河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2015年04月30日(木) 閑話
  不可思議な話 慰安婦でスクープのTBS支局長左遷
 「従軍慰安婦」問題で韓国の”告げ口”ばあさんは日本に謝罪を求めているが、韓国軍もベトナム戦争中、サイゴン(現ホーチミン)に「慰安所」を開設していたーというスクープを3月26日発売の『週刊文春』に掲載された。TBSワシントン支局長だった山口教之氏がアメリカ国内の公文書館を巡って掘り起こした特ダネだ。1964年、彼女の父朴正熙大統領がベトナム戦争に参戦。73年までに延べ32万人を派兵した。韓国軍はサイゴン市内でベトナム人女性を慰安婦として働かさせていたという。
 どういう訳か、TBSで放送されなかった。この放送局は韓国の手先なのだろうか。あるいは韓国から金をもらっているのか?
 これにはおまけがある。なんと山口氏は発表後に営業局ローカルタイム営業部へ左遷されたのだ。おかしな話がまかり通るものだ。
2015年04月29日(水) 幕末の剣豪 森要蔵(61)
 27日から28日にかけて會津同盟軍は各方面から白河城に入り、気勢は大いに上がった。
 29日になって
「官軍来襲!」
の知らせが棚倉からもたらされた。
 會津同盟軍は、棚倉口桜町方面に會津藩の遠山、鈴木ら、天神橋や白河痾口には會津藩の一柳四郎左衛門と新撰組の山口次郎らを、原方方面には會津藩の日向茂太郎が大砲2門を井深右近が兵を率いてそれぞれ配置についた。
 官軍の参謀伊地知正治は宇都宮の守備を土佐藩に託して自ら薩摩、長州、大垣、忍の各藩の兵を統率して白坂に宿陣したが、この日は攻めてこなかった。
2015年04月28日(火) 幕末の剣豪 森要蔵(60)
 間もなく、官軍参謀伊地知は、不利を察し兵をまとめて後退したが、會津軍はこれを追撃して官軍兵13人を討ち取り、首を白河の士中に晒した。
 さらに會津軍は、官軍の来襲に備えて白河城の西側天神橋を焼き払った。この日、仙台藩士瀬上主膳が仙台兵を引き連れて白河城に乗りこんできた。
 そこで會津軍総督西郷頼母(家老)、副総督横山主税らと軍議の結果、會津兵は20日の白河城攻略以来、この日の防戦で疲弊しているため仙台兵が交代して口々を固めることにした。、
 翌26日、西郷頼母と横山主税は勢至堂峠に陣して會津軍の陣容を立て直し、官軍の再攻に備えた。
2015年04月27日(月) 幕末の剣豪 森要蔵(59)
 4月24日、白河城を守っていた會津軍に
「官軍が大田原を発した」
という報が間諜によってもたらされた。
 そこで會津軍は清瀧一番隊士中隊頭鈴木作右衛門、軍事奉行添役木村熊之助らが軍議を開き、白坂口には新撰組隊頭斎藤一(後に会津藩士と運命を共にして斗南へ流され、藤田五郎と改名し、會津で最期を迎える)を先鋒とし、遊撃隊頭遠山伊右衛門がこれに続き、棚倉口、原方とそれぞれ配置を決めた。
 翌25日早朝、官軍は白坂、原方の両道から攻めてきた。現地の地理を熟知していた會津軍は、よく防戦に努め、こちらから進んで敵を迎え撃った。
2015年04月26日(日) 幕末の剣豪 森要蔵(58)
 白河城が會津軍の手に落ちたという報に接した官軍は、直ちに、奪還すべく動き出した。この方面にいたのが、東山道先鋒総督府の軍だった。
