプの住んでいた家を訪ねてみた。家の前に鈴懸の大樹があって、その枝葉がうっそうと家を覆っている。 回廊を持った二階建てであるが、現在は誰も住まず空家になっていて、すっかり荒れ果てていた。ベラカンプ家もシュネール時代から数えると3代目になっており、現在の当主はそこから少し離れた所で苗木屋をやっていて、その家には農具を置いているだけという。 家はもと白ペンキで塗られてあったらしいが、今はそれがすっかり剥げ落ちてしまっている。風が渡って気持よかった。この家におけいは1年近く住んでいて、そしてここで亡くなったのである。
墓のある丘には野生の麦が一面に生えて茅のように見えていたが、そこらは牛の放牧場になっていて、麦はその飼料だということであった。この丘は、春は青々とした牧草に覆われ、蓮華に似た花が咲くということだったが、訪ねた時は夏枯れた雑草の丘であった。 広い丘の所々にオーク・ツリーの大樹が点々と植わっている。真っ黒に焼かれたオーク・ツリーの切り株も多い。放牧の牛の邪魔になって焼いたものであろうと思われた。 眺望は大きく開けて、遥かに遠く東にシュラネバタの山の稜線が見え、東北には大きい低地が広がっていて、その向こうに5000尺(15万メートル)位の連山が連なっていた。 そしてその低地をアメリカン・リバーが流れている。西方は小学校のある丘を隔ててオーク・ツリーに包まれた丘が見えている。同行者の説明によると、そこから見えている山々から砂金が出、それがアメリカン・リバーに流れ込み、滝に打たれ、鶏卵の大きさになったのだということであった。
墓石には「おけいを記念して、没年1872、19歳、日本娘」と4行に英語で書かれてある。裏にはくねくねした日本字で、中央に「おけいの墓」と刻まれ、右に「日本皇国明治4年○月○日没す」と彫られてある。 没した月日が空白になっているが、この墓石を作った時は、もうそれが誰にも判らなくなっていたのであろう。 移民団の一人、旧會津藩士の桜井松之助の書いたものだと言われ、おけいの死後15年の明治19年(1886)に建てられたと伝えられている。 ◇ ◇ ◇ 昨日から、BSTBSで時代劇「江戸を斬る 梓右近隠密」がスタートした。登場人物が面白い。主人公は會津藩主保科正之の双児の弟、という設定だ。片岡千恵蔵、志村喬ら懐かしい、往年の名優が出演。 何しろ保科正之がテレビに登場するのを観たのは初めて。正之は徳川四代将軍家綱を補佐して江戸の町を創った名君といわれるが、全国区でなく、NHKの大河ドラマには採用されなかったが、民放に登場した。BSは焼き直し番組が多いが、これなら我慢するか。
日本最初の移民団の故地を訪ね、おけいの墓に詣でたのは、昭和34 年(1959)6月の終わりである。夏の陽射しが漸く強くなりつつある頃であった。 アメリカン・リバーの二つの支流のうち、車は北の支流に沿って上がって行き、やがて山間部にはいり、褐色の茅の丘の上に出る。すると、行く手の丘の上にゴールドヒル小学校の建物が見えて来る。 その小学校のある丘の向側の丘におけいの墓はあり、その付近一帯がシュネール移民団の故地であった。墓は道路から100メートル程それた雑草の茂っている場所にあって、案内者なしでは見つけることは、ちょっと難しい。墓の周囲には低い鉄柵が巡らされ、その中に大理石の横1尺(30センチ)、縦1尺程の墓石が建てられていた。
おけいの出生については多少のことが判っている。今までその生地や素性について色々の浮言があったが、生まれた所は若松町の下町で、父は大工の伊藤文吉、母はおきく、兄5人、妹1人の多勢の兄妹の中の長女として生まれている。 おけいの家から少し離れた所に異人館があって、そこにシュネールが住んでいたが、おけいの母が野菜を売りに異人館に出入りしていた関係で、おけいがそこへ子守兼手伝いに行くようになったのである。 そうしてこうしたことから、おけいは17歳の若さでシュネール一家に伴われて渡米する運命をもったのである。
ベラカンプ家の先代ヘンリーは20年ほど前に84歳で没しているが、そのヘンリーはおけいより1歳年上で、当時のおけいのことを記憶していてよく人に語っていた。 ヘンリーからおけいの話を聞いたという日本人は今も、何人かサクラメントに現存している筈である。ヘンリーの語るおけいはよく気がつく温和しい娘で、ヘンリーの母親に可愛がられていたという。 また一行の一員である大工増水国は黒人の女を妻としたが、その黒人の女も、自分が長女を産んだ時、おけいが毛糸のスェーターを編んで4マイルの山道を下って持って来てくれたことを縷々人々に話していたということである。 ◇ ◇ ◇ 嘉永6年(1853)当時、富津陣屋に住んでいた會津藩士を調べていて、興味深い藩士を見つけた。「7石 窪田伴治」は藩主が京都守護職時代、警護役として付き従い、蛤御門の戦い(禁門の変)で一番鎗で活躍、長州藩の銃弾に倒れた。子息重太郎は西南戦争で戦死、と會津藩士の典型をみた。「7石秋山大助」は「遠泳の絵馬」のモデルで、富津湊から竹岡湊まで4里を泳ぎ切った猛者。歴史の面白さを実感している。 顕彰会の会報11号をお楽しみに!!