 この軍は4月6日、上野国権田村の川原で小栗上野介(江戸町奉行、外国奉行などを歴任した幕臣だが、慶喜の恭順に反発して役職を辞任、戦を続けた)を処刑し、4月25日、板橋で新撰組局長近藤勇の首を刎ねた軍であった。
 総督は岩倉具視の第3子具定、参謀は薩摩藩士伊地知正治、土佐藩士乾退助(後の板垣退助)だった。
2015年04月25日(土) 幕末の剣豪 森要蔵(57)
 同盟に参加したのは仙台・伊達陸奥守62万5千石、米沢・上杉弾正大弼18万石両家を筆頭に、奥羽のみならず北陸からも長岡藩が加わり、31藩に膨れた。
 席上、軍事的な計画は
@新政府軍の白河城への侵入を阻止する
A無理に侵入しようとした時、會津藩が決死防戦する
B鎮撫使下参謀の大逆無道の罪を天下に鳴らして追放する
など23か条に及ぶものだった。
     ◇   ◇   ◇
 近くの公園で地元中学校の1年生女子3人と出会った。”午後練”に備えておにぎりを食べていた。
 叔父さんの娘も同じ学校卒で千葉女子高から推薦で学習院大英文科に進み、中学の教師をしているーと話すと、「すごーい」と目を輝かせていた。”純粋”、そのものだった。
2015年04月24日(金) 幕末の剣豪 森要蔵(56)
 関東平野を制した官軍が奥羽に侵攻するためには、白河は、どうしても通らねばならない地点であり、それなればこそ、世良修藏が白河に鎮撫使総督を置いて北上する官軍と連結しおうと目論んだのであった。
 一方、奥羽諸藩は、奥羽鎮撫使の動きに合わせるように、米沢藩などの呼びかけで仙台藩内に集まり、鎮撫使に対抗するというより、官軍への対処方針を決めることになった。
 4月22日、「白石盟約」と呼ばれる決議がなされた。
「強気を恃み(たのみ)、弱きを挫き、或は他の危急を傍観する者は列藩を挙げて譴責を加える」
などという内容であった。
 その後、内容は改められ、5月3日に奥羽列藩同盟が成立した。
2015年04月23日(木) 幕末の剣豪 森要蔵(55)
 そうした情勢の中、奥羽一帯を攻撃しようとした奥羽鎮撫使総督府副総督、醍醐少将の一行が白河に向かおうとしていた。
 20日、少将は郡山で昼食を終え、いざ出立という時に二本松藩士が白河から馬を走らせてきた。
「昨日七つ(午後4時)頃から白河城は會津勢の攻撃を受けて今朝七つ過ぎ、城に火をかけて一同退却しました。」
と急な報告をした。
 會津勢は城下に火をかけ、たちまち炎は燃え広がり、同時に會津兵200名が小銃を撃ちかけて乱入してきたという。城中の仙台兵はいち早く逃げ出したが、長州藩、土佐藩兵は応戦した。
 しかし、長州藩士中村小次郎が大腿部を射抜かれ倒れたことで、城中は騒然となり、仕方なく、城に火をかけて一同、退却した。
2015年04月22日(水) 閑話
 義塾では、卒業から50年以上の塾員を招待して旧交を温めてもらおうと、塾員招待会を今年も5月23日(土)午後、横浜市港北区の日吉キャンパスで開く。
 招待状をもらったが、残念がら不自由の身では参加不能だ。ゼミの仲間は金沢や奈良からも出てくるに違いない。残念だ!
 学生時代に、気ままな生活を送り、「就職の心配なかりせば、学生のままで〜」
など不埒なことを考えていたのを思い出す。
 来年は孫が塾を目指し猛勉強中。たまに小論文の練習で添削を送ってくる。静かに、密やかに闘士を燃やしているようだ。頑張れ!!