この異郷の地に残された一行には、当然のこととして離散の運命しかなかった。この開拓計画が打ち切られたのは、明治3年(1870)のうちのこととされている。 「ワカマツ・コロニー」は僅か一年限りで解散の非運に見舞われたのである。一行は四散し、中には便を得て日本へ戻った者もあったが、その大部分の者のその後については判っていない。そのままアメリカに居着いて、その後の足跡を多少でも伝えている者は僅か2、3を数えるのみである。 一行の中におけいという娘がいた。その墓は今も彼等が鍬を揮ったゴールドヒルの丘の上にある。おけいはシュネール家の子守女として一行に加わったもので、シュネール夫人の他では、移民団中のただ一人の女性であった。 日本を出た時は17歳であった。一行四散の後、おけいは平素この集団の人たちが親しく付き合っていたベラカンプ家に引き取られ、翌1871年(明治4年)にその家において19歳で他界している。
この移民団の解散の時期ははっきりしていない。シュネールは金を都合する、と言って妻子を連れて母国へ帰ったが、そのまま再びこの地に姿を現わすことはなかったのである。 この統率者の行為が許すべからざるものであるは言うまでもないが、シュネールとて初めからそうしたことを企んで為したのではないであろうと思われる。彼は本当に資金を集めるために母国へ帰ったのであるが、遂にその金を得ることが出来なかったというのが実情であったろうとみていいのではないか。 若しシュネールが卑劣な人間なら、後に残された彼の仲間たちがシュネールのことを悪く言うはずであるが、シュネールに対する悪評は少しも残されていないのである。要するに、彼の夢は大きかったが、それを実現するためには力不足だったのである。
気候は日本に似ているといっても、サクラメントから45マイルも離れている山間の僻地である。入植者の努力と苦闘に拘わらず、事は志と違ってしまったのである。 水利が悪いことが何よりいけなかったらしい。茶も失敗、養蚕も失敗、果樹も失敗、忽ちにして一行20名は窮迫のどん底に落ちてしまった。あらゆる齟齬と失敗の中で、シュネールの資金が欠乏してしまったことが最も大きい痛手であったに違いない。 この一団の窮状を最も雄弁に物語っているものは、シュネールの持ち物と思われる黄金作りの短刀や葵の紋のある旗印などが、この移民団と親しかった入植地付近の農家で、地主でもあったベラカンプ家に質のかたちとして渡り、それが長く同家に蔵されてあったと伝えられている。 また他にも付近の農家でシュネールが手放したと思われる日本の絹布の夜具布団類を持っていた家もあったと言う。
百年後の今日(昭和41年当時)、結局は失敗した「ワカマツ・コロニー」のことを考える場合、私たちは色々な間違いを冒し易いが、まだ何人もアメリカに移住したことのない明治初年に、それを夢み、それを実行した一団があったということの持つ意味の大きさだけは見失ってはならぬと思う。 若しこの集団移転が成功していたら、シュネールも現在とは違って、日本移民の父として、開拓移民の先駆者として、その業績は高く評価されていたことであろう。シュネールに付き従った20人の會津の若者たちもまた同じことである。ただ残念なことは、事実はそうならず、それはあっけなく失敗してしまったのである。 ◇ ◇ ◇ 待望のパソコンを来月、購入する予定となった。これまでのマックではなく、国産のものにしようと思う。手に入ったら、新しくホームページを開きたい。會津の歴史に留まらず、広く世界の人種問題、竹島にみられる領土問題、皇室問題、會津軍都物語、小生の生涯かける會津藩の江戸湾防備問題など、幅広く項目を作る予定だ。乞う 御期待!!
今日(といっても昭和42年当時)、私はシュネールという人物について詳しく知りたいと思うが、殆ど彼についての記述というものは残されていない。 一説にドイツ人でなくてオランダ人とあるとも言われているが、確かなことは判らない。その生国すらはっきりしていないくらいだから、彼がいつ、いかにして日本へ来たか、またいかなる性格の人物であったか、そういったことは一切判っていない。 しかし、私は明治2年に會津の農民20名を率いて渡米したという一事だけからみても、彼が充分、人に信頼されるだけの魅力をもった人物であったに違いないと思う。そうでなかったら、20名もの若者が一外人の募集に応じて、日本を離れて異国に渡ろうという気は起こさなかったに違いない。 年の頃も判っていない。しかし、そう若くはないにしても、そう老人でもなかったであろう。まだ充分、新天地開拓の夢を懐くことが出来る肉体の強靱さと精神の柔軟さをもっていた年輩であったに違いない。彼は日本人の妻との間に二人の女児を持っていた。
しかし、シュネールたちがここへ来た1869年は、既に黄金にとりつかれた狂乱の時代は終っていた。狂乱は襲うのも早かったが、また人々がそれから醒めるのも早かった一時期の黄金地帯は既に誰からも顧みられぬ廃虚になっていたであろうと思われる。 従ってシュネール一行がこの地を卜(選び、定める)して「ワカマツ・コロニー」を作ったのは、アメリカン・リバー沿岸の一獲千金の夢とは全く無関係なものと考えなければなるまい。彼等は純粋な農業移民であり、己が肉体に汗することに依って己が夢を異郷に形ある物として生み出そうとしたのである。
年末から年の初めにかけて嬉しいことが続いた。 まず第1は、富津市の正珊寺に眠る會津藩士辰野央信の子孫、辰野一郎さん(東京在住)から、ネットを通じて房総半島会津藩士顕彰会の参加申し込みが。墓地の藩士子孫で初めてで、平成17年の新聞連載以来、顕彰会を立ち上げて毎年慰霊祭を行って来たことがようやく認められたようだ。 第2は『會津人群像』で連載した「森要蔵物語」で飯野藩士10余人が會津藩救援に向かい、白河城攻防戦で数人が壮烈な戦死を遂げたが、その一人、花沢金八郎の子孫、花沢毅さん(同)がネットを通じて連絡して来たのだ。 平成18年末に顕彰会を立ち上げて5年経過し、軌道にのってきた、という感じだ。これまで、会津若松市や富津市には、無縁墓地だった會津藩士墓地や飯野藩士のことを話す場も組織もなかったが、その暗闇に灯りを灯すことになったのだと思う。 今後、運動の輪を広げて会津と富津の縁を繋ぐ組織として、頑張って行く所存である。 年頭の誓い、とも言えようか。
この「ワカマツ・コロニー」の地は、ゴールド・ラッシュで有名な地域と隣接している。今日、サクラメントからこの移民団の故知に向かうには、初め車で平原のハイウェイを走るが、途中からそこを離れて、サクラメント川の支流アメリカン・リバーに沿って次第に山間部へ入って行く。 このアメリカン・リバーこそゴールド・ラッシュ時代に世界的にその名を喧伝された川である。1848年(日本では弘化5年=會津藩8代藩主容敬が房総防備の會津藩陣屋を視察した)にこの川岸から1個の金塊が発見されたことがきっかけとなって、それ以後、砂金を採る人たちが、われもわれもとこの川岸一帯に押しかけたのである。 アメリカン・リバーは途中で二つの支流に別れるが、詳しく言えば、その二つの支流に挟まれた一帯の土地がゴールド・ラッシュの夢の跡である。「ワカマツ・コロニー」は支流の一つに沿って遡って行った所にあり、ゴールド・ラッシュの狂熱地帯の中に包含されていると言っていい。