2015年04月21日(火) 幕末の剣豪 森要蔵(54)
 ごたごたが続き、、二本松藩が形だけ監守をしているところに、4月6日、奥羽鎮撫使の参謀世良修藏が乗りこんできた。早速、「奥羽鎮撫使」の看板を掲げ、仙台、二本松両藩の藩士に守らせた。
 世良は4月19日、福島で就寝中、仙台、福島両藩の藩士の夜襲を受け、斬殺された。だれもが、世良を
「奥羽全体を全面戦争に巻き込んだ元凶」
「悪魔の使い」
と捉えていた。
 この動きに呼応した會津藩士は白河城を攻撃し、仙台藩は戦いもせず、城を放棄して退却した。白河城は會津藩の手に落ちた。
2015年04月20日(月) 會津藩士慰霊祭
 平成19年から、千葉県富津市で、會津藩士の慰霊祭を行っており、今年6月7日で3回り目に入る。會津から市長や副市長、會津弔霊義会、會津会の関係者、地元の富津市長や副市長らに参加してもらい、ここまで続けてきた。
 平成18年に立ち上げた房総半島會津藩士顕彰会は藩士の遺族や全国の”會津ファン”に會津出身者らに支持されてきた。
 だが、富津の地元に知人、友人がいなくなったのが不安だ。現役時代、木更津に駐在したこともあり、知人は結構いた。
 千葉県文化課長だった高橋在久さんは、新聞連載を計画しているーと提案すると
「それはいいことだ。協力します」といってくれたし、
 19年3月に地元で講演した「一燈会」代表の鈴木史郎さんは顕彰会に基金10万円を寄付していただいた。
 お二人とも黄泉の人となられた。そうした経過を知っている人がいなくなっている。
2015年04月19日(日) 幕末の剣豪 森要蔵(53)
 仙台で立ち往生している形の400名の鎮撫使の将兵らはじりじりして日々を送った。仙台藩士とのトラブルさえ起き始めた。たまりかねた世良修藏は仙台藩に対して強硬に出兵を督促し続けた。
「おはんら、なんばしちょる」
「早う出兵せぬか」
 毎日のように世良は怒鳴り散らしていた。3月27日になって仙台藩はようやく重い腰を上げ、千人余の将兵を會津藩境に送った。
 ここに至って奥羽鎮撫使は命令を下して仙台藩に白河藩の監守を交代させた。しかし、仙台藩は尻込みしながら、
「そんな命令は聞いていない」
と拒否する有様。
2015年04月18日(土) 幕末の剣豪 森要蔵(52)
 この後、『仙台戊辰史』は、
「此ノ事果タシテ真ナリトスレバ三好ノ圧迫手段モ亦妙ナリトイフベシ。
後ニ黒田モ品川モ、會津討伐ニ異論アリト称シ、参謀ノ任ヲ辞シタルハ
三好ノ此ノ手段ニ原因スルニアラザルカ」
と記している。
 参謀交代劇の裏に、三好監物の発言がどれほどの影響があったのか、今となっては知る由もない。
 だが、黒田、品川が平和論者とは言わないまでも、會津征討方針に異論があって、参謀を辞したことは充分に考えられる。
 官軍にあって、穏健派と強硬派の二つに意見があったことは事実だ。品川の後任に強硬派の世良修藏が就任した。
2015年04月17日(金) 幕末の剣豪 森要蔵(51)
三好 討たれる前に會津藩が降伏した場合、長州藩と同じように
    寛典を受けるべき理があると思うが、如何。
黒田 長州藩の場合と事情は違う。皇威を奥羽に及ぼすためには、
    會津はあくまで屠らなくてはならぬ。
三好 そうであるなら、諸公は全国の兵を動員し、奥羽全体の生霊を
    屠り尽くす覚悟が必要である。しかし、その場合、天下の平定は
    いつになるか予知できない。その覚悟があるのか。
 三好の腹の内を聞かされた二人は、
「憮然トシテ語りナカリシ」
であった。
2015年04月16日(木) 幕末の剣豪 森要蔵(50)
 伊達宗城の意見も三好と同じだった。「参与」として新政府高官でもある宗城は
「今頃になってとんでもないこと」
と建白書を握りつぶしたのである。
 こうして仙台藩の建白書は表に出ることはなかった。もしも、諸方にばらまかれたらー一波乱あったに違いない。
 一方、奥羽鎮撫総督のもと、薩長藩士たちの参謀の任命が決まった。この時、仙台藩執政三好監物と官軍参謀、黒田清隆(薩摩)、品川弥二郎(長州)との間で會津藩の処分について、次のような話し合いが持たれた。
2015年04月15日(水) 幕末の剣豪 森要蔵(49)