シュネールの一団はサンフランシスコからサンホーキン川に沿って遡り、サクラメントに到着、そこの風土気候が日本に似ていることを知って、開墾地をこの付近に求めることを決意したのである。 このことは後にこの集団の一員であった者の口から語られている。彼等が選んだ場所はサクラメントから東へ45マイル(72キロ9の地点であった。そこに土地600エーカーを購入し、粗末な住居を建て、「ワカマツ・コロニー」と名付けた。 今の言い方で言えば、開拓移民団である。農業と果樹の栽培がこの集団の目的であった。彼等は密柑、甲州葡萄、茶、桑などの苗を日本から持って行ったが、そうした樹木は彼等が夢を托した敷地に生い育って、百年の歳月を経て現在、大樹になっている。
シュネールは北米移民20名を募り、8年間の労働協約を結んで、1869年(明治2年)2月と10月の2回に亘って、彼等を汽船「チャイナ号」でサンフランシスコに運んだ。シュネールは労務者を募って、自分の事業のために彼等を北米大陸に運んだのでなく、シュネールと若者たちの繋がりには多分に同志的なものがあったことが認められる。 シュネールと行を共にした農民たちは20名とも、40名ともいわれているが、私には、彼等が働いた開墾地を訪ねてみた印象から、シュネールが己が後半生を托して農民たちを20名とする方が実情に則した推定ではないかと思われる。 農民の集団といったが、全部が全部農民ではなく、武士上がりも大工も混じっていた。 ◇ ◇ ◇ 小沢一郎の裁判で、4億円をいつも事務所の金庫に保管していたーと庶民感覚と懸け離れた答えををする小沢。親の遺産のほか代議士の報酬、印税などといっているが、自由党、新進党と政党を次々解党した際、国から交付された政党交付金の残金を私したに違いない。 国民一人が25,000円支払う税金のようなもので私腹を肥やすとは、とんでもない野郎だ。こんな政治家がでかいツラをしている民主党政権は退場させるしかあるまい。
日本人北米大陸移民の先駆はドイツ人エドワード・シュネールに率いられて渡米した東北の農民20名の一団である。1869年(明治2年)のことである。 これより1年前の1868年に153人の日本人が移民としてハワイに渡っているが、大陸への移民はシュネールの一団を以て嚆矢とする。 シュネールは元々鉄砲商人で、會津、庄内両藩に鉄砲を売り込み、そうしたことから會津藩に仕えて砲術の師範となり、平松姓を許されて武平と名乗り、妻もまた會津藩士の家から迎えている。 徳川幕府が瓦解して、日本が明治という輝かしい黎明期を迎えた時、時代の大きい転換は多くの武士たちから生きる道を取り上げたが、シュネールもまたその犠牲者の一人であったに違いなかったし、特に異国人である彼の立場は一層苦しいものであったろうと思われる。 シュネールは日本で生きる望みを棄て、新しく生きる場所を他に求めようとした。その新天地が北米加州だったのである。
歴史を読むことは、たんに過去の出来事を知るということばかりでなく、自分の定められた生涯の時間を、はるかな過去に遡り、それだけ広く、そして深く拡充できるということだ。 また人間は二つの生涯を持ち、あるいは経験することは不可能であるけれども、歴史を学ぶことによって、私たちは様々な人間の生涯を知り、かつ呼吸を共にすることさえ出来る。郷土の人物達ならば、ひとしほ直接に感じられる。 雪深い山国の會津は、県内から特殊国ともみなされるほどの別天地だが、そこには千数百年にわたる人間生活の歴史が豊かに息づいている。 保守派にとって最後の砦となり、天下の輿望を担った。そして籠城兵の奮戦と、その家族の悲惨な最期は、国史の上でも比類ないものだ。 そこから更にどんな新しい歴史が産み出されるか、私は古い伝統を持つ郷土と人間の豊穰性に期待したいと思う。(完)