 ところが、建白書は実際には提出されなかった。仙台藩士大条孫三郎が建白書を持参して入京したのは3月26日、征討軍が奥羽へ向けて出発する直前だった。 
 京都屋敷で建白書を受け取った仙台藩執政三好監物は、その内容をみて驚いた。そして
「時期が遅かった。あと数日早ければ」
と悔やんだ。
 すでに太政官から錦の御旗が下賜され、それを持った同藩士坂本大炊が仙台へ向けて発った後だったのだ。
 それでも一応は同族である宇和島藩主伊達宗城を訪ねて建白書を披瀝した。宗城の意見も三好と同じであった。
2015年04月14日(火) 幕末の剣豪 森要蔵(48)
 建白書の内容は
「鳥羽・伏見合戦で會津・桑名軍が官軍へ先に発砲したことが朝敵の理由であるというが、薩摩勢の発砲にやむを得ず応戦したといっている。王政復古の親政がなされようとしているのに、いままた、兵を動かし、万民を水火の苦に陥れようとするのは、幼帝の聖断から出たものではあるまい」
など5点を質している。
 というより、人心が一定しない今、
「朝敵征討は暫くご容赦願いたい」
と薩長側の朝敵征討策に対して痛烈な批判をしている。
2015年04月13日(月) 幕末の剣豪 森要蔵(47)
 鎮撫使一行は3月23日、仙台入りし、藩校・養賢堂を本陣とした。仙台藩は
「恭順か、會津救援か」
で、藩論は分かれていた。藩主伊達慶邦は、はっきりした態度を示さなかった。いや、示すことができなかったのだ。
 これより前、恭順か抵抗かで、あやふやな態度だった奥州諸藩の中にあって、仙台藩だけは、自己主張していた。藩主名で太政官宛ての建白書を提出したーはずだった。
     ◇   ◇   ◇
 千葉市議選での話題。元市議は在職中、酒に酔った状態で車を運転、立体駐車場から出そうとして機器にぶつけたーのを朝日新聞に掲載され、市議を辞職した。 
 が、懲りずに再出馬、おまけに我が家に電話をよこし、「よろしく」。「また出るの?」と返答するしかなかった。
 次点で見事、落選。選挙民も馬鹿ではなかった。
2015年04月12日(日) 幕末の剣豪 森要蔵(46)
 総督九条道孝、副総督の澤爲量に醍醐忠敬ら3人の公家と付属兵は、紀州藩の船に、世良修藏(長州)や大山綱良(薩摩)両参謀及び薩長兵は芸州藩の船に、筑前兵は自藩の船に、それぞれ分乗した。
 京在勤だった仙台兵も仕方なく一行に加わり、アメリカから12万ドルで買い付けたばかりの宮城丸に乗った。
 一行は3月18日、松島湾入り口の寒風澤(さむさわ)に着いた。この日は出航前日にも増して北風が激しく吹き荒れ、雨も甚だしかった。
 ようやく、とある寒村に上陸し、一泊したが、寒さのため熟睡することができず、前途を危ぶむ声が起きた。
     ◇   ◇   ◇
 統一地方選挙で、千葉県議、市議の投票をしてきた。会場の小学校は年寄り(自分も含めて)ばかり。若者は好天気に誘われ、ドライブだろう。
 近くの公園で92歳の超高齢者の夫妻と一緒になった。「年はとりたくない」とおっしゃるが、90歳を超えて夫妻で散歩ができるのは,羨ましい限り。
 見渡せば、老人ばかりだが、元気で過ごせればよいではないか。
2015年04月11日(土) 幕末の剣豪 森要蔵(45)
 天領となり、空城になった白河城を、幕府は小名浜の代官森孫三郎の支配とした。その後、慶応4年(1868)2月、阿部正静は、幕命によって再び白河に復帰するのだが、既に15代将軍慶喜は大政奉還して政権を朝廷に返しており、藩内では
「大政奉還後に領するには的を得ず」
を主張する声が大半を占め、正静は棚倉へ戻ってしまった。翌3月、二本松藩の丹羽氏に監守させたが、実質は城主不在だった。
 一方、3月2日、奥羽鎮撫使一行は、急ごしらえの錦の御旗を先頭に京を発した。薩長軍は「官軍」となった。船の手配が後れ、仙台、松島へ向けて出航したのは11日になってからだった。
     ◇   ◇   ◇
 本日までに、顕彰会の会報第17号を会員、関係者に発送完了。今回は、正珊寺墓地が改葬なったこと、案内板設置など、歓迎すべき号なので、特に、飯野藩第13代保科正興氏へ、6月7日の慰霊祭へのお誘いを出した。