義広はその後、常州江戸崎の領主となるが、元服して畠山九郎義統と名乗るようになった 15歳の梅王丸は、義広の命により、この江戸崎で殺される。男色のもつれだということだが、梅王丸はそれだけ美童だったのであろう。 弟の七郎国次は會津へ帰り、上杉景勝や蒲生忠郷に仕え、後は参州刈屋の水野の家中になったという。慶長5年(1600)上杉景勝と最上の合戦の折、七郎国次は最上方の天童弥七郎を討ち取ったとあるから、なかなかの勇士であったらしい。 このように数奇な運命を辿った者は、戦国時代、数限りないほどだったであろう。私が特に梅王丸兄弟のことを述べたのは、私が二本松小学校を出たので、土地の山河に馴染みが深く、他郷の者より一層の親しみを抱くためである。 ◇ ◇ ◇ 待ちに待った『會津人群像』第20号の出版は、暮も押し詰まった12月25日であった。日露戦争の陰の主役「柴五郎」の活躍ぶりはテレビ放映が終了後、というタイミングを外した冊子となった。編集後記で「売れない」とこぼしているが、当然だ。おまけに他の原稿はまずいものばかり。内容が悪く、時期を逸したーでは売れないのは当然だ。 おまけに会津若松市内の中心街に本屋がなくなった。筆者が住んでいた頃は町内に西沢書店と福島書房、神明通り角に一軒あったが、今は姿を消した。本屋は文化のバロメーターといわれる。會津に文化はなくなった、ようだ。寂しい。
そしてその年の冬、父を迎えに使いをよこした。長時は春の雪解けの季節を待ち、會津を発つことにし、あくる年の2月、帰国の支度に取りかかっていた折柄、近侍の坂西弾右衛門に刺殺された。坂西はかねて長時の妾と密通していたが、帰国後、露見することを恐れて、主を殺したのだという。幸運を目の前にして殺された長時は65歳。坂西や妾もその時、長時の家来に討たれた。 面白い逸話はまだある。 天正14年(1586)の初秋、二本松が落城して、二本松義経の遺児、梅王丸、七郎国次が會津へ逃れてきた。いづれも10歳前後の少童であったが、會津もまた安住の地とはならなかった。 常陸の佐竹氏から養子に来た葦名最後の領主義広が、天正17年6月、伊達政宗に攻められて、佐竹の実家へ落ちのびて行く時、従者40余人のうちに、この兄弟も加わっていた。
信州・深志(松本)の城主、小笠原長時もその一人である。彼は武田信玄に城池を奪われて上洛し、時の実力者三好長慶を頼った。 長慶の死後、信長に追われて越後の上杉謙信の元に行き、謙信が天正6年(1578)に亡くなると、會津へ落ちて来た。 盛氏が死没した2年後の天正10年(1582)長時の三男貞慶が、本能寺の変のどさくさに乗じて、33年ぶりに深志の城を取返した。 ◇ ◇ ◇ 高校サッカー準決勝で、尚志は残念ながら四日市中央に敗れた。とはいえ、福島県の高校サッカーに新しい歴史の1ページを記したことに違いはない。尚志イレブンに熱い拍手を送る。 監督の仲村君は習志野高校出身(先に市船出身とあるのはミス)なので、千葉県から有望な選手をスカウトしており、今後の新しい指導者の一人として彼の成長も期待したい。福島に清清しい空気を送ってくれた尚志イレブンに乾杯!