 参加されれば、地元民は喜ぶに違いないし、會津からの参加者にとっても歓迎するはず。これを機会に「會津と富津」の縁を復活させたいーのだが。
2015年04月10日(金) 幕末の剣豪 森要蔵(44)
 歴史上に名前が残る大名を挙げれば、徳川四天王の一人本多忠勝の孫忠義、家康の子結城秀康の孫松平直矩、それに8代将軍吉宗の孫で、老中として「寛政の改革」を行った松平定信などだ。
 定信が老中辞任後、松平家は文政6年(1823)伊勢・桑名へ移封され、その後に阿部正外(まさとう)が入り、元治元年(1864)6月、正外も老中に就任した。 
 維新まで4年という、慌ただしい情勢の中で、度重なる外国船が「開港」を要求し、老中阿部正外は兵庫開港を唱えたが、孝明天皇の勅命によって蟄居されてしまう。
 慶応2年(1866)6月、正外は家督を子息正静(まさきよ)に譲って隠居。翌3年1月、正勝は棚倉に転封となり、以来、白河城は城主不在だった。
2015年04月09日(木) 幕末の剣豪 森要蔵(43)
 さらに北上すれば、須賀川、郡山、二本松、福島に至り、右すれば仙台、左すれば米沢へとつながる。
 豊臣政権の上杉景勝、蒲生氏郷時代、白河は會津領で、江戸時代、外様大名の多い奥羽地方の”抑え”として白河は重要な拠点だった。
 家康は築城に長けた丹羽長重(長秀の長男)に築城を命じ、完成後に譜代の中でも重鎮たる榊原家を14万石で据えた。徳川四天王の一人、榊原康政の孫忠治である。
 その後、この城の主は代わる代わる親藩、譜代の大名家が幕末の阿部氏まで、7家が入れ替えとなった。
     ◇   ◇   ◇
 本日で読売新聞が5万号に達したそうだ。近代国家として歩み始めた明治7年(1874)11月2日が創刊号で、1万号は日露戦争のさなかの明治38年(1905)、2万号は上海事変や5・15事件が起きた昭和7年(1932)、3万号が60年安保で国中が揺れた昭和35年、4万号が昭和62年(1987)だった。
 昨年は創刊140周年に続いて大きな節目ではある。
2015年04月08日(水) 幕末の剣豪 森要蔵(42)
 奥州街道の玄関口にあたる白河城。別名小峰城という、小ぶりな城である。勿来の関と共に平安時代から蝦夷勢力の侵入を歩防ぐため設けられた2大関所として白河の関があった。
 東は棚倉から浜通りの磐城に達し、西は猪苗代湖の南、大平口や勢至堂峠を越えて會津へわずか17里(61キロ)。猪苗代湖南方面から會津へ攻めるための要地でもあった。
 しかも、南北をむれば江戸を発した奥州街道は一路北上して関東平野を縦断し、宇都宮、大田原、白坂を経て白河に入る。いわば、ここが陸奥への咽頭部である。
2015年04月07日(火) 幕末の剣豪 森要蔵(41)
 本家、分家としての付き合いは幕末まで続き、戊辰戦争の責任を一身に受けて、家老萱野権兵衛が切腹したのは、東京・赤坂御門外にある飯野藩下屋敷だった。
 その際、実家に戻っていた照姫は
「夢うつつ 思いも分かず惜しむぞよ
 まことある名は世に残れども」
と、歌を詠んで、権兵衛を見送った。照姫については、(19)で詳述した。
2015年04月06日(月) 閑話
 毎日新聞で懐かしい記事を見つけた。成田空港の管制塔が取り壊されるーという記事。昭和53年(1978)3月30日開港予定だった4日前、管制塔は過激派に占拠され、内部の機器がハンマーで叩き壊されたのだ。
 あの日は、空港近くで反対派の全国集会を取材中、「管制塔が襲われた」という、信じがたい情報が入って戻ってみると、管制塔を占拠した過激派が機器を手当たり次第に叩き割り、書類を空中に投げ捨てていた。
 チラチラ舞い落ちるガラスの破片、書類・・。「ああ、これで開港はダメになった」と肩の力が抜けたのを思い出す。周辺を警備していた兵庫県警(だと思うが)の機動隊が破られ、マンホールを潜って出てきた過激派に完全に打ちのめされた。世界中にノータム(開港情報)が流されていたのに〜。
 今は新しい管制塔に官制業務は譲り、新しいランプコントロールタワーが完成する2018年4月に取り壊される。1時代が終わった。
2015年04月05日(日) 幕末の剣豪 森要蔵(40)
 老中になるのは譜代大名で、将軍にとっては使用人である。正之は義兄家光から厚い信頼を受け、4代将軍家綱の輔弼役として江戸城内で幕政に参画、江戸町民の飲み水確保のため玉川上水を開削し、明暦の大火で焼失した江戸城天守閣の再建を中止して町民対策に力を注ぎ、武断政治から文治政治へと大きく舵を切り、徳川幕府の礎を築いた名君だった。
 前記『文政武鑑』では、會津藩8代藩主松平容敬は正4位下中将で、飯野藩は會津藩のすぐ後ろで9代藩主正丕(まさもと)は「帝鑑間」詰めだ。
 この部屋は10万石以上の譜代大名の間であり、わずか2万石の飯野藩は會津藩の縁から許されたのである。以前は、譜代の小大名が座る「菊の間」だった。
2015年04月04日(土) 幕末の剣豪 森要蔵(39)
 しかし、富津陣屋は、現在、周濠を残すだけ。地元住民がNPOを立ち上げて周濠を掃除したりして復活を夢見ているが、なかなか〜。
 保科正之以来、會津藩が本家、飯野藩が分家の付き合いが始まった。『文政武鑑』では、會津藩松平家は「溜間」(たまりのま)詰めである。溜間は江戸城で最も地位が高い大名が座る部屋で、御家門(御三家、御三卿以外の徳川一門)及び譜代大名のうち特に名門か功のあった大名の部屋である。
 老中と政務を協議し、将軍に直接意見を上申することができ、席次は老中より上だった。その中でも、彦根藩35万石、會津藩、高松藩12万石の3家は「常溜」(じょうだまり)といわれ、藩主は代々、恒常的に座ることが許された。
2015年04月03日(金) 幕末の剣豪 森要蔵(38)
 正貞は晴れて保科家を正式に継ぐことになった。正貞は慶安元年(1648)1万7000石の大名となって復活し、初代飯野藩主となった。
 間もなく、大坂定番を勤めた。2代正景の時、2万石に加増され、高遠出奔から24年、正貞は50歳の老境に入っていた。以後、保科家は明治まで10代続く。
 飯野村に建った飯野陣屋は13万2000平方メートルの敷地を周濠で囲み、本丸、二の丸を備えた本格的な陣屋である。長州・徳山、越前・敦賀と並んで「日本三陣屋」といわれた。
2015年04月02日(木) 幕末の剣豪 森要蔵(37)
 その後、正之が義理の弟と分かった家光は、寛永13年(1636)正之を一躍、最上・山形20万石の大名に抜擢し、「肥後守」を名乗らせた。正之は名実ともに一人前の大名になった。
 正之は以前から、保科家から追放された正貞のことを気にかけていた。
「いつの日か、保科家宗家に伝わる家宝を返してやりたい」 
 その正貞が大坂城在番などを恙なくこなしていたのを知った正之は宗家に伝わる品々を正貞に譲る決意を固めてゆく。
 翌年、家宝の太刀「包永」と家康からの感状を正貞に譲った。品々を持参した使者に向かって正貞は
「肥後守様に御礼申し上げます。くれぐれも由なにお伝えくだされ」
と、丁寧なもてなしをしたのは、いうを待たない。
2015年04月01日(水) 幕末の剣豪 森要蔵(36)
 正貞は寛永6年(1629)、遠縁にあたる将軍家からお声がかかった。3代将軍家光が御家人として3000石で取り立ててくれたのだ。
 保科弾正忠と改名した正貞は家康以来の縁の強さに
「あり難いことだ」
と今更ながら感激した。
 さらに正貞は旗本として出世し、7000石で大番頭に抜擢され、上総国周准(すす)郡飯野村に陣屋を構えるまでになった。感慨無量だったに違いない。
 江戸では、2代将軍秀忠が寛永9年(1632)死去し、家光が3代将軍の座についた。家光は
「予は生まれながらにして将軍である」
と江戸城に諸大名を集めて宣言した。
     ◇   ◇   ◇
 はや4月である。花曇り、から雨がポツポツと。値上げのシーズンだが、世間では5月のGWに注目が集まっているはずだ。全国一斉の休みでは混雑と閑古鳥の両極端が出現するだけだ。この際、休みを分けたらどうだろう?
 人口2500万人を1グループとして全国を4つに分け、それぞれGWを別にするのだ。かなり思い切った発案だが、やってやれないことはない。面白い提案ではないか。
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