その後、城長茂は義仲のために、越後の国府・直江津を逐われて會津へ落ち、奥地に身を潜めて終ったという。その奥地が磐梯山下の慧日寺であったかどうか、私は知らない。慧日寺といえば、平将門の娘もこの寺へ落ちて来て、生涯を終ったという伝説がある。摺上原の末、猪苗代の大湖にのぞむ積雪万丈の、この地は、落人の身を潜めるのに屈強な場所だったのであろうか。 葦名氏は16代、盛氏の時が、最盛期であったようだ。戦国時代も華やかな頃で、戦に敗れた四方の浪客が、盛氏の勢力を頼って、その城下へ身を寄せて来た。 ◇ ◇ ◇ 本日から市内の「さかい」というリハビリ施設に通い始めた。明るくて、理学療法士もおり、広いのがよかった。時間も午前9時から正午までで、ゆったりできた。 今まで通っていた「石橋」は火曜と木曜の午前2時間。惚け婆さんしかおらず、火曜、金曜にしてといってもダメ。なにより狭くて床がコンクリートむき出し。こんなに差があるのは、どうしたことか?しかも同じ利用料金なのだ。 こんな実情を市役所は知らないのか?おかしい。
それから数百年後、中央政権の勢力が衰えるとともに、會津の歴史も空白期に入る。さらにまた数百年して、源平両氏の交替が始まる養和、寿永の12世紀末、會津四郡は寺域数里にわたり、子院3800坊に及んだという慧日寺の支配下にあったようだ。 慧日寺は奥州一円を支配下に、18万石の領地を有する大寺院で、衆徒の大将乗丹坊は、越後の国司城資永、長茂兄弟の血縁で、四郎長茂から越後の蒲原郡小川荘を与えられている。 彼は長茂の木曽義仲討伐に、會津四郡の兵1000を率いて馳せつけ、信州・川中島の横田河原で敗死を遂げた。 ◇ ◇ ◇ 高校サッカー全国大会で、尚志(福島)が桐生第一を3ー0で破り、初の準決勝進出。いよいよ待ちに待った国立だ。福島県勢として胸を張ってプレーして欲しい。準決勝は7日、相手は四日市中央(三重県)。「ことによると〜」。原発に苦しむ福島県を喜ばせて欲しい。
このほど発掘された大塚山古墳に関わる『会津若松史』別冊の記事は、たいそう興味があり、かつ私を喜ばした。4世紀中頃の前方後円墳で、四方を山並に深く包まれた積雪の別天地に、畿内地方と同時代の古式古墳が発掘されたということは、何といっても大きな驚きに値した。 それが大和の中央政府から派遣された官吏の墳墓か、あるいは土地の豪族のものか、はっきりと定め難いそうだが、1600余年前、こうした僻地の奥地に(と作者が書いているが、とんでもない誤解だ。會津には中国・梁の僧青巌が西暦538年に直接、仏教を伝来した、という伝承があるのだ)古代の文化の華が開いていたという事実は、私たちの夢を誘い、希望を持たせる。 ◇ ◇ ◇ 高校サッカーで福島・郡山の尚志が3回戦で神奈川の桐光学園を破り、初のベスト8に。4回戦は5日、群馬の桐生第一。福島民友に出向した当時、尚志の管理者に会い、レベルを上げるのは、サッカーでも野球でも強くすることーを具申。仲村監督を教諭に採用すべきと申し入れたことを思い出す。仲村君は市船から順大に進み、全日本で活躍した男。 明日勝てば、夢の国立だ。原発の被害に悩む福島を元気づけるため、がんばれ!!
私の亡妻は、会津坂下町の女であった。現在の妻もまた、同じ町の人である。私は早稲田の学生時代、亡妻を中丿沢温泉(猪苗代町)で知ったのだが、それ以来、會津は別国のように考えていた。旧制安積中学時代の学友に、會津出身の人も少なくなかったが、その風貌といい、言語といい、一風変わっていたように思われる。 私は作品に取材した會津の歴史では、保科の松平氏以前のものが多い。磐梯山下、慧日寺の乗丹坊(源平合戦の時代、平家に応援して木曽義仲と戦い、敗れた)から、葦名、蒲生、加藤、上杉といったものである。 史実の豊かさでは、會津は県内(というが、奥州といってよい)の何処にも勝る、歴史の寶庫であった。 伝説によると、四道将軍武淳河別命の父大毘古命は、越後から會津へやってきて子孫を残した。それが會津氏の祖であろうといわれている。
私がこうしたことに興味を持ち始めたのは、40歳を過ぎた頃から、郷土の歴史に関心を寄せ、それを材料にして歴史小説を書くようになったためである。 これも2、3年前のことだと思うが、東北大学の大学院に在学している者が、郷土と作家の関係についてアンケートを求めて来た。 私はそれに答えなかったが、作家にとって郷土は、一種の培養土みたいなものである。作家の感情や精神は、故郷の風土、風物に培われ、やがて彼の精神に結晶して、その作品を特色付けるようになる。作家に対する郷土の影響力は、抜き差しならないものなのだ。いわば、その血肉と化しているといってよい。 先に書いたように、200年近く続いた先祖を持つ私は、その意味では、生っ粋の福島っ子と云ってよい。私の書いた作品に、郷土に取材したものが多いのは当然であろう